40−1121 幕末通史1(西欧列強の日本開国化の動きと徳川幕府の対応、国内の動き)

 (最新見直し2006.5.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005年初頭、稀代の売国傀儡政権小泉派による日本国融解戦略が暴力的に押し付けられつつあり、これに為す術べなく諸勢力が屈服を余儀なくされつつある事態を見て、れんだいこは再度幕末の開国過程の検証を決意した。思えば、黒船来航でこじ開けられた鎖国体制の終焉が百年先の今日の如くな売国傀儡政権登場までのシナリオを仕掛けていたのではなかろうか。

 以来、百有余年、我らの父祖はこのシナリオに一部気づき大部気づかぬながらもままよく闘った。しかし、敵はあまりにも強大にして百戦錬磨過ぎた。しかし、イスラムを見よ、彼らは今も果敢に闘っている。今後予断は許さない。それを思えば、敵の強大なシナリオの方の破綻も現実的であり、よって歴史は激動していることになる。日本人民の叡智はこのことを的確に認識し、更に英明に対処せねばならぬ。これがれんだいこのメッセージである。

 以上の観点を念頭に置きながら幕末開国過程を検証する。逐次の動きは「
幕末史年表」で整理する予定。

 2005.4.3日 れんだいこ拝


【西欧列強の日本開国化の動きと徳川幕府の対応】
 徳川幕府は世界史的にみて脅威の安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例が無い。が、さすがに治世200年頃より体制的桎梏状況を加速し始めていくことになった。その基底要因として、社会の下部構造を為す経済的変動に比して上部構造が必ずしもその能力を引き出せず、既にこの頃支配体系が硬化しており、この両者の齟齬により秩序の乱れが加速されていったと分析するのが相当と思われる。

 まさにこの時に外圧の波が押し寄せるという歴史の不思議が重なる。かくて、徳川幕藩体制は内外外患に見舞われ多事多難となる。その内部崩壊の危機が徐々に拡がり始め、やがて飽和点に達して一挙に瓦解する。この「時代の変わり目」に当時の人々がどう対処したかを見ていくのが幕末史考となる。

 「西郷隆盛の生涯」は、西郷を追跡する形で幕末から明治維新の激動を解析してくれている好サイトである。これをベースにれんだいこ流に再編成してみたい。なお、左派からは全く無視されているが、「水戸学の変遷」と幕末期への関わりもまたキーとなる。覚束ないながら、この辺りの絡みを総合的に俯瞰することを企図している。

 この時代西暦19世紀前半の一時期は世界史の上でも特筆される大変動の時代であった。政治.経済.社会.思想と、すべての面にわたって、広く深く根源的な大きな変革のうねりが進行しつつあった。西欧においてもっとも早く進行したこの大変革は、遠くアジア地域にまで、その余波を拡げることとなった。資本主義の発達は、生産の増大と販路の拡大を求めて止まない。国内における「民主政治」の確立に逸早く成功した西欧近代国家は次第に海外に進出し始め、武力を背景とした植民地の獲得に鎬を削る軍事列強として立ち現われることとなった。

 イギリス、オランダ、フランスなどがインド亜大陸や東南アジア地域をいち早くその手中にし、続いて老大国清国に狙いを定め進出の機を窺い始めた。やや遅れて北の巨人ロシアがしきりに日本の北辺を窺うようになった。続いて新たにアメリカ、ドイツが参列することとなる。これに抗するに唯一当時の幕藩体制下の日本が、稀なる戦略で危機から逃れた。これは世界史的に見て称賛されることであるが、従来の左派的観点から全く無視されており、早急に見直しが要請されているところであろう。

 その理由として、近時の左派的理論の柱となっているマルクス主義が、国際主義を称揚するあまりに民族主義的ベクトルを無視する傾向があった為と思われる。しかし、ここではこれに触れないことにする。

 この外圧に対する歴史的理解の訂正が要請されつつある。爾来、この外圧は、西欧による攻勢とのみ見られて来、西欧内にあるネィティブ国家とユダヤシオニズムの二元的対立過程が見落とされてきた。しかし、それは片手落ち見解というべきものであることが判明しつつある。この時の外圧は西欧による攻勢であるが、これを仔細に見れば、西欧ネィティブ国家とユダヤシオニズムがそれぞれの思惑と狙いを持っての世界植民地化攻勢であり、否むしろユダヤシオニズムのそれの方が首尾一貫した構想力を持っていた点で、ユダヤシオニズムの攻勢をこそまさしく危険なそれと見て取るべきかも知れない。この理解を欠落させると、その後の歩みが理解できにくくなる。

 2005.4.3日 れんだいこ拝

【外圧史】
 外圧の動きは次の通りである。最初に接触を持ったのは、南下政策を推し進めつつあったロシアに始まる。次いでイギリス、フランスが様子を窺い始めるが、鎖国体制を実際に打ち破ったのはペリー提督率いるアメリカ艦隊であった。

 ロシアの動きは次の通りである。1778(安永7)年、通商を求めて蝦夷地の厚岸にあらわれた。1792(寛政4)年、ラックスマンが使節となって漂流民大黒屋光太夫を伴って根室に来航して来た。幕府は通商要求を拒否し、交渉は全て長崎で行うと通告した。1804(文化1)年、使節レザノフが通商を求めて長崎にやって来た。幕府がこれを拒否したことにより、ロシア船はその後しばしば蝦夷地に現れて、日本側の守備兵と紛争を起こすようになった。1811(文化8)年、 国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローニンが日本側に捕らえられるという事件が起こり、ロシアはその報復措置として幕府の蝦夷地開発事業に当っていた高田屋嘉兵衛(1769〜1827)を捕らえて連れ去った。やがて事情を知らされた嘉兵衛は両国間の紛争調停に奔走し、日本に帰ると幕府を説得して、1812(文化10)年ゴローニンは釈放され、事件は解決を見た。

 これに対応した幕府の動きは適切であった。年代順に追うと、1783()年、工藤平助(1734〜1800)が「赤蝦夷風説考」を著して時の老中田沼意次に献言しており、老中田沼は早速に最上徳内(1754〜1836)に命じて千島方面を探検させたり、近藤重蔵(1771〜1829)らに蝦夷地、南千島を調査させたりした。文化年間、間宮林蔵(1776〜1845)らに樺太、沿海州の探検に当らせ、又蝦夷地を幕府の直轄地とした。林子平が1792(寛政4)年、「海国兵談」で「国難が来た」との警戒情報を発信している。

 ロシアに続いてイギリスの動きも活発であった。イギリス船の来航経緯は次の通りである。1808(文化5)年、フェートン号が突如長崎港へ侵入して来て、薪水、食料を補給させる事件が起こった(フェートン号事件)。イギリス船の日本近海への来航はこれより次第に激しくなり、1818(文政1)年、ゴルドンが浦賀へ来航し通商を求め、1824(文政7)年、捕鯨船が常陸や薩摩に来航して紛争を起こしたりした。この時交渉に当った会沢正志斎は、翌年、「新論」を出版し、この著作が尊王攘夷の思想的基礎となった。

 こうして寛永の頃より、清国、朝鮮、オランダ国以外の外国船が日本近海や長崎の出島へ入港し、貿易を求められる事も数次にわたるようになり、幕府は国防の上からも新たな対応を迫られることになった。かくて鎖国政策の限界が急浮上することとなった。この間幕府も懸命に対応策を講じては見たが、幕閣の思惑を越えて外圧は強まるばかりとなる。

