3251217 社会分析論その7、宗教批判の構図

 (最新見直し2006.8.7日)

Re:れんだいこのカンテラ時評198 れんだいこ 2006/08/07
 【マルクス主義社会分析論その7、宗教批判の構図】

 2006.8.7日、れんだいこは、サイト「マルクス主義再考」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism.htm)の中に「社会分析論その7、宗教批判の構図」サイト(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_syukyohihan.htm)を設けた。その理由は、靖国神社論考の中で次のことに気づいたからである。

 左派運動下の者はとかく、死者の埋葬及び礼拝について、それさえもマルクス主義の宗教批判一般の中に包摂して、死者を宗教的に取り扱わないのが左派とでも云える見識をひけらかしている。そうかといって、ならば、マルクス主義は死者をどう待遇すのかと問えば、別に何の定見も持っていないというのに。こういうのを見せかけだけの無責任批判というのではなかろうか。

 マルクス主義は、なるほど宗教批判を論の起点にしている。しかし、東洋且つ日本の我々が、マルクスが批判した西欧宗教即ちユダヤ-イエス・キリストーイスラム教という聖書ないしはコーランにある一神概念から来るところの宗教問題を踏まえずに、西欧でも東洋でも日本でもまんべんなく適用する宗教批判として受け止めるとしたなら、それはマルクスの提起した宗教理論ではない。そのように主張する者が自前で編み出した宗教批判に過ぎない。

 大抵の場合稚拙であるのだが、そういう持論をマルクス主義の名を被せて世間に吹聴したら、さぞかしマルクスは地下で迷惑を蒙るのではなかろうか。マルクスを困らしめる自称マルクス主義的宗教批判が横行しており、れんだいこは眼のやり場と耳の置き場に困っている。

 れんだいこは何が云いたいのか。直接的には、マルクス主義といえども死者の弔いと追悼は重視さるべきものであり、死者の弔いと追悼を無視しても差し支えない、否無視するのがマルクス主義などと云う見解を却下させたいところに主眼がある。

> 「靖国史観を知って言っているのか、慰霊とは何なんだ霊なぞ存在しないしそれを慰めることなぞ不可能だ」

 なぞと、物分りの頑是無い者がしたり顔してれんだい論を批判する者が居るが、この立論は彼一人のものではなかろう。この種の「慰霊とは何なんだ霊なぞ存在しないしそれを慰めることなぞ不可能だ」論を如何せんか。

 日本に於いては、死者は神道では土に帰り霊になる。仏教では浄土か地獄か三途の川を越して分かるのだが成仏霊となる。あるいは星になると云う者も居り、森に宿ると云う者も居る。西欧、イスラム、アフリカ、インド、中国、朝鮮ではどうしているのか知らないが、よく似た捉え方をしているのではなかろうか。

 れんだいこに云わせれば、死者が霊になろうが星になろうが森に宿ろうが、それはどうでも良い。どうでも良くないのは、死者はそれなりに待遇されねば成らぬということだ。前者を否定したからといって後者まで否定するのは混同甚だしいというべきだろう。そういう混同マンが多過ぎる。思うに、本来は、マルクス主義的葬儀ー追悼法というのがあるべきだ。マルクス主義者は争議はすれども葬儀をしようとしない。それは、宗祇に反すると云うべきだ。

 靖国論から始発したので靖国論に還る。戦没者を祀り英霊とする靖国方式は死者追悼の一方法であり、これを良いとか悪いとかは本来は云うべきではない。その政治利用を許さないのなら、死してなお政治権力に利用せしめるような歴史的靖国方式を批判することが肝腎で、ならばこちら側の追悼方式を対置すべきではないのか。

 この作法は一事万事に当てはまる。右翼版教科書採択を批判するのなら、左翼版教科書を対置すべきだ。それを為そうとしないまま採決現場に乗り込んで得意がる。憲法改正派が改正運動するのなら、憲法護持派も又護持運動すれば良い。憲法記念日だってあるではないか。この日を盛大にイデオロギッシュにやればよい。ところがそれをしない。

 ネオ・シオニストが戦争政策推し進めるのなら、反戦平和派は、特に日本では原爆反対不戦運動を盛んにすれば良い。ネオ・シオニストが原子力発電所を推進し啓蒙活動するのなら、反戦平和環境派は、危険警鐘乱打、逆啓蒙運動すれば良い。誰だ、反対派のポーズしながらいつも決まって逆の分裂運動ばかりするのは。口先だけの反対で責任果たし顔するのは。そういうのは何もやっていないに等しい、否むしろ害悪だ。

 大東亜戦争を否定するのなら、二度と起こさないためにどうすればよかったか、史実を明らかにして喧々諤々すればよい。議論しないのが良策だなどとの詭弁で、ホロコーストも南京虐殺もシオンの議定書も陰謀論も先入観で一蹴してしまい、何か尋ねると、あれ読めこれ読めで逃げ廻り、たいした文でもないのに著作権で囲おうとするのは卑怯ではないか。手前たちこそ秘教にでも被れているのではないのか。






(私論.私見)