32518−3 民主主義論・家族論考

返信 Re:家族制度/Weber れんだいこ 2002/07/10 17:32
 飯田橋学生さん皆さんちわぁ。あたみぃさんとたけちよさんが口をあんぐりさせているのではないかと心配しておりますふふふ。

> もちろんです。社会主義は家族否定です。家事労働の社会化を通じた女性の解放を目指します。

 やっぱこれはさすがに云いすぎだわなぁ。これは民主主義論にも通ずるところですが、二つの視点があると思うのよね。一つは、ブルジョア的なそれとして否定するという観点。それに対置するのが社会主義的なそれです。もう一つは、より機能させるものとしてブルジョア的なそれの形式性を問い、実質化を目指すそれ。

 この両観点の理論的整合が出来ていないから、溝が出来てしまうのではないでせうか。れんだいこ観点では、後者のアプローチから深めて見たいところです。これ以上書くと居酒屋では堅くなるのでおしまい。




(私論.私見)



 さてこのような時期のソ連社会に、「思想・信条の自由」も、「言論・集会・結社の自由」も、人身保護令も、官憲の不当な逮捕を免れる自由も、原則として事実上ありませんでした。政治的自由、政治に参加する権利を、自らの判断に基いて行使することも認められていませんでした(共産党組織が作成した候補者ないしその名簿に賛成することだけが許されていました。反対することばもちろん、棄権することも実質的には許されなかったのです)。これには、革命前のロシアが、後進的農民が圧倒的多数を占めるツァーリの専制支配のもとに長い間隷属してきた(そして市民的自由も政治的自由も経験したことのなかった遅れた社会であった)という歴史的事情も大いに影響しているとは思いますが、同時に革命ロシアをとりまく厳しい国際環境、共産党と農民大衆との利害の対立、それに加えて、レーニン、なかんづくスターリンによって強化された共産党の権威主義的強圧的組織体質によって強められたと考えられます。

 このような党=国家の権威主義的抑圧的支配は、第二次大戦後ソ連の東欧従属国にも伝染していたのであり、その最悪の実例の一つとして、一九八九年のクリスマスの日、蜂起した民衆勢力によってその妻とともに銃殺されたルーマニアのチャウセスクの暴政をあげることができるでありましょう。一九三三年、ヒットラー独裁を支持したドイツの国法学者カール・シュミットは、ナチス体制を、フューラー(ヒットラー)→党(ナチス)→民族という定式で描きました。これにならっていえば、スターリン独裁は、スターリン=党(共産党)→「伝導ベルト」→大衆という図式であらわすことができるかもしれません。

 フランスの有名な政治学者、モーリス・デュヴェルジェは、その名著『政党論』(一九五一年)のおしまいのあたりで、ソ連の共産党独裁とヒットラーのファシスト独裁とをなんとか区別しようと理論的に努力しています。つまり、マルクス主義の思想は、近代の啓蒙思想や政治思想の直系の継承者であるのにたいして、ナチスの思想はその人種主義思想など近代思想の反対物であるというのです。そのことは認めてもいいと思うのですが、しかしヒットラーがやったアウシュビッツ等におけるユダヤ人虐殺と、スターリンのおこなった強制収容所等での大量の無実の人々の虐殺や虐待のどちらが悪いのか、どちらが人間性に加えられたより大きな悪であったのか。どちらも同じような人間性に対する犯罪行為でした。そしてソ連における大量テロは、すでに触れたように、特殊な国際・国内諸条件のもとでの「ロシア的野蛮」の復活という側面もあったのですが、マルクス主義あるいはレーニンの教義(「マルクス・レーニン主義」なるものは、スターリン等がでっちあげた、マルクスやレーニンの思想を極度に湾曲し、単純化した『教義体系』で、一九三〇年頃からスターリンが死ぬまで、世界中の共産主義者がこの『教義』を信奉していました)の中に、そのような蛮行を正当化しかねない「理論」があったのではないか。それはマルクスやレーニンの、国家論、革命論、「プロレタリア独裁論」あたりにあったと思います。マルクス自身の国家論は、疎外国家論、階級国家論など時期によって変化もし、複雑なものですが(『マルクスカテゴリー事典』青木書店、一九九八年に、私自身が「国家」の項目を執筆していますので、ご参照下さい。同書、一七一〜一七六ページ)、レーニンが、一九一七年の二月革命の後、隠れ家で書いたといわれる未完の『国家と革命』という小冊子は、国家を階級支配の機関、それを軍隊・警察・監獄といった国家の暴力機構と等置する、お粗末極まりない国家論だったのですが、ロシア革命が成功し、レーニンの権威と名声が高まるにつれて、このパンフレットは、全世界の共産主義者の必読文献になりました(共産党、共産主義者の理論的権威主義の一例)。皆さんは中野重治の『むらぎも』という小説を読んだことがありますか。その中で、一九二〇年代後半の新人会の左翼学生たちが、『国家と革命』の独訳本を読んでカンカンガクガクの議論をする状景がでてきますね。

