3258−22 | 国家主権について |
近代的国家主権の取り決めは、ウェストファリア条約に端を発するようである。これが予備的知識としてなる。以下、これを概括する。 1648.10.24日ミュンスターでウェストファリア条約が調印された。三十年戦争(1618‐48)の終結条約であった。 条約が各領邦の主権と独立をみとめたことで、神聖ローマ帝国とハプスブルク家は弱体化し、「神聖ローマ帝国の死亡証明書」とも云われている。フランス、スウェーデンは領土と、神聖ローマ帝国議会への参加権を獲得。フランスがヨーロッパ随一の強国に浮上。但し、ドイツ諸侯の領土主権が認められ、ドイツの政治的統一は大きく遅れることになる。ネーデルラント連邦とスイス連邦の独立が認められる。アウクスブルクの和議の原則がカルバン派にも拡大された。 |
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ウェストファリア条約三十年戦争()を終結させた条約。 1645年からドイツの Westphalia地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて 講和会議が開かれ、各国の利害が衝突してなかなかまとまらなかったが、 1648年10月24日に調印された。 この条約の結果 それまでヨーロッパで優位を誇ったハプスブルク家の勢力は後退し、 フランスとスウェーデンが強国となって台頭するようになった。 ドイツ内部ではブランデンブルクが勢力を伸ばすことになった。 したがって いちばん打撃を受けたのがオーストリアとスペインの両ハプスブルク家であった。 ドイツの諸侯は皇帝に対する独立の度合をいっそう強め、 神聖ローマ皇帝の地位はいよいよ名目的な存在となった。 オランダは独立を最終的に承認され、 またすでに中世末期に神聖ローマ帝国から事実上独立していたスイスが ウェストファリア条約で独立を正式に承認された。 |
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しげちの板書[ ドイツ三十年戦争 ](1618〜48) < 開戦と経過 > ↓ ※ 背景:独での新旧教諸侯の対立 @ ベーメン反乱(1618):ベーメン(新教)にフェルディナント2世(旧教)即位 → 三十年戦争勃発 A デンマーク(新)介入:デンマーク王クリスチャン4世 → 皇帝側傭兵隊長ヴァレンシュタインが撃退 B スウェーデン(新)介入:スウェーデン王グスタフ=アドルフ → スウェーデンの連勝 → リュッツェンの戦い(32)でグスタフ死去 → 退却 C フランスの介入:仏リシュリューが介入 → 旧教国ながら新教側に参戦 … 反ハプスブルク政策 ※宗教戦争 → 政治戦争へ < ウェストファリア条約 >(1648) ・アウグスブルク宗教和約の確認 + カルヴァン派の承認 ・領土獲得:仏=アルザス・ロレーヌ獲得 、 スウェーデン=西ポンメルン獲得 ・スイス・オランダの独立承認 ・「帝国の死亡証書」:神聖ローマ帝国内の領邦・都市の主権確認 しげちの講義 さて、それでは宗教戦争の一つであるドイツ三十年戦争を見ていきましょう。ここもなかなか見ごたえがあるところですね。当然出題も多いですぞ!! < 開戦と経過 > さて、以前見た時のドイツ宗教改革、覚えているかな???一応1555年のアウグスブルク宗教和議で宗教問題は一件落着・・・のはずだった!ところが、この宗教和議ではルター派かカトリックかの二者択一でカルヴァン派の公認はないし、宗教和議以降も実はプロテスタント諸侯とカトリックの連中がことあるごとにいがみ合っていたんだね。 開始 1617年、フェルディナント2世がベーメン国王に即位すると(彼は1619年以降神聖ローマ皇帝となります)、ベーメンで反宗教改革を強制しようとした事から、翌1618年にベーメンのプロテスタント民衆が蜂起し三十年戦争が勃発します。