第40部−212 | 明治維新の史的過程考(2)(伊藤体制その一、伊藤体制から伊藤が射殺されるまで) |
(最新見直し2007.3.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
西南の役で西郷が舞台から去り、その後を継いだ大久保も半年後暗殺される。こうして明治維新の前章は終わる。後半の舞台に登場するのは伊藤博文主役、山縣有朋、井上馨を脇役とする長州系新官僚達である。この系譜が後々の歴史を創って行ったが、明治維新が持っていた豊饒さをかなりに貧相なものにした、時代が下がるに連れますます矮小になっていった、と観るのがれんだいこ史観である。歴年とは不条理ながらそういうものかも知れない。 権力当局側のそうした動きに対して、自由民権運動、幕末新宗教運動が併走していくことになる。この時、史上のそれまでの百姓・町人一揆、幕末回天運動がどのように矮小に変質させられていったのか、はたまた内向していったのか、窒息していったのか、この観点からの考察が為されているように思えない。プレマルクス主義期の動きであるが、ここを明らかにしないと戦前左派運動の流れが掴みきれないのではなかろうか。 2004.7.23日再編集 れんだいこ拝 |
これより以前は、「明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)」
1878(明治11)年の動き |
【大久保参議の概要履歴】 |
明治政府が成立した1868(慶応3).12月に参与、1869(明治2).7月参議となった。新政府は、出身、利害、考えを異にする雑多な集団の脆弱な連合に過ぎなかった。薩摩藩の指導者として新政府の中枢に入った利通は、列強に対抗できる強力な集権体制の樹立に全力を傾注した。東京奠都(てんと)、版籍奉還、廃藩置県等の改革を成功させ、1871(明治4).6月大蔵卿となり内政確立をめざす。11月には岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学んだ。特にドイツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれる。 1873年(明治6)年の外遊を終えての帰国以来、内治優先を唱え、征韓論問題に揺れる西郷と決裂した。大久保はことごとく西郷路線と対立し、あたかも最大の政敵を見るかの如くに対応する。西郷ら征韓派参議の辞職後は内務卿を兼ね政府の中心となり、新政府の官僚制度基盤造りに腐心する。自由民権運動、士族の叛乱、百姓一揆の続くなかで専制的な支配を強めながら、1874(明治7)年の佐賀の乱から同1877(明治10)年の西南戦争に至る事件処置に挺身する。西南の役を終えた今、薩摩藩時代の盟友西郷と同床異夢的行脚を続けてきた大久保は、西郷亡き後の孤高の権力者となった。 大久保政治特質は、ひたすら産業化を推進する殖産興業政策にあった。産業化(特に後進国における)の初期段階では、政府の指導が不可欠であることを確信した利通は、その条件整備に専念し、そのためにも効率的集権体制の整備に努め、また政府の財政基盤を固めるため地租改正や秩禄処分を断行した。 同時に利通は、民衆の自発的努力なしには産業化の成功がありえないことを理解しており、教育の普及と地方制度の整備に努めた。民主制を長期的目標とし、しかし当分は「君民共治」が現実的だというのが利通の判断であった。 大久保は征韓論には強く反対したが、その他方で1874(明治7)年には台湾出兵を断交している。 こうした足跡を留める大久保には冷徹なイメージが付き纏っており、情の西郷と対比的な理知の人いうイメージが強い。そうした大久保の人となりを知る上で、囲碁を趣味としていたことが興味深い。大久保は、島津久光に接近するため久光の好きな囲碁を習い始めたといわれるが、その結果大久保の囲碁の腕前が久光に認められることになり、大久保の日記にも囲碁に関する記述がよくみられる。碁の相手に伊藤博文・五代友厚・黒田清隆・松方正義等多くの名前が書かれている。こうしたことから、昭和43年日本棋院から、名誉7段の免状が与えられた。 |
【大久保参議時代】 |
【大久保参議暗殺される】 | |
1878(明治11).5.14日、西南の役から8ヵ月後、大久保参議も不平士族のうらみをかって暗殺された(享年49歳)。この日、宮中で催される陸海軍将校の勲章授与式に馬車で向かう途中、待ち伏せていた石川県士族の島田一郎ら6名に赤坂の紀尾伊坂で暗殺された。 没後、大久保は、初め右大臣正二位を贈られ、のち従一位を追贈、神道碑を賜わる。墓は東京都港区青山墓地にある。後年、松平春嶽(旧福井藩主)は自著「逸事史補」にて「古今未曾有の英雄と申すべし。威望凛々霧の如く、徳望は自然に備えたり(中略)、力量に至っては世界第一と申す可し」と賞賛している。17年、嗣子利和に侯爵を授けられた。 「大久保の暗殺後その遺産を調べたところ、生前参議、大蔵大輔などの要職を歴任していながら、その遺産はほとんどなく、代わりに借金が八千円以上もあったという。当時の政府の財政は逼迫しており、大久保は財源を補うために、自ら金を借りてつぎ込んでいたのである」とある。西郷隆盛に比べてとかく印象の悪い大久保利通ではあるが、大久保の裏面であろう。 |
|
「木戸孝允の意を受けた伊藤博文」とするのは如何かと思うが、確かにこう読めば、その後の伊藤博文の登場過程が見えてくる。貴重な指摘だと思う。 2007.3.22日 れんだいこ拝 |
【伊藤博文派の登場】 |
