451 天理教教祖中山みきの研究K (1837年)(天保8年)(みき41才)

 (最新見直し2006.12.15日)

【「大塩の乱」概括】
 この時代にみきに与えた影響という点での社会的事件に、「大塩平八郎の乱」も見逃す分けには行かない。

 既に見てきたように、世の中は、「天保の大飢饉」の最中であり、諸物価騰貴し民衆の生活を逼迫させつつあった。こうした情勢下、大坂東町奉行所の元与力大塩平八郎が乱を起す。


 大塩は与力職を辞した後、「知行合一」の教えを根幹とする陽明学の信奉者として、私塾「洗心洞」で近在の子弟を教育していた。が、大坂市中にさえ餓死者が出る惨状の他方で豪商が江戸へ米を廻すという不義を忍ぶに耐えられず、ときの奉行跡部山城守良弼へ献言したところが虚しく遂に、1837(天保8).2.19日、同志を糾合し、「腐敗した幕府役人とこれと結託して暴利をむさぼる豪商人達に天誅を加え『救民」せよ』」と、その旗印をたてて乱を起こすこととなった。幕府役人や豪商達の家を襲撃し、奪い取った金銀を窮民に分け与える計画の下、大砲、火矢などを放ち大阪の天満一帯を火の海にした。世に云う「大塩平八郎の乱」である。

 この乱には、農、工、商、神職、被差別者等の様々な階層の人たちが協力していたことが判明している。この乱の30年後に体制を揺るがす内戦を経過し明治維新に至る事になる。

【「大塩の乱」の経過】
 
決起に至る経過は次の様であった。
 1836(天保7)年、「天保の飢饉」の大凶作によって大坂市中に窮民が続出する惨状を呈しているのに、大坂町奉行跡部山城守良弼は何らの対策を講じないばかりでなく、翌年4月に予定されている新将軍就任の儀式にそなえて江戸への廻米を優先させるという保身的対応に終始していた。又、市中の豪商たちは飢饉にもかかわらず豪奢な遊楽に日を送り、米の買い占めによって米価のつりあげをはかっていた。

 大塩は、東町奉行跡部山城守良弼に何度か救急策を建議するが容れられず、大塩門下による挙兵を決意する。同年1月の同志連判状には約30名の門下生が知られるが、与力・同心11、浪人1、百姓(豪農)12、医師2、神職2、その他2と分類でき、下級幕吏と豪農を軸にしている。

 大塩は蜂起の2ヶ月前、蔵書1241部を金668両余りで売り払い、2月上句に施行札を1万部余り印刷し配布した。施行札には、「大塩は、このたび蔵書を全部売り払って困窮する家々の人たちに金一朱(いっしゅ)ずつ配ることにした」と書かれ、この札を持って集まってきた人たちに、「もし、大坂の自分の家に火の手が上がった時は、応援に駆けつけて欲しい」と伝えたと云う。これによれば、乱に先立って民衆動員の態勢作りをしていたことになる。

 檄文は木版刷り2040字に及び、漢文読み下し文体で書かれている。版木は上下方向に4段に分割されていた。日付けなどが入った最後の1枚を含めると合計33枚の版木に分割されていたと思われる。当時は版木印刷時代であり、露見することを警戒して複数の版木屋に部分発注し、その版木を集めて自宅で印刷している。「四海こんきゅういたし候はば」という書き出しにしても、「四海こんき」と「ゅういたし候はば」という二つの版木に分け、内容が悟られないよう工夫していた。(この檄文は現在、大阪天満の成正寺に伝わるが、版木は行方不明)

 更に、棒火矢と呼ばれる焼夷弾の一種も準備していたし、大筒に至っては、蜂起の凡そ半年前、大坂近郊の高槻に住む柘植牛兵衛という人物から譲り受けていた。

 大塩は、決起の直前に江戸表幕閣の老中宛ての密書「建議書」数通を飛脚に預け発送している。この密書は1990年、静岡県韮山(にらやま)町の旧代官屋敷の古文書から発見されている。密書は、大塩の与力時代に大阪城代を勤めた大久保忠真ら6名の老中に宛てられている。他にも、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)宛て書状、幕府の儒者・林大学頭(だいがくのかみ)宛て書状もある。これを見るに、「大塩後素建議書(こうそけんぎしょ)」と記されており、当時の幕府要人たちの不正告発(当時流行していた無尽(むじん)に幕府の要人が禁を犯して講元となり私腹を肥やしているとの告発)であり、その証拠となる膨大な量の帳簿類が添えられていた。

