40−112 幕末通史2(改革か回天か、新政体創出を廻る激闘)

 (最新見直し2007.5.152日)

【これより以前は、「幕末通史1(西欧列強の日本開国化の動きと徳川幕府の対応、国内の動き)」の項に記す】


1860(安政7、万延元)年の動き

 3.18日、万延と改元。


「和宮内親王降嫁」による公武合体路線
 大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後、老中久世広周(くぜひろちか)・安藤信正が幕府の実権を握った。久世・安藤派は、井伊派を罷免し、安政の大獄で処分された一橋派の復権をはかるなど、反井伊勢力との和解をはかった。これにより、一橋派が息を吹き返した。当初、幕閣は、水戸藩に対して、幕威を立てるため勅書返納を厳命し違背すれば取り潰しという策を考えていたようだが、騒乱を起こしてまで強硬策をとる愚をさとりいつのまにか沙汰やみとなった。これは、幕威の回復策として、井伊的弾圧策をやめてむしろ朝廷や尊攘派にシンパの多い斉昭の謹慎を解いて朝幕関係改善の助けとする方がよいと判断したからと推定される。

 この経過に会津藩主・松平容保の斡旋があった。容保は徳川宗家と水戸家の和解の周旋にも務め、家臣の外島(家老)や秋月梯次郎(のちの公用人)を水戸の武田耕雲斎(家老)・原市之進(後の徳川慶喜側近)に遣わし、無血の勅書返納に力を尽くした。水戸藩処分について幕府に対して寛大を主張し、将軍にも建議した。将軍は容保の意見を採用して、水戸藩門罪はとりやめになったという。さらに、容保のこの周旋の功を賞し官位を昇進させ、将軍は容保に以後適宜に登城して幕閣と相談するよう命じた。水戸藩処分に関する容保の奔走は、容保が将軍の信任を受け、幕府の役人に重きを置かれる端緒となった。

 久世・安藤派はさらに、今後は幕府のみで国政を運営していくのは無理であると考え、朝廷と幕府が力を併せて国政を運営しようと「公武一和」(公武合体)路線を画策していくことになった。朝幕間の関係改善をはかり、二つの「公」が結び付く事によって、幕府体制の再強化を図ろうとした。これにより、朝廷の権威を利用して反幕的な動きを強める尊皇攘夷派は名分を失った。この間政治改革を断行し、挙国一致の体制を整え、国難を打開しようとしたことになる。これを「公武合体」といい、この政策を進めるのが公武合体運動であった。権威の衰弱した幕府の今後の難局を乗り切る為の幕府の苦肉の政策であった。

 その具体策として推進されたのが、大老井伊の遺策である孝明(こうめい)天皇の腹違いの皇妹和宮(1846〜1877年、かずのみや/仁孝天皇の第八皇女)と第14代将軍家茂との婚儀だった。孝明天皇は最初、難色を示した。これは、1・和宮は6歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約していたこと、2・和宮は幼く、江戸は蛮夷の集まるところとして恐怖していること、が理由であった。孝明天皇の侍従岩倉具視は、幕府の降嫁奏請について、朝威を借りて覇権を張ろうとする政治的動機があると分析し、そこで、朝廷側も降嫁を機会に政治的立場を強化することを考え、幕府の願いを聞き届ける条件として、1・7、8年〜10年のうちの攘夷の実行、2・国家の重要事の奏聞を命ずることを天皇に奏上した。

 これが受け入れられ、朝廷は攘夷の実行つまり幕府に外国との条約を破棄せよという条件つきで降嫁を認める。11.1日、幕府が和宮内親王降嫁を発表。結果として、降嫁の勅許は降りたものの、公武合体を願うばかりに攘夷の期限を明言したことは後々まで幕府の足を引っ張ることになった。

 1861年(文久元).10.20日、和宮は京都を出立し、翌1862(文久2).2.11日、和宮、家茂との婚儀が行われ江戸城本丸に入る。ここに文字通りの公武合体が行われたが、その狙いはそれぞれの立場によって様々だった。幕府は権力をより強国にするため、朝廷は権力を拡大するため、一部の公卿は壊夷のため、諸大名は発言力や藩の勢力を拡大するためという同床異夢であった。ちなみに、和宮は、家茂の死後は仏門に入り静寛院宮を称する。戊辰戦争では徳川氏存続に尽力した。(この時、「会津藩御留流」(当時は大東流の流名を持たない)の西郷頼母は要人警護の為に、会津藩上士(五百石以上)や奥女中(殿中側御用の上級武士の子女)達にこの御留流を教授している)。

 しかし、和宮降嫁は尊攘派の怒りを買った。

【この頃の情勢、幕府の対応】
 7.22日、水戸藩と長州藩、江戸品川沖に停泊中の丙辰丸内で幕制改革協力の盟約を結ぶ。

 11.21日、幕府、外国人襲撃計画の風聞により、外国使臣館と横浜運上所を警備。

 12.5日、米国公使館通訳のヒュースケン、中ノ橋付近で薩摩藩士に襲撃される。12.6日、ヒュースケン死亡。各国外交官は、危険を考慮し江戸を離れる。
翌1861.1.21日、幕府が安全を保障する条件を呑んだ為、各国外交官が江戸に戻る。5.28日、水戸浪士ら14名が、品川東禅寺に置かれたイギリスの仮公使館を襲撃。オリファントとモリソンが重傷。襲撃犯は3人が自殺。

1861(万延2、文久元)年の動き

 1月、公武合体を推進した安藤信正が老中に就任する。

 2.19日、文久と改元。


【その後の情勢、幕府の対応】
 3.23日、徳川家茂、江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港の7ヶ年延期を求める親書をオランダ・ロシア・フランスに送る。
 3.28日、長州藩士長井雅楽、藩主に公武合体・海外進出の「航海遠略策」を建言。5.15日、長井雅楽、上洛して「航海遠略策」を朝廷に建白。
 6.19日、幕府、庶民の大船建造と外国商船購入を解禁し国内輸送使用を認める。

 7.9日、老中安藤信正、英国公使オールコック、東インド艦隊司令官ホープと会見し、対馬問題の解決を話し合う。7.23日、英国東インド艦隊ホープ司令官、軍艦2隻を率いて対馬に行き、ロシア軍艦ポサドニックに退去を要求。8.15日、ポサドニック、ロシア外相の命令で対馬を去り箱館へ向かう。8.25日、連絡に来航していたロシア軍艦オプリチニック、対馬を離れる。

【水戸藩と長州藩が「成破の約」】
 7月、水戸藩の西丸帯刀(たてわき)、美濃又五郎が、長州藩の軍艦・丙辰丸の艦内で、長州藩の木戸小五郎と、水戸藩が幕政を破戒し、長州がその後の事態収拾を行うという密約を交わした。この密約に従い、水戸藩が井伊大老暗殺、老中襲撃、外国公館襲撃、天狗党旗揚げへと向う。長州がこれに呼応して、京都での政変を作り出していくことになった。但し、「蛤(はまぐり)御門の変」の失敗で、「成破の約」は破綻する。

土佐勤王党が結成される
 8月、江戸で武市半平太ら土佐勤王党を結成する。水戸藩と長州藩の攘夷派の動きに土佐藩も連動しようとしたことになる。坂本龍馬(27歳)らが加盟する。文久2〜3年頃、武市半平太率いる土佐勤王党が、長州藩とともに、京の政界をリードしていく。

【幕府使節団が訪米、訪欧に派遣される】
 1861(文久元).12.22日、幕府の遣欧使節竹内保徳らが、開市開港延期交渉のためアメリカへ出発する。翌1862(文久2).5月、幕府使節竹内保徳ら、「ロンドン覚書」に調印する。8月、幕府使節竹内保徳ら、開市開港延期、樺太分界等約定書にロシアと調印する。閏8月、幕府使節竹内保徳ら、フランスと開市開港延期約定書に調印する。

 1862(文久2)年、幕府は勅旨に従い攘夷の方針を決める。それを受けて横浜鎖港が叫ばれるようになる。これは、外国人には国外退去をしてもらい、貿易港は閉じるというものであった。その為に、幕府は使節を欧州に派遣する。その動きをみると、1863(文久3).12月、外国奉行池田長発ら、鎖港談判のため欧州へ出発する。1864(元治元).1月、イギリス代理公使ニール、ロンドン覚書の破棄を通告。使節団はイギリスなど各国と開市(江戸・大坂)開港(兵庫など)延期を取付けていく。「ロンドン覚書」は開市開港を五年間延期するというものであった。1864(元治元).4月、仏・英・米・蘭、下関通行・横浜鎖港に関する覚書を幕府に通告。

 5月、外国奉行池田長発(横浜鎖港談判使節)、フランスでパリ約定に調印。7月幕府、仏・英・米・蘭にパリ約定の廃棄を宣告。パリ約定は、外国奉行池田長発ら使節団がフランスのナポレオン三世に会い、七回の会談を経て成立した四か条から成る。その中で、下関砲撃事件の賠償金の支払い、下関海峡の通行、輸入税の軽減などが決められ、横浜鎖港は認められなかった。また、幕府は、パリ約定は国内の混乱を招き、平和を乱すものとして、廃棄を宣告した。この間、元治元年には水戸で天狗党の筑波山での挙兵があり、攘夷の決行を主張し、横浜鎖港を訴えている。

1862(文久2)年の動き

「坂下門外の変」
 1.15日、坂下門外で尊攘派の水戸浪士6名に襲撃され重傷を負う(襲撃者は全員死亡)。これにより安藤は老中の座を追われた。これを世に「坂下門外の変」と云う。これを岐点に尊皇攘夷運動は益々激化していく。

【その後の情勢、幕府の対応】
 3.28日、ハリス、リンカーン大統領の親書を徳川家茂に送る。 

 5.9日、遣欧使節、対イギリスの開港・開市の延期を定めたロンドン覚書に調印。8.19日、遣欧使節、ロシアと開港・開市の延期を定めた約定書に調印。この時、使節団と同行した長州藩の高杉晋作が、清国の上海で、清国人が西欧人に酷使されているのを見て憤慨したと伝えられている。 

 5.29日、イギリス公使館東禅寺警備中の松本藩士伊東軍兵衛がイギリス兵を斬殺。

 6.10日、勅使大原重徳、一橋慶喜・松平慶永登用の勅旨を将軍徳川家茂に伝える。
 6.11日、幕府、西周助・津田真一郎・榎本釜次郎・赤松大三郎・林研海・伊東玄朴らにオランダ留学を決定。
 7.4日、幕府、諸藩に外国船購入の自由を認める。
 7.6日、幕府、一橋慶喜を将軍後見職に任命。
 7.6日、長州藩、藩是を公武合体から尊皇攘夷へ変更。
 7.9日、幕府、松平慶永を政事総裁職に任命。 
 8.20日、朝廷、岩倉具視・千種有文・富小路敬直の蟄居・辞官・落飾処分を決定。

 幕府、貿易視察使を上海に派遣(五代才助、高杉晋作らも随行)。

【土佐藩の攘夷派志士の動き】
 翌1862(文久2).1.15日、坂本龍馬(28歳)が長州萩に久坂玄瑞を訪ね、意気投合する。3.24日、坂本龍馬(28歳)、沢村惣之丞と脱藩。吉村寅太郎も脱藩。

【坂本龍馬と勝海舟の歴史的邂逅】

 春頃、脱藩し江戸に到着した坂本龍馬が、千葉重太郎(千葉定吉道場の長男)と共に勝海舟邸に乗り込み問答する。この時、勝は、咸臨丸での渡米体験談や、妹婿に当る佐久間象山の見識に触れ、国際情勢を諄々と説いて聞かせた、と云う。以降、龍馬(29歳)は、勝に私淑し入門することになる。

 勝の「氷川清話」の中で次のように述懐している。

 「彼(龍馬)は俺を殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時、俺は笑って受けたが、沈着(落ち着いて)何となく冒しがたい威権があって、良い男だったよ」。

