32516−5 革命的祖国敗北主義について
 レーニンが明確に指針せしめた「革命的祖国敗北主義」に対して理解の混乱が見られる。れんだいこは、この真意を解(ほど)く問題はさほど難しいことは無いと考える。しかるに何ゆえ混乱するのか。考えられることは、@・意図的な混乱が持ち込まれている。A・読み取る側に左派的読解力が全く欠如している。この二点であろう。

 れんだいこの主宰する人生学院掲示板に、2003.12.28日付けでうちはだいこ氏により「革命的敗北主義について」なる投稿が為された。要領よく纏めていると考えるので、これを以下掲載する。
革命的祖国敗北主義について うちはだいこ 2003/12/28
 どうもひさしぷりです。

 帝国主義戦争は、どっちの側からみても侵略戦争であるゆえに、帝国主義対立によって戦争をする政府を打倒して、侵略戦争を革命で対置するというのが革命的祖国敗北主義です。

 他国が侵略してくるから、愛国心でもって戦争動員するのが帝国主義であるわけだが、他国も自国も帝国主義対立から戦争をしているわけだから、戦争しあう国双方の労働者が戦争をする自国帝国主義を打倒したら、戦争はなくなる。そこで、革命が可能になるということです。侵略されても降伏するのみということでもなければ、日本共産党のいうような防衛論ではない。帝国主義は主体的に戦争をするものであり、しあうものなのですから。

 ロシアとドイツが、第一次大戦に参戦していったとき、レーニンは革命的祖国敗北主義によってロシア帝国主義を戦争から帝国主義打倒・ロシア革命へと転化させたことが重要です。レーニンは、ドイツの手先・スパイだとして指名手配すらうけていたわけですが、それはどういうことであったかは、もうおわかりかと思います。レーニンは、ドイツ革命を期待し、ロシアと対峙していたドイツ帝国主義の打倒をドイツ労働者がなしとげなければ、ドイツ社民が権力奪取していたとしても、また侵略戦争に動員されるということを懸念していたようです。

 レーニンは、ロシア一国社会主義革命論者ではなく、ドイツの革命も期待していた国際主義者であったわけですから、祖国も国家も愛国もないのです。歪曲せしめたのは、帝国主義論の不均等発展法則を歪曲し、一国社会主義可能論により、ソビエト体制のみ追求したスターリンそのもののあやまりにあったといえます。それゆえに、レーニンの革命的祖国敗北主義も、そうとうねじまげられているといえるわけです。

 なお、れんだいこはかって、次のように述べたことが有る。「『自国徹底否定』路線なるものがあるとすれば、それは皇国史観の裏返しに過ぎないと思います。『革命的祖国敗北主義』は、ロシア10月革命のようにそれにより権力奪取に向かう責任が伴っており、それに成功し得ないあるいは目指さない言葉だけの『革命的祖国敗北主義』は有害だと思います。なぜなら、世の中そんなに甘くないから」、「権力奪取に向かうのなら辻褄が合っていると思います。しかし、それならそれで革命政権後の青写真を提起しておく必要があります。それも無しの呼号は無責任で左派風ヒロイズムに過ぎないと思います」。

 これに対して、次のような補足を頂いている。「 『革命的祖国敗北主義』はレーニンの立場によるもので、帝政ロシアは『諸民族の牢獄』と呼ばれ、そのなかで抑圧民族である大ロシア人の一員であったがゆえに、レーニンは被抑圧民族の解放には留意してきました。ロシア革命においては、民族自決の権利が承認され、ソビエト連邦の結成に際しては連邦離脱の権利は認められていたということです。

  そして、レーニンとスターリンの対立はまさに連邦の形態と各共和国の地位、主権(自治化)の問題をめぐって発生し、それは具体的にはカフカスの民族問題をめぐって激化、レーニンの死後にスターリンが独裁者となるなかで、極端な中央集権化と民族の抑圧、ロシア語やキリル文字の強制と急速なロシアへの同化が進み、独ソ戦争(大祖国戦争と命名される)のなかでロシア民族主義は全面化、そのなかでボルガ・ドイツ人やクリミア・タタール人、トルコ系メスヘチア人やチェチェン人などのカフカスの諸民族、朝鮮人などに対する民族丸ごとの強制移住が行われています」。


 さて、議論はこれから始まる。「レーニン・テーゼの革命的祖国敗北主義」をどう読み取るべきか。次の諸点からの考察が必要と思われる。

 解析1・「レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義」の登場過程の検証考
 解析2・「レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義」の理論的功績考
 解析3・「レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義」と共同戦線運動との相関考
 @・当該国の生産階級が、帝国主義戦争に対して採るべき態度としての革命的祖国敗北主義。
 A・革命的祖国敗北主義と世界同時革命理論との整合性。
 B・革命的祖国敗北主義と一国社会主義革命との整合性。
 C・革命的祖国敗北主義と植民地解放闘争、主権独立闘争との整合性。

 

 「レーニン・テーゼの革命的祖国敗北主義」は、マルクス.エンゲルスの著作そのものから導き出されるものでは無い。肝心なことは、帝国主義団塊における革命戦略・戦術に関わるレーニン風の実践的テーゼであり、これをマルクス主義の発展と見なすか、レーニン主義的急進主義の産物と見なすかの識別である。れんだいこは、理論的に踏襲すべきであり、実践的には柔軟多様性において導入されるべき、と考える。つまり、折衷的な「マルクス主義の発展と見なしつつ、レーニン主義的急進主義の産物」と見なしていることになる。

 なぜなら一つには、民族主義、愛国主義の背景には根深いものがあり、マルクス主義的アプローチは事柄の半面に迫っているに過ぎないとの観点を持つ故である。しかし、このことを説き分けるのは難しい。いわば、「汝自身を知れ」なる命題と通底しており、完全に説き明かされることは無いと思う。

 しかし、この態度は、「レーニン・テーゼの革命的祖国敗北主義」を排斥しない。実践的適用における革命家の眼力が問われており、その眼力も一人や二人の共有によってどうなるものでもなく、まさに世界同時革命的な威力の推進によって以外には成功しないと危惧を持っている、ということが云いたいわけである。それは、民族問題の底深さを思慮する故である。これに無知なまま「レーニン・テーゼの革命的祖国敗北主義」を振りかざすことは、足元を掬われる危険があることを思う故である。

 「レーニン・テーゼの革命的祖国敗北主義」の実践には、この重みに耐える革命理論と実践力と指導者とその推進主体が必須である。この四者の芸術的結合により初めて貫徹される革命闘争に随伴するテーゼであると思っている。
(以下、後日を期す)

 2003.12.28日 れんだいこ拝


【「解析1・『レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義』の登場過程の検証」考】

 「レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義」及び「帝国主嚢戦争を内乱へ!」、「革命の連続的波及→世界革命の完遂」という戦略が打ち出される史的背景を見ておく。当分の間、平井純一氏の「第一次帝国主義戦争と第二インターナショナルの崩壊」を下敷きにする。

 ロシア社会民主労働党内部においてメンシェビキをはじめとする様々の修正主義・日和見主義との熾烈な党内闘争、党派闘争を展開してきたレーニンにとって、第二インターの公認指導部の祖国防衛主義の転落の根拠は明確であった。社会主義革命を放棄し、日常の改良のための運動が全てであるとしたベルンシュタインや、ブルジョア政府への入閣を合理化したミルランなどの公然たる背教者とは一線を画していた、カウツキーに代表される「中央派」は、現実には「社会主義」をいつの日か成就される約束された未来にまつりあげ、議会における議席の拡大と、労働者の経済的改良に闘いの課題を限定する日和見主義であり、活動の分野をゆるされた領域に厳密に制限する合法主義の潮流であった。

 平時における日和見主義は、戦時には社会排外主義に容易に転化した。「日和見主義と社会排外主義の経済的基礎は同一である。すなわち、それは特権的な労働者と小ブルジョアジーとのごく小さな層の利益である。これらの労働者と小ブルジョアジーは、自分の特権的な地位を擁護しており、他の民族の略奪と大国的な地位の便益、等々によって『自』国のブルジョアジーが取得した利潤のおこぼれを手に入れる自分の『権利』を擁護しているのである」(国民文庫版P103)。

 自国のブルジョアジーと癒着した日和見主義者は、戦争が開始されるや「他国」のブルジョアジーにたいして「自国」のブルジョアジーの利害を防衛するために帝国主義戦争を「民族戦争」といつわって、資本主義制度の擁護にまわるのである。「労働者は祖国を持たない」、「共産主義者は国籍に左右されない全労働者階級の利害を守る」という、マルクス主義の原理は御都合主義的に屑かごに投げ入れられてしまったのであった。

 戦争にたいしてとるマルクス主義者の立場は「戦争は別の手段による政治の継続である」というクラウゼヴィッツの見地に他ならない。すなわち「どちらが先に攻撃をしかけたか」、「防衛か侵略か」といった皮相な解釈を基準にするのではなく、交戦諸国の平時における政治の内容を判断の基礎にすえ、その階級的基礎を明らかにすることが必要なのである。

 植民地で人民を収奪し、本国で労働者階級や被抑圧人民を支配しつづけている帝国主義国家の行なう戦争とは、侵略か防衛かにかかわりなく、ブルジョア戦争、帝国主義戦争であり、植民地と本国の階級支配を維持・強化するために行なわれるものである。平時においてブルジョア制度に反対してその打倒のために闘っている階級は、戦時においてもこの戦争に反対し、戦争を利用して革命の条件を準備する闘いを飛躍的に強化しなければならないのである。

 それは帝国主義戦争を内乱に転化するために闘うことであり、自国政府の敗北のために交戦諸国の内部で闘うこと、すなわち革命的祖国敗北主義の実践に他ならない。

 マルクス主義者の「帝国主義戦争反対」のスローガンは、抽象的な平和主義とは無縁である。マルクス主義者は、帝国主義政治の基礎の上に「公正な平和」が確立されるというような幻想ときっぱり手を切り、「平和」のスローガンを資本主義の革命的転覆とむすびつけて語るのでなければならない。またマルクス主義者は一般的に「戦争反対」を語ることをしない。

 マルクス自身、一八四八年にヨーロッパ大陸を革命の嵐が吹き荒れたときには、オーストリア、ロシアなどの封建反動にたいする革命的民族独立闘争を支持し、反動の支柱たるツァーリ・ロシアへの全ヨーロッパ革命的民主主義勢力の戦争を戦略的軸にすえたのであった。また一八七〇年の普仏戦争においては、プロシアの勝利が、ドイツの封建的地方割拠を根絶する統一ドイツ国家の創設をもたらし、フランスの敗北がヨーロッパのプロレタリアートを抑圧する中心的任務を担っているルイ・ボナパルト体制の最後的解体を意味するという観点から、プロシアの勝利を支持したのである。

 一九世紀中葉においては、封建的貴族階級にたいするブルジョアジーの勝利は、客観的に歴史の進歩的要因となっていたのである。このように戦争にたいする革命的社会主義者の態度は、きわめて具体的でなければならない。二〇世紀に入り、帝国主義が先進資本主義国において確立するや、戦争の性格は帝国主義ブルジョアジーによる植民地からの強収奪、国内の労働者人民を抑圧し、腐敗した資本主義制度を維持するためのものに転化した。そこには一片の進歩性も存在しない。帝国主義国の労働者階級人民は、この戦争による支配の強権化、生活の貧困化をバネとして蓄積された怒りを解き放ち、自国支配階級打倒のための革命的内乱で応えなければならないのである。この内乱は、交戦国の相互の社会主義者によって同時に追究される国際的な内乱として貫徹される。また帝国主義のプロレタリアートは、植民地人民の民族解放闘争を断固支持し、自国内の抑圧された民族の自決権を無条件に防衛し、帝国主義にたいする国際的包囲と攻勢の陣型を構築する必要があるのである。

 「帝国主義戦争を内乱へ、自国帝国主義の敗北を!」とするレーニンの非妥協的主張は、各国ブルジョアジーや、社会民主主義労働官僚からの集中砲火を浴びて孤立しながらも、戦争の進展とともに多くの労働者階級に浸透していった。非合法のビラがまかれ、集会やデモが行なわれ、ストライキが遂行され、前線では交戦する兵士間の塹壕での交歓が組織されていった。まさにヨーロッパのプロレタリアートは、戦争をとおした無慈悲な弾圧体制の網の目をかいくぐり、戦後における革命的激動を準備していたのである。人民を殺し合いに駆りたてる帝国主義戦争を終結させる道は革命以外にないことが、明らかとなっていった。いかに困難な条件であれ、革命的国際主義の原則をつらぬきとおすことこそが、一時的表面的な排外主義の開花とうらはらに、歴史を前進させる根本的な力となりうろことがここに証明されるのである。

 レーニンのこの闘いは、同時に破産した第二インターナショナルに代る、新しい革命的第三インターナショナルのための闘いでもあった。レーニンは常に革命を国際的な戦略の視野で捉え、国際党の建設に意を注いだ。第一次世界大戦で露呈した第二インターナショナルの根本的欠陥は、それが単一の世界戦略で組織された世界党ではなく、各国労働者党の連合体という水準にとどまっていたことである。それは、必然的に民族的利害の上にたった相互の交流という水準をついに突破することができなかった。民族的規模で組織された労働者の党は、絶対にブルジョア国家の枠をはみ出ることができない。換言すれば、ブルジョアジーからの根本的訣別をかちとることができず、ブルジョアジーの付属物とならざるをえないのである。レーニンの闘いは、社会排外主義者、平和主義者との鮮明な分岐を明確化することによって、プロレタリアートの階級的利害を表現する唯一の形態である国際主義に武装された単一の世界党を建設する闘いでもあったのである。

 平井純一氏の「第一次帝国主義戦争と第二インターナショナルの崩壊」は、「現代における革命的国際主義とはなにか」と問いかけ、次のように云う。

 第一次大戦の渦中でレーニンが確立した、戦争問題にたいする革命的国際主義の原則は今日、どのように継承されねばならないのか? 換言すれば革命的祖国敗北主義の具体的適用は現在どのようになされるべきなのであろうか?

