「読売新聞社史考」その@

 (最新見直し2006.1.8日)

 読売新聞史を理解しておこうと思ったのは、同紙の記事に必ず付き纏っている「無断転載禁止」に接してである。この感覚はどうも尋常では無い。思えば、我が国のマスコミの没ジャーナル性は重度の失陥があるように思われる。「無断転載禁止」は、その象徴的世迷言(よまいごと)ではないのか。この背景を知っておこう、そういう思いが止まらなくなった。

 その時ふと思い出した、。確か、
木村愛二氏がナベツネ関係の著作をものしていたことを。そこで早速取り寄せ、2003年の5月連休に読んでみた。その結果、この情報をサイトアップしておこうと思い立った。断片的な整理にしかならないが、知らぬよりは知っておいた方が良いであろうと思われる事項のみ書き写すことにした。もとより木村氏の著作を取り寄せ一読するのがより正確である。という訳で、折をみて書き綴ることにする。

 それはそうと、テレビにサブリミナル(サブリミナル効果・視聴者が認知できないほど短い時間に繰り返し映像を流すこと。映像が潜在意識下に残るなど人間の体に影響があるとされている。)なカットを入れて批判を浴びたのも読売系列の日本テレビ網である。全く、読売新聞には「表現の自由」に関して尋常ではない不見識性が認められ、総じて「闇」があるように見える。


 2003.4.30日 れんだいこ拝


木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」考 れんだいこ 2003/05/03
 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」(汐文社)は力作ですね。れんだいこが常日頃感じている日本のマスコミの没ジャーナル性の端源を見事に切開しております。まだ途中までしか読みきれていませんが、興味のある方ぜひご一読してみてください。

 それにしても我々は史実を知らなさ過ぎる。囲碁と一緒でいくら頭脳が良くても定石習わずには石の運びはうまくなりません。(とか云っても、れんだいこが囲碁が強いというとるのではないからね、念のため。一般論を云うとるんですよ)

 「読売新聞・歴史検証」に拠れば、日本ジャーナリズムの勃興は、明治の文明開化とともに始まる。問題は、当初より官許的規制が強く、新聞紙条例でいろいろ規制されつつ始まったということか。しかし、次第に論調の規制緩和が進み、大正デモクラシー時代には政府批判や社会主義思想の喧伝まで種々行われるようになった。

 そこへ一大鉄槌が下るのが、関東大震災で経営危機に陥った読売新聞社への正力松太郎の乗り込みだった。正力は特高官僚であり、難波大助の皇太子狙撃事件の際の警備の手落ちの責任をとらされ免職されていた。その彼が皇太子の成婚特赦で恩赦される。浪人中の身となっていた正力に読売の社長に座らないのかと声をかけたのが、財界右派の番町会であった。

 正力はこれに飛びつき、以降読売の右傾化に邁進する。要職をかねての同僚である警視庁から引っこ抜きあてがい、蛮勇を奮っていくことになる云々、面白いですねぇ。

 れんだいこの関心は、その正力時代から務台時代を経てナベツネ時代への移行過程の検証、このナベツネの胡散臭さをそれとして露にしてみたいというところにあります。興味深いところは、何やら宮顕の登竜過程、権力手法と酷似していることです。同じ穴のムジナはすること為す事がよく似るのも道理と云うことか。

 しかしそれにしても木村氏のこの著作は内容が濃いですね。あらためて見直しました。いろいろ取り込むところが多すぎて、それが却って困る。


【読売新聞の勃興期の様子】
 我が国の新聞発行は。明治の御代と共に始まるがその経緯(いきさつ)からして政情絡みであった。明治新政府は、新聞の発行を奨励する政策に転じると共に統制下にも置こうとしてジグザグしている。新聞は、議会開設を求める自由民権運動の高まりと共に全国に広まった。その詳細は、「読売新聞・歴史検証」(木村愛二・汐文社)参照の事。

