第40部21 明治維新の史的過程考

 (最新見直し2006.10.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 まず、明治維新が極めて短期間に進行したことを確認したい。太平の眠りを覚ましたペリー来航は1853年、王政復古を宣言した1868年まで15年である。この幕末維新により、徳川270年の幕藩体制が崩れ、明治の世になった。明治政府の前に立ちはだかった課題は、1・国の独立を全うする、2・急速な近代化による文明開化、3・富国強兵、4・殖産興業等々の政策であった。これを如何に能く為しえたのか逆なのか、この辺りを考察せねばならない。

 この間、士族は解体され、その階級移動は必ずしもうまくは行かなかった。百姓・町民側から見ても、当初は新政府に期待したが、税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は依然として重く、これでは葵の紋が菊の紋になっただけだと不平不満が噴出した。こうした不満が各地に一揆を頻出させた。が、明治10年に西南の役が鎮圧された頃より、武力闘争に代わり立憲政治、議会政治闘争へと方向転換していくことになる。この流れを見ていくことにする。

 2007.3.22日 れんだいこ拝


 これより以前は、「幕末通史4(大政奉還から幕府解体、王政復古まで)
1868(慶応4、明治元)年の動き

【「王政復古の大号令」発布】
 1867(慶応3).12月、明治天皇は天皇を中心とする政治を行うことを宣言した(「王政復古」)。

 1868(慶応4、明治元).1.13日、太政官代を九条道孝公の邸に置く。

 1.17日、国家機構として神祇、内国、外国、陸海軍、会計、刑法、制度の7科の職制を定め、太政官がこれらを一括統べることにした。

 2.3日、官制を8局とし、神祇官を諸官の最上に置いた。

【「王政復古の大号令」発布】

 3.13日、神祇官再興の布告が出された。

 「このたび、王政復古、神武創業の始めに基づかせられ、諸事御一新、祭政一致の御制度に御回復遊ばされ候については、先ず第一に神祇官再興」云々。

 これにより、神祇官が太政官の上に置かれることになった。


【「王政復古」の大号令と「「五箇条の御誓文」発布】

 3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文((ごかじょうのごせいもん)」を公布した。明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。

 実際の朗読は三條実美が行い、神前に奉読し、天皇みずからが国難の先頭に立ち伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国の隆昌を願った。

 「五箇条の御誓文」の内容は次の通り。
 「我が国未曾有の変革を為さんとし、朕身を以って衆に先んじ、天地神明に誓う」。
一ッ  広く会議を興し、万機公論に決すべし
一ッ  上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一ッ  官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一ッ  旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一ッ  知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし

 御誓文は、坂本竜馬の「船中八策」を基にしていることが分かる。以後明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれていくことになる。

 1946.1.1日、昭和天皇は敗戦の翌年の元日、「新日本建設ニ関スル詔書」において、五箇條の御誓文を引用され次のように述べている。
 「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス」、「国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」。
 御誓文の精神に立ち返り国づくりに努めるご決意されている。

(私論.私見) 「五箇条の御誓文」考

 爾来、「五箇条の御誓文」は、右翼イデオロギーの精華と看做され続けている。れんだいこはそうは思わない。「五箇条の御誓文」が示した5道は、左派右派イデオロギーに馴染まない政道の在り方として至極真っ当なものである。れんだいこから見て、在地型社会主義運動が規範にすべき政道である。5つ目の末尾「大いに皇紀を振起すべし」が若干問題となるが、戦後の象徴天皇制的秩序で捉えるならば、目くじらするほどのものではない。ネオ・シオニズム派のワンワールド的世界支配政策が貫徹されようとしていた当時にあっては、在地主義的橋頭堡ともなるべき意義を持っており、批判されるべきではないと考える。この辺りも、れんだいこ史観と俗流マルクス主義派のそれとは大いに齟齬する。

 2006.10.3日 れんだいこ拝

 3.15日、幕末の幕府方の傑物、川路聖(とし)あきらが自邸で自刃する。


 3.19日、京都−大阪間の鉄道が全通。


【朝廷の動き】

 3.20日、朝廷、慶喜謹慎、江戸城明け渡しを受ける。3.21日、天皇、大阪へ行幸。閏4.1日、イギリス公使パークスが天皇に信任状を提出し、イギリス政府は新政府を承認。4.4日、東海道先鋒軍、江戸城に入る。閏4.8日、天皇、京へ還幸。4.11日、新政府軍に江戸城を引き渡して、徳川慶喜は水戸へ移る。4.15日、徳川慶喜、水戸に到着し謹慎生活に入る。4.21日、東征大総督府、江戸入城。閏4・27日、新政府が政体書を発表。3職7科8局制を改め、太政官制度三権分立を定める。5.15日、太政官札5種が発行される。7.28日、天皇・皇后、京都を出発。7.30日、天皇・皇后、東京に到着。 


 3.22日、第10国立銀行開業。5.21日、第十五銀行開業。   


【水戸学派の蠢動】
 3.28日、新政府、神仏分離令を決定。以後、全国で仏教施設・仏具の破壊運動が起こる。4.1日、日吉天王社に武装神官が進入し、仏具や教典などを焼き捨てる。

 4.12日、東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が設立される。東京英語学校は、東京大学予備門として東京大学に付属させる。


福沢諭吉が慶應義塾を創立
 4月、福沢諭吉、英学塾を移転して慶應義塾と改称。

【東京遷都】
 1868(明治元)7月、江戸を東京と改称。9.8日、年号を明治と改める。1869(明治2)年、京都から東京へ遷都(せんと)する。 

【文明開化政策】
 明治維新は、どの段階に於いても中下級武士層、民衆の反封建闘争の高まりと欧米列強による日本半植民地化の危機に対抗する民族的自覚の成長とによって推進され、維新後の社会を欧米列強をモデルとする資本主義的体制の構築へと舵を切った。行政、軍事、社会、経済、教育、文化に至るまであらゆる方面にわたって大改革と構築を行い、維新勢力の新官僚形成のもとに西洋の近代文明の物質的成果を急速に学びとっていった。

 この時の新政府の課題は次のようなところにあった。1・列強による不平等条約の見直し、2・旧体制的身分制度見直し、3・地租改正などの税制変更、4・工業の発展による資本主義化、5・徴兵令による軍隊の編成。一言で云えば、「富国強兵」政策の道を歩み始めた。

 西洋文明の摂取、いわゆる「文明開化」は民族の風俗にも及び、「丁髷(ざんぎり)をたたいてみれば、因循姑息の音がする。惣髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」などともてはやされた。こうして「上からの近代化」が急ピッチで進められていった。

1869(明治2)年の動き

【横井小楠暗殺される】

 「合気揚げの基礎知識7の横井小楠暗殺さる」参照。

 1.5日、明治新政府の参与だった横井小楠(よこうしょうなん/平四郎)が暗殺された。小楠はこの日、宮中に参内(さんだい)し、烏帽子直垂の正装のままで、寺町通り丸太町までさしかかった時、頭巾を被った刺客の一団に襲われた。

 刺客の一団は短銃を所持し、一発ずつ小楠の乗った駕籠(かご)に打ち込み、その直後に抜刀して斬り込んでいる。この時、小楠の警護役として隨(したが)っていたのは、門人の横山助之亟(すけのじょう)と下津鹿之助(しかのすけ)と若党(わかとう)の二人であった。小楠の警護役らの四人は必死に防戦するが多勢に無勢であり、防ぎようがなかった。そして四人とも深手を負い、三人は斬り倒された。小楠は直ぐさま駕籠から出たが、この時に横合いから襲った刺客(しかく)に斬り倒された。

 この事件は正月早々の事であり、横井小楠暗殺さるの悲報は、当時の人心を驚愕させ、また明治天皇も酷く驚いて、御心痛に至ったということが、明治二年正月五日の太政官(だじょうかん)日誌には記されている。この暗殺の手腕は計画的かつ巧妙で、桜田門外の「井伊大老襲撃事件」を模倣したものであり、刺客は随所に分散し、短銃を用いて同時に斬り込むということまで酷似していた。

 小楠が駕籠の中にいては危険と感じて、戸を押し開き、外に出ようとした時に、刺客はここを狙い、首を斬りつけている。そして首を斬り落とした後、それを小脇に抱え逃走している。しかし刺客と斬り合いを行っていた、もう一人の若党の吉野七五三之助(しめのすけ)が抜刀のまま、刺客を追いかけ、宮小路夷川下ル所まで追い詰めた。刺客はここで小楠の首を捨てて逃げ去った。そして首だけはようやく取り替えしたということで引き返してきた。

 刺客の襲撃は実に巧妙で、咄嗟(とっさ)のことであり、駕籠の脇に駆けつける隙間すらなかったという。明治新政府は威信に賭けても、下手人を逮捕しなければならなかった。正月七日には下手人詮議に関する厳重な布告が太政官から出された。そして必死の捜査の結果、刺客の一人であった益田二郎を逮捕した。益田を責めて自白させたところ、刺客の一団は十津川郷士の前岡力雄らと判明し、また、他の五名も逮捕された。下手人として逮捕されたのは、石見郷士・上田立夫、備前の土屋信男、中井刀弥尾、尾州藩陪臣・鹿島又之允、そして十津川郷士・前岡力雄であった。 


 1.14日、薩摩・長州・土佐の代表が、版籍奉還で一致。1.20日、薩長土肥の連署で4藩の版籍奉還の上表を行う。


【封建的制限の撤廃】
 1.20日、諸道の関所廃止。

【新制度の導入】
 2.5日、新政府、小学校の設置を奨励。新政府、造幣司を廃止して、造幣局を設置する。2.8日、新聞紙印行条例が制定される。2.19日、東京府が市中風俗矯正の布告を出す。

【「五稜郭開城、戊辰戦争終結」】
 榎本武揚ら、新政府軍に降伏する。5.18日、黒田清隆、榎本武揚を説得し、五稜郭開城。戊辰戦争終結。6.2日、戊辰戦争の軍功賞金・章典禄が下賜される。

【地租改正】
 明治初年、農地法改革が行われ、農民に土地所有権が認められることになった。その証として地租改正の際に地券と呼ばれる土地権利証が発行された。地券には、所有者・所在・地目・段別・地価・地祖が書かれている。

 地租改正は農民に対して一層の重税方針を打ち出していた。その為全国各地で農民らが蜂起し、それが飛び火して一揆が続発していくことになる。また、腐敗した政府を憤る人物が政府転覆を企てるなど、反政府行動を取る人物も現れてきた。当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の4人であった。彼らは、これら続発する農民一揆や民の不満等を押さえるために、日夜努力を続けたが、なかなかうまい対策が打てなかった。

 
8.3日、高崎藩で重税に抵抗する農民が一揆を起こす(高崎五万石一揆)。10.12日、新川県で年貢減免の20000人の一揆が起こる。10.17日、高崎の一揆農民4300人が城下に強訴。10.20日、高崎の一揆農民、岩鼻県へ出訴。岩鼻県知事小室信夫が政府に事の次第を連絡したため、高崎藩は首謀者を逮捕処刑する。

【新政府内の対立】

 5月、官吏公選の詔勅が出され、三条実実が輔相、岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正が議定、東久世通禧、木戸孝允、大久保利通、副島種臣らが参与、その他神祇官知事、民部官知事、会計官知事、軍務官知事、刑法官知事などが公選された。

 明治新政府の最初期は、「維新の三傑」と呼ばれる薩摩の西郷隆盛、大久保利通、それに長州の木戸孝允、それに江藤、岩倉らが加わって合議的に進められた。しかし、西郷は鹿児島に戻り悠々の生活を送ることになるので、大久保、木戸、江藤が切り盛りすることになった。西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には次々と困難な問題が生じてきた。

 6月、明治維新に功績のあった者達に、賞典禄(しょうてんろく)や位階といった形で論功行賞が行われたが、それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身の人物に重く、他藩の者が軽く扱われた形になった。倒幕を成し遂げた原動力となったのは長州藩と薩摩藩だったので、その結果は当然とも言えるが、他藩出身者には納得いかない。そのため、薩摩や長州藩出身者に対して、各方面からの非難や羨望が起こる。