 まず、はっきりと確認しなければならないことは、革命的祖国敗北主義とは多くの日本の新左翼諸君が誤まって理解しているように「自国帝国主義打倒の主体的立場」なるものに切りちぢめて捉えてしまってはならないということである。レーニンは決して「自分の国のブルジョアジーは自分の国のプロレタリアートが倒す」という一国主義的レベルで祖国敗北主義を唱えたのではなかった。レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンは、第一次帝国主義戦争という植民地再分割戦のまっただなかにおける、国際革命の戦略の実践的貫徹としてそれを提起したのである。したがってそれは世界革命の展望、帝国主義ブルジョアジーを打倒する国際的労農同盟の組織化と密接に結合して考えられていたのである。すなわちレーニンの立場はインターナショナルの立場として提出されていた。

 つねにレーニンを一知半解に引用する中核派の「侵略を内乱へ!」を、われわれがカンパニア主義であり一国主義であるとして批判するのは、インターナショナルに集中された世界革命運動の具体的戦略と切断された、「主体的立場」なるものが、結局のところ「戦争の危機」にたいする急進平和主義的反発をのりこえることができないからに他ならない。外見上の戦闘的言辞とはうちはらに、それはなんら革命的なものではないのである。

 ロシア革命の勝利以後、世界は労働者国家を物質的拠点とするプロレタリアートと、アメリカ帝国主義の軍事・政治・経済力を後楯とするブルジョアジーとの世界的二重権力関係に突入している。スターリニスト官僚指導部によって、ソ連をはじめとする労働者国家圏は世界革命の利害を特権官僚層の支配体制に従属させる政策をとり、革命運動に限りない損失を与えているとはいえ、根本的な階級的性格からいって世界革命との関係において帝国主義に対持するプロレタリアートの拠点としての位置を保持しているのである。

 第二次大戦後の、中国革命の勝利、東欧労働者国家圏の成立、そしてキューバ革命、インドシナ革命の勝利は、世界的二重権力関係が革命の側にとって有利に前進していることを示している。この関係からいかなる国家、階級といえども逃れることはできない。世界革命は、スターリニストの裏切りによって無に帰したから、一からはじめなおさなければならないとか、帝国主義とスターリニストのはざまで「革命的立場」を形成していかなければならないとかの主張は、きわめて反動的な発想である。

 帝国主義ブルジョアジーは、労働者国家圏の成立、植民地解放運動の前進によって危機を深めながらも、相互の利害対立を調整しつつアメリカ帝国主義を盟主とした国際反革命同盟を結成している。

 現代における革命的国際主義とは、アメリカ帝国主義を頂点に形成された国際反革命に対決する、世界的二重権力関係の攻防の尖端に自己を押し上げ、自らその前進を切りひらこうとする闘いを実践することである。ベトナム人民が示した模範はこうしたものであった。

 帝国主義国内部におけるプロレタリアートの祖国敗北主義との貫徹とは、反帝・労働者国家無条件擁護、植民地革命無条件支持の原則において階級の政治的形成をかちとり、植民地被抑圧民族の解放闘争との合流を自国帝国主義打倒においてかちとることに他ならないのである。それはまた、レーニンが第二インターの崩壊に抗して第三インターナショナルのための闘いを行なったように、スターリニストによって破産せしめられた第三インターナショナルに代る、新たな革命的インターナショナル=第四インターナショナルを社会主義革命の単一の世界党として形成し、スターリニスト特権官僚層を打倒していく闘いに他ならないのである。

 今日、帝国主義国の既成スターリニスト指導部は、かつての第二インターナショナル以上の修正主義、日和見主義、合法主義に転落してしまっている。彼らは、「社会主義世界体制の確立」によって「平和勢力」が前進し、各国における革命はそれぞれの国の条件にふまえて平和的に議会の道をとおして勝利しうる、というモスクワ宣言(一九五七年)の修正主義的路線の発表以後、とめどもなく右旋回に拍車をかけている。彼らは、国内においては、プロレタリアートをブルジョアジーの尻尾につなぎとめ、資本主義の民主的改良をとおして社会主義が実現できると語り、ブルジョア的合法制の卑屈な追従者となってしまった。スターリニスト党は、ブルジョアジーにたいする単なる「圧力」としても、戦闘的大衆行動に一貫して敵対している。

 「日和見主義と社会排外主義の思想的=政治的内容は同一である。すなわちそれは、階級闘争のかわりに階級的に協力することであり、革命的な闘争手段を放棄することであり、革命のために『自国』政府の困難を利用するかわりに苦境にあるこの政府をたすけることである。」(国民文庫版P103)

 インターナショナルを自ら解体し、プロレタリアートの国際的利害を売り渡し、「自主独立」の名の下に、祖国と民族の足かせを労働者階級人民にはめることになっている各国スターリニスト党の路線は、日和見主義がすなわち排外主義になるというレーニンのテーゼの立証である。

 日本共産党は、ソ連労働者国家にたいしてブルジョアジーとともに北方領土返還を要求している。この最も強硬な主唱者は中国共産党と日本の毛沢東主義者である。また日本共産党は、日本政府の釣魚台諸島の略奪を正当化し、中国に敵対しつつブルジョアジーの尻押しをしている。(われわれは、中核派諸君のように、釣魚台が「中国固有の領土だから」という理由で、日本の領有に反対するのではなく、まさに労働者国家無条件防衛という祖国敗北主義の見地から反対するのである)

 また、改良主義指導部は韓国朴軍事独裁政権による金大中ら致事件を、「韓国によって日本の主権がおびやかされた」「対韓国辱外交反対」と述べたてることによって、ブルジョア的主権の行使を強硬に提唱するという排外主義的堕落におちいっている。

 中ソ官僚もまた自らの官僚的自己保身の利害から出発して、帝国主義との無原則的な妥協をおこない革命運動にとって許しがたい敵対をおこなっているのである。

 「社会主義と戦争」に提起された革命的祖国敗北主義の立場こそ、ブルジョアジーとの非妥協的な闘いをとおして、社会主義革命を前進させる道なのであり、情勢が危機の爆発にむかって進展すればするほど生起する多くの民族主義的歪曲を粉砕し、プロレタリア国際主義をつらぬく唯一の道なのである。それは多くの中間主義者にとって言うは易く行うは難いことであろう。ただ革命の勝利を国際的な規模で展望することのできる人々、一国における党の建設を世界党の不可分の一部としてのみ追求する人々、すなわち真の革命的国際主義者のみがこの任務をまっとうすることができるのだ。



【「解析2・『レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義』の理論的功績」考】
 「レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義」は主として理論であり、その実践は、「帝国主嚢戦争を内乱へ!」へと結実する。これを認めない「革命的祖国敗北主義」はレーニン主義では無い。


【「解析3・『レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義』と共同戦線運動との相関」考】

 「『レーニン・テーゼ・革命的祖国敗北主義』と共同戦線運動との相関」を観る上で格好の教材が有る。「日中戦争について(トロツキー/訳 初瀬侃・西島栄)」を下敷きにしながら論及してみる。

 日中戦争の際に、中共は方針が対立した。問題は、蒋介石率いる国民党軍その他勢力との抗日共同戦線闘争を採用するのか、それは「レーニン・テーゼの革命的祖国敗北主義」に沿っているのか違背しているのかを廻って議論された。詳細は不明であるが、当時の中共指導部を形成していた陳独秀派は、前者の路線を指針せしめ、直接的提携関係には無かったがトロツキーもこれを支援した。他方、エイフェル派はこれに反対した。その際、エイフェル派は次のように反対した。概要「抗日共同戦線闘争は、社会愛国主義に堕している。蒋介石への屈服路線であり、階級闘争の原則を放棄している。ボリシェヴィキは帝国主義戦争における『革命的祖国敗北主義』を採用せねばならない。これに照らせば、日本軍に対してと同様に蒋介石軍とも独自に闘わねばならず、蒋介石軍との共同戦線は有り得てならない」。

 訳注に拠れば、概要「エイフェル派とは、アメリカ合衆国労働者党の分派・エーラー派の流れを汲んでいる。エーラー派の指導者はフーゴ・エーラーで、社会党との合同に反対した。1935.10月に規律違反理由で除名され、革命的労働者連盟を組織した。エイフェル派は、1936年にエーラーの革命的労働者連盟から更に分派した小セクトで、指導者はパウル・エイフェル。エイフェルは、スペイン内戦において共和派陣営や日中戦争において蒋介石軍を支援することに反対した」とある。

 話は逸れるが、この問題は、例えば我が国における議会闘争の有り方としての革命的議会主義論とも通低している。今後、革命的議会主義の見地から左派党派が国会ないし地方議会に進出したとしよう。この党派は、何時如何なる時点においても情勢においても、他党派との共闘戦略戦術を採用するのか、しないのかに相似しているように思われる。柔軟派は共闘然りと答える。原理派は否と答える。柔軟派は、革命情況を引き寄せるためには必要な手立てであり、原理派の方針は却って主要打倒敵を利すると批判する。原理派は、柔軟派の対応こそ党主体の放棄であり、総じて体制化の罠に入り込む堕落路線であると批判する。こう考えると、この問題はまさに現代に通じているのではないだろうのか。

 
話を戻す。エイフェル派は次のように述べていた。「帝国主義同士の戦争では、問題になっているのは民主主義でも民族独立でもなく、後進的な非帝国主義人民を抑圧することである。このような戦争では、二つの国は同一の歴史的平面上に位置している。革命家はどちらの軍隊においても祖国敗北主義者であらねばならない」。

 これに対し、トロツキーの反論は次のようなものであった。概要「エイフェル派の見地は、真の裏切り者か完全な愚か者のそれである。愚かさもここまでくると裏切りである」。トロツキーは、同様問題に対して、マルクスとエンゲルスの採った例を挙げる。概要「マルクスとエンゲルスは、イギリスに対するアイルランド人の革命闘争を、ツァーリに対するポーランド人の革命闘争を支持したでは無いか。この二つの民族戦争の指導者たちが大部分ブルジョアジーに属し、時には封建的貴族であり、いずれにせよカトリック反動派であったにもかかわらずこれを支持した」。レーニンの例も挙げる。「レーニンは、民族自決権を擁護し民族独立の解放闘争を支援した。具体性を伴わない一般的な『革命的祖国敗北主義』論は、却って帝国主義に逆利用される」。

 その上で、日中戦争における抗日共同戦線闘争について次のように主張する。概要「抗日共同戦線闘争は是である。日本の愛国主義は仮面であるのに対し、中国の愛国主義は正当で進歩的なものである。両者を同一平面に置いて『社会愛国主義』云々を主張するのは何一つレーニンを読んでおらず、帝国主義戦争期におけるボリシェヴィキの態度をまったく理解しておらず、マルクス主義の教えを地に落とし売りわたす者だけである」、概要「日本と中国は同一の歴史的平面上に位置しているのではない。日本の勝利は、中国の奴隷化、その経済的・社会的発展の終焉、日本帝国主義の恐るべき強化を意味するであろう。反対に、中国の勝利は、日本における社会革命と中国における階級闘争の自由な発展、つまり外的抑圧に妨げられない発展を意味するだろう」。

 その際留意すべきは次のことであると云う。
概要「外国の侵略に対する軍事的闘争を第一義にしつつ、その過程における政治的闘争は継続せねばならない。事前に特定しえないある一定の時点で、この政治的反対運動は武装闘争に転化しうるし、転化しなければならない。なぜなら内戦は戦争一般と同じように政治闘争の継続にすぎないからである。しかし、いつ、どのように政治的反対運動を武装蜂起に転化すればよいかを知ることが必要である」。

 「1925〜27年の中国革命の時期に、われわれはコミンテルンの政策を攻撃した。われわれは、中国共産党と国民党との軍事ブロックの必要性をけっして否定しなかった。それどころか、これを最初に提起したのはわれわれであった。しかし、われわれは、中国共産党が完全な政治的・組織的独立性を維持すること、すなわち外国帝国主義に対する民族戦争においても、帝国主義内部の敵との内戦においても、労働者階級が軍事的闘争の前線にとどまりながらブルジョアジーの政治的転覆を準備することを要求した。われわれは現在の戦争でもこれと同じ政策を保持している。われわれは自らの態度をみじんも変えてはいない。ところが、エーラー派とエイフェル派は、われわれの政策を――1925〜27年のそれも、今日のそれも――ひとかけらも理解していないのである」。

 概要「蒋介石の命令下にある軍事的闘争(残念ながら独立戦争の指令権を握っているのは彼である)に参加する中で、蒋介石の転覆を政治的に準備すること、これこそが唯一の革命的政策である。エイフェル派はこの『民族的・社会愛国的』政策に『階級闘争』の政策を対置する。レーニンはその全生涯を通してこの抽象的で不毛な反対論と闘った。彼にとっては、世界プロレタリアートの利益は、帝国主義に対する被抑圧人民の民族的・愛国的闘争への支援を義務づけるものであった。世界大戦からほぼ4半世紀が過ぎ、10月革命から20年が過ぎているというのに、まだこの点を理解しない者は、内部の最悪の敵として革命的前衛によって無慈悲に拒否されなければならない。これこそまさにエイフェルとその類の連中の場合である!」。 

 次のように示唆していた。「陳独秀を指導者とする彼らの最良の部分が国内的にも国際的にも名誉を汚されて殺される可能性がある。第4インターナショナルが日本に対抗している中国の味方であるということを精力的に強調しなければならなかった。しかも私は『自分たちの綱領と政治的独立性を放棄することなく』という一節を加えておいた」。

 トロツキーの予見は当り、その後陳独秀派は孤立させられ、葬られた。



【「@・当該国の生産階級が、帝国主義戦争に対して採るべき態度としての革命的祖国敗北主義」について】


【「A・革命的祖国敗北主義と世界同時革命理論との整合性」について】


【「B・革命的祖国敗北主義と一国社会主義革命との整合性」について】


【「C・革命的祖国敗北主義と植民地解放闘争、主権独立闘争との整合性」について】
 れんだいこは思うに、「植民地解放闘争、主権独立闘争」を評する観点は難しくないと考える。それぞれの民族又は国家が国際主義的に自愛すれば良いだけの事では無かろうか。それは、我が身に引き換えて考えれば済むことで、単純に云えば、「例え利害が関わろうとも、されて嫌なことはしない」の公理を遵守すれば良いだけのことではなかろうか。利権呈示によりあるいは既に利権享受の前にこの公理が崩れるところに問題がある。その勝手主義、ご都合主義は「却って代価が高くつく場合がある」ことを習えば良い。この問題を詭弁で取り繕うところに問題がある。その詭弁を見抜けないところに問題がある。こうなると頭脳戦であるが、その為に前衛党が居り、指導者が居るのでは無かろうか。それだけ責務が重いということでもあろう。

 帝国主義国家側の生産階級の対応はどう有るべきか。不断に社会主義革命前夜を創造することを目指し、機会に乗じて帝国主義政府を打倒し、生産者階級権力を樹立すれば良い。不幸なことに、前衛党指導部が敵方内通者に占拠され、形勢利あらず不幸なことに帝国主義戦争に駆り出されるようになったらどうすべきか。究極、社会主義革命を引っ張り込むための虎視眈々対応で処するべきだろう。革命的祖国敗北主義はその戦略戦術理論であるように思われる。帝国主義戦争阻止、反戦闘争の激化、兵役拒否闘争、反軍闘争の組織、戦地での無用な戦闘の忌避、被侵略国の生産階級との連衡等々有益な活動を展望し、長期持続的に組織していくことであろう。を避けること。要するに、局面局面で「何を為すべきか」を自由・自主・自律的に処していくことが肝要と思われる。常に為すべきは、帝国主義戦争の帰趨を見据え、自国の社会主義革命の絶好機会が訪れてくれば勇猛果敢に闘う能力を不断に涵養しておくべきだろう。

 「民族自決権の尊重、内政不干渉、国家の自由・自主・自律的な政治的結合と分離の擁護」は当たり前である。大国家共栄主義、偽善的排外主義的愛国主義、その詭弁的「社会排外主義」的合理化論はクソ食らえ。贖罪的自己否定主義はどうか。帝国主義者や排外主義者の詭弁。民族運動や民族解放戦争への無関心は、排外主義へと転落していかざるをえない。「民族自決」という政治的概念を経済的事象によって裁断することは理論的にまちがっている。