 龍馬はその後、福井に赴いて松平慶永から海軍塾設立資金5千両を借り出している。更に熊本に出向き、勝の代理として松平慶永のブレーンの一人であった横井小楠を見舞い啓発される。翌1863(文久3).3.20日、姉の乙女(おとめ)に宛てた手紙の中で次のように述べている。
 「今にては二本第一の人物勝燐太郎という人の弟子に成り、日々かねて思いつくところ(神戸海軍塾創設)を精と致しおり申し候」。

 4.8日、開国論者の土佐藩参政・吉田東洋が、帰宅途中に那須信吾ら4名の土佐勤皇党に暗殺される。

【島津久光が率兵上京】
 薩摩藩ではこの頃、藩主・忠義の実父であった久光が実権を握っていた。久光は、開明的な斉彬とは対照的な国粋主義者であった。長州藩が朝廷や幕府間で勢い大いに振るうのを見て、自分も公武合体を実現させるために国政に乗り出そうと考え、斉彬が考案し成し遂げることが出来なかった率兵上京計画を実現させようと考えた。

 
久光の重臣としての地位を確立しつつあった誠忠組の同志であり、西郷の盟友であった大久保一蔵(いちぞう)は、この率兵上京計画を実現するにあたり、先君の寵臣として働いていた西郷を、奄美大島から召還させることを久光に願い出る。こうして、1862文久2).2.11日、西郷は約3年ぶりに本土・鹿児島に帰り着く。

 しかし、島から帰った西郷は、大久保の考えとは逆に、久光の率兵上京計画に猛烈な反対を唱える。西郷は、斉彬が考えた当時と現在の情況が余りにも違うこと、上京準備が余りにも整っていないこと、今軍勢を率いて京に入れば必ず予期せぬ事態が起こること、斉彬に比べて久光が人物的にも数段劣ることなどを理由に、久光に面と向かって堂々と反対意見を述べる。島津久光と西郷の確執が始まる。

 しかし、大久保はこの計画の一端を担うように根気良く協力を求める。その大久保の態度に、西郷は「そいなら、気張って(頑張って)やりもんそ」と答え、久光の行列が出発する約一ヶ月前に先発する。肥後の形勢を視察し下関で行列がくるのを待てという命令を受けていた。しかし、西郷が下関に入ってみると案の定情勢は激しく揺れ動いていた。久光や薩摩藩上層部が考えている公武合体路線の推進は既にアナクロであるとの西郷の憂いは的中した。しかし、一般の志士や浪士、他藩士、薩摩の急進派藩士らは、久光の率兵上京計画を薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いし、続々と京都・大阪に集結し、不穏な動きを見せ始めた。

 この落差を知る西郷は、このまま久光の行列が京・大阪に入ったら、思いがけない惨事が起こるかもしれない、何とか未然にそれを食い止めなければならないと考え、久光から下された下関で待てとの命令を無視し、その足で急遽大阪へと向かう。大阪に入った西郷は騒ぎ立てる浪士達を沈静させ、軽挙行動を戒め、自分の命令の元に厳しく統制することを約束させ、騒ぎを収める。

 下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷に激怒する。そしてその後、兵庫に入った久光は、西郷の捕縛命令を下す。久光の激怒を知った大久保は西郷を兵庫・須磨の浜に呼び出し、西郷に向かってこう言う。「久光公のお怒りは尋常ではごわはんから、もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるかも分かりもはん。こうなったのには、おいにも大きな責任がごわすから、吉之助さあだけを死なすわけには、いきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えて死にもそ」。

 大久保の悲壮な決意であった。しかし西郷は首を大きく横に振り、こう言う。「今、おいとおはんが二人とも死んだら、薩摩藩の今後はどうなりもすか、天下のことはどうなりもすか。死ぬときは、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばって堪えなければならない時は、こん今ごわすぞ。恥を忍んで、我慢する時でごわすぞ」。西郷のこの言葉に大久保は改心し、西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に西郷が自分の宿舎で謹慎していることを伝える。

寺田屋事件発生
 4.16日、島津久光が藩兵1千名を率いて上洛した。朝廷工作に入り、幕政改革の命令を請う。勅使・大原重徳を江戸に派遣。江戸城に入った勅使は、前福井藩主・松平慶永(春嶽)を政事総裁職に、慶喜を将軍後見職につけるよう要求した。幕府はこれを拒否する力を持たず、勅命に従う。

 この時、寺田屋事件が発生している。長州藩の真木和泉ら尊攘派志士たちは、島津兵上洛は倒幕の為と煽動した。これに応えようと京・大阪に集まった浪士や薩摩藩の急進派藩士(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助)らは、久光の入京を機に倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画していた。朝廷は憂慮し、久光に対し浪士鎮撫の朝旨を出す。

 4.23日、志士が京都伏見の寺田屋に集結しているとの情報を受け、大山格之助(おおやまかくのすけ・後の綱良)や奈良原喜八郎(ならはらきはちろう・後の繁)ら剣術の達人ばかり9名を鎮撫の士として派遣する。久光は「寺田屋の連中が、もし自分の命令に従わない時は、それ相応の処置を取れ」と厳命していた。相応の処置とは、斬っても構わないということを意味していた。

 寺田屋にいた薩摩藩の志士と派遣された鎮撫の士は互いにかっての誠忠組の同志でもあった。寺田屋に着いた大山らは、有馬らに軽挙な行動は慎むようにとの久光の命令を告げる。しかし、有馬は、「事ここに至ってはもはや中止は出来ん」とその君命を無視する。それを聞いた大山ら鎮撫の士は、「君命ごわす」と叫び、有馬らに斬りかかる。そして、ここに同志相討つ寺田屋の惨劇が起こる。

 特に、有馬新七の最後は壮絶を極めている。有馬は鎮撫側の道島五郎兵衛を壁へ押し付け、自分がその上に覆いかぶさり、同志の橋口吉之丞に「おい(自分)ごと突け、おいごと刺せ」と絶叫する。吉之丞は「チェスト〜」と気合をかけ、有馬と道島を同時に突き抜く。結果、寺田屋の浪士達は、有馬以下6名が死亡、2名が重傷を負い、鎮撫側は、有馬と共に突き刺された道島のみが死亡した。また、寺田屋に集まっていたその他20数人の薩摩藩士達は大山らに熱心に説得され、挙兵をあきらめ、藩邸に出頭することになる。

 この久光の取った迅速な鎮圧行動により、朝廷は久光に絶大なる信頼感を持つ。久光が朝廷の信頼を得た契機が、薩摩藩の若者同士の斬り合いとなった寺田屋騒動であったとは、余りにも皮肉過ぎる出来事であった。

西郷が再度蟄居させられる
 西郷は 久光の逆鱗に触れ、鹿児島へと送還される。今度は徳之島への遠島を申し付けられ、その後沖永良部島への遠島替えを命ぜられる。沖永良部島での西郷の生活は峻烈を極めた。西郷は、昼夜、囲いのある牢屋に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられた。沖永良部島は本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島で、吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であった。西郷はその獄舎の中で、三度の食事以外は水や食料もろくに口に含まず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと言われている。このような生活を続けてい西郷は、日増しに痩せ細り、体力も限界へと近づく。

【島津久光が幕政人事に介入し成功する】
 この頃薩摩は次のような動きを見せる。京都へ到着した島津久光は、朝廷より念願の幕政改革の勅許を受けることに成功し、勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して、1862(文久2).6.7日、江戸に入る。そして勅使の大原は、将軍・家茂に対し、幕政改革9ヶ条を認め朝旨を伝える(「島津久光、幕政改革を要請)。一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職にするよう幕府の人事に介入し、これに成功した。

 安藤失脚後、公武合体を推進したのは、薩摩・長州・土佐などの雄藩だった。薩摩藩主島津忠義の父久光が自ら朝廷に赴き、勅使と共に江戸に下り、幕政改革の勅命を伝えたことは、雄藩が幕閣政治に加わるという時代への幕開けを象徴していた。こうして行われたのが文久の幕政改革であるが、幕府を救う事にはならずむしろ幕藩体制の亀裂を深める方向を強めることになった。

 6月、五摂家の近衛忠ひろが、長州藩や尊王攘夷派志士などの後押しで関白に就任した。岩倉具視は、和宮を幕府に降嫁させた責任を問われ、「姦物」として糾弾され、無位無官で朝廷から排除された。


「生麦事件」、薩摩藩のお家事情
 8.21日、目的を果たした久光の行列が江戸から意気揚揚と引き上げる際、東海道生麦村(現在の横浜市郊外)において事件が起こる。久光の行列のなかを4人のイギリス人が馬で乗り入れ、その行列を横切ろうとし、薩摩藩士・奈良原幸五郎(前名喜八郎)は、「無礼者」と一喝するや、腰の刀を引き抜き、そのイギリス人の一行に斬りかかった。日本に観光に来ていたチャールス・レイックス・リチャードソンは、その太刀をまともに受け、死亡する。これを世に「生麦事件」(なまむぎじけん)と云う。この生麦事件が後年の薩英戦争につながっていくことになる。

 このように、大変な事件を起こしながらも久光は、1862(文久2)年閏8.7日、京に帰着した。久光としては、江戸での幕政改革の要求に成功し、朝廷の覚えも目出度く首尾は上々であったが、それは天皇を含む上流公家達の間だけであって、下級公家や一般のいわゆる志士や浪士、他藩の下級藩士らの評判は散々であった。久光の上京は公武合体策でなく倒幕に踏み切るものと一般の志士らに期待されていたが、久光が京に入って為したことは寺田屋での倒幕派の鎮圧であり、その後の久光の動きも「幕主朝従」であった為、逆に評判がどんどん下がっていった。

 久光が江戸から再び京都へ戻ってきた頃には、主唱する公武合体論は既に2周遅れの古い産物となり相手にされなくなっていた。そればかりか、久光には生麦事件への対処が重くのしかかってきた。イギリスが薩摩を砲撃するという噂が流れ、久光はこれに備えるため帰国を早めざるを得なくなった。

 久光が薩摩に向けて帰国した後、京の町にはテロリズムの嵐が吹き起こる。安政の大獄に働いた者や、開国論を唱える者、その他邪魔になる者は、全て暗殺という手段で消されていった。まさに、この時期は、幕末の時代の中でも、最も凄惨な暗黒の時期となる。

長州のお家事情と攘夷行動
 島津久光の上京は長州藩に影響を与えた。長州藩の長井雅楽の航海遠略策の評判をガタ落ちにさせた。これは長井の策が、「幕主朝従」といった形の幕府主導型の公武合体策であったが、久光の一連の行動から長井策の限界が際立つことと為った。かくて長井の威信も落ちた。長州藩は、航海遠略策は長井が勝手に主唱したもので、藩は無関係であったとまで言う始末となり、長井は切腹を命じられることになった。その背景に、長州藩内の松下村塾メンバーを中心とする下級藩士らが長井の排撃運動を目論み、航海遠略策の責任を追及し追いこんだという動きがあった。長井も又悲劇の人であった。

 その後の長州藩は長井の航海遠略策を引っ込めた後、藩論を急展開させ、最もラジカルな尊王攘夷論を藩是と定めた。尊皇攘夷とは読んで字の如く、王(天皇)を尊び、夷狄(いてき・外国)を攘う(撃退する)、という過激な論であるが、長州藩の急進派藩士は最も過激な尊皇攘夷論を吹聴し、これが勢いを持ち始めていた。

 倒幕派が形成されたのは長州藩が最初であった。但し、長州藩では、正義党(倒幕派)と俗論党(佐幕派)の2派閥が抗争していた。正義党は村田清風を祖に周布政之助や松陰門下が、俗論党は坪井九右衛門を祖に椋梨藤太など門閥階級の武士が所属していた。正義派は久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文・・井上肇らを中心としており、幕府に恭順を装いながら対抗せよという態度をとっていた(後に、尊攘派から後に倒幕派へ転換することになる)。公武合体論を唱えていた長州藩は、久坂玄瑞たちの行動に押されて、尊皇攘夷へ変わっていく。