 大塩はその証拠として不正無尽による帳簿改竄を指摘していた。帳簿には全体として黒字の墨文字にところどころ朱書きされており、概要「黒字の部分は押収した表帳簿である。だがこの帳簿だけでは巧みな操作がしてあり、どこが不正なのかはよく分からない。そこで調査の結果、不正だと思われる点を朱書きで加筆する」と説明されていた。大塩は、幕閣の上から下に至るまでの構造的な腐敗の存在を指摘し、その黒幕として6名の老中のうち4名という松平和泉守安ただ、松平伯き守宗発(むねあきら)、後に天保の改革を断行したことで知られる水野越前守忠邦、最後に筆頭老中・大久保忠真(ただざね)の実名を挙げて告発していた。以下、若年寄、奏者番、勘定奉行、寺社奉行等々幕閣要職の名がズラリと書き連ねられていた。この不正告発一大文書は、大塩の発意によるものか誰かに命じられて調査した結果のものであるのかは判明していない。

 大塩の狙いは、幕府中枢への糾問と幕府に強い影響力を持っていた徳川斉昭、林大学頭の力を借りて、「大阪在勤時代にさんざん悪事を働きながら江戸に栄転し、幕府の要職についた品性の卑しい『小人』たちを権力の座から追放し、国政の改革を実現することにあった」(2003.9.27日付け毎日新聞、「大塩の乱作戦そっくり2.26事件」)。

 1837(天保8).2.19日午前8時、大塩を先頭にした一団が「救民」を掲げて挙兵した。大阪天満にあった自宅(現在の大蔵省造幣局辺り)に火を放ち、邸の南にあった東照宮と、北隣の朝岡邸に大筒を撃ち込んで蜂起した。更に天満一帯に火を放ち、大筒を撃ちならしながら北へ北へと向かった。かねて天満に火の手があがればただちに駆けつけよといわれていた近在の農民が集まり100名ほどの勢力となった。難波橋を南に渡って北船場に入ったのは正午ごろであった。この頃には檄文を見た農民達やその他市民も加わり、総勢は300名ほどに膨れ上がった。

 一団は幕府役人達の住む同心町・与力町を襲撃した後、商人の町、船場を目指した。正午過ぎ船場を襲撃した大塩勢は、気勢を挙げる。北船場の鴻池屋・天王寺屋・平野屋・三井・升屋など屈指の豪商を襲撃し、東横堀川を渡って内平野町に入って米屋一党を焼き打ちした。大塩らは大坂町奉行の首を取った後、約20キロ離れた甲山(兵庫県西宮市、標高309m)に立て篭もり、一党の存在を誇示する計画であったことが判明している。

 だが、事前の情報漏れにより準備万端整えた幕府軍が出動し、直ちに大塩の手勢たちと戦闘を交え、僅か二度の小規模な衝突で乱を鎮圧している。一揆勢は最初の戦闘でたちまち崩れて100余名となり、ついで淡路町の砲撃戦でまったく四散させられた。午後4時、乱は蜂起から僅か半日で終息させられた。しかし火災は翌日の夜まで続き、その範囲は全市街地の5分の1にまで及んだ。農民達は四散し、中心となった参加者の殆どは自殺、自首、逮捕されたが、大塩平八郎、養子の格之助父子は混乱に乗じて逃走した。

 3.27日、大塩家に出入りしていた手ぬぐい地仕入職町人・美吉屋五郎兵衛宅(現在の大阪市西区)に潜伏しているところを捕り手に発見された大塩は、隠れ家に火を放ち、用意の爆薬で自決した。一説には、自分の身体に爆薬をうちつける壮絶な死だったとも云われている(享年45歳)。

 幕府の処分は苛酷を究めた。関係者は、磔(はりつけ)、獄門、遠島を申し付けられた。乱の参加者だけでなく、家族に至るまで累が及び処罰された者は750名にのぼった。鹿児島県の屋久島の北端にこの時流罪された関係者の墓碑が刻まれている。その子孫の一人藤山松憲氏は云う。「大塩の乱の結果は、ただ半日かそこらの戦いだったでしょうけど、彼が世に、幕府に対して示した気概とか、そういうものはずっと私たちの心の中にしまって、財産にしていきたいと思っています」。