 それはともかく、こういう単純な国家論を前提としますと、革命は支配階級の手中に握られている軍隊・警察等の暴力装置を破壊し(解体し)、それに代るたとえばプロレタリアート(労働者階級)の権力を樹立する行為ということになります。支配階級の手中にある暴力装置を破壊=解体するためには、被支配階級指導部の側の組織化された暴力が必要で、後者が前者を打倒しなければなりません。こうして革命は暴力革命の形態をとることは通常不可避的でありましょう。もっともマルクスやエンゲルスの時代には、彼らはイギリスなど支配階級が妥協することによって暴力によらない革命がおこりうるかもしれないという例外を認めていたのですが、レーニンの段階、つまり近代帝国主義の段階においては、革命は暴力による権力奪取の形態をとることは、不可避のことと考えられ、信じられていました。このような武装蜂起による権力奪取という革命路線が、先進資本主義諸国については否定され、議会などを利用する平和移行方式による多数者革命がそういう国々の共産党によって承認されるのは、一九六〇年前後からのことです(もっとも多数者平和移行というような革命路線が、今日の先進諸国で成功する諸条件と可能性は、まったくないと私は判断しています)。話はここでおわりません。支配階級の権力を打倒した被支配階級(具体的には革命を指導したその権力核、たとえば共産党)の権力は、旧支配階級の革命に対する抵抗、反革命の企てを実力で押さえつけ排除しなければならない。これがマルクスをして自らの国家=革命学説の真髄であるといわしめた「プロレタリア独裁」ということの意味であり、それを認めるかどうかが、マルクス主義者の試金石であるとされたのでした。そしてこのプロレタリア独裁の権力を媒介として、資本主義から社会主義階級の差異や対立のない、したがって階級支配の機関としての国家も必要がなくなって死滅する体制への移行がおこなわれると考えられました。社会主義はさらに発展して共産主義社会にいたり、人類の前史はここでおわりを告げる、というわけです。

 現存した社会主義体制――その実態は惨憺たるものがあり、その大部分は崩壊していったのですが――を、政治学的側面から根拠づけていたのが、以上説明してきましたような「国家と革命」の学説でした。なおここで注的に触れておきたいのは、このようなマルクス主義の国家学説、特にレーニン国家論に対してマルクス主義国家論の創造的展開の先駆者となったのは、イタリア共産党の創始者の一人であり、ファシストの牢獄につながれて四十台の半ばに亡くなったアントニオ・グラムシ(一八九一〜一九三七)という政治家・理論家でした。彼が残した膨大な獄中ノートは、マルクスのマルクス主義の創造的発展の可能性を示しているといってよいでしょう。



マルクス以前の近代民主主義とマルクス主義との密接な関連を意識しつつ、一九三七年までのヨーロッパ政治史を描いた古典的名著として、ドイツの歴史家、ドイツ独立社会民主党、ドイツ共産党員(のち離党)であった、アルトゥール・ローゼンベルクの『民主主義と社会主義』(一九三七年)という本があります。私と私の友人だった故西尾孝明氏の共訳(青木書店、一九六八年)とみすず書房から別の訳者による翻訳が出ておりますので、お読みすることをすすめます。



石堂清倫

『わが異端の昭和史』『続 わが異端の昭和史』『20世紀の意味』


 また、民主主義の問題もあります。これは「ブルジョア民主主義」に対する態度という問題と、組織内部の民主主義という問題の両側面があります。
 民主主義を「プロレタリア民主主義」と「ブルジョア民主主義」に分け、「ブルジョア民主主義」を一段低いものと見る見方があったのではないでしょうか。このような見方は戦後のかなりの時期まで残っており、そのため、現に危機にさらされている「ブルジョア民主主義」を擁護するという点での不十分さや民主主義的課題に対する軽視または消極性が生まれた可能性があります。
 このような民主主義認識の弱さは、レーニン型の軍事組織的規律によってさらに増幅されたのではないでしょうか。レーニン型の党組織論が持っていた時代制約性はほとんど意識されていなかったように思われます。

 こうして、上意下達の「鉄の規律」が組織内部の民主主義を犠牲にして成立する事になります。これは非合法組織においてはやむを得ない面もありますが、それを状況に規定された一時的でやむを得ない例外であると捉える意識はなかったのではないでしょうか。
 民主主義認識の不十分性は、組織内での権威主義や外国の理論や指導者に対する盲目的追従の背景になりました。当時の共産党はコミンテルンの支部ですから、これも一面ではやむを得ないかもしれませんが、コミンテルン無き後の戦後にも引き継がれたという点が問題でしょう。