 読売新聞誕生の経緯は次の通り。日本最古の日刊紙・横浜毎日新聞が1870(明治3)年に創刊された。東京日々と郵便報知新聞が1872(明治5)年に創刊された。横浜毎日新聞の創始者の中心人物であった元岐阜大垣藩士・子安峻が元佐賀藩士・本野盛亨、長崎の医者の養子・柴田昌吉らで日本最古と云われる鉛活版印刷所・合名会社日就社を創立する。

 1874(明治7).1.2日、日就社が、「俗談平話」を旨とする「小新聞」として読売新聞を創刊した。初代社長子安峻。東京の芝琴平町で発行され、その後京橋に移転する。文明開化の先導役、人情風俗の良化を自負しての発刊であった。毎日新聞の前身となる大阪日報が1876(明治9)年、朝日新聞の前身となる大阪朝日が1879(明治12)年設立されている。

 読売新聞の発刊後の歩みは順調で部数も伸び、次第に政論も交え、文学の育成にも尽力していった。1887(明治20)年、高田早苗(後に衆議院議員、文部大臣、貴族院議員、早稲田大学総長となる)を主筆に招き、1889(明治22)年、坪内逍遥を文学主筆に、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外らに執筆させている。1897(明治30)年、尾崎紅葉の「金色夜叉」が読売紙上の連載小説として始まった。1898(明治31)年以後には、文芸欄を島村抱月、徳田秋晴ら自然主義文学派に担当させている。小杉天外、正宗白鳥らも集う。


 1904(明治37)年に日露戦争が勃発するが、主戦論的論調と一線を画し、むしろトルストイ、チェホフ、プーシキンらの関係記事が文芸欄を賑わし、ゴーリキーの「コサックの少女」が徳田秋晴訳で掲載されるなど、非戦論を掲げていた幸徳秋水、堺利彦らの平民社運動と親和的であった。その後、河上肇が入社し、「千山万楼主人」のペンネームで「社会主義評論」を連載している。平民社出自の上司小剣、後にプロレタリア文学で名を挙げる青野季吉、後の共産党委員長を務める市川正一らも入社している。

 青野の語るところによると、概要「読売には特殊な良さがあり、日本で唯一の文化主義の新聞で、例えば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきた。だから、読売新聞といえば、文学芸術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、そういった文化主義的な空気が、他の様々な、例えば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。この新聞で仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」とある。

【読売の経営危機の様子】
 1917(大正6).12.1日、合名会社「日就社」を「読売新聞社」と改称。この頃、大阪朝日、大阪毎日が、大阪財界の支援を受けて東京に進出してきた。「明治初期には最先端、明治末期には大沈衰期、大正期には既に旧い」と云われるようになった読売は次第に財政的に行き詰まって行く。この間経営権は子安家から本野家に移っていた。その本野家の二代目の長男・一郎と次男・英吉郎の協力体制が組めず、「売家と唐様で書く三代目」という江戸川柳そのままに、読売はいずれ人手に渡る運命に陥った。本野家の二代目の長男、次男が病死し、秋月が社長を引き受ぐ。

 1918(大正7)年シベリア出兵問題で揺れる頃、読売の買収話が起り始め、海軍出身の首相・山本権兵衛が最初の意欲を見せている。この干渉はまとまらず、次に、陸軍系が触手を伸ばし始める。主筆に右翼系の伊達源一郎が就任するや、論調が政府寄りに一変し、シベリア出兵論を唱え始める。経済部長、政治部長、社会部長の重要ポストが伊達系列に占められていった。

 当然の如く、編集局内部で抗争が発生し印刷局まで含めたストライキの動きを誘発している。この騒動は最終的に、編集委員・青野と市川が仕事取り上げにより窓際族にさせられるという「閉門の刑」で決着した。これは、読売編集局の敗北ではあったが、軍閥を背景とする伊達一派にも読売制圧の難しさをしらしめ、読売買収計画を頓挫させたという意味で傷み分けとなった。ちなみに、その後の青野はプロ文学運動に、市川は日本共産党結成に向かって行くことになる。

