第40部−24 氏族の反乱、西南の役考


【西南の役】


明治10年

1月11日 中原尚雄警部ら、鹿児島へ帰県
1月29日 私学校生徒、草牟田火薬庫を襲撃し、武器弾薬を奪う
2月 3日 私学校党、中原警部らを捕える
2月 4日 鹿児島暴発の報、行在所に達す
2月 7日 西郷、大山県令に率兵上京の決意を告げる
2月17日 西郷、桐野、村田らとともに鹿児島をたつ(兵員総数1万2千)


2月18日 官軍乃木少佐、連隊の一部を率いて熊本に向う
2月19日 熊本城炎上〜21日まで市街延焼
鹿児島暴徒征討令下る(征討総督有栖川宮親王、参軍山県有朋中将、参軍川村純義中将)
2月20日 薩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻着。
民権党(40数名)保田久保神社へ結集、熊本協同体結成。




2月22日 薩軍熊本城を包囲、植木で政府軍薩軍初戦(乃木隊連隊旗を奪われる)


2月23日 薩軍熊本城長囲策に決し、部署を定める
2月24日 山県参軍博多着
薩軍熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出
2月25日 官軍第一、二旅団南関に入る・高瀬の乱


2月27日 薩軍三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐負傷。
2月28日〜3月20日田原坂の戦い。
3月 3日 官軍、木葉・吉次に攻撃を開始
3月 4日 田原坂の攻撃開始〜3月20日田原坂の戦い
3月20日 官軍、田原坂を抜く〜4月15日向坂の戦い(3月20日〜4月15日)。
3月26日 薩軍、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
4月 1日 官軍、吉次木留を占領
4月12日 官軍、御船を占領、永山弥一郎戦死
4月15日 別働旅団、全部隊熊本城に入る。
薩軍、植木・萩迫・鐙田・三の岳より退去
4月20日 官軍、御船で大勝、薩軍矢部に退去
4月21日 薩軍、木山で敗れ、本営を浜町に移す。
4月22日 人吉を三州割拠の地と定め、軍を編制改革す。
5月28日 西郷、桐野ら宮崎に入り、宮崎支庁を軍務所と定める。
6月 1日 政府軍、人吉を占拠。
6月 3日 薩軍、久木野・大口方面の戦に敗る。
7月11日 政府軍小林に侵入。
7月24日 政府軍都城占拠。
7月31日 砂土原、宮崎陥落。
8月 2日 高鍋で薩軍敗れ、美々都方面へ退く
8月15日 延岡奪還に敗れ、薩軍長井村に拠る
8月17日 薩軍、可愛嶽を突破。長井村での投降多数 熊本隊、協同体、竜口隊降伏
9月 1日 西郷ら鹿児島に入る
9月22日 城山で西郷の名による決死の檄
9月24日 政府軍、城山を総攻撃。西郷、桐野、村田ら戦死し終結す
西南の役終結

 1877(明治10)年熊本県を中心にして西南戦争が起る。薩摩軍の大将は西郷隆盛。田原坂の戦いに負ける。「雨はふるふる 人馬はぬれる 越すに越されぬ田原坂」。

 明治10年の西南の役当時、軍費に窮した西郷軍は佐土原の通称ひょうたん島にて「西郷札」を印刷して難局を乗り切ろうとした。日本最初の軍票である。だが実際に使えたのは薩摩軍の影響力のある地域だけで、しかも薩摩軍の敗北とともに布切れと化した。政府の補償はなく大量の西郷札を抱えて没落する商家が多かった。

島津啓次郎は、最後の藩主島津忠寛の第3子として佐土原に生まれ、明治3年に米国に留学し6年後に帰朝、同10年西南の役に際しては西郷軍に従い、同年9月に鹿児島城山にて死す。21歳。

日本赤十字社は、佐野常民らの努力によって作られました。
 佐野常民は、1822年、今の佐賀県に生まれ、医学の勉強をしたあと元老院議官となった人です。
 佐野常民は、以前ヨーロッパを旅行したときに、戦いで傷つき倒れた兵士を敵・味方の区別なく
救護する赤十字という団体があることを知り、その考え方にとても関心をもっていました。

1877年(明治10年)に起こった西南の役のときには、たくさんの兵士が傷つき手当てを受けることなく倒れたままになっていました。
 このとき、佐野常民は同じ元老院議官で友達の大給 恒と相談して、日本にも赤十字のような団体として「博愛社」を作ろうとしましたが、政府からことわられてしまいました。
 明治政府は、博愛社が政府の兵士だけではなく、政府に反対している兵士まで助けて手当てをしようと考えていることが理解できなかったのです。
 そこで、佐野常民は、熊本に行き、政府軍の指揮をしていた有栖川宮に直接、博愛社を作って救護することを願いでました。傷付いた兵士が倒れたまま苦しんでいることを知っていた有栖川宮はこの願いを許し、博愛社はすぐに救護活動を始めることができました。
 多くの生命を救ったこの活動は、当時の人々を大変おどろかせたといわれています。
西南の役が終わっても、博愛社はいざというときに備えるために活動を続けることになりました。



