「読売新聞社史考」そのA正力の背後勢力考 |
(最新見直し2007.3.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、「中曽根、正力、渡辺、児玉…」その他を参照した。 2004.8.18日 れんだいこ拝 |
(情報整理中)
【後藤新平の履歴(1857〜1929)】 |
岩手県水沢市の小藩出身。幕末の蘭学者高野長英の親族。須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。 |
【内務省】 |
内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。 |
【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】 |
1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。青春時代を柔道に打ち込む。 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。 |
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1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。その概要は「戦前日共史(三)関東大震災事件(大杉栄事件))」に記す。ここでは、この時の正力の立ち回りを総括的に検証する。 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、B、中国人留学生・王希天虐殺事件、C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)等が記録されている。 |
【虎ノ門事件で辞表を提出】 |
12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。即日山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。 正力は警視総監・浅倉平らとともに虎ノ門事件の警護責任を負い、即刻辞表を提出。翌大正13.1.7日懲戒免官となった。 |
【正力、官界から読売新聞社に転身】 |
1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。これが読売新聞社への転身となる。 |
【番町会】 |
1923(大正23).2月、財界の大立者・郷誠之助を囲んで集まる毎月一回の親睦会として番町会発足した。メンバーは、中島久万吉(日本工業倶楽部匿名組合)、河合良成(日本工業倶楽部匿名組合)、後藤国彦(日本工業倶楽部匿名組合)、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者)らを核としてこれに、永野護(渋沢栄一の秘書から実業界へ打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった)、小林中(山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれた)らの若手実業家が連なった。 番町会の設営役・古江政彦の証言に拠れば、「あの当時、番町会の勢いは大変なもので、会社を合併するにも、番町会に図らんとできん、郷さんのうちに相談にこなければ大臣にもなれん、と云われていた。事実、その通りだった」とある。この番町会に正力が出入りし人脈を広げた。 正力と番町会との繋がりはこうであった。警視庁官房主事兼高等課長職に在った時代に、正力は政党と財界の奥の院と通交した。機密費を縦横に使った。「官房主事」とは、総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画することが出来、特に政治警察の中心として頗る重要な役割を持っていた。一般政治情報の収集はもとより、政治家の操縦、思想関係、労働関係、朝鮮関係、外事係の元締め的地位にあった。「高等警察」とは、その最高司令塔であり、特高はその一セクションに過ぎず、専ら思想や文化関係を担当する特別高等係りという組織であった。 「官房主事兼高等課長」ともなると、総監の下で実際に仕事をこなす地位であり、政府の政策遂行を心得て、内閣書記官長、内務大臣、警保局長と直接連絡し、与党の幹事長とも太いパイプを持っていなければ勤まらなかった。当時の官房主事の機密費は毎月三千円で、議員の歳費が二千円、内閣の機密費が十万円の時代であったから、どれほど重視されていたかが分かる。「日本の政治警察」(大野達三、新日本新書)に拠れば、「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣を飛び越えて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果たすようになった」とある。 |
【「番町会事件」】 |
この番町会に噛み付いたのが福沢諭吉が創設した政論紙・時事新報であった。1934(昭和9)年初頭から、実名入りの「番町会を暴く」大キャンペーンを連載した。時事がキャンペーンを開始して3ヵ月後、番町会が深くかかわっていた大疑獄・帝人事件が勃発し、帝人株不正買取関係者として河合、永野、中島らが検挙された。正力も背任幇助嫌疑で地検に召喚され、市ヶ谷刑務所に収監された。木村氏曰く、「事件そのものは、4年もかかって無罪判決となるが、正力が株取引で巨額の利益を得ていた事実に関しては、様々な証言が残されている」。 この事件は奇怪な殺人事件を生んでいる。時事新報社長・武藤山治氏が、キャンペーン記事を連載していた最中の3.9日拳銃で暗殺された。犯人・福島信吾はその場で自殺したとされている。その後の事情聴取で、事件の三日前に番町会の河合と弁護士の清水が犯人の福島と会った事を認めている。だが、捜査は、なぜか、途中で打ち切られてしまった。 「時事新報社長・武藤山治殺害事件」との直接的な関りは定かではないが、翌年の1935(昭和10).2.22日、正力が襲われ、読売本社に入るところを背後から日本刀で首筋を切られるという事件が発生している。犯人の長崎勝助は右翼団体「武神会」の会員だったが、背後関係は分からない。右翼団体「武神会」の会長・熱田佐ほか数十人が取調べを受けたが、結局単独犯ということで、長崎は傷害罪で懲役三年を宣告されている。 奇怪な事件が発生している。東日販売部長・丸中一保が行方不明となり、伊豆山中で白骨死体で発見された。丸中は当時激烈を極めていた新聞販売合戦の最中のことであり、業界には色々噂が飛んだ。 |
【「番町会のその後」】 |
番町会のボスであった郷は男爵の位を得て、戦争中の1942(昭和17)年、死亡した。しかし、番町会の伝統は、戦後の政財界にも引き継がれた。中島久万吉は日本貿易開会長、吉田茂の縁戚で、第一次吉田内閣以来、吉田の経済顧問として活躍。多くの番町会メンバーを吉田の周辺に送り込んだ。長崎英造(産業復興営団会長)、永野護、河合良成、大政翼賛会の前田米蔵、大麻唯男。永野護の弟が重雄であり、経済安定本部次長から富士製鉄の社長におさまり、財界に揺ぎ無い地位を築いて行くことになる。永野護は、岸信介の指南役を務めた。 |