 読売買収の動きの背景には、「その頃は日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社にも自然発生的に入り込んできて、読売は、その最先端のようにみられていた」ことから、その対策という治安対策的な意図があったように思われる。

【「朝日新聞社に「白虹貫日事件」騒動起る】
 1918(大正7).8月、米騒動が勃発し、これを警察のみならず軍隊までが出動して鎮圧する騒ぎとなった。8.14日、時の寺内内閣は、暴動拡大防止を理由に一切の新聞報道を禁止した。新聞社側は東西呼応して記者大会を開き、86社の代表166名が参加した席上「禁止令の解除及び政府の引責辞職」を要求決議した。大阪朝日新聞はその日の夕刊でこの模様を報じたが、その記事文中に概要「我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日が近づいているのではないか」、「新盤の『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが人々の頭に雷の様に閃く」という文章を連ねていた。

 これを頭山満らの「浪人会」が取り上げ問題化した。寺内内閣が呼応し、大阪朝日新聞の記事を「当時最大の罪とされていた『朝憲紊乱罪(天皇制国家の基本法を乱す罪)』に該当する」として、新聞紙法違反という罪名により最重度の「発行禁止処分」、つまり廃業、会社解散に至る処分をちらつかせた。検事局は、問題の記事の執筆者・大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄を起訴し、各6ヶ月の禁固の上に朝日新聞の発行禁止処分を求刑した。

 朝日新聞の村山社長はこの時、当局へのひたすらな恭順で事態を打開しようと奔走した。「監督不行届きを陳謝し、社内の粛清を誓う」ことで切り抜けを図った。同社の進歩派幹部であった鳥井素川、長谷川如閑、大山郁夫、大庭カ公、櫛田民蔵らが追い出されることになった。

 その後寺内内閣が瓦解し、元大阪毎日社長などの経歴を持つ原敬が首相兼法相になるに及び、「寛大な措置」が採られ、朝日新聞は「発行禁止」つまり廃業の危機を免れた。大西記者と山口発行人は、一審判決に服し、求刑より軽い禁固2ヶ月の刑に従った。

 この事件は、一つに「権力と言論の相対的自律」問題を廻っての一大事であったこと、二つに時の朝日新聞の軟弱な姿勢が我が国の言論界の伝統的体質を浮き彫りにさせていること等々で見逃せない。が、「この後の新聞界の変化」と「社内粛清」により放逐された記者のその後の流れも又極めて重要な事件となっており、この方面でも注目に値する。

 「この後の新聞界の変化」を見てみる。11.15日「大阪朝日・東京朝日新聞に共通すべき編集綱領四則」が設けられ、三項で「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に基づきて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」という手かせ足かせ規定が謳われた。その説明文で、概要「これを不文律として以前にもまして今後の規範とする」と宣言されていた。注意すべきは、「不偏不党」が、政府批判を控えるというセンテンスで謳われていることである。木村愛二氏に拠れば、「日本の大手メディアの『痛恨の屈辱』事件となった」。その後の軍部独裁の動きに対して追随を余儀なくされる仕掛けの嚆矢となった、という訳である。この伝統は、今日のマスコミにも継承されており、つまり「不偏不党」は胡散臭い美文でしかない、とも指摘している。

【読売の新経営者として松山忠三郎がスカウトされる
 読売争議の果てに、経営権が財界の手に移ることになった。1919(大正8)年、二代目社主・本野盛一が、経営権を工業倶楽部の財界人による匿名組合に売り渡した。新社長となって乗り込んできたのが東京朝日編集長という履歴を持つ松山忠三郎であった。松山は、「白虹事件」に連座して辞任していたところをスカウトされた格好となった。元々「札付きの財界御用記者」と評判されていた人物であったので、財界の意向を挺するのに彼我の条件が合ったということであろう。

