第40部−24 | 氏族の反乱、西南の役考 |
【西南の役】 |
島津啓次郎は、最後の藩主島津忠寛の第3子として佐土原に生まれ、明治3年に米国に留学し6年後に帰朝、同10年西南の役に際しては西郷軍に従い、同年9月に鹿児島城山にて死す。21歳。 |
1877年(明治10年)に起こった西南の役のときには、たくさんの兵士が傷つき手当てを受けることなく倒れたままになっていました。
このとき、佐野常民は同じ元老院議官で友達の大給 恒と相談して、日本にも赤十字のような団体として「博愛社」を作ろうとしましたが、政府からことわられてしまいました。
明治政府は、博愛社が政府の兵士だけではなく、政府に反対している兵士まで助けて手当てをしようと考えていることが理解できなかったのです。
そこで、佐野常民は、熊本に行き、政府軍の指揮をしていた有栖川宮に直接、博愛社を作って救護することを願いでました。傷付いた兵士が倒れたまま苦しんでいることを知っていた有栖川宮はこの願いを許し、博愛社はすぐに救護活動を始めることができました。
多くの生命を救ったこの活動は、当時の人々を大変おどろかせたといわれています。
西南の役が終わっても、博愛社はいざというときに備えるために活動を続けることになりました。
●西郷軍に軍資金を贈る男と、戊辰戦争の仇を討とうとする男
元々、西郷家の先祖は九州の菊池一族に始まる。
菊池一族は菊池則隆(孝)を初代当主とする、日本屈指の豪族で、歴史の中で極めて重要な位置に属した一族である。この一族の掲げるスローガンは、何時の時代も尊王主義に基づく《正義武断》であった。菊池一族は、世の中が混沌とし、風雲急を告げるとき、突如として正義武断を旗印にして立ち上がったのである。
その歴史は、寛仁三年(1019)に刀伊(とうい/刀夷とも書く。刀伊の賊の来冦で、沿海州辺境民。女真人ともいう)が壱岐・対馬、博多を襲い、掠奪と殺戮を繰り返して北九州にまで及んだ時、これを迎かえ撃って勇敢な奮戦記録を残した。
刀伊と防戦して戦ったのは、菊池則隆の祖父に当たる太宰府(だざいふ)の長官であった権帥藤原隆家(979〜1044年)であった。
隆家は北部九州の豪族たちを指揮して、これを悉く撃退したという。
そして刀伊の賊は、大陸の騎馬戦闘に慣れた戦争集団であった為、奪う、犯す、殺す等の、狂暴で残虐な皆殺しの戦法を繰り返した。
当時、北部九州を防備した隆家は、これに散々苦戦を強いられ、太宰府の文官達までもを指揮して勇戦したという。ここに隆家の名指揮官ぶりがあった。このことは『大鏡』(歴史物語で、三巻本・六巻本・八巻本があし、著者は未詳。白河院院政期の成立かと推測されている。時代は文徳天皇から後一条天皇までの、十四代176年間の歴史を紀伝体にし、藤原道長の権勢を叙述する。大宅世継(おおやけのよつぎ)・夏山繁樹(なつやましげき)という二老人が対談し、若侍が傍で批評するという構想をもとに、壮大な歴史ドラマが描かれている)にも記されている。
また、後の蒙古襲来の時には菊池武房が、北条時宗と並ぶ際立った活躍を示し、このことは『蒙古襲来絵詞』(肥後国の住人竹崎季長すえながが、文永・弘安の両度の役に立てた自身の戦功をあらわすために描かせた絵巻で、二巻からなる。永仁元年(1293)の奥書には疑問があるが、鎌倉中期の実録的な戦記絵巻として描写は精密で、蒙古人の風俗や博多沿岸の石塁など史料的にも価値が高い)に描かれている。
そして菊池氏が歴史の中でクローズアップされたのは、隠岐(おき)に流され伯耆国(ほうきのくに)船上山に脱出した後醍醐(ごだいご)天皇に応呼し、「元弘の変」に壮絶な討ち死をした菊池武時の頃からである。
「菊池武朝申状」によると、楠木正成が軍功の第一人者として、嫡男の武重(南北朝時代の武将で、武時の長子。父の挙兵に従い、その戦死後、九州南朝軍の中心として肥後・筑後で戦う)を推薦し、肥後守の地位を与えられたと記されている。
その後、建武二年(1335)新政政府が崩壊し、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いが始まると、菊池氏は天皇方につき、大いに奮戦した。中央では武重が箱根山合戦に於て奮戦し、九州ではその弟武敏(南北朝時代の武将で、武時の次子。1336年(延元1)足利尊氏と戦って敗れ、のち各地に転戦)が「多々良浜(たたらのはま)の合戦」(多々良浜は、1336年(建武3)足利尊氏・直義兄弟と菊池武敏とが戦った場所で、福岡市の北東部の箱崎・香椎間にあった海浜で、蒙古襲来の時の古戦場でもある)で尊氏直義兄弟と戦った。
南北朝時代、武家は《宮方》と呼ばれた南朝方と、《武家方》と呼ばれた北朝方に分裂して戦ったが、菊池氏は内部分裂も起こすことなく南朝勢力を支持し、九州の中央部から北朝方の武家たちを監視し、勢力を強め、征西将軍懐良親王の肥後入国後、九州南朝方の盟主として地位を得ている。
そしてその後、武朝は室町幕府体制下でも、肥後国の守護としての地位を実力で確保したのである。
歴史を振り返れば、菊池氏は北朝方の世の中になっても、名誉ある形で武家社会の中枢に生き残り、中世以降も領土支配が強化され、「九州のスメラギ」として長く君臨することになる。そして一族の掲げたスローガンは、政治的軍事的思想的色彩の強い《正義武断》で一貫されていた。
菊池氏は古代末から中世にかけて、肥後国菊池郡を本拠地として栄えてきた武当派の戦闘集団であり、その活動範囲は究めて広く、その子孫が長距離遠征を繰り返して、中国四国地方、関東各地、更には東北に至り、会津に及んだとしても不思議ではない。
西郷隆盛が薩摩藩の藩命により、大島に流された時、彼は「菊池源吾」と名を変えている。つまり薩摩西郷家も、また菊池一族の末裔であり、西郷隆盛は先祖の言い伝えとして伝えられた、旧姓菊池氏を苗字としたのである。
また菊池家と親族関係にあった西郷氏(及び西の姓)は勿論のこと、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れをくんでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つことから、菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している。