40−113 「幕末人士列伝」


 (最新見直し2005.11.17日)

 幕末の人士列伝をサイトアップしておく。萩市出身の志士等を参照する。


【大塩平八郎】
【生田万】
【小関三英】
【渡辺崋山】
【高野長英】
【吉田松陰】(よしだ しょういん)
【橋本佐内】(はしもと さない)
【梅田雲浜】(うめだ うんぴん)
【梁川星厳】(やながわ せいがん)
【頼三樹三郎】(らい みきさぶろう)
【吉村寅太郎】
【平野国臣】
【佐久間象山】
横井小楠




【倒幕派】


【長州藩・維新の志士たち】
 
【吉田松陰】  維新過程での草莽の志士名簿に記した。
【久坂玄瑞】  維新過程での草莽の志士名簿に記した。
【高杉晋作】  維新過程での草莽の志士名簿に記した。

【三吉慎蔵】(みよし しんぞう)
 1831〜1901。「龍馬あるところに慎蔵あり」とまで言われた慎蔵は、長門国長府藩士小坂土佐久郎二男として生まれ、三吉十蔵の養子となる。宝蔵院流の槍術皆伝の腕前で藩内随一と言われ、その腕前で幾度となく龍馬の命を救った。坂本龍馬との出会いは、慶応2年元旦。京都探索の藩命と龍馬警護のため行動を共にする。薩長同盟成立後、伏見寺田屋で龍馬と同席のところを幕吏に襲われるが危難を脱した。最愛の妻であるお龍の面倒を頼むほど龍馬には信頼されていた。

【桂小五郎】(かつら こごろう)
 1833(天保4)年〜1877(明治10)年、享年44歳)。木戸孝允(きど たかよし)とも云われる。尊攘論者。明治維新の三傑の一人で公爵。長州藩医和田(木戸)昌景の子として生まれたが、後に藩士桂九郎兵衛の養子となる。初名小五郎のち藩命によって木戸に改姓した。17歳で松陰主宰の松下村塾に入塾し、兵学を学ぶ。その後、江戸にて神道無念流の斎藤弥九郎の道場で塾頭を務める。美男子ということで敵地視察、敵地逃亡の際には女装をし難を逃れたというエピソードが残っている。文久3年の政変で長州藩は京都を追われるが、木戸は藩邸に留まり活動をした。禁門の変後には、乞食姿で身を潜めていたという。慶応2年、長州の代表として西郷に会い薩長同盟を結ぶ。木戸は同盟成立後の書簡に、裏書きを依頼するほど坂本龍馬を慕っていた。明治に入り西郷隆盛、大久保利通と並び維新の三傑と呼ばれた。

 。明治新政府では参与・参議となり政府の中枢を勤め、版籍廃藩、廃藩置県を推進指導する。西郷の征韓論・大久保の独裁判・征台の役に反対し、封建制の廃止と漸新的開明政策を推進した。西南戦争の際、西郷の身を案じながら床に伏す。

【大村益次郎】

 1825(文政8)年〜1869(明治2)年、幕末の兵学者。

 吉敷郡鋳銭司村(山口市)の村医村田孝益の長男として生れ、医師として開業後、宇和島藩で伊達宗城に仕え、兵制改革、砲台の築造、軍器の製造、造船に従事した。

 幕末維新の激動にかかわった長州藩士の中では特異な存在で、新時代の到来を早くから予見し、これを着実、柔軟に対応する合理主義者、テクノクラートとして、時局が求める政治、軍事の実務的指導者であった。周防国・鋳銭司村の村医出身で、藩校明倫館教授となり、更に近代軍隊創設の決定的役割を果たした。これは、蘭学そして西洋への開眼と実務的研鑚が、合理主義者・大村を培ったといえる。