 「マルクス主義の漫画化および『帝国主義的経済主義』について」(一九一六年)。

 「レーニンが一貫して主張している問題意識は、搾取されている帝国主義国プロレタリアートと、その帝国主義国に骨の髄までしゃぶりとられた植民地被抑圧民族の蜂起を結合し、いかにして帝国主義にたいする世界労働者人民の闘いの隊伍を国際的反帝労農同盟として築いていくのかということに据えられていた。これがレーニン主義である」。

 「植民地の超過利潤からの分け前をえて帝国主義ブルジョアジーの代弁人と化した第二インター諸党は、帝国主義戦争における「祖国擁護」を唱え、日和見主義から社会排外主義への転化を完了した。それは同時に植民地人民の反乱に残虐な弾圧をもって応える自国帝国主義を承認し、抑圧民族を被抑圧民族に敵対させる役割を果したのであった」。

「民主主義のための全面的な一貫した、革命的闘争をおこなわないプロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする勝利を準備することはできない」。

 「共同の敵に対して銃口を構える」。

 「マルクスは、クーゲルマンへの手紙においてイギリス労働者がアイルランド人民の解放のために闘うことを訴えた」

 国際主義の精神の称揚。帝国主義ブルジョアジー打倒のための共同戦線の創出。
 「大衆を積極的な行動にひきいれ、いっさいの根本的な民主主義的要求のための闘争を、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの直接の攻撃にまで、すなわちブルジョアジーを収奪する社会主義革命にまで拡大し達成しなければならない」(P16、「社会主義革命と民族自決権」)という立場から民族自決権の正しい提起が行われなければならないことをレーニンは強調した。

 レーニンは述べている。「帝国主義的な、すなわち抑圧者的な強国にたいする、被抑圧者(たとえば植民地民族)の側からの戦争は、実際に民族的な戦争である。そういう戦争は今日でも可能である。民族的に抑圧している国にたいする民族的に抑圧されている国の側からの『祖国擁護』は欺瞞ではない。そして社会主義者は、このような戦争における『祖国擁護』にけっして反対しない」(P61『マルクス主義の漫画化および帝国主義的経済主義』について)

 また、ペ・キエフスキーが、抑圧民族のプロレタリアートと被抑圧民族のプロレタリアートにたいする政治的宣伝の相違、つまりともに統一した国際主義的任務の遂行のために抑圧民族の労働者は被抑圧民族の政治的分離の権利を無条件に防衛し、被抑圧民族の労働者は分離の問題をただ条件的にのみ提起しうる、ということを二元論であると批判したとき、レーニンは「離婚の自由」の例をあげて反論した。すなわち、完全な男女の平等と同権という民主主義的課題のために、妻が夫から離婚するという権利の獲得はすべての妻が夫から離婚することをすすめるものではない。しかしそれを理由に離婚の権利を要求することを二元論だとして批判する者は社会主義者でも民主主義者でもないであろう、と。

 併合主義批判。「帝国主義大国のプロレタリアートが社会革命をおこなって君たちを解放するまでじっと寝て待っておれ」という待機理論を生む。

 レーニンが述べるように「社会革命は先進諸国におけるブルジョアジーにたいするプロレタリアートの国内戦と未発達の後進的・被抑圧民族における民族解放運動をも含めた、いくたの民主主義的ならびに革命的な諸運動とを結合する結果としてしかおこりえない」(P98同上)。「植民地およびヨーロッパにおける弱小民族の反乱をぬきにし、あらゆる偏見をもっている小ブルジョアジーの一部がまきおこす革命的爆発をぬきにして……社会革命が考えられると思うならば、それは社会革命を拒否することを意味する」(P137「自決にかんする討論の決算」)のである。
 
 「勝利をしめた社会主義は、民主主義を完全に実現することなしには、自分の勝利を維持し人類を国家の死滅へみちびくことはできない。だから、自決は社会主義のもとではよけいなものだ、というならば、これは社会主義のもとでは民主主義はよけいなものだといわぬばかりのナンセンスであり、しようのない混乱である」(P121「マルクス主義の漫画化および『帝国主義的経済主義』について」)。






(私論.私見)





われわれがブランキストの党である

というのは本当か?

(『党の擁護』より)

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

 この3年間、わが党内では2つの分派が争い、交互に支配的になってきた。適切な政治的呼び名がまったくないために、この2分派は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」というかなりぎこちない名称をつけている。両派の論争に関する文書は非常に豊富であり、豊富すぎるほどである。当初、私自身が両派の論争に加わっただけになおさら、このことを冷静に認識することができる。ボリシェヴィキは、さまざまな機会に、さまざまな論拠にもとづいて、メンシェヴィキを日和見主義、ベルンシュタイン主義であると非難し、メンシェヴィキの方もボリシェヴィキをジャコバン主義やアナルコ・ブランキズムであると非難した。私は、これらの相互非難にいかなる根拠もないと言いたいわけではけっしてない。もちろんそういうこと[非難にまったく根拠がないこと]もあった。ひとたび2つの分派が生まれてしまうと、そういうことは不可避的に起こるものだ。だが、全体として私は、必ずしも必要な政治的分別を保っていたわけではないこの党内論争の下に、わが党の発展におけるまったく現実的な矛盾が隠れているということを疑わない。

 ロシア社会民主党はまったく未曾有の状況のもとで形成された。社会民主党は、その本質そのものからして大衆の党であるのに、ロシアの社会民主党は地下で存在することを余儀なくされた。社会民主党はプロレタリアートの階級政党であるが、ロシアの社会民主党は自己の戦術をブルジョア革命に適応させざるをえなかった。最後に、そのような複雑な任務に直面して、党は、最近になってようやく政治文化に引き込まれたにすぎない大衆に依拠している。こうした諸条件のために、ロシア社会民主党の発展は、さまざまな危険性――時に現実的で、時に想像上の――を生み出している。

 党建設の過程で、政治警察のような現実の強敵に対処しなければならないという苛酷な必要性は、党機構を自主的に行動する大衆の民主主義組織に変える必要性と絶えず衝突してきた。原則的戦術は、整然とした柔軟な党機構を必要とした。だが、革命的事件の爆発的性格、人民の中から次々と新しい層が出現したこと、嵐となぎが交互に現われる事態――これらすべては、しっかりと確立された党組織を創設するという活動を大きく妨げた。大衆から切断されてしまう危険性と大衆の中に溶解してしまう危険性とが対置された。社会民主党の戦術は、プロレタリアートが全ブルジョア社会に対抗することなしには不可能である。ところが、「国民」革命の必要は、プロレタリアートとブルジョア民主主義派の行動の統一を要求した。自由主義に対する断固とした戦術の必要は、その発展のサイクルをまだ完了していない自由主義それ自身の混乱した性格のせいで障害に直面した。階級闘争の政治的表現を人為的に促進することは、革命に逆行することを意味した。諸矛盾を曖昧にすることは、プロレタリアートの階級的利害を犠牲にすることを、そしてまたしても革命を他方の側から妨げることを意味した。一歩ごとに「危険性」が存在した。政治発展の個々の要求がそれぞれ別々の分派の政綱として定式化され、これらの政綱は互いに敵対的に衝突しあった。こうして一連のアンチテーゼが生まれた。「経済主義」対「政治主義」、「民主主義」対「中央集権主義」、「自然発生性への屈服」対「ジャコバン主義」、「日和見主義」対「アナルコ・ブランキズム」などなど。

 さまざまな時期にさまざまな勢力を伴って、運動の個々別々の要求が現れた。時期そのものが、時代の革命的性格のために、きわめて急速に次々と入れ替わっていった。ときには24時間以内に武器を変える必要があった。ストライキの指導から政治的煽動へと、煽動から街頭デモの指導へと。戦争カンパニアの年。ストライキの大叙事詩。大衆の強力な公然組織の時期。大衆行動の任務。議会活動の任務、再び大衆行動の問題。再び議会活動の問題。もちろん、以上すべてを通じて貫かれている一つの内的つながりは存在する。だが、それは矛盾を通じて以外には現われてこない。党内のヘゲモニーを握るのは、それぞれの分派の特性からして、その時々の時期の要求を満たす能力により長けた分派である。多くの新しいグループや政党の創設を経験した嵐のような3年間を通して、社会民主党の2つの分派が存在し続け、一方が他方を飲み込むことができなかったという事実一つとっただけでも、どちらの分派も労働運動の要求を全面的に表現するものではないことを十分明確に示している。大衆の中での組織の定着、経験の蓄積、指導者の成長、要するに、労働者党の形成は、綱領の理論的前提から結論を計画的に導き出すことを通じてではなく、諸分派および諸潮流間の生きた「内部」闘争を通じて進んでいく。これがきわめて「非経済的な」発展方法であることは論をまたない。だが、それは、この方法によってわが党が実際に形成されつつあるという利点を持っている。したがって、われわれがブルジョア民主主義と対置する形で社会民主党について語るとき、われわれが想定しているのは、単なる諸分派の連合でも、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの算術総和ではなく、一つの生きた有機的総体なのである。

 もし両分派のすべてのスローガンと主張と声明を年代順に並べるならば、それらの中に一連の矛盾を見出すことは困難ではない――たしかに、これはすでに両分派の論者によって一度ならずなされていることである。だが、これらの矛盾は無原則さとはいかなる共通性もない。これらの矛盾は次のような状況の結果として生み出されてきたものである。すなわち、分派のそれぞれがある局面で労働運動の一定の要求を論争や闘争を通じて擁護し、その分派的立場のゆえに、断定的、絶対的な表現をこれらの特殊な要求に付与したことである。私はそのような「形而上的」矛盾の例を挙げるつもりはない。なぜなら、社会民主党の発展についてきちんと考察してきたすべての人にとって以上のことは自明であるし、これらの問題について考えたことのない人には、2、3の例だけではどうせ何も伝わらないからである。

 こうした一般的考察は、党の今後の運命を自信をもって眺めることを可能にするものであるが、しかしだからといって、その時々において、分派のどちらかが提起したスローガンを分析し、プロレタリアートの階級的政策の見地から評価を下す責務を免除するものでないことは言うまでもない。それだけではない。そのような評価は常に、戦術上の誤りを正しくない戦術的原理に還元することを前提としている。意見の対立がいかに小さくても、われわれは常に思考の上でその側面を無限に拡大し、われわれの反対者に向かって「ほら、諸君は社会民主主義的政策の路線から逸脱している。諸君がこの道をさらに進むならば、不可避的にブランキズムに、日和見主義に、アナーキズム、自由主義になってしまうだろう」云々と言うことができる。このような論争的操作は、時には、方法的に正しいだけでなく、実践的にも実り豊かなものとなるだろう。それは、誤った個々の措置とのゲリラ的闘争を誤った方法との原則的闘争の水準にまで引き上げ、そうすることによって、勝利を容易にするからである。このようにして、われわれは、運動の多くの重大な諸要求を無視して中央集権的な革命組織を創設し維持しようとする一面的な闘争が、いかにして、その論理の発展として、ブランキズムの方法をプロレタリアートの党内に導入することになるのかを示すことができる。また、「国民」革命の統一を維持しようとする一面的な要求がどのようにこの革命の内的な階級的メカニズムを見落とさせ、われわれの戦術を日和見主義と自由主義の道に導く結果になるのかを示すことができる。このことから、わが党の分派間論争におけるブランキズム日和見主義といった規定がきわめて条件的な意味を持っていることは明らかである。それらが、論争相手を言葉で威嚇する単純な試みであるとみなすのでないかぎり(このような威嚇はいかなる分派闘争でも不可避的に起こる)、次のような意味を持つものでしかありえない。すなわち、そのようなあれこれの誤りや偏向や偏見が原則のレベルにまで高められ、この原則がすべての戦術のための基礎になり、この戦術がマルクス主義思想の影響から守られる場合には、その時には、本当にブランキスト的戦術や日和見主義的戦術が発生することになるだろう。言うまでもなく、あらゆるまったく正当な文章の執筆のたびに、分派対立の厳しさや激しい論争や、「人間的な、あまりにも人間的な(Menschliches、Allzu Menschliches)」ものに属するあらゆることの結果として、多くの余計な堆積物が絶えず積まれていく。だが、両方における偏向の実際の規模がどの程度のものであるかは、両分派がともに同一の階級的運動に立脚しているだけでなく、一つの共通の党組織の枠内に、共通の綱領の土台の上に、そして両分派がともにマルクス主義の武器を使って展開しているその理論的論争の中にとどまっているということからしても明白である。したがって、ブランキズムとかアナーキズムとかいう批判は、われわれの党内論争用語として、きわめて限られた、はなはだ条件的な意味しか持っていないのである。だが、ブルジョアジーの側からの批判がわが党全体にそうした用語を投げつけるとき、それらは何を意味しているのだろうか? 何も意味していない。あるいは、そう言いたければ、単に次のことしか意味していない。すなわち、それは、ブルジョア評論家はプロレタリアートの党に不満であり、それが変質するのを望んでいるということである。だがどのような変質か? 言うまでもなく、自分自身の姿とその類似物に似せた変質、である。

Н.Троцкий, Въ защиту партии, С.-Петербургь, 1907.