【「檄文」の内容】
 その檄文は、「天より下さる村々小前の者に至るまで」と表書きした大神宮の落とし文の形をとって配られ、末尾は「摂河泉播村々の庄屋年寄百姓並びに小前百姓共へ」としていた。 その内容を見るに、大塩の御政道観に裏打ちされた世相弾劾文となっており、特に商人と結託し役人らが私腹を肥やすことに執着している有り様を激しく非難している。

 その原文は、「大日本思想全集第16巻」(昭和6年、先進社内同刊行会)にあるとのことである。これを、れんだいこ有責現代文訳で記す。
 四海の世間が困窮し続ければ天禄は長くは立たない。小人(能の無い者)に国政を任すと災害が襲い掛かってくるとは昔の聖人が指摘しており、天下後世の君、臣たる者に深く戒めおいたことである。その昔、東照神君(徳川家康公)はこの辺りを熟知し、「依る辺もない孤独の弱者にこそもっとも憐れみを為す政治を執り行うべきこと、これが仁政の基なり」と仰せ下されているところである。
 然るに、ここ二百四五十年の太平の間、上層の者が贅沢三昧でに驕(おご)りを極めるやうになり、大切な政事に携わっている諸役人共は今や公然と賄賂を授受し合っている。又、奥向女中辺りに縁(よし)みを通じて、元々道徳仁義に欠ける格下身分の者が成り上がっており、連中は政事の素養に欠けるからして我が身と一家の私腹を肥す為にのみ智術を廻らし、その領地、知行所の民百姓共に過分の用金を申付け悩ませている。
 これまで年貢諸役の甚しきに苦んでいる上に、更なる無茶苦茶なことをやらかすので次第に入用かさみ、故に四海の世間が困窮させられている。よって、今日では人々がお上を怨(うらま)ざる者無き有り様である。江戸表より始め諸国一同までがこの風潮に陥っている。天子は足利家以来全く御隠居同様で、賞罰の柄(権)すら失っているので頼むに甲斐無しで、下民の怨みを何処へ告発しようにも訴え出る術が無いという乱れぶりである。
 人々の怨みが天に通じたか、このところ年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他様々諸々の天災が流行しており、遂に五穀飢饉になっている。これ皆、天の深き誠に拠る有り難き御告げである。しかるに、上層の者がこうした事に一向に気遣いせず、なおも小人奸者の輩が大切な政事を執り行い、ひたすら下々の者を悩まし、金米を取立てる手段ばかりに取り掛かっている有様である。心ある者が、小百姓共の難儀を草の陰より常々察し怨んでいれども、湯王武王の勢位なく、又孔子孟子の道徳もないので徒に蟄居を余儀なくされている。
 当節、米価がますます高直に成り、大阪の奉行並びに諸役人が、庶民が苦しんでいるのにも拘わらず、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸への廻米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米の世話をせず、そればかりか僅かばかりの五升壱斗位の米を大阪に買いに来た者共を召し捕るなどひどい事を致している。実に昔、葛伯といふ大名は、その領地の農民に弁当を持運んできた子供を殺したとか云う、言語道断であろう。
 いずれの土地であっても人民は徳川家御支配の者に相違ない、それをこの如く隔(へだた)りを付けるのは奉行等の不仁である。その上、勝手我儘の触れを出して、大阪市中の遊民ばかりを大切にするのは、前にも申したように、道徳仁義を弁へぬ拙き身分の者であり、甚だ以て厚かましく不届きの至りである
 又、三都の内大阪の金持共は、長年にわたって諸大名へ金を貸し付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠(かす)め取っており、未曾有の裕福な暮しをしている。彼らは町人の身でありながら、大名の家へ御用人として取入れられ、自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮している。この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、餓死の貧人乞食を敢て救おうともせず、その口には山海珍味の結構なものを食らい、妾宅等へ入り込み、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘引しては、高価な酒を湯水を呑むかのように振舞い、四民が難渋している時節を弁えず絹服をまとい、芝居役者を妓女と共に迎え、平素から遊楽に耽っているとは何たる事か。
 それは紂王長夜の酒宴も同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り、下民を救うべきである。連中は為すことをせぬまま日々堂島に入りびたりしている。実に俸禄盗人と云うべきであって、決して天道聖人の御心に叶わず許し難い。故に、これまで蟄居してきた我々の堪忍が難しくなった。湯武の威勢、孔孟の仁徳は無いが、天下の為めと存じ、血族への禍の禁を犯し、このたび有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐致し、引き続いて驕りに耽っている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等はそれぞれ分散配当することにする。
 摂・河・泉・播の国々の者で田畑を所有せぬ者、例え所持していても父母妻子家内の養いが難渋な者には右金米を取分けるから、何時でも大阪市中に騒動が起ったと聞き及んだことなら、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい。各々へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意である。当面の饑饉難儀を救い、もし又その内で器量才力等がこれある者は取立て無道の者共を征伐する軍役にも使いたいと思う。
 これは、決して一揆蜂起の企てとは違う。追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、中興 神武帝御政道の通りに寛仁大度の取扱いに致し、年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思い、父母妻子をも養い、生前の地獄を救い、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したい所存である」。
 この書付けを村々に一々知らせたいが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付けて置き、大阪から巡視にくる番人共には知らせないよう心懸け早速村々へ相触れ申して貰いたい。万一、番人共の目に付き、大阪四ケ所の奸人共へ注進致すようであったなら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すように。
 もし右騒動が起ったことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかったり、又は遅れ参ずるやうなことがあっては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取り失う事に成る。後になって我らを恨み、宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにしてもらいたい。その為め一同に向ってこの旨を布令している。
 もっとも、これまで地頭、村方にある年貢等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てるつもりである。これは深慮による事で、人民を困窮させるやうな事をしない為である。さりながらこの度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我ら一同心中に天下国家を簒盗しようとする欲念は更に無く、日月星辰の神鑑に基づいて行う事であり、つまりは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔い君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何ものでもないのである。もし疑わしく思うなら、我等の所業の一部始終を汝らは眼を開いて見届けよ」。
 但し、この書付は小前の者へは道場坊主あるいは医師等より篤と読み聞かせられたい。もし、庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らいで隠しおくならば追って急遽その罪は所断されるであらう。ここに天命を奉じ天誅を致すものである