【グラバーの斡旋で、伊藤俊輔、志道聞多らが渡英】
 この頃の伊藤俊輔(後の博文)の動きが注目に値する。それまで尊王攘夷運動に参加し、1862(文久2).12月、高杉らと品川御殿山英国公使館焼打に加わる。山尾庸三(ようぞう)とともに、国学者・塙(あなわ)次郎を斬殺。翌1863(文久3).3月士分に列せられた後、志道聞多(後の井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三らと共にひそかに渡英している。以後、開国・富国強兵論に転じ、四国艦隊下関砲撃事件を知って翌年6月急いで帰国し、長州藩と連合国側との講和に尽力する。この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従っている。 この間尊攘派に狙われ、幾度か危難にあった。以後討幕運動に従い、第1次長州征伐後、俗論派が長州藩要路を制した際、高杉晋作を援けてこれを一掃し、第2次長州征伐戦の際は、長崎との間を往来して汽船や兵器の購入に尽力し、薩長連合に益すること大であった。

一橋慶喜の復権
 7月、桜田門外の変で大老井伊直弼が倒されたことにより謹慎が免じられていた一橋慶喜(よしのぶ)が、新たな職である将軍後見職に任じられた。慶喜が幼い将軍を助ける形で政治の表面に登場することとなった。

 この頃、外国との関係をどうするかの大きな問題に直面しており、政事総裁職の松平慶永と論争になる。松平慶永は破約攘夷説を唱えていた。それは、アメリカとの条約をはじめ、朝廷の許しを得ていない条約は無効なので、破約せよというものであった。時に文久2.9月、これに対して慶喜公は開国説をとなえて、概要「世界万国が天地の公道に基きて互に好みを通ずる今日、我邦のみ独り鎖国の旧套を守るべきにあらず。然るに今に至り、従前の条約は不正なれば破却すべしと言ふとも、其説は内国人の間にこそしか言ひもすべけれ、外国人より見れば、政府と政府との間に取換はしたる条約なれば、決して不正とは言はざるべし。今余が斯かる意見を立つるは、既に幕府を無きものと見て、日本全国の為を謀らんとするにあり。此際余が開国論を主張する由世上に流伝せば、忽ち大害を惹起すべし、されば、周防(板倉勝静)越中(大久保忠寛)の外には、これまで談じたることなし」と述べ、慶喜公は松平慶永の破約攘夷説を退け、開国説を主張する(文久二年九月晦日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)。

 その後慶喜公は、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任し(元治元年三月から慶応二年七月まで)、その後将軍となる(慶応二年十二月から慶応三年十二月まで)。この間は条約勅許(慶応元年十月勅許なる)・兵庫開港(慶応三年五月勅許なる)を巡る問題が続く。また、外国の公使とも会見し、殊にフランス公使のロッシュ(元治元年三月着任)は、フランスの日本における地位の確立と、これまでの劣勢の挽回ということもあり、幕府へ対して、横須賀製鉄所の設立(慶応元年九月完工)、横浜フランス語伝習所設立、陸軍教官の招請などいくつか協力を申し出ている。一方、慶喜公は、イギリス公使のパークス(慶応元年閏五月着任)とも会い、イギリスは幕府は支持するに足らないとし、薩摩・長州二藩と親交し、討幕、王政復古を助成するようになる。


【会津藩主・松平容保が京都守護職を拝命される】
 閏8.1日、幕府は、福井藩主松平慶永(まつだいらながよし)を政事総裁職に、会津藩主・松平容保は京都守護職、長岡藩主・牧野忠恭を京都所司代に任命した。

 これにつき、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。
 概要「会津藩主松平容保が京都守護職を拝命した時から、会津二十三万石の悲劇が始まる。この時、西郷頼母は、藩主容保が京都守護職に就任する事を最後まで反対した。西郷頼母は霊的な予言ともいうべき諫言『薪(たきぎ)を背負って火の中に飛び込むが如し』を藩主に申し立て反対したが、この進言は退けられた。

 会津藩主松平容保が京都守護職に任命された時、西郷頼母と同じような諫言をした者が、長岡藩国家老(当時は郡奉行兼町奉行)・河井継之助(かわいつぐのすけ/文武両道に優れた陽明学者。洋式の銃砲を購入してフランス式の調練を行なった。フリーメーソンと取り引きした事で、知り人ぞ知る逸話。戊辰戦争にあたり長岡城に籠城して政府軍を苦しめたが負傷し、落城後に死亡)であった。

 長岡藩主・牧野忠恭が京都所司代に推挙された事について、河井継之助は「微弱小藩の力を以っては紛擾(ふんじょう)の渦中に巻き込まれるばかりでありますから、今は藩政を充実して力を蓄え、大事を計るのが何分にも先決でありましょう」と、藩主に所司代辞任を建言(けんげん)したが、これは受け入れられず、河井継之助は空しく帰国している。継之助はこれから騒然となる動乱の時代を読み切っていた。文久二年(1862)八月の事である。

 12月、会津藩主・松平容保は、藩兵約千人を引き連れ京都に入った。この頃、京都には天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れていた。それらテロを続ける長州や土佐の過激派集団の背後には、これまた過激論を息巻く急進派公家がいたため、容保としてもなかなか手が付けられなかった。尊王攘夷派によるテロルと長州藩の台頭に対処するための取締りを任務とする京都守護職として赴任しながら、その長州藩の横暴を食い止めることが出来ないことに、容保としては歯噛みするような思いで毎日を過ごすことになった。

【その後の情勢、幕府の対応】
 9.11日、西周助・津田真一郎・榎本釜次郎(武揚)・赤松大三郎・林研海・伊東玄朴らオランダ留学生長崎を出発。 
 10.22日、一橋慶喜、開港の持論が容れられずとして、将軍後見職の辞表を提出。 
 12.19日、横井小楠と吉田平之助が襲撃され、吉田が死亡。
 12.21日、塙次郎と加藤甲次郎が伊藤博文らの手で暗殺される。
 12月、幕府、陸軍奉行設置。

【「尊王攘夷」の動き】
 9.18日、薩摩・長州・土佐の3藩、朝廷に幕府へ勅旨を派遣し攘夷を決行させるよう建言する。9.21日、朝儀、攘夷を決定する。10.27日、勅旨江戸に到着。10.27日、幕府、攘夷の勅旨に従うことを決定。11.27日、勅使三条実美・姉小路公知、攘夷督促勅書を幕府に伝達。 12.5日、徳川家茂、勅使三条に攘夷決行と親兵編成について奉答書を上程する。12.12日、江戸品川御殿山に建設中のイギリス公使館が高杉晋作らによって焼き討ちされる。

幕末志士の登場と生態

 「雄藩」として台頭しつつあった薩摩藩や長州藩、土佐藩に共通する特徴として、藩内で下級武士たちによる突き上げが始まっており、下級武士達は、藩政改革から更に幕藩体制そのものの変革まで視野に入れて旧体制批判を展開し新秩序を模索し始めていた。

 藩内の改革に絶望した下級武士の中から脱藩武士が生まれ始めたのもこの頃からである。この武士を「幕末志士」と云う。志士達は既に藩の枠組みを越え、日本という国家的立場から来るべき政治体制を模索し始めていった。「幕末志士」達は、倒幕で共同戦線を構築していくことになるが、互いの思想は大きく隔たっており、暫くの間その構想づくりに忙殺されていくことになる。様々な立場による思想がからみ合いながらやがて「尊王攘夷」という流れを形成していくことになる。

 この当時、「幕末志士」派による政治テロが相次いで発生していた。概要は「」に記した。


1863(文久3)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 2.6日、長井雅楽自刃。 
 5.9日、老中格小笠原長行、生麦事件の賠償金440000ドルをイギリス代理公使ニールに公布する。
 5.10日、幕府が指定した攘夷期限5月10日を受け、長州藩が攘夷期限が来たとして、久坂玄瑞らは馬関(下関)で軍艦2隻で田ノ浦に停泊中のアメリカ商船ペムブロークを砲撃する。(下関事件)しかし欧米艦隊により報復攻撃が始まる。壇ノ浦砲台、前田砲台は破壊された。 
 5.16日、坂本龍馬と横井小楠・三岡八郎・村田巳三郎会合。
 5.18日、幕府、英仏両軍の横浜駐屯を許可。

【長州藩士5名がイギリスへ密航】
 トーマス・グラバーと長州藩士の密談で、西洋密航を企画。横浜の「英一番館」のジャーディン・マセソン商会に応援を頼み、密航の準備が進められた。この密航の首謀者は井上聞多(馨、28歳)で、同行者は、遠藤謹助(27歳)、山尾庸三(26歳)、伊藤俊輔(博文、22歳)、野村弥吉(20歳)の五名。井上と伊藤はつい数か月前、高杉晋作指揮のもと品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちしたばかりだったが、一転して、西洋をよく知らねばと密航計画になった。

 5.12日(6.27日ともある)、長州藩士の井上聞多・野村彌吉・伊藤俊輔・山尾庸三・遠藤謹助の5人が、留学のため横浜を出発する。一行は横浜の英一番館に勢ぞろいして断髪、不似合いな洋服に着替えて、マセソン商会所有の蒸気船でまず上海へ向かい、上海で大型帆船二隻に分乗して、ロンドンをめざした。横浜出港の前々日、長州藩は下関海峡に停泊中のアメリカ商船を砲撃、攘夷の火蓋を切っていた。

 9.23日、一行がロンドンに到着。ユニバーシティ・カレッジの聴講生となるが、その間、先着した井上と伊藤はアバディーンのグラバー家を訪れ、弟二人と共に貿易商社「グラバー兄弟商会」を営む長男チャールズの案内で造船所を見学している。

 彼らが初めて長州藩の外国船砲撃、その報復として英米仏蘭の四国連合艦隊の下関砲撃、砲台占領といった事態を耳にしたのはロンドン到着三か月後のことだった。五人は会議を重ねた。井上と伊藤は、我ら二人は死を賭して攘夷の藩論を転換させるため急遽帰国する旨主張した。ほかの三人も同行を求めたが、井上はそれを押し止め、貴公たちはこの地で勉学に励み、国に尽くせと説得した。

 井上と伊藤の帰国の船はグラバー兄弟商会が手配してくれた。残って学業を続けた山尾庸三は造船の大家となって工部卿(大臣)まで昇り、野村弥吉(のち井上勝)は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長と、それぞれ日本の近代化に貢献し、山尾と野村は子爵を授けられている。

 翌1864(文久4年・元治元).6.18日、井上聞多と伊藤俊輔、長州藩の危機により、藩を説得するため急遽帰国。6.25日、井上・伊藤の和平提案、長州藩重臣会議で否決される。6.28日、長州藩、外国船との戦闘を布告。

【新撰組の登場】
 最悪の治安情勢の京に、幕末志士の登場に抗する形で新撰組前身、壬生浪士組が誕生する。幕末志士活動の活発化に危機感を抱いた幕府が、「毒を以って毒を制する」形で浪士募集策を導入した。2.4日、清河八郎主宰による幕府直轄隊編成のための浪士の会合が行われ、3月頃、清川八郎発案により「浪士組」が結成された。「浪士組」は、将軍家茂上洛の警護のためと称して、腕利きの侍を234名を江戸で募集し、4月、江戸へ向かう。上洛後は壬生・新徳寺に居を構えた。この時、後の新撰組隊長となる近藤勇も試衛館仲間とともに参加している。

 ところが、清河八郎は、朝廷の警護番となり攘夷に向けて活動することを表明し尊王倒幕派へ移行した。この時、幕府の為に京都を護衛するのが筋として京都残留浪士組(近藤勇・芹沢鴨をはじめとする派の約23名)は会津藩・京都守護職・松平容保の支配下の御預かりになり、京の町の治安維持に当たることになった。