既に木戸も西南の役の最中で病死しており、大久保の死で、西郷、木戸、大久保が指導した「巨人たちの時代」が終わった。同時に、薩摩藩は、西郷、大久保の両巨頭を失い、長州藩が新政府の実権を握ることになった。大久保の後を継いだのは、長州「諸隊」のひとつを組織した実務家、伊藤博文ラインであった。幕末史を見るのに西郷や坂本竜馬の動きから見ればよく分かるとすれば、西南の役後の維新の流れは伊藤博文ー井上馨ー山県有朋らの長州派がこの地位に立つ。 伊藤は松下村塾に学んでおり、その意味では松陰門下と云える。だが、吉田松陰が残している人物評価は低く、伊藤自身も松陰を師として挙げない。伊藤の志からは松陰門下の気風は伺えない。しかし、実務処理の能力は高く、その後の官僚制度はよきにせよ悪しきにせよ伊藤及びその系列派の手腕によるところが大きい。 伊藤のここまでの履歴は次の通りである。明治維新後、微士・参与として新政府に出仕し、外国事務局判事、大阪府判事を経て兵庫県知事となり、その折封建制度廃止反対派に狙われ、同2.4月、辞職して東上する。1869(明治2).7月 、大蔵少輔、翌3年、民部少輔兼任、同年10月、財政幣制調査のため渡米、帰国後租税頭兼造幣頭・工部少輔となった。1871(明治4).11月、岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を巡歴し、同6年9月帰国。帰国後大久保利通らと共に内治優先を説き、西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対。1873(明治6).10月、西郷らが政府を退いた後、参議兼工部卿となり、地方長官会議議長や法制局長官をも務め、大隈重信と共に大久保を援けた。 山県のここまでの履歴は次の通りである。1838(天保9)年、長州藩に生まれる。少壮にして藩医の命を承け国事に奔走する。戊辰戦争に功を立て、ロシア、フランスに赴く。明治5年、陸軍大輔、中将、近衛都督となり、翌年陸軍卿となる。西南戦争では参議兼参謀本部長となり、この時西郷以下薩摩将校が粛清された結果、長州閥が陸軍の支配権を固め、その第一人者の地位に就く。以後、「長の陸軍」として山県の陸軍支配が不動のものとなる。 山県派は、監軍中将・山県、陸軍大臣中将・大山巌、陸軍次官少将・桂太郎、近衛歩兵第二旅団長・川上操六らで、外征軍備に道を開いていった。日本軍隊の外征軍備化に反対したのは、農商務大臣・谷干城、元元老院議官中将・島尾小弥太、東京鎮台司令官中将・三浦梧楼、参謀本部次長少将・曽我祐準、近衛歩兵第一旅団長少将・堀江芳介らで、山県派と対決したが、抗争に破れ左遷されていく。 |
8月、逮捕されていた陸奥宗光が、士族から除籍され、禁固5年の判決を受けた。
【竹橋事件】 |
明治11.8.23日、近衛兵卒三添卯之助らを首謀者とする近衛砲兵大隊のほぼ全員にあたる215名が、竹橋兵舎を脱出し、強訴のため皇居に向おうとした。西南の役後、山県派による「長の陸軍」化の動きに反発したいわゆる兵士暴動であり、旧士族の反乱とは性質の異なる軍隊反乱となった。背景には政治に関心を持つフランス式軍隊訓練の影響が認められ、自由民権運動の影響が認められた。 事件は、決起直前に前島密の知るところとなり、山県、伊藤らが警察隊を指揮し鎮圧した。即日、事件の首謀者・大隊長の宇都宮茂敏少佐ほか将校2名が殺害され、参加者の大半も捕縛された。同年、陸軍裁判所より判決が下り、他の隊参加者も加えた合計263名に対し死刑53名、流刑118名の厳罰となり、即日執行された。 事件後、山県は、忠実、勇敢、服従を軍人精神の三大元行(げんこう)とする「軍人訓戒」を定め、軍人の政治論議を禁じ、軍隊の天皇直属意識の培養に務めていくことになった。軍政、軍令、軍律全てにわたる軍制「改革」が為され、陸軍兵制はフランス式からドイツ(プロシア)式に改められていくことになった。同12月、「参謀本部条例」が制定された。明治15年の「軍人勅諭」(陸海軍人に賜りたる勅諭)に向う。 |
【府県会の設置】 |
大阪会議での木戸案に則り、府県会が設置された。これにより、地方の経費に関して府県会の決議を経なければ、知事・県令の職権のみではこれを徴収できないこととなった。府県会の設置は、自由民権運動を刺激し、はずみをつけた。 |
【板垣が再び野に下り、愛国公党運動に乗り出す】 |
板垣は再び官を辞し、立志社を鼓舞して愛国公党再興への檄を飛ばし始めた。9月、大阪で愛国社大会を開いた。河野広中が呼応して、仙台で七州有志大会を開いた。 |
「演説取締令」が発布され、演説集会の検束が始まった。
1879(明治12)年の動き |
【「国会開設の請願を決議」】 |
愛国社第2回大会が大阪で開催され、四国、九州、関東の各団体が参集して国会開設の請願を決議した。以降、各地で遊説活動を押し進めることになった。 |
1880(明治13)年の動き |
【「国会開設請願書を政府に提出し却下される」】 |
3月、大阪の96団体の総代が、請願人約9万人の委員として国会開設の請願書を携えて上京した。却下されたが世論に与えた影響は大きかった。 |
【集会条例】 | |
1880(明治13).4月、集会条例が公布された。自由民権運動の進展に伴い、これを規制するための条例で、1990.7月に「集会および政社法」に代った。その条文は次の通り。
|
1881(明治14)年の動き |
【「明治十四年の政変」】 |