 天保八丁酉年 月 日  某

 「大塩の檄文」は、近畿地方の寺子屋で手習い教本に使う所もあったと伝えられている。斎藤茂吉は、次の歌を残している。「わが心に何のはづみにかあらむ 河上肇おもほゆ大塩平八郎おもほゆ」。

【「大塩の乱」の影響】
 この大塩事件の情報伝播の速さと多様さ、幕府側と民衆側の情報合戦、事件の全国的連動と民衆文化創造への動きについて考察するのも興味深い。資料によると、事件当日の19日、ただちに河内の鴻池新田農民が、焼き討ちされた大坂船場の鴻池家の防衛に駆け付けたとの記録がある。池田の城山や生駒山麓、石清水八幡宮、さらに奈良の大屋根からも「大塩焼け」が遠望されたと云う。そして20日にかけて情報が京大津辺り東海道筋を疾走した。こうして「大塩事件」の噂は、いわばブーム的雰囲気を繰り広げつつ和歌山や淡路島にも飛んだ。

 21日には、大塩平八郎が決起直前に幕府閣僚その他に送った密書が江戸に着き、22〜23日にかけては、四国阿波の半田や東海道の遠州今切渡しに達し、裏の特別ルートでは江戸への緊急連絡も大坂から届いた、と見られる。やがて24日、北陸路金沢の大聖寺、江戸の水戸藩邸、ついで26日ともなると、大坂城代その他からの公的連絡の江戸到着、山陰の松江から隠岐島への「大塩狩り」指令、28〜29日には、山口の萩、久留米、平戸へ等々。こうして、全国主要各地へほぼ十日間で情報が伝播し、幕府体制を大きく揺り動かすと同時に、鎮圧体制も厳重に固められていくこととなった。

 この間の風評はというと、2.26日の江戸では、「はや大坂は落城、跡部山城守首微塵説」がささやかれ、豊後日田の広瀬旭荘も28日に江戸でその風評を記し、3月には、「大坂人平八を怨まず、己家(おのれがいえ)を焼いて皆奉行を咎む」と書いた。江戸の儒者山田三川も、各地の「大塩ブーム」を記し、「江戸中の人心皆大塩を憐れみひいきす。東海道を下る人の云いしには、至る処大塩を称し居るとぞ」、「今までの御政事に尤もの事なければ、大塩の云うことが尤つくなり」と幕府政治批判を展開するところとなった。

 信州飯田の「平栗墨翁日記」でも、「誠に大騒動、大坂始まりての事也」(同2日)、「平八郎と云う人あり、親子共に人心ある人」(同11日)だとして、町奉行逃亡=殺害風聞が記録された。他方、能登島に流刑された加賀藩士の寺島蔵人など、大塩自爆後もなお「ただただ逢いたき人は大塩平八郎」のみ、とその熱烈な大塩崇拝を書き残して没した。