 1810(文化7).2月、幕府は、白河、会津両藩に相模、安房海岸へ砲台構築を命じた。こうした動きが為されておることからも明らかな様に、国防に危急のあわただしさが醸成されつつあり、幕府は和戦両用の対応に心を砕くこととなった。
 

 1825年、異国船打払令(外国船打払令)。
 1828年、蛮社の獄。
 1837年、シ−ボルト事件。
 1839年、モリソン号事件。

 1840〜1842年、アヘン戦争。イギリスが仕掛け、老大国の清国が屈辱的な敗北を喫した。この情報が長崎の幕府出先機関に伝えられ、日本全国の武士、学者、有識者の知るところとなった。日本が外国の植民地にされかねないという危機感が生まれ、幕末攘夷運動を形成していくことになる。

 当時、ヨーロッパで揺るぎない巨大な金融帝国を築き上げていたロスチャイルド財閥(国際ユダヤ金融資本の総帥)は、積極的にアジア新介入し、中国の阿片戦争に始まって、次に狙うところは日本だった。この日本侵略のプロジェクトチームは、ロスチャイルド系のサッスーン財閥が担当し、その本拠地はロンドンにあった。そしてまず上海に足場である橋頭堡(きょうとうほ)をつくり、対中国貿易と、植民地化の進行を押し進めていた。
 1844年、オランダ国王(ウィレム2世)の開国勧告。

 こうして、いわゆる鎖国政策の中で独特の封建平和体制を維持し続けたわが国も、否応なく世界史の渦に巻き込まれることとなっていった。

【内圧】
 徳川幕藩体制の治政の乱れは、農本社会を基盤にしていたことから究極的には農民への圧政として帰趨することとなり、過酷な年貢米の取り立てへと向かっていった。しかし、この頃は又、ひでり、飢饉、台風、治水の氾濫、地震等の自然災害も頻発しており、重税と自然災害による疲弊が農民に塗炭の苦しみをなめさせ、離散、赤子の間引き捨て子、餓死、人妻や娘の人身売買を進行させて行った。この経過で寄生地主といわれる大地主階層も生まれつつあったが、これは徳川政治の基本であった「生かさず、殺さず」(「慶長の御触書」)に窺える農民政策の明らかな破綻でもあった。農村における貧富の差の拡大は止まることなく、むしろこれが基調となり幕藩体制崩壊の前提諸条件を生み出して行くことになる。

 加えて幕府、藩の経済政策の失敗が重なり、米価を主とする諸物価の高騰を招き、農村での百姓一揆、都市部での打ち壊しを連鎖させる等、各階級階層の抵抗力を押えることによって成立していた幕藩体制の統治機構が揺らぎを見せ始め、多難な社会事情を生み出していった。民衆の反乱にたいしては、幕府と藩はこれを徹底して弾圧する手法しか為さず、為に民衆の困窮は一層深まり、応じてその貢租により成り立つ幕府、藩も疲弊するという悪循環に陥り、これを打開する有効な処方箋も見出されないという事態であった。

 過重な貢租や農民階層の分化に加えて、天災飢饉で窮乏した農民による百姓一揆は後期になるほど増加していた。その形態は、逃散(集団離散)、越訴(代官などの手順をこえて、直接領主、幕府などへ訴える)、強訴(集団で抵抗する)から、惣百姓の村ぐるみの団結で強訴する広域的な惣百姓一揆になりつつあった。惣百姓一揆は、村役人、豪農層と平百姓、貧農の対立激化を反映しており、しばしば領主側を圧倒して要求をかちとることが多かった。村人は、一揆の首謀者を義民とあがめ、根強い抵抗運動を組織する力を獲得しつつあった。

 老中松平定信による「寛政の改革」、水野忠邦による「天保の改革」が為されていくが、保守的建て直しであり、時代の流れに齟齬していた。もはや誰の目にも幕府に期待する時代ではなくなり、こうした事情に鑑みて諸藩でも藩政改革を断行し、治政の立て直しに懸命となった。この改革に成功した藩が次第に勢力を増していくこととなり、「雄藩」として台頭し始めていくことになる。この「雄藩」が次第に影響力を行使していくことになり、譜代、親藩、外様と秩序分けされていた大名支配の幕閣秩序を壊し始めて行った。名高いところとして薩摩藩、長州藩等が挙げられ、やがて政局の動向に少なからぬ影響力を及ぼし始めて行くことになる。時代は少しずつ幕末維新の動乱期へと向かっていた。

【新学問、新宗教の胎動】
 こうして徳川幕藩体制の支配秩序はいたるところにほころびが生まれ始め、政情不安の種が蒔かれつつあった。 こうした時代に応じて、イデオロギー的にも、幕府官学の儒教思想や停滞しきった寺院仏教とは系統の異なる、陽明学、国学が台頭してくることとなった。新しい思想、信仰を求めようとする群像が日本の至るところに生まれ始め、次第に統治論として尊皇攘夷の思想が声高になっていった。尊王武士の登場は幕藩体制の根幹を揺るがすかの如くに、時の流れが動き始めることとなった。

 他方では、長崎を上陸地点とした蘭学が西欧の新しい文化、科学技術を伝え、ひいては幕藩封建政治、鎖国体制を批判する風潮を強めつつあった。この頃庶民の間には、仏教、神道に限らず、俗信仰が流行し、世俗的な生活と結びついた講が盛んになった。霊場巡礼、寺社詣り、おかげ詣り、ことに山伏修験者などによる加持祈祷が流行の兆しを見せた。

 こうして学問から宗教まで、右から左から至る所に政情不安の種が蒔かれつつ、時の流れが否応なく幕府の屋台骨を揺さぶり続けていく時代となった。

【「後期水戸学」の尊王運動】
 これは、水戸学の影響で概述する。


1853(嘉永6)年の動き

 1853(嘉永6).4月、坂本龍馬、江戸千葉定吉道場に入門する。
【黒船来航の衝撃】
 6.3日、「ペリー浦賀に来航」。このように幕藩体制の危機が深まりつつあるとき、神奈川県浦賀にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー(Matthew Calbraith Perry/アメリカの海軍軍人)提督の軍艦4隻が来航した。この時、従軍ユダヤ教ラビが日本に向って激烈な呪文を唱えた、と後年公刊された乗組員の日記に報告されている。日本中は蜂の巣をつついたように大混乱となった。これがペリーの黒船砲艦外交の第一歩であった。

 ペリー一行は、第14代アメリカ大統領ピアース(1853.3.4就任)の親書を携えていて、これを幕府に提出した。浦賀奉行与力中島三郎助と通詞堀達之助が交渉に当たるが、長崎回航は受け入れられず、武力を背景として開国を迫った。夜の時砲で沿岸が騒然とした。6.4日、浦賀奉行与力香山栄左衛門と中島三郎助が、再度長崎回航を求めるが、失敗。ミシシッピ号が示威行動のため、江戸湾奥に向かう

 6.4日、佐久間象山、米艦隊を視察するため浦賀へ行き、吉田松陰らと会見している。6.9日、浦賀奉行戸田氏栄、井戸弘道が久里浜でペリーと会見。アメリカの国書を受け取る。艦隊4隻は江戸湾を周回する。6.12日、東インド艦隊、那覇へ向けて江戸湾を離れる。6.15日、幕府、ペリー来航を朝廷に上奏。