 また、薩摩藩と長州藩の間でも、新政府のポストについての派閥争いが起こり、双方が反目しあうという事態にもなった。このように新政府内が混乱した状態になれば、当然、新政府内の風紀も乱れる。新政府の役人らは、昔を忘れ、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、まるで旧大名を真似たような驕奢な生活をするものが増えた。また、権力をかさに着て、民に対し横暴な振る舞いをするものも多く出た。こんな乱れた新政府に、一般の人々は大いに失望しました。「新しい世の中になったと言うが、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどましだ」このような声があちらこちらから聞こえてくるような状態になった。


版籍奉還
 1869(明治2.6.17日、大久保利通、板垣退助を主唱者とする政府は、大名(だいみょう)が支配していた土地と人民を朝廷に返還させた。これを版籍奉還と云う。これによって、全ての土地は形式的には政府の支配下に入り、藩主は改めて政府の地方長官たる藩知事に任命され、従来の藩主・藩士の身分関係も解消された。薩長土肥四藩主らの上奏文を政府が「聴許」するという形式をとった。

 版籍奉還は、木戸が維新前から持っていた構想で、薩長土肥4藩主から建白する形で版籍奉還を実現させ、中央集権国家の体を整えていった。この時天皇に差し出された上表文の文句の一節は次の通り。「そもそも臣ら居る所は、すなわち天子の土。臣ら収する所は、すわなち天子の民なり。いずくんぞ私に有すべけんや。いまつつしみてその版籍を収めてこれをたてまつる」。戦国この方営々と領国化してきた領土と人民と収入を全部差し出すということであったから、これは大変な革命であった。これを大藩が率先して行ったことにより、中・小藩の異論が封殺されることになった。4月、5月の間に274藩が順次に版籍を奉還した。終了は6.17日。それまでの藩主はとりあえず藩知事に任命されたが、基盤の弱いものであり、事実史実はまもなくのうちに権力を根こそぎ奪い取っていった。

華族制度
 公卿・諸侯を廃止して華族とする。6.25日、藩知事274人が定まる。つまり、実際には各藩はそのままの形で残り、藩主も知藩事(ちはんじ)という名前に変えられただけで、領内の運営は全て従来通りの藩が行った。

 日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「7」は次のように記している。

 明治2年、華族制度ができると政界復帰を試みて浪岡より範顕は旧公卿ということで華族に列するように中央政府に要請、しかしこれがあだとなり、中央政府を牛耳っている岩倉・三条・長州・薩摩らは新政府高官の身分をたてに範顕の今までの官位をすべて停止し、記録から抹消し「公卿補任」などの人事名簿やその他の公文書から有馬家のところをすべて抹消、適当に人を補い矛盾を正して存在もろとも消してしまったのである。

 天皇を暗殺するほどの権力を持つ岩倉らに公文書偽造やすげ替えなど簡単なことであったろう。ごたごたしていて朝令暮改のこの時代、さらに事はやりやすかったであろう。そしてダメ押しに北畠家の末裔であることも消してしまった。江戸時代初期に北畠親顕が無嗣で死去したことに目をつけ、そこで北畠は断絶したとして明治4年7月に内大臣久我建通の4男通城に北畠家を継がせて矛盾をただしたのである。この久我建通は範顕の冠親である久我通明の養子である。

 範顕とは内面上相当仲が悪かったので岩倉のこの陰謀に賛同したのであろう。そして浪岡の領地についても津軽藩に圧力をかけてこれを消去させ、完全に有馬家を存在もろとも消してしまった。これこそ勝者が歴史をつくる典型であり、有馬家は歴史の敗者として一切の歴史文献その他からその姿を消されてしまった。

 その後、有馬範顕は再三にわたって中央政府に政治への参加・復権・赦免を打診するが、ことごとく拒否された。明治4年3月の愛宕通旭事件では明治天皇の京都還幸の政変を画策した愛宕通旭の同志外山光輔の家令高田修から政変成功後に復権を約束されて明治3年に久邇宮として復活した中川宮と連絡とろうとしたところ、計画が発覚して愛宕通旭や外山光輔らが逮捕・自刃して復活の機会を失った。ところがこの時は範顕はまだ動いていなかったために捕吏はこず、罪にはとわれなかった。

 というより政府も範顕が外山と連絡していたとは知ってはいなかった。明治3年に久邇宮として復活した中川宮朝彦親王はその後伊勢神宮祭主に任ぜられ、現皇太后陛下の父上である久邇宮邦彦王元帥陸軍大将や梨本宮守正王元帥陸軍大将、朝香宮鳩彦王陸軍大将、戦後内閣総理大臣をつとめた東久邇宮稔彦王陸軍大将などの有名皇族軍人の父上となった。

 そして幕末期に色々な計略を考えた手代木直右衛門は会津戦争のあと鳥取・高須・名古屋に幽閉されたが、明治5年に赦免され、左院少議生として復帰した。手代木は範顕復帰のために中央政府に赦免を働きかけ、範顕の新政府復帰工作に尽力する。しかし、かなうことはなかった。

 その有馬範顕も明治6年3月21日、津軽浪岡の隠遁先で死去したのである。享年58歳であった。その死去のらせは手代木・中川宮・徳川慶喜・松平容保などに報告された。手代木は当時香川県権参事で範顕の死去を聞いたときに、「幕末・維新期の一傑を亡くす」と悲涙したといわれている。中川宮らも哀悼の意を表したという。有馬範顕は一生を佐幕・公武合体に力を注いだのである。

 範顕の死去後、長男の有馬丑之助(麿)・次男の有馬酉松(麿)は新政府からの暗殺をおそれ、諱をつけず、丑之助・酉松として苗字を許された庶民風に幼名のまま一生をすごすことにした。そして苗字の許可が出たときには周辺の庶民たちに「有馬」という苗字を普及させ、特定されないようにもした。だから浪岡周辺は旧北畠氏ゆかりの者以外にも「有馬」という家が多い。さらに有馬家浪岡代官職で旧浪岡北畠一族である有馬金次郎の養子にはいり金次郎の一族の津軽藩士と謀って津軽藩士籍や戸籍工作もした。そして父・範顕の業績をかくすために慶応年間に死去したというニセ過去帳まで作成して隠匿に力をいれた。このようにして完全に有馬家は庶民となった。

 兄にかわって7代目有馬家当主となった有馬酉松は新政府復帰をやめて豪農としての生活をはじめたのである。範顕の生きていた廃藩置県ごろまでは斗南藩の山川らからの密援助でなんとか食いつないでいたが、その後は自作農にはいった。酉松の代になると完全に帰農した。このようにして公卿としての有馬家はおわりをつげた。これら有馬家の事績を酉松は兄と協議して家の秘匿とし、子供には口伝制をとって伝承させ、他言では津軽藩士とすることとした。このようにして有馬家はいままで事実は口伝制をとってきた。有馬家8代有馬範治先生は口伝制の脱却のために有馬範顕卿御一代記の製作を開始、ここに有馬範顕卿御一代記ができたのである。

 6.29日、招魂社が創建され、戊辰戦争の戦死者を祀る。


 6月、西郷が国元の鹿児島に引きこもる。


 7月、大久保利通は参議となる。4.6月、大蔵卿となり内政確立をめざした。


 7.8日、政府、官制を改革し、2官6省とする。同日、昌平校・開成工・医学校をして大学校を設置。また職員令を公布する。7月、政府、神祇官を設置。9.14日、オーストリア=ハンガリー帝国と修好通商航海条約に調印。10月、英国人フェントン、薩摩藩の依頼で軍楽隊の天皇礼式曲として「君が代」を作曲。12.25日、東京と横浜の間に電信が開通し、事業が始まる。


大村益次郎が暗殺される
 11.5日、大村益次郎が京都で暗殺される(享年46才)。
 
 大村の概要履歴は次の通り。

 1869(明治2).2月、函館・五稜郭を制圧し戊辰戦争が終結。その功により永世禄1500石を賜る。7月には兵部省・兵部大輔(ひょうぶのたいふ)に任ぜられる。近畿地方を巡回し、9.4(新暦・10.8)、京都三条木屋町の旅宿に逗留中、暴漢に襲われ重傷を負う。大坂の病院に入院するが、11.5日、容態が悪化し死去。

 12.3日、木戸孝允は毛利敬親を、大久保利通は島津久光と西郷隆盛を上京させるために帰藩する。


1870(明治3)年の動き

【西郷再々度歴史の表舞台に登場する】
 彼らも、新政府がこのままではいけないことは、十分分かっていた。このままでは苦労して折角樹立した新政府が、転覆する恐れがある。そう考えた4人は、鹿児島の西郷を東京に呼び戻し、彼の徳望をもってして、一大改革をやろうと決心した。このような混迷した事態を打開するのには、人々から仰ぎ慕われる人望を持ち、かつ勇断力や決断力を併せ持った英雄的人物が必要になってくる。大久保や木戸には、そのようなリーダー的資質はありません。智謀や知略といったものは、彼らも十分に持ち合わせていたが、人々から信頼され、なおかつ勇気を持って改革を成し遂げる力は、彼らには無かった。西郷は、最もたくましい勇断力と人々から慕われる絶対的な人望を併せ持っていた。この新政府の危機を乗り越えるには、どうしても西郷の力が必要だった。そのため、西郷の盟友・大久保は、西郷の弟でヨーロッパ視察から帰ってきたばかりの西郷信吾(さいごうしんご・後の従道)に、兄の隆盛を東京に呼び戻してくれるよう説得を頼む。そして、その依頼を受けた信吾は、10月、一路鹿児島に向かう。

 
1869(明治2).6月以来、国元鹿児島に引きこもっていた西郷は、突然の弟・信吾の訪問により新政府の腐敗堕落した実態を聞かされ、これでは維新を迎えることなく倒れていった数多くの同志達に面目が立たないと義憤を覚え怒る。大久保の上京要請の話を聞いた西郷は、上京する決意を固める。

 版籍奉還後、藩自体を廃止し、郡県制にしなければならない、なぜなら、藩の存在こそ、封建主義の元凶だからだ、ということになった。大村益次郎の後継者である山縣有朋は兵制改革に取り組み、苦労していただけに、この考え方に共鳴、すぐに大親分である木戸のところに行き、「廃藩置県」の断行を迫った。「井上薫」は大蔵省を牛耳っていたが、彼も国家財政の危機を打破するには、単なる名前だけの版籍奉還だけでは意味がないとし、廃藩置県しかないと内心考えていたので、やはり親分である「木戸」の説得に乗り出した。

 しかし、問題は鹿児島(薩摩)にあった。木戸はなんとか説得できたとしても、西郷をいかにして説得するのかが重大な問題となった。そこで、山縣は井上の助言をもらい、鹿児島の西郷隆盛の家を訪ねることになる。山縣は、大村が徹底した薩摩嫌いだったのに対して、薩長調和論者であった。鹿児島に引っ込んでいた西郷を口説き落とし、上京させることを期待する。

 だが、西郷自身も、薩摩藩の政治改革、とくに兵制改革に対して、封建制の尾を引いている版籍奉還の限界を感じていた。西郷は山縣の話しを聞いたあと、一言、こう言った。「それ(廃藩置県)は正しい」、と。もう一人の実力者「大久保利通」も内心は、「廃藩置県」までしなければ、とは思っていた。たが、彼も木戸と同様、版籍奉還が精一杯であり、藩の実力すべてを中央(政府)に吸収するのは困難だと考えていた。しかし、木戸や西郷がこの困難な問題に取り組むとなれば、大久保もそうした心配にしがみついているわけにもいかない。なぜなら、政局の実権を長州に奪われかねないからだ。

 大村の後継者を自負していた「山縣」は
兵制改革の整備を進め、「国民軍」を創設せんとする。だがその前に大村を暗殺した旧士族勢力を解体しなければならないと考えた。そのために、廃藩置県の強行が必要であり、「強行」するには、諸藩の抵抗を威圧するのに十分な、「政府直属の兵力」をもたなければなららいと考えた。そして、薩摩の西郷、木戸の長州、板垣の土佐の三藩から、計一万人の「御親兵」を提供させることを企図する。この御親兵は、戊辰戦争が示すように、この三藩の兵は、最も装備と訓練が行き届いた「精兵」となった。