合気揚げの基礎知識 4

●西郷軍に軍資金を贈る男と、戊辰戦争の仇を討とうとする男

 元々、西郷家の先祖は九州の菊池一族に始まる。
 菊池一族は菊池則隆(孝)を初代当主とする、日本屈指の豪族で、歴史の中で極めて重要な位置に属した一族である。この一族の掲げるスローガンは、何時の時代も尊王主義に基づく《正義武断》であった。菊池一族は、世の中が混沌とし、風雲急を告げるとき、突如として正義武断を旗印にして立ち上がったのである。

 その歴史は、寛仁三年(1019)に刀伊(とうい/刀夷とも書く。刀伊の賊の来冦で、沿海州辺境民。女真人ともいう)が壱岐・対馬、博多を襲い、掠奪と殺戮を繰り返して北九州にまで及んだ時、これを迎かえ撃って勇敢な奮戦記録を残した。
 刀伊と防戦して戦ったのは、菊池則隆の祖父に当たる太宰府(だざいふ)の長官であった権帥藤原隆家(979〜1044年)であった。
 隆家は北部九州の豪族たちを指揮して、これを悉く撃退したという。
 そして刀伊の賊は、大陸の騎馬戦闘に慣れた戦争集団であった為、奪う、犯す、殺す等の、狂暴で残虐な皆殺しの戦法を繰り返した。

 当時、北部九州を防備した隆家は、これに散々苦戦を強いられ、太宰府の文官達までもを指揮して勇戦したという。ここに隆家の名指揮官ぶりがあった。このことは『大鏡』(歴史物語で、三巻本・六巻本・八巻本があし、著者は未詳。白河院院政期の成立かと推測されている。時代は文徳天皇から後一条天皇までの、十四代176年間の歴史を紀伝体にし、藤原道長の権勢を叙述する。大宅世継(おおやけのよつぎ)・夏山繁樹(なつやましげき)という二老人が対談し、若侍が傍で批評するという構想をもとに、壮大な歴史ドラマが描かれている)にも記されている。

 また、後の蒙古襲来の時には菊池武房が、北条時宗と並ぶ際立った活躍を示し、このことは『蒙古襲来絵詞』(肥後国の住人竹崎季長すえながが、文永・弘安の両度の役に立てた自身の戦功をあらわすために描かせた絵巻で、二巻からなる。永仁元年(1293)の奥書には疑問があるが、鎌倉中期の実録的な戦記絵巻として描写は精密で、蒙古人の風俗や博多沿岸の石塁など史料的にも価値が高い)に描かれている。
 そして菊池氏が歴史の中でクローズアップされたのは、隠岐(おき)に流され伯耆国(ほうきのくに)船上山に脱出した後醍醐(ごだいご)天皇に応呼し、「元弘の変」に壮絶な討ち死をした菊池武時の頃からである。

 「菊池武朝申状」によると、楠木正成が軍功の第一人者として、嫡男の武重(南北朝時代の武将で、武時の長子。父の挙兵に従い、その戦死後、九州南朝軍の中心として肥後・筑後で戦う)を推薦し、肥後守の地位を与えられたと記されている。
 その後、建武二年(1335)新政政府が崩壊し、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いが始まると、菊池氏は天皇方につき、大いに奮戦した。中央では武重が箱根山合戦に於て奮戦し、九州ではその弟武敏(南北朝時代の武将で、武時の次子。1336年(延元1)足利尊氏と戦って敗れ、のち各地に転戦)が「多々良浜(たたらのはま)の合戦」(多々良浜は、1336年(建武3)足利尊氏・直義兄弟と菊池武敏とが戦った場所で、福岡市の北東部の箱崎・香椎間にあった海浜で、蒙古襲来の時の古戦場でもある)で尊氏直義兄弟と戦った。

 南北朝時代、武家は《宮方》と呼ばれた南朝方と、《武家方》と呼ばれた北朝方に分裂して戦ったが、菊池氏は内部分裂も起こすことなく南朝勢力を支持し、九州の中央部から北朝方の武家たちを監視し、勢力を強め、征西将軍懐良親王の肥後入国後、九州南朝方の盟主として地位を得ている。
 そしてその後、武朝は室町幕府体制下でも、肥後国の守護としての地位を実力で確保したのである。

 歴史を振り返れば、菊池氏は北朝方の世の中になっても、名誉ある形で武家社会の中枢に生き残り、中世以降も領土支配が強化され、「九州のスメラギ」として長く君臨することになる。そして一族の掲げたスローガンは、政治的軍事的思想的色彩の強い《正義武断》で一貫されていた。

 菊池氏は古代末から中世にかけて、肥後国菊池郡を本拠地として栄えてきた武当派の戦闘集団であり、その活動範囲は究めて広く、その子孫が長距離遠征を繰り返して、中国四国地方、関東各地、更には東北に至り、会津に及んだとしても不思議ではない。

 西郷隆盛が薩摩藩の藩命により、大島に流された時、彼は「菊池源吾」と名を変えている。つまり薩摩西郷家も、また菊池一族の末裔であり、西郷隆盛は先祖の言い伝えとして伝えられた、旧姓菊池氏を苗字としたのである。
 また菊池家と親族関係にあった西郷氏(及び西の姓)は勿論のこと、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れをくんでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つことから、菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している。