 
江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代以来、鎖国を国是としてきた幕府にとって、このペリー来航は幕府内や諸大名間に衝撃を走らせた。老中阿部正弘はとりあえず国書を受け取り、ペリーを退却させた。以下、別サイトで黒船来航の衝撃として言及する。

【その後の情勢、幕府の対応】
 7.1日、老中阿部正弘がアメリカの要求について諸大名、幕臣らに意見を求める。7.3日、幕府、前水戸藩主徳川斉昭を海防参与に任命する。そして対応策を諸大名、幕臣に求めた。

 7.18日、ペリーに続いて、プチャーチン率いるロシア極東艦隊が長崎に来航し、開港通商を要求した。本国中が、開国か攘夷かを対応をめぐり議論が大いに沸騰したが、当時の第13代将軍・徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなかった。

 この頃より、幕政改革として広く人材を登用していくこととなった。
7月、勝海舟、老中の幕臣への要請に応え、貿易論、人材論、兵制改革論の海防意見書を提出する。

 7月、オランダ商館長クルチウスが幕府に「別段風説書」を提出。9.25日、幕府、長崎奉行をしてオランダ商館長クルチウスに軍艦・鉄砲・兵書を注文する。また、西洋砲術奨励を布告。

 8.6日、幕府、砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川太郎左衛門の配下に置く。8.15日、幕府、大砲50門の鋳造を佐賀藩に要請。8.24日、幕府、江川太郎左衛門の指揮のもと、11基の品川沖台場の築造を始める。8.29日、島津斉彬、幕府に建艦、武器・兵書の購入を要求、幕府、薩摩藩に建鑑のみを許可。9.15日、幕府、大船建造禁令を解除。11.1日、幕府、外国語を船舶・鉄砲名称と練習用語に用いることと、薬屋などでの商標に洋字の使用を禁止する。11.7日、幕府、アメリカより戻っていた中浜万次郎を登用し普請役格とする。11.12日、幕府、水戸藩に大船建造を命じる。11.14日、幕府、相模・上総・安房の江戸湾岸警備を彦根・肥後藩等に命じる。11月、幕府、浦賀に造船所の建設を開始する。11月、島津斉彬、大船建造を申請し、船印のため、日の丸国章制定を建議する。12.5日、幕府、石川島を造船所とすることを決定し、水戸藩に石川島で軍艦建造を命じる。12月、韮山代官江川太郎左衛門、韮山に反射炉を建造。1854(嘉永7、安政元)4月、伊豆韮山で反射炉の築造開始。(1857年6月完成)。

 8.19日、ロシア帝国の国書を受け取る。10.8日、幕府、筒井政憲と川路聖謨を対ロシア交渉全権に任命し、長崎派遣を決定。10.20日、徳川斉昭、ロシアとの和親不可を建議。一方大槻磐渓は、幕府に親露を献策する。12.5日、ロシア艦隊4隻、ペリーとの協力がうまく行かず、長崎に再来。12.20日、幕府、ロシア側と交渉を開始。

 10.23日、徳川家定に将軍宣下。

1854(嘉永7、安政元)年の動き

【日米和親条約の締結】
 1.16日、前年の予告通り、ペリーが軍艦7隻を率い再来し小柴沖に停泊した。1.17日、米国使節、幕府にエレキテル・テレガラフ・蒸気車などを献上。2.3日、幕府、アメリカ軍艦見物を禁止する。2.6日、幕府、漂流民保護と薪水食糧給与は承認し、通商条約は拒絶する方針を決定する。2.23日、横浜村の応接所で、ペリーの持参した模型蒸気機関車の試運転を行う。2.24日、ドレイパーとウィリアムス、横浜で電信の実験を行う。2.26日、力士小柳、米国人水兵3人と相撲を取り勝つ。

 この間、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。既に大英帝国と清帝国が争った結果(アヘン戦争)、1842年、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。


 
3.3日、日米和親条約を締結する(神奈川条約)5.25日、幕府、日米和親条約付録協定(下田条約)に調印。これにより、下田・函館を開港し、領事駐在を認めることとなった。ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。鎖国政策の崩壊と共に江戸幕府の屋台骨は大きく揺らぎ、日本封建社会は世界史の激動の中に巻き込まれていくことになる。

 3.27日、吉田松陰、米艦に乗船を求めるが断られる。3.28日、吉田松陰が下田沖の軍艦に密航を企てて失敗し自首する。4.5日、吉田松陰密航事件に連座して、佐久間象山も逮捕される。翌1854(嘉永7、安政元)・9.18日、幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とする。

 翌1854(嘉永7、安政元)年、
アメリカに続いてイギリス、ロシア、オランダのヨーロッパ諸国と和親条約を締結する。8.23日、日英和親条約締結。長崎・函館を開港する。 日露和親条約で下田・函館・長崎を開港する。

【その後の情勢、幕府の対応】
 4.30日、徳川斉昭、日米和親条約締結を不満として、幕政参与を辞任。
 
 6.17日、琉球王府、米国と琉米修好約条を締結。翌1855(安政2).10.15日、球王府、フランスと琉仏約条を締結。

 6.30日、幕府、箱館奉行を設置する。7.9日、幕府、島津斉彬と徳川斉昭の言を採用し、日の丸を日本惣船印とする事を決定する。
 7.28日、造船技術と航海術を伝えるためのオランダ船スンビン号が長崎に入港する。
 閏7.15日、英国東インド艦隊が長崎に入港。


 8月、下田奉行伊沢美作守政義ら、下田外国人休息所の建設と女性の接待を建議する。
 9.2日、幕府、オランダに対して下田と箱館の2港を開港する。
 9.18日、プチャーチン大坂湾に投錨。11.3日、日露条約交渉が下田で行われる。12.21日、幕府、日露和親条約に調印。下田・箱館・長崎をロシアに開港し、択捉−ウルップ間を国境と定める。また樺太を両国人雑居地とする。
1855(安政2).3.22日、プチャーチン提督らロシア側交渉団は、ヘダ号で帰国の途につく。

 9.21日、府、オランダに蒸気軍艦2隻を発注。  
 11.27日、安政に改元。
 
 
この年、上野、陸中、常陸、越後、美濃、紀伊、備前で農民による打ち壊しや強訴が起こる。 

1855(安政2)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】

 1.11日、幕府、浦賀・下田・箱館の3奉行に外国船寄贈の書籍・武器の江戸送付を命令する。
 2.22日、幕府、松前藩領の内、松前氏居城付近を除く蝦夷地全土を直轄領とする。3.27日、幕府、松前・南部・津軽・秋田・仙台の各藩に蝦夷地警備を命じる。4月、間宮林蔵著「北蝦夷図説」が刊行。5.20日、松前藩、幕府の命令により、樺太のクシュンコタンにあったロシア兵陣営を焼く。10.14日、幕府、旗本・諸藩士・庶民の蝦夷地移住開拓を許可する。

 3.4日、フランス軍艦コンスタンチーヌが下田に来航し、物資の補充を願い出るが、拒絶される。
 3.12日、英国軍艦3隻が箱館に入港する。
  
 7月、アメリカ駐日総領事・ハリスが着任。
 8.4日、老中松平乗全と松平忠優が徳川斉昭らの派閥の圧力で辞任。8.13日、徳川斉昭が幕政参与に再任。
 
 10.2日、「安政の大地震」発生。夜、江戸で直下型の大地震が発生。死者7千余、家屋倒壊1万4千戸に及び、特に下町は壊滅、新吉原はほぼ全て焼失する。この地震で藤田東湖や戸田蓬軒が圧死した。