この間、板垣は参議兼内務卿となり、明治政府の開明派として改革を進めた。漸進的な国会開設論を唱え、大隈重信の早期国会開設とイギリス型政党政治実現の意見に反対し、「明治14年政変」の原因を作った。 伊藤博文、井上薫、大熊重信のトリオは、大熊重信が勝手に話し合いナシで提出した意見書などの、協調性無視の出しぬきが原因となり、崩壊した。民権運動がうるさくなったのは、当時、財政を担当していた大隈の責任にあるとして、大隈の追放が計画された。 その後大隈は、政府の「北海道官有物払下げ不正」を新聞に流して、政府を追放された。「北海道官有物払下げ不正」とは、明治4年来の黒田清隆を開拓長官とする官制北海道開拓事業に総額1千4百万円以上注ぎ込んだものを約30万円しかも30ヵ年無利息年賦払いで財閥に払い下げるというものであった。 この告発で、大隈色が強かった者は全て罷免され、ほぼ完璧な「薩長中心の藩閥政権」が確立された。これを「明治十四年の政変」という。 |
【「国会開設勅諭」】 |
民間による国会開設気運の活発な動きは、明治政府にとって危機となった。国家の基本ともいうべき憲法起草の指導的立場を民権派に奪われることは、政府の瓦解を意味する。そこで、1881(明治14).10.11日、政府御前会議において、1・開拓使官有物払下げの取消を決定し、2・立憲政体に関する方針を決め、翌日、「十年後に国会開催を約束する」詔書を発表した(「国会開設勅諭」)。この民権派の目標を一挙に先取りした政府の作戦に、人々は唖然とした。 1881(明治14)年、大久保亡きあと、伊藤博文、井上薫、大熊重信のトリオによって、国会開設を条件に、福沢諭吉に「政府」機関紙の発行を承諾させた。民間最大の言論人を取りこもうとする戦術であった。 |
6月、秋田の柴田浅五郎らが、前年1880年(明治13年)の東京での国会期成同盟に出席。東日本の有志と政府転覆を計画したもの。この計画をうけた一部の急進派が、捕縛される事により発覚(「秋田事件」)。
【「自由党」、「立憲改進党」結成】 | ||||||||||||||
国会期成同盟会は、「国会開設勅諭」が出されたことで目的を達成したとして解散した。10.15日、板垣は、「明治十四年の政変」の後再び立志社に戻り、自由民権運動の力を結集した全国組織として「自由党」を結成する。これが日本最初の本格的な政党となった。板垣は自由党総裁となる。板垣は、「大隈とは別な道」で「薩長独裁」を非難し、政府を追い詰め、国会開設を迫るという道を選択した。この自由党が、明治から昭和にかけて、いく度か離合集散を繰り返し、その名を替えながら、戦後の保守政党に受け継がれている。 自由党の綱領は次の通り。
大隈も大隈で、翌1882.3月、「立憲改進党」を独自に作った。立憲改進党の綱領は次の通り。
政府も負けてはおれずこれら野党に対抗して、自由民権運動に反対している保守派勢力の結集をはかる「立憲帝政党」を創設した。福地桜痴、丸山作楽らが中心に成り吏党(御用政党)となった。以後この三党の勢力拡大合戦が繰り広げられることになる。 |
1882(明治15)年の動き |
【伊藤の憲法調査外遊】 |
3月、伊藤は、憲法制定が政治課題となったことを受けて、先進国西欧の憲法調査に出向く。ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法調査に従事した。ウィーンでシュタインから歴史法学を学び、「憲法は貴方の国の歴史や伝統の上に成立するものでなければならない」と教わる。ドイツではグナイストから学んだ。シュタインもグナイストもいずれもユダヤ系法学者であった。こうしてヨーロッパで各国の憲法(けんぽう)を調べた結果、皇帝権力が強いドイツの憲法を学んで日本の憲法の骨格を作っていくことになる。 |
【壬午の変】 |
1882年、朝鮮国内における、開国派とそれに反抗する兵士の反乱。この反乱に対して、宗主国を主張する清帝国は強い態度に打って出る。この乱以降に政権を握った大院君を、清国は武力介入して連行し、清国内に幽閉するとともに、清国軍はそのままソウルに駐屯する。「軍」が出動する事態になった。 |
【軍人勅諭】 | |
明治15年、「軍人勅諭」が発布された。山県の発案で、西周(にしあまね)が起草し、自ら訂正し、ジャーナリストの福地源一郎により平易な文体に改めた。 冒頭、「我が国の軍隊は世世天皇の統率したまうところにぞある」と記し、更に「兵馬の大権は朕が統(す)ぶるところなれば、その大綱は朕親(みすか)らこれをとり、あえて臣下に委ぬべきものにあらず」と述べ、天皇集中制を明らかにしている。更に、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ。汝らを股肱と頼み、汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親しみととくに深かるべき」としている。天皇の私兵観を打ち出している。これは、ドイツ帝国憲法の「ドイツ帝国の軍平は平時戦時を問わずすべて皇帝の指揮に属し純一の陸軍足るべし」条文を範例にしていた。
「軍人勅諭」は、日本軍隊の精神的バックボーンとなり、教育勅語と並ぶ国民教育の基本書となった。 同年、軍制改革の一つとして軍事警察を司る憲兵制度が陸軍兵科の一つとして設置された。 |
【板垣の日和見路線】
|
1882(明治15).4.6日、板垣は、自由党総理として初遊説に出かけた。岐阜で暴漢に襲われる。この時、かの有名なコトバ「板垣死すとも、自由は死なず」を叫んだとされている。これが喧伝され自由民権運動は盛り上がる。板垣、植木枝盛らが国会開設の請願運動を全国に広める。夏頃、弁護士で高名であった星亨が自民投入党。 ところが、全党一致して薩長独裁政府を打倒し、国会開設を促進しようと最高に盛り上がったこのムードの中で、党首(総理)である板垣が突然戦線離脱し、同郷の後藤象二郎の誘いに乗り党内の反対を押し切ってヨーロッパ旅行に行く(「板垣洋行事件」)。その旅費は後藤が伊藤博文らに三井を口説かせ、陸軍御用の利益と引き換えに出させ、さらにその情報を改進党の大隈に流して自由党を攻撃させる、という手の混んだ陰謀でもあった。こうして、板垣外遊費問題が契機となって自由、改進両党の中傷合戦が始まった。 翌、1883年、板垣は欧州旅行からのこのこと帰国する。で、板垣の自由党は惨憺たるものになっていた。次の年、自由党は解散する。急進派の武力闘争を最早押さえきれなかった板垣の日和見であり、多数決による政党政治に飲み込まれていくことになる。 |