この反乱はスペインの支援などにより鎮圧されますが、ここから周辺の列強各国まで飛火して全ヨーロッパ的な大宗教戦争へ発展していきます。 展開 この反乱の後、新教国デンマークのクリスチャン4世が領土の拡大を目指してドイツに侵入してきます。これを迎撃したのが皇帝側の傭兵隊長ヴァレンシュタインです。彼はベーメン反乱の鎮圧でも活躍していましたが、今回もデンマークを撃退します。 デンマークの後退後に侵入してくるのが同じく新教国のスウェーデン王グスタフ=アドルフです。彼は18歳で即位するとスウェーデンの兵制改革・経済の振興などでスウェーデンを強国にし、周辺ではバルト海の支配権をポーランド・ロシアから獲得していて、「北方の獅子」とあだ名されたほどの人物です。 グスタフに率いられたスウェーデン軍は連戦連勝でドイツ領内に侵入していきますが、ヴァレンシュタインの軍隊とリュッツェンの戦いで勝利しながらも、グスタフ自身は戦死してしまいます。ちなみに、ヴァレンシュタインも、その人格的な問題(名誉欲・物欲の鬼!)などで人望が得られなく、皇帝からも疑惑と反発がもたれた結果罷免され、結局部下によって謀殺されてしまいます。 さて、ここまでは純粋に新教(デンマーク・スウェーデン)VS 旧教(皇帝側・スペイン)といった宗教対立というのが根底にあるのですが、性格が変化するのが旧教国フランス(宰相リシュリュー)の介入です。 フランスは旧教国なのですから、当然同じ旧教側(皇帝側)を支援する・・・とはいきません。当時のフランスはブルボン朝、皇帝側はハプスブルク家。この両家、とにかく仲が悪い!!!仏ヴァロア朝時代からですが、とにかくヨーロッパでも有数の犬猿の中です。 フランスの思惑は・・・まず、旧教国なんだけれどもとにかくハプスブルク家がむかつく!そこで、当初はスウェーデンを宗教の違いを乗り越えて??支援します。しかしそのスウェーデンが撤退すると、ハプスブルク家の勢力が拡大するのを危惧したフランスは、あろうことか新教支援で戦争に直接介入してきます。正誤ではこの仏は旧教国ながら、反ハプスブルクから新教側を支援したというのが要注意!!正誤での基本です。 < ウェストファリア条約 > 以降戦局は膠着し、ようやく講和会議が開催されて、1648年のウェストファリア条約でドイツにやっと平和が訪れます。この条約は初の国際会議としても有名です。 ウェストファリア条約の内容は、まず基本的にはアウグスブルク宗教和議の確認とカルヴァン派の公認が決定します。これによりドイツの宗教紛争は一応の解決を見ます。 領土問題では、仏がアルザス・ロレーヌを獲得、スウェーデンも西ポンメルンを獲得します。入試的には、アルザス・ロレーヌとスウェーデンが領土を獲得していること、この2点に注意しておいて下さい。正誤でフランスのみ領土を獲得した・・・なんてのがありましたから。 それと、ネーデルラント(オランダ)・スイスの独立の国際的承認。これはセットで覚えておくこと! あと、この条約でドイツ国内の各領邦・都市の主権の確立が決定されたことから、通称「帝国の死亡証書」と呼ばれることがあります。帝国とは神聖ローマ帝国ですよ。これはどういうことか??中世ヨーロッパのところでもお話しましたが、ドイツというのは神聖ローマ帝国なんてたいそうな名前はあるものの、基本的にはバラバラなんです。ただし、これまではなんとなく神聖ローマ帝国皇帝の言うことにはある程度耳を傾けなきゃ・・・みたいなところがあった。 でも各領邦国家・都市の主権がこの条約で確認された結果、簡単に言うと「皇帝だろうがなんだろうがしったこっちゃねーよ!」って感じに領邦国家などがなっていく。これは、帝国のドイツへの影響力の低下を意味します。だから死亡証書という言い方をされるんだね。このあとの神聖ローマ皇帝は、基本的にオーストリア国王のことをさし、さして力もなく名称だけは残っていきます。名称も消滅するのはナポレオン時代になったとき(ライン同盟:1806)ですね。 |
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(私論.私見)