32513−4 組織論、規約論

 「レーニンの中央委員会の権威は、何ら『組織原則』によって支えられたものでもなければ、『党規約』によって支えられたものでもなかった。だからレーニンは、かって一度も、中央の権威を押し付けたことは無かったし、『反中央』が『反党』であるともいったことはなかった」(レーニン「奇妙なことと法外なこと」)




 戦前の日本共産党創立の立役者の一人である近藤栄蔵は「コミンテルンの密使」の中で次のように記している。
 「私の悪い癖は、規則や規律に縛られるのが嫌いなことである。共産主義運動は、一度、人間を機械の部分品にしてしまわなければならない。人間の機械化を通じて、社会の根本的建て直しをやろうというのがそれである。一度全人類をプロレタリアと云う一定の型に強引にはめ込んで、生活様式も精神も造り直して、つまり一定の型の煉瓦を新たに製造して、それで社会を建築しようというのが手である。これは理論的には全く正しいと私は信ずる。なぜならば、これが最も簡単で、また机上計画の関する限り、最もやり易い方法だからである。

 だが、不幸にして人間には、永い昔からの生活伝統によるところの個性というのがある。例えば、私の場合だが、封建貴族の家柄に生まれ且つ育った関係で、いわゆる貴族的な性癖がこびり着いている。貴族的とは、他人の掣肘に堪えない気性、つまり一城の主たらずんば、むしろ乞食浪人となっても一身の自由を保たんとする傾向である。私は66の今日まで、只の一度も、半年と続いて月給取りをやったことがない。他人に身を縛られることが心棒できないまだ。つまり、人間機械化に最も向かない性格の持主なのである。理論上共産主義を肯定しても、性質に於いては無政府主義者なのだ。そのせいであろう、私が大杉を好んだのは。

 かくて私は、共産党ができると同時に、その規律に縛られるのが怖くなって、責任的地位を避け、地方的一オルグの閑職に引き下がったのである。その口実には上海帰りの失敗が十分役立った。


党、ソビエト、工場委員会、地区委員会、赤衛隊。共同戦線としての他党派
 新政府、内閣に当たる人民委員会議、
 自己統治機関の形骸化。ヘゲモニー争いの場に転化。一派による独裁化と私物化。ボルシェヴィキ党指導部への権力集中。諸党派の暴力的抹殺。反革命規定による弾圧。チエッカー(反革命取締り非常委員会)による赤色テロル。集会、結社の自由に対する事前検閲、当局の臨検。欺瞞的選出制度による御用化。ソビエトの官僚化。各級指導部の常任化、それに伴う高報酬化。党専従職員化。


 11.20日憲法制定議会の選挙が行われ、707議席のうち社会革命党が400余を取って多数派を形成し、ボルシェヴィキは4分の1の議席しかえられなかった。翌年1.6日の制定会議の第二日目に、レーニンは軍隊を送って議場を占拠させ、憲法制定会議そのものを解散させて、権力を強奪した。

1921.3月、クロシュタット軍港の水兵たちのソビエトに対し、赤軍数万を動員して包囲し、一週間の戦闘ののちに粉砕した。

1921.3月の党大会での、党内分派の禁止。自由な発言の封殺。
1922年秘密警察による党員の逮捕裏制度が導入された。


詭弁の多用。例えば、「労働者達は、ソビエト共和国は労働者の国家なのだから、労働者達が自分たち自身に対してストライキするのはおかしいという詭弁によって、ストライキ権を奪われた。労働組合は、労働者の権利を守る組織ではなく、政府の意向に沿って労働者達を働かせる、経済管理機構の一端を担うものに変身を強いられた」
これにより、労働者階級は抵抗の手段を奪われることになった。

 


1917年2月、ロマノフ王朝の専制を打倒した民衆は、その革命後の5年ほどのうちに、ボルシェヴィキ党中央を頂点にした、新たな専制に服してしまう結果となった。
「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも束縛されない権力である『独裁』」(レーニンによる独裁規定)