 しかも西洋万能ではなく、洋楽を「技術の学」と捉えた「和魂洋才」的な視野と見識がその核心にある。しかも驚くべきことは、一度も洋行しなかったにも拘らず、書物を通して適確に西洋技術を習得した彼の才能である。時代を超えていた彼の近代合理主義が、幕末、維新期にその天分を発揮させたのである。


【前原一誠】(まえはら いっせい) 
 1834(天保5)〜1876(明治9)、享年43歳。討幕派幕末志士。

 長州藩士土佐世彦七の長男として萩城下土原に生れる。松下村塾に入り、高杉、久坂らとともに松門の重鎮として活躍する。松陰の評価も高く「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ」といわれたほどの人物。

 明治に入り新政府のやり方に評価をせず孤立した。越後府判事時代に民への救恤をめぐり大蔵省と対立したように、常に草奔の立場で物事を見つめ、困苦を共にする儒教流の仁政観を終生持ち続けた前原は、明治新政を必ずしも評価せず、新政府から孤立する理由になった。

 明治9年、不平士族を統率して萩の乱を起こしたが、事破れて萩から上京しようとし、途次宇竜港で捕らえられ、松江の獄に投ぜられた後、12.3日、萩で処刑された。去年43歳。

【山田顕義】 (やまだ あきよし)
 1844(弘化元)年〜1892(明治25)年、享年49歳、討幕派志士にして明治期の政治家。

 長州藩士大組士山田七兵衛顕行の長男。14歳の時、松陰の兵学の士である叔父山田亦介の縁故により松下村塾生になる。以後国事に奔走。狙撃隊を結成し隊長となる。その後、禁門の変や四境戦争、戊辰戦争など数多く幕府との戦いに参戦している。

 明治に入り、兵部大丞に任ぜられる。岩倉使節団と共に欧米諸国を視察した。使節団の欧米派遣に随行した際、主としてフランスに滞在し、ナポレオンの戦術と法典の研究に従った山田は、刑法・民法・商法の編纂公布など、わが国の近代法の基礎を作りあげました。

 帰国後、西南戦争で政府軍別軍を率いて功績を上げる。翌年、陸軍中将に就任の後、司法大臣に就任した。明治22年、日本法律大学(日本大学)を創設し、翌年国学院大学を創設した。生野銀山を視察中に死去。

【伊藤博文(いとう ひろふみ)】
 1841(天保12)年〜1909(明治42)年、享年68歳。明治期の政治家、公爵。

 周防熊毛郡束荷村林十蔵の長男。伊藤の出自は長州藩の忍者集団「はちや衆」という流れの下忍であるという。父が足軽の伊藤直右衛門の養子となって武士身分が与えられ改姓。17歳で松陰の門下生になる。松陰亡き後、23歳でロンドンに留学。帰国後国事に奔走し維新を迎える。伊藤は兄貴分である桂小五郎から岩倉を紹介され、以降同盟関係に入る。岩倉の命令で孝明天皇を暗殺したと噂されている。

 維新後、 参議を経て初代総理大臣・枢密院議長・貴族院議長・立憲政友会総裁・韓国総監の各初代を歴任。その間明治憲法起草の中心となり、内閣を組織すること四次、明治の元勲といわれる等政界の最高指導者となり、いわゆる長州閥の首領となった。

 明治42年、枢密院議長として満州訪問の途上、ハルピン駅頭で凶弾に倒れた。

【井上馨】

 1835(天保6年)〜1915(大正4年)、明治期の政治家。

 萩藩士井上光亨の次男として、吉敷郡湯田村(山口市)に生れ、山口講習館、明倫館、有備館、江戸川太郎左衛門の塾に入り、剣や蘭学・砲術・西洋銃術などの修練に励みました。

 幕末尊壌運動の志士として活躍中は、山口鴻城軍総督、第二次長州征伐芸洲口参謀、九州鎮撫総督の参謀として戦勝し、維新後は、新政府に出仕しました。明治18年内閣制度ができてからは、外務大臣、農商務、内務、大蔵大臣などに就任、明治31年政界を退いて実業界に転じ、その発展に貢献しました。