 この流れが新撰組となる。3.13日、江戸帰還に反対した浪士13名が京都守護職に属して治安組織「新撰組」を結成。新撰組は隊内に厳格な局中法度を定め、組織を拡大していった。その内容は、一、士道に背くまじき事、一、局を脱するを許さず、一、勝手に金策致すべからず、一、勝手に訴訟取扱うべからず、一、私の闘争を許さず。

 しかし、浪士組、新撰組、及びそれぞれの内部でイニシアチブ闘争が発生する。3.24日、殿内義雄が殺される。4.6日、阿比留栄三郎が暗殺される。4.13日、清河八郎が佐々木唯三郎らに暗殺される。

 この間、新撰組による政治テロも頻発していった。つまり、志士派のテロルと新撰組のテロルが入り乱れ始めたことになる。
(私論.私見) 新撰組考

 幕末志士と新選組の双方にはそれぞれの主張があり、一概に善悪の判断には馴染まない。共に、己の信念に基づいて、己の生きる道を貫き通し、命をかけた戦闘に立ち向かっていった史実こそ貴重と思われる。

【将軍の歴史的上洛】
 11月、慶喜公は権中納言に任ぜられ、12.15、に江戸を発って上洛する。4代将軍家茂も公武合体推進のため、3代将軍家光以来229年ぶりに上洛し朝廷詣でする。

 2.13日、将軍家茂が3千人率いて江戸を発ち、3.4日に入京、二条城に入る。この将軍上洛にともない、水戸十代藩主である慶篤公(順公)もやはり江戸を発って上京する。2.16日に小石川邸を発って、3.6日に京都に到着している。この時に藤田小四郎、武田耕雲斎らが随行する。

 こうして舞台は江戸から京都に移る。将軍、将軍後見職、水戸藩主、そういう人達が京都に集まり、3.11日、孝明天皇御自ら賀茂下社・上社に行幸し、攘夷を祈願する。将軍家茂も賀茂社攘夷祈願行幸に同行する。

 4.11日、孝明天皇が石清水(男山)八幡宮に行幸し、攘夷を祈願する。この背景には京都での長州藩の台頭があった。長州藩の藩論は航海遠略策から最もラジカルな尊王攘夷論に変化し、長州藩の急進派と呼ばれる藩士らが盛んに公家達に尊王攘夷論を吹聴し、思うがままに朝廷を操りはじめていた。

 4.20日、徳川家茂、攘夷期限を5月10日として攘夷決行する旨奉答する。

 将軍後見職の慶喜公の両者が京都に来ており、江戸はがら空きの形であり、これはまずいというので水戸藩主の順公が将軍の目代(代理)として江戸に帰ることを命ぜられた。3.25日、順公が将軍の名代として江戸へ向けて帰る。

 順公が京都を離れる前日の3.24日、順公に代わって京都の守衛は弟の松平昭訓(余四麿)があたるよう命ぜられた。これを補佐するのが家老武田耕雲斎達である。その耕雲斎や大場一真斎に対して、国事に尽瘁すべき旨の朝廷の命令が出る。将軍家茂、順公のお供として山国兵部と一緒に京都に上った藤田小四郎は京都に残り、長州藩の人達と色々会合を持つ。

 4.15日、耕雲斎は宮中において天皇の御陪食を仰せ付かりますと共に、食事の後で、孝明天皇が御使いになられた御箸を拝領している。水戸の家老でありますから直臣ではなく、陪臣である耕雲斎が天皇の御陪食に与るという、この辺りが、耕雲斎の人生の中で最も華やかな時期であり、この人が翌々年にはこの世から消えるということは、誰も想像しなかった。

 4.20、将軍家茂が、5.10日を期して攘夷を実行するということを天下に公表する。

 4.22日、将軍家茂が上奏した二日後、慶喜公は京都から江戸へ帰る。将軍後見職の慶喜公が江戸に戻ってしまう。その時に武田耕雲斎も慶喜公と共に江戸に戻る。その耕雲斎は、6.16日に水戸領海岸を巡視せよ、水戸藩としてどういう防備をすればよいか検討せよと命じられる。この間に「八月十八日の政変」。それと前後して天誅組の乱、生野の変などが起こる。慶喜公が再び上京された後の12.27日に、関東の動きが非常に不穏であるということから、幕府の命により関東鎮撫を依頼され江戸から水戸に戻る。 

【水戸幕末争乱(天狗党の乱)】

 3.27日、水戸藩町奉行・田丸稲之衛門を総帥と仰ぐ水戸藩の尊攘檄派(藤田小四郎藩士、郷士、神官、村役人ら63名)が、「尊王攘夷」を旗印として掲げ筑波山に挙兵した。天狗党と称された。

 一方、水戸藩内には、同じ尊攘派であっても急進主義の檄派に対立してゆるやかな改革をめざす保守系鎮派が勢力を保持しており、門閥派の市川三左衛門らは、尊攘鎮派が主流を占める藩校弘道館の諸生(書生)と結んで反天狗派を結成(これを通常「諸生党」と称する)し藩政の実権を握った。

 以降、両派の争乱が勃発し、時の政局と絡み合っていくことになる。概略は、「水戸天狗党の乱」に記す。


【この頃の京都の政情】
 そのころ京で力を持っていた藩は、まず会津藩。 幕府側の藩であり、京都守護職、そして新撰組を抱え、ますます力をつけていった。 一方、攘夷派では激しい尊王攘夷を掲げて力をつけている長州藩と、いちはやく藩主の島津久光を上洛させた薩摩藩が競争するかのように力をつけていた。長州と薩摩は同じ攘夷派ではあるが、政局のイニシアチブを取ろうとして激しくぶつかり合っていた。

 薩摩藩の島津久光は国政のイニシアチブを握るべく、遠い薩摩からわざわざ兵を率いて京都に入り、江戸にも下向して幕政改革を迫ることに成功したが、京に帰ってみると、長州藩の尊皇攘夷論が勢い盛んになっていた。久光としては、折角の努力が長州藩のために水泡に帰したことから長州藩憎しという感情が芽生えた。この結果、会津藩と薩摩藩とが、お互いの利害関係が一致し、お互いに接近し合い、手を握るという前代未聞の出来事が起こる。

【「姉小路公知暗殺事件」】
 5.20日、国事参政職にして孝明天皇の近臣の最も信頼の厚かった公卿・姉小路公知(きんとも)が、京都御所の朔平門外猿ヶ辻何者かに襲撃され暗殺された。廟議を終えて、護衛を連れ御所を退下中に、三人の刺客に襲われた。姉小路は何度も切り付けられながら奮戦し、奪い取った刀を杖代わりに自邸に辿り着いたものの玄関先で倒れ数刻後絶命した。孝明天皇は怒りに震え、下手人を捕らえるよう厳命した。

 幕府は町奉行や在京諸藩に下手人の探索を命じた。土佐藩の那須信吾は姉小路邸に駆けつけ、現場に落ちていたとされた差料を見て、それが薩摩藩の田中新兵衛のものだと断言した。こうして人斬り新兵衛の異名をとる薩摩藩士田中新兵衛は京都町奉行所で取調べを受けるはめにあった(「田中新兵衛の姉小路暗殺疑惑」参照)。

 新兵衛は否認したが、京都東町奉行永井主水正尚志の訊問中、現場に遺棄されていた証拠の刀「奥和泉守忠重」を突きつけられると、やにわに脇差をもって屠腹、一言の申し開きもせずに自刃した(「新兵衛自害事件」)。以降、事件は迷宮入りとなった。

 この事件は、わざわざ証拠物件が現場に残されており、真相不明であったが、
諸藩有志の審議によって、田中新兵衛が犯人ということに決した。その結果、薩摩藩は乾御門の警備を解任され、長州藩が京都政界を牛耳ることになった。薩摩は御所乾門の警護を解かれると、京の政権から追い出された。京ではますます長州の力が独走をはじめる。公卿らを丸め込め、倒幕に向けて一気に加速させようとし始めた。

【長州藩が外国船を砲撃、高杉晋作が奇兵隊編成】
 5.23日、長州藩は、幕府の外国船討ち払令を実行し、下関で外国船(米仏蘭)を砲撃する(「四国艦隊下関砲撃事件」)。長州藩砲台、フランス軍艦キンシャンを砲撃。5.26日、長州藩砲台、オランダ軍艦メデューサを砲撃。6.1日、長州藩、アメリカ軍艦ワイオミングと交戦し敗北する。6.5日、フランス東洋艦隊、長州藩砲台を攻撃し、陸戦隊を上陸させ前田・壇ノ浦両砲台を占領。 

 6.7日、高杉晋作、藩に奇兵隊編成を建白し、長州藩が奇兵隊を創設する。この敗報により毛利藩主は高杉晋作に善後策を命じ、憂国の志があればだれでも参加できる奇兵隊が結成された(「高杉晋作、奇兵隊を編成」)。後に、奇兵隊は維新回転の原動力となっていく。

【薩英戦争】
 「生麦事件」により幕府は賠償金を払うが、薩摩藩は拒否した。こうして、「生麦事件」が薩英戦争の引き金となった。薩摩藩は攘夷実行に向けての準備を進め、実弾射撃訓練や模擬戦を行いその日を待ち受けた。

 6.27日、イギリス艦隊が鹿児島湾に到着、停泊。6.28日、イギリス側は前年に起こった生麦事件の犯人の検挙と賠償金の請求を要求したが、交渉は決裂した。7.2日早朝よりイギリス艦隊の砲撃が始まった。世に「薩英戦争」(さつえいせんそう)と云う。イギリス艦隊と薩摩藩砲台群の交戦となったが、イギリス海軍のアームストロ ング砲は、薩摩藩の砲弾の4倍の射程距離を誇る世界最新砲であり、戦死傷者10 余名、市街地焼失1割の被害を与えた後、数十名のイギリス兵が上陸する(「薩英戦争勃発 」)。一方、英国艦隊も嵐の中の戦闘がうまくいかず死傷者を多数出す。この戦闘で、イギリスも旗艦・ユーリアラス号のジョスリング艦長の戦死も含め戦死傷者60余名となった。この薩英戦争では、東郷平八郎、山本権兵衛たちが初陣を飾っている。

 両者痛み分けとなったが、イギリス兵の上陸は薩摩藩の面目を失わせることになった。結局、10.29日、薩英間に和議が成立し、薩摩藩はイギリスに賠償金の支払いを約束。しかし列強の軍事力を体験した薩摩藩は、外国の力を思い知らされ攘夷の不可を一早く悟ることになった。藩論が大きく展開し、これまでの攘夷論から開国論へと路線を転換、急速にイギリスに接近していく。 イギリスの長所を吸収するために接近、通商政策に転じることになり、イギリスも薩摩藩の実力を評価して友好の方針を取るよ うになった。イギリスからの軍艦や武器の購入、留学生の派遣、紡績機械の輸入などが執り行われることになった。

【その後の情勢、幕府の対応】
 6.24日、長州藩兵、小倉藩田ノ浦を占領し、砲台を築いて、外国船攻撃を準備する。6.24日、長州で外国船水先案内をしていた重兵衛が何者かに殺害される。
 7.23日、長州藩兵、下関港に来航した幕艦「朝陽丸」を砲撃。7.26日、奇兵隊、朝陽丸を占拠。
 8.10日、新撰組佐伯又三郎、芹沢鴨の内命で佐々木愛次郎を斬るも、自らも芹沢一派に暗殺される。この頃、見廻組、新撰組の仕業と思われる政治テロが続発している。

【攘夷派挙兵の動き
 1863(文久3).8月頃、この頃の京都は長州藩の影響が強く、攘夷倒幕派志士による反乱計画が練られていった。攘夷派は、孝明帝の大和行幸に際し、挙兵討幕の詔を得ようとしていた。一部が先駆的な挙兵で一気に倒幕気運を盛り上げようとしていた。