 一方、事件直後、大坂の川筋で「大騒動混乱」が発生、丹波では火の手が上がり、3月上旬には西大坂一帯、兵庫、大和郡山、紀州田辺、阿波、駿河大宮などで打ち壊しが続出、中旬にはひざ元の江戸でも、4〜5日中に焼き払うという貼紙が出現した。瀬戸内では、網干に続き尾道の農民も「火をたき、ほら貝を吹き立て」て、岩国でも「大塩の乱の真似をし」、「打ち壊し予告の投げ文」も現われた。下旬にかけ、下関.三田尻.小郡.萩その他にも飛び火し、世直し一揆へ発展、「大塩に同情して盆踊りに其の仮装を為し演劇さへ行」われた。九州でも4〜5月頃、大塩を題材にした講釈師が活躍し、拍手喝采を浴びた。江戸でも4月を迎えて不穏な空気が流れ始め、両町奉行や幕府要人屋敷の表門に「来る8日江戸中焼き払い」の貼紙が張られ、大坂に連動していまや「大打ち壊し寸前の状態」となった。大坂でも、5月にかけ河内各地の農民が立ち上がり、大坂焼き討ちの貼紙も張られ、「大塩の弔い合戦」が訴えられた。

 更に、6〜7月には、「尊王救民」を掲げた越後柏崎騒動(「生田万(いくたよろず)の乱」)や山田屋大助による「徳政大塩見方」をかかげた摂津能勢騒動が勃発している。いずれも「大塩門弟」、「大塩残党」などと称して騒動をおこしている。また幕府のきびしい取り締まりの目をかすめて、大塩檄文が写し伝えられ、木版刷が出回った。今日的に云えば、革命的情勢の水路を為したとも云える。

 これらの反乱が幕藩体制に深刻な打撃を与える事になった。水戸藩主徳川斉昭はこれらの事件を重視し、「内憂外患」をあげて幕府に改革を進言している。いわゆる天保改革もこれらの諸事件によって余儀なくされた対応であったとも云える。

 こうして「大塩ブーム」の全国各地への伝播はかなりのものであり、その影響は少なからずのものであったことが伺える。こうしてこの事件は、単にショッキングな事件というだけでなく、民衆側にこの事件の連鎖を拡げようとする面従腹背のしたたかさを創造せしめていったのである。もっとも幕府側からは大塩事件の影響を極力薄めようとする施策が働き、懐従と弾圧、施行.治療の早急な実施と大塩像を大悪人に仕立て上げての逆宣伝弾圧網の強化による各地民衆の立ち上がりの防止が必死に図られた。

 補足すれば、大塩の乱が発生した2.19日夜、大坂町奉行所は直ちに各藩に対し、大塩ら一党の主だった者の人相書きを配布した。この人相書きはやがて村々にも配られ、大塩の乱が全国的に知られる契機ともなった。大塩の乱の裁判は、凡そ1年にわたって続けられ、5冊に及ぶ膨大な量の調書が残されている。判決文には、「軽い身分を顧みず、ご政道を批判いたし、その上浅はかななる儀に云々」。

(私論.私見) 【大塩平八郎の乱のその後と史的意義】

 この乱の目的とするところは、米を作っている者が苦境にあえいでいるのに、武士や政商は逆に富を増やしている。こんな世の中はみておれん、「世直し」をせねばならんというところにあった。乱そのものは、密告する者があってか僅か一日で鎮圧され、大塩は約40日間の逃亡の末悲惨な最後を遂げることになった。

 この経過から分かることは、用意周到に練られた反乱であったにも関わらず、事前に情報が漏洩していたこと。奉行所の厳しい探索にも関わらず、大塩が謀反失敗後約一ヶ月間隠れ棲むことが出来たこと。その背景には、彼を支援する町衆が少なからずいたということでもある。この頃の落首には、大塩の決起を支持するものも多く、中には家を焼かれた都市下層民の間でさえ「大塩様」と尊称したものも居たようである。
苦境にあえぐ庶民から、大塩は「世直し大明神」と云われるようになったとも伝えられている。