前衛と大衆という構図。

 レーニンの理論的好敵手であったオランダの左翼共産主義者、アントン・パネクークが、ロシア革命を批判しつつ、革命変質の基本構造について次のように述べているのは、まことに的確だと言わねばならない。「共産党は労働者達を、彼らの英知と理解力のみによって、彼ら自身で自分たちの新しい世界を建設する、独立した戦士に変えようとする意向を持たなかった。共産党はただ、労働者たちを、党を権力の座につけるための従順な召使にすることしか、望んでいなかった」。この路線から必然的に生まれるのは、「生産者の自由で平等な協同に基づいた生産を新たにする社会」(エンゲルス)ではなく、ソビエト・ロシアという、資本主義とは別種の階級社会に他ならなかった。


外部注入論の危険性−エリート主義の継承と自主原則の抑圧

 カウッキー理論によれば次のように云われている。概要「社会主義的意識は、プロレタリア的階級闘争の必然的な、直接の結果であるかのように見える。だが、これは全くの間違いである。近代の社会主義的意識は、深い科学的知識に基づいてのみ生まれることができる。ところで、科学の担い手は、プロレタリアートではなく、ブルジョア・インテリゲンツィアである。近代社会主義も、やはりこの層の個々の成員の頭脳に生まれ、彼らによってまずはじめに知能のすぐれたプロレタリアに伝えられたのであって、次いでこれらのプロレタリアが、事情の許すところで、プロレタリアートの階級闘争の中にそれを持ち込むのである。だから、社会主義的意識は、プロレタリアートの階級闘争の中へ外部から持ち込まれたのであって、この階級闘争の中から自然発生的に生まれたのではない。従って、プロレタリアートの中に自分たちの地位と自分たちの任務とについての意識を持ち込むことが社会民主党の任務である」、

 カウッキーは、1907年にブレーメンで、「マルクス主義の三つの源泉」について講演した際に、そこでも次のように語っている。概要「社会主義、社会についての科学は、ブルジョア分子によってまず説かれたものであり、強大化する資本主義に対抗する労働者階級の中にあっていかなる理論も持たない、自然発生的な労働運動は、革命的な事業を成就することができない」。

 この点については、レーニンはカウッキーの理論継承者であった。

 れんだいこ見解。これは反面の実際ではあっても、この観点を押し広げていくことは危険である。結局、理論の光で行く道を照らす指導者と、それに拝跪し下仕事の実行だけを任務とする大衆という新支配秩序形成に役立つだけの理論に転化するからである。それこそマルクス主義が当初目指したものの反対物理論ではなかろうか。「指導者であり、首領であり、教師である」(スターリン)前衛党の、そのまたトップに立つ指導者のヒエラルヒー理論に道を開く。


 外部注入論は、「理論を持つ指導者達と、その理論に基づく指令に従うだけの労働者達、という運動内部での階級制を成立させ、ひいては新しい支配階級としての特権的管理者層を形成させた」


個人崇拝について

 マルクスは個人崇拝を徹底して嫌った。その逸話が次のように伝えられている。二人の娘ジェニーとラウラが子供時代にマルクスに「あなたのもっとも嫌いな悪徳は何か」と尋ねたことがある。マルクスは「それは追従。されるのもするのも嫌だ」と答えた。「英雄では誰を好むか」という問いに対して、「革命家ではスパルタクス、科学のほうではケプラー」を挙げた。

 この追従と個人崇拝は裏表の関係にある。マルクスは、政治家プロスに与えた手紙の中で次のように述べている。「私はいかなる個人崇拝にも反対する。インターナショナルの存在していた12年間に、いろいろの国から私の功績を認めて、あきあきするほど送られてきた呼びかけを全部発表しなかった。こうした呼びかけには、非難の意味を込めて、私は返事さえださなかった。エンゲルスと私は初めて秘密の共産主義者同盟に加入したとき、凡そ個人崇拝をもたらすようなあらゆるものを同盟の規約から除くという条件をつけた(ラッサールはこれに真っ向から反対だった)」。


ベルト理論
コミンテルン時代、革命政党はモーターに、大衆団体は機械に、党フラクションは両者をつなぐベルトに例えられ、革命政党が党フラクションを媒介として大衆団体を動かすことを『ベルトをかける』と呼んでいた。
行き着くところ、党フラクションによる大衆団体への引き回しに陥った。






(私論.私見)