 8.13日、孝明天皇から攘夷親征の詔勅が発布された。毛利敬親(たかちか)の建議で、孝明天皇が大和に行幸されるとの大詔(だいしょう)が下った。

 8.14日、首領格である吉村寅太郎(土佐)、松本奎堂(三河)ら38名は、孝明天皇自らが倒幕のため大和行幸するとの計画にあわせ、宿願を達せんとして公家の中山忠光卿を促して京都の方向寺に集まり、大和での挙兵を確認した。中村忠光の妹・慶子が孝明帝の寵愛を受けていたので、背後には朝廷の支持が目論まれていた。

 8.17日、吉村寅太郎らが中山忠光を擁して倒幕を目的とした天誅組を結成した。天誅組は、その日の夜のうちに幹部クラスが淀川を下り伏見から大坂へ出て富田林から観心寺の後村天皇陵、千早城、楠正成首塚などに参拝。このころには、富田林の庄屋・水郡善之祐、藤本鉄石(備前)らも合流していた。堺へと進み、金剛山を越えて、大和五条に下り挙兵した。三条実美や真木和泉は平野国臣を派遣し、鎮静を図ったが、攘夷派志士は構わず計画の実行に入った。

 天誅組は大和で挙兵し、大和五条代官所を襲撃し、短時間で鈴木源内ら5人を殺害。桜井寺に引き上げた。こうして、ひとたびは支配下に置くことに成功する(「天誅組の乱が起こる」)。

 この頃、武蔵国血洗島村の尾高新五郎(渋沢栄一の従兄)、渋沢栄一(当時24歳)・従兄の渋沢喜作(のち成(誠)一郎とも称した)ら六十数名が、攘夷を実行する計画を持ち、高崎城をまず襲撃して乗っ取り、そこから一挙に横浜を襲撃するという計画を立てている。しかし、京都から帰った新五郎の弟・尾高長七郎に止められ、栄一らは涙を呑んで高崎城襲撃を断念している。栄一と喜作は、間もなく血洗島村に居られなくなり江戸に出る。平岡円四郎との関係で京都に出て慶喜公に会い、一橋家の家臣となる。天誅組の挙兵の他、全国各地でこうした攘夷の計画が青年達によって起こそうとされていたということになる。

【「8.18政変」、長州が京都より追放される】
 薩摩は御所乾門の警護を解かれ、京の政権から追い出された。代わりに長州が独走を始めた。長州派公卿を通じて倒幕に向けて一気に加速し始めた。

 これに対し、
公武合体派が、攘夷派の挙兵に危機感を高め、反撃する。孝明天皇の意思が倒幕ではなく公武合体、つまり朝廷と幕府が手を握り合うことであることを知った薩摩は長州に逆襲する。薩摩は、保守派の公家や京都に於ける幕府勢力の中心であった会津藩と図り、薩摩系公卿から天皇に働きかけ、三条実美(さねとみ)ら7名の長州系の公卿と長州藩の追い出しをはかった。これによって長州藩の宮内警備の任を解こうとした。京都守護職である会津藩主松平容保は、薩摩の申し出に賛同、中川宮にその秘策を謀った。こうして、1863.8.18日、薩摩・会津・公武合体派公卿たちは、尊攘倒幕派の長州藩、長州派公卿の京からの一掃政略を仕掛ける。これが成功し、公卿はやむなく長州に落ち、長州藩の尊皇攘夷派は京都から一掃されることになった。世にこれを「8.18政変」、「七卿落ち」と云う。

 8.17日の夕方、薩摩系の穏健派公卿の中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)は、御所に参内し、孝明天皇に働きかけ、長州系の公卿と長州藩の追い出しをはかった。天皇から急進派公家の三条実美ら7名の国事掛免職の勅許を得る。そして、同時に長州藩は、受け持っていた堺町御門の守衛を免じられた。

 
因州・会津の兵に令して、「国家の害を除くべし」との勅を天皇より賜る。夜になって、中川宮らの「非常の大議あるゆえ、守護職・所司代は、それぞれ人数を引率して子之半刻に参内すべし」との令旨があった。さらに薩摩藩にもこの旨を通達するよう令旨が下った。この日未明、薩摩藩と会津藩が天皇の許可を得て、御所を閉鎖し薩摩藩兵の軍事力でクーデターを起こす。葉室長順卿によって禁門が閉ざされ、非番の堂上の参内を止め、守護職・所司代、薩摩・因幡・備前・越前・米沢以外の諸藩士の九門立入りが禁足とされた。これにより長州藩は、禁門警護の任を解かれ、薩摩藩がこれに代わって、その任につくこととなった。


 薩摩、会津、新撰組の兵が俄かに動き出し、武装して御所の門を固め始めた。長州は堺町御門の警護を解かれ、薩摩、会津、そして新撰組が陣取った。長州は納得がいかず、堺町御門のまえに集結する事態となった。この政変に壬生浪士組も禁門に馳せ参じた。会津藩士鈴木丹下の「騒擾日記」は、概要「壬生浪人と号し居候者共五十二人一様の支度致し、浅黄麻へ袖口の所計白く山形を抜候羽織を着し、騎馬提灯へ上へ長く山形を付け、誠忠の二字を打抜に黒く書置候。大将の芹沢鴨、近藤勇と申者は小具足烏帽子を冠り、鉄扇を取り云々」と伝えている。新撰組は南門を守衛した。

 
長州は堺町御門の警備を取り戻したかったが力づくというわけにはいかなかった。そうすれば、京で騒ぎを起こした罪は重いとして朝敵とみなされ更に不利になることが予想された。泣く泣く長州は撤退を始める。これにより、ただでさえ仲のわるかった長州と薩摩はさらに険悪な関係となっていった。勤皇攘夷派の流れが堰止めされ、公武合体へと時勢が流れ始める。

 七卿(三条実美、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、錦小路頼徳(にしきこうじよりとみ)、沢宣嘉(さわのぶよし))と長州藩士らは、京から落ちざるを得なくなった(「七卿落ち」)。替わって中川宮を中心とする薩摩・会津・桑名などが御所の中に入り、公武合体派が勢力を盛り返した。この会津と薩摩の長州追い落としクーデターを世に「8.18政変」と云う。

 
これにより長州と薩摩は、さらに険悪な関係となっていった。長州藩の志士達は「薩賊会奸」の怨念に固まった。尊皇攘夷一色であった京の政治状況は一変し、公武合体へと時勢は流れ始めた。
これにより、不可逆的政争が次々と勃発していくことになった。

【「天誅組の乱」、「生野の変」】
  公武合体派の猛烈な巻き返しによる「8.18政変」により孝明天皇の大和行幸は延期され、天誅組の乱は大義名分を失った。加えて、長州勢力が京より駆逐され、8.19日、三条実実ら長州派公卿7名は長州へ逃れた。長州藩や七卿は都を落ちたという情報が入った。しかし、土佐藩士吉村寅太郎率いる反乱軍は緒戦で大勝利を納めた矢先だったためにそのまま進軍を続けた。

 8.18日、既に大和で挙兵し、大和五条代官所を襲撃し5人を殺していた天誅組は更に南下し、かって南朝方について活躍した土津川郷士に参加を呼びかけ、賛同した数千人と共に大和高取藩の(植村氏)の居城である高取城攻撃を計画する。この高取城は大和屈指の要害。堅固さは五条代官所などとは比べものにならなかった。8.26日、高取城を攻めるが失敗する。主力部隊であった土津川郷士は敗走、幹部も天ノ川に退いた。

 このときになって朝廷は忠光が勅使ではないことを畿内に通達。天誅組は朝廷の後ろ盾を失った。反乱軍はここからは崩壊の一途をたどる。9.4日、幕府が天誅組討伐を決定。京都から続々と切り崩しの使者が幹部や土津川郷士を訪問。9.15日、忠光は参加者に進退の自由を許す。このときにはもう、土津川一帯は紀州・彦根・津の藩兵に包囲されており、忠光は幹部らが討死にする間に突破し長州に逃れたが後に死ぬ。

 寅太郎は高取攻防戦で深手を負い、9.27日に津藩の銃撃で死亡、鉄石も同日、紀州藩陣地に突入し討死にを遂げる。先頭で失明した奎堂は自刃。那須信吾・安岡喜輔ら残りの幹部も討死にや自刃を遂げ、それ以外は、獄舎に繋がれた。鷲家口の戦闘で天誅組壊滅。中山忠光は長州藩大坂藩邸に逃亡。これを世に「天誅組の乱」と云う。

 吉村寅太郎らが大和で討幕の挙兵(天誅組の乱)したのに応じ、10.12日、沢宣嘉、平野国臣(幕末の志士で福岡藩士。国学に詳しく、有職故実に通暁。1858年(安政5)脱藩、京都で同志と国事に奔走した)を主将に但馬生野の農民たちがが幕府代官所を襲撃。しかし、周辺諸藩の出兵がはじまると、内部分裂により3日間で鎮圧された(「生野の変」)。翌年の「蛤御門の変」の際に、平野国臣ら37名が急遽処刑される。

【長州の鬱憤」】
 8.19日、長州藩に派遣されていた幕使鈴木八五郎ら3人、長州藩士に殺害される。8.21日、長州藩に派遣されていた幕府正使中根市之丞ら5人も長州藩士に殺害される。

【「土佐勤皇党壊滅させられる」】
 土佐藩がこの時勢に対応し、山内容堂は、長州と連携していた武市半平太をもはや利用するのに値しないと判断し、土佐勤皇党壊滅の行動にでる。京にいる土佐人すべてに帰国命令を出した。これにより土佐勤皇党は次々と捕縛され始めた。9.21日、土佐藩、土佐勤王党郷士の弾圧を開始、党首武市半平太らを逮捕。武市瑞山投獄される。

【新撰組内で近藤派がイニシアチブ確立する】
 9月、京都残留浪士組はこの政変に参加し、”新撰組”と命名される。その直後の9月上旬、近藤派が新撰組局長・新見錦を祗園山緒で自刃に追いこむ。10.18日、新撰組局長・芹沢鴨、平山五郎らを八木邸にて暗殺(粛正)、近藤勇が新撰組の唯一人の局長となる。

【西郷再度表舞台に登場する】
 薩摩藩としては、「8.18政変」で会津藩と手を結ぶことにより、京における藩の勢力を回復しようと考えたが、実際それは逆効果となった。会津藩と結んだことによる効果は何も無く、逆に勤皇藩と思われていた薩摩藩が、幕府側の会津藩と同盟したことにより、評判がガタ落ちとなった。

 久光並びに薩摩藩の首脳部は行き詰まり、この危機を救えるのは西郷しかいないという運動が藩内に起こり始める。最初に先頭に立って西郷赦免の運動を起こしたのは、寺田屋騒動の生き残りの柴山竜五郎と三島源兵衛(後の通庸)、福山清蔵といった西郷と縁の深い人々であった。三人は京で協議した結果、大久保や家老の小松帯刀(こまつたてわき)といった久光の重臣達に、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼むことにした。しかし、それら重臣の人々誰もが久光の西郷嫌いをよく知っていたので、三人の依頼になかなか首を縦に振らなかった。そこで三人は、久光の特にお気に入りの家臣である高崎左太郎(たかさきさたろう)と高崎五六(たかさきごろく)の二人に、久光に願い出てもらうように頼み込む。

 高崎両名は、三人の熱意に心を動かされ、死を決して久光に西郷赦免を申し出た。「西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす」。その願い出を聞いた久光は、苦々しい表情を浮かべながら、こう言った。「左右みな賢なりというか・・・。しからば即ち愚昧の久光ひとりこれをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公において、良いと言われるのなら、わしに異存はない」。久光はそう言うと、くわえていた銀のキセルをギュッと歯で力強く噛み締めました。その銀のキセルには、久光の歯型が残っていたと言われていますので、どんなに久光が西郷の赦免を嫌がったかは、これをもっても分かると思います。しかし、久光としても薩摩藩の今後の命運を考えると、西郷ほど人望や手腕において右に出るものがいない者を、南島に朽ちさせて置くということが情勢上出来なかった。こうして沖永良部島にいた西郷に、赦免の使者が到着しました。1864(元冶元).2.21日のことであった。