9.20日、長岡で自由大懇親会が開かれ、集会・出版・言論の自由を要求し、運動の強化を決議した。9.21日、赤井景韶は幹部会議に参加し、遊説委員の一人に選ばれた。23日に長盛座で行われた政談演説会に、景韶は「革命論(社会革命ノ欠クヘカラサルヲ論ス)」を演じた。この時、赤井の同志であった井上平三郎と風間安太郎も演説を行っていた(「赤井景韶」参照)。 |
【自由党に対する弾圧と抵抗】
|
1882(明治15).11.28日〜12.1日、三島道庸が福島県令として赴任するや、土佐に続く東北7州自由党の拠点、河野広中率いる福島自民党への弾圧に乗り出した。不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに対して、千数百名の農民が喜多方の弾正が原に終結し警官隊と衝突した。政府転覆の陰謀があったとして、河野広中らをはじめとする福島自由党員が根こそぎ捕縛され連座入獄させられた。これが「福島事件」と云われるものであり、加波山事件を誘発したと言われている。星亨が弁護を担当した。 1883(明治16).3月、富山県で開かれた北陸自由党有志会が開催された。政府はこれに偽装党員を送り込んだが、感づかれて追放された彼が「政府転覆を計画した」と自白した事により自由党員を検挙した。これが「高田事件」と云われるものである。 1884(明治17).5月、群馬の妙義山麓で天皇一行を乗せた列車や警察署・兵舎の襲撃計画の実行に、農民と自由党員が武装蜂起した。小林安兵衛ら自由党員と、多くの困民が手を組み決起、打ちこわしを行ったもの。指導者は あくまで政府転覆を目指したが、困民の方の打ちこわしが先行してしまい 失敗に終わった。これが「群馬事件」と云われるものである。 |
1883(明治16)年の動き |
3.20日、21名の頸城自由党員が逮捕される高田事件が発覚した。事件の発端は、検事補堀小太郎のスパイ長谷川三郎の密告から始まった。長谷川の密告とは、頸城自由党の政府転覆と同党による警察・裁判所の焼き討ち計画であった。赤井景韶は自宅で逮捕され、井上・風間と共に高等法院に移された。高等法院で検察官は、赤井の「諸省ノ卿以上ヲ斬殺セント」とする自供と「天誅党主意書」を証拠として採用し、内乱陰謀予備罪を要求した。裁判官玉乃世履は、検察官の主張を取り入れ、内乱陰謀予備罪で重禁獄九年の判決を下した。急進化しつつあった赤井が、官憲の犠牲になった。県下自由党員37名逮捕された中で、唯一赤井だけの罪が確定したことは高田事件そのものが謀略事件であったことを示しているといえよう。(「赤井景韶」参照)
4月、自由党定期大会が開かれ、星が最高点で常議員に選出され、土佐派が衰退した。
6.22日、板垣と後藤が帰国。板垣は、自由党への熱意を失っており、早々に解党論を打ち出す。
9.1日、福島自民党の河野広中に軽禁固7年の判決が出され、東北自民党は大きな打撃を受けた。
11.16日、自由党の綸旨党大会が開かれ、星が議長となって、10万円以上の募金が再確認された。翌年2月に大会を開き、その使途と方針を決定することにして半日で解散した。
【鹿鳴館時代】 |
1883(明治16).11.28日、現在の日比谷公園の向かいに建てられた鹿鳴館の開館を祝う夜会が催された。建物は、イギリス人建築技師コンドルが設計し、赤レンガ二階建ての洋館風の威容を誇っていた。内外の顕紳淑女1200名が招待の栄誉に浴した。以降、毎週月曜に例会と連日の夜会が続くことになり、皇女、女官たちが舞った。 明治20年がピークとなり俗に鹿鳴館時代と云われる。伊藤博文、山県有朋、井上馨が自由放縦し、「欧化政略と貴族主義」の象徴となった。不平等条約改正の為の根回し的社交場ともなっていた。 |
1884(明治17)年の動き |
【甲申の変】 |
朝鮮の独立党である開国派によるクーデター。しかし、たった3時間で清国軍に鎮圧されてしまう。
福沢諭吉は、もろくも開国派が敗れ去るのを見て、朝鮮独立への協力をあきらめ、「脱亜入欧論」を強く主張するようになる。「我が日本は亜細亜の東に位置すれど、その国民の精神はすでに亜細亜の古臭い頑固な考え方を脱して、西洋の文明に移りつつある」とした(亜細亜論)。「日本はこれからの諸国の開明するのを待って共にアジアを興すという余裕はない。むしろそれを脱して西洋の文明諸国と進退を共にした方が良い」(脱亜論)と説いた。要するに、欧米列強による力のアジア進出を阻止するために、アジアの連帯をもって対抗するという考え方は捨てるということを意味していた。以降、脱亜入欧路線に傾斜する。 |
3月、自由党の党大会が開かれ、板垣ら穏健派と急進派の調整が不能に成りつつあった中で、星が采配し諸議案を可決した。