『党の擁護』1907年、「党の擁護」第4章

 



第1章 敗戦とスターリン主義者のヘゲモニー(1945〜50年)

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第1節 二つの世界大戦における労働者掌握体制の相違

1.スターリンの対帝国主義協調路線

 これに対して、第U次世界大戦中から戦後における事情は著しく異なっていた。ドイツでは革命は起こらず、ドイツの兵士、労働者、人民のほとんどが、ベルリン陥落に至るまで、ナチス政権の下で帝国主義戦争を戦い続けた。イギリス、アメリカでは労働組合が戦争に協力し、帝国主義戦争反対勢力は、少数のトロツキストにとどまった。
 イタリアでムッソリーニを処刑したパルチザン、フランスの反ドイツ・レジスタンスのヘゲモニーはイタリア、フランスの共産党が握っていたが、スターリンとアメリカ、イギリスの権力者との裏取引によって、イタリア・パルチザン、フランス・レジスタンスは武装解除された。その結果、20世紀における、仏、伊両国のプロレタリア革命は不可能となった。フランス共産党書記長モーリス・トレーズは1944年12月モスクワから帰国し、35年コミンテルン第7回大会でスターリンが打出した人民戦線戦術に基づき45年12月第2次ド・ゴール内閣の副首相兼国務相となった。
 イタリア共産党のパルミーロ・トリアッティ書記長も1944年3月、米英軍による南イタリア占領後、モスクワから、そこに帰国し、“奇妙”なことに共産党指導下のパルチザン支配下の北イタリアに行こうとはせず、米英軍と行動を共にした。トリアッティもスターリンの命令通り、人民戦線戦術に従い、バドリオ元帥首班の内閣に入閣し、パルチザンを武装解除して、イタリアにおける資本主義体制の再建に協力した。アメリカ共産党もルーズベルト政権を支持し、米ソ間の軍事同盟を補完した。
 こうした帝国主義列強における階級闘争の状況は、一見すると、スターリンの人民戦線戦術、1943年5月15日のコミンテルン解散、米英との軍事同盟、帝国主義との協調・妥協政策の結果として一面化される可能性がある。ドイツの兵士・労働者が最後までナチスを支持し、共産党に背を向け続けたことも、スターリン支配下のドイツ共産党の対米英協調およびソ連への「隷属」=「売国的」「反ドイツ民族的」路線の結果であると。また、日本共産党のアメリカ軍=「解放軍」なる主張、「2・1ゼネスト」中止もスターリンのアメリカへの妥協の結果として説明されうる。こうした理解が正当であることは充分認められなければならない。しかし、すべてをスターリンの米英(特にアメリカ)に対する妥協、勝者である米ソによる世界分割秘密協定の結果であるとすることは、重要な論点を看過する陥井に落ちることを意味する。
 なお、付言すれば、スターリンと米英の軍事同盟の犠牲となったのは、先進国の闘争だけではない。中国の民族解放闘争は敵が日本であったため、国際的「反ファシズム統一戦線」の立場から、スターリンによって支持された。しかし、対英インド独立運動は妨害を受けた。ネルーの率いる国民会議派の活動家の多くが獄中につながれていた第U次大戦中、インド共産党員は釈放され、「自由」にインド独立運動に水をかけて歩いた。そのため、独立を強く求める多くのインド人が、共産党に対して強い怒りを抱き、インド共産党はスターリンの命令に従ったがゆえにインド人民の支持を一挙に失なった。
 

2.二つの世界大戦、大恐慌、ロシア革命を通じた先進国労資関係の変貌

 ドイツ、日本人民のナチス、軍国主義政権への協力、フランス、イタリア人民による資本主義再建の受容、英米人民の自国政府への第T次大戦時に比しての強力な支持の原因としては、両大戦の戦時期および両大戦間期における政府の労働者人民に対する掌握力の飛躍的強化が注目されなければならない。
 アメリカ、ニューディール政策中のワグナー法による会社組合の否認、労働組合結成の促進、イギリスにおける、労働党出身マクドナルドを首班とする内閣成立に示される体制内的、社民的労働組合運動の発展、フランス1930年代人民戦線政府による「フランス版ニューディール政策」の実施、マルクス主義とは異なるタイプの「社会主義」を掲げるファシストとナチスによるイタリア、ドイツの政権掌握、ナチスによる恐慌の克服・完全雇用の実現、こうした資本主義の修正は、第T次大戦以前に比して、大戦間期の労働者人民の、権力者あるいは修正された資本主義に対する信頼を著しく強化したに違いない。すなわち、労資関係は大きく変貌したのである。
 こうした欧米諸国に比べ、日本資本主義の労働者への譲歩は極めて小さなものであった。1920年代重化学工業大経営での労資懇談会の設立、福利厚生施設、従来職員にのみ与えられていた、あるいは、職工にあっては非常に小額であった賞与、退職金の職工への拡大、増額、そして、戦時期産業報国会による工・職「平等」の宣伝、「職工」の名称の「工員」(「鉱夫」から「鉱員」)への変更、工員、職員間待遇格差のわずかな縮小──これらが、大戦間期、第U次世界大戦中の支配階級の労働者への譲歩の主要部分を占めた。
 労働組合法案は、ストライキの民事免責規定を欠くなど労働者団結を法認するものとしては欠陥をはらみ、1931年3月17日衆議院で可決されたが貴族院で審議未了となって廃案とされた。労働者の生活水準は同時期のドイツと比べても著しく低かった。こうしたミゼラブルな生活状況は、労働者、農民を、反体制運動ではなく、満州、中国への侵略戦争に協力する方向へ向わせた。
 以上のような大戦間期、戦時期の日本の政策が、《「労使対等」「すべての国民の平等」なるプロパガンダの下になされた、革命を防ぎ人民を戦争に動員するための労働者階級に対する譲歩》という側面で欧米と共通点を持つことは明らかである。しかし、その譲歩が、アメリカ、イギリスはもちろんのこと、ドイツに比しても、極めて小さなものであったことも事実である。この点で、第U次世界大戦への日本の労働者の協力は、先進国すなわち帝国主義列強一般の事情には還元しえない、“特殊日本的なもの”を媒介にすることなくしては説明不可能である。
 したがって、第U次大戦下日本において、レーニンの「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」という戦略が現実性を持ちえなかったことは、@列強に一般的な、二つの大戦の戦時期、大戦間期における労資関係の変貌、A特殊日本的なもの、の二つの要因によって説明されなければならない。
 以下に展開する事実がどこまで列強に一般的な要因によって、どこからが特殊日本的な要因によって説明しうるかを確定することは、労資関係研究者の今後の課題である。


3.敗戦によっても決起しなかった日本人労働者

 1945年8月15日、日本は敗北した。しかし、「帝国主義戦争を内乱へ」という革命戦略に共鳴し、あるいは、敗戦が革命につながると考える“レーニン主義者”にとっては、驚くべきことに、敗戦(8月15日)=軍国主義国家権力の権威失墜から連合軍の日本占領(8月30日)までの約15日間の「政治的空白期」に、革命に向けての武装蜂起はおろか労働組合結成すら進まず、2ヶ月後の10月10日の共産党員ら政治犯釈放を起点として初めて、労働組合結成が「爆発的」に前進した。
 敗戦と同時に決起したのは、中国人、朝鮮人労働者だけであった。8月15日、敗戦と同時に北海道三菱三唄炭鉱の中国人労働者260人が作業を放棄し集会を開き、同日、やはり北海道の歌志内炭鉱朝鮮人労働者600名が「強制労働」に反対して立ち上がった。これに対して、8月31日時点での日本の労働組合数はゼロであった。9月3日、北海道赤平町日本油化工業の中国人労働者578人が食糧増配、「外出の自由」を要求し、9月6日、警察派出所を襲撃し、中国国民党政府の国旗「青天白日旗」を揚げてデモンストレーションを展開した。日本人の労働組合が全く存在していないという状況と、こうした、中国人朝鮮人の行動は対照的であった。ただし、彼らの大衆示威、「襲撃」は秩序あるものであり、日本人の殺害等残虐行為は皆無であった。


第2節 事業所別工職混合組合

1.事業所別組合

 1945年10月10日の政治犯釈放以降、とりわけ、占領軍の意向によって労働組合法制定が確実との「時流」が明白になると、「爆発」的な勢いで労働組合の結成が進んだ。だたし、その組織形態は、職業別でも産業別でもなく、事業所別であった。通説とは異なり「企業別」ではなかった。すなわち、三井鉱山に三池、山野、田川(九州)、美唄、芦別、砂川(北海道)の6炭鉱があったが、各炭鉱に一つの完全独立の組合が合計6組合結成されたのである。日本製鉄でも、八幡、室蘭などの各製鉄所に一つずつの完全独立した事業所別組合が結成された。王子製紙でも本社および各工場別に独立の組合が多数結成され、会社との交渉のために、それらが連合して「企業連」を形成した。
 同一企業の各事業所別組合は、企業連を作りながらも、運動路線をめぐって対立・抗争を続けた。こうした対立が消滅し、企業連傘下のすべての事業所別組合が運動路線において一体化し、企業連に組合活動の機能が集中するようになるのは、一般的に見て、早い企業で1950年代、遅ければ60年代である。
 事業所別に組合が結成されるのは、毎日顔を会わせる面接集団から団結が始まり、空間的近接が組合の組織形態の重要な要因となることを考えれば当然のことである。職業別組合、および、それを基盤とした産業別組合が、なぜ、そうした組織形態になったのかという問題の方が、はるかに、多くの説明を要する。ヨーロッパ、そして、その影響をストレートに受けたアメリカには、西欧中世以来の「ギルド的伝統」→「クラフト・ユニオン」の「伝統」が存在する。それが欧米の職業別、産業別労働組合の存在を規定している。逆に言えば、「ギルド」「クラフト・ユニオン」の「伝統」の欠如が、日本における職業別組織、産業別組織の機能が、欧米に比して著しく弱い事業別組合の形成を規定したと言える。
 また、日本では、1950年代末より、欧米においても事業別あるいは企業別労働者組織が、イギリスのショップ・スチュワード体制、アメリカのローカル・ユニオン、ドイツの経営協議会に示されるように、先進国に一般的だとの議論が主流になり、「企業別組合」が「特殊日本的」だとの、従来の主張は、多くの研究者によって否定されるに至った。


2.工職混合組合

 職工、鉱夫は、産業報国会による労働者の戦争協力、動員を目的とした「平等主義」イデオロギーの鼓吹の下で工員(鉱員)と名称変更された。職工、鉱夫と、ホワイトカラーまたは現場職制である職員の間には「身分」の差が設けられ、ボーナス、退職金の金額、日給か月給かを中心とする労働条件にも大きな格差があった。その格差は大戦中縮小されたが、1945年8月15日敗戦の時点でも、まだ相当な差が残されていた。
 その差が消滅するのは、45年末から46年において闘われた「身分差別撤廃闘争」と、激烈なインフレーションの下で“賃金は主として生活の必要に従って決定されなければならない”という考え方に立つ電産型賃金体系が普及することによってである。電産(日本電気産業労働組合)は電力会社の労働組合で当時の賃金闘争をリードしていた。
 多くの場合、身分制撤廃、工員・職員間の賃金格差縮小の後、工職混合組合が結成されたのではない。大学卒の左翼ホワイトカラーの指導の下に組合が結成され、また、工職混合の方が生産管理闘争を遂行する場合、都合が良いとの主張がなされることによって混合組合となったのである。ただし、ホワイトカラーも組合員とすることによって、「会社派」ホワイトカラーを通じて、組合を支配しようとする経営者の図意の結果として、工職混合組合となる傾向も存在した。
 工(鉱)職別組合が一般的だった産業もあった。石炭産業がその典型である。しかし、三井美唄炭鉱のごとく、鉱員だけの組合でもあっても、生産管理闘争時には、鉱員組合員ではない管理職、技術者も鉱員組合の生産管理に協力した。別組合である事は、生産管理闘争の妨げとはならなかった。
 以上のように、工職混合組合となった理由は、大学卒ホワイトカラーのリーダーシップおよび生産管理闘争と不可分である。身分制廃止、労働条件格差の消滅はその理由ではない。それらは、工職混合組合が「勝ち取った」成果=結果なのである。我々は、原因と結果を逆にして錯覚してはならない。


3.なぜ労働者は、工職身分差別廃止を要求したのか

では、なぜ、労働者は、工職身分制廃止を強く要求したのであろうか。
彼らが自分達の「人格」を「認めよ」、「不当」な「差別」を撤廃せよと主張する時、何が「不当」で、どうすることが「人格」を「認める」ことになったのであろうか。
 貧乏な家に生まれた学力優秀な少年が、家庭の収入の低さゆえに上級学校に進学できず、屈辱的な気分で「職工」になり、金持ちの家に生まれ大学をでた職員に対して、“本当の実力”では職員に自分は負けないはずだ、という怒りを持ち、真の“能力”に応じた処遇を求め、“不当な差別” の撤廃を求めてきたとすることは、労働者の価値観が、昇進、昇給における実力に応じた機会均等主義をフェアーだとするものだったと断定することを意味する。“不当な差別に対する怒り”とは機会均等主義的イデオロギーに基づくものだということになる。こうした論証および実証ぬきの断定が、一部の労働問題研究者の間で流行になった。
 しかし、このような主張は到底認めがたい。日本の企業社会は「実力による競争」社会ではない。“コネクション+実力”社会であり、「コネクション」がなければ実力発揮のチャンスも与えられない、実力が無ければコネもつかめないという社会であり、日本社会における「能力」とは実力と共に「コネ」の所持および「コネ」をつかむ能力をも含む概念である。こうした社会において競争に身を投じる労働者の多くは、それに反発しつつも、他方では、このような社会の体質を受容し、自分が持つ「コネ」を他人に対して自慢の種にしてきた。「オレは◯◯課長の引きで昇進できた」「XX部長との関係が私の運命を変えた」「出世するのに一番大切なのは人間関係だ」「実力よりもやっぱり人柄だよ」「人事っていうのは実力だけで決まるなら苦労はない」などという言葉が頻繁に乱れとんできたのが、明治以来今日に至るまでの日本の企業社会である。
 そこには、スポーツ選手のような“実力に応じた優勝劣敗”“フェアプレイに基づく競争”なる思想は“ヒトカケラ”もない。日本の労働者は“能力に応じた処遇”を求めてきたと論ずる者は、このことについて、どう考えるのであろうか。「能力」、「人格」承認などという曖昧な言葉を核として議論を立てていること自体が、彼らが研究者として失格であることを如実に示している。
  “職工は「手くせ」が悪く工場内の物品を盗むかもしれない”として、軍隊の下士官上がりの守衛が、敗戦に至るまで、職工、工員の身体検査を行なっていた。職員の月給制に対して、工員が日給制(厳密には時給制)だったことも、月給制になれば自分達“工員は勝手気ままに仕事を休みサボるようになる”と会社側に疑われているという屈辱感を抱かせた。“盗むかもしれない”から身体検査、“サボるかもしれない”から 日給制というのは、工員からすれば、自分達が“信用できない者”と見られていることを意味する。
 それに怒りを抱いたのは、労働者が、会社側に自分達を信用してくれることを求めていたからである。そこには、労資関係が対立関係であるという認識が無い。こうした労働者の意識の根拠は、「ギルド」「クラフト・ユニオン」の伝統の欠如に求められるのかもしれない。
 日本の労資関係の特質が@企業別組合、A年功制B終身雇用にあるというのは誤まりである。日本の労働組合の組織形態は、「企業別」ではなく「事業所別」であり、昇進・昇給は「コネ+実力」を内容とする「能力」に基づく激烈な競争によって決定され、敗戦後も、大企業は大量解雇を実施し続けてきた。


第3節 生産管理闘争と大衆デモンストレーション

1.純法理的意義と実態の乖離

 読売新聞社の生産管理闘争=第1次読売争議(1945年10月24日〜12月11日)が戦後最初の生産管理であった。主として共産党員をリーダーとして闘われたこの争議では、労働者側がマスコミの戦争責任を問題にし、元警視庁警務部長として東京市電スト鎮圧(1920)、第一次共産党検挙(1923)に「貢績」をたてた正力松太郎社長以下全重役の退陣を要求し勝ち取った。その結果、読売の紙面は、共産党機関紙『アカハタ』と類似するものとなった。翌46年の第2次争議(6月12日〜10月16日)の敗北によって読売新聞の反体制活動家は追放された。ただし、生産管理は46年6月に至るまで日本全国に広がった。
 生産管理は純法理的には、資本主義体制の根幹たる私的所有権を侵害するものであり、資本主義のラディカルな否定を意味するものである。しかし、アメリカ軍は、争議戦術として、ストライキよりは生産管理の方が、当時の状況にあっては日本経済の再建、物資不足の解消、インフレ緩和、すなわち、日本資本主義体制の維持、安定に都合が良いと考え、マッカーサーは「ストライキ」より「生産管理」が望ましいと公言した。また、第1次東芝争議(46年1月12日〜1月29日)の生産管理に示されるように、“愛社精神”を濃厚に持つものであった。生産管理中の東芝の組合は、三越デパートの「電波受信機展」に東芝の製品を出品し、三越において東芝の組合が他の企業と競って自社の「優秀技術」を宣伝したのである。
 インフレ下で生産よりも資材の転売によって早く大きな利益が得られたこの時期、資本家は生産に消極的で、モノ不足はさらなるインフレの激化を結果した。したがって、生産管理は、体制の安定に貢献した。ただし、工職身分制撤廃、労働組合承認、経営協議会設置、賃金三倍値上等を要求する生産管理闘争がそのプロセスにおいて、資本家、管理職に対する「人民裁判」的吊上等、体制に対する労働者の激烈な怒りの吐露を伴なったことも事実である。しかし、そうした状況は、積りつもった”うっ憤“をはき出して”スッキリ”し自己満足することをも意味し、体制変革はおろか、資本家への報復という側面すら著しく希薄であった。その証拠に、この時期、労働者に殺害された資本家、管理職は皆無である。