 官にあると否とにかからわず、常に伊藤博文と相互に無二の協力者として政界に強大な勢力をもち、明治31年以来は明治天皇の命令による元老の一人として大正4年81歳で病死するまで、つねに国政の最高機務に参加した。


【山縣有朋】(やまがた ありとも)
 1838(天保9)〜1922(大正11)年、享年84歳。討幕派志士にして明治期の政治家。

 長州藩士、無給通の山縣三郎有稔の子として。萩の川島に生れ、少年時代から槍術師範となることを夢見て努力する。21歳の時、松陰の門下生になり、尊王攘夷運動に挺身する。松陰亡き後、奇兵隊に加わりその後幕府との戦いにおいて晋作の下で指揮をとる。

 明治に入り西郷従道と共に渡欧。帰国後兵部大輔に就任し、徴兵令を制定した。翌年初代陸軍大臣に就任。その後2度内閣総理大臣を務め、市町村令発布など近代日本の基盤を作るなど功績は大きい。小田原で死去。伊藤内閣が誕生すると、内務大臣となり、2度首相を務めた他、要職を歴任し、伊藤の死後は、最大の発言力をもつ元老として軍や政界に君臨し、伊藤に次ぐいわゆる長州閥の首領となった。

【広沢真臣】(ひろさわ まさおみ)

 1833(天保4)年〜1871(明治4)年。長州藩の外交担当者。

 萩藩士柏村安利の三男として生まれ、明倫館に学び、「嚶鳴社」の同人となった。四国連合艦隊の下関攻撃に際しては、毛利登人に遂行し、和平交渉にあたる。元治元年、蛤御門の変の責任を問われ、俗論派藩庁のため萩の野山獄に入れられる。藩論回復後は出獄し、慶応2年四境戦争の枢機に参画し、安芸国厳島で井上馨と共に幕史勝海舟と会見し休戦講和を結ぶ。

 明治に入り、海陸軍務掛、内国事務掛、内国事務局判事、京都府御用掛を歴任し帰国、再度上京し東京行幸に供奉、民部官副知事、民部大輔を経て参議を命ぜられたが、刺客のため39歳で暗殺された。


【品川弥二郎】

 1843(天保14)−1900(明治33)3。明治期の政治家。

 長州藩の足軽弥市右衛門の長男として萩松本村に生れた。幼児、佐々木古信に学び、15歳の時に松下村塾に入り吉田松陰に学ぶ。松陰に深く嘱望され、最も薫陶を受けた1人。松陰入獄中は、その免罪のために奔走し、死後は久坂・高杉らと尊王攘夷運動に挺身。維新後、明治政府に出仕、イギリス・ドイツの代理公使や内務大丞などの役職を歴任、松方内閣の時には内務大臣も勤めまたが、第2回総選挙の選挙干渉を非難され辞任た。産業組合の設立の功労者として知られる品川ですが、松陰精神の普及を己が任と心得、遺著の刊行、松陰が入江久一に遺託して果たされていなかった尊壌堂を京都に建立するなど尽力した。


【薩摩藩・維新の志士たち】
【西郷隆盛】(さいごう たかもり)
 1827〜1877。鹿児島城下加治屋町に下級武士の子として生まれる。大久保利通らと学び、のちに島津斉彬に見出され側近に。しかし斉彬急死後は鹿児島錦江湾入水、奄美大島潜居、徳之島流罪、沖永良部島へ遠島。帰国後、禁門の変いなどを境に長州と敵対するが、坂本龍馬中岡慎太郎に説かれ薩長同盟成る。明治維新に大きく貢献するが、征韓論に敗れたのち西南戦争に至り鹿児島城山の地にて自刃。龍馬も認めた人物だった。