 12月、西郷を正式に東京に呼び戻すために勅使・岩倉具視と大久保が鹿児島に来訪した。大久保は、西郷と新政府の一大改革案について話し合う。一つにそれは廃藩置県を廻ってであった。日本の政治形態を従来の統治機構を踏襲した上に創出するのか、それらを解体した上で新制度をもって行うのかの判断が問われていた。つまり、封建的な藩制度を継承するのか、藩というものを廃止して県を置き新たに郡県制度を設置するのかの議論であった。

 西郷と大久保は、版籍奉還(はんせきほうかん)後も実質的には藩体制が機能している現実を革め、これを廃止して最終的に諸大名から土地つまり領土や人民を新政府が取り上げることを構想した。代わりに郡県制度をを導入しようとした。これを廃藩置県と云う。廃藩置県こそ明治維新の総仕上げであり、これを成し遂げないことには明治維新が完結しないと考えていた。

 しかし、この廃藩置県には大きな危険が伴っていた。依然として主従関係による絆を維持していた藩体制を破壊するとなると、当然旧勢力側からの抵抗が予想される。迂闊に廃藩置県の情報が他に漏れれば、各地の諸大名が蜂起し、日本中に内乱が勃発してしまうという危険性が待ち受けていた。

 そのため、西郷と大久保は慎重に事を運ぶ。まず薩摩、長州、土佐の三大藩の力を利用して廃藩置県を行うことに決定し、両名はその事前交渉で一路山口へ向かう。岩倉と別行動を取って山口に帰郷していた木戸孝允に会う。木戸を説得し、その後3人は揃って高知に出向く。三藩の力無くしては、廃藩置県が断行出来ないと考えたからである。3人は高知で板垣退助(いたがきたいすけ)と会い、薩摩、長州、土佐を代表とする4人が揃って上京することになった。

 西郷ら一行が東京に着いたのは1871(明治4).2月のことであった。ここに、西郷・木戸・大久保という、維新の三傑が揃い踏みした。新政府に復帰した西郷は、廃藩置県に向けて着々と準備を始める。廃藩置県に関して三傑の意志は統一され、天皇の側近、朝廷の「岩倉」のもとを訪ねる。しかし、岩倉は慎重論だった。一方、三傑は強硬に主張する。これを首尾よく遂行するために薩長のみでは覚束なかったため薩長土肥戦線を構築し、その為に、土佐の「板垣退助」、佐賀の「大隈重信」を参議に昇格させることも決めた。

 西郷を中心とした新政府は、廃藩置県断行の際の各地の反乱に備えるため、まず薩摩、長州、土佐の三藩から御親兵(ごしんぺい・政府直属の兵)を差し出すよう命じる。西郷も一時鹿児島に帰国し、常備隊四大隊と砲兵四隊(約五千人)を率いて東京に戻ってくる。また、西郷らは御親兵以外に日本の東西に鎮台(軍の機関)を置くことを決定する。もし、廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際、迅速に鎮圧行動が取れるようにするためであった。

 このようにして、兵力面での強化を行うと共に、6月になると西郷は、木戸と共に参議に就任し実質的な新政府の首班となり、その後制度取調会の議長となって、内政面での改革にも取りかかる。そして7.9日、木戸邸において、新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が催された。しかし、会議は紛糾する。この後に及んで時期が尚早であるとか、廃藩を発表すればどんな騒ぎになるか分からないなどという論が起こり、木戸や大久保の間で大激論になった。その激論を黙ってじっと聞いていた西郷が口を開く。「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」。重いそして力強い西郷の一言であった。木戸と大久保は、その西郷の一言で議論を止めた。この西郷の一言と大きな決断力で、廃藩置県が最終的に決定された。

【「ザンギリ節」の流行】
 明治3年頃、「ザンギリ節」が流行した。これを記しておく。
 半髪頭を叩いて見れば、因循姑息の音がする。
 総髪頭を叩いて見れば、王政復古の音がする。
 ザンギリ頭を叩いて見れば、文明開化の音がする。

1871(明治4)年の動き

 明治新政府の第1回海外留学生として、長井長義(1845ー1929、藩医家系)がプロイセン(現在のドイツ)のベルリン大学に派遣された。長井は化学を学び、帰国後の1884年、半官半民の大日本製薬会社設立に際し、39歳で同社の技術部門のトップと東京大学教授を兼任する。粗悪な輸入薬品が氾濫する明治初期にあって、エフェドリンの製品化など国産薬品の開発を牽引する。今で言う「産学官連携」を実践した(2005.6.1日付け日経新聞文化欄の渋谷雅之氏の「薬学の父、長井長義一代記」より)。


【「廃藩置県」断行する】
 7.14日、廃藩置県が発布され、天皇が「勅語」を下す。右大臣三条実美が勅語を読み上げた。「朕惟(おも)うに、更始の時に際し、内以って億兆を保安し、外以って万国と対峙せんと欲せば、宜しく名実相副い政令一に帰せしむべし。朕先に、諸藩版籍奉還の議を聴納し、新たに知藩事を命じ、各その職を奉ぜしむ。然るに数百年因襲の久しきあるいはその名ありてその実挙がらざるものあり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深くこれを慨す。よって今更に藩を廃し県と為す」。

 廃藩置県の直前には、3府40県と諸大名が支配する261の藩があった。新政府の直轄領である府県の石高は860万石、それは全国の石高(3000万石)の約3分の1にしかすぎなかった。中央集権的な統一国家をつくるためには、藩を廃して年貢などの税もすべて新政府に集める必要があった。そのために廃藩置県が断行され、藩に代わり3府3百2県が置かれることとなった(やがて三府72県に統合され、明治21年には三府43県となり昭和に及ぶ)。

 各藩の藩主や藩士は一夜のうちに一遍の詔勅によって地位と財産を奪い去られた。旧藩主の藩知事は罷免されて東京在住を命ぜられ、代わりに政府任命の地方長官が府知事・県知事(のちの県令)として派遣された。諸藩の年貢は政府の収入となり、藩兵も解散を命ぜられた。この廃藩置県で藩政解体改革が完結する。人事面でも改革に直接携わった人を行政の長に据えるなど、行政面でも新体制の出発点となる。

 当然の如く諸大名の抵抗が発生した。例えば、薩摩にいた島津久光は、この廃藩置県を聞いて烈火の如く怒った。久光は保守的な性格のままに、西郷や大久保らによって廃藩が行われたと知るや怒り心頭に達し、鹿児島の磯の別邸(現在の鹿児島市の磯庭園)の前の海にいく艘もの船を出させ、終夜花火を打ち上げさせ鬱憤を晴らしたという話が残っている。だが、西郷らが作り上げた御親兵や東西の鎮台が反乱に備えてにらみをきかせていた。そのため、この廃藩置県と言う一大改革はごくごく平和的に達成された。

 政府が恐れていたような混乱は起らなかった。旧藩士の家禄支給や負債も免除され政府が肩代わりすることとなった為、旧藩主にとっても助け舟の面があった。

 諸外国から来ていた外国の使臣や公使は、この廃藩置県が平和的に行われたことに驚愕した。ヨーロッパにおいてはこんな平和的な解決は考えられなかったからであった。このように、廃藩置県が断交されたが、これを成功せしめた背景西郷の尽力があり、その徳望と勇断力をもってして廃藩置県という一大革命が成し遂げられたと云える。

 新政府は、当初、旧藩の名前や領地をそのまま残す形で3府302県を設置した。この時、さほどの混乱もなかったので、4ヶ月後には3府72県に、そして、1876年には3府35県に統廃合された。 そして、この過程で、新政府に抵抗した藩は、県名から消されてしまった。当時、大蔵卿であった大久保利通と大蔵省の役人たちが考えたことと言われている。

【封建的諸制限撤廃される】
 廃藩置県後、様々な封建的制限が撤廃されていった。

 戸籍法制定。これにより人々の移動の自由が保証された。封建的土地緊縛から解放、田畑勝手作を許可、農民へ土地利用の自由を与えた。                                                  

岩倉洋行団の出発
 明治4年から6年にかけて、版籍奉還、廃藩置県を終えた明治政府は、廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況で「自ら国家を保持するに足る制度を確立するに非ざれば不可なり」(岩倉具見)として、欧米の近代国家制度を視察するべく岩倉を団長とする使節団(「岩倉洋行団」)が組織されることになった。

 
11.12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允参議、大久保利通大蔵卿、伊藤博文工部大輔、山口尚芳が任命され、以下同行の官員、留学生(後に津田英学塾→津田塾大学を創設する津田梅子ら)を合わせて百名を超える大洋行団が、アメリカへ向けて横浜を出港した。実に米欧12カ国を1年10ヶ月もかけて回覧した。この時、岩倉、木戸孝允、大久保利通の参議実力者、工部大輔の伊藤博文らの次期のホープも加わっていた。この岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていた。

 この時、大久保は、特にドイツ宰相ビスマルクの専制政治に影響を受けた。

(私論.私見)

 「」は次のように述べている。

 「岩倉使節団の一行は、訪欧米中に「親方志願のロッジ」に遭遇して洗脳され、フリーメーソンの秘密結社員になった可能性が高い。つまり彼等は、国家意識や民族意識を超えた、ワン・ワールド主義に洗脳され、西欧的植民地主義や帝国主義に入れ挙げる、人格改造(飴と鞭による洗脳で、柔順と買国奴になる事を条件に、我が身の保身と家族の半永久的安泰が約束される)が行われたと見るべきであろう」。

【留守居役西郷内閣】
 岩倉らが出発すると、この間の留守居役を西郷が任された。明治天皇は、西郷を近衛都督として御親兵のトップに据えた。他に、太政大臣・三条実美、参議・大隈重信、板垣退助、司法卿・江藤新平が留守政府を預かった。留守政府と使節団との間には、重要政策や重要人事をみだりに行わないなどの12か条の約定書が取り交わされていたが、西郷を中心とした内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していった。

 特筆ものをあげていくと、1・警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、2・各県に司法省所属の府県裁判所の設置、3・田畑永代売買解禁、4・東京女学校、東京師範学校の設立、5・学制の発布、6・人身売買禁止令の発布、7・散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止、8・キリスト教解禁、9・国立銀行条例の制定、10・太陽暦の採用、11・徴兵令の布告、12・華士族と平民の結婚許可、13・地租改正の布告、などの斬新な改革を次々と打ち出していった。

 これら全ての改革が西郷の発案によるものではないが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革であることは史実である。明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われたことになる。

1872(明治5)年の動き

「三条の教憲」を定める
 1872(明治5)年、明治政府は、「三条の教憲」を定めた。「三条の教憲」とは、第一条、敬神愛国の旨を体すべきこと。第二条、天理人道を明らかにすべきこと。第三条、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと。これを教育の指導方針とし国家形成していくことにした。古事記、日本書紀が教えられるようになった。

地方制度改革
 1872(明治5)年、大小区制が定められ、地方制度の大改革が為された。具体的には,それまでの庄屋,名主などによる村自治,およびそれを統轄管理する 領主(その地の管理を承けた家を含む)、代官による旧来の制度にかわり、数ヶ村で小区を構成、さらに数小区で大区を設定して、県の長から直接に最小組織が見えるようにした。管理統轄のために、大区に区長、小区に戸長、町村に副戸長・用掛を置き、県令から任命した。

 地方制度は、その後、郡区町村制(明治11年)、明治22年の市制町村制と整備され、現代同様の制度が誕生する。明治22年というとちょうど明治憲法施行の年であり、 この市制町村制も明治憲法体制の一環だったといえる。

 明治22年の市制町村制の施行により、近畿で市となったのは、大阪・京都・神戸・姫路・堺と和歌山だけである。たとえば和歌山市は、今は一地方都市過ぎないが、 当時は紀州徳川家のお膝元で人口約五万人を擁する全国13番目の大都市であった。 奈良の市制施行はこれに遅れること数年、1998年年が市制施行100周年に当たる。

壬生地券発行による土地所有権及び売買の解禁
 大久保利通、井上馨、の連名の下、神田構想に沿って建議が正院に提出これにより土地永代売買が解禁され、地券が発行された(壬申地券)これにより、農民の土地に対する権利保障を与えた。しかし、この地券は地価は記載し、地租は記載されずであった。地域差の大きい旧来の貢租をそのままにして売買地価を記載していた。同じ収穫のある土地でも貢租の高低により売買地価に差が生じた。