 2.「憲法よりメシだ」大衆デモンストレーション

 大衆示威は頻繁に行われたが、最大の「盛上り」は、1946年5月19日の「食糧メーデー」であり、そこには「憲法よりメシだ」と大書されたプラカードが登場した。
 1917年、ロシア革命時に、ランク、アンド、ファイルの労働者、兵士、農民が切実に求めたのは民主主義でも社会主義でもなく「パンと平和」と土地であった。そして、パンも土地も平和さえも与えることができなかったのが臨時政府であり、こうした人民のエネルギーを活用してプロレタリア独裁を樹立し、社会主義建設に向かう橋頭堡の確立に成功したのがボリシェビキであった。
 ロシア人民と同じく、敗戦後の日本人民も、「革命」「民主主義」「民主憲法」という日本社会のリーダーや占領軍の掲げる「言語象徴」に対して、ロジカルなものではなく漠然とした“空気”としての希望を感じとりながらも、結局は「メシ」を求めていたのである(農民は土地を)。
 しかし、たとえ、スローガンとしてプロレタリア革命を掲げておらず、また、人民の本音が単に「メシ」にあったにすぎないとしても、“理論的”には資本主義の否定を意味する生産管理の拡大、および、大衆デモンストレーションの巨大化、しかも、それらを共産党が指導しているという事実は、占領軍および日本ブルジョワジーにきわめて不気味な印象を与えた。そこで、マッカーサー元帥は5月20日朝「大衆示威禁止」声明を出すに至った。そして、この声明をバックに第1次吉田内閣が成立し46年6月13日「社会秩序保持に関する声明」を契機に生産管理弾圧にのり出すことによって、生産管理闘争は急速に消沈していった。


第4節 産別会議と「 2・1 ゼネスト」中止

1.産別会議と総同盟

 戦後、日本社会党系の労働運動リーダーは右派と左派の二つに別れて行動していた。右派の松岡駒吉は45年8月15日から9月中旬までの期間、労働運動指導者や労働者大衆との接触に努力することなく、「財閥の巨頭連」や政治権力者との会談を「丹念」に行なった。そして、徳田球一ら共産党員釈放の日、すなわち10月10日、「労働組合組織懇談会」を招集し、労資協調の「反共的」労働組合の結成を呼びかけた。
 これに対して、左派の高野実は、会社の御用組合でも共産党に従属する組合でもない「政治的中立」の総同盟(日本労働組合総同盟)が唯一のナショナルセンターとして結成されなければならないと主張した。ただし、「政治的中立」とは言っても高野らの路線は社会党支持に傾斜していった。
 以上の両者が合流し、1946年8月1日総同盟が結成大会を開いた。しかし、当時の戦闘的労働者を結集し、労働運動のヘゲモニーを掌握していたのは日本共産党であり、徳田球一は神山茂男等の党内の「総同盟一本化」路線を拒絶し、共産党支配下のナショナルセンターたる産別会議(全日本産業別労働組合会議)を46年8月19日結成させた。両者の結成当時の人員は総同盟85万5千名、産別会議163万1千名であった。
 敗戦から46年の時期には、各企業、事業所の組織の性格が産業報国会、生産管理のための闘争委員会、労資懇談会、労資協調・ストライキの否定を掲げる黄色労働組合、社会党員高野実や共産党員神山茂男の「統一戦線的労働組合」(桃色労働組合)、共産党指導下の赤色労働組合と、めまぐるしく変化した。そして、産別会議結成によって、赤色労働組合が当時の労働組合運動の主流派となった。
 1946年10月18日、労働者の敗北に終わったとは言え、第二次読売新聞争議は、日本全体の労働者を勇気づけた。読売労働者に力づけられた、国鉄、海員労働者は、46年9月、国鉄7万5千人、海員4万3千人の首切りをストライキの力により撤回させた。この成果を土台に、産別会議は首切り反対を主とする要求を組立て、「最高闘争委員会」を設置し、「産別10月闘争」を遂行した。東芝労働者の闘いを皮切りに、北海道の炭鉱労働者、電力産業労働者がストの中核となり、ストライキは総同盟、中立系組合にも広がった。電力労働者は生活費を基礎とし、同一年齢、家族数のブルーカラーと高級管理職の賃金差をほぼ消滅させた「電産型賃金」体系を勝ち取り、こうした賃金体系は日本全国に波及した。「産別10月闘争」の成果、闘いから得た自信と余力は、翌年の「 2・1 ゼネラルストライキ」にむけての高揚を造り出していった。
      
     
       

2 . 「 2・1 ゼネスト」中止とスト権剥奪

 1946年11月26日、国鉄(53万人)、全逓(38万)学校教師(32万)の労組を中心とする組合が、全官公庁共同闘争委員会(共闘)を作り、さらに、その他13組合が加わって、約175万人が対政府闘争の態勢を確立した。この共闘が12月に提出した越年資金支給、最低賃金制等の要求を、自由党吉田茂首相は全面的に拒絶した。
 「吉田内閣打倒」を掲げ、民間労組、「ゼネスト回避」を主張する社会党系の総同盟傘下の組合の多くも合流して全闘(全国労働組合共同闘争委員会)が組織され、450万人の労働者が2・1ゼネラルストライキ(1947年2月1日開始)の準備にとりかかった。共闘の議長は国鉄の伊井弥四郎、副議長は同じく国鉄の鈴木市蔵(両者とも共産党員)で、共闘および全闘のヘゲモニーは共産党に指導された産別会議が握っていた。
 その共産党はアメリカ占領軍をどのように把えていたのか。45年10月10日の出獄に当たって共産党員徳田球一、志賀義雄らは、占領軍に「感謝の意」を表し、占領軍を「解放軍」と規定し、GHQの協力の下で「人民共和国政府」を樹立することを提唱した。さらに、46年帰国した野坂参三がリードした日本共産党第5回大会(46年2月24日〜26日)は、GHQの協力の下での「平和的ブルジョワ民主主義革命」を遂行し、その後の「平和的」かつ「民主主義的方法」による「社会主義」への「発展」を路線として採択した。
 こうした占領軍との協力路線の基礎にはスターリンと米英との間の、勝者による世界分割密約が存在したことは言うまでもない。したがって、1月31日午後2時占領軍が正式にスト中止命令を出すや否や、徳田球一書記長は井伊弥四郎にストを中止せよと指示したのである。2・1ゼネストは中止されるに至った。このゼネスト中止後も共産党は、自分達が「連合軍総司令部」をまったく「批判」していないと、公言していた。
 2・1ゼネスト中止は労働者の中にうっ積した闘争意欲、フラストレーションを残すこととなった。同47年4月の選挙で社会党が第1党となり社会党員・片山哲を首相とする内閣が成立し、一時的に労働者は片山内閣に期待をかけ闘いを差し控え、鎮静状態が続くことになった。しかし、期待に反して片山内閣はインフレ下の「賃金釘づけ策」をとり、飢餓線上をさまよう人民の反感を買った。片山内閣は組合が求める「生活補給金」の財源捻出に苦しみ、1948年2月10日総辞職し、反動政党の民主党中心の芦田内閣が成立した。そして、依然たるインフレの昂進は、共産党幹部の意思如何にかかわりなく、全国的なストの勃発を必至の情勢たらしめた。国鉄を中心とするストライキの反復は、「三月攻勢」と呼ばれ、再びゼネストの計画が浮かび上がった。3月29日、GHQ経済科学局長マーカット少将は、ゼネスト禁止を意味する「声明」を出した。
 さらに、1948年7月22日マッカーサー元帥の首相当ての書簡が発表され、日本政府は7月31日、ただちに政令201号を公布、施行した。その主たる内容は、官公労働者からのストライキ権剥奪であった。戦後日本においては、民間企業の組合よりも、国鉄、逓信、学校教員を中心とする官公労の方が組合員数の点でも、指導力の点でも「圧倒的」「優位」を有していた。したがって、官公労を抑圧することは、労働運動全体を抑えることを意味した。
           
   
   

第5節 産別会議の凋落──ドッジ・ラインとレッド・パージ

 GHQは2・1ゼネストを、共産党を通じて中止させ、官公労のスト権を奪う等の政策を通じて、共産党指導の産別会議の力を後退させてきた。
 しかし、多くの組合は会社との間に人事(特に解雇)に関する「同意約款」を労働協約として結んでいた。人事異動、特に解雇の実施に当っては組合の「同意」を必要としたのである。すなわち、「経営権」は厳しく、労働組合によって拘束されていた。また同時に、敗戦に伴なう生産縮小と大量の復員労働者の復職による「過剰雇用」の処理問題を抱えていた。
 マッカーサー元帥の財政顧問としてワシントンから派遣されたドッジ公使によって推進された 「ドッジ・ライン」は、こうした、日本企業が抱えていた問題を早急に「解決」することを余儀なくさせるものであった。ドッジ・ラインは1949年3月7日発表された。そして、国鉄10万人、東芝6600人の首切りが焦点となった。当時、中国共産党の中国全土制圧を目前にして、アメリカは共産主義の「脅威」を強く意識し、ドッジ・ラインの発表、遂行も戦闘的日本労働運動および、共産党の破壊という目的を含有するものであった。
 49年7月4日、国鉄当局は第一次首切り3万7千名の名簿を発表した。これに対して国労(国鉄労働組合)は翌5日全逓と共に共同闘争宣言を発し、闘争に突入しようとした。この5日、下山国鉄総裁が出勤途上行方不明となり翌6日、常磐線綾瀬駅付近の線路上で「バラバラ死体」となって、発見された。樋貝国務大臣は、「他殺」をにおわせ背後に国鉄労組と共産党があると言明した。社会不安が一挙に拡大し、国労は、闘争に立ち上がることが不可能な混乱状態に陥った。警視庁は、この事件を、その後「自殺」だと発表し、以来一切の事実を公表してない。
 続いて7月12日、国鉄第二次首切り6万2千名が発表され、7月15日、国電ストの最大拠点の一つであった三鷹電車区内で無人電車が突然暴走し、死者6名、負傷者19名を出し、翌16日吉田首相は共産党が「虚偽とテロ」を「手段」として「民衆の社会不安」をあおっているとの談話を発表、警視庁は18日国労三鷹分会長ら12名(内共産党員11名)を逮捕した。裁判の結果、後に11名が無罪となり、非共産党員竹内景助に死刑が宣告された。竹内は無実を訴えながら1967年1月獄中死した。
 今度は49年8月17日未明、東北本線松川駅、金谷川駅間で急行列車が脱線転覆し、機関車乗務員3名が即死した。レールの犬釘やボルトが抜かれ、長さ25メートル、重さ925キログラムもある一本のレールは線路から13メートル離れた場所に運ばれ安置されていた。事件の翌日、政府増田官房長官は「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じものである・・・・・・集団組織による計画的妨害行為と推定する」と発表した。警察は国労福島支部組合員10名、東芝松川工場労組関係者10名の合計20名を逮捕し、その大半は共産党員であった(第一審死刑5人、無期懲役5人、その他有期懲役の全員有罪であったが、14年間の裁判の結果、全員逆転無罪、真犯人は不明のまま放置)。転覆した急行列車の直前に現場を通過する予定であった貨物列車が当日になって突然運休させられた。この運休は、レール破壊工作にとって不可欠であった。また、当夜約2人のアメリカ人らしき「大男」が枕木を外しているのを見た、佐藤金作は、その夜見たことを口外してはならないと「何者」かに言われたあげく、身に迫る危険を感じて逃げ出した横浜で「怪死」した。
 以上の三大事件のショックで、国鉄、東芝の首切り反対闘争は大打撃を受け、大量解雇が成功した。
 1949年10月1日の中華人民共和国の成立は、アメリカ、日本の権力者の危機意識を高めた。こうした「東西対立」の緊張は、とりわけ朝鮮半島情勢を焦点として浮上させた。49年9月8日、在日朝鮮人連盟解散が命じられ、在日朝鮮人の左翼運動は厳しく弾圧された。このようにして、日本の「共産主義勢力」が急速に力を失ないつつある中で、1950年6月25日朝鮮戦争が始まった。朝鮮民主主義人民共和国の指導者金日成がスターリンと毛沢東の承諾をとりつけた後、北朝鮮軍が北緯38度線を突破、またたくまに、釜山周辺を除く全朝鮮半島を制圧した。アメリカ軍は「国連軍」として、反撃に出、中国人民解放軍最精鋭部隊が「義勇軍」の名の下に参戦し、ソ連軍パイロットが中国のマークをつけた空軍機に乗って中、朝両軍を支援した。
 この朝鮮戦争の勃発とほぼ同時期の50年6月6日、マッカーサーは日本共産党中央委員24名の「公職追放」を司令、さらに朝鮮戦争開始の翌6月26日、「アカハタ」の30日間発行停止を司令した。7月24日GHQの「勧告」以降、レッド・パージが本格化し、まず新聞、放送各社から700人が解雇され、10月以降他産業でも1万人以上がパージによって首を切られた。
これによって共産党は日本労働運動に対するヘゲモニーを完全に失なった。こうしたプロセスを通じて産別会議は崩壊し、約1万人の極小集団に転落した。1947年2・1ゼネスト中止後、既に、産別会議に対する共産党の指導力は後退しつつあった。日本共産党幹部は自分達の指導の誤りを認めず、全責任が産別会議内の日共党員のリーダーにあるとし、アメリカ軍との対立を意味する「ゼネラル・ストライキ」という「極左的」戦術を実行しようとしたのは誤りだったと、産別会議の指導者を攻撃した。これに反発した細谷松太、斉藤一郎らは脱党し、細谷が中心となって48年2月13日、民同(産別民主化同盟)が結成された。また、総同盟左派の高野実は、47年5月15日「日共との絶縁声明」を発表した社会党左派の鈴木茂三郎、加藤勘十らと協力しつつ、「労働戦線の統一」に動き出していた。産別会議内の「民同」は社会党に集団入党し、総同盟リーダーと共に新たなナショナルセンター結成を目指した。彼らの動きを支援したのがGHQであり、1950年7月11日、総評(日本労働組合総評議会)が結成大会を開き、「共産党の組合支配反対」「社会党支持」アメリカ軍を中心とする「国連軍」支持を決議した。日本労働運動はGHQの思惑通りの方向に進むかに見えたのである。