 この乱そのものはすぐに鎮圧されたものの、この事件が「天下の台所」と云われた大坂での事件であったということと、幕府の役人の立場にあったものが、幕府に公然と武力で反抗したという点で、格段の衝撃を幕府や社会に与えることとなリ、幕藩体制秩序が瓦壊へ向かっていく「狼煙(のろし)」となったことに意味があった。又この事件は、人づてに伝わっていくことにより、同時代を生き抜く者に、新しい時代に向けた秩序、規範の創造という課題を荷わすこととなったという点でも、重ねて画期的であった。事実この大塩事件の波紋は、ゆっくりと深く幕末社会に影響を広げていくこととなり、やがて明治維新へと続くうねりの最初の鼓動となった。

Re:れんだいこのカンテラ時評その43 れんだいこ 2005/05/05
 【大塩平八郎の檄文が現下の政治腐敗を撃つ】

 1837(天保8).2.19日、「天保の大飢饉」の最中、元与力にして陽明学者として私塾を開いていた大塩平八郎が同志を糾合し、「腐敗した幕府役人とこれと結託して暴利をむさぼる豪商人達に天誅を加え『救民」せよ』」と、その旗印をたてて乱を起こした。幕府役人や豪商達の家を襲撃し、奪い取った金銀を窮民に分け与える計画の下、大砲、火矢などを放ち大阪の天満一帯を火の海にした。世に云う「大塩平八郎の乱」である。

 この乱には、農、工、商、神職、被差別者等の様々な階層の人たちが協力していたことが判明している。この乱の30年後に体制を揺るがす内戦を経過し明治維新に至る事になる。

 ここで、その時発せられた「檄文」を確認しておく。

 檄文は、「天より下さる村々小前の者に至るまで」と表書きした大神宮の落とし文の形をとって配られ、末尾は「摂河泉播村々の庄屋年寄百姓並びに小前百姓共へ」としていた。 その内容を見るに、大塩の御政道観に裏打ちされた世相弾劾文となっており、特に商人と結託し役人らが私腹を肥やすことに執着している有り様を激しく非難している。

 その原文は、「大日本思想全集第16巻」(昭和6年、先進社内同刊行会)にあるとのことである。ネット検索で得たものを、れんだいこ有責現代文訳で記す。

 (始め)  

 四海の世間が困窮し続ければ天禄は長くは立たない。能の無い者に国政を任すと災害が襲い掛かってくるとは昔の聖人が指摘しており、天下後世の君、臣たる者に深く戒めおいたことである。

 その昔、東照神君(徳川家康公)はこの辺りを熟知し、「依る辺もない孤独の弱者にこそもっとも憐れみを為す政治を執り行うべきこと、これが仁政の基なり」と仰せ下されているところである。

 然るに、ここ二百四五十年の太平の間、上層の者が贅沢三昧でに驕(おご)りを極めるやうになり、大切な政事に携わっている諸役人共は今や公然と賄賂を授受し合っている。又、奥向女中辺りに縁(よし)みを通じて、元々道徳仁義に欠ける格下身分の者が成り上がっており、連中は政事の素養に欠けるからして我が身と一家の私腹を肥す為にのみ智術を廻らし、その領地、知行所の民百姓共に過分の用金を申付け悩ませている。

 これまで年貢諸役の甚しきに苦んでいる上に、更なる無茶苦茶なことをやらかすので次第に入用かさみ、故に四海の世間が困窮させられている。よって、今日では人々がお上を怨(うらま)ざる者無き有り様である。江戸表より始め諸国一同までがこの風潮に陥っている。天子は足利家以来全く御隠居同様で、賞罰の柄(権)すら失っているので頼むに甲斐無しで、下民の怨みを何処へ告発しようにも訴え出る術が無いという乱れぶりである。

 人々の怨みが天に通じたか、このところ年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他様々諸々の天災が流行しており、遂に五穀飢饉になっている。これ皆、天の深き誠に拠る有り難き御告げである。

 しかるに、上層の者がこうした事に一向に気遣いせず、なおも小人奸者の輩が大切な政事を執り行い、ひたすら下々の者を悩まし、金米を取立てる手段ばかりに取り掛かっている有様である。心ある者が、小百姓共の難儀を草の陰より常々察し怨んでいれども、湯王武王の勢位なく、又孔子孟子の道徳もないので徒に蟄居を余儀なくされている。

 当節、米価がますます高直に成り、大阪の奉行並びに諸役人が、庶民が苦しんでいるのにも拘わらず、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸への廻米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米の世話をせず、そればかりか僅かばかりの五升壱斗位の米を大阪に買いに来た者共を召し捕るなどひどい事を致している。実に昔、葛伯といふ大名は、その領地の農民に弁当を持運んできた子供を殺したとか云う、言語道断であろう。