 明治5年より壬生地券が発行されたが、地租の負担はけっして軽くなく、このため、各地で地租改正反対運動が起こった。このたびに、地租改正の進行に応じて改正地券が発行され順次切替えられていった。

 西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府が当初悩んだ農民一揆や反政府運動というものは、ほとんど起こっていない。明治の知識人である福沢諭吉も、西郷が政治の中心となった2年間は、民に不平がましいことも起こらず、自由平等の気風に満ちた時期であった、というようなことを著作の中で書いているとあるが、不分明。

 5月、徴兵制の施行で、西郷が初の陸軍大将に任ぜられた。


 5月、天皇は、中国、四国、九州方面の西国巡幸に赴いた。西郷が随伴した。この巡幸をきっかけにその後明治9年、東北地方、函館。明治11年、新潟、富山など北陸。明治13年、中部。明治14年、北海道。明治18年、広島、岡山を巡幸した。


 7月、西郷は陸軍元帥、近衛都督に就任。


東京―横浜間に鉄道開業
 1872(明治5).9.12日、東京の新橋駅―横浜間に鉄道が開業した。9両編成。開業式が挙行され、これが明治政府が企画した最初の祭り行事となった。当時「陸(おか)蒸気」と云われた。

 その意義は、政府の推し進める文明開化と殖産興業政策の象徴であったことにある。駐日イギリス公使パークスの支援を受けながら、民部・大蔵省付き次官クラスであった大隈重信と局長クラスの伊藤博文がこれを推進役を勤め、右大臣・三条実美、大納言・岩倉具視を押し立てて計画を纏めた。1869.12.11日鉄道建設を決定し、1870.4月着工に漕ぎ着けている。

「征韓論騒動」の発生
 この時、 「征韓論」騒動が発生する。これを検証する。

 
この当時、日本は時代変化の対応に機敏で、黒船来航後喧々諤々の政争を経て明治維新に向かい逸早い近代化に成功していたが、朝鮮はこれに遅れた。同じ頃、朝鮮にも黒船が来航していたというのに、相変わらず政党内の党争に明け暮れていた。

 朝鮮は、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧迫に負け、通商条約を結んだことを批判し、以来日本と国交を断絶していた。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取り、外国と交際を始めた日本とは交際出来ないという判断だったことによる。かくて、日朝関係は国交断絶していた。

 1867(明治元)年、新政府は、
徳川時代より行き来のあった一衣帯水の隣国李氏(りし)朝鮮に対して、王政復古を通告し、江戸幕府下同様に国同士の交際を復活させようとした。当時、李氏朝鮮は、欧米の侵略行為に対し警戒の心を抱き、朝鮮政府は排外攘夷政策を押し進め、鎖国主義を貫いていた。

 
江戸時代を通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めた。しかし、朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否した。朝鮮政府としては、「皇上」とか「奉勅」という言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからであった。このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否した。これが世に言う「征韓論」の火付けとなる。

 明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送りつづけたが、朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあかなかった。そのため、明治政府は、直接、外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣した。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、要領を得ないまま帰国せざるを得なくなった。

 1870(明治3).4月頃、目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な征韓論を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわる。この頃、西郷は郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していなかった。佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允で、木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と認めている。木戸はこのようにして征韓論に熱心になったが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、その征韓論ばかりに構っているわけにはいかなかった。廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまうことになった。

 しかし、佐田らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも説いてまわった。征韓論は次第に熱を持ってきた。そして、1873(明治6).5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされた。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機となった。かくて日朝間に紛争が起こった。

 報告を受けた外務省は、この頃再度新政府に出仕していた西郷を含めた太政官閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請した。こうして、1873(明治6).6.12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなった。
明治新政府は朝鮮の態度に激昂した。

 外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」と説明した。この上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開いた。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議した。つまり、「居留民保護」を名目に軍隊を派遣し、交渉するべし、とした。この間、陸軍大将であり、参議である西郷隆盛は閣議で沈黙を保っていた。

 板垣の好戦的発言に同調の気分が高まり始めたのを見て、西郷は口を開いた。板垣提案に次のように述べている。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そのため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」。

 西郷はかく板垣の朝鮮即時出兵策に反対した。西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言う。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振る。「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」。つまり、西郷は出兵よりも話し合うのが筋であると主張した。 それは、西郷が「日・朝・清」の三国連合でもって欧米列強の力に対抗せんとしていたことによる。

 この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信だけが異議を唱えた。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い」と主張した。その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い」と大隈を批判した。こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来なかった。

 その後、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張する。
西郷の心の裡は、自らが釜山(プサン)に赴き、新政府の激昂(げっこう)を解決するためにこれに準ずる覚悟であった。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、相当の自信もあったのであろう。しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕した。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮である。また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったので、西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はない。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示した。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのだが、閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となった。

(私論.私見) いわゆる西郷の征韓論とは。通説の間違いについて。

 この一連経過から伺うのに、西郷は元々「征韓論」を主張していない。むしろ逆に、征韓論について、反対意見すら述べていることが分かる。西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命される。西郷はその準備を始めた。

 通説は、「1873(明治6)年、大久保、木戸らが遣欧使節に出た留守に征韓論が起こり、朝鮮出兵が閣議決定される」としているが、大いに問題ありであろう。


【岩倉全権団が帰国】
 5月、歴史は摩訶不思議で、李氏朝鮮との対応を巡って閣議が喧々諤々の最中に岩倉洋行団が帰国した。岩倉全権団の帰国は、それまで留守を預かってきた西郷内閣との確執を生んだ。遣外使節団の条約改正は不成功に終わったが、彼らは、外遊によって得た欧米諸国の国情を基に、その後の国政に関する指導権を奪おうとし始めた。

 「西郷南洲遺訓」は次のように記している。
 「予はかってある人と議論せし折、西洋は野蛮じゃと云いしに、否、文明ぞと争う。否野蛮じゃと畳みかけしに、何と、それ程申すにゃと。そこで文明ならば未開の国々に対して慈愛を本とし、懇々説諭して開明を導くべきに、左に非ず、未開蒙昧の国に対するほど、むごく残忍なことを致し、己れを利するは野蛮じゃと申せば、相手はやっと納得せしたり」。

 西郷は上述の目線を有していた。「白人たちが鉄砲と十字架を担いで世界中を侵略し、荒らし廻っている野蛮な行為を知っていた。日本もウカウカすると彼らの餌食になる危険を直感していたのである」(清水*八郎「破約の世界史」)。西欧崇拝一辺倒の欧化主義者として帰国した、西郷の目線を持たない岩倉洋行団との対立は必至であろう。

【征韓論を廻り政府が分裂、西郷らが下野する】
 「西郷の朝鮮派遣」を廻って閣議が開かれ、席上、岩倉具視と大久保利通が強硬に反対意見を述べ始めた。概要次のような論拠であった。
 「西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い」。

 通説は、「日本は朝鮮問題に関わるよりも内政の充実が先決である」として「内治優先論」を唱えたと評価している。これもオカシイ。大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを前提として論を展開しているが、この時の西郷の真意は、平和的使節として派遣されることを所望しており、「江戸城無血開城」の先例に継ぐ大交渉の任に当たろうとしていたのが史実であろう。そういう意味で、通説は、後の政権に都合の良い事大主義的粉飾による歴史偽造していることになる。

 
こうして、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられることになった。大久保は、西郷の意見が取り入れるならば辞任するとまで言い出し、国論は揉(も)めに揉めた。結局、西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定された。三条実美と岩倉具視が天皇に上奏することになった。が、岩倉の策略で西郷の朝鮮派遣は潰されてしまう。

 三条が心労の余り昏倒し、上奏できなくなった(急死したともあり、毒殺の可能性が疑われている)。かくて岩倉具視が三条に代わり太政大臣に就任し、上奏した。が、閣議決定と異なる「征韓は時期尚早」を奏上し、天皇の裁可が下った。こうして、一大ドンデン返しが起こり西郷の遣韓論は潰された。つまり、岩倉は、いったん決定が下っていた西郷の朝鮮派遣をひっくり返すのに成功した。
 
 10.24日、「西郷を朝鮮使節として派遣する派」が下野し、参議・西郷が辞任。10.25日、江藤新平(佐賀藩士)、副島、後藤(土佐藩士)、板垣(土佐藩士)の4参議が、桐野、篠原ら西郷派の面々も仕官辞職した。西郷派は鹿児島に帰郷した。その西郷の下へ不平士族、民権論者が合従連衡し始め不穏な醸成を生んでいくことになる。(通説は、「征韓論派の下野」と看做している) こうして、岩倉大政大臣、大久保利通、大熊重信などを参議とする内閣が成立した。これを「明治6年の政変」と云う。韓国政府と友好関係を結び、和平を唱えた西郷らは、事実とは全く別の強硬な征韓論者に仕立て上げられて、歴史に汚名を残すことになる。

 この結果、西郷と大久保の仲は決定的に分裂した。大久保は、内務卿を兼ねて政府の中枢、
中心的存在となった。殖産興業をすすめるとともに、自由民権運動、士族叛乱、百姓一揆等のうち続く混乱の中で専制的な支配を一層強めた。特に士族叛乱においてはこれに対抗すべく諸外国から最新鋭の武器の大量買い付けを命じ、更に7年の佐賀の乱では、鎮台兵の士気高揚も兼ねて前線視察に赴くなど、事件処置に挺身した。

(私論.私見) 「西郷の征韓論」について

 
以上の検証から云える事は、世間に流布されている「西郷の征韓論」話が史実と違うことである。「明治六年の政変」は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であったとみなされているが、史実に反することになる。西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していない。当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしている。

 内政を優先させるのが先決であると主張したとされている大久保がその後に為した事は、明治7年の台湾武力征伐であり、翌8年には朝鮮との江華島交戦である。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせてもいる。

 つまり、通説に従うと整合しなくなる。つまり、「外征派の西郷対内治派の大久保」という構図はまやかしであることになる。西郷を征韓論の首魁と決め付ける歴史観は早急に訂正される必要があろう。

 2005.7.21日 れんだいこ拝


西郷、桐野とともに鹿児島へ帰郷する
 11.10日、西郷、桐野とともに鹿児島へ。西郷の辞職・帰国は国内に衝撃を走らせ、西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋(きりのとしあき・前名中村半次郎)や篠原国幹(しのはらくにもと)ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官らは、続々と西郷に続いて鹿児島に帰郷する。鹿児島に帰郷した西郷は、一切の俗事を離れ、畑を耕したり、川に魚を釣りに行ったり、狩猟に出たりと、まさに農夫のような生活を始める。

太陽暦の採用
 12.3日、太政官布告により、この年の12月2日で天保暦を打ち切り、この日を1873(明治6).1.1日とする太陽暦が施行された。明治5年の12月は僅か3日にとどまり明治6年になったことになる。この時導入したのはグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦であった。日本がグレゴリオ暦に移行するのは27年後の1900(明治33)年である。(「暦法」で別途考察する)

1873(明治6)年の動き

【太政官布告で梓、市子等の禁止を発令】
 明治政府は、前年の「三条の教憲」を引き継ぎ、「梓、市子等の禁止」を発令した。古事記、日本書紀的神道教育を押し進める立場から、それに基づかない諸宗、俗信を規制した。

【キリスト教解禁】
 「岩倉洋行団」の安政不平等条約の改正交渉は一蹴され、逆に、キリシタン解禁を強硬に要求された。新政府はこれを容れて、キリスト教を解禁した。

 これにより諸藩に預けられていた長崎の大浦の天主教徒は4月から8月にかけて帰村した。村を出たときは3380名であったが、死んだ者562名、落伍者1022名、逃げた者、監禁の地にとどまった藻の置く、帰村者は1930名であった。

【地租改正令が布告される】
 7月、陸奥宗光の提唱から始まる地租改正令が太政官布告された。その骨子は、1・土地調査に基づき地券を交付。2・新地租として土地の価格に応じた金納とする。3・税率は算定地価の3分(%)とする。なお、地租の3分の1以内を村入費として付加する。4・村単位の納入を止め、個人毎の支払いとする。5・地価の改訂は5年ごとに行う、というところにあった。

