40−115 維新過程での草莽志士名簿

 (最新見直し2007.5.7日)

 関連サイト、幕末人士列伝

【「大塩の乱」の草莽志士】
 れんだいこ史観に拠れば、「維新過程での草莽志士」は「大塩の乱、生田万の乱」で始まる。よって、そのアウトラインを記す。
大塩平八郎  概略は 「大塩平八郎の乱に記した。
生田万  概略は 「大塩平八郎の乱に記した。


【「蛮社の獄」で処刑された有能士】
 「蛮社の獄」も見逃せない事件である。
小関三英  概略は 西洋学の影響に記した。
渡辺崋山  概略は 西洋学の影響に記した。
高野長英  概略は 西洋学の影響に記した。


【「安政の大獄」で処刑された有能士】
【吉田松陰(よしだ しょういん)】
 1830(天保元)年−1859(安政6)年、享年30歳。当時一級の知識人にして愛国の士。
 1830(天保元)年、無給通士杉百合之助の次男として長門国萩東松本村に生れた。6歳の時、山鹿流兵学師範血筋の叔父の吉田大助家の仮養子となり、翌年、吉田家を継ぐ。10歳で明倫館に出勤、11歳の時、藩主毛利敬親に兵書「武教全書」を進講し、幼き頃から秀才振りを示した。19歳で独立の師範になるまで兵学を叔父の玉木文之進・林百非・山田字衛門・山田亦介に学ぶ。九州を遊歴し、嘉永4年、兵学研究のため藩主に従って江戸に行き、さらに東北遊歴など全国を旅して識見を高めた。朱子学・陽明学・国学にも通じ、安積艮斎、古賀茶渓、山鹿素水、佐久間象山らに従学し、経学、兵学を学び、剣を藩士平岡弥三兵衛の門下で学んだ。 この間、脱藩しており士籍を削られている。

 1853(嘉永6).6月、ペリー来航の報をえて浦賀に行き、黒船を眼前に見て視野を広げた。幕藩体制の矛盾と幕府の短命を予見し、佐久間象山の勧めもあって海外渡航の志を立て、当時長崎来泊中のロシア艦に乗り込もうとしたが失敗した。

 翌1854(安政元).3月、再度来航して下田に停泊中のペリーの艦隊に対し、外国の情勢と知識を学ぶために搭乗を訴えたが拒絶されて失敗する。この罪によって江戸伝馬町の獄に下り、次いで萩に送り返され野山獄に幽因の身となる。このときより「二十一回猛士」の別号を用いた。唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときである。12月、出獄し、杉家に幽居された。

 1856(安政3)年、宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け、一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り、「普天率士の民、(中略)、死を尽して以て天子に仕へ、貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず、是れ神州の道なり」との断案を下した。


 翌1857(安政4).11月、杉家宅地内の小屋を教場とし、叔父玉木文之進がおこし、外叔久保五郎左衛門がその名を襲用していた私塾松下村塾を受け継ぎ、時代の先覚について若者の教育にあたる。門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば、身辺を構わず常に粗服、水を使った手は袖で拭き、髪を結い直すのは2カ月に1度くらい、言葉は激しいが挙措は温和であったという。

 死までの僅かな期間に久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋ら約80名の俊才を育てた。これらの若者たちのほとんどが時代を創る志士となり明治維新の礎となる。

 1858(安政5).7月、幕政を批判し、日米修好通商条約調印を建言する。討幕論を唱えて藩のとるべき態度を激論し、また、老中間部(まなべ)詮勝暗殺を画策し、幕府の違勅調印という事態に直面して直接行動を計画したが失敗する。12月、藩命により野山獄に再投獄された。その絶望の中で「草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外頼みなし」との「草莽崛起論」に到達し、変革の担い手は在野の志士であり、百姓一揆のエネルギーを無視できないことを自覚した。


 翌1859(安政6).6月、藩命で江戸の伝馬町の牢に移送される。松蔭は、梅田雲浜との関係は否定したが、自ら間部要撃策のあった事を述べて幕吏を驚かせた。10.25日、死を予知して遺書を書き始め、翌日の暮れにまでおよんだという。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」の句を記し、これが辞世の歌となった。「義卿(ぎけい、松蔭の字) 奸権(邪悪な権力)のために死す」とも書かれている。全編を「留魂録」と命名。

 10.27日、評定所で断罪書が読み上げられ、「国家の御ためと申すが、公儀(幕府)を憚らず、不敬の至り。死罪申しつける」と言い渡された。この時、松蔭は次の言葉を残している。
 「吾れ今国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照、明神に在り」。