 10.9日、下総佐倉藩11万石の藩主堀田正睦(ほった まさよし、46歳)が老中首座にに再任され、首座に就任。阿部正弘(37歳)に代わって老中首座の席に就いた。堀田・阿部が幕政を担って外交問題に取り組むことになる。


海軍伝習所設立
 10.24日、1853年オランダから船を贈与されたのを機に幕府が海軍教育にために海軍伝習所を長崎に開校した。永井岩之丞を総督とする39名の幕臣・諸藩士・庶民への伝習が始まる。勝海舟、榎本武揚、五代友厚ら幕臣と他藩諸士がオランダ人教官(海軍士官ペルス・ライケン以下22名)の指導の下に海軍の基礎知識を学んだ。後、神戸と江戸にも開設される。

 オランダから贈られた軍艦スームビング号(観光丸)を用いての近代的な教育を受けた。第一期伝習生の学生長を務めたのが勝麟太郎(のちの海舟)である。 近代海軍創設の俊英がここから巣立っていった。1859(安政6).2月、閉鎖される。

1856(安政3)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.21日、岡山藩、倹約のために、被差別民に渋染・無地藍染以外の着用を禁じ、被差別部落民が撤回の嘆願書を提出する。4月、岡山藩、渋染・無地藍染制限令撤回の嘆願を却下。6.13日、岡山藩領80余か村の被差別部落民が渋染・無地藍染以外の着用禁止撤回を求めて吉井川に集まる。6.14日、岡山藩渋染一揆の被差別部落民約8000人が藩家老へ嘆願書を提出。藩はこれを黙殺するも、事実上衣服差別は廃止する。

 2.11日、 幕府、洋学所を蕃書調所と改称。村田蔵六(長州・大村益次郎)、松木弘安(薩摩・寺島宗則)らを教授として採用。のちの東京大学に発展する。
 
 7.10日、ランダ商館長クルチウスが幕府に列強との通商条約締結を勧める。
 7.12日、水戸藩、幕命により石川島造船所で軍艦を建造、旭日丸と命名する。


 7.21日、ハリスがアメリカ総領事としての下田にやってきた。1854年の日米和親条約に基づいて赴任した。8.5日、ハリス、下田玉泉寺をアメリカ仮領事館とする。ハリスは、修好通商条約を結ぶ腹の決まっていない幕府高官を相手に、時に高圧的に時に気長に交渉し、次第に幕府を追いつめていく。

 8.26日、ハリス、下田奉行に通商の自由と貨幣等価交換を要求。
 9.10日、(陽暦10月8日)アロー事件発生。
 9.18日、長崎奉行、浦上村山の隠れキリシタン15人を逮捕、浦上三番崩れの弾圧が始まる。
 9.25日、(陽暦10月23日)第二次アヘン戦争勃発。

松下村塾の開校
 9月、「黒船来航」は他にも思わぬ回天の種を蒔く事になった。その一つが、吉田松陰の松下村塾の開校である(幕末草莽の志士列伝)。長州藩は、吉田松陰に私塾主催を許可し、身分に関係なく約80人が塾生となった。

 この時まで吉田松陰は、アメリカ密航を企て失敗する。そのアメリカ密航の企ての罪で、萩の野山獄へ入れられる。その後、叔父玉木文之進の松下村塾を引き継ぎ、安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、若き門下生へ新しき日本を拓く実践の道を熱く説いた。

 藩が作った学校である明倫館へ入学できないような下級武士の子弟が多く学んだ。松下村塾では時代を動かす数多くの人物を輩出した。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿(としまろ、池田屋にて討ち死に)、入江九一は松下村塾の四天王といわれた。なかでも高杉と久坂は村塾の双璧といわれる。ほかにも、益田親施(ちかのぶ)(右衛門介・須佐領主。俗論党により切腹)、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、前原一誠(いっせい、萩の乱を起こし斬罪)、品川弥二郎らが松下村塾で学んだ。松下村塾の塾生が長州藩を動かし、やがて明治維新の一方の流れを創っていくことになる。

【その後の情勢、幕府の対応】
 10.17日、老中堀田正睦、外国事務取扱、海防月番専任に就く。
 11.10日、日露和親条約批准書を交換する。

【将軍後継問題の発生】
 「黒船来航」は思わぬ回天の種を蒔く事になった。その一つが、13代将軍家定の将軍継嗣問題の発生であった。将軍家定は病弱だった為、この頃から将軍継嗣問題が起こった。水戸家出身で一橋家の当主・一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・後の徳川慶喜)に白羽の矢が立てられた。一橋慶喜は、当時諸大名の間でも、聡明で、かつ、英明と言われていた人物であったが、その担ぎ出しに外様大名の薩摩藩藩主・島津斉彬が乗り出し、これに幕閣が引きずられるという事態を生ぜせしめた。

 斉彬は、日頃から親しく付き合っていた老中の阿部正弘や土佐藩主・山内容堂(やまのうちようどう)、福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)といった人々と力を合せ、一橋慶喜を次期将軍にするべく運動を始めた。その頃、斉彬の無二の寵臣として働いていた西郷は、この将軍継嗣問題にも、斉彬の使いとして、また、朝廷方面の運動者として大いに働くことになる。

 これに抗して、紀州藩主で、当時まだ10代半ばであった徳川慶福(よしとみ)を将軍に推し立てようとする動きが出てくる。その運動の中心人物は、紀州藩の付家老・水野忠央(ただなか)で、「血筋から言うと、次期将軍には、一橋様よりも紀州様の方が適任である」という堂々たる継承論を展開した。また、一橋慶喜の父・前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、大奥に非常に評判の悪い人物であったので、この方面からも、慶福を擁立しようとする動きが活発化してきた。

 こうして、一橋慶喜派(老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬、福井藩主松平春嶽、幕臣川路聖謨ら)と南紀派(彦根藩主井伊直弼ら)とが対立していくことになった。

1857(安政4)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.18日、幕府、天文方から洋書研究・翻訳のための洋学所を独立させ洋学所を蕃書調所と改称。前年より準備の進められていた蕃書調所教育部門が正式に開講。幕臣190余人が入校する。
 
 2.1日、オランダ商館長クルチウスが長崎奉行にアロー号事件を伝え、通商条約交渉に警告を与える。
 2.18日、ハリス、米国人の居住権や治外法権などを要求する7ヶ条を下田奉行に提出する。
 2.29日、遠江豊田郡の幕府領農民1400人が増税に反対し強訴。
  4.11日、幕府、陸軍築地講武所内に軍艦教授所を設ける。
 5.26日、治外法権などを定めた9ヶ条の日米和親条約修補条約(下田協約)が締結される。
 6.17日、老中阿部正弘死去。
 7.23日、徳川斉昭、再度幕政参与を辞任。
 8.29日、オランダと40ヶ条の追加条約を締結。通商条約としては初めて。
 9.7日、ロシアと通商条約に当たる28ヶ条の追加条約を締結。
 10.16日、福井藩主松平慶永、徳島藩主蜂須賀斉裕が連名で一橋慶喜の将軍推挙意見書を提出。
 10.21日、ハリス、江戸城で将軍家定に謁見し、米国大統領の親書を提出。条約遂条審議までこぎ着けた。
 