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『コムニスト』編集部への公開状

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この公開状は、レーニンとブハーリンが創刊することにしていた雑誌『コムニスト』編集部に宛てたものである。トロツキーが革命的国際主義の立場をとっていることを理解していたブハーリンは、これまでのトロツキーとレーニンとの確執ゆえに(とりわけ8月ブロックの時のそれ)生じていた両者の距離を埋めて革命的国際主義者の共同をつくりだそうと、あえてトロツキーに『コムニスト』編集部に参加するよう呼びかけた。しかし、トロツキーは、レーニン指導下の『ソツィアル・デモクラート』が『ナーシェ・スローヴォ』に対し「破産した」との宣告を突きつけていたことに、ボリシェヴィキ派のあいかわらずのセクト主義を感じとり、自分が『コムニスト』編集部の中で人質のような立場に置かれることを警戒して、その誘いをきっぱりと拒否した。レーニンはそれ以降、なおいっそう『ナーシェ・スローヴォ』とトロツキーに対して激しい攻撃を加え、「カウツキー主義の下僕」などという悪罵さえ投げつけるまでになった。

 この公開状は、当時において、革命的国際主義者の間でどのような意見の相違があったかを明瞭に示している。その後の歴史は、ここでトロツキーが述べている見解が大筋で正しかったことを示している。結局、ボリシェヴィキも、「平和のための闘争」のスローガンを採用し、祖国敗北主義という立場を――否定しないまでも――後景に押しやり、また、他の政治グループに対するその判断基準を広げ、『ナーシェ・スローヴォ』を革命的国際主義の陣営に数えることになったからである。だが、同時に、トロツキー自身もいくつかの点で、ここで表明している意見を変えることを余儀なくされた。トロツキーが礼賛したメンシェヴィキ派の国会議員はその後、多くの点で日和見主義を暴露し、トロツキーは、1916年にはチヘイゼを手厳しく批判せざるをえなくなった。また、組織面でも、中間主義派と手を切らざるをえなくなった。こうして、トロツキーとレーニンは、その後の歴史の中で、しだいに接近していくのである。

 なお、レーニンに対する厳しい批判を含んだこの公開状は、ロシア革命後に編集された『戦争と革命』(全2巻)――大戦中のトロツキーの諸論文をほぼ集大成した論文集――にも、また『トロツキー著作集』の一部である『大戦中のヨーロッパ』にも収録されなかった。

Л.Троцкий, Открытое письмо въ редакцию журнала ”Коммунистъ”, Наше Слово, No.105, 1915.6.4.


 諸君は、諸君によって創刊される雑誌『コムニスト』において協力するよう私を誘っている。非常に残念だが、私は諸君の提案をお断わりせざるをえない。私は、戦争とインターナショナルの危機によって提起された新しい諸問題に理論的に取り組むことがきわめて重大で緊急なものであると考えており、しかも、われわれロシアの国際主義者の間には、共同の事業にとって、とりわけロシア労働運動とインターナショナルの両方における社会愛国主義に対する闘争にとって、まったく十分な共通の理論的・政治的基盤があると深く確信している。それだけになおさら残念である。

 こう言ったからといって、私は、われわれを分かつ深刻な意見の相違に目を閉じるつもりはない。たとえば、平和のための闘争というスローガンのもとにプロレタリアートを動員するという問題に対して諸君がとっている曖昧で回避的な立場に、私はまったく同意できない。何といっても、このスローガンのもとで、すべての国の労働者大衆は現在、実際に政治的に目覚めつつあり、社会主義の革命的勢力が結集しつつあるのだ。そして、まさにこのスローガンのもとで、社会主義プロレタリアートの国際的絆を回復しようとする試みが、現在遂行されているのである。

 さらに、私は、諸君の決議のうちに確立されている見解、すなわちロシアの敗北は「より小さな悪」であるという見解にもまったく同意できない。この立場は、基本的に、戦争とそれが生み出した状況とに対する革命的闘争を――現在の状況のもとでまったく恣意的にも――「より小さな悪」をめざす方針にすり替えている社会愛国主義の政治的方法論に対する、まったく不必要でまったく正当化されない原則上の譲歩である。私はまた、諸君が社会愛国主義の問題を組織的な形で提起していることにも同意できない。それは、私にはまったくもって不明瞭で曖昧なもののように思える。それが正確で明瞭なものに見えるのは単に、その立場が、労働者大衆に影響を及ぼすための社会愛国主義者との闘争において国際主義者の前に提起されるすべての実践的諸問題を回避しているからにすぎない。

 しかしながら、これらの深刻な不一致は、ここでは言及しなかった他の不一致と同じく、共通の理論誌において諸君と協力することをけっして妨げるものではない。それどころか、このような理論誌は、社会愛国主義との共通の闘争戦線において戦闘的であろうとするならば、国際主義者の間で一致した意見がない、あるいは意見の相違が存在する諸問題に関しては、討論に開かれたものでなければなければならないと私は思っている。

 しかし、このような協力は、私の観点からすれば、すべての国際主義者を――その分派的出自やその国際主義におけるあれこれのニュアンスの相違とはかかわりなく――真に統一することに共通の関心を持っていることを前提にしている。このような政策は明らかに次のような試みをすべてあらかじめ排除するだろう。すなわち、労働運動における危機を、労働運動の要求からは出てこない、ないし、それに対して革命的国際主義の方向で影響を及ぼす必要性からは出てこない、分派的ないしグループ的な課題のために利用するという試みである。しかしながら、『コムニスト』誌の発行に関する諸君の発表文は、私見によれば、社会愛国主義に対する諸君の闘争を、私がとうてい責任を負えないような別の考慮と目的とに従属させていることを示すきわめて憂慮すべき証拠を提供している。

 諸君は、社会愛国主義に対する闘争において自分たちは孤立していないと感じていると述べ、この闘争における同盟者として諸君は次の名前を挙げている。ドイツの『リッヒトシュトラーレン(光線)』(1)誌と『インテルナツィオナーレ』誌(2)、フランスにおける同志ニコ、モナット(3)、メレーム(4)、イギリス社会党の少数派、イギリス独立労働党の多数派、等々である。ロシアに関して、諸君が言及しているのは、中央委員会の宣言と、逮捕された5人の国会議員(ボリシェヴィキ)だけである。それ以外では、諸君はもっぱら「国際主義に対する共感を表明しており、そのかぎりで歓迎すべき萌芽的反対派」しか見ていない。

 このリストとその特徴づけはともに、明らかに実際の状況を分派的観点から歪曲するものである。逮捕された5人の国会議員だけでなく、社会民主党の他のすべての国会議員もまた、同一の宣言書にサインし、それを一致して擁護している。逮捕された5人の国会議員の態度は、原則的な問題に関して、議員団の残りの5人の態度と少しも違わない。言うまでもなく、逮捕された5人の議員は誰一人として、裁判におけるその声明の中で、社会民主党国会議員団の共同声明と比べて、原則の点で何か前進したことを言うことはできなかった。

 この最初の宣言――それは真に勇気ある政治的行為であったとはいえ――が必要な明瞭さを必ずしも完全に備えていたわけではなかったことに私は同意する。しかし、その責任は――あえて責任を問うならばだが――議員団をそれぞれ半分ずつ構成している2つの分派の両方にある。この間、わが党議員団の最近の行動(チヘイゼ(5)、チヘンケリ(6)、トゥリャコフ(7)の演説)と彼らの投票は、明らかに、政治的明瞭さと革命的非妥協性の方への一歩前進を示すものである。プレハーノフと『ナーシャ・ザリャー』(8)の恥べき態度のあとには、国会議員団の声は、労働者の隊列の中に愛国主義的堕落を導入しようとするあらゆる試みをきっぱりと拒絶する声に聞こえる。

 組織委員会

[メンシェヴィキ派の中央指導部]が、その隊列の中の有力な社会愛国主義者――彼らは、組織委員会の頭越しに、ヴァンデルヴェルデ(9)とコペンハーゲン会議に声明書を送った――から自らを全面的かつ断固として分離することを必要とも可能ともみなさなかったことに対して、われわれは抗議することができるし、抗議しなければならない。組織委員会の在外書記局が、インターナショナルの前でこれらの社会愛国主義者をかばったことに対しては、もっとずっと激しく抗議しなければならない。しかし、国会議員団が、プレハーノフと『ナーシャ・ザリャー』の立場から実践的結論を引き出した一議員[マニコフ]を隊列から除名した事実を看過することはできない。

 私は、インターナショナルのすべての革命分子と同じく、わが党議員団のこのふるまいを誇りに思うものである。この議員団は、ロシアのプロレタリアートを国際主義的に教育するうえで今日最も重要な機関である。だからこそ、私は、彼らをできるだけ援助しインターナショナルにおける彼らの権威を高めることを、すべての革命的社会民主主義者の義務とみなしているのである。諸君はいちばんいい場合でも彼らを無視している。まるで彼らがロシアの政治生活の中に存在していないかのごとくである。諸君の派閥に属する5人の議員(私は彼らをわれわれの議員とみなしている)が逮捕された後には、もはやロシアの国会には、ロシア労働者階級の有力なしかるべき代表者が1人も残っていなかのごとくである。ニコやモナットやイギリスの独立労働党の社会主義者については、諸君は自分たちの同盟者として名前を挙げ拍手喝采しているが、チヘイゼやトゥリャコフや彼らの同志たちを、諸君は回避し、沈黙し、無視している。こうしたやり方は、政治的正確さの要請から出てきたものでも、国際主義の利益から出てきたものでもない。そうした態度の根底にある思惑を私は支持することができない。

 諸君が、自分たちの同盟者リストの中に、『リッヒトシュトラーレン』、ニコ、モナット、メレーム、イギリスの独立労働党の社会主義者と並んで、『ゴーロス』と『ナーシェ・スローヴォ』を含めようとしなかったのは、言うまでもないことである。諸君が完全な意見の一致を表明している『ソツィアール・デモクラート』が、すでに『ナーシェ・スローヴォ』の「破産」を宣告していたからである。この手紙の限界内では、諸君が『ナーシェ・スローヴォ』の「破産」を云々する根拠について評価することはできない。しかし、『ナーシェ・スローヴォ』を諸君の立場から引き離している諸問題に関して、諸君が列挙したインターナショナル内の諸グループはすべて、諸君とはなおさらかけ離れた立場をとっていると言っておけば十分だろう。

 そして、ここから導きだされてくるべき結論は2つに1つである。まず、イギリスの独立労働党の社会主義者やニコやメレームが諸君の同盟者なら、『ナーシェ・スローヴォ』はなおいっそうそうである。ところが諸君は、このことについて、まったく無原則的な理由から沈黙している。次に、彼らが諸君の同盟者でないとしたら、インターナショナル内部に諸君の同盟者は1人もいないことになる。私は完全に『ナーシェ・スローヴォ』の立場と意見が一致しており、したがって、われわれの新聞を、「インターナショナルへの共感を表明」し始めるやいなやすでに「破産」してしまったものと評価することにもとづいた諸君の事業に、私の名前をお貸しするわけにいかないのは明白である。

 最後に結論として、私の固い確信を表明させていただく。インターナショナルの革命分子との密接なつながりは――そしてわれわれは、このようなつながりを確立することに向けて進んでいるのだが――、諸君が自らの基準を広げその評価の多くを変更するよう促すだろう。あるいは、そうすることを余儀なくするだろう。そして、この新しい基盤にもとづいてこそ、共通の政治的諸組織における協力と同じく、共通の文献的事業における協力が、可能となり有益なものとなるのである。

同志的あいさつをもって

N・トロツキー

『ナーシェ・スローヴォ』第105号

1915年6月4日

新規、本邦初訳

  訳注

(1)『リッヒトシュトラーレン(光線)』……ドイツ社会民主党の左派グループが1913〜1921年までベルリンで出していた雑誌。

(2)『インテルナツィオナーレ』……ローザ・ルクセンブルクとメーリングが創刊したドイツ社会民主党左派の機関誌。1915年4月創刊。

(3)モナット、ピエール(1881-1960)……フランスの労働組合運動家でサンディカリスト左派。1909年に『労働者の生活』を創刊。第1次大戦中は反戦の立場を堅持。1923年にフランス共産党に入党したが、1年後に離党。1924年に『プロレタリア革命』グループを旗揚げ。1926年に「サンディカリスト連盟」を創設。

(4)メレーム、アルフォンス(1881-1925)……フランスのサンデリカリスト。第1次大戦当初はツィンメルワルト派に属していたが、その後、平和主義陣営に移り、1918年には排外主義者に。

(5)チヘイゼ、ニコライ(1864-1926)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第3国会、第4国会の議員。第1次大戦中は左翼中間主義的立場。1917年2月革命直後、ペトログラード・ソヴィエト議長。ソヴィエト政権と闘争。1921年に亡命。26年自殺。

(6)チヘンケリ、アカキイ(1874-1959)……グルジア出身のメンシェヴィキの指導者。第4国会の議員。第1次世界大戦中は愛国派。1918〜1921年のグルジア政府の内閣議長、外務大臣などを歴任。

(7)トゥリャコフ、イ・エヌ(1877-?)……メンシェヴィキ指導者。第4国会議員。第1次大戦中はツィンメルワルト派。

(8)『ナーシャ・ザリャー』……解党派メンシェヴィキの機関誌で、1910〜1917年までペテルブルクで発行。

(9)ヴァンデルヴェルデ、エミール(1866-1938)……ベルギー労働党と第2インターナショナルの指導者。1894年、下院議員。1900年に第2インターナショナルの議長。第1次大戦中は社会排外主義者。戦時内閣に入閣した最初の社会主義者の一人であり、国務相、食糧相、陸相などを歴任。ベルサイユ条約の署名者のひとり。1925〜27年に外相としてロカルノ条約締結に尽力。


  

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12回大会路線の清算のうえに同盟再建の新たな闘いを!