 西郷は召喚され、再び時代の表舞台へと登場することになる。1864(元冶元).2.28日、西郷は鹿児島に帰り着く。そして、席の暖まる間もなく京へ呼び出され、久光より軍賦役兼諸藩応接係(ぐんぶやくけんしょはんおうせつがかり)を任命される。軍賦役とは兵力を自由に操ることが出来る司令官であり、西郷がこれに任命されたことは薩摩藩の実質的なリーダーとなったことを意味する。ここから西郷の縦横無尽な活躍が開始される。西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の8.18政変で同盟した会津藩と手を切ることであった。確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすために会津と結んだことのしわ寄せが、あらゆる方面に出ていたことが薩摩藩の現状を悪くしていると考えた。そのため西郷は、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟を結んだ人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力を投じた。 

 9.28日、薩摩、英国代理公使ニールと和平談判を開始。


参預会議
 10.26日に慶喜公は再び江戸から海路上京。この時慶喜公は神戸兵庫に11.12日に到着し、やがて京都に入る。12.30日には朝議参予を命ぜられ、朝廷の重要な会議に参画する事になる。

 8.18日政変によって主導権を握った幕府・公武合体派は、この頃から翌年に掛けて、一橋慶喜(よしのぶ)、松平容保、越前の松平慶永(よしなが)、土佐の山内豊信(とよしげ)(容堂/ようどう)、宇和島の伊達宗城(だてぬめなり)、薩摩の島津久光(斉彬の異母弟。兄の死後、藩主忠義の実父として藩政を掌握、公武の間に奔走・周旋し、維新後、左大臣に進んだが、欧化政策に反対、鹿児島に退隠。また「生麦事件」でも有名)らは雄藩大名による参預会議を成立させた。


 これは京都に於ける佐幕派の中心雄藩・会津藩と結んで、孝明天皇の攘夷宣戦を回避する為にとった政策であった。しかし、この会議も朝廷統制派と幕権強化派が対立するに至り、僅か二か月足らずで解散の止むなきを見る。これが原因で公武合体派の各大名は帰国し、幕府の権威は急速に衰退していくことになる。

 11.28日、幕府、横浜鎖港談判のため、池田長発、河津祐邦らを遣欧使節として任命。幕府、スイスと修好通商条約を締結。12.29日、横浜鎖港談判遣欧使節出発する。翌1864(文久4年・元治元).5.17日、鎖港談判遣欧使節、パリで輸入税率改正と下関通航についてフランスとの約定に調印する。7.22日、横浜鎖港談判遣欧使節、成果なく帰国。使節代表の池田長発は鎖港の不可を建白。

 12.30日、朝廷、一橋慶喜・松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城を朝議参与に命じる。


1864(文久4年・元治元)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.9日、武田耕雲斎は諸大夫に列し、伊賀守に任ぜられる。これは普通の家老等では、諸大夫に列するとか、何々の守というのはなかなか戴けない。しかも従五位下に叙せられる。こういうことで、耕雲斎は大変な信頼を得て、単に水戸家の家老というだけではなく、天下に係わる人物として、多くの人から、朝廷からも幕府からも評価されてされて行く。慶喜公からも信頼される立場になって行く。

 1.13日、朝廷、島津久光を朝議参与に加える。
 1.15日、将軍徳川家茂、再度上洛。
 2.11日、幕府、毛利敬親を糾問し、長州藩討伐の準備を始める。
 2.20日、元治に改元。
 2月、長州藩義勇隊、周防別府浦に停泊中の薩摩船を外国交易の疑い有りとして襲撃して焼き払い、船主大谷氏を殺害。26日、大谷氏の首を大坂東本願寺に晒し、義勇隊士水井精一郎ら3人が自刃。
 3.5日、長州藩処分が決定される。
 3.9日、鎖港問題で対立した一橋慶喜と松平慶永・松平容保・伊達宗城・島津久光が辞任。朝議参与は瓦解。

【フランス公使レオン・ロッシュ着任】
 3.22日、フランス公使レオン・ロッシュ着任。11.10日、幕府、ロッシュに横須賀製鉄所などの建設援助を求める。

【一橋慶喜が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられる
 元治元年1.15日に家茂が入洛する。3.25日に、慶喜公は禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられ、将軍後見職は辞任する。禁裏御守衛総督とは、今で言えば皇宮警察本部長、昔で言えば近衛師団長。摂海防禦指揮というのは、神戸のあたりから大坂にかけての大坂湾(明治以後は大阪)の海岸防禦、いわゆる海岸防衛隊長を意味する。その両方を兼ねたことになる。

 慶喜公が禁裏御守衛総督職に就いた背景には、薩摩との駆け引きがあった。藩主忠義の実父として国父の尊称をうけていた島津久光が薩摩藩の実権を掌握し、朝義参予を命ぜられて、公武合体派の中心として朝廷でも重用された。しかし特別な官職には就いていなかったので、薩摩の兵を引き連れて禁裏を御守衛する総督と、海岸防禦の指揮官の地位を欲した。兵学者・折田要蔵に命じて、大坂に塾を開かせ、海岸防禦その他を研究させていた。この情報を察知したのが慶喜公の用人であった平岡円四郎で、平岡は、島津久光の動きがおかしい。久光が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられると我が主君である慶喜公の動きがほとんど封ぜられてしまう。この久光の野望をなんとか粉砕する必要がある、と考えた。そこで平岡は、渋沢栄一に折田要蔵の塾に入塾しろと命じ、栄一はさっそく築城学を学ぶという名目で塾生として潜り込む。折田と島津久光の狙いを読み取った渋沢は、委細を平岡に報告し、平岡はこのことを慶喜公に伝え、島津が任命される前に手をうつ必要があるということで、慶喜公の立候補となり、朝廷では幕府の了解のもとに、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の職に慶喜公を任命したとの経過があった。

 その頃即ち元治元年の春頃、藤田小四郎は長州藩と密接な関係を持って行く。桂小五郎、因幡国の八木良蔵・藤田小四郎達が、麻布の長州藩邸に集まり、東西で兵を挙げる、小四郎達が挙兵すれば必ず長州藩は応援するという密議が交わされたと伝えられている。長州藩は京都に攻めのぼって薩摩・会津に対抗する計画であった。その際に幕府を簡単には京都に向わせないよう水戸が中心となって関東で挙兵する。そうして釘付けしている間に長州藩は京都にいる薩摩・会津をやっつけることが出来る。幕府が動かないようにしてくれ。そのために桂小五郎は藤田小四郎達に軍資金を出そう、という密約を交わしたと云われている。本当に金が渡ったかどうかは不明なるも一千両あるいは二千両渡されたとも言われている。これは。これより小四郎は小川や潮来などを遊説して、竹内百太郎とか岩谷敬一郎などの有力者を同志に得て行く。

 
2月、水戸の藤田小四郎(幕末の志士。藤田東湖の四男。1864年(元治1)、同志と共に尊王攘夷を唱えて筑波山上に兵を挙げ、指揮者となる。事敗れ武田耕雲斎らと西上、越前敦賀で処刑)らが筑波山に立て篭った「水戸天狗党(みとてんぐとう)の乱」等が起こる。

 4月25日 英米仏蘭の公使、幕府に対して、下関通航と横浜鎖港についての共同覚書を通告する。

【幕府が神戸海軍操練所を設立】

 5.21日、幕府が、勝海舟に命じて神戸海軍操練所を設立勝海舟は、軍艦奉行・海軍操練所総管に任ぜられる。弟子の坂本龍馬が塾頭になり、広く人材を募った。


幕府の横須賀製鉄所・造船所建設着手、この頃の海外列強の動き

 1865年、幕府は条約勅許を求める列国に対し、朝廷の名のもとで正式に勅許を下した。このことは、天皇が日本の最高権力者であることを列国に示す結果となった。また、翌年には改税約書を列国と結び、輸入関税を大幅に引き下げるなどして日本経済に大打撃を与えた。

 列国代表を務めたイギリス公使パークスは、無力化した幕府ではなく、朝廷と雄藩による雄藩連合政権を期待するようになり、長州や薩摩などの倒幕諸藩を援助するようになった。

 1865年幕府は横須賀製鉄所・造船所をつくる。この横須賀造船所は明治政府になってからも、海軍の最重要拠点となり、発展して行くことになる。


「池田屋事件」、以降幕末志士対新撰組の死闘】
 6.5日、再び勢力を盛り返そうと長州藩士ら20名が、京都三条小橋の池田屋旅館に集結していた。幕府側はこれを察知していたが場所を特定できなかった。しかし、近藤勇率いる新撰組が町人に成りすましていた近江出身の尊攘志士古高俊太郎を激しい拷問の末池田屋ないしは四国屋で謀議が行われることを突き止め、土方隊24名は四国屋へ、近藤隊の精鋭10名は池田屋へ向かった。近藤、沖田、永倉、藤堂ら5名が決然踏み込み、2時間に亘る激闘の末、松下村塾四天王の一人吉田稔麿(としまろ、長州)、宮部鼎蔵(肥後)、北添佶麿、大高又次郎はじめ7人を斬殺、10人余を捕縛した(「池田屋事件」)。桂小五郎は難を逃れる。明治維新が1年遅れたといわれた程の大事件だった(「池田屋事件」)。

 この事件により新撰組の名声があがった。逆に憤慨した長州藩は禁門の変をおこす一因となった。同年10月、江戸で隊士募集。伊東甲子太郎が加盟。新選組は、1864(文久4).6.5日の池田屋事件を経て、1865(慶応元年)年の春、西本願寺へ屯所を移転する。

 この間、1865年(元治2)3月、副長・山南敬助切腹。同年10月、4番隊組長・松原忠司切腹。1866(慶応2).3月、勘定方・河合耆三郎切腹。同年5.7日、7番隊組長・谷三十郎暗殺。1867年(慶応3).4月、伊東甲子太郎派が「御陵衛士」として「新撰組」から分離。同年7月、「新撰組」が幕臣となる。同年12、月「油小路の決闘」で「御陵衛士」全滅。新撰組は、もはや衰退の方向へと向かっていく徳川幕府の中で否応なしに歴史の流れの中へ巻き込まれ次第に分裂していくことになる。

 7月 7日 一橋慶喜、京の長州藩士に退去を命じる朝旨を提示するも効果なし。

【佐久間象山、河上彦斎らに刺殺される】
 7.11日、佐久間象山、河上彦斎らに刺殺される。

【長州反撃、「蛤御門の変(禁門の変)」勃発】
 「8.18政変」、池田屋事件などにより長州勢力が京から排除されたが、長州の尊攘急進派は激昂し、福原越後(ふくはらえちご)ら三家老を将として、嵯峨、山崎、伏見など京都周辺に二千の兵を集結させて、朝廷に入洛許可などを求める。朝廷はこれに対して解兵を命じ、その事態に憂慮した京都守護職の松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求する。しかし西郷は、「池田屋事件といい、これは会津と長州の私闘である」と言い放って出兵を拒否し、とにかく薩摩藩は御所のみを重点的に守るという方策を立てる。

 7.18日、京都近郊に集結した長州藩軍勢4隊の内、福原越後隊・真木和泉隊が郊外から市内に向けて進軍を開始する。福原越後隊は丹波橋付近で敗北する。

 7.19日、失地回復の巻き返しを目指す長州兵は朝廷の説得に応じず、長州軍勢の国司信濃隊・真木和泉隊がこの日夜、京都市街地へ侵入し下立売門から御所へ突入した。これを阻止せんとして蛤御門を警備していた会津・桑名・新撰組の軍勢と正面衝突となった。前年からの恨みが骨髄にしみわたった長州藩の勢いはまことに凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せた。