 当時、社長の交代は、従業員のいったん全員解雇を意味していた。旧社員は、「給料1か月分と3ヶ月ほどの退職金」を渡されて、「本野家経営の読売との別れ」となった。再雇用に当って、左派系人士と軍閥系伊達派が去って行くことになった。代わって、東西朝日を退社してかなりの編集陣が松山のもとへ馳せ参じてきた。

【「大正日日新聞事件」】
 先の「白虹貫日事件騒動」の後にもう一つ見逃せない事件が起っている。1919(大正8).11.25日大阪で「大正日日新聞」が創刊された。最大の出資者は、鉄成金の一人・勝本忠兵衛であった。当時の朝日の資本金150万円よりも多い200万円で出発し、「日本一の大新聞」を呼号した。社長に担がれたのは貴族院議員の藤村義朗で、大株主の中には細川護立(元熊本藩主の家柄の公爵)がいた。

 実質上のトップは、「白虹事件」の火元となった大阪朝日の編集長で事件の経過で辞任していた鳥居素川で、主筆兼専務となった。他にも大阪朝日退社の丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎、東京朝日退社の宮部敬治、読売解雇組の青野季吉、報知からは鈴木茂三郎(戦後社会党委員長になる)、徳光衣城ら知名度のある記者が一斉に馳せ参じていた。まさに「当時の新聞界の第一級の陣容」であり、木村愛二氏曰く「これはまさに大正日本のメディア梁山泊とでも云うべき言論の砦だったのではなかろうか」。

 しかし、「日本一の大新聞」の夢は潰える。これを検証することは極めて有益であり、示唆が多い。その理由として、一つには「武家の商法」があった。二つ目に先発の同業者・大阪朝日と大阪毎日が連合軍となって徹底的に排除し抜き、その仔細は省くとして業務妨害まで行ったことにある。第三に官憲当局が圧力をかけ続け、暗躍したことにあった。

 かくして創刊数ヶ月をもって、出資者が去り、社長去り、主筆兼専務の鳥居も退社し、僅か8ヶ月で会社解散の憂き目にあった。

 ところで、その紙面はまさに貴重であった。「政権批判、ストライキ報道、男子普通選挙権の即時実施論」が堂々と為されており、「まさに大正デモクラシーの息吹」を伝えつづけていた。木村愛二氏曰く「『白虹事件』のために大阪毎日での筆を折られた大記者たちが、思う存分に筆をふるっていたのではなかろうか。ところがそれを、当の大阪朝日が、日頃は商売敵の大阪毎日と連合して、あらゆる非合法的手段を駆使してまで叩き潰しにかかったのである」。

【松山時代の読売新聞と関東大震災の衝撃
 大正日日新聞が一年たたぬ間に解散したため、錚々たるメンバーが松山の下に新たに参集してきた。読売新聞百年史は「彼らが歴史ある読売を舞台に理想的な新聞を作る決意に燃えていた」と記しているが、これはあながち手前味噌の記述ではないように思われる。確かに「大正期メディア人間達のドラマ」だった。木村愛二氏曰く「大阪の大正日日に築かれ始めた梁山泊が更に求心力を求め、首都東京に移動したが如き感がるではないか」。

 この頃の東京の三大新聞は、発行部数で見るに約36万の報知新聞、約30万部の時事新報、国民新聞であった。これに大阪を本拠とする東京朝日と大阪毎日の傘下の東京日日が約20万部で第二グループとなっており、読売はその後の第三グループを形成していた。読売は松山社長になって以来、約3万部まで落ち込んでいたものを4年4ヶ月の間に約13万部まで伸ばした。

 松山時代、読売の紙面は再び「文学新聞」的伝統に立ち帰り、婦人運動やプロレタリア文学運動に発表の機会を与えていた。この背景には折からの大正デモクラシーの影響があった。大正デモクラシーとは、1912(大正元)年に大正年号に入って以来の自由民権的思想が横溢した時代の流れのことを云う。この機運に押されるかのように読売新聞は「清新な文芸復興の旗手」を任じていった。