PD派(プロレタリア民主主義派)

 同盟第十三回全国大会は、同盟の綱領的再建をかけた綱領・路線論争を深化していくために、「世界革命」紙上でも論争を公表していくことを確認した。今後も同盟内の討論・論争を「世界革命」紙上で公表して読者との討論の共有化をはかってゆきたい。なお、以下のリードおよび本文見出しは、いずれもPD派の原文。(編集部)

 PD派(プロレタリア民主主義派)は、十二回大会路線に反対したメンバーの集まりであり、十三回大会直後に正式に分派としての活動を開始した。以下の文章は、その主張の概要である。これはわれわれがとりあえず自己の出発点とするものであり、今後さらに、同盟組織が直面している諸問題について自らの立場・主張を提起してゆきたいと考えている。日本支部内には現在、三つの分派が存在しているが、われわれは他の二つの分派の同志たち、そしてもちろん、どの分派にも属していない同志たちも、大会決定にもとづいて自己の主張を積極的に公表することを希望する。

社会主義の再生をめざす開かれた分派闘争を

 わが同盟の第十三回全国大会は、分派闘争の公表を決定した。その大会コミュニケは次のようにのべている。「同盟内の分派闘争・路線論争を深化・発展させるとともに、機関紙(誌)を通して同盟内の分派闘争・路線論争を公表し、先進的活動家層との共有化を積極的に進めていく」。
 率直に言って、十三回大会へ至る過程の分派闘争が、「先進的活動家層との共有化」をなしうるような中味であったと考えることはできない。が、ともかく「密室」での「論争ならぬ論争」に終止符を打ち、分派闘争を公表することはきわめて重要であり、十三回大会のほとんど唯一の「成果」であったといいうる。なぜなら、諸戦線で闘う人々の実践と切り結ぶことのできない分派闘争、労働者人民の背後に隠れてする分派闘争は、必ず不毛なセクト主義を生み出すだろうからである。ましてや共青同や社会主義婦人会議の仲間たちにさえ理解不能な分派闘争になんの意味があるだろうか。
 われわれの論争は、全体として深刻な陥没状況にあるある日本のマルクス主義・社会主義潮流の再編と、新たな革命主体の形成をめざす闘いの一部を構成しうるものでなければならないのであり、同盟の内部にだけ通用する言葉で書かれ、話されるものであってはならない。わが同盟のような大衆的基盤をもたない小集団の内側にありがちな独善や政治的無責任さを払拭する意味でも、内部にのみ通用する話し方をやめて、ぜひとも全ての分派が(分派にかぎらずとも)自己の主張を公表し、白日の下で論争する必要がある。
 そうすることによって「社会主義」の運動的・思想的再生をめざす心ある人々の努力に、たとえ非力ではあれ、多少なりとも参画しうるような論争を築くことができるのか否か。ここに、わが同盟が再建のためにこじ開けねばならない扉の、カギのひとつがあるはずである。

プロレタリア派、レーニン主義派の分派闘争

 プロレタリア派(P派)とレーニン主義派(L派)の分派闘争とは、いったい何だったのだろうか?「今野問題」の発生から十三回大会までの一年数ヵ月にわたって、P派とL派ほ激しく対立した。
 しかし、「分裂を回避する」という大義名分の下で「今野は…同盟員ではないことを確認する」という全く玉虫色の決議が、P・L両派支持の下で可決されたという事実だけが残ったのである。
 われわれは、この大会において、安易に妥協することなく、組織規約に則って対処すべきことを主張したが、多数を得ることはできなかった。
 大会コミュニケは「同盟は今野の離党問題を通して問われた組織建設と統一戦線活動の矛盾と困難について今後も討論を深めていく」とのべている。しかし「今野問題」を「組織建設と統一戦線活動の矛盾と困難」などという言葉で一般化できるのだろうか?今日われわれに求められていることは、かかる不条理がまかり通るわが同盟組織のあり方、同盟の存立構造それ自身を問うことではないだろうか。

70年代―12回大会路線の全面的総括を

 十三回大会は、総括も政治方針も、何ら決めることができずに終わってしまった。それはわが同盟の現状をもっとも端的に表現したと言いうる。十二回大会の行きついたところが明らかになったのである。
 十二回大会は七〇年代のわれわれの闘いを「大衆運動主義」「自然発生主義」であったと総括し、「階級の敗北」と「帝国主義国民国家共同体の成立」という情勢認識にもとづいて、「祖国敗北主義」の立場を貫く「共産主義的中核」を形成することを任務の根幹にすえ、七〇年代の「大衆運動的主義的トロツキスト全国政治組織」に対置して「レーニン主義的党建設」を打ち出した。
 労働者階級と結合した「共産主義的中核」を形成するということは、労働運動の実践方針との関係で何を意味するのか。「レーニン主義的党建投」とは、同盟員の組織活動・組織生活との関係で、いかなる内容の転換なのか。具体的な、実践的なことは何ら明白になってはいなかった。しかし、とりあえず四項目の「緊急諸課題」(・レーニン主義党建設・女性差別体質の克服・反安保・三里塚を闘う青年共闘・財政再建)への取り組みを通して、同盟の政治的組織的集中性をつくりだしてゆかねばならない。
 十二回大会は、このように提起して、同盟の意志統一を図ったはずであった。しかし、まさに十二回大会の直後から政治局―中央委員会は政治的に分解し、今野問題を契機にしてL派とP派の分派闘争へと至る。
 十二回大会は、その体制の頂点から崩壊した。十二回大会は、圧倒的多数の支持によって議案を採択し、指導部を選出し、そしてわずか半年間だけ(!!)持続可能な同盟の意志統一をつくりだしたにすぎない。
 われわれは、十二回大会の批判的総括―清算、その方法上の誤りを根本的に洗い直すところから、同盟再生のための闘いの新たなレールを敷かなければならない。

祖国敗北主義? 階級の敗北? レーニン主義?

 八〇年代のわが同盟は、情勢の転換を事後的に確認するレベルに終始してきた。「階級の敗北」論がその典型であろう。それを「戦後改良主義労働者連動の歴史的敗北」と言い直したとしても、同じ土俵の上にとどまっていることに変わりはない。十二回大会は、「階級が敗北しているではないか。われわれはそれに気付かなかった。だから、大衆運動主義・自然発生主義に陥り、レーニン主義的党をつくれなかったのだ」と「総括」(!?)する。しかし何故、「階級の敗北」というべき状況が生じたのか。とりわけ何故、われわれは十年間もそれに気付かなかったのか。どこにも明らかにされてはいない。
 さらに、「階級の敗北」論は階級情勢を規定したものであるにもかかわらず、われわれは一度たりとも現実の階級情勢、労働者階級の存在のあり方を具体的に分析したものを見たことがない。せいぜい総評労働運動が崩壊局面にあり、全民労協が組織労働者の主導的ヘゲモニーになったという事実が繰り返し指摘されているにすぎない。だから「K級の敗北」論が提起されたとき、受け取る側に様々な幅があったし、いかようにも解釈されたのは当然なのである。
 まず最初に、現存する階級についての厳密で具体的な分析が先行すべきである。そこから、現実を概括的に認識し規定する方法的中間項が導き出され、それをキーにして現実のさらに総合的な分析へ向かい、展望や方針が提出され、実践の中で検証されねばならない。こうした帰納法的であると同時に演繹法的な、つまり弁証法的な認識方法によらなければわれわれは誤りをさけることはできないだろう。「階級の敗北」論が、「召還的傾向」や「閉じこもり主義」などを生み出したのは、このような方法上の誤りがもたらす認識の単純化と非厳密性にある。そもそも階級の現状に肉迫し、切り込んでゆく方針を提起しうるような方法ではないのである。
 十二回大会の誤りは、情勢分析の方法上の誤りだけにとどまらない。わが同盟の綱領的,政治的な再生と政治路線の確立へ向かうその方法において、決定的に一八〇度誤っていると言わざるを得ない。
 十二回大会は、「階級の敗北」―「帝国主義国民国家共同体の成立」―「祖国敗北主義」―「共産主義的中核の形成とそれの階級との結合」―「レーニン主義的党建設」という一連の、それぞれがあいまいな概念を駆使した「体系」によって、再建の道を提起したかに見える。しかしこの「体系」は、時代に立ち向かう同盟のエネルギーを全く引き出すことのできないものであり、新左翼主義への半歩後退であったといわねばならない。そもそも、「レーニン主義的党建設」などという具体的な内容規定の欠如した言葉を振り回すことが、一つの堕落である。それは、危機と分散化を深める同盟組織に対する、一種の「内部引き締め」でしかない。
 十二回大会は、単なる「緊急避難」以上のものではなかった。そして、いかなる危機にあろうとも、そういう芸当をやろうとしたこと自体、その組織体質自身がまず改められねばならない。

地域に根ざした労働者グループの組織化を

 七〇年代から今日までの十〜十五年間、わが同盟は、現にわれわれが直面しており、立ち向かわねばならない「時代」と、それが革命主体に要求するところのものとの関係で、大きく立ち遅れてきた。その原因は、同盟の七〇年代路線そのものにある。
 六〇年安保闘争を前後して生まれた「社共からの政治的自立勢力」は、反戦・全共闘運動の敗北以降、様々な地域での草の根運動にたずさわりながら、七〇年代中期以降の「冬の時代」を生き抜いてきた。われわれのように、「政府危機の時代」「政府権力闘争の時代」などという誤った情勢認識に陥り、総評労働運動の延長線上になにがしかの展望を求めた「革命党派」には、彼らの努力は革命的原則を逸脱した「地域主義」にしか見えなかった。しかし、実際には、この草の根の人々の努力こそが、反核・反安保闘争にしても、三里塚闘争や労働情報にとっても、今日の左派勢力の闘いを支えているのである。われわれはこの事実を率直に認めるところから出発せねばならない。
 そして重要なことは、草の根運動―反戦・全共闘の流れをくみ、反公害、反基地、反原発、反差別、教育問題、消費者運動、農業や食の問題などに取り組んできた人々の中にこそ「時代」に立ち向かう思想とそのための討論や実践が存在しているということである。「トロツキズム」だとか「コミンテルンの伝統」云々の点で、いくらわれわれが多くの財産を持っていようとも、われわれは草の根の人々に学び、共に闘い、論争し、エコロジーやフェミニズムなどが提起する理論的・綱領的諸問題に対して、われわれ自身の回答を一つ一つの実践を通じて提出してゆくための長期にわたる努力を積み重ねてゆくしかない。わが同盟の綱領的・組織的再建の道はここにしかありえない。十二回大会の方法は、この対極にあったのである。

労働者細胞を強とした組織建設への転換を

 十三回大会の政治報告決議案(未公表。公表すべきであると考える)において、L派もP派も、十二回大会の路線的誤りの根本的総括を行うのではなく、なし崩し的な修正によって「転換」しつつあるように思われる。両派とも国労左派の闘いに触発されて「敗北が完成」(十二回大会)したはずの「戦後改良主義労働運動」の分解と再編の中から、プロレタリア統一戦線や反親帝ナショナルセンターを展望している。実際、両派の決議案の中で結論的に強調されているのは、「統一戦線政策」に関連することがらである。
 しかし、いったいわが同盟自身の、統一戦線ではなく独自の日常活動としての、労働運動方針や党建設に向けて労働者を組織する方針・展望は、どうなっているのだろうか?「祖国敗北主義」だとか「共産主義的中核」などと言ったところで、何の方針にもなりはしない。それはセクト主義と最後通牒主義を生み出すだけである。たしかに両派とも「プロレタリアートの階級形成のための新たな歴史的闘い」ということを強調する。われわれもその限りでは同じ考えに立つが、国労など「戦後改良主義運動」の分野に全面的に依拠することは誤りである。統一戦線政策ががいかに重要であろうとも、同盟独自の労働者を組織する内容と方針を持とうとしなければ、党の再生にとっては何の意味も持たないだろう。
 「戦後改良主義運動」の「敗北が完成」したわけではないし、そこには何がしかの「可能性」があるにちがいない。しかし、「戦後改良主義運動」は、思想的に完璧(ぺき)に破産しており、およそ「時代」に立ち向かい「時代」を切り拓く可能性を持ってはいない。総評労働運動に限らず、戦後の左翼諸党派と戦後のマルクス主義と労働運動総体が、新たな時代と情勢、高度経済成長とその後の十年間が生み出した社会の諸変化に対応できずに破産しているのであり、われわれは、全て新たに、階級の再組織化に向かわねばならない。
労働者階級は企業社会にギリギリしばり付けられ、アトム化され、原初的な階級意織そのものを喪失して存在している。われわれが、「プロレタリアートの階級形成のための新たな歴史的闘い」という任務を、特に今日の青年労働者の組織化を通して実現しようとするのであれば、階級意識さえ喪失し政治や社会や労働について考える「場」さえ持たない青年世代のあり方にアプローチし、組織する方針を持たねばならない。
 だから、それ自体全く正しいはずの「過渡的綱領」の方法をいくら強調しても、現実の労働者階級のあり方と、その方法が有効性を発揮する状況とのギャップをうめる方針にはなりえないと考える。
 十二回大会を前後して「草の根的」としてわれわれの視野から「排除」してきた様々な課題に取り組む住民・市民運動を、地域労働者による企業社会を逆包囲する闘いとして位置づけ、それを階級的労働運動の芽から拠点に変えていく視点が必要である。資本・国家・全民労協の壁は厚く、未組織の組織化・革命的反対派の組織化は容易ではないが、自らが草の根となって、まず地域レベルにおける自立した労働者グループの組織化とそこにおける新たな団結の中身をつくりだすことから出発しなければならない。
 七〇年代から今日までのわれわれの活動は、「当面する情勢」と「当面する任務」で意志一致し、闘争や集会に自らを動員する(あるいは人を動員する〉ことがほとんど全てであった。
 それは、必然的に専従者中心の機関と組織をつくり出し、労働者細胞を中心においた組織建設をさまたげた。われわれは、労働者を組織する方法からメンバーのつくられ方、その日常活動のあり方、機関維持や専従のあり方まで貫いて、この七〇年代的組織活動からの転換をはからねばならない。
 そのためには、能力主義・競争原理反対、反差別、生態系と人間の共存なとの価値機軸の下に結集し、現代杜会を支える文化・イデオロギー状況、労働や人間関係のあり方に対抗する集団を、草の根の、地域の労働者運動としてつくり出していくことが必要である。このような活動こそが、現にある政治闘争への動員のみを組織化の基準とするカンパニア主義的な活動から、運動に参加する個々のメンバーやシンパの自己変革の実態を基準にした組織活動への転換を要求するものになるはずだ。それは同時に、労働者細胞を中心柚にした組織活動への道をひらくだろう。

女性差別体質の克服へ生活・活動の見直しを

 十三回大会は、同盟が変われなかったことを認め、そしてこれからも容易には変わらないであろうことを確認して終わった。「今野問題」に関する大会決定が、このことを鋭く示している。P派もL派もあるがままの機関、あるがままの左派労働運動とわが同盟との関係を防衛するところからしか未来を展望しようとしていないという点で、全く同じレベルでしかない。
 十三回大会での女性同志たちのつきつけは、同盟組織がこの数年間何ら変わらなかったことに対する告発であった。女性差別問題を克服すべく同盟組織が変わることは、同盟員(男)それぞれの生活と活動のあり方をどう変えうるのかということを問う。女性差別問題を克服すべく組織の変革に向かおうとしても、それが、「防衛されねばならないもの」のための活動に抵触しない範囲でしかやれないことが、われわれ(男)の限界になっている。実際労働運動の「拠点」や組織機関、専従等々といった、われわれが大切に守ってきたものこそ、「保守的差別温存構造」の背骨となってきたし、今もそうなのである。
 運動や組織、自己の生活や活動のあり方の中に、聖域を設けることなくトータルに変革して行くことを展望できるか、どうか。われわれは先に、草の根の潮流との共同と論議にこそわれわれの再生の出発点をおくことを提起したが、エコロジーやフェミニズムに代表されるこの潮流の思想と運動との緊張関係をたえず持ちつづける地域的な労働者グループの組織化こそ、「ゼネラルユニオン」のための第一歩であると同時に、われわれの七〇年代的な運動と組織を、われわれ自身の生活と活動を変えていくための第一歩であると考える。


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レーニン主義派の基本的立場
綱領的再生をめざして 

 以下は、わが同盟の再建をかけて現在展開されている分派闘争に関する、レーニン主義派の基本的立場を要約的に述べたものである。問われている課題に応えぬく決意をこめて、今後もわが同盟の綱領的再生をめざして積極的に提起をしていきたいと考える(レーニン主義派)。