10.26日、ハリスと堀田正睦が会談。
 11.1日、幕府、米国大統領親書とハリスの口上書について、諸大名に意見を求める。
 11.13日、(陽暦12月28日)英仏連合軍、広州を攻撃。11.14日、英仏連合軍、広州を占領。
 12.11日、日米通商条約締結交渉が始まる。12.13日、幕府、朝廷に対し日米通商条約に調印することを報告。

1858(安政5)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】

 1.5日、幕府、朝廷の許可を得るために日米修好通商条約の締結2ヶ月延期をハリスに求める。

 1.8日、老中堀田正睦、条約勅許を得るため、京へ赴く。2.23日、朝廷、老中堀田正睦に対し、条約勅許は諸大名の意見を聞いてから願出せよと指示。3.9日、白九条尚忠、外交を幕府に委任する案を上奏するが、多くの公家の反対にあう。3.11日、孝明天皇は、九条尚忠の上奏を受け入れ、外交は幕府に委任することを裁可する。3.12日、公卿88人、参内して幕府外交委任の勅諚案改訂を建言する。3.20日、朝廷、公卿88人の外交委任反対案をいれ、老中堀田正睦に対し、条約勅許は諸大名の意見を聞いてから再願するよう再度指示。4.20日、堀田正睦、京から江戸への帰途につく。


【「14代将軍を徳川慶福(よしとみ)に決定される」】

 4.23日、将軍徳川家定、彦根藩の藩主・井伊直弼を大老に任命。井伊大老は、当面の問題であった将軍継嗣問題を強引に慶福を擁立する紀州派有利に展開させ、5.1日、井伊直弼は、将軍継嗣を徳川慶福にする旨老中一同に申し渡す。6.13日、13代将軍徳川家定没。 6.18日、幕府、将軍継嗣問題発表を延期。6.25日、幕府、諸大名に総登城令が出され、将軍継嗣は徳川慶福と発表される。こうして次期14代将軍が徳川慶福(よしとみ)に決定した。慶福は10月に就任する。

 
この過程で、福井藩主の松平春岳(しゅんがく、であり、名は慶永(よしなが))は、将軍継嗣問題および条約締結の件で、大老井伊直弼(いいなおすけ)と意見を異にし、隠居(いんきょ)・閉門(へいもん)を命ぜられた。

 井伊は未曾有の国難に際して懸命に乗り切りを図るが、幕府を中心とする挙国一致化を求めれば求めるほど逆に反転し、各藩の動きはこれに連動しなかった。


「日米修好通商条約の締結」
 1858(安政5)年、日米修好通商条約の条約遂条審議が1.5日に終わり合意が成立したが、幕府は条約成立には勅許が必要である事をハリスに告げ、条約の調印を二ヶ月延期することを申し出た。幕府は責任者として老中の堀田正睦を定め、勅許を得るため老中堀田正睦を上京参内させた。しかし3.12日、88人の公卿が列参して勅許反対の圧力をかけた為、3.20日、参内した正睦には、通商条約のことは三家・諸大名と協議して改めて勅裁を求めよとの勅諚が出された(「堀田正睦、条約勅許の獲得に失敗」)。

 これを脱藩(許可なく藩の領地を離れること)志士達が擁護し、京都にあつまり条約勅許の阻止に動いた。既に志士達はたちは尊王攘夷論に染まっており、攘夷という孝明天皇の意思が為されるからにはその実現を目指すことこそ正義なりとしていた。彼らにとっての尊王論は、藩という枠を逸脱し、家柄にもとづく階層秩序の束縛から自由になる絶好機会として政争を担っていた観がある。

 幕府は条約勅許を貰えないが、既に交渉は条約批准寸前まで進行していた。さらに条約を批准しなければ欧米列強の軍事介入は火を見るより明らかであった。そんな追い込まれた状況の中で、水野忠央は、 最後の秘策を登場させる。当時、彦根藩主であった井伊直弼(なおすけ)を大老に就任させるように画策する。

 井伊直弼(1815〜1860、文化12〜万延元年)は、彦根藩第11代藩主・井伊直中(なおなか)の第14男であったが、藩主に就いた兄達が次々に亡くなっていくという不思議な運命の巡り合わせで、とうとう彦根藩主の座に就いていた。水野忠央は、その直弼の腹心である長野主膳(ながのしゅぜん)と共謀し、1858(安政5)年4.23日、井伊を大老に就任させることに成功する。この間、ハリスは度重なる幕府の調印延長に業を煮やし、江戸小紫沖に軍艦ポータハン号を乗り入れて幕府を脅迫した。かくして、井伊大老は条約調印を決断する。

 1858(安政5).6.19日、井伊大老は、ハリスの強圧に屈する形で朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約と貿易章程に調印した。これにつづいて幕府は、7.10日、オランダと、7.11日、ロシア、7.18日、イギリス、9月、フランスともッじような条約を結んだ。それらを総称して安政の五か国条約とよぶ。

 これらの条約の中身は、三つの面で不平等条約となっており、後々これが問題となる。一つは、「関税の自主権」(海外から入ってくるモノに日本政府が税金をかける。または、日本から輸出する際に税金をとる権利)の喪失であった。しかし、税金は日本が決めるのではなく、アメリカが決めるとなっていた。もう一つは、「領事裁判権」であった。外国人が日本で犯罪を犯しても、裁判を行うのは日本の裁判ではなく、アメリカの判事が行う、となっていた。領事裁判権がある限り、日本で起った犯罪に対して日本側が裁けないという不都合な仕組みとなる。いわゆる治外法権であった。もう一つは、和親条約で規定されていた片務的な最恵国待遇が継承されていた。

 以降、この不平等条約を撤廃しようと云うのが外交政策の課題となり、明治維新後に引き継がれていくことになる。

 この時、自由貿易港として、神奈川の横浜・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市→神奈川開港にともない下田は閉鎖が決められた。神奈川の開港は翌1859年と規定されていたため、幕府は貿易港の建設場所として神奈川の宿場に近い漁村横浜を選び、横浜築港・居留地の土地整備を強行した。アヘン戦争後の清での状況を教訓として生かし、貿易をめぐる主導権を欧米に奪われないよう先手をうった。

 イギリスは、横浜に一個連隊の軍を派遣した。フランスもイギリスよりやや規模が小さいものの軍隊を派遣した。かくて、英仏駐留軍が治外法権下で常駐することになった。


【その後の情勢、幕府の対応】

 6.21日、老中堀田正睦と松平忠固が、外交処置不行き届きにより免職処分となる。
 6.24日、松平慶永が井伊邸を訪問し外交処置に抗議し、徳川斉昭、同慶篤、同慶勝が登城し、井伊直弼に談判を行う。
 6月、長州藩、農民の商業自由化を認め、また農村からの徴兵を定める。
 7.3日、幕府、官医に西洋医術の採用を許可する。
 7.4日、徳川家定死去。
 7.5日、井伊直弼、不時登城の罪をもって尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永を隠居の上謹慎、徳川斉昭を謹慎、徳川慶篤と一橋慶喜を登城停止処分にする。
 7.8日、幕府、外国奉行を設置。
 7.10日、幕府、日蘭修好通商条約と貿易章程に調印。7.11日、幕府、日露修好通商条約と貿易章程に調印。7.18日、幕府、日英修好通商条約と貿易章程に調印。9.3日、幕府、日仏修好通商条約と貿易章程に調印。