3.26日、高田事件で石川島監獄に収監された赤井景韶は、同室の石川県士族松田克之と脱獄の計画をなし、この日脱獄を決行した。逃走の途中で人力車夫を殺害した赤井は、松田逮捕後も厳重な捜査網をくぐり抜け、山梨県南都留郡宝村広教寺の僧侶になり済ました。しかし甲府警察署の捜査の手がのび、赤井は静岡に逃走した。静岡では自由党員鈴木音高や清水綱義に匿ってもらったが、静岡警察本署の捜索が進んだ。浜松に逃げようとした9.10日、赤井は大井川の橋上で捕縛された。明治18.6月、死刑の宣告を受け、7.27日、市ヶ谷監獄署内で絞首刑になった。辞世の句は、「青葉にて散るともよしや楓葉の あかき心は知る人ぞ知る」。実弟新村金十郎に対して贈った血書の辞世の句は、「さてもさて浮世の中を秋の空 なき友数に入るそうれしき」。小島周治と新村が赤井の遺骸を引き取り、谷中天王寺の墓地に葬った。(参考文献 永木千代治『新潟県政党史』、『新井市史』下巻、江村栄一『自由民権革命の研究』)(「赤井景韶」参照)
【華族令公布される】 |
7.7日、華族令が公布された。爵位が公・候・伯・子・男の5等に分けられ、華族の戸籍、身分は宮内卿が管掌し、その結婚、養子は宮内卿の許可を受けさせ、爵位を継ぐのは男子に限る。継承が為されない場合、その栄典を失うというものであった。 |
【栃木の自由党左派による県令・三島道庸暗殺未遂事件】 |
9.23日、栃木県令を兼ねることになった三島道庸は、栃木県でも福島県と同様に自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに対し、富松正安・河野広躰・鯉沼九八郎ら自由党左派16名(福島県人11名、栃木県人1名、茨城県人3名、愛知県人1名、平均年齢24歳)は、宇都宮の新栃木県庁舎落成式の日に県令・三島道庸らの暗殺を企てた。河野広体(広中の甥)らは、資金調達のために質屋を襲ったが失敗し、警察から追跡されることになった。また、暗殺用の爆弾を製造中に爆発を起こして大怪我をした。警察は警戒を強め、落成式は延期となった。 |
【水戸の自由党左派が加波山集結、警察署襲撃未遂事件】 |
富松正安を指導者とする自由党左派は、筑波山裏の加波山山頂の加波山神社を本陣としてダイナマイト数百個を抱いて蜂起し、檄を発した。筑波山は幕末に水戸天狗党が武装蜂起した場所だった。さらに茨城県真壁町の町屋分署を爆弾で襲う計画を立てたが、警察の包囲が厳しく全て捕らえられた。この事件に連座したと因縁をつけられ、田中正造が逮捕されている。 |
【秩父の自由党左派が困民党を結成し武装蜂起】 |
11月、青梅から山一つ向こう側で、かつて幕末に多摩に押し寄せた武州世直し一揆を出した秩父から、またしても困民党が武装蜂起した。田代栄助を首領とした自由困民党は、警官隊や憲兵隊を撃退。秩父市の郡役所を占拠して コミューンを出現させた。しかし、この戦いも十日余り後に鎮台兵の増強による軍隊と警察の共同で、又一部の指導者の逃亡によって壊滅させられた。 |
【自由党解党】 |
このころ既に自由民権運動は分裂しはじめていた。農民と士族民権派、自由党の中の急進派と穏健派というように、目的意識が異なることがはっきりしてきた。ここに至って穏健派の板垣総裁は、青梅鮎漁から二ヶ月後に、1881(明治14)年以来の自由党の解散に追い込まれることになる。 |
【困民党が武装蜂起】 | ||||||||||||
自由党の抵抗は各地で続いた。
|
【北村透谷の苦悩】 | ||||
□
北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。 □ 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。 翌年の冬から十八年の春まで、八王子川口村の豪農秋山国三郎家に大矢と数ヶ月寄宿した。 □ 二人は連れ立って網代鉱泉や五日市の秋川辺を歩いている。五日市では深沢権八などに逢っていたかもしれない。川口村の困民党が壊滅したのは、この直前であり、武相困民党も続いて解散させられたのを目撃している。 □ 当時、秋山は壊滅した困民党の後始末に奔走しており、透谷の思想形成に大きな影響を与えた。わずか半年間滞在した川口村(八王子市上川町)を、透谷は「幻境」といい、多摩を「希望の故郷」と呼んだ。 □ 石坂公歴とは諸国回遊を企図して、この年の六月旅に出たが、何故か小田原で別れている。その直後、透谷は大矢正夫から大阪事件の武力闘争の資金集めに強盗の同行を誘われ、思い悩んだ末、頭を剃って詫びを入れ、政治活動から脱落した。大矢は高座郡栗原村(神奈川県座間市)の出身であったが、茨城に武装蜂起した加波山事件の指導者富松正安と行動を共にすることを誓いあった民権家であった。しかし、病のため加波山事件に行き遅れ、大阪事件に加わった。強盗によって資金を集め、朝鮮へ渡航するメンバーの一人であったが、その直前に長崎で逮捕された。 □ 大阪事件が発覚して関係者と疑われて拘引された石坂昌孝を父にもつ公歴は、事件から一年後、米国へ渡った。目的は傾いてきた実家の建て直しのため、実業の勉学が目的であったが、その後、在米日本人愛国有志同盟会の主要メンバーの一人となり、機関紙を発行、日本政府を批判したり、宮内省を通して天皇に有司先制と言論抑圧の政治批判を奏上した。日米戦争がはじまると、昭和十七年(1942) に日系人強制収容所に入れられ、敗戦の丁度一年前に死んだ。 □ 政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊を企図したころから野津田の石坂家に出入りし、そのころ公歴の姉美那と出会い、紆余曲折があって三年後の明治二十一年(1888)十一月にキリスト教式で結婚した。この間、キリスト教を受容、三月に数寄屋橋教会で洗礼も受けていた。 □ 結婚する一年前、美那・公歴姉弟の父石坂昌孝に同道して、浅草で開かれた民権家有志が大同団結を目指した連合懇親会に出席、はじめて徳富蘇峰と出会った。因みに、この会合に後に足尾銅山事件で知られる田中正造も出席していた。 □ 機を見るに敏なジャーナリストの典型徳富蘇峰の創立した民友社の山路愛山と北村透谷が論争して、儒教道徳や封建的な形式・価値に対し、内部の経験や生命を主張した。それは透谷が若い晩年に「エマソン論」を著しており、米国の南北戦争が欧州の過去の価値観を断ち切ったエマソン主義のように、徳川封建制を支えた価値観や美学は否定されるねばならなかった。政治活動からの脱落、言い換えれば現実行動の喪失は、その後の透谷の文学活動において自己の内面を発見させたのである。 □ それは直接にはキリスト教から教えられた内部の「生命」であったが、民権運動の経験が伝統的な形式や価値を否定する契機になっている。そして、キリスト教の受容は、透谷もまた士族の出自であったことからきていた。最早、士族たりえない士族、しかも敗北した旧幕臣に連なる者が武士道を棄てたとき、寄るべき道としてキリスト教が選ばれた。武士道の「主人」がキリスト教の「神」に代ったのである。 □ ここから透谷につづいた「自然主義」や「ロマン主義」は一歩の距離でしかない。有り余る難問を抱えたまま、明治二十七年(1894)五月、結婚数年の妻子を残し、後に東京タワーの建つ芝公園の自宅で縊死した。享年二十五歳。この二ヶ月半後、日清戦争がはじまった。 |
||||
れんだいこはこれについてはまことに申し訳ないと思う。何かで検索した際に貴重と思い取り込んだものと思われる。その取り込みようはパクリというより「幻境の碑」の全文転載である。それにしても、「幻境の碑」ではなく「北村透谷の苦悩」という題名をどこから持ち込んできたのか分からない。れんだいこがその時そのように命名したのかどうかも記憶に無い。が、いずれにせよ、取り込みの際に引用元明記、リンク掛けしておくべきだった。それをしないままに取り込んでいるのでパクリと云われても仕方ないかも知れない。 れんだいこは、こういうパクリは望まず、だがしかしそのようになっているからして、管理人の叱責についてはお詫びする以外に無い。サイト元「幻境の碑」へのリンクの上転載し直したいが、当分このままにして生き恥を晒しておく事に致します。 管理人氏へのメールの宛先が分からないので、この場を借りてお詫び申し上げます。管理人氏の抗議の趣旨を深く受け止め、この種のお咎めを受けることのないよう以後気をつけます。自戒の意味を込めて当分晒しておき然るべき時に書き換えようと思います。更にお腹立ちのようであればその節は全文削除します。ご理解いただけるようでしたら、引用元明記の上該当箇所を掲載させてもらうつもりです。宜しくお願いいたします。 なお、これについては「れんだいこの著作権考」の中に新たにサイトを設け、総合的に論及したいと思います。 2004.7.23日 れんだいこ拝 |
1885(明治18)年の動き |
【日清天津条約締結】 |
前年度の「甲申の変」による反乱の処罰として、清から「袁世凱」がお偉いさんとして朝鮮に派遣され、朝鮮の内政、外交を指導し、干渉を強化した。欧州列強による亜細亜侵略が着々と進む今日、いたずらに日本と清が争うのは、欧州列強に漁夫の利を与えるに過ぎないと判断した、1885年日本と清は、日清天津条約を締結する。 その内容は、両国は調印の日より四ヶ月以内に朝鮮王国より撤兵し、再び出兵の必要がある場合にはお互いの了解を取ってから行動すること、とされていた。翌、86年、朝鮮が帝政ロシアに「保護」を求める事実が発覚し、袁世凱が李鴻章に朝鮮国王の廃位を求めるほどの緊迫した状況までに発展した。日清天津条約締結後も、日清両国の朝鮮に関する主張は依然として対立しており、両者の衝突は早晩、避けられない状況となっていった。 |
【太政官制の改革=内閣制度の導入】 |
明治14年頃から伊藤博文は太政官制の改革を試みた。太政官制は天皇と参議・各省卿(閣僚)のあいだに太政大臣・左右大臣を仲介とする迂遠な体制だったためである。これに対し、保守派(太政大臣三條實美、また宮中にあって天皇を補導する元田永孚ら侍補たち)は、太政官人事の刷新をもって改革に反対する。その刷新内容とは、伊藤博文そのひとを右大臣に据えることである。 しかし伊藤はこれを断固拒否。代わって薩摩派の領袖・黒田清隆を推薦したが、酒乱のうわさのある黒田を宮中に近い大臣職に据えることにこんどは保守派がしりごみし、かくして伊藤の太政官制の改革=内閣制度の導入が成功したのである。 これを知った駐墺大使・西園寺公望は、「実に吾邦千古未曾有の大美事大事業と存じ奉り候、此に於てか文明諸国と同等の政府たるを得べく、此に於てか他日議院を開設するも憂なかるべし」と、ともに憲法視察にあたって知遇を得ていた伊藤に対して慶賀の意を申し述べている。 |
【日本最初の内閣=第一次伊藤博文内閣成立】(初代:第一次伊藤博文内閣(任:1885.12-1888.4)) |
1885(明治18).12.22日内閣制度を創設し、伊藤は自ら第一次伊藤博文内閣(明治18.12.22日 〜明治20.4.30日)を組織する。これが日本最初の内閣成立となった。出来上がった内閣は薩長閥を中心にした典型的な藩閥政府であった。特に、伊藤博文―山縣有朋―井上馨ラインの形成が注目される。内務大臣となった山縣は軍と警察組織及び地方行政に絶大な権力を扶植していくことになる。その特質は、革新思想に対する仮借なき弾圧がポリシーとなり、今後の日本はこの山縣派閥ともいうべき人たちによって大きく運命を左右されていくこととなる。 異色なところとして、文部・森有礼(薩摩)、農商務・谷干城(土佐)、逓信・榎本武揚の登用が注目される。陸軍・大山巌(薩摩)、海軍・西郷従道(薩摩)。 |
【西欧列強による植民地の流れ】 |