 こうした正成長を遂げていた時に思いがけなくも1923(大正12).9.1日関東大震災が襲った。折柄読売新聞は建設中の新館の落成式日に当っており大打撃を蒙ることになった。松山社長は財界筋の新たな援助を求めて資金手当てに東奔西走することになった。財界筋は一度は財政援助に踏み切ろうと合意したが、「ある日突然に冷たく突き放すことになった」。この背景が究明されなければならないが、今日でもヴェールに包まれている。

【正力松太郎が乗り込む】
 松山の奔走虚しく、社長を引退することになった。代わって就任したのは、前警視庁警務部長つまり特高の正力松太郎であった。松山と正力は工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立会いの下で、読売の経営権の譲渡について話し合い、正力が「調印の際に5万円、松山について去る13人に合計1万6千円の退職手当てを支給する事を承諾」(「読売新聞80年史」)して後、「譲渡契約書」を結んだ。

 この時の気持ちを正力自身が「乗り込む」なる表現をしている。正力自身の履歴と背後勢力については、別項「「読売新聞社史考」そのA」で考察することにする。

 1924(大正13).2.26日、1874(明治7)年の創刊から50年後、こともあろうに、警視庁で悪名高い特高の親玉だった元警視庁警務部長・正力松太郎が第7代社長に就任。正力の乗り込み時の様子はこうであった。正力はいよいよ乗り込み日の朝、工業倶楽部会館で財界人の河合良成と後藤国彦と三人で会い、「いよいよこれから乗り込むんだ」との決意を披瀝している。正力が工業倶楽部会館へ出向いた事情として、財界有力者からの資金提供が為されており、そのいきさつから首肯できるところである。主な提供者は、後藤新平、番町会、財界有力者の匿名組合、その他財閥からの献金を得ている。

 後藤新平の画策の背景には、「『白虹事件』残党組の追放」狙いがあったとされている。直接的にはこの意を受け、「正力の読売乗り込み」が行われたのであるが、実際にはもっと深い狙いの「政治的謀略」があったようにも思われる。木村氏曰く、「読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、『汚い靴』のかかとに踏みにじられたのである」、「正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右展開し、『中道』朝日・毎日をも、更に右へ寄せ、死なばもろとも、折からのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった」、概要「新聞、ラジオ、テレビという、現代巨大メディアの中心構造が、正力を先兵とする勢力によって支配されるようになった嚆矢とする」。つまり、れんだいこ観点に拠れば「我が国の特務機関の暴力的なマスコミ支配介入事件」であったと読み取ることができるように思われる。

 乗り込んだ正力が社長就任直後に手を染めたのは人事であった。警視庁時代の腹心の部下を呼び寄せ、「これガ為新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になってしまうのかと歎声ら悪口が出た」。総務課長として小林光政(警視庁特高課長)、庶務部長として庄田良(警視庁警部)、販売部長として武藤哲也(警視庁捜査課長)が招聘されている。

 その後も続々警察人脈が投入されて行くことになる。警視庁以来の秘書役・橋本道淳、警視庁巡査から叩き上げて香川県知事にもなっていたこともある高橋、元警視庁刑事の梅野幾松らの警視庁出身者を次々と引き入れていった。


 但し、経理については財界が不安に思ったか、財界匿名組合のメンバーの一人王子製紙社長・藤原銀次郎の差し金で、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が送り込まれ、読売の会計主任に入った。1919(大正8)年に読売に入社し、後にラジオ部長となった阿利資之は、当時の様子を知る生き証人であり、「この当時の本当の社主は藤原銀次郎だと云われていた」と述べている。「読売新聞80年史」には、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記している。

 当然ながら、記者たちにも苛酷な運命が待ち受けていた。花田らの元朝日「白虹事件残党組」は、松山と行動を共にして一斉に辞職した。以降も、「不正摘発」に名を借りた恐怖政治が敷かれ、「社長が社員を告訴」する事態まで発生した。かくて、「総入れ替えに近い大量のベテラン記者の首切り、追放」が進行した。