 政府はこの改革により税収の安定的調達を図ったが、取りも直さず「歴史上画期的な近代的税収化であり土地制度改革」となった。


 既に明治初年の地租改正により農民の土地所有権が認められていた。 その証として地租改正の際に地券と呼ばれる所有者・所在・地目・段別・地価・地祖が書かれた土地権利証が発行された。 先ず明治5年より壬生地券が発行されたが、地租の負担はけっして軽くなく、 このため、各地で地租改正反対運動が起こった。 このたび、地租改正の進行に応じて改正地券が発行され順次切替えられていった。

 この地価を定めるために土地所有権、土地の境界や面積の確認が急がれることになった。私有地と公有地の別も為されることになった。この改革は6年末から明治13年までかかってようやく完了する。

 問題は、これまで曖昧にされてきた土地の国有化にあった。これにより農民の隠し田が摘発されたり入会権的既得権益が失われることになった。もう一つ、土地の売買自由、土地利用の自由という資本主義的近代化に道を開いたことにあった。それは進歩的な意義も持っていたが、同時に貧窮自作農民層の土地放しを促進させていくことになった。地主階級はこれにより土地取得を活発化させていくことになった。

 租税はそれまで米の物納で為されてきていたが、これを金納にするため、まず1筆毎に地価をきめ、所有者は地価の100分の3(3%)を税として金納させることとし、実施にとりかかった。これを地租改正という。

 地租改正は、村ごとに「地引帳」を作る仕事からはじまった。従来、土地は誰が所有者かはっきりしない部分が多く、年貢は村の連帯責任で納めていたのを、新しく個人責任とするために、まず耕地や宅地については百姓に所有権を認め、不明確な所は百姓内部の協議で決めさせ、土地の所有を明らかにする「地券」が所有者に対し交付されることになった。


 従来租税負担は各藩まちまちで(例えば尾張は軽く、三河は重い)同じ藩内でも不公平があった程だが、政府としてはこれまでの収入を減らしてはならない。まさに地租改正は有史以来の大事業だったが、長い年月かけて実施に移すような余裕もない。そこで政府は、明治9年末完了を目標に、地祖改正事務局をおき、権力を以て強引に推進をはかった。

 政府は最初実際の売買地価を基礎に地価算定を行おうとし、次いで検査例第2則の適用も試みられたが、いずれも地域差が大きいことなどの理由で退けられた。→結局、第1則による土地収益の資本還元の方式によることになった。しかし、これには控除される必要経費に賃銀・農具代などが含まれず、資本還元する際の利子率が当時の実情と隔絶した6%とされ、算定地価を大幅に引き上げている点があった。→農民側から激しい批判→結局、単位面積当たりの収穫領の評価において考慮された。


 地位等級制度を採用…現実の調査を下に、1筆→村→郡(区)→府県という順で府県の平均反収を算出する代わりに、まず府県の平均反収が決定され、府県→郡(区)→村→1筆へと割り当てられる方式…押し付け反米。

 新地租は収益税という外見的な装いにもかかわらず、現実の地価算定は農民側の実態に基づいて行われず、専制政府による押付そのもの→近代的租税の基本前提たる私有財産権の確立と保障(国家と市民社会の分離)が認められず、各農民の収益の実情と乖離した著しい不公平を生んだ。

租税負担者たる農民が議会における税制審議権を一切持たない状態下では、農民に認められた土地所有権も限定的なものでしかなく、商品化される土地の上には土地所有者の手に届かないところに課せられた高率地租が定着した。

 山林原野のうち、個人の持山や屋敷に付属した山林は、耕地や宅地と同様、地券が交付された。尾張徇行記によれば「藤塚御林御鳥林」のように、「御」のついた山が、周辺の村々にもたくさんある。尾張藩が上水野村に、お林方(おはやしかた)奉行所を置いて、営林・盗伐の取締り等をしてきた山はすべて、異議なく官林(後に国有林・御料林)になった。

 さて、地価の査定は形式的には村や郡で地価銓評議員を選出して、各村の順位をきめ収穫を査定し、金納化していった。が、土地の評価方法をめぐって担当した係官と農民代表議員との間で激しく対立した。新租が旧租の5割以上高くなる村が続出し、そのため承諾書提出を拒否して改正反対運動が巻き起こることになった。

地租改正の本質

地租の性質を近代的租税と見る見解と半封建的貢租ないし封建地代の一種としての貨幣地代として見る見解が対立している。小作料の性格についても、近代的借地料と見る見解と半封建的地代と見る見解とが対立している。

地租改正を契機に寄生地主が全国的に成立することになった。寄生地主的土地所有を広汎に創出し、日本型原始的蓄積を推進した。地租改正により地主層が広汎に形成され、その地主層と資本関係が結合することにより、政府による殖産興業政策の基盤をつくっていくことになった。貿易を通じて打撃を蒙りつつあった農民の小ブルジョア的発展に対して、高率地租の重圧を改めて課すことを通じて、下からの資本主義化コースの可能性を奪い去り、権力と地主が収奪した農民的余剰を小作農民経営から析出される賃労働者と結合せしめる形での資本関係創出の前提条件を作り出した。

 地租改正後の土地所有は土地緊縛規定撤廃を前提とする土地商品化という土地所有の必要条件を満たしているとはいえ、土地用益権(耕作権)が制限されており、なお近代的土地所有たるに十分な条件を備えていない。小作料の本質を半封建的地代とみなせば、日本の寄生地主的土地所有の歴史的本質は、西ヨーロッパ諸国が絶対王政期にその階級的基礎とした寄生地主的土地所有と同様半封建的土地所有であったということになる。


【地租改正反対運動】
 この金納制は、「旧来の歳入を減ぜざること」を主眼としており、加えて前年の米価を基準にした割当制にしていたため、米価が下がることにより農民の負担が増すことになった。そういう事情が重なり、地租改正の反対運動が全国的に巻き起こることになる。  

 これによって土地の所有権は明らかになったものの、却って重税化することになり、百姓衆の不満も強まった。地租改正反対闘争…村役人・地主・豪農の指導の下での村単位の惣百姓一揆型が基本例、愛知県春日井郡43カ村の増租押付反対闘争、1876年の茨城県の真壁闘争や三重県から愛知・岐阜・堺各県に至る伊勢暴動これを士族の反乱との合流を恐れて、政府は771月に地租率を2.5%に引き下げた。こうして、反対運動は単なる高額地租への反対から、一方的な押付自体への反対(国会開設要求)へと質的な高まりを見せつつ自由民権運動へと合流していく。地租改正反対のため明治9年の小瀬一揆や真壁一揆が起きた。地租改正の反対運動は、やがて国会開設を求めた自由民権運動へと発展していく。


 地租改正反対運動の中心人物として林金兵衛が知られている。林は国に何度も働き掛け嘆願したがが聞き入れられなかった。裁判による打開の道を求めたが、旧尾張藩主徳川慶勝らの説得を受けて収拾することになる。

 明治9年の茨城県那珂郡の場合、本橋次郎左衛門は「憤発して党を結び類を集め、時を窺い各村を煽動し、途中障りある者あらば飽くまで抵抗し」(「日本民衆の歴史5」)、白布に「万民教」と大書し「今般万民救のため県庁へ逼進するにつき、道筋かがり火を焚き置くべし」との檄を飛ばしつつ総勢800余名で一揆を起している。結局鎮圧され、死刑3名、1千名を越える処罰者を出している(「真壁・那珂暴動」)。このような一揆は、三重の松阪(「伊勢暴動」)、愛知県春日井郡、阿蘇でも発生している。木戸孝允は「実に竹槍連ほど恐ろしきものは御座なく候」と記している。

 結局、3分税率を2.5分に引き下げることに成功した。「竹槍で、どんと突き出す二分五厘」。

 1889(明治22)年、憲法発布と同時に地券は廃止され、地租の徴収を土地台帳によって行う制度へ移行した。この土地台帳は,現在も全国の法務局で保管管理 されており,取り寄せ・閲覧が可能。
 地租改正の反対運動は、全国的な政治闘争を目覚めさせ、やがて国会開設を求めた自由民権運動へと発展していく。 そして明治22年に明治憲法が発布され、国会も開設され、日本の「近代化」の方向が確定する。

1874(明治7)年の動き

【岩倉具視暗殺未遂事件発生】

 西郷派が一斉に帰郷した後、次第に不穏な空気が醸成されていった。

 1.14日、右大臣・岩倉具視が、赤坂の喰違坂(くいちがいざか)辺りで襲撃され、士族に襲われ、負傷する事件が起こる。事件重視した司法省は、旧土佐藩士にして元陸軍大尉、板垣退助の腹心の武市熊吉ら8名を逮捕し、全員死刑による斬罪処分された。


【台湾出兵】

 これより先の1871年、台湾に漂流した琉球宮古島の漁民66名のうち54名が台湾原住民に殺害されるという事件が発生していた。1873年には備中国小田県(現在の岡山県)民4名が同様の被害をうけた。日本政府は台湾を領有する清国政府に善処をもとめたが、清国側は原住民が「(中華文明に浴さない)化外の民、化外の地」であるとして応じなかった。

 2月、日本政府は、台湾への派兵を決め、4月、陸軍中将・西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命した。5.22、西郷以下3千名の日本軍が台湾に上陸し、6.3日までに原住民地区をほぼ制圧した。しかし、風土病に悩まされ、戦死者12名に対して病死者561名に及んだ。

 全権弁理大臣・大久保利通が北京にわたって交渉し、清国政府に琉球が日本であることを認めさせ、遭難漁民への見舞金など50万両(テール)を得て撤兵した。この結果、それまで日清間の紛議となっていた琉球の日本帰属が国際的に確定した。


佐賀の乱
 維新政府を初期の頃サポートしていたのは、薩摩・長州 ・土佐・佐賀の4藩の士族たちであったが、新政府の中で薩摩出身の大久保利通の力が強くなると、佐賀出身の士族たちの中には政府の方針に反発する者が多くなっていった。 佐賀が不穏な空気に包まれていることを憂慮した佐賀出身の参議・江藤新平は大久保利通と韓国出兵を巡って対立したのを期に参議を辞して、佐賀の士族たちをおとなしくさせるため帰郷する。

 その江藤が長崎に行っている間に2.1日、過激派の一部が政商の小野組の支店を襲撃、乱が勃発する。この時、佐賀の乱のもう一人の指導者ということにされている島義勇も東京にいた。江藤も島も急遽佐賀に入るが、結果的には抑えるどころか首領に祭り上げられてしまう。そして他の藩の士族達が呼応して蜂起してくれることを期待するが、誰も動かなかった。

 1874(明治7).2.4日、江藤新平らが佐賀の乱を起こす。反乱軍は、佐賀県庁を襲撃し、佐賀城を占領した。反乱軍と政府軍との間に激しい攻防戦が繰り広げられたが、結局、反乱軍は近代兵器を装備した熊本鎮台の政府軍に簡単に平定されてしまう。江藤は鹿児島に落ち延び、鰻温泉で西郷と会い決起を促す。しかし西郷は動かなかった。江藤は厳重な警戒線を潜り抜け土佐に向かい、林有造と会い決起を催促する。しかし林も頷かなかった。江藤、島義勇は県境の甲浦漁港で細くされ、斬首された。そのほか反乱軍の幹部11名が斬罪になった。

 佐賀の乱を鎮圧した内務卿大久保(1830〜1878)の政府内での専制はますますひどくなり、木戸も批判する。

【政治結社の創設相継ぐ】
 この頃、土佐の立志社、阿波の自助会、松江の尚志会、熊本の相愛社、名古屋の羈立社、伊予の公共社、久留米の共勉社、福岡の共愛会、三河の交親社、常陸の潮来社等々全国各地に地方的な政治団体が結成されていった。

 パリ・コミューン直後、小室信夫と古沢滋(うるふ)がイギリスから帰朝し、下野していた板垣、後藤を口説き、土佐立志社を中心に日本で最初の政治結社とされる愛国公党が創設されている。板垣は、地方的な政治団体を連合させる全国的政党の結成を目指していくことになる。

 当時の日本の政治結社には、立志社・愛国社・国会期成同盟会など「社」や「会」が多い。加藤哲郎(一橋大学・政治学)教授は、「『共産党宣言』の現代的意味――資本主義分析と政治綱領のはざまで」の中で次のように述べている。