 この状況を知った西郷は、自ら数百の藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げる。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦であったが、西郷はうまく藩兵を使いこなし長州勢を退けた。長州藩は、薩摩藩を中心とした連合軍に撃破され、重臣の来島又兵衛など幹部が多数戦死し、後詰めの益田隊も含めて敗走した。久坂玄瑞も負傷し自刃した。大将の一人だった永代家老の益田弾正は帰国後切腹を命ぜられ、責任を感じた周布政之助は自刃した。戦火で京都市内811町に渡る民家27511戸、土蔵1207棟、寺社253などが焼失した。

 この時宮中は大混乱し、「神器を入れたる櫃も縁側に並置せられ」たほどだったという。堺町御門付近でも両者の戦闘があり、鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて南へ拡大。晴天続きで乾燥状態にあった京都の町はたちまち火の海となった。火は3日間燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであったという。この大火により実に28,000軒の家が焼失し、難民が河原などに溢れた。小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが、この時幕府側は、破獄を企てたという理由をでっち上げて平野国臣ら尊攘派志士37名を斬首した。平野の時世の句は、「憂国十年、東走西馳、成否は天に在り、魂魄地に帰る」。

 この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名は一躍京において有名となった。そのときの彼の立場は、大久保一蔵(利通)に送った手紙にはっきり打ち出されている。「いずれ追討の勅命相下り申すべき儀と存じ奉り候に付き、その節は正々堂々の兵をもって長賊(ちょうぞく)を駆り尽くし申すべしと相待ち居り申し候」。西郷にとって長州藩は「賊」であり、それは幕府の側に立つと同時に薩摩藩の方針に沿って、暴走するこのライバルをたたき伏せるという決意である。凶暴な意志を激しく燃え立たせた戦闘者としての西郷がそこにいる。

 7.21日、天皇、蛤御門の変に関し、長州追討の勅命を発する。これにより、長州は朝敵の汚名を着る事となる。この時長州藩兵を指揮したのが、九州久留米の水天宮の神官真木和泉守保臣であった。この人は水戸にも遊学し、明治維新の方向を明確に打ち出すその元をつくった人だと言われている。真木和泉守は、京都と大坂の中間に位置する天王山において他の16名の同志と共に割腹自決する。

 この事件が第一次長州征伐の発端となる。これを世に「禁門の変(蛤御門の変)」と云う。この禁門の変は、皮肉なことに、最も朝廷の立場を考え幕府と対決し、攘夷を実行しようとした長州藩が、御所の外から御所(皇居)に向けて大砲・鉄砲を打つ立場になってしまい、佐幕派の会津桑名、またこれと行を共にする薩摩藩が、御所の中にいて天皇をお守りする立場になった。この禁門の変において目覚ましい活動をされたのが慶喜公で、禁裏御守衛総督としてその指揮にあたった。「禁門の変」は、慶喜にとって重大な事件となった。

 7.18日、英米仏蘭4ヶ国連合艦隊、出撃を通告。
【幕府の第一次長州征伐】
 勤王の名のもとに運動を続ける長州藩や尊攘派の志士たちが、理由はどうあれ宮廷に対して発砲を行った禁門の変は、幕府にとって敵国になりつつあった長州藩を抑える絶好の出来事だった。幕府は禁門の変の責任を追及して、第一次長州征伐を企図する。

 7.23日の朝議により、長州藩追討が決定する。7.24日、朝廷からの長州藩追討令を受けた幕府は、中国、四国、九州の21藩に対して出兵準備を命じ、将軍自らが長州征討に出陣することを声明する(「第一次長州征討を発表」)。かくて長州に征討軍が向かう。これを世に第一次長州征伐と云う。

四国艦隊下関砲撃事件

 幕府の長州藩追討に合わせるかのように、前年(文久3.5.15日)の長州の攘夷行動に対して、攻撃されたフランス、イギリス、オランダ、アメリカの英米仏蘭四国が連合して下関砲撃すべしとの合意が元冶元年6.19日決定した。幕府は静観するなか、7.27日、連合艦隊が横浜を出港、

 8.4日、英米仏蘭4ヶ国艦隊17隻、兵力5千が、砲撃を開始、下関(馬関)の砲台が占領される(「四国艦隊下関砲撃事件」)。同日下関で火災、10日までに約5千軒が焼失する。8.6日、4ヶ国の陸戦隊2千余人が上陸。砲台を占拠し破壊する。8.8日、長州藩、高杉晋作を降伏使として4ヶ国艦隊に和議を申し入れる。8.14日、長州藩、4ヶ国艦隊と講和5ヶ条で和睦。

 4ヶ国艦隊17隻が砲撃を開始した前年からの、下関海峡での外国船砲撃の報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国の連合艦隊の砲撃により長州は完敗した。これにより長州藩の攘夷方針は完全に挫折した。長州藩の攘夷派は、禁門の変・四国連合艦隊の攻撃による降伏で、藩内での実権を失うことになる。代わって実権を握ったのが俗論派で、椋梨藤太をはじめ萩在住の門閥の家柄が中心となり、毛利家の存続のためにはすべてを犠牲にしても幕府に恭順の意を示そうという「純一恭順」を唱えた。

 この事件により、現在の日本の武力では攘夷は不可能なことが世間に広まった。高杉晋作は、伊藤俊輔(後の博文)と共に長崎の英国商人グラバーを訪ね、渡航斡旋を依頼している。その後、藩の正規軍があまりにも力がないために、身分の差別なく、志のある人物で構成される奇兵隊を結成していくことになる。


【坂本龍馬と西郷隆盛が初見】

 8月、坂本龍馬が、勝海舟の指示で、京都の薩摩藩邸で西郷隆盛と密会。勝の「氷川清話」は、京都から神戸海軍操練所に帰った時の龍馬の発言を次のように記している。

 概要「西郷は、大太鼓のような男で捉えどころが無い奴だ。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口と云えばこれ以上の利口者はいない」。

 ちなみに、坂本龍馬の盟友にして共に近江屋で暗殺された中岡慎太郎は、板垣退助にあてた手紙の中で次のように評している。
 概要「西郷の人となり、肥大にして御免の要石(土佐の御免という土地の角力取)に劣らず、古の安倍貞任などもかくの如きかと思いやられ候。この人学識あり、胆略あり、常に寡言にして最も思慮雄断に長じ、偶々一言を出せば、確然人の腸を貫く。且つ徳高くして、人を服ししばしば艱難を経て頗る事に老練す。その誠実、武市(土佐勤皇党の領袖)に似て、学識あることは優り、実に知行合一の人物、当世洛西第一の英雄なり」。

 豊後岡藩の勤皇党の領袖・小川一敏は、こう評している。
 「さてもかかる勇夫大胆の人、今の世にあるとは思いもよらざる程の人に御座候。極めて大事を成す人と存じ候。かかる勇士もあればあるものと感心仕り候。しかも、猪の武者にてはこれなく候」。

【長州が幕府に恭順和睦】
 8.2日、幕府、長州藩征討令を35藩に命じる。西郷隆盛の指揮する15万の兵士が長州国境に迫った。西郷は征長総督の参謀として西下した。征長軍の総督は、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)であった。慶勝は、征長に関しての意見を西郷に求めると、西郷はこの長州征伐のような国内の内戦が無意味であることを述べ、戦争による財政負担等のことも考え、武力を使わずに長州藩内で事を解決させるべく戦わずして勝つ方策を最上と考えた。長州藩では尊攘派と保守派の二派が対立しており、西郷はこの内紛を利用しようと考えた。長州の支藩の岩国藩主・吉川監物(きっかわけんもつ)に本藩を説得させ、恭順させるのが一番の良策であると進言した。西郷の頭の中には、幕府が考えるように、長州藩を潰すという了見はさらさら無かった。その進言に納得した徳川慶勝は、西郷に征長に関わる一切の工作を委任する。

 ここで西郷は重要な役回りを果たす。西郷の時代を読む眼が次のようなものであったと推測される。長州藩を討ったところで回天しない。幕府の強権体制が持続するだけで、その矛先はいずれ薩摩にむけられてくる可能性がある。この際、長州藩に深刻な打撃を与えず幕府とにらみあいさせておくのが薩摩にとって得策ではないか。これが西郷の読み筋であった。

 11月、朝命によって編成された長州征伐軍は長州藩を包囲し、18日を期して総攻撃の体制を整える。総攻撃の刻限を待つばかりとなる。

 この間長州藩内部では、佐幕保守派と尊攘急進派の対立が激化した。長州藩内の階級闘争でもあったために両者は互いに譲らず、保守派が自らを正党、攘夷派を暴党と呼べば、逆に攘夷派は正義派を称して、保守派を俗論派と卑しめていた。急進派と保守派の政権争いは、8.18日の政変、禁門の変などの重大事件を通して2転3転するが、征長軍の攻撃開始を前に控えた9月末の会議で、ようやく攘夷派の井上聞多の主張が受け人れられる体制となった。奇兵隊ら軽輩を中心とした急進派は、外に対しては恭順を装いつつ、内では武備を充実しようという「武備恭順」を標傍した。 

 この間、慶勝の承認を受けた西郷は総督より一足先に広島へ行き、急遽岩国で藩主・吉川監物と会談する。西郷は吉川に対し、無意味な抵抗は愚策であると論じ、先の蛤御門の変の首謀者の三人の家老や四人の参謀の処罰を徹底し恭順の意を示すこと、8.18政変で長州に落ち延びた五卿(七卿のうち1人は病死し、一人は行方不明になっていた)を他藩に移すこと等の条件を守るならば、征長軍を解兵させるように働くと約束する。

 吉川は西郷の進言を快く受け入れ、本藩の長州藩に先程の西郷が提示した条件を遂行するように働きかける。9.26日夜、会議が終わった帰路正義派の井上は保守派の撰鋒隊士に襲撃され、瀕死の重傷を負い、藩論は保守派が握ることとなる。結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者である正義派三家老(益田右衛門介、国司信濃、福原越後)を自刃させ、四参謀を萩の野山獄で斬罪し恭順の態度を示す。さらに、征長総督の命により、長州藩主父子自筆の伏罪状の提出で蟄居して謹慎の意を表わす。

 しかし、五卿の移転に関しては、事態が紛糾した。長州藩が匿っていた三条実美以下の五卿は、長州にとって勤皇藩として働いてきたシンボルであり、証(あかし)であった。それを他に引き移すという征長軍の条件に、長州藩士らは激昂し、「絶対に五卿は渡さない」と主張した。特に前年、高杉晋作(たかすぎしんさく)によって結成された奇兵隊を中心とした諸隊と呼ばれる十数の部隊は、強行に五卿の移転に反対した。武力を使わずに長州処分を行うことが出来ると考えていた西郷にとって、この行動は平和的解決を潰しかねないと思われた。五卿の移転を拒否することは、すなわち幕府に付け入られる隙となり、武力での討伐を考えている幕府の出兵に対する名目ともなりかねないと考えられたから。

 そこで、西郷は思い切った行動に出た。下関の諸隊の本部に乗り込み、五卿の移転に関して、諸隊の幹部らと直談判しようとする。当時の長州藩内では、8.18政変や蛤御門の変での恨みが骨髄にまでしみわたっており、薩摩・会津を憎むものがほとんどで、自らが履く下駄の裏に「薩賊会奸」(さつぞくかいかん)と記して歩く者がいたほどであった。また、過激な長州藩士らは「関門海峡は薩摩にとって三途の川だ。渡れるものなら渡ってみろ、薩摩藩士と判ったら、討ち伏せてくれよう」とまで言い放ち、長州という場所は薩摩人にとって死地に等しい場所だった。特に諸藩の幹部連中には過激な者が多かったので、その諸隊本部に行くということは、まさに死にに行くみたいなものと考えていい。しかし、西郷はその死地に自らを入れることにより、事態の改善に勤めようとした。まさに、「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」であった。