薩摩藩主・島津斉彬の秘策と不慮の死
 このような井伊の強引な政治方針に対抗するために、斉彬は自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、京都朝廷より幕政改革の勅許を受け、強大な兵力を背景に井伊大老を中心とする幕府に対し改革を迫ろうとする秘策を抱く。これは、一種のクーデターであった。斉彬は、尋常の手段では幕府を改革出来ない、日本の国難を救うにはこの挙兵上京計画という手段しかないと考え、この計画を実行に移す。

 西郷は斉彬の命を受け、その前準備のために京都に先発、朝廷方面の下工作を手がける。しかし、西郷がその下準備に追われているなか、斉彬が急死するという衝撃的な出来事が起こる。上京に連れていく兵を城下の天保山で調練中、俄かに発熱し、その8日後、1858(安政5).7.16日、薩摩藩主島津斉彬が急逝した。

西郷派粛清される 
 斉彬の急遽の死は、西郷に大きなショックを与えた。西郷は、「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない」として国許に帰り、墓前で切腹を覚悟するが、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照(げっしょう)に諌められる。月照は、将軍継嗣問題や斉彬の上京計画、薩摩藩と京都朝廷との橋渡し役を務め、西郷とも周知の間柄であった。月照は西郷に対し、「西郷はん、このまま斉彬公の後を追って死んだとして、天上の斉彬公が、吉之助よくやった、とお褒めになると思われますか。いや、必ず斉彬公は、烈火の如くお怒りになるでありましょう。吉之助、なぜわしの志を継いで働こうとはしなかったのだ、と」。月照の戒めに、西郷は涙を流して謝り、「おい(自分)が間違っていもした」と自殺計画を止め、斉彬の遺志を継ぐことを決意する。

 しかし、薩摩藩と京都朝廷との橋渡し役を務めていた月照もやがてその身が危険となる。その為、西郷は月照を薩摩藩内に匿うことを計画し、急路先行して薩摩に帰国する。しかし、斉彬急死後異母弟・久光の子の忠義(ただよし)が藩主の座に就いたことにより、藩政府の方針は一変していた。忠義は当時19歳と若かったので、藩政後見人として藩内の権力を握っていたのは前々藩主の斉興だった。斉興は子の斉彬の政策をことごとく廃止し、旧体制に戻すことに専念した。西郷が帰国した時には、斉彬が興した近代工業は全て廃止され、薩摩藩内は静まり返ったようになっていた。

 西郷は帰国するや否や、藩政府の要人に対し月照の保護を求めるが、藩政府の態度は非常に冷たいものであった。西郷は月照が薩摩藩のためにどれだけの努力をしてきたかを説明し懸命に月照の庇護を求め続けるが、藩政府の態度は変わらない。そうこうするうちに月照は筑前浪人の勤皇志士・平野国臣(ひらのくにおみ)に付き添われ、困難な道中を乗り越えて薩摩にやって来る。しかし、藩政府は西郷に、月照を国外に追放するように命じる。安政の大獄が既に始まり、月照を匿うことによって幕府に睨まれることを恐れた薩摩藩の方針であった。藩士として、藩の命令に背くわけにはいかず、かと言って、月照を幕府の捕り方がいる藩外に追放するなどということもできず、このような事態に絶望した西郷と月照は二人で相談し、1858(安政5).11.16日相伴って寒中の海に身を投じる。西郷吉之助30歳の時のことである。


 ところが月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生する。一人だけ生き残った西郷は、自殺から一ヶ月後に書いた手紙で次のようにしたためている。「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候」(私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上です)。やがて西郷は奄美大島行きを命じられる。この時は流罪ではなく、年六石の扶持が付いていた。ということは、これは安政の大獄によって、西郷にも幕府から捕縛命令が出ていた為、その幕府の目から逃れさせるための処置であったことになる。西郷は、翌1859(安政6).1月、奄美大島へと旅立つ。

 奄美大島時代の西郷には数々の逸話がある。島役人達の苛酷な徴税の仕方に憤激し、ある日、在番役人の相良角兵衛(さがらかくべえ)に面会を求め、農民達に対する苛斂誅求な施策をやめるよう意見する。しかし、相良は不遜な態度で西郷の意見を無視しようとした。その相良の態度に怒った西郷は、「おはんが方針を改めないのなら、おいが直接、藩主公に対し、建言書を書きもす。おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから、覚悟しておられよ」と言い放ち、席を立つ。驚いた相良は態度を豹変し、西郷に対し平謝り、農民を解放することを約束する。他にも、西郷が病人や老人に対して自分の扶持米などを分け与えていたことなどから、大変島民に慕われるようになる。ついには、西郷の住居があった龍郷(たつごう)一の名家である龍家の一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚もする。西郷は、ここで3年もの間、片時の幸せな結婚生活を過ごすことになったが、時代はまた西郷を必要とし本土へ呼ぶことになる。

【長州藩長井の航海遠略策】
 この頃、長州藩では長井雅楽(ながいうた)が主唱する航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を藩是とし、国政に乗り出していた。航海遠略策とは、まず、今の日本の国難を乗り切るには、国論の統一が必要であるとし、その為には朝廷と幕府とが一つになっていくことが重要である。朝廷が頻りに幕府に対して要求する条約破棄というのは、そう簡単に出切るものではない。そもそも、鎖国というのは、朝廷が言うように日本古来のものではないので、今は外国に対して開国し、そして外国と通商し、日本自体が力を付けることによって、日本の国威を上げていくことが、すなわち外国の侮りを受けないことにつながるのである。というような非常に堂々とした論策で、公武合体運動に行き詰まっていた幕府にとっては渡りに船の策であり、長井の論ずるところは非常に現実的な策であったので、朝廷にも大変受けが良かった。

 この航海遠略策は、京において一大旋風を巻き起こした。長州藩はこの航海遠略策で日本の国政に正式に乗り出し、この流れが薩摩藩と共に明治維新を成し遂げた原動力となる。但し、航海遠略策そのものは追って激動の波間に揉まれ捨てられる運命になる。

朝廷は「日米修好通商条約の締結」を認めず
 8.8日、孝明天皇朝廷は、違勅条約調印を諮問する勅諚を水戸藩主徳川慶篤他13藩に密勅を出した。

 8.10日、朝廷が水戸へ降下した密勅を幕府に示す。内容は、条約調印批判と攘夷決行、水戸と尾張に対する処分の撤回。幕府は、公武合体の密勅が直接水戸藩に下り、幕府は、朝廷と水戸藩が組んで幕府に反逆を企んでいると解釈。これが安政の大獄へと繋がっていく。

 将軍後継問題と条約調印問題で敗れた水戸藩を中心とする尊攘派/一橋派は、井伊政権打倒のため、孝明天皇に「条約調印と将軍後継指名は違勅であり、徳川斉昭らの謹慎を解いて、慶喜を将軍継嗣・斉昭を副将軍にせよ」との勅書を下すよう朝廷工作を始める。

 孝明天皇は井伊の専横ぶりに激怒し、幕府に不満をあらわして譲位をほのめかす。これに驚いた関白九条尚直は、事態収拾のために御三家あるいは大老の上京 を要請しますが、井伊直弼は政務多忙を理由に、2ヵ月近く経った後で、老中 間部詮勝を上京させて事にあたらせたのみであった。だが、これは井伊の大きな油断となる。この間に京都では一橋派の志士たちが朝廷に働きかけ、大老の辞任、御三家への処罰の撤回、将軍継嗣の再議などを、勅諚として出す運動を進めていく。