 最近みつかった故丸山真男の講演記録のなかに、こんな一節がある。「『愛国』というのは明治の維新以後、発明された言葉です。西村茂樹という明治の初期の思想家が居ます。『日本道徳論』なんかを書いて、どっちかというと保守的な思想家でありますが、この人がハッキリ『愛国とはパトリオティスムの訳なり』と言ってるんですね。つまり、愛国という言葉は――パトリオティスムもそうですけども――、これはフランス革命以後できた考え方。……したがって、自由民権運動のごく初期の政党は『愛国公党』と言ったんです。なぜ『公』と言うかというと『党』というのは悪い意味だったんですよ。『ともがら』と言って、余り良い意味がなかった。そこで『党を結んで悪いことをする』と派閥の意味で使われた。そこで『そうじゃないんだ、公の党なんだ』というんで『公党』と言った。その上に『愛国』とくっつけた」(丸山真男講演記録「日本の思想と文化の諸問題」(上)、1981年秋田県本荘市、『丸山真男手帖』2、1997・7、pp.11-12)。


【「民選議院設立建白書」が政府に提出される】
 征韓論で下野した板垣退助・後藤象二郎らの愛国公党に江藤新平・ L副島種臣(そえじまたねおみ)らを加えて、「民選議院設立建白書」を世に提起しつつ政府に提出して活動を始めた。「民選議員構想」というのは、憲法を制定し、議会を開き、国民に政治参加の場を与えるといったものであった。次のように記されている。
 「臣ら伏して方今政権の帰するところを察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而して独り有司に帰す。それ有司、上帝室を尊ぶと云わざるにあらず。而して帝室漸くその尊栄を失う。下人民を保つと云わざるにあらず。而して政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎にでづ云々」。
 「すなわち、これを振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るにあり。天下の公議を張る葉、民撰議院を建てつるにあるのみ」。

(私論.私見)

 痛烈な「有司専制」批判による我が国最初の「民選議院設立建白」であった。もっとも、この時の民選議院は選挙洗礼を受けた議員による国会開設の要望であったが、今日的な普通選挙を求めていた訳ではない。選ばれる議員は「維新に手柄のあった士族豪商に限り、天皇政治をたすける者」という「士族民権論」であった。これを評するに、「征韓論に敗れていっしょに参議を辞めた西郷もまた、士族独裁論者であったことと同様だったのである」とする論があるが、時代的制約という枠内での政治的意義を見て取ることが正解であろう。

 
 この構想自体は政府内でも必要が自覚されていた。先の海外視察を通じて、憲法と議会は文明国としての必要条件として捉えていたからである。しかし、政府内には問題が山積みだった。版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、そして征韓論などなど。これらの対応に追われ、国会開設の構想を具体化する余裕が無かった。 大久保は、将来はともかく、今は、官制改革(まぁ、官僚による政治改革ですな)によっての内政整備が急務と考えた。板垣は、将来の日本の姿であるべき「立憲国家」のイメージを先手をうって天下に示した。問題解決の促進と、政治的主導権の奪回をめざす戦略でもあった。

 政府は、この板垣の「自由民権運動」に対し、民間による政治議論の弾圧姿勢を打ち出す。が、このような弾圧は、よりいっそう板垣の自由民権運動を促進することとなった。1874年、板垣は土佐に戻って、言論による反政府活動の拠点としての「土佐立志社」を創設する。

 1873年、米国から帰国した森有礼が中心となって設立した明六社は、機関誌の明六雑誌を発行して、民撰議院設立建白運動を積極的に支持した。

【各地で民権派の演説会が開かれる】

 自由民権運動は単なる政治運動としてばかりでなく、、農民の地租反対や借金返済延期を要請する各地の借金党・困民党などと一部は結び着き、広範な支持を得た。また、都市部の民権派ジャーナリストなども各地の演説会に招かれ、民権の啓蒙につとめている。その結果、各地に勉強会や懇談会が結成され、ついで民間による憲法想起が試みられ、全国で三十数件確認されるという。「広ク会議ヲオコシ、万機公論ニ決スベシ」という「五箇条ノ御誓文」を地でいったことになる。それは国会開設ばかりでなく、民衆による憲法構想、つまりは国家構想であった。


1875(明治8)年の動き

【「民選議院設立建白書」を廻る綱引き始まる】
 1月、井上馨の周旋で、政府首脳(大久保、井上馨、伊藤ら)と各結社の代表委員が大阪に集まり議論した(「大阪会議」)。西郷は招かれたが欠席した。席上、政府側は時期尚早論を唱え、板垣は、直ちに国会を開くよう主張した。木戸は、基本的に賛成するが、順序として地方官会議を開き、漸次国会を開くべしという漸進論を説いた。木戸案が一種の妥協案として採用されていく。板垣は、この会議で参議に戻る(10月に辞職する)。

 4月、「立憲政体の詔」が出される。「朕今誓文の意を拡充し、ここにら元老院を設け、以て立法の源を広め、大審院置き、以て審判の政体を立て、汝衆庶と共にその慶に頼らんと欲す云々」。

 6月、地方官会議開かれる。

【日朝間に江華島事件が発生する】
 9.20日、韓国京畿道、漢江の河口にある小島付近で示威演習を行なった日本軍艦「雲揚」が砲撃された。日朝鮮近海で日本艦が攻撃されるという江華島事件が発生した。政府内では島津久光がこの機をとらえ、板垣退助とともに政権中枢への割り込みを図るが、結局辞職へと追い込まれる。

 翌1876(明治9).2.26日、朝修好条規(江華条約)を締結。その手法は、アメリカのペリー提督が日本に開国を迫ったやり方そのものを踏襲していた。西郷らを一掃した明治新政府は、朝鮮政府に対し、高圧的な交渉を展開した。これにより明治新政府は朝鮮半島支配の足掛りをつくった。

れんだいこのカンテラ時評181 れんだいこ 2006/06/20
 【この頃の「世相いろは歌」】

 山本七平氏の「派閥」を読んでいたら、次のような「世相いろは歌」に出くわした。面白いのでここに転載しておく。東京日々新聞に掲載されたとのことである。時代はいつの頃のことであろうか。
 この頃、次のような「世相いろは歌」が東京日々新聞に掲載されている(山本七平「派閥」136P)。
 今も昔も神国なるに
 ロシアアメリカヨーロッパ
 馬鹿な夷風に目はくらみ
 日本の乱れは顧みず
 歩(法、帆?)を異国に立かえて
 下手の将戯(将棋)手前見ず
 取られそうだと金銀を
 智恵あり顔に無分別
 利欲我が儘し放題
 盗みは官員、咎(とが)は民
 流浪の士族夥(おびただ)し
 多くの租税罰金を
 私勝ちの政事故(ゆえ)
 替わる布告は朝夕に
 世の行く末はいかならん
 高き卑しき分かちなく
 礼も作法も無くなりて
 そんな我国益は彼れ
 つまり夷国の計略に
 佞奸(ねいかん)者は打ち合うて
 何はともあれ角もあれ
 らい名潰したその時に
 昔に復るというたのも
 ウソと今こそ知られけり
 命を捨て国のため
 逃さず討てよ佞奸を
 大久保三条契り合い
 暮らすこの世は面白や
 止められようかや花の夢
 迷う心の末いかに
 唐人らに国を売り
 武具も刀も捨てよとは
 古今聞かざる布告なり
 蝦夷地も最早追い取られ
 天下の治乱は只今よ
 明日はかからん暗殺に
 さらば逢わんと思えども
 清き心は神人は勤王家
 憂士はあまた隠れ居て
 命を奉ずる者も無く
 みすみす二人が居るゆえに
 職の人は勤王家
 英名敢えて好まねど
 非道を責めるは天の道
 最早この上忍ばれず
 せめて尽くすは武士(もののふ)の
 すまんの民を救わんと
 京(今日)を限りの死に出の旅

 明治維新過程の明治7年頃の士族の反乱、その最後の大舞台となった西南の役に向う過程での、討幕派幕末志士の「裏切られた革命」に対する悲憤慷慨の歌である。れんだいこが思うに、士族の反乱の不平を武士の地位失職に対するものとして受け取るのは一知半解なのではなかろうか。

 実際には、命を賭した幕末維新革命が捻じ曲げられ、ネオ・シオニズムに取り込まれた薩長藩閥専制と化したことに対する抗議として、続々と士族の反乱が起ったのではなかろうか。それはいわば第二の維新であったがいずれも破れた。「不平士族の反乱」はかく受け取るべきではなかろうか。歴史家はそう伝えるべきであるのに、真相を意図的に隠蔽しているのではなかろうか。

 それにしても、このいろは歌が今にも通じているように聞こえるところが面白い。「官の腐敗、政治の私物化、夷国の計略、佞奸(ねいかん)者、唐人らに国を売り」云々とある。これに立腹し、「非道を責めるは天の道、最早この上忍ばれず、せめて尽くすは武士(もののふ)の、すまんの民を救わんと、京を限りの死に出の旅」と決意表明している。
その志操や深いと味わうべきではなかろうか。

 明治維新の史的過程考(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_2_history.htm)

 2006.6.20日 れんだいこ拝

1876(明治9)年の動き

廃刀令、徴兵令
 新政府は、華士族に残されていた特権の廃止にも遠慮なく着手していった。

 3月、政府は廃刀令を出して士族の帯刀を禁じた。1870(明治3)年、一般人の帯刀を禁じ、翌年には士族も帯刀しなくてよいことにしたが、このたびは太政官布告で、以後、大礼服着用者や軍人・警察官など以外の刀を禁止し、違反者はその刀を取り上げるとした。これにより、武士の身分が廃止され、軍人・警察・官吏がそれまでの武士に変わる存在として位置づけることになった。

 この時、満25歳以上の男子への徴兵令が同時に実施された。つまり、廃刀令と徴兵制はワンセットで打ち出されたことになる。明治維新の初期段階では、倒幕運動を進めた薩摩・長州・土佐・佐賀などの藩の武士が「官軍」を形成し、国内の治安の維持に当たっていた。し かし、政府は今後日本が国内の治安を維持し、また外国とも肩を並べていく ためには、こういった武士たちによる軍隊では力不足であると考え、徴兵制 の導入を決定した。 それまで藩に所属していた武士たちの特権を取り上げて(廃刀令・全国民への苗字許可など)、代わりに全ての国民層から均質に抽出した新しい軍隊を作ろうと考えた。

 この徴兵制によって突然兵役を課せられた農民や商工業従事者も若い働き手 を兵隊に取られて困惑するが、それよりも困惑したのは旧武士たちであった。 一応身分の上では「士族」と呼ばれ平民(農工商)より上の階級ということにはなるものの、実際には社会的に何か現実的特権があるわけでもなく、それまで藩からもらっていた給料ももらえなくなり、廃刀令で武士の魂としていた刀も召し上げられてしまうと不要の階層へ一挙に転落させられることになった。

 これは士族の解体政策であり、その処遇が問題となる。政府はどのように対応したか。廃刀令が布告された翌日、大蔵卿大隈重信は、「家禄賞典禄処分の儀に付伺い」を政府に提出し、禄制の最終処分に着手することを求めた。家禄にのみ頼って生きる華士族は、大蔵省により「無用の人」と位置づけられることになった。井上毅は、秩禄処分の実施を20年は見合わせるべきだとしたが、政府の最高首脳で秩禄処分に異論を唱えたのは木戸孝允一人であった。

 7.22日、東北巡幸に随行した大久保利通らが帰京し、7.25日、金禄公債証書発行条例が公布された。政府は、金禄公債証書発行条例に付随し、いくつかの追加措置を施行した。8月、それまで一応旧藩に代わって士族たちに支払っていた俸禄(家禄・賞典禄)を停止し、全面的に現米から金禄に切り替え、全国一斉の処分が可能な条件を作り上げた。大蔵省としては満を持して、禄制廃止の具体案として「華士族家禄処分方之儀に付正院上申案」を提議した。

 代わりに 5〜14年分の俸禄の額面の公債証書(金禄公債証書)を発行して、その利子だけを支給すると いう方策を取った。希望者に発行して士族の禄制を全廃した秩禄処分で、士族一人あたりの平均公債額は500円であった。これは士族への俸禄が政府予算の3割程度を占めて いて財政的に行き詰まったことが原因であった。