【大久保利通】(おおくぼ としみち)
 1830〜1878。鹿児島城下高麗町に生まれ、加治屋町で育つ。島津斉彬が藩主になると西郷隆盛同様に見出され蔵役に転じ、尊攘派誠忠組のリーダーになる。何かと久光に敵対する西郷を庇い、禁門の変では西郷上洛を斡旋し長州軍を敗退させる。薩長同盟を成立させ武力討幕を計画しつも坂本龍馬に協力し大政奉還を勧める。維新後は新政府参与となり、明治2年版籍奉還、同年4年廃藩置県を実施。征韓論で西郷を辞任に追い込み、西南戦争で西郷を討伐するが明治11年5月14日刺殺される。

【小松帯刀】(こまつ たてわき)
 1835〜1870。天保6年に鹿児島城下喜入領主肝属兼善の三男に生まれる。その後吉利領主小松相馬猷の養子となり小松清廉と改名。文久元年(1861)島津久光側役として補佐。誠忠組に心を寄せる。禁門の変の処理にもあたり、坂本龍馬らを浪士をかくまい長崎に亀山社中を創立させる。慶応2年薩長同盟後、幕府に追われた龍馬を妻お龍と共に鹿児島へ新婚旅行の由縁を作る。大政奉還では徳川慶喜に奉還献白を勧める。しかし維新後明治3年に病没。「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と称される。

【中村半次郎】()

【五代友厚】(ごだい ともあつ)
 1835〜1885。薩摩藩儒五代直左衛門秀尭の二男として生まれた。安政元年に郡方書役となり、翌2年には長崎海軍伝習所にて学ぶ。文久2年には高杉晋作らと上海に渡り、植民地化した清国を見る。薩英戦争で捕虜となり、横浜釈放後長崎に行きグラバーの元に潜伏した。慶応元年グラバーの斡旋で、留学生としてイギリスに渡航した。この頃坂本龍馬とも交流を深め、いろは丸のチャーター薩長合弁商社の設立等を企てる。維新後は、新政府に取りたてられるが政界官界を望まず、経済人として関西で活躍した。龍馬を超える経済人と言っても過言ではない。


【土佐藩・維新の志士たち】
【】  維新過程での草莽の志士名簿に記した。
【】  維新過程での草莽の志士名簿に記した。
【】  維新過程での草莽の志士名簿に記した。
中島信行なかじま のぶゆき(1846〜1899)
土佐藩士。脱藩後は海援隊士となり「いろは丸事件」では活躍した。維新後の功績は大きい。
陸奥宗光むつ むねみつ(1844〜1897)
紀州藩士伊達宗広の六男として生まれる。尊攘運動に挺身するなか坂本龍馬に出会う。 坂本龍馬に進められ神戸海軍操練所に入る。操練所廃止後、亀山社中では龍馬の片腕として働く。坂本龍馬の死後は、農商務大臣、外務大臣等を歴任。「かみそり」の異名をとった。

近藤長次郎こんどう ちょうじろう(1838〜1866)
高知城下水通町の餅菓子商「大里屋」の次男に生まれたことから饅頭屋長次郎と言われた。学問好きで河田小龍等に教えを請い。江戸時期洋書や砲術を学び、文久2年(1862)に坂本龍馬のすすめで、勝海舟入門から神戸海軍操練所の練習生となる。のちに上杉宗次郎と名のり坂本龍馬と共に亀山社中に専念し、薩長連合の際の物的支援に勤める。しかしこの報酬で独断洋行を計画するが途中断念。社中盟約違反で詰腹を切らされた。

長岡謙吉ながおか けんきち(1834〜1872)
高知城下浦戸町医家の子として誕生するが、12、13歳の頃河田小龍に入門。安政6年長崎で西洋医学を学ぶ。文久元年脱藩するが半年間投獄。しかし再び慶応元年脱藩。後に海援隊に入隊し文司となり「海援隊規約」を成文、そして「船中八策」の案文を作成、 坂本龍馬の右腕となる。他にも海援隊刊行の諸本を作成する。