 いずれの土地であっても人民は徳川家御支配の者に相違ない、それをこの如く隔(へだた)りを付けるのは奉行等の不仁である。その上、勝手我儘の触れを出して、大阪市中の遊民ばかりを大切にするのは、前にも申したように、道徳仁義を弁へぬ拙き身分の者であり、甚だ以て厚かましく不届きの至りである。

 又、三都の内大阪の金持共は、長年にわたって諸大名へ金を貸し付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠(かす)め取っており、未曾有の裕福な暮しをしている。彼らは町人の身でありながら、大名の家へ御用人として取入れられ、自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮している。

 この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、餓死の貧人乞食を敢て救おうともせず、その口には山海珍味の結構なものを食らい、妾宅等へ入り込み、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘引しては、高価な酒を湯水を呑むかのように振舞い、四民が難渋している時節を弁えず絹服をまとい、芝居役者を妓女と共に迎え、平素から遊楽に耽っているとは何たる事か。

 それは紂王長夜の酒宴も同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り、下民を救うべきである。連中は為すことをせぬまま日々堂島に入りびたりしている。実に俸禄盗人と云うべきであって、決して天道聖人の御心に叶わず許し難い。

 故に、これまで蟄居してきた我々の堪忍が難しくなった。湯武の威勢、孔孟の仁徳は無いが、天下の為めと存じ、血族への禍の禁を犯し、このたび有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐致し、引き続いて驕りに耽っている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等はそれぞれ分散配当することにする。

 摂・河・泉・播の国々の者で田畑を所有せぬ者、例え所持していても父母妻子家内の養いが難渋な者には右金米を取分けるから、何時でも大阪市中に騒動が起ったと聞き及んだことなら、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい。各々へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意である。当面の饑饉難儀を救い、もし又その内で器量才力等がこれある者は取立て無道の者共を征伐する軍役にも使いたいと思う。

 これは、決して一揆蜂起の企てとは違う。追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、中興 神武帝御政道の通りに寛仁大度の取扱いに致し、年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思い、父母妻子をも養い、生前の地獄を救い、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したい所存である。

 この書付けを村々に一々知らせたいが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付けて置き、大阪から巡視にくる番人共には知らせないよう心懸け早速村々へ相触れ申して貰いたい。万一、番人共の目に付き、大阪四ケ所の奸人共へ注進致すようであったなら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すように。

 もし右騒動が起ったことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかったり、又は遅れ参ず
るやうなことがあっては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取り失う事に成る。後になって我らを恨み、宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにしてもらいたい。その為、一同に向ってこの旨を布令している。

 もっとも、これまで地頭、村方にある年貢等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てるつもりである。これは深慮による事で、人民を困窮させるやうな事をしない為である。さりながらこの度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我ら一同心中に天下国家を簒盗しようとする欲念は更に無く、日月星辰の神鑑に基づいて行う事であり、つまりは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔い君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何ものでもないのである。もし疑わしく思うなら、我等の所業の一部始終を汝らは眼を開いて見届けよ」。

 但し、この書付は小前の者へは道場坊主あるいは医師等より篤と読み聞かせられたい。もし、庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らいで隠しおくならば追って急遽その罪は処断されるであらう。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。

 天保八丁酉年 月 日  某

(終り)

 (れんだいこコメント)

 時代の差による価値基準の違いを差し引けば、大塩の檄文の内容は現代そのままに通用する。政治権力、官僚の腐敗を鋭く告発している。仮にこれを読んだとして頭の痛くなる連中が居るのではなかろうか。

 興味深いことは、天災地変に付き、それを「天の声、地の諭し」として聞き分けるよう指摘していることか。現代科学はこういう捉え方はしないが、「天の声、地の諭し」の聞き分けはあながち非科学的とは云えないのではなかろうか。むしろ、現代科学のほうが没歴史学的に過ぎて未だ非科学的かも知れぬ。

 それはともかく、「大塩の檄文」はもっと読まれて良いと思うからここに掲載しておく。史上有益な情報はもっと開示されねばならぬ。名文となっている。これをせぬまま思いつきの罵倒が流行っているが、時間の無駄ではなかろうか。

 れんだいこサイト「人生学院」は、知っておくべき必須のものを更に取り込み続け、現代の寺小屋にしたいと思う。思えば、寺小屋教育こそ真に有意義なものを生み出したのかも知れぬ。文部省教育はそれを骨抜きにしたばかりかむしろ愚民化教育を仕掛けているような気がしてくる。