 江戸伝馬町獄に護送され、刑が執行された。「首切り浅右衛門」と呼ばれた山田浅右衛門の手で斬首に処せられる。享年29歳。戒名は「松蔭21回猛士」とつけられた。遺体は、先に安政の大獄で刑死した橋本佐内の隣に埋葬された。


 松蔭は、著作や日記、手紙などを10巻組の全集になるほど豊富に残している。
 ここで、松蔭の死生観を検証しておく。「陽明学左派・李卓吾」の項でも触れているが、革命思想家特有の生命観の色彩が認められる。次のように述べている。(関厚夫「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人と言葉bP00」その他を参照する)。
 「四時(四季)の循環を考えれば、死が避けられずとも安心を得ることができる。穀物は、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬に収穫する。秋や冬になれば人は皆収穫を喜び、酒や甘酒を振る舞い、村中に喚声が響く。収穫の時、悲しみの声があがるなど聞いたことがない」。
 「10歳にして死する者は10年の仲で四時あり。20は20の四時、30は30の四時あり。10歳という一生を短いとするのは、短命のセミ(の成虫)が不老不死の霊木になろうとすることと同じであり、100歳という一生を長いとするのは、不老不死の霊木がセミになろうとするようなもの。いずれも天命に背く」。
 「17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年と云う虫たちの命が短い、とは思わないし、松や柏のように数百年の命が長い、とも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅(ハエ)なり」(「品川弥二郎宛手紙」)。
 「義卿三十、四時すでに備わる。稲は育ち、実る。ただ、それが粃(しいな、殻ばかりで実のないもの)なのか、実のある稲穂なのかは、自分のしるところではない。だが、もし、私の志を愛し、継承してくれる同志がいるならば、後の世に引き継がれていく種子は絶えることはない。そのとき、わが一生は豊作だったといえるだろう」(「留魂録」)。
 「人間万事塞翁が馬。禍福はあざなえる縄の如し、と云う。牢獄で死ねば禍いのようだが、この場所で学問をし、己のため、他人の為に後世に伝えることを残し、身は失っても死にはしない人たちの仲間入りすることができるならば、この上もない福というもの。されば、兄弟や甥、姪たちに、楽が苦の種、福は禍の本、と申し聞かせることが肝要ぢゃ」(安政6.4.13日、江戸送致が決まる直前、松蔭が長妹の千代に宛てた手紙の一節)。
 「私は不幸であるが、孝にあたることがある。兄弟の中に、一人でも運が悪い者がいると、後の兄弟は、自然と心が和らいで孝行でもするようになり、睦まじくなるという。ぢゃから、これからは、私が兄弟皆なの代わりにこの世の禍を引き受けよう。それで兄弟が仲良くなるのならば、父母様の幸せ。子供達が見習ってくれるなら、子孫の為これほど目出度いことはないではないか」(安政6.4.13日、江戸送致が決まる直前、松蔭が長妹の千代に宛てた手紙の一節)。
 「死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い」。
 「父母を喜ばせるために妻を持ち、宮仕えするのもよいでしょう。但し、正論を通しなさい。ならば必ず放逐後退の時期が来る。その時に書を読み、心を練り、10年後の大事に備えるのです」(高杉晋作が江戸獄中の松蔭を訪ねた時の松蔭の言葉)。
 松蔭をどう評するか。明治中期の頃、ジャーナリストのさきがけとなった徳富蘇峰は、脱藩や渡海計画によって当時の規制を打ち破って言った革命家として描いた。その後、「教育者・松蔭」を経て、昭和初期から終戦まで、「忠君愛国の代表」として神格化された。今も定まっていない。

【橋本佐内(はしもと さない)】
 越前福井城下に藩医の子として生まれる。16歳で大阪の適塾に入門。蘭学と蘭方医学を修めた。ついで江戸へ出て蘭学に磨きをかけ西洋学を学ぶ。その一方で、藤田東湖、西郷隆盛ら諸藩の志士と交流し、時局に目覚める。帰藩し、藩主松平慶永に重用された。将軍継嗣問題では一橋派の中心として朝廷の説得に奔走した。適塾出身の蘭学者で開国派。しかし1858(安政6)年、安政の大獄がはじまり翌年、死罪となった。享年26歳。