【正力時代の幕開け】
 正力は只の乗っ取り屋ではなかった。むしろ天才的な企画力を発揮し始め、新聞の大衆化を目指していった。いわゆる「三面記事」に力を入れ、センセーショナルな見出しを踊らせて、購読者を増やしていった。これにより讀賣は朝日・毎日と肩を並べる大新聞へと成長する。

 1925(大正14).11.15日、放送が始まったばかりのラジオに注目し、各社に先がけて日本初のラジオ版(現在のテレビ・ラジオ欄)の「よみうりラヂオ版」創設を打ち出している。これが大反響を呼び読売の部数が毎月千部ずつ増えだした。正力が次に打った手は囲碁の好企画で日本棋院と棋正社の大局だった。当時の囲碁界は名人本因坊秀哉を頂点とする日本棋院と雁金準一率いる棋正社が棋界を二分していた。この二人を闘わせその棋譜と観戦記を掲載した読売は評判を呼び部数を伸ばしていった。わが国初めての地方版をつくったのも正力であった。こうして読売は東京日日(後の毎日)、朝日と共に東京三大紙の仲間入りし、首都圏ではトップの座に踊り出た。

 1926(大正15).3.15日、正力が読売乗り込みの二年後になるこの日、歌舞伎座を買い切って「社長就任披露の大祝賀会」を挙行した。3000名の各界名士が集い、正力は席上「新聞報国への固い決意を開陳」した。激励、祝辞を述べた各界代表の中には、首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦圭吾、後藤新平らの名がある。


 その後の読売は、特徴的な姿を見せて行くことになる。内部管理は、正力自身が公言した独裁主義による日本の警察機構の上意下達式を真似た系統図で統制していくことになった。要所要所に配置された警視庁人脈が力を発揮し、労務支配を有利に進めて行った。

 紙面の方は、「エロとグロ」(エロティシズムとグロテスクネス)を積極的に扱うイエロー・ジャーナリズム化していった。加えて、日帝の帝国主義的侵略活動を後押しする御用新聞化していくことになった。具体的には、煽動主義的な戦争報道を通じて「聖戦」に加担して行くことになる。更に、「サツネタ」情報に強味を発揮し、優位な地位に立つことになった。これらの路線により読売は驚異的発展を遂げていくことになる。

 1929(昭和4)年、正力の誘いで元報知新聞の販売部長・務台光雄が入社し販売網づくりを手掛けていった。読売は拡張販売競争に勝利し続け、同時に権力のマスコミ支配を達成して行くことになった。

 1931(昭和6).11.25日、夕刊を発行。

【「読売ヨタモン」への電車道】
 満州事変が始まった頃夕刊発行に踏み切っている。1931(昭和6)年社説が常設で復活したが、内容は官報並となった。1932(昭和7).12.19日「大手メディアの共同宣言」による「満州国の独立支持」宣言が為されている。

 1931(昭和6)年、全米オールスター選手を招待。日本にはプロ野球チームがなく17戦全敗。しかしこれにより読売新聞の発行部数が30万部を越えた

 1934(昭和9).12.26日、第2回日米野球の盛り上がりを見て、日本で最初のプロ野球球団・ 大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)を創設、正力は取締役に名を連ねる。アメリカの大リーグのチームとの試合を企画し成功させる。1936年に公式戦をスタートさせる。

 1938(昭和13)年新聞用紙制限令によって一県一紙化が国策で打ち出された。否応なく「新聞統合時代」に突入した。「新聞統合政策」は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。「具体的な統合実施家庭では、各都道府県知事及び警察部長、特高課長が指揮をとった」(「新聞史話」)。この過程で、読売は、朝日・毎日と並んで三大中央紙の位置に就くことになった。九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を次々に傘下に収めた。