 小泉内閣に対しては、いけないものはいけないと判然たる態度を確立しておこうと思う。未だこれを好評価する自称インテリが居ることに対し、憤然論争を挑もうと思う。言論は自由だが、小泉内閣が倒壊した途端に口先を代え、新権力に追従する者が居たとしたら、厳しく自己批判を迫ろうと思う。

 2005.5.5日 れんだいこ拝

【大塩平八郎の履歴】(1793・寛政5−1837・天保8)
 代々家職の大阪町奉行所与力を勤める家柄(禄高200石の旗本)に生誕。字は子起、通称が平八郎、号は中斎。幼少の折父を失う。14歳の文化3年(1806)頃大阪東町奉行所に与力見習として出仕し、同5年には定町廻役を務め、26歳の文政元年(1818)の時祖父政之丞の跡を継ぐかたちで東町奉行所与力となった。以来、天保元年(1830)に38歳で与力を辞職するまで吏務を尽くし、この間誘惑の多い役職に有りながらその間清廉潔白にして、留守中に町方が付け届けをしたものさえ送り返すほどであったと伝えられている。いくつかの難事件(文政10年のキリシタン逮捕事件、同12年の奸吏糾弾事件、同13年の破戒僧処分事件)をも見事に解決し名声を挙げた。

 この間朱子学を学び、のち陽明学を奉ずるようになり知行合一説を行動規範とするようになった。頼山陽に「小陽明」と評されるほど陽明学者として名をなしていた。学問・著述に専念するかたわら私塾洗心洞を開いて同僚の子弟の教育に当たり、近在の富農にも伝授した。「古本大学刮目」、天保4年には、「洗心洞箚(さっ)記」を著してその思想を述べた。

 1836(天保7)年、「天保の飢饉」の大凶作によって大坂市中に窮民が続出する惨状に、東町奉行跡部山城守良弼に救急策を建議するが容れられず、翌天保8.2.19日、年「救民」を掲げて挙兵したが、鎮圧された。その後市中に潜伏中を発見され自刃し、その生を遂げた。

 大塩の学問は「中斎学派」と云われ、学者としての一派を為す見識を備えていた。特に、自己の意思を貫き通し、世の不正を黙過することを拒否する清廉さと行動力を重視していた。その著「洗心洞箚(さっ)記」にも、「身の死するのを恨まず、心の死するを恨む」とある。

【陽明学】(れんだいこ論文集「陽明学と現代的再生考」参照)
 儒学の一派。中国南宋の陸象山の説を受けて明の王陽明が展開した。理と心の一致を主張し、ひたすら良知に至る工夫を説く。主観的な哲学の色彩が濃く、朱子学とは対照的。日本では近世に中江藤樹によって始められ、主要な潮流になったが、幕府の官学にはなれなかった。江戸後期では、大塩平八郎、佐藤一斎らが著名。

【大塩の乱研究サイトないし著作】
「大塩平八郎資料館」
「記念講演 大塩平八郎とその時代」
「大塩平八郎の乱」
「番外編 四海こんきう 」
 「歴史誕生2」(NHK歴史誕生取材班・角川書店・平成2.2.25)


【「大塩平八郎の乱」の大和路に与えた影響】
 この頃、大和路においても不穏な動きが為された。大和国十市郡多武峯寺の朱印地である百済、広瀬郷において、年貢米が百済で八割五分余、広瀬郷八割二分余、藤の森五割五分という驚くべき高率の税課に、慢性的な不作が加わりたまらず一揆の気運が漲ることとなった、と伝えられている。

【大塩平八郎の乱のみきに与えた影響考】
 こうした時代のうねりに、みきが無関心であった筈もないであろうが、天理教本部の稿本では、みきのこうした時代との関わりについては極力触れようとしないようである。こうした社会的事象の影響を受けながら変貌を遂げていったみきの足跡を、事実は事実としてのみき自身を浮き上がらせない限り、正本としての「みき伝」は完結しないであろう。

 それはともかく、こうして、みきの鋭き感受性は、否応無く時代の渦と邂逅していくことになり、当然にこうした政治的社会的事件の影響を蒙ったことが拝察されるであろう。「大塩事件」はそういう意味でまさしく、時代人としてのみき像に照射してみたい所以の事件であった。


 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 1837年、イギリスのビクトリア女王が即位する。

 (宗教界の動き)




(私論.私見)