【梅田雲浜(うめだ うんぴん)】
 若狭小浜藩に生まれる。京へ上り近江に塾を開いた。1850(嘉永3)年、海防策の意見書を藩に提出するが幕府批判ととられ藩士身分剥奪された。ペリー来航の際は尊王攘夷のために奔走、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立派として行動。また公家達を説いてまわり、水戸藩の密勅降下にも関わった。京都では梁川星厳につぐ志士の指導者となった。しかし、安政の大獄の最初の逮捕者となり、取調中に江戸で病死した

【梁川星厳(やながわ せいがん)】
 美濃の郷士に生まれる。19歳で江戸へ出て山本北山の門に学ぶ。文政5年(1822)妻の紅蘭と天下を遊歴。江戸に戻り、神田お玉ヶに「玉池吟社」を開き、星厳の詩名は大いにあがった。弘化3年(1846)、京都に移り住み、その居「鴨沂小隠」には梅田雲浜横井小楠吉田松陰などが出入りし時局を論じた。幕府を激しく批判し、安政の大獄に捕らわれようとしたが、その直前、コレラで急死した。このため妻の紅蘭が捕らわれたが、翌年釈放された

【頼三樹三郎(らい みきさぶろう)】

 京都の三本木に生まれる。父親は「日本外史」で勤王論を論じた頼山陽。大坂、江戸へ遊学後、東北と蝦夷地を旅行。帰京後、梅田雲浜や梁川星厳らと交流。反幕府、朝廷復権の思想を論じ合った。将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持。安政5年(1858)4月、梁川星厳と密議をし、水戸藩に倒幕の密勅が降りるように画策。また西郷吉之助(隆盛)とも時局を論じ合った。8月、密勅が水戸に降りたが、これに対し、大老井伊直弼はのちの「安政の大獄」で対抗、弾圧をした。11月、捕縛された。一時、六角獄に入れられたが、翌年江戸へ送られた。取り調べでも幕政批判、勤王攘夷を一貫して主張。10月、刑死」



【佐久間象山】
 1811〜1864
 松代藩士。江戸に出て詩文等を学び江戸藩邸学問所頭取などを歴任。天保12年(1841)藩主真田幸貫が老中海防掛に就任すると顧問として海外事情を研究。アヘン戦争に衝撃をうけ海防の必要を痛感した。江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、砲術、兵学の塾を開き、当時第一級の海外通として知られた。吉田松陰、勝海舟、河井継之助らが入門。しかし松陰の密航失敗に連座して国元で蟄居(9年間)となった。文久2年(1862)に許された。

 元治元年(1864)幕命により上洛し、公武合体、開国、遷都を主張。尊攘派に反感をかい、京都三条木屋町で白馬に乗っているところを、肥後の河上彦斎に暗殺された。


【「天誅組の乱」、「生野の変」の草莽志士】
 
【吉村寅太郎】

【平野国臣】


【「水戸天狗党の乱」の草莽志士】






【長州藩志士】

【吉田稔麿】
 松下村塾四天王の一人。池田屋事件で新撰組に刺殺される。


【久坂玄瑞(くさか げんすい)】
 1840(天保11)年〜1864(元治元)年、享年24歳。
 萩藩藩医久坂良廸の次男として萩城下平安古に生まれる。明倫館に入りのち医学館で蘭学を学ぶが医業を好まず、少年時代より勤王思想に影響を受け、吉田松陰の松下村塾に入り、松陰の妹文と結婚する。高杉晋作と並び塾のリーダー的存在となった。文学にもよく励んだ。松陰亡き後、桂,高杉と共に尊攘運動に身を投じる。

 文久元年には武市半平太と交わり勤王運動に奔走する。この翌年龍馬と面会している。この出会いが坂本龍馬を脱藩の道へ決定させた。長井雅楽の航海遠略策の反対し藩論を尊壌討幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請に奔走する。同年11月には晋作らと品川英国公使館を焼き討ちにし、その過激振りに拍車がかかる。、英国公使館の焼打、下関の外国船砲撃に参加し。政変により三条実美ら七卿を守り都落ちし、長州藩は京都から追い出され孤立する。そして禁門の変で浪士組を率いて出撃するが薩会連合に鎮圧され、不運にも流弾を受け負傷し寺島忠三郎と刺し違えて自決した。享年25歳。

【高杉晋作(たかすぎ しんさく)】
 1839(天保10)年〜1867(慶応3)年、享年29歳。
 倒幕運動の指導者。萩城下菊屋横丁に長州藩士高杉小忠太の長男として生まれる。14歳で藩校明倫館に入学したが、その講義に失望し、むしろ剣術に熱中する。19歳の時、吉田松陰の松下村塾に入塾。夜中でも塾に通い熱心に勉学に励んだ。吉田松陰門下の逸材となり、久坂玄瑞と並ぶ双璧と称された。