 木戸孝允が参議辞職。


【継続革命論士族の反乱】
 6月、西郷は旧薩摩藩の居城・鶴丸城の厩跡(うまやあと)に、私学校を設立した。この私学校は、砲隊学校と銃隊学校及び賞典学校からなっていた。西郷の後を追い帰郷した青年らの教育機関を作ろうということが、私学校の主な創立理由だった。その真意は、前途有為なる青年を育て、新政府の最良の働き手を養成することに有った。私学校において強力な兵隊を養い、いつか来るであろう再維新のために使おうと思っていた節がある。

 しかしこの政策により士族たちの積もり積もった不満が爆発する。伊勢暴動や真壁騒動などの不平士族の反乱が起こり、やがて爆発する。1874〜1877年にかけて発生するが、1876(明治9)年がピークに達した。

 1876(明治9).10.24日、熊本において熊本県士族の太田黒伴雄(おおたぐろともお)を中心とする200名ほどの不平士族が「神風連」を組織し「神風連の乱」神を起こす。県庁などを襲撃、知事と鎮台司令長官に重傷(後、死亡)を負わせた。 この反乱は直ちに鎮台軍により鎮圧された。

 三日後の10.27日、福岡県で秋月の乱。
旧秋月藩士宮崎車之助ら400名が神風連に続けといって蜂起した。しかし鎮台が出動するとかなわないとみて大分方面に逃走、現地の士族たちに呼応を呼びかけますが応じる者なく、結局小倉鎮台に鎮圧された。

 10.28日、山口県の萩で、前参議の前原一誠(まえばらいっせい)をリーダーとする旧士族500名が「萩の乱」を起した。県庁を襲って山陰道から中央に出ようとし政府軍と交戦、11.4日まで抵抗するが結局一週間で鎮圧された。前原は逃走したが松江で捕われ萩で処刑され、萩の乱は幕を閉じた。政府の要人の一人であった前原一誠は、「士族をもっと政権範囲に入れ、それと共に優れている国民を引き上げ政府を固めよう」と唱えていた。

 前原は、吉田松陰の松下村塾出身。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並び称された逸材。幕末から戊辰戦争の過程で、維新後、参議と成り、兵部大輔となっている。

【江華島事件、日朝修好条約の締結】
 1875年、江華島事件。日本の軍艦が突如朝鮮を砲撃、砲台を一時占拠するという事件がおきた。翌1876年、日朝修好条約が締結される。日朝両国の明治維新以来の懸念を解決するための(上記の江華島事件などを含めた)条約で、「朝鮮王国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有する」ことが確認されている。ところが、これに対して、清帝国が「朝鮮王国は大清国の属邦である」と主張し、この条約を破棄するように要求してくる。

 ここに、朝鮮半島を巡る情勢として、朝鮮の独立を認める日本と、宗主権を主張する清国とが、朝鮮国内における自派勢力と呼応して抗争し、さらには、この間にあって朝鮮半島に沿岸に不凍港を求めて新たな侵略を狙う帝政ロシアと、これを警戒する大英帝国とが入り交ざり、複雑多岐な様相を、極東では展開していくことになる。清国は、日本と帝政ロシアの勢力が朝鮮に及ぶのを警戒し、直隷総督の「李鴻章」を朝鮮に派遣する。

 このように、反政府運動が頻発して起こる中、鹿児島にいた西郷はその動きに呼応することもなく、微動だにしなかった。が、政府の大久保利通らは、明治維新最大の戦力となった旧薩摩藩士族の動きを最も気にした。そのため、大久保内務卿は、大警視・川路利良(かわじとしよし)、警視庁警部・中原尚雄、園田長照、川上親ら22名を墓参名目で鹿児島入りさせた。密偵の目的は私学校生徒らと西郷の離間を図れということであったが、今日でもこの密偵団には西郷暗殺の密名が厳命されていたと言われている。現に西郷が、この後挙兵の理由として、この密偵について政府に尋問があるということを掲げていることからしても、当時そう信じられていたことは間違いない。

1877(明治10)年の動き

 正月、鹿児島第一分署の一等巡査・有馬静蔵の元へ「差出人・評論新聞の田中直哉、宛名・中原尚雄警部」の怪文書が届けられた。手紙の内容は、火薬庫に火を放って騒乱を生み出し、その大騒ぎに乗じて西郷、桐野、篠原以下40余名を刺殺するというものであった。私学校党は、逆スパイを送り込み内偵を開始した。


 1.4日、地租改正詔書が発布され、税率を3%から2.5%に減免する。


 1.11日、教部省と東京警視庁を廃止する。  


 1.24日、天皇、関西巡幸に出発。   


 1.30日、政府、朝鮮と釜山港居留地借入約書の調印をする。


【西南の役勃発】
 私学校党は、大久保内務卿が送り込んだ警視庁の密偵22名を逮捕し、鹿児島県警が厳しい取調べに入った。中原尚雄の供述書仮案が入手され、吟味が始まろうとしていた。
 
 この時、鹿児島県庁に連絡の無いまま政府が派遣した三菱の汽船「赤龍丸」が錦江湾に入り、鹿児島にあった陸軍の火薬庫から、武器・弾薬を大阪に移送し始めた。これが西南戦争勃発のきっかけとなる。私学校生徒は、大久保ら政府の卑怯なやり方に憤激し、「政府は先手を打ってきた。西郷先生の暗殺団を送りこみ、なおかつ、武器を隠れて他に輸送しようとするとは、けしからん」と批判を強めた。

 1.31日夜、激昂した一部の過激な私学校生徒が、鹿児島市草牟田(そうむた)の陸軍火薬庫を襲撃する。その騒動が飛び火して、過激な私学校生徒らは、磯集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い、鹿児島市内は火を放ったような大騒動となる。騒ぎは三日間にわたって続いた。

 西郷はその頃、大隈半島の小根占(こねじめ)へ狩猟に出掛けていた。西郷は私学校生徒が政府の挑発に乗り、陸軍の火薬庫を襲ったとの報に接した時、一言、「もう、これまでごわしたな」(かくなる上は止むを得ず)と漏らしたと伝えられている。この西郷の言葉には、挙兵には時期尚早という考えを持っていたことが分かる。しかし、西郷としては、まだ前途ある若者らを捕まえ、政府に差し出すという非情なことは出来なかった。これもまた天命である。西郷はそう考え、自分の身をお前達に預けようと周囲の者に言い、薩摩の若者達に全てを委ねた。そしてここに、西郷軍が挙兵することになる。

 「西南の役年表」につき「西南戦争」が詳しくこれを参照する。

 1877(明治10).2.17日、「今般政府に尋問の筋これあり」、西郷隆盛はこのような挙兵の理由を掲げ、兵を出発させた。これを詳細に見るのに、2.14日、西郷軍前衛隊が鹿児島を出発。2.15日、西郷隆盛らの本隊(1・2番隊)鹿児島を出発。2.16日、西郷軍3・4番隊が出発。2.18日、 西郷軍5番隊と砲兵隊が出発、となる。西郷軍は約1万3千。

 木戸はそのさなかに病死。大久保は、囲碁を打っている最中に西郷の決起の報告を聞いたが、顔色一つ変えずに打ち続け、終わってから「西郷が起った」と静かに言ったという。「困ったことになりました」と、困惑した胸中を知人に向かって漏らしたともいう。

 西南戦争において、西郷軍は最も拙劣な熊本城包囲策を取る。2.18日、西郷軍は、熊本鎮台、熊本市民に立ち退き令を発する。2.19日、政府は、有栖川宮熾仁親王を征討総督として九州へ派兵。2.19日、熊本鎮台のある熊本城で火災があり、天守閣などが炎上、城下も延焼。2.19日、日向飫肥士族小倉処平ら西郷軍に加わるために出発。2.20日、政府軍第1・第2旅団が神戸港を博多へ向け出港。2.21日、熊本県士族池辺吉十郎ら西郷軍に呼応して挙兵。2.22日、西郷軍が熊本城を包囲。夜半小倉第14連隊と西郷軍の一部が衝突。政府軍第1・2旅団博多に到着。2.23日、東京・大坂・名古屋3鎮台に令して第2後備軍を召集。西郷軍は一部が北上、小倉第14連隊は敗北して後退する。2.23日、愛媛県士族武田豊城ら、徒党陰謀の理由で逮捕される。

 2.25日、政府軍第1・8・14連隊が高瀬に進出。政府軍第3旅団博多に到着。2.26日、政府軍、福岡に本営を置く。2.27日、高瀬での戦闘で西郷軍高瀬から後退する。2.28日、阿蘇地方で大規模な一揆が発生する。2月、政府が、三菱汽船に軍事輸送船8隻購入の資金を貸与。3.1日、政府軍別働第1旅団が博多に到着。

 3.3日、政府軍が田原坂方面の西郷軍へ攻撃を開始。3.8日、勅使・柳原前光、艦船9隻で鹿児島に到着し、島津忠義・島津珍彦と会見し自重を求める。3.10日、柳原前光と島津久光が会合する。一方鹿児島県令大山綱良は逮捕される。3.11日、政府軍第2旅団、田原坂総攻撃を行うも、失敗に終わる。3.13、政府軍に警視庁抜刀隊が編成され前線に投入される。3.17日、大山綱良の官位を剥奪し、東京への護送を決定。3.19日、政府別働軍、八代に上陸。3.20日、政府軍、田原坂を制圧。西郷軍は熊本まで後退。

 3.21日、岩村通俊を鹿児島県令に任命。3.28日、福岡県士族越智彦四郎ら福岡城を襲撃するも城兵に敗北。3.31日、増田宗太郎ら大分県で挙兵し、中津支庁などを襲撃。3月、福地桜痴、西南戦争に従軍。4.1日、増田ら蜂起軍、大分県庁を襲撃するも失敗に終わる。4.1日、政府別働軍、宇土へ進出。 4.4日、政府、壮兵1万人を募集。4.4日、八代で政府軍と西郷軍が衝突。4.7、政府軍新設別働第4旅団が宇土に上陸。4.10日、政府別働軍、総攻撃を12日と定める。

 4.13日、西郷軍、熊本から退却を始める。別働第2旅団山川部隊が熊本城下に到達する。4.14日、黒田清隆の率いる政府軍第1・第2旅団が、熊本城に入る。4.15日、西郷軍の全軍が退却を始める。4.23日、太政大臣三条実美、島津久光の休戦案を却下する旨、島津珍彦らに伝え帰郷させる。4.27日、 川村純義らの率いる政府軍が海路鹿児島に入る。4.28日、西郷隆盛ら西郷軍幹部が人吉に到着。

 4月、西郷軍、戦費調達のため、西郷札を発行。5.1日、佐野常民と大給恒、博愛社を設立し、西南戦争の負傷者を敵味方の区別なく治療。5.20日、豊後竹田で西郷軍と政府軍とが交戦。 5.21日、桐野利秋、宮崎支庁長に支援を要請。5.22日、政府、第十五銀行に西南戦争戦費を借り入れる。5.26日、木戸孝允死去。5.29日 西郷軍、豊後竹田から敗走。5.29日、政府、第2号召募を行い、召募巡査を以て新選旅団を編成。

 5.29日、西郷隆盛、人吉を去り日向へ向かう。5.31日、西郷隆盛、宮崎に入る。6.1日、山口県士族町田梅之進、挙兵計画が発覚して県官巡査と戦い破れる。6.1日、政府軍、人吉への攻撃を開始、人吉城下は戦火で多く焼失する。6.4日、政府、本年の補充兵、免役壮丁を徴募することを令する。同日、政府軍、人吉を占領。

 6.9日、立志社の片岡健吉ら、京都の天皇行在所に国会開設建白書を提出。6.12日、政府、立志社の建白書を却下する。6.22日、国産最初の軍艦清輝が竣工する。7.24日、政府軍、都城を占領。7.28日、政府軍、清武を占領。7.29日 西郷隆盛、宮崎を去り北上する。8.2日、西郷隆盛ら、都農を去り延岡へ向かう。8.8日 林有造、武器購入を計画して逮捕される。8.11日、西郷隆盛、延岡を密かに離れる。8.13日、政府軍、延岡を包囲。8.14日、政府軍延岡を総攻撃。8.15日 和田越の戦闘が行われる。8.16日、西郷軍に解散令が出され、半数が降伏する。8.17日、西郷隆盛以下幹部らが可愛岳越えをして政府軍の囲みから脱出する。8.21日、西郷軍が三田井に至り、そこから鹿児島へ向けて南下を始める。8.23日、別働第1旅団を延岡から熊本へ向けて出発させる。8.27日、第2旅団を延岡から細島を経て海路軍艦6隻で鹿児島へ向けて出発させる。8.28日、西郷軍、小林に至る。8.28日、第2旅団鹿児島に到着。新撰旅団と合流して鹿児島市内の防衛にはいる。8.29日、西郷軍、横川に至る。8.30日、溝辺で政府軍と西郷軍が交戦する。8.31日、西郷軍、蒲生に入る。