1885年、フランスは膨湖湾に進出。ドイツは南洋のマーシャル諸島に進出。1886年、大英帝国はビルマを併合。どんどん世界地図が「欧州列強色」で塗りつぶされて行った。 |
1886(明治19)年の動き |
【帝国大学令】 | |
1886(明治19)年、帝国大学令が出された。これにより民間の五大法律学校が法制上も帝国大学総長の監督下におかれることになり、政府による大学及び学問統制を促進させた。「帝大の特権、私学の帝大従属」という構図が作られ、1893(明治26)年の帝国大学令改正の前後に法文上からは姿を消したが、帝国大学の権威は生き残けていくことになった。日本の政界・官界・財界・学界から芸術界にいたるまで、あらゆる分野の支配的地位にまたがる「東大閥」の形成は、このことの集中的な表現である(井上清「東大闘争の論理」)。 これにつき、翌年の自由民権運動が復活し最後の火花を散らしたとき、民権派を代表して板垣退助が政府を弾劾した文書は、次のように述べている。
|
【日清対立】 |
日清両国が対立し始めた。この当時(1880年代半ば)における、日清両国の戦力比較は次の通り。洋務運動によって、西欧から技術者や教官を招聘し、アジア最強の軍艦「定遠」「鎮遠」を主力とし、大小50余隻(総トン数:5万トン)に及ぶ北洋艦隊を持つ清国海軍(清国海軍は、北洋艦隊の他に3つの艦隊を有していた)。さらに、陸軍も近代化を進め、清帝国の全兵力は「108万」を超えていた。 |
1887(明治20)年の動き |
【内務省と在野民権派の抗争】 |
黒田内閣成立後もあいかわらず在野の民党と山縣有朋率いる内務省の争いは熾烈であったが、しだいに民党側は小異をすてて大同をとろうとして動き始める。 時の外相の井上薫は、西南戦争での財政難から、まず、関税自主権の回復に努めた。そして、ようやく、アメリカとの条約改正に成功した。しかし、世紀末覇者、大英帝国、他の列強は改正に応じなかった。これにより、税権だけを回収しても法権を取り戻さなければ、現在の不平等は何ら変らない、ということが判明した。よって、法権の奪回が一番の課題となったいくことになる。井上馨外相は、欧化政策を推し進め条約改正を図ったが自由民権派の反対にあう。 1887(明治20)年の秋、井上馨外相による不平等条約の改正交渉を無期延期に追い込んだ自由民権派は勢いづき、各地の活動家が次々に上京。演説会を開いたり、「言論の自由・地租軽減・外交策の刷新」を求める「三大事件建白書」を元老院に提出したりし、反政府運動を展開した。 長柄郡の長尾村(現茂原市)の自由党員・齊藤自治夫は、多数の署名(南総80余か町村の総代と伝えられている)を抱えて上京し、首都で地租軽減等の建白運動を貫徹した。武市安哉は、長岡郡3,700有余人の総代として上京。中内庄三郎は香美郡総代として上京。傍士次(ほうじやどる)は、香美郡野市村他64ヶ村人民5,294人総代として上京。楠目玄墓は、香美郡総代として上京。竹村太郎は、高岡村外8ヶ村人民721人総代として上京。坂本直寛(母は坂本龍馬の姉千鶴)は、県会議員として建白のため上京。植木枝盛と竹馬の友・横山又吉は、高知新聞の記者として建白のため上京。 1887(明治20)年頭山満が福陵新報を創刊、玄洋社設立。頭山は明治19年春頃修験の場である太宰府近郊の宝満山にこもり、民権派の主張を理解しつつ、何よりも国の将来を重んじる立場を選び取ることになる。九州の自由民権運動に詳しい福岡県大牟田市の歴史家、新藤東洋男(68)は「玄洋社は前身の向陽社時代から、初期自由民権運動の中核だった。だが、頭山らは朝鮮で起きた壬午軍乱や甲申政変などアジア情勢の急変の中で、国家主義への急激な傾斜をみせた」とみる。 |
【保安条例】 | ||||||||||||||||
1887(明治20).12.25日、政府は突如、保安条例を公布した(1898年に廃止される)。「政治的な秘密結社の結成と集会の禁止」、「治安を妨害する恐れのある者を皇居から12キロより遠くに追放する」という内容であった。 保安条例は、明治憲法制定を控えて、反政府運動の拠り所であった自由民権運動家を弾圧するために制定された法令であった。「朕惟ふに、今の時に当り大政の進路を開通し、臣民の幸福を保護する為に、妨害を除去し、安寧を維持するの必要を認め、茲に左の条例を裁可して之を公布せしむ」とある。
この条例により、多くの自由民権論者が東京から追放された。。運動の指導者・片岡健吉、後藤象二郎、星亨(ほしとおる)、尾崎行雄、林有造、中江兆民らなど約570名の自由民権の闘士たちが東京三里以遠お構い(東京追放)となる。 |
1888(明治21)年の動き |
【伊藤策定の憲法草案の審議】 | |||||
伊藤は帰国後、宮内卿を兼任し保守派の抵抗を排して宮中改革を推進、同17年7月華族令制定。1886(明治19)年憲法草案起草に着手。皇室典範・皇室財産を確立する。 1888(明治21).4月、枢密院設置とともに議長となって憲法草案の審議にあたる。この時伊藤は、憲法草案にドイツ流の君権主義の原理を取り入れており、立憲政治の意義が君権の制限と民権の保護にあることを強調して立憲主義的憲法理解を示している。6.18日付けの「第一審会議第一読会における伊藤博文枢密院議長の演説」(憲法草案枢密院会議筆記)に拠れば、次のように述べている。憲法制定の意義を次のように述べている。
続いて、憲法制定の要諦について次のように述べている。
続いて、日本の国家的特質(国体維持)として、仏教、神道に拠るのではなく皇室制度を重視すべしとして次のように述べている。
続いて、君主権の絶対化とその乱用の恐れに対して、運用において留意すれば良いとして次のように述べている。