池内蔵太いけ くらた(1841〜1866)
高知城北小高坂で出生。文久元年江戸で学び、諸藩の尊攘志士と交わる。また、武市半平太 を助け勤王党の結成に力を注ぐ。文久3年脱藩、同年長州藩外艦砲撃で遊撃隊参謀として活躍。また、吉村虎太郎らの天誅組大和挙兵に参加。まさに血の気の多い青年志士である。そんな青年を龍馬は亀山社中に引き入れるが、坂本龍馬の思いも届かず慶応2年鹿児島に向かう途中遭難死する。

高松太郎たかまつ たろう(1842〜1898)
龍馬の家跡を継いだ高松太郎は、坂本龍馬の長姉千鶴の子として天保13年に生まれた。土佐勤王党に加盟するが叔父龍馬の勧めで勝海舟に入門。神戸海軍操練所で航海術を学び亀山社中、海援隊に加わり叔父龍馬の片腕として活躍した。

沢村総之丞さわむら そうのじょう(1843〜1868)
土佐郡潮江村の地下浪人に家に生まれる。間崎哲馬に入門、経学を学ぶ。その後、土佐勤王党に加盟し、長州尊攘派を探り西国諸藩の傾向を武市に報じ、文久2年3月24日 坂本龍馬と脱藩した。一旦は龍馬と別れるが勝海舟に入門した龍馬に再会、沢村もまた龍馬に誘われ入門した。そしてこれより海援隊に至るまで坂本龍馬と行動を共にする。龍馬死後、慶応4年海援隊が長崎奉行所を占拠した際、薩摩藩士を誤射し、両藩関係の悪化を恐れ自刃する。
岩崎弥太郎 いわさき やたろう(1834〜1885
現在の高知県安芸市一ノ宮に、地下浪人岩崎弥次郎の長男として生まれる。安政元年江戸で学び、高知帰国後吉田東洋に学ぶ。慶応3年後藤象二郎に長崎に招かれ、土佐商会に赴任する。この頃坂本龍馬との交流も有ったと言われる。土佐商会と称し、国際貿易を担当。これが認められ上士の馬廻に昇格、小参事として大阪の財務を委任された。明治4年藩設の九十九商会が解散すると、この施設を譲渡され三菱商会を創立、海運業を経営した。
中浜万次郎なかはま まんじろう(1827〜1898)
ジョン・万次郎として有名。天保12年出漁中嵐により遭難しアメリカ捕鯨船に救出され、船長ホイット・フィールドに伴われ捕鯨を手伝う。のちに船長居住地であるマサチューセッツ州で、学校教育を受ける。嘉永4年日本へ帰国。土佐藩に引き渡された後、河田小龍の許で海外事情を明らかにした。その後も幕府に召され、書信翻訳や軍艦操練 所教授となり、万延元年遺米使節に通訳官として渡米。

河田小龍 かわだ しょうりゅう(1824〜1898)
高知城下片町に生まれる。13歳から絵画、儒学を学び嘉永5年に帰国した中浜万次郎を取り調べ「漂巽紀畧」を著述。安政元年には薩摩、長崎に赴き海外の新知識を体得する。そして近藤長次郎長岡謙吉らに教え、また坂本龍馬にも海外事情を教え啓発した。


【熊本藩・維新の志士たち】
横井小楠(よこい しょうなん)】 (1809〜1869年 享年61歳)
 熊本藩士の家に生まれ、10歳で藩校「時習舘」に入学。29歳で塾長となった。31歳で江戸に留学した後、熊本で私塾を開いた。50歳で越前藩主、松平春嶽の要請に由り藩の「賓師」となり、幕府の政事総裁職となった春嶽のブレーンとして国の指針「国是7か条」を建言した。