 1941(昭和16)年、日米開戦直前にかっての名門紙「報知」を買収した。1942(昭和17).8.5日、読売新聞と報知新聞が合併、題号が「読売報知」となる。紙面の方は、「虚報」、「デタラメ記事」、「情報隠匿」が進んだ。

 1944(昭和19)年、正力が、岸信介の推薦で貴族院議員になる。小磯内閣の顧問になる。

【敗戦ショック】
 敗戦直後、戦争責任追及の嵐が巻き起こり、新聞社各社も社内外の世論の批判に晒されることになった。毎日社長の奥村信太郎が8月末に自主退社、朝日の村山長挙ら40社の新聞社長が次々に退陣した。8.23日朝日が「自らを罪するの弁」、11.7日社告「国民と共に起たん」記事を発表した。

【第一次読売争議、正力がA級戦犯を問われ巣鴨刑務所 に収監される】
 正力ら局長以上の総退陣要求を社員大会で決定。鈴木東民(読売従業員組合組合長、続いて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長)ら5名が逆に退社を命じられ、これが発端となり第一次読売争議が始まる。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長及び組合長に選出された。争議が始まり、「生産管理闘争」が採用された。

 正力は、最高闘争委員会の委員長・鈴木、闘争委員・志賀重義、とき沢幸治の3名と会談、解決私案を示した。「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」という代物であった。当然のことながら拒否されている。


 1945.11.6日、読売従業員組合は、退陣要求に応じない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。「熱狂的なナチ崇拝者、本社民主化闘争、迷夢探し正力氏」と題する三段見出し記事を載せている。

 11.10日、第一次読売争議のヤマ場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」が開かれ、終了後共産党系のリーダーの指揮する約1千名のデモ行進が読売本社に向かった。正力が狼狽した様子が伝えられている。

 この直後に、A級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決まった。その為、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長とするなどの交換条件で解雇撤回する」取引が成立し、事態は急転直下解決した。


 増田太助氏は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。その後、日共東京都委員会委員長となるが、「反党活動」で除名処分に附されている。

 勢いを得た各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(「新聞単一労組」)という個人加盟の産業別単一組織への改組を為し遂げ、各企業はその支部を結成することになった。

 1946(昭和21).5.1日、題号を「読売新聞」に復元。同9.1日、読売信条を発表。

【第二次読売争議】
 GHQ新聞課長・バーコフ少佐によるプレスコードの拡大解釈。極東国際軍事裁判の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それに呼応した馬場者社長らは、「GHQの意思」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下6名に退社を求めた。組合側がストライキで応戦したが、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力突破を図った。これに組合がピケ戦を張り、社屋に立て篭もった。務台らは、警察の出動を要請し、動かないと見るとGHQにMPの出動を要請し、それで慌てた丸の内署がこん棒とピストルで武装した約500名の警官隊が突入してきた。組合側は、「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と非難している。

 以後約4ヶ月、ロックアウトされた争議団4百余名は読売の社外で闘ったが、次第に形勢不利となっいく。新聞通信労組がストライキで取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部37名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈辱を呑んで解決した。復職者は、この間組織されていた御用系の新従業員組合への統一を強要された。以後、読売の労働運動は潰える。

【正力の追放令解除、表舞台へ復帰す】
 A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されていた正力は、1年8ヶ月後の1947(昭和22).8月に釈放されている。しかし公職追放の身となり、この間読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つ経営した。

 1949.2月、正力、日本プロ野球のコミッショナー就任が決定される。 ところが、公職追放中という理由でGHQの許可が下りずコミッショナーを辞任し、社団法人日本野球連盟総裁に収まる。(「プロ野球は誰のためPart2」参照)