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正力松太郎に纏わる「負の過去」を的確に見ておかねばならない。米騒動時の蛮勇、関東大震災時の虐殺指揮官、こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていくことになり、「読売新聞建て直しの功労者」として賛辞されることになる。その正力は戦前一貫して「聖戦」賛美論調を煽っていった。これが為、戦後、正力はA級戦犯に指名され巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。この時の裏取引(仮に、「シオニスト盟約」とする)をも凝視せねばならない。 出獄後の正力は復権し、読売新聞社主として戦前は軍部に戦後はシオニストに提灯し続けていくことになる。時の最大権力に食い入り、常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。その後の正力は、読売新聞社主且つ一時期衆議院議員になり、戦後日本の再軍備化、原子力発電の導入、国家権力中枢へのシオニズム勢力の扶植に精出していくことになる。そういう意味では、「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」はむしろ控えめな表現でしかなかろう。 この正力に忠誠を誓い、その「負の遺産」を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。 |
【戦後読売争議とA級戦犯】 |
【CIAエージェント正力松太郎のその後の活動】 | |||||||
2006.2.16日号週刊新潮は、早稲田大学の有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事を掲載した。同教授は、米国公文書館の公開された外交機密文書からみつけ、「正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実」を明らかにした。天木氏は、「2月8日―メディアを創る」の中でこの記事を取り上げ、「これは超弩級のニュースである」と評している。れんだいこの予備知識と記事内容を噛みあわすと概要次のようになる。 戦前、正力は、東京帝大を出て警察庁につとめ、主として左派運動取締りの任に当たっていた。関東大震災時の朝鮮人、中国人、無政府主義者、共産主義者に対する虐殺の指揮者であった。ところが好事魔多しでその後、虎の門事件として知られる後の昭和天皇となる皇太子テロ事件の責任をとって辞職した。その後、経営危機にあった読売新聞を買収し、その社主として転身する。正力の経営手腕は高く、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させた。その功により、敗戦まで社主の地位を維持した。 戦後、社内に読売争議と云われる内紛が第一次、第二次と二度にわたって発生する。その間、正力は、戦犯として収容された。その後釈放される。その後の正力の歩みの特異性を指摘したのが、有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事となる。それによれば、CIAは、釈放された正力に対して、1000万ドルの借款を正力に与えて、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとしていた。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であった。正力はこの時、「ポダルトン」と命名されたスパイ名で暗躍している。 ところがここに内部告発が登場する。次のように記されている。
約1カ月後の11.6日、衆議院の電気通信委員会でも、怪文書が読み上げられるという大騒動へと発展した。 防戦に回った正力は、12.7日、衆議院で参考人招致されて喚問を受け、弁明に終始した。こういう経緯を経て、この計画は頓挫せしめられた。正力を主人公にした「ポダルトン作戦」は失敗に終わった。 正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。 正力はその後、原子力開発行政に深く関わることになる。これについては、「原子力発電史考」に記す。
「中曽根、正力、渡辺、児玉…」( http://www1.jca.apc.org/aml/200211/30791.html)は次のように補足している。
天木氏は、次のように述べている。
「阿修羅政治版19」の「CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事」に次のような記載がある。
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【広瀬隆・氏の指摘】 | ||
「日本のジャーナリズム 広瀬隆」( http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)は次のように記している。
「日本のジャーナリズム」(http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)の「危険な話━チェルノブイリと日本の運命」広瀬隆著(八月書館1987年刊)から
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【正力とテレビ】 |
(2004.7.13日付け「マスメディア論2004第24回 メディアの歴史(5)テレビの登場と発展 京都学園大学 メディア文化学科」その他参照) 戦後、正力は公職追放で読売新聞を追われていたが、アメリカが日本にテレビ網(ネットワーク)を建設する計画を持っていることを知った。アメリカは折からの冷戦の開始で軍事的緊張の高まる朝鮮、韓国、ソビエトへ向けてのテレビ放送を行うという宣伝戦を計画していた。アメリカの構想は実現しなかったが、1950年頃、正力は、アメリカと連携して日本全土のマイクロウエーブのテレビネットワークによる全国放送を行う計画を立て、同時に自らの公職追放を占領軍司令部に働きかけた。 その直後サンフランシスコ条約によって日本は独立し、電波行政は電波監理委員会から郵政省に移行した。これにより、NHKもテレビ免許を獲得した。こうして、戦後日本では公共テレビのNHKと民放テレビが並存することとなった。 正力の日本テレビはスポンサーを獲得するため、「街頭テレビ」方式を採用した。東京都内55ヶ所に220台の大型街頭テレビを設置した。折からのプロレス力道山ブームも手伝って、街頭テレビには数千人が群がり、熱心にテレビを見入った。その群集の写真を手にした日本テレビの営業マンが、広告スポンサーを口説いて回るという日が続いた。 1955年、第二の民放テレビTBSが加わり、翌1956年、中部日本放送CBC(名古屋)と大阪テレビが開局し全国に広がった。テレビは瞬く間に大衆娯楽の王者としての地位を獲得、1959.44月の「皇太子ご成婚」の儀式とパレードの中継放送によって、テレビ受像機は大きく伸びた。1954.12月の受信契約台数は346万件となり、急速にテレビ時代が始まった。 |
(私論.私見)