以上を明治憲法の大綱とすべしと述べている。伊藤が君主権について述べた次のような一文もある。
|
【伊藤博文の憲法演説(京都府会議員に対して、明治22年3月25日)】 | |
|
【政府の憲法論議】 |
以上のような伊藤式憲法観に対し、井上毅は憲法起草にあたり国典研究を重視し、天皇親裁による徳治主義で、その制度の下での公議世論の尊重、民の福祉の増進を企図した。金子堅太郎はエドマンド・バークの思想に触れ、日本の保守主義思想に大きな影響を与えた。3人が別々の経緯から保守主義、歴史法学に目覚め、その成果として出来たのが明治憲法となった。 |
【民間の憲法論議】 |
官僚国家の構築が進む一方で、人民の立場に立った理論・思想も芽生えさせ、自由民権運動、立憲制論議を活発にさせていくことになる。龍馬の「船中八策」で残した思想の左派的な継承の流れであったと思われる。例えば、不平等条約改正で活躍した陸奥宗光は海援隊で働き、3代目の神奈川県令になった「中島信行」に、「中島は早い時期から自由民権思想をもち、地方民会議員の公選を唱え、県政を去った後も自由民権と憲政の確立を唱えて国内各地を遊説した」とある。 民権と国権の拮抗問題 明治14年24歳の青年植木枝盛が憲法草案。「日本国の最上権は日本全民に連属す」。 |
【枢密院設置】 |
1888(明治21).4.28日、天皇の最高顧問府として元老院の後を受け、枢密院が設置された。首相の伊藤が転じて議長に任ぜられた。5.8日、明治天皇御臨席のもと開院式が挙行され、敗戦による昭和21.10.29日の憲法改正案の審議可決を最後として新憲法の実施とともに58年間の歴史に幕を閉じた。 枢密院の構成は、正、副議長、顧問官で、いすせれも親任官であった。任用資格は40歳以上の男子で、内閣の奉請によって親任され、成年以上の親王も会議に列することになっていた。国務大臣が議案の説明や質疑に対する答弁の為に列席し、且つ表決権を有した。国政に対する直接の発言権はなかったが、お目付け役として機能した。 |
【第2代、黒田内閣】(第2代:黒田清隆内閣(任:1888.4-1889.10))、内大臣・三條實美暫定内閣(任:1889.10-1889.12) |
伊藤博文は、三年間に渡った首相職のあと、憲法制定に本腰を入れることを理由に内大臣三條實美に辞表を奉呈し、明治天皇はこれを裁可し、伊藤は後継首班に薩派の黒田清隆を推薦して枢密院に議長として赴任する。かくして1888(明治21).4.30日、二代目黒田内閣(明治21.4.30〜明治22.12.23)が成立する。内閣の顔ぶれは次の通りであるが、伊藤内閣の閣員をすべて引き継ぐ形で成立した。
第一次内閣は旧長州藩を突出させていたが、今度は旧薩摩藩色を濃くして黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道、森有礼らの面々が登用されている。異色なところとして、外務・大隈重信(佐賀)の登用が注目される。陸軍・大山巌(薩摩)、海軍・西郷従道(薩摩)。 |
1889(明治22)年の動き |
【大日本帝国憲法発布】 |
1989(明治22).2.11日、天皇の名で大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布された。「極東アジアで最初の近代憲法」という史的価値を持つ。
ちなみまに、アジアで最初の近代憲法は、1876年にオスマン・トルコ帝国で公布さ
れたミドハト・パシャの準備したミドハト憲法である。これによりトルコの短命ながら第一次立憲制がひらかれた。 「大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを統治する」。明治天皇は自らを国家統治者として元首の地位に就いた。内閣(ないかく)・議会(ぎかい)・裁判所(さいばんしょ)がおかれ天皇を助ける機関となった。 この日保安条例が解除され、憲法発布の恩赦によって多数の民権家(政治犯)が釈放された。国会開設は1年後に迫っていた。この辺の政治的駆け引きは、伊藤博文ー山県有朋ラインの方が幕末の権力闘争をくぐり抜けて来ただけに、民権派よりもかなり上手だったのかもしれない。 憲法発布と同時に地券は廃止され、地租の徴収を土地台帳に よって行う制度へ移行した。この土地台帳は,現在も全国の法務局で保管管理 されている。 |
【憲法発布余話】 | |
2005.12.21日付け「太田龍の時事寸評bP530」の「イルミナティ奥の院と直結するマスコミ『ニューズウィーク日本版』が、『天皇は本当に必要か』、だと」が次のような憲法発布余話を記している。これを転載しておく。
|
【貴族院令発布】 |
同2.11日、大日本帝国憲法の発布に合わせて貴族院令が公布された。貴族院は、皇族、華族並びに勅任議員、学士院会員勅任、多額納税者勅任で組織され、衆議院と共に議会の二院制を構成することになる。終戦後、日本国憲法の実施と共に廃止された。 貴族院は、政府翼賛議員として機能した。反政府の立場に立った稀有の例として、第一次山本内閣の第31議会で、一般会計予算をも否決し、大正3年度予算が不成立となり、内閣総辞職に至らしめた事例が有る。 |
【森有礼(もりありのり)】 |
2.11日、憲法発布の日、新政府の要人にして第1次伊藤内閣の文部大臣を努めた森有礼が、伊勢神宮に参拝したとき靴ごとあがり、ステッキで御簾をあげてのぞくなどして皇室を軽んじたなどという理由で(そのような事実があったか否かは不明であるが)、尊王志士国粋主義者の西野文太郎によって「皇室と皇道に対して不敬のかどあり」として襲われ、翌日死亡した。 |
(私論.私見)