32512−4 社会分析論その四、搾取論、人間疎外論

 マルクス主義形成の原理的とも云える背景に「搾取論」と「人間疎外論」がある。案外見過ごされているが、これは深い哲理に基づいており、マルクスの資本論での考察はそれを経済学の見地から解明しようとしたものに過ぎない。よしんばその突っ込みが未熟であったとしても、「搾取論」と「人間疎外論」に着目した哲理の値打ちはいささかも損傷されない。むしろ、マルクスの慧眼に頭を低くすべきだろう。

 以上の観点から、以下考察していきたい。


(未整理)

【搾取論】

 マルクスは、資本主義は「最高に発展した商品生産社会」であると見なす。資本主義は商品経済の法則によって支配されており、そのカラクリは、剰余労働部分を剰余価値=利潤という形態に転化させた価値法則が貫徹されていることにある。これが「資本主義の基本的経済法則原理」である。

 これは、資本家側からすれば資本の絶え間ない増殖であるが、プロレタリアートの側から見れば労働が搾取されているということになる。マルクスは、商品生産の仕組み及び資本運動の解析を通じて、生産手段を持つブルジョアジーによるそれを持たず労働を提供することにのみ意味を持たせられているプロレタリアートに対する搾取構造を明らかにしていた。それは、ある対象を止揚させる為には、そのある対象を徹底的に考察せずんば為しえないという認識によっていたと思われる。

  資本論はこの経済メカニズムの解析から始め、社会構造全体の解析、来るべき社会の青写真構想までを視野に入れて執筆されつつあった。


 この搾取構造体制を如何に解体し、より合理的な被搾取社会を創造するのか、ここにマルクス主義的搾取論の意義がある。



【人間疎外論】
 「人間疎外論」の考察は通常無視されがちな割には内容が深い。れんだいこ観点に拠れば、マルクス主義のイズムとしてのベクトルはここから起因しているのではないかと思われるほど「哲学的」に深い。恐らく、貨幣の物象化論と同じセンテンスで、労働のひいては人間関係の物象化つまり疎外論が云われているのではなかろうかと思われる。

 私有財産制度の廃止も、このセンテンスから導き出されている面があるのではなかろうか。充分に論ぜられないが、いわゆる目的と手段の転倒が資本の自己運動的な増殖過程からもたらされていると洞察して、諸悪の根源とみなす。資本のそうした特性から人間疎外が生み出されているというような観点があるのではなかろうか。

 以下、羅列しておく。

 本来労働は社会的な意味と意義を持つにも関わらず、生産物が商品の形態をとる社会では、人間労働が、使用価値算出労働よりも商品価値算出労働へ転化され、その分社会的な労働性を疎外される。

 社会主義とは、こうした商品生産の社会における労働の社会的性格を徹底的に全面的に承認し、高度な協働経営のもとで生産をおしすすめる社会のことを云う。商品生産社会では、人間関係が商品というモノの関係を通してあらわれるという特徴をもつが、社会主義社会では個々人の労働は直接に社会的な総労働の一環として発揮され、労働が疎外されるということが無い。

 マルクスの「資本論」は、この辺の事情を第一章の第四節で説明し、「自由な人間の一つの協同体」=社会主義社会について次のように述べている。「人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切がここでくり返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることが違っている」。ここにいうロビンソンとは例の孤島にたどりついた人間のことで、彼は自分の欲望を充足させるために、道具をつくり、家具を製造し、猟をしたりします。彼は生きるためにいろいろな生産的労働をしますが、彼にとってそこには目的と手段の混同は無い。

 この同じ原理が、社会主義社会では個人的でなく社会的な形で実行される。ロビンソンの場合には、すべての生産物はもっぱら彼の個人的生産物であったが、社会主義社会では、社会的総生産物となる点で違いがある。

 この生産物の一部は社会的再生産のために、他の部分は成員に分配され消費される。ここでは、社会全体の見地から――その社会の必要性に従って、総労働時間は計画的に配分され、個々人は自分が支出した労働時間から、社会的生産等に必要な部分をとり除いた部分を受けとる。

 それは、等価物交換(社会的に必要な労働時間の長さが同じ)の原則が貫かれているという意味で「価値規定」の内容を引きついでいる。とはいえ事情は一変している。なぜなら、個々人の労働時間は社会全体の総労働時間の一部であること、生産物が商品(価値物の)形態をとる必然性は何一つないからである。

 「労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして、正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働に対する、したがってまた共同生産物の個人的に費消されるべき部分に対する、個人的参加分の尺度として役立つ。人々の労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変りない」。

 だから、社会主義では人間と労働、労働生産物に対する関係は、本来そうあるべき姿態に復活するのであって、生産物が価値物といった形態をとるという転倒が無くなる。


 「ゴータ綱領批判」では次のように述べられている。「ここでは明らかに、商品交換が等価交換である限りその交換を支配するのと同じ原則が支配している。内容と形式はかわっている。なぜなら、変化した事情のもとでは、だれも自分の労働のほかにはなにもあたえることができないから、また他方では、個人的消費資料のほかになにものも個人の所有にうつりえないから、である。しかし、個人的消費資料が個々の生産者のあいだに分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し一つの形の労働が、他のひとしい量の労働と交換されるのである」(大月、四四頁)。

 等量の労働(時間によってはかられる)が交換されるという限りでのみ、価値規定が残る、といっていることになる。


 (理解が追いつかない面もあるが、以下転載しておく。)

 マルクスの「等量の労働(時間によってはかられる)が交換されるという限りでのみ、価値規定が残る」に対して、スターリン主義者は社会主義の概念を大きく修正してしまった。


 商品生産との関連における社会主義論を廻って、スターリン時代にはかって、「社会主義社会では、価値法則を利用する」、「社会主義社会(この場合資本主義から生まれたばかりの低い段階の共産主義のこと)では、価値規定の内容を引きつぐ」、「資本主義的生産の本質や資本主義的利潤の基礎を形成しない」などと述べている。

 スターリンは、有名な(?)「社会主義の経済的諸問題」(52年発表)の第二章で次のように述べてる。「われわれの商品生産は、普通の商品生産でなく、特殊な種類の商品生産、資本家のいない商品生産であり……、その『貨幣経済』とともに、社会主義的生産の発展と強化のために働くことを予定されているのである」国民文庫24頁)。スターリンは一定の理論的な粉飾をほどこし、ソ連における商品生産が「特殊な種類の」、「資本家のいない商品生産」だといい替えている。そして、商品生産と資本主義は別ものだ、商品生産から資本主義が必然するなどとはいえない、「価値法則は資本主義の基本的経済法則とはいえない」との見解を披瀝している。

 マルクスやエンゲルス理論はそういう見解には馴染まない。こうした理解の仕方は、基本的にマルクス主義による価値規定論の仕組みが理解されていないことを暴露している。社会主義とは商品生産の否定(止揚)であることは常識であり、社会主義における生産物が価値形態をとることを是認しない。 


 社会主義とは、人間の意識的規定のもとに生産が行なわれる共同社会であり、それは生産物が商品の形態をとること、価値対象性という形態をとることの否定のうえに成立する社会である。商品や価値法則が社会主義でも存在するといった主張それ自体が、大変な概念矛盾であり、混乱であると云える。又、商品生産と資本主義は基本的に別のことだから、社会主義に「奉仕させることができる」というのも、デタラメと云える。 ( 山田明人参照改編中 )




(私論.私見)