 安政5年、江戸遊学。安政6.10月、江戸からの帰国途中に松陰の処刑を聞かされる。翌万延元年春、柳生新陰流免許皆伝を授かり、秋、関東北陸東北を遊歴し、加藤有隣、佐久間象山、横井小南ら先覚者を訪ねている。文久2年、上海へ視察に渡りイギリスの植民地と化している清の上海の状況を見て日本の危機を感じ、帰国後尊壌運動に参加した。イギリス大使館を襲い業火にかける。文久3年、大橋訥庵を幕府に売ったとのことで高槻藩士・宇野八郎を密殺したと、語られている。奇兵隊を創設。四国連合艦隊との講和談判、功山寺の挙兵で藩論を倒幕論で統一し、小倉城攻略で第二次長州征伐軍を破り、さらには四境戦争で各所の幕府軍を破る。

 また晋作は薩長同盟の影の推進者と言われている。理由は京行きをしぶる木戸孝允を決意させたのが晋作だったからである。坂本龍馬との出会いは不明だが、第2次長州征伐で坂本龍馬の協力の下、海戦に臨み勝利した。また龍馬が数々の遭難から逃れたのは、晋介から貰い受けたピストルのおかげだったとも言われている。晋作は龍馬と並ぶ豪傑な男だった。

 慶応3年4.13日、結核を患い29歳で逝く。墓は下関吉田の清水山。

【薩摩藩志士】

【有馬新七】


西郷隆盛




【土佐藩志士】
 
【武市半平太】(瑞山たけち はんぺいた)
 1829〜1865、享年37歳。
 土佐国長岡郡仁井田郷吹井村の土佐上級郷士の家に生まれる。幼少のころより文武に励み、国学、書画を嗜んだ。特に絵画が巧みであった。14歳から剣術を学び、文武両道を極めた。嘉永三(1850)年高知城下新町に移り、安政元(1854)年、27歳で高知城下に道場を開き中岡慎太郎岡田以蔵などに教えた。

 1856(安政3)年、江戸へ出て鏡新明智流の桃井春蔵門に入り、翌年塾頭となる。この頃、剣客になるということはステータスであり、まして塾頭になり得た人物は一目も二目も置かれた。案外見落とされているが、この流れを正確に掴まないと「幕末志士」の交流の様が見えてこない。

 帰郷後、道場の経営に尽力。
1858(安政5)年、剣道の功により藩から終身二人扶持を給せられた。1859年の安政の大獄、1860年の桜田門外の変など、情勢の変化に伴い、尊攘運動が激化するや、1860(万延元)年の秋、藩から剣術修行の許可を得て門弟2名を従え北九州の諸藩を巡歴する。

 1861(文久元)年、文武修業のため再び江戸に出て諸藩の尊攘派の志士と交わり、政事を研鑽した。修学のため江戸にきた同郷の大石弥太郎から勤王論勃興の情勢を聞き、その紹介により住谷寅之助・岩間金平・樺山三円・桂小五郎・久坂玄瑞ら水戸、薩摩、長州藩尊攘派志士と時勢を論ずる。

 深く感ずるところがあって、大石、島村衛吉、池内蔵太(いけくらた)、河野敏鎌(とがま)らと土佐藩尊攘派の組織化を決意して帰国する。

 文久元年8月、下級武士・郷士・村役人層を中心とする土佐勤王党を結成し、その首領となった。盟約に応ずるもの200余名に及び、藩体制に大きな影響を与えた。この時、坂本竜馬も中心的指導者の一人として参画している。

 当時、藩の参政吉田東洋が佐幕的公武合体を堅持しており、一藩勤王を念願とする瑞山は東洋に「挙藩勤王論」を進言したが容れられず、勤王諸藩の京都結集に遅れることを恐れた末、遂に1862(文久2).4月、東洋を党員の手で暗殺して吉田派を退け、藩論を一変させた。

 ついで藩主山内豊範に従って入京し、土佐藩の尊皇攘夷運動をアピールした。他藩応接役として諸藩の有志と交わりつつ一藩勤王を目指しつつ天誅路線を敷くことで土佐勤皇党の力を誇示した。