 9.1日、西郷軍兵約370名が急襲して鹿児島城山に入る。9.4日、西郷軍の一部が政府軍の駐屯する市内の米倉を襲撃する。9.5日、山県有朋、宮崎に入る。9.6日、山県有朋、都城に入る。9.8日、山県有朋、鹿児島に入る。9.22日、河野主一郎と山野田一輔、西郷隆盛の助命を求めるため、政府軍の陣地へ赴き収監される。9.23日、河野・山野田と川村純義、山県有朋が面会する。9.24日 政府軍の総攻撃が始まり、西郷隆盛は自刃し、城山も陥落して西南戦争は終結する。9.30日、前鹿児島県令大山綱良処刑される。  
  
 この西南戦争において西郷は、作戦を立てたり、陣頭で指揮を取るようなことは一切なかった。西郷としては、熊本城の政府軍が西郷軍に抗戦の気配を見せた段階で、今度の挙兵は失敗したな、自分には天命がなかったようだと考えたのではないかと思われる。

 西郷軍は結局、熊本城を陥落させることが出来ず、その後、田原坂(たばるざか)での大激戦や、大分、宮崎など各地で政府軍と対決するが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と火力を誇る政府軍に、西郷軍はどんどん追い詰められていく。西郷は日向・宮崎の長井村において、軍を解散させ、西郷ら薩摩軍幹部らは一路鹿児島に引き返す。自分らが生まれ育った鹿児島で最後の決戦を行い、死のうと考えた。鹿児島に戻った西郷軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して、土塁を積み上げ、陣地を作り上げた。しかし、すぐに政府軍も、その城山を完全に包囲し、城山の本営目がけて徹底的に集中砲火を浴びせた。

 1877(明治10).9.24日、西郷隆盛を筆頭とした西郷軍幹部らは、本営の洞窟前に整列し、「前へ進んで死のう」と決意を固め、前線の土塁に 向けて歩き始めた。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交うなか、西郷らは城山を降りて行った。西郷に付き従った 人々 は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れた。そして、とうとう西郷にも流れ弾が当たり、西郷は肩と右太ももを貫かれて、がっくりと膝を落とした。西郷は自分の傍らにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に、「晋どん、もうここいらでよか・・・」と言う。別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ〜」と大きく叫んで、西郷の首を落とす。西郷隆盛、49歳の生涯の幕切れであった。

【西南の役の顛末】
 西郷軍は結局、熊本城を陥落させることが出来ず、その後、田原坂(たばるざか)での大激戦や、大分、宮崎など各地で政府軍と対決するが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と火力を誇る政府軍に、西郷軍はどんどん追い詰められてく。西郷は日向・宮崎の長井村において、軍を解散させ、西郷ら薩摩軍幹部らは一路鹿児島に引き返す。自分らが生まれ育った鹿児島で最後の決戦を行い、死のうと考えた。鹿児島に戻った西郷軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して、土塁を積み上げ、陣地を作り上げた。しかし、すぐに政府軍も、その城山を完全に包囲し、城山の本営目がけて徹底的に集中砲火を浴びせた。

 そして、運命の1877(明治10).9.24日。西郷隆盛を筆頭とした西郷軍幹部らは、本営の洞窟前に整列し、「前へ進んで死のう」と決意を固め、前線の土塁に 向けて歩き始めた。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交うなか、西郷らは城山を降りて行った。西郷に付き従った 人々 は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れた。そして、とうとう西郷にも流れ弾が当たり、西郷は肩と右太ももを貫かれて、がっくりと膝を落とした。西郷は自分の傍らにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に、「晋どん、もうここいらでよか・・・」と言う。別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ〜」と大きく叫んで、西郷の首を落とす。西郷隆盛、49歳の生涯の幕切れであった。

【板垣の日和見主義的対応】
  西郷の死により「征韓論」も消滅した。西南戦争勃発に、板垣の土佐立志社のメンバーも動揺する。西郷軍に同調して決起しようとする武闘派も出てきた。これに対し、板垣も当初は賛成したが、結局、最後の最後で腰がくだけ、中止を説いた。理由としては、国会開設について全国的な盛り上がりを見せている運動をより重視したことにあった。西南の役後、長州閥の伊藤博文や井上薫らは勢力均衡のため、板垣の政府復帰を打診する。板垣は、土佐立志社のメンバーの反対を無視して参議として復帰する。自由民権運動の盛り上がりは、この板垣の政府復帰でかき消されることとなった。

【西南の役に対する裏読み史観】
 西南戦争の裏読みとして、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。
 「西南戦争に至る諸説はいろいろある。しかしその真相は、単に大久保利通の挑発に乗せられたと言う事だけではない。西郷が願って止まなかった事は、表面上の明治政府に対する不平士族の反乱といった目先の事ではなかった。最大の課題は、自分もろとも、「ユッタ衆」を根こそぎ、道ずれにして、彼等を滅ぼす事であった。かくして西南戦争の火蓋は切られ、そして無残に敗北したのであった」。
 「明治維新は、日本以外の外圧によって、煽動され、蜂起した革命の様相が濃厚である。そして明治維新が完了し、その今迄を振り返ってみて、そこに暗躍した穏微な集団が居た事を感じ取った人物が少なからず居たのである。一人は明治維新に参画した西郷隆盛であり、もう一人は明治維新の流れを側面から見続けた西郷頼母であった。

 明治維新の蓋を開けてみれば、以後の国家政策上、二つの二大勢力が浮上していた。それは西郷隆盛をはじめとする板垣退助、江藤新平、後藤象次郎、副島種臣らの反ユダヤグループと、もう一つは岩倉具視をはじめとする大久保利通、伊藤博文、木戸孝允らの親ユダヤグループであった。そして明治維新完了後、欧米ユダヤの最終段階は、不平士族の集団を西郷隆盛に預けて、これを一気に叩く事であった。これが西南戦争の実態である。

 西南戦争は西郷隆盛の悲願であった「ユッタ衆殲滅作戦」の思惑は、成就されなかった。また薩摩西郷家と遠縁にある、会津西郷家の末裔、西郷頼母の悲願も、西南戦争の敗北で成就できなかった。しかし西郷頼母は、菊池一族の「正義武断」と「大いなる東」を掲げて、欧米ユダヤの血のネットワークに対抗して、『大東流蜘蛛之巣伝』を鮮やかに蘇らせたのである」。
 太田龍氏の「時事寸評」に興味深い観点が記されている。2004(平成16).5.9日付けの「外国スパイ網に浸透されて居た旧日本陸海軍」(樋口恒晴論文)で、次のように寸評している。
 「幕末、薩長首脳と岩倉などは、ロスチャイルド(イルミナティ中枢)に、そっくり丸ごと、日本民族と日本国家、 日本人を売り渡した、のである。これは、単なる(スパイ)の域を超えて居る。こんなことは、世界史上、他に例を見ない驚くべき祖国に対する裏切りである。しかもその裏切りの事実と真相は、そのあとの百三十余年、完璧に、日本人 日本民族に対して隠蔽されて来た。西郷隆盛は、この事実を知り尽くして居た。かくして、明治十年西南の役、と成るのである」。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「西郷隆盛は征韓論政変で失脚したというのが、西南の役以後に大久保利通政権によって流布され、日本国民の中に定着した歴史である。つまり西郷は、征韓=韓国の征討を主張し、大久保は内治重視、征韓反対を唱えたとするのである。しかし、この説は歴史の歪曲、偽造もいいところだ。

 大久保と西郷の対立は全く別の次元のものである。この幼馴染であり、幕末・維新を共に戦い抜いてきた二人の指導者は、この時、日本民族の進路をどこに向けるか、についての、抜き差しなら無い相克関係に入り込んだ。大久保には、ユダヤ・フリーメーソンのヒモがついており、日本は欧米の番犬となってアジアを叩くしか道が無い。さもなければインドのように日本も欧米に食われてしまう、と腹を決めていた。 これ以外に日本の進む道はない、と彼は確信していた。攘夷の旗印は、破れ草履(ぞうり)のように捨てるのだ。

 しかし西郷は、死んでもそんな道はとることができなかった。彼は東アジアの三国(日中韓)は、欧米列強の侵略に対して死ぬも一緒、死なばもろともの運命共同体でありたい、と固く念じていたのではないか。だから、韓国(李氏朝鮮)が欧米に対する開国を忌避し、日本の新政府との通交をも拒否した時、決死の覚悟でこの道理をもって、韓国を説こうと欲したのである。

 つまり、ことは対韓外交問題ではない。ユダヤ(欧米)の奴隷になるか、死を賭してこれと戦い続けるか、という根幹に触れる問題が、大久保と西郷の二人に表現されていたのだ」。
 「明治新政権は薩長閥と総称されるが、これは著しく不正確だ。にぜなら、倒幕維新の主力・長州閥も薩摩閥も、攘夷を貫くん欧米の番犬となるかの岐路に立って真っ二つに分裂し、流血の内乱を経ているからである。維新主体の下級武士団自体も分裂し、ユダヤに魂を売った勢力が権力を握った、とみなければならない」。

(私論.私見) 「太田龍氏の裏史観」について

 「明治維新に忍び寄るロスチャイルド(イルミナティ中枢)の影」説に対するれんだいこ見解はここでは保留するとして、西郷派の「西南の役」に対する史的意義に対する「もう一つの側面」を観ようとするこの態度には共感する。れんだいこは、西郷派こそ明治維新の永続革命派であり、それが潰えていった過程の検証をせねばならない、と考えている。

 2004.5.12日 れんだいこ拝

(私論.私見) 「俗流マルクス主義の西南戦争史観」について

 
俗流マルクス主義は、「西南戦争を不平氏族の最後の反乱であり、特権を奪われた従来の士族の最後の反革命の企て」と捉えることで犯罪的な役割を果たしている。これは、単なるネオ・シオニスト史観の請け売りであり、こうした史観は学べば学ぶほど有害で却ってバカになる。まさに俗流マルクス主義の馬脚を表わしていると見立てるべきであろう。俗流マルクス主義が如何に危険な真の左派運動に対する敵対理論であるかに早く気づくべきだ。

 西南戦争にいたる相次ぐ士族の反乱を実証的に検証すれば、幕末維新に命を賭した連中による「裏切られつつある革命」に対する抗議以外の何物でもなかろう。かく捉えるべきであろう。では、どう歪められたのか。れんだいこは、伊藤ー井上ラインによりネオ・シオニスト意向反映政治へと歪められた、と見る。それは、アジアの盟主化政策であり、日本帝国主義化の道であった。他方、不平氏族達は、アジアの植民地化からの解放を射程に入れていたのではなかろうか。この対立が、大東亜戦争にも反映しており、戦後の再建にも関与しており、今も続いていると観る。

 2006.10.3日 れんだいこ拝

【西郷暗殺計画裁判】
 西南の役後、参加者は国事犯として裁判にかけられた。これは日本初の戦争裁判となった。裁判所長は、河野敏鎌(こうのとがま)、検事長は大検事・岸良兼養(きしらかねやす)。この裁判で、「西郷暗殺計画」も審査され、中原たちも供述させられた。しかし、戦争前の鹿児島警察での供述書の供述を否定して概要「鹿児島警察での供述は拷問によるもので、西郷暗殺計画なるものはそもそも存在しない」と居直った。21名の警視庁関係者の鹿児島帰郷についても、「誰の命令によるものでなく、国許の不穏を憂いて、自主的に願い出て許されたもの」と主張した。これに対し、裁判長は、全員に無罪を言い渡した。(小林久三「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」参照)

 これより以降は、「明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)



(私論.私見)


 幕末維新年表 幕末期(1868〜1878)