 その結果、8.8日に至って、孝明天皇は、幕府と水戸藩に対して、勅書を下賜した(幕府への勅書は水戸藩の2日後)。水戸藩への勅書は正式の手続き(関白の裁可)を踏まない、前例のない藩への直接降下であるので密勅となった(戊午ぼごの密勅)。勅書は幕府に斉昭ら御三家へのの処罰の理由を問い、さらに今後は御三家や諸大名が一致して時局に対応するように、公武合体を強化せよとの趣旨がしたためられていた。水戸藩への密勅へは、勅書の内容を水戸藩から御三家や諸藩に伝えるようにとの副書がついていた。

  戊午の密勅には「公武合体をいよいよ長久にし、徳川家を助け、内を整え、外夷の侮りをうけぬようにせよ」との文言が含まれていた。「公武合体」が朝廷の公式文書に登場するのは、戊午の密勅が最初で、以後この思想が幕府・雄藩に受け継がれていくことになる。

 勅書が幕府を飛び越して直接水戸藩に下されたこと、しかもその内容を水戸藩から諸藩に伝達せよという命であったことから、幕府はこれを由々しき事態とうけとめることとなった。水戸藩(斉昭)が外様大名や浪士と結託し、朝廷を利用して幕府を転覆させようとしているとの疑念を生んだ。

「安政の大獄」 
 尊皇攘夷派は、井伊大老の独断的条約調印に批判を浴びることになった。これに対して幕府は、水戸藩に対して勅書を幕府に返納するよう命じ、9.5日、幕府、徳川家茂に将軍宣旨が下りるよう朝廷に要請。

 一方で、攘夷派の論客や勅書関係者や一橋慶喜の将軍擁立派に弾圧を加えの処罰を始めた。安政5年9月から翌6年にかけて大獄は東西呼応して展開された。弾圧係として老中間部詮勝を上京させ、それに腹心の長野主膳を協力させた。小浜藩主酒井忠義を京都所司代に任じ、老中間部詮勝 とともに、京都における尊攘派の逮捕にあたらせる。

 9.7日、小浜藩士梅 田雲浜が京都で逮捕されたのを皮切りに、各地で尊王攘夷反幕の志士の逮捕が 相次ぐことになった(「安政の大獄が始まる」)。9月、豪商近藤茂右衛門逮捕される。10.23日、越前藩士橋本左内逮捕される。10.25日、徳川家茂に将軍宣下。

 裁判は迅速かつ一方的であった。大老の腹心ばかりで五手掛を固めてしまったので、形式的な尋問が行われただけで、処分の発表が行われた。処分は内勅関係者だけでなく、一橋慶喜をかついだ改革派大名も、尊皇攘夷派の志士も、そして開明派官僚も根こそぎ有罪にされた。まさに空前の大獄となった。


 水戸藩では勅書を受け取った家老の安島帯刀や右筆頭取茅根伊予之介、勅書降下に直接関わった京都留守居役の鵜飼吉左衛門父子が死罪に処せられ(安島は表向きは切腹)、そのほか、前水戸藩主徳川斉昭、次期藩主一橋慶喜、水戸藩主徳川慶篤、越前藩主松平慶永らも処罰され隠居謹慎を命じられている。

 京都の尊皇攘夷志士の中心的存在で朝廷への影響力のあった越前藩の橋本左内((1834〜1859、死罪)、小浜(おばま)藩士・梅田雲浜(1815〜1859、獄死)、頼三樹三郎(1825〜1859、死罪)、長州藩の吉田松陰(1830〜1859、死罪)、をはじめ、70名を越える志士・幕臣・諸侯・公家などが拘禁され、やがて遠島・蟄居・隠居などに処せられた。世にこれを「安政の大獄」と云う。その反動で後にこの時の幕府側の処罰者も逆に責任を問われ、犠牲者となっていく。(詳細は、「安政の大獄処罰者一覧表」 参照の事)

(私論.私見) 【「安政の大獄」による当代一級人士の悔やまれる死罪考】

 吉田松陰の人となりについては、薩長土肥その他の人物名簿幕末草莽の志士列伝に記す。
 橋本左内とは、「越前福井城下に藩医の子として生まれる。16歳で大阪の適塾に入門。蘭学と蘭方医学を修めた。ついで江戸へ出て蘭学に磨きをかけ西洋学を学んだ。その一方で、藤田東湖、西郷隆盛ら諸藩の志士と交流し、時局に目覚める。帰藩し、藩主松平慶永に重用された。将軍継嗣問題では一橋派の中心として朝廷の説得に奔走した。適塾出身の蘭学者で開国派。しかし安政6年(1858)安政の大獄がはじまり翌年、死罪となった。享年26歳」。
 梅田雲浜とは、「若狭小浜藩に生まれる。京へ上り近江に塾を開いた。嘉永3年(1850)には海防策の意見書を藩に提出するが幕府批判ととられ藩士身分剥奪された。ペリー来航の際は尊王攘夷のために奔走、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立派として行動。また公家達を説いてまわり、水戸藩の密勅降下にも関わった。京都では梁川星厳につぐ志士の指導者となった。しかし、安政の大獄の最初の逮捕者となり、取調中に江戸で病死した」
 梁川星厳とは、「美濃の郷士に生まれる。19歳で江戸へ出て山本北山の門に学ぶ。文政5年(1822)妻の紅蘭と天下を遊歴。江戸に戻り、神田お玉ヶに「玉池吟社」を開き、星厳の詩名は大いにあがった。弘化3年(1846)京都に移り住み、その居「鴨沂小隠」には梅田雲浜横井小楠吉田松陰などが出入りし時局を論じた。幕府を激しく批判し、安政の大獄に捕らわれようとしたが、その直前、コレラで急死した。このため妻の紅蘭が捕らわれたが、翌年釈放された」

 頼三樹三郎とは、「京都の三本木に生まれる。父親は「日本外史」で勤王論を論じた頼山陽。大坂、江戸へ遊学後、東北と蝦夷地を旅行。帰京後、梅田雲浜や梁川星厳らと交流。反幕府、朝廷復権の思想を論じ合った。将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持。安政5年(1858)4月、梁川星厳と密議をし、水戸藩に倒幕の密勅が降りるように画策。また西郷吉之助(隆盛)とも時局を論じ合った。8月、密勅が水戸に降りたが、これに対し、大老井伊直弼はのちの「安政の大獄」で対抗、弾圧をした。11月、捕縛された。一時、六角獄に入れられたが、翌年江戸へ送られた。取り調べでも幕政批判、勤王攘夷を一貫して主張。10月、刑死」

(私論.私見) 【「安政の大獄」の怨念考】

 「安政の大獄」はその後の政局に大きく影響する。追って見ていく事に為るが、幕末志士派は、「安政の大獄」の下手人を洗いざらい調べ上げ、逆テロしていくことになる。その逆テロに対しテロり返す組織として見回組、新撰組が生まれ、京都の町を血で染めていくことに為る。これが生きた歴史である。

 2005.4.13日 れんだいこ拝

【その後の情勢、幕府の対応】
 10.25日、福沢諭吉、藩命により築地中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。
 11.16日、西郷隆盛と月照が入水。月照は死亡し、西郷は助けられ、藩の手で奄美大島に匿われる。
 12.5日、長州藩、吉田松陰を逮捕。
 10.30日、老中間部詮勝、参内して条約調印事情了解の勅諚(条約勅許)を得る。