 公卿の三条実美・姉小路公知が攘夷督促の勅使として東下するにあたっては姉小路の雑掌となり、柳川左門と変称して10.12日、京都を出発した。このころが瑞山と勤王党の最も華やかな活躍時代で、年末に留守居組に列せられて上士格に進み、1863(文久3)年正月、京都留守居役となる。

 京都で「8.18の政変」が勃発する。これによって尊攘運動は後退し、機を捉えた旧吉田東洋派が容堂の意向を得て勤王党弾圧が始まった。瑞山は志士たちが相次いで脱藩する中にあって動かず、4月、藩命により帰国。9月、投獄され、在獄1年半余、慶応元年切腹を命ぜられ、自刃した。享年37歳。

 妻富子の内助の功は有名。
瑞山の獄中の詠に「ふたたひと返らぬ歳をはかなくも今は惜しまぬ身となりにけり」がある。瑞山は天皇と聞いただけでも涙したという真の勤王主義者であった。

【岡田以蔵】  概略は、守るも攻めるもテロの流れで考証した。

【那須信吾】
 1829〜1863。土佐藩参政である吉田東洋暗殺の実行犯。剣術を坂本龍馬と同じ日根野道場で学ぶ。龍馬とも親交は深く、土佐勤皇党に加盟している。脱藩後、天誅組の大和挙兵に参戦し、35歳で戦死。

平井収二郎
 土佐郷士。幼少のころより文武を修め、伊勢に赴いて斎藤拙堂に学んだ。英邁の質、弁舌の人で、文久元(1861)年土佐勤王党に加わり、深く武市瑞山と提携した。文久二(1862)年藩主山内豊範に扈従して上洛し、瑞山らと共に他藩応接役となり、公卿の知遇を得、諸藩の志士と交わって国事を議し、全面的な尊攘運動に参加した。伏見寺田屋の騒動後、豊後豊岡藩主中川久昭の違勅問題に活躍し、鵜飼吉左右衛門の子の出獄を図るなど、収二郎の名声は高まった。勅旨三条実美の東下に当たっては京都に留まり、瑞山と相応じて国事周旋を行い、薩長両藩の間を調停するなど活躍した。しかし瑞山の藩政改革の意見は容れられなかったので、間崎哲馬・弘瀬健太とともに中川宮朝彦親王の手書を得て、藩主の祖父豊資を動かし、藩政改革を行おうとして前藩主容堂の怒りに触れ、土佐に護送され、文久三(1863)年5月23日下獄、6月8日切腹を命ぜられた。享年29歳

【坂本竜馬】  概略は、坂本竜馬論に記した。

【中岡慎太郎】
 1838〜1867。
 土佐国安芸郡北川郷柏木に生まれる。間崎哲馬、武市半平太らに師事し、文久元年17 番目に土佐勤王党に加盟し志士として目覚める。その後土佐藩の職務に就くが、土佐勤王党弾圧を期に脱藩する。元冶元年「禁門の変」に長州遊撃隊として参加するが、負傷し長州へ帰還。その後坂本龍馬と薩長同盟を成立させ、また板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ薩土盟約を結ばせる。しかし陸援隊を組織するが慶応3年龍馬と京都近江屋暗殺される。

【熊本(肥後)藩・維新の志士たち】
【宮部鼎蔵】
 池田屋事件で新撰組に刺殺される。

横井小楠
 1809〜1869年、享年61歳。
 熊本藩士の家に生まれ、10歳で藩校「時習舘」に入学。29歳で塾長となった。31歳で江戸に留学した後、熊本で私塾を開いた。50歳で越前藩主、松平春嶽の要請に由り藩の「賓師」となり、幕府の政事総裁職となった春嶽のブレーンとして国の指針「国是7か条」を建言した。だが、政府の参与に就いた翌年、61歳で旧体制の過激派に暗殺された。

 吉田松陰が私淑し、勝海舟が称賛、トルストイが驚嘆した人物。朱子学をベースにした仁政の理想を根本に据え、行動した。福井越前藩の政治顧問を務め、維新後の新政府で西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らと共に参与の地位に就いた。薩摩、長州藩出身者を中心とする新政府の若きリーダーたちにとって、小木南は別格の庁論的存在であった。参与の中で肥後藩出身というのも異例であった。その実力の程が知れる。

 小楠の残した言葉。米国留学に旅立つ甥に送った詩。「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ」。「富国有徳」の思想。小渕恵三首相が所信表明演説で触れた。(2003.11.17日付け日経新聞文化欄、徳永洋「先覚者『小木南』魂は死なず」参照)
【諸藩志士】







(私論.私見)