 諸藩の幹部らは、薩摩を代表する西郷が来たことに驚き、目を丸くした。西郷はその諸藩の幹部らに、現在の日本の状況を考えてみれば、内戦を起こしている場合でないことは明らかであることを述べ、また五卿の身の安全を保障し、五卿移転による早急な征長軍の解兵が薩長双方にも有意義であることを述べた。西郷の熱心な説得により、諸隊の幹部らは五卿を移転させることを承知した。結局、長州に亡命中の三条実美ら五卿の他藩への移送、山口城の破却などの諸条件を受け入れて、一件落着を見ることになる。西郷の工作は成功した。

 五卿動座が決定され、かくて禁門の変と英・仏・米・蘭の4カ国連合艦との戦いで戦カの大部分を失っていた長州藩は、開戦直前に幕府に降伏。幕府側もこれを受け入れ、第1次長州征伐は、実際には一戦を交えることもなく終了した。征長軍総督・徳川慶勝は、征討諸軍に解兵を命じた。第一次長州征伐の平和的な解決は、この西郷の死を決した働きによるものだった。

 長州藩は毛利父子の謝罪、禁門の変の責任者を切腹、処刑するなどして降伏。戦わずして第一次長州征伐は終了した。長州藩内は急進派(正義派)から保守派(俗論党)に握られることになった。 長州藩は8.8日に休戦を申し入れ降参した。

  西郷が、長州藩の内扮に目をつけ、無駄な争いをすることなく長州藩を降伏させる方策を強く主張したために、両者の意見の一致を見、内戦の危機は一応回避され、征長軍は撤兵して第一次長州征伐は無血で終結した。西郷の不戦工作は成功した。開戦を目前にした短時日のうちに果敢な行動力を発揮、総攻撃をぎりぎり中止に持ち込んだことになる。 

 長州側では薩摩が好意的に処置してくれたのだと感謝したのだが、このころ西郷が大久保に送った手紙によると、事後の長州処分について、下関あたりの十万石程度の長州領を没収して豊前・筑前藩に守衛させ、長州藩の力を弱めておくという案を幕府に進言している。ここでは非情な政略家の西郷が時局の先行きをながめている。

【勝と西郷の初見】
 9.11日、越前福井藩の堤正誼(つつみまさよし)と青山貞(あおやまさだ)の二人が、突然西郷を訪ねてくる。二人は西郷に、今、大阪に幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)という人物がいるのだが、勝は幕臣中一廉の人物であるので、是非面会なさった方がよい、と進言した。西郷はその話を聞き、早速、勝に面会を申し込む。勝はその申し出を快く受け、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せた。

 その席で、勝はざっくばらんに幕府の内情や、現在の諸問題について、西郷と語りあった。勝は、「幕府には、もはや天下を仕切るだけの力が無い」と云いきった上で、概要「アメリカの船は、近々間違いなく日本の近海にやって来る。この切迫した御時勢にあって、堂々たる大藩が長州征伐などしている場合か。何を血迷っているのか」と述べ、欧米列強と太刀打ちできる為の雄藩連合の挙国新体制づくりの必要を説いた。

 西郷はその時の勝との対面を、大久保宛の手紙の中にこう書いている。(現代文に訳し且つれんだいこ風に意訳する)
 「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くべき大人物でした。最初は打ち叩くつもりで会ったのですが、実際会ってみると、こちらが頭を下げられる破目になりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私には見当がつかないほどです。英雄的な肌合いの人で、佐久間象山よりもなお優れた人物のように思われる。学問と見識に於いては佐久間は抜群なれど、いざ事に処するに於いては勝先生に優る者はいないのではなかろうか。私は勝先生に惚れてしまった」。

 この対面で、西郷がいかに勝の人物を認めたか、この手紙でよく分かる。これが、後年、江戸無血開城の大立者となった勝と西郷の最初の出会いであった。

 9月22日 幕府、前年の長州藩砲撃事件の賠償として300万ドルの支払い、もしくは1港開港の条件に署名する。
11月 5日 4ヶ国代表、横浜・長崎・箱館3港における外人居留地配分規則協定を締結。

長州藩が幕府に恭順
 10.21日、毛利敬親、幕府への恭順・謝罪のため、藩内の諸隊に解散を諭示。11.11日、長州藩、3家老に自刃を命令。11.15日、長州藩に亡命していた公卿中山忠光暗殺される。11.16日、征長総督徳川慶恕、広島に到着する。12.5日、長州藩、幕府に謝罪書を提出。

【勝海舟が神戸海軍操練所を免職される】
 神戸海軍操練所塾生の反幕府的雰囲気が問題になり、11.10日、勝海舟、神戸海軍操練所を免職となり江戸に召還命令が下される。勝は、塾頭の坂本龍馬、紀州藩の陸奥宗光ら塾生を西郷に託した。翌年3.18日、神戸海軍操練所正式廃止される。

「高杉晋作、馬関で挙兵」
 12.15(1.2)日、長州藩上層部(俗論党)の謝罪恭順の弱腰に業を煮やした藩内強硬派高杉晋作らが馬関(下関)で挙兵する(「高杉派の挙兵」)。下関の功山寺で挙兵。馬関奉行所を占拠、12.16日、高杉晋作・伊藤俊輔ら率いる力士隊が、下関新地会所を襲撃。三田尻の海軍局を襲い3隻の藩船を奪った。12.2日、征長総督徳川慶恕、征討軍撤兵を命令。

1865(元治2、慶応元)年の動き

【長州藩で強硬派が実権を掌握、藩主の毛利敬親が倒幕論を決定する】
 翌1.7日、高杉に呼応した太田市之進らの率いる御楯隊が小郡を占領し、山口へ進軍。絵堂・大田の戦闘で勝利。1.15日、幕府、長州藩へ藩主親子の服罪で征討中止することを布告する。1.29日、内戦状態の長州藩で中立派が台頭し、俗論党を更迭。藩の実権を握った。2.28日、毛利敬親、藩是を一変させる。3.15日、長州藩諸隊再編成され、軍制改革が行われる。3.17日、毛利敬親、倒幕論を決定する。3月、長州藩で、高杉らの強硬派が藩の主導権を奪い、奇兵隊以下諸隊軍事力を背景に、藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた。

 3.10日、幕府、英米仏蘭4ヶ国に下関開港不可を申し入れる。

 3.29日、徳川家茂、長州藩再征討の将軍進発を布告する。


 4.7日、慶応に改元。


 5.22日、徳川家茂、参内して長州再征を奏上。


 坂本龍馬(30)、勝海舟の紹介で西郷隆盛と面会。


坂本竜馬が「薩長同盟」画策
 5.1日、坂本龍馬ら土佐脱藩者、鹿児島に入る。5.24日、坂本龍馬、大宰府の三条実美を訪問し薩長同盟案を示す。5.25日、坂本龍馬、東久世通禧と面会。5.27日、坂本龍馬、大宰府で五卿全員と面会。閏5.6日、坂本龍馬・土方久元と桂小五郎、下関で会合し、薩長同盟について話す。閏5.10日、イギリス公使パークス、赴任する途中、下関で井上聞多・桂小五郎らと会見。閏5.16日、西郷隆盛、下関に寄らず薩長同盟締結失敗。閏5月、坂本龍馬ら長崎に亀山社中を興す。6.24日、坂本龍馬・中岡慎太郎、西郷隆盛と会合し再度薩長同盟について話し合う。

グラバーの志士活動
 この頃、グラバーが政局を裏で画策している。これをどう見るかが難しい。これにつき、グラバー考(「明治維新とグラバー」考)で概述する。

薩摩藩士がイギリスへ密航
 3.22日、薩摩藩士19人がトーマス・グラバーのお膳立てにより、イギリス留学のため長崎を出発。五代才助(友厚)の根回しで、1864(元治元)年夏、グラバーの意見に基づく近代化促進の上申書を藩主に上提し、これが認められて密航準備を進め、優秀な留学生十五名を選抜し、慶応元年三月、グラバー商会の船でひそかに出港した。

 監督に松木弘庵(寺島宗則、33歳)と五代才助(友厚、30歳)、森金之丞(有礼(ありのり、18歳、後に初代文部大臣になる)など有為の若者がいた。最年少の磯永彦輔(のち長澤鼎、13歳)は永くアバディーンのグラバー家に寄留して教育を受け、のち渡米して葡萄園を開き、「葡萄王」の異名をとっている。

坂本竜馬が亀山社中を結社
 閏5月、土佐の坂本竜馬(31歳)が、神戸海軍操練所時代の仲間を核として、薩摩藩、長崎の豪商・小曾根家の援助を得て長崎の亀山という地で亀山社中を結社する。薩摩、越前などが出資した。日本ではじめて株式会社の理念を持つ会社となった(「坂本竜馬らが亀山社中を結成」)。亀山社中は、グラバー商会から武器を買い付け長州に売る、その他船舶の周遊、貿易などを引き受け、倒幕派の裏からの支援活動に着手していった。

 亀山社中(亀山隊)は、幕府の直轄施設・神戸海軍操練所に学んでいた生徒の一部と、これに加えて特に勝海舟の影響を大きく受けた坂本龍馬を筆頭とする一団を母体とし、神戸海軍操練所の解散をきっかけに、後に長崎・亀山の地へ結成された。

 亀山社中は坂本龍馬が中心となって組織した私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社だった。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。社中の目的は、神戸海軍操練所時代に考えていたことを実現するために貿易を行い、商社をつくり海軍・航海の技術を習得することであったが、最大の目的はこれらのビジネス活動を通じて薩長の手を握らせるとこであった。

 この時点での主要な顔ぶれは次の通り(19名程度)だったと推測されている。
土佐 10名 坂本龍馬、近藤長次郎、千屋寅之助、高松太郎、新宮馬之助、池内蔵太、石田英吉、山本洪堂、中島信行、沢村惣之丞
越前 3名 小谷耕造、渡辺剛八、腰越次郎
越後 2名 白峰駿馬、橋本久太夫
紀伊 1名 陸奥陽之助(農商務大臣、外務大臣などの要職を歴任した陸奥宗光)
讃岐 1名 佐柳高次
因幡 1名 黒木小太郎
出身地不明 1名 早川二郎

 結局、亀山社中は坂本龍馬の理想を実現することの無いままに、1867(慶応3).4月、土佐藩の支配下に入り、海援隊として改編される。海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、1865(慶応元).閏五月から1868(慶応4).4月までの約三年間に亘る、比較的短期間の活動であった。

長州藩が武器調達に入る
 6.27日、毛利敬親、領内士民に徹底抗戦令を発する。7.21日、井上聞多・伊藤俊輔、銃器買い付けのため長崎に入る。7.27日、長州藩、幕府の藩主召還令及び支藩主召還令を拒否。7.28日、井上聞多・伊藤俊輔鹿児島を訪問。8月、井上聞多・伊藤俊輔、亀山社中の協力でグラバーから銃器を購入。10.18日、井上聞多・伊藤俊輔、亀山社中の協力でグラバーから蒸気船ユニオン号を薩摩藩名義で購入、桜島丸条約を締結する。

 7.27日、幕府のロシア留学生6人が箱館を出発する。
幕府、長崎・横浜・箱館の開港を余儀なくされる

 9.16日、英仏米蘭の公使、徳川家茂に条約の勅許、兵庫の先期開港の要請をするため、軍艦10隻で兵庫沖に来る。10.1日、将軍徳川家茂、朝廷に条約勅許と兵庫開港を願い出る。10.2日、将軍徳川家茂、将軍職の辞表を提出。10.5日、長崎・横浜・箱館の開港勅許が降りる。また幕府に対し条約改正の勅命が出される。10.6日、幕府、3港開港勅許と条約改正の勅命について、4ヶ国に通知する。


【これより以降は、「幕末通史3(薩長同盟から大政奉還まで)」の項に記す】





(私論.私見)