1859(安政6)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.13日、 幕府、神奈川・長崎・箱館への出稼ぎ・移住・自由売買を許可。

 1月、宮家公卿の家臣30余人と水戸藩京都留守居役鵜飼親子らが逮捕される。安政の大獄が本格的に始まる。2.5日、幕府、宮家・公家の処罰の意向を明らかにする。2.17日、青蓮院宮尊融親王、一条忠香ら謹慎処分となる。4.22日、鷹司政通、近衛忠煕、三条実万ら出家・謹慎処分となる。4.26日、水戸藩家老安藤帯刀ら逮捕される。4月、吉田松陰、江戸へ護送される。8.27日、第1次断罪により、水戸藩家老安島帯刀らに切腹命令。9.14日、梅田雲浜獄死。10.7日、幕府、橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内を処刑。

 2月、長崎の幕府海軍伝習所閉鎖される。
 5.24日、幕府、安政金銀の鋳造と外国貨幣の通用を布告。
 5.26日、英国駐日総領事オールコックが着任。11月、オールコック、駐日公使に昇格。
 5.28日、幕府、アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダの5ヶ国に神奈川・長崎・箱館の3港を開港し、自由貿易を許可。
 6.7日、琉球王府、オランダと琉蘭修好条約を結ぶ。
 7.6日、フィリップ・ファン・シーボルト再来日。
 7.27日、ロシア海軍士官ら3人が横浜で日本人数名の襲撃を受け、2人が死亡、1人が負傷する。

【グラバー来日】
 7月、トーマス・ブレーク・グラバー21歳の時、来日した。グラバーはジャーディン・マセソン商会の現地派遣社員として開港後1年目の長崎にやってきた。開港時代の長崎は、巨大な貿易市場に変貌しつつあった。この時期約150名の外国人が在住し、その半数をイギリス人が占めていた。グラバーは貿易商としての経験を積んでいき、長崎を拠点(きょてん)にして次第に幕末の動乱期に重要な働きをするようになる。これにつき、グラバー考(「明治維新とグラバー」考)で概述する。

【その後の情勢、幕府の対応】
 7月、生糸貿易の開始で、生糸不足と糸価格急騰したため、桐生地方の35か村の代表が、幕府に生糸輸出の禁止を願い出る。9月、桐生地方の35か村の代表が、再度生糸貿易禁止について願い出る。10月、江戸の呉服問屋・糸問屋が生糸の急騰に困窮し、奉行所に支援を願い出る。11月、桐生35か村の惣代が生糸急騰問題で、井伊直弼と間部詮勝へ駕篭訴を決行。

 9.13日、幕府、日米修好通商条約本書交換のため、新見正興・村垣範正・小栗忠順らのアメリカ派遣を決定する。 
 10.18日、ジェームス・C・ヘップバーン(ヘボン)来日。
 10.24日、幕府、新潟開港延期を米・仏両国に通告。10.25日、幕府、新潟開港延期を蘭・露両国に通告。

1860(安政7、万延元)年の動き

「遣米使節団」
 1.13日、遣米使節が条約批准交換のため派遣される。新見正興(しんみ まさおき)、勝海舟、木村喜毅、ジョン万次郎らが護衛艦咸臨丸に乗り、太平洋初横断し、2.26日、咸臨丸がサンフランシスコに到着。1.18日、小栗忠順(副使)、福沢諭吉らが乗る遣米使節が米軍艦ポーハタン号で出発、こちらも無事渡米に成功。艦船の造船所などを見て廻り、種々教唆されている。福沢は強烈な欧米の思想に感化されて、西洋崇拝主義者となって日本に帰って来る。

【「桜田門外の変」】
 水戸藩は、幕府に勅書(戊午の密勅)返納を命じられて以来、藩庁を中心とする返納派(鎮派)と返納反対派(激派)に分かれて対立することになった。幕府は朝廷の力を借りて勅書を返納させることにし、安政6年末、朝廷は勅書返納を命ずる勅書を下賜した。藩論は幕府ではなく朝廷に直接返す返納論でまとまったが、これに対して激派の指導者らは返納を実力阻止しようと、同志を募って水戸と江戸の間にある長岡に屯集した。これを長岡勢と云う。藩庁は激派鎮圧にのりだし、謹慎中の斉昭も返納阻止は君命に背くと説得したので、長岡勢は解散した。激派の主だった者は江戸に向けて脱出し、その数日後に桜田門外の変を起こすことになる。

 3.3日、井伊直弼の独裁専制に対する不満は爆発し、井伊大老は江戸城桜田門外で水戸藩浪士17名、薩摩藩浪士1名に襲われ、46年の生涯を終えた。浪士代表は、脇坂候の屋敷に出頭して「自訴状」を差し出した。これを世に「桜田門外の変」と云う。彦根側は死者4名、負傷者15名、浪士側襲撃者は闘死1名、重傷を負って自尽4名、自訴8名(のち傷により死亡2名、死罪6名)、逃走5名)。襲撃には加わらず、薩摩挙兵を期待して京阪に向かった者も捕吏に囲まれて自尽、捕縛されて獄中死などの最期を迎えた。

 井伊大老は、薩摩浪士の有村冶左衛門によって討ち取られており、これを思えば「桜田門外の変」は水戸・薩摩両藩士の共同作戦として練られたことが分かる。その背景事情は次の通りである。薩摩藩はもともと前藩主島津斉彬が一橋慶喜支持であり、反井伊であった。「安政の大獄」が始まってまもなく、在府の水薩藩士のあいだで、「水戸藩士が井伊を暗殺したら、薩摩の同志が脱藩・東上し、先君(斉彬)の遺志を継いで京都を守護する」という盟約が成った。彼らの「斬奸」趣意は幕政の改造により王事に尽くすことで、江戸で井伊を倒し、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫ることを期待していた。しかし、薩摩藩庁や大久保一蔵(利通)が尊攘激派の動きを抑えたので、藩を挙げての連携は実現しなかった。(薩摩藩は、事変の起ったとき、藩主茂久は参勤交替で江戸に向かう途中だったが、報をきいてひきかえしている)。

 白昼堂々と大老が暗殺された事件は幕府の権威を貶めるに十分だった。これに反比例するように朝廷や諸藩の発言力が増していくことになる。

【「桜田門外の変」水戸浪士の斬奸状】
 この時の水戸浪士らの斬奸状は、幕府の条約調印における朝廷軽視、斉昭処分、安政の大獄を非難しているが、「天下の巨賊」井伊を倒すものであり、幕府に敵対するものではないことが強調されていた。

 斬奸状かどうかは不明であるが次のように文面されている)。

 「尊王攘夷は正義の明道(めいどう)なり、天下万民をして富岳(ふがく)の安(やす)きに処せしめ給わん事を願うのみ。いささか殉国報恩(じゅんこくほうおん)の微忠(びちゅう、忠義な心)を表し、伏して天地神明の御照覧を仰ぎ奉(たてまつ)り候(そうろう)なり」。


 首級を挙げた桜田烈士の「自訴状」が、太田龍・氏の「長州の天皇征伐」(成甲書房、2005.11.5日初版)に掲載されている。これの興味深いくだりを転載しておく。

 これより以降は、「幕末通史2(改革か回天か、新政体創出を廻る激闘))



(私論.私見)