 だが、政府の参与に就いた翌年、61歳で旧体制の過激派に暗殺された。
 吉田松陰が私淑し、勝海舟が称賛、トルストイが驚嘆した人物。朱子学をベースにした仁政の理想を根本に据え、行動した。福井越前藩の政治顧問を務め、維新後の新政府で西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らと共に参与の地位に就いた。薩摩、長州藩出身者を中心とする新政府の若きリーダーたちにとって、小木南は別格の庁論的存在であった。参与の中で肥後藩出身というのも異例であった。その実力の程が知れる。

 小木南の残した言葉。米国留学に旅立つ甥に送った詩。「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ」。「富国有徳」の思想。小渕恵三首相が所信表明演説で触れた。(2003.11.17日付け日経新聞文化欄、徳永洋「先覚者『小木南』魂は死なず」参照)


【佐幕派】
徳川慶喜とくがわ よしのぶ(1837〜1913)
徳川15代将軍。水戸藩主徳川斉昭の子として生まれ、弘化4年一橋家を相続する。将軍後見職となり幕政改革に尽力し徳川家茂のあと将軍となる。大政奉還をした将軍として有名である。
松平春嶽まつだいら しゅんがく(1828〜1890)
春嶽は号名。名は慶永である。文政11年に生まれ、11歳で15代越前福井藩主斉善の養嗣となる。藩主になってからは藩政改革に努め、一橋慶喜と共に幕政改革にも励んだ。龍馬と出会ったのは文久年間の頃であろう、面会した龍馬の人物に魅かれすぐさま海舟への紹介状を与える。さらに脱藩浪士である坂本龍馬に加え、近藤長次郎らとも面会している。また、龍馬の脱藩赦免に際しても山内容堂に口添えしている。龍馬の人柄か、春嶽の度量の大きさか、とにかく幕閣にしては勝海舟に並ぶ大人物である。
勝海舟かつ かいしゅう(1823〜1899)
坂本龍馬の目標とする「世界の海援隊」「日本の洗濯」は、最大の恩師である勝との出会いから始まった。その海舟は、勝小吉の子として文政6年に生まれ嘉永3年赤坂に蘭学塾を開き、安政2年には長崎海軍伝習所に入所した。日本人としてはじめて自ら指揮して咸臨丸でアメリカへ渡航し、神戸操練所発足に際し軍艦奉行となる。龍馬と出会ったのは文久2年の事で、海舟は「斬りに来た」と語っているが、実際はそうではないらしい。禁門の変後による疑惑を負い操練所は閉鎖となった。大政奉還後の西郷隆盛との会見「江戸無血開城」は有名である。


【藩政改革派】
山内容堂やまのうち ようどう(1827〜1872)
土佐藩15代藩主。幕末の四賢侯と言われ公武合体論者ではあった容堂は、吉田東洋を起用し藩政を改革する。しかし東洋暗殺に激怒、文久3年の変政を機に武市ら土佐勤王党を弾圧。そして坂本龍馬後藤象二郎の提案した大政奉還を実現させた。

吉田東洋よしだ とうよう(1816〜1862)
高知城下帯屋町に生まれる。容堂起用により仕置役となるが、酒席での殴打事件を起こし免職。再度、安政4年仕置役再起用され藩政改革を行う。文武館を建設し洋学知識を広げた。公武合体を堅持し、土佐勤王党と対立するが武市半平太のさしむけた勤王党三士により暗殺される。

後藤象二郎ごとう しょうじろう(1838〜1897)
高知城下片町で生まれる。板垣退助とは竹馬の友であった。義叔父である吉田東洋に就 き数々の要職に就いた。東洋暗殺後は一時失脚するが、元冶元年大観察となり土佐勤王 党を弾圧した。その後は、郷士・勤王党らの恨みを買うこととなるが、坂本龍馬に「まれに見る才物」と評され、共に大政奉還に策した。象二郎もそれに答えてか「いろは丸事件」「英国船イカルス号水夫殺人事件」を助けている。








(私論.私見)


幕末人物伝