 1950(昭和25).6.1日、株式会社読売新聞社となる。

 1951.8.6日、正力は追放令を解除され、讀賣新聞に復帰する。

 1952(昭和27).4.28日サンフランシスコ講和条約発効。公職追放中からアメリカ直結のテレビ放送網の建設を提唱していたこともあって、正力を社長とする日本テレビ放送網鰍ヘ、1952.7.31日に日本の第1号テレビ放送免許を取得している。街頭テレビでプロレス中継を流し、テレビの普及、CMスポンサーの開拓という一挙両得手法を編み出した。

 1953(昭和28)年、日本テレビを開局させ、後楽園球場でのプロ野球試合中継を優先的にあたえられた。正力は、後楽園球場を徹底活用し、プロ野球のみならずプロレス、ボクシングなどを主催し成功させていく。読売新聞拡張販売員は、読売系列のプロ野球、遊園地、展覧会の招待券、割引チケットを配る事によって販売部数を増やしていった。

 1954(昭和29).7.7日、正力は社主に推挙される。晴れてめでたく表舞台での公式の復帰を果たし、経営の第一線から退く。

【正力が衆議院議員になり原子力行政推進する】
 1955(昭和30)年、衆議院議員に初当選。鳩山派に入る。11.22日の第三次鳩山内閣で北海道開発長官に抜擢される。原子力行政の推進に力を入れ、1956.5.19日、科学技術庁を創設し、初代長官に就任する。原子力発電導入に一役買い、現在の原子力事業の土台を築く。

 1957(昭和32)年、岸内閣の第一次改造で、国家公安委員長と科学技術庁長官・原子力委員長に兼任で就任する。

 正力は、内閣総理大臣を目指し、中曽根康弘らを従え派閥「風見鶏」を作る。しかし、野望は実現することなかった。

 プロ野球初代コミッショナーに就任する他、柔道やプロ野球に正力の名前を冠した大会・賞を設ける等々その活躍の幅は広い。

 1961(昭和39)年、勲一等旭日大綬章を受章。

 1969(昭和44).10.9日、逝去(享年84歳)。

【務台、小林、渡辺】
 1970(昭和45).5.30日、長男・亨、異母弟・武がいたが後継の器ではなかった。正力の死後7ヶ月半を経て、二人の副社長のうち務台光雄が後継して第9代社長に就任。長女の婿・小林与三次が日本テレビ社長に就任。正力亨は社主。務台は読売に移籍するまで報知新聞の販売部長。

 小林は1923(大正2)年生まれ。1936(昭和11).3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に内務省地方局に採用された。地方周りで熊本県警課長兼警察訓練所長、京都府警防課長を経て、当時特設された興亜院の事務官に転出し、再び内務省の地方局に戻り、そこで敗戦を迎えた。戦後は、内務省監察官、職員課長、選挙課長、行政課長を歴任し、内務省解体後には建設省文書課長を経て、自治省行政部長、財政局長、事務次官となった。天下り先は住宅金融公庫で、そこの副総裁となった。


 1973(昭和48).11.1日、巨人軍が日本シリーズ9連覇を達成。

 1981(昭和56).6.29日、会長に務台光雄、第10代社長に小林與三次が就任。

 1991(平成3).5.2日、会長に小林與三次、第11代社長に渡辺恒雄が就任。副社長・水上健也が代表取締役(平成9年6月16日会長)に。

 2000(平成12).1.1日、新「読売信条」を制定、発表。

 2001(平成13).5.10日、「読売新聞記者行動規範」を制定、公表。

 2002(平成14).7.1日、読売グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」(渡辺恒雄社長)のもと読売新聞東京本社(内山斉社長)、読売新聞大阪本社(板垣保雄社長)、読売新聞西部本社(池田孜社長)、中央公論新社(中村仁社長)、読売巨人軍(堀川吉則社長)の中核5社で構成


 「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」、「中興の祖」正力松太郎、歴史的恥部、1977.5.25日日本新聞協会理事会が「販売正常化委員会」.設置を決議。訪問販売による強引な押し売り拡張販売手法問題、インテリ・ヤクザ、マスコミ仁義(同業の内部問題相互不干渉仁義)





(私論.私見)