レーニン主義派結成の経過

 わが同盟の現在の分派闘争は、一九八五年十一月、当時中央指導部の一員であった今野求の突然の脱盟を直接の発端としている。今野は財政疑義ありとつきつけられたとたんに、一切弁明はしないとして脱盟したのである。
今野の脱盟を、当時の政治局多数派の「労働情報」運動からの「召還・敵対」=「労働運動に対するセクト主義的最後通牒主義」に根拠があるとして分派を結成したプロレタリア派の同志に対して、レーニン主義派は同盟の危機の根源を「階級の敗北」論や「労働運動への最後通牒主義」なるものに切りちぢめようとするプロレタリア派の主張に反対し、全国単一組織としてのわが同盟を防衛する基礎の上で、綱領、路線にかかわる全面的な論争を発展させることによって同盟の危機を突破していく道を模索していく道を模索していくことを宣言したのである。
 我が同盟の分派闘争の展開は、一九八〇年代に入るとともに顕在化した同盟建設の行きづまりと破産を背景にしたものである。アフガン問題、八〇年の「衆参同時選挙」に対する態度の取り方(独自候補擁立か否か)、労働運動、“草の根”市民運動への評価等をめぐって随所に噴出した政治的対立はベトナム革命の歴史的評価やそれと結びついた「全人民的急進化」という情勢展望や、それにもとづく大衆運動、組織建設方針の根本的見直しをわが同盟に要求していた。
 さらに一九八二年の三里塚における女性差別問題とそれを契機にした女性同盟員たちの全国的な差別告発、糾弾の闘いは、わが同盟の限界と誤謬がたんなる情勢認識や政治方針上のものにとどまるのではなく、革命党の根幹ともいえる思想、綱領上の根本的な破綻に他ならないことを突きつけた。しかし、わが同盟は女性同盟員たちの告発、糾弾の闘いに、機関によりかかった男性たちが敵対するという行動を繰りかえし、女性差別をひきおこした同盟の網領的、思想的質に対する主体的総括に踏み込みえないままであった。この点は、同盟内の政治的意見の対立において組織の“防衛と統一”を名目に、全面的な論争を抑圧するベクトルが働きつづけた問題と重なるものだったと言わなければならない。
 今野の脱盟は、女性同志の告発、糾弾に対する敵対や政治的対立を路線論争へと発展させることができなかったわが同盟の組織建設における破産の現われに他ならなかった。

12回大会の限界の克服のために

 一九八四年秋、わが同盟は第十二回大会を開催し、七〇年代の「大衆運動主義的組織建設」のあり方を克服し、「レーニン主義的党建設」に挑戦することを圧倒的多数の代議員の支持の下に確認した。しかし同時に組織の現実が「保守的差別温存構造」の下にとどまっており、その批判的切開が進みえていないことを確認せざるをえなかった。
 分派闘争の始まりにあたってレーニン主義派は、十二回大会で同盟が挑戦した「レーニン主義的転換」の意義を継承し発展させることを自己の目標とした。
 レーニン主義派が継承しようとした十二回大会の意義とは、第一に今日の国際階級闘争の民族主義化を「国民国家共同体へ包接」としてとらえ、この民族主義的分断―国民国家への統合を打ち破っていくために戦後改良主義的労的運動の敗北を国家に対決する闘いの観点から総括しようと試みたことである。第二は、以上の観点から今日の階級分化の基本軸を「国民国家への包接」か「国家からの独立とプロレタリア独裁へ向う闘い」かに設定し、祖国敗北主義の立場から一貫した方針を立てようとしたことである。第三は、これまでのわれわれの組織建設の展望を、五五年体制下の左派労働連動に対する自然発生主義的拝跪の傾向を色濃く持っていた限界としてとらえかえし、「階級と結台した共産主義的中核の形成」を基本とするレーニン主義的全国単一組織の建設を目標としたことである。
 十二回大会における「レーニン主義的党建設」への転換は、しかしながら少なからざる限界をふくんだものであった。十二回大会の限界の第一は同盟の「転換」が同盟の現実における「保守的差別温存構造」を切開する任務と有機的な統一性を持って提起されていなかった点である。その点がかつての総評左派=五五年体制左派的労働運動に依拠した大衆運動主義的組織建設への単なる機械的対置として「レーニン主義」が強調され、この転換を推進していくための綱領的、思想的前提条件を獲得することができず組織的分散化を国克服しえなかった根拠であった。
 十二回大会の第二の限界は、七〇年代のわが同盟の世界情勢認識の基軸であった「世界的二重権力論」(米・ソを両極として形成された国際階級闘争の構造)として捉えていた情勢が基本的に終焉し、階級闘争の「民族化」と「国民国家共同体」の構造を軸にして世界情勢が展開しつつあることを述べながら、そのなかで帝国主義、労働者国家、新植民地の相互に連関しあった危機の中で国際階級闘争の新たな主体がとのように形成されるのかを提起することができなかったことである。十二回大会は「国民国家共同体」への統合を打ちやぶる帝国主義本国プロレタリアートの決定的役割を強調した。しかし日本における「采たるべき対決」の性格を三〇年代ヨーロッパ情勢に対応させた「しのびよるボナパルチズム」とその下での階級決戦の到来として規定した待期主義的、自然発生主義的展望の限界は世界情勢の危機の性格と帝国主義の階級支配の再編の解明について十二回大会がいまだ入口にとどまったことを示すものであった。
 十二回大会の第三の限界は、右翼労戦再編反対の闘いとその過程における労働組合組織方針をめぐる論議で提起された「階級の敗北」論が深化されないまま「戦後改良主義労働運動の敗北」という中間的規定に集約され、後期帝国主義の段階における労働者階級の存在様式や意識のあり方にふまえた労働運動の歴史的総括と、新たな労働者階級の闘いの組織方針をめざす綱領的論議の枠組を形成するところまて踏みこみえなかった点である。
 この点は第二の「ボナパルチズムの下での階級決戦」輪という自然発生主義的情勢展望とも関わる問題である。
 たとえば十二回大会決議は「帝国主義中枢諸国のプロレタリア運動が、今日のレベルにおいて権力奪取にむかうことは、らくだが針の穴をくぐるよりもむずかしいことである」「『あるがまま』のプロレタリアートはつくり変えなければならない。プロレタリア革命は、それなしには生きていけないことを自覚し、そのために自己の全存在をかけようとするプロレタリアートが階級として実在しなければ、勝利し得ない。かかる自覚は組合主義的には生まれ得ない。それは、全世界の危機を自らの肩に背負おうとする、尖鋭な国際主義的政治的自覚でなければならない」と提起している。しかし、この「プロレタリアートのつくりかえ」を保障するのは「革命派のヘゲモニー」一般に解消されているのである。
 その結果として、「プロレタリアートの…政治的限界は、歴史的にうみ出されたものであって、なんらの超歴史的現象ではない。すなわちそれは戦後帝国主義経済の『拡張の長期波動』の産物なのであるとか」「日本プロレタリアートは戦後民主主義と平和主義の思考に慣れてきた。この志向の上で今日のプロレタリアートの政治的分化、五五年体制革新の右傾化も成立している。だが、危機の政治的力学は、この戦後の枠組そのものの破壊に向かっている。そこから新しい政治分化の基盤が形成されていくであろう」というような安易な予測が導き出されてくることになるのである。つまりこの予測は危機の下での「労働者の戦闘化、急進化」を展望し、そこに革命派のヘゲモニーが結びつくことによって新たな革命的階級主体が建設されるという考え方に帰着する。これは、七〇年代の「全人民的急進化」論の新たな装いをとった再生産に他ならなかった。
 十二回大会のこうした限界は、十二回大会から始まった政治的対立を全面的な綱領的、路線的論争として発展させることができなかったことの中にあらわれていたし、また分派闘争において、対立の性格を組織運営上のあり方をこえて鮮明にさせていくことができない要因となった。女性同志たちが「女性差別をすりぬけた分派闘争」「告発・糾弾への敵対に対する総括の不在」「分派闘争のために差別問題を利用するあり方」として「男主義的分派闘争」を批判した根拠はここにあった。
 十三回大会における女性同志たちの批判は、われわれの分派闘争の水準を根底的に問うものであったし、同盟の根本的な再建のためにわれわれは、綱領―組織の全分野における見直しと前衛党建設に挑戦していく新たな出発点に立つための論争を組織していくことが再び求められたのである。

二つの分派についての評価

 第四インターナショナル日本支部としての同盟建設の破綻の根拠を、七〇年代におけるわが同盟の党建設が「トロツキズムからの逸脱=小ブル急進主義への屈服」であったことに求めようとする清算主義にわれわれは全面的に反対する。日本支部建設の闘いから逃亡した「再建グループ」の諸君によるこうした主張は、トロツキズム=革命的マルクス主義の意義を保守的教条主義の体系に低めようとするものに他ならない。
 プロレタリア派は、レーニン主義派を、労働者階級の闘いと切断された官僚主義的セクト主義者であるとして、その理論的根拠が「階級の敗北」論にあったと強調している。
 プロレタリア派の主張は総評労働運動の崩壊と労働組合運動の国家・大資本への統合という現実を、日本労働運動の歴史的総括―国家との関係における戦後労働運動の政治的性格を主体的に総括することをつうじて根本的につくりかえることによって突破するのではなく、現にある総評左派的抵抗闘争の直接延長上に「階級的ナショナルセンター」を展望しようとする性格を色濃く有したものである。総評左派的抵抗闘争と共同の闘いをつくりだす必要性と、そうした抵抗闘争に過大な意味付与をすることは全く別てある。もちろん彼らは、総評運動の本工主義―企業主義的限界を主張しているのであるが、それは国労の闘いに対する評価のジグザグ(六〇年三池闘争を越えるものとしての国労の闘いという主張)等に現われているように、総評左派の抵抗闘争の発展に新たな階級的労働運動の可能性を構想しようとする方向へと不断にひきずられるものとなっているのである。そこから導き出される党建設の展望は労働者階級の個々の抵抗闘争に運動的に依拠しながら「連合」的に組織再編をはかっていくというものにならざるをえない。
 プロレタリア民主主義派の同志たちは、「十二大会路線の清算」を掲げ、“草の根”的大衆運動に浸透することの中から同盟の活性化を図っていくことを提言している。
 プロレタリア派とプロレタリア民主主義派に共通するものは、労働組合運動という形をとってであれ、“革の根”的地域大衆運動という形をとってであれ、現にある大衆運動を革命的マルクス主義の立場からとらえかえすのではなく、単純に過大評価することをつうじて同盟員の“再結集”“活性化”を展望しようとする考え方である。そこに見え隠れするのは、十二回大会が規定した「五五年体制左派」に依拠した「自然発生性に拝跪する党建設」への舞いもどりてある。なんらかの形で大衆の「下からの戦闘化・急進化」に迎合することで革命党建設の基盤をさぐり出そうとするこうした考え方は、今日の国際的な激動の情勢と労働者階級の「国家への統合」、そして新たな闘う主体の世界的登場の意味するものに正面から立ちむかうことの中から、網領的論争をつうじてプロレタリアートの革命党を建設しようとする主体的努力を回避するものにほかならない。
 レーニン主義派は、革命的マルクス主義を今日的に復権させていく闘いが、自らをレーニン主義的革命党として不断に建設するための挑戦と不可分一体のものであることをあらためて確認する。現在の同盟の危機と困難を合理化するのではなく、解決を要求されている世界的な課題との格闘に立ち向かっていく道が、現実の階級闘争の中で日本支部を中央―地区―細胞をつらぬいて確立していく闘いの基礎の上でのみ切り開かれることをわれわれは改めて強調する。

新たな組織的展望にむけて

 現在、帝国主義の危機は、世界的な恐慌の可能性を伴いながら進行している。 「米ソ緊張緩和」の背後で、帝国主義諸国の政治・経済・社会全般にわたる軍事化が発展している。多国籍企業の帝国主義本国―新植民地の境を超えた支配の下で、階級闘争の国際的運動の構造はさらに広がりつつある。
 帝国主義本国の改良主義的労働運動は、「国益」を支え、労働者人民を国家に統合する機能をより一層、強めている。
 ソ連邦の「ペレストロイカ」は、官僚支配体制の崩壊・再編成の決定的局面を全世界の人びとに明らかにするとともに、スターリニズムに代わる国際階級闘争のイニシアチブの不在の中で、局面的には帝国主義―新植民地諸国の階級闘争主体の分解・再編の圧力を作りだしている。
 しかし同時に、新植民地諸国における反帝解放闘争は、スターリニズムから独立した新しい革命路線の模索を媒介にしながら、帝国主義の国際的支配構造への挑戦をつづけている。また帝国主義本国・労働者国家・新植民地をつらぬいて、女性たちの新たな闘争主体としての登場がダイナミックにかちとられている。さらに旧来の労働運動がなおざりにしてきた生活諸領域における運動の自立的な発展も顕著である。
 プロレタリアートを革命的階級として再組織・再生していくための闘いは、こうした運動と結びつき、被抑圧民族、被差別諸階層の解放、環境、食糧問題等、二〇世紀末から二一世紀にかけての世界的な課題と正面から向かいあうことを通じて、まさに国際的な党それ自身の任務として実現されていかなければならないのである。
 そのためには、初期コミンテルン―第四インターナショナルに体現された革命的マルクス主義の成果を受け継ぐとともに、新たな環題との対決を媒介としてそれを不断に検証し見直していく作業を不可欠とするのである。
 第四インターナショナル第十二回世界大会は、トロツキスト党の「同心円的拡大」の延長線上にインターナショナル建設を構想していた従来の「世界党」概念の再検討を提起した。またロマン同志はこの間経済主義的、下部構造主義的にとらえられていたわれわれのマルクス主義理解や革命戦路の見直しを主張している。こうした問題提起をわれわれは真剣に受けとめなければならない。
 われわれは、第四インターナショナルの国際討論に参加しながら、アジア―日本の現実の階級攻防に関わっていくことをつうじて経験を集中化し、新たな綱領的展望の獲得に向かわなければならない。そのためには最低、以下の課題に組織的に取り組むことが要求されている。
 ・日本帝国主義の「国際化」と「国民統合」支配構造の解明。今日の国家論―土台決定論的マルクス主義の克服をかけて。
 ・労働者階級の再組織化のために。今日の労働者階級はまさに「つくりかえ」られなければならない―労働者階級の民族・性等による差別分断構造の克服と、国家、資本から独立した階級的労働組合運動の創出。
 労働組合運動の「企業主義」的形態からの脱皮―地域住民・被差別諸階層との結合。
 ・新たな党組織論の解明―レーニン主義的民主集中制はどのように深化・豊富化されなければならないのか。革命党における男女間の関係、党それ自身のイデオロギー的変革と党内部における分断・差別構造の変革。
 レーニン主義派は、第四インターナショナル日本支部としてのわが同盟の建設にとって不可欠な、これらの課題への挑戦が小手先の組織操作や、「同盟の現実」への逃避によって達成されるとは考えない。
 同盟の綱領的、政治的再建をたたかいとるために、女性同志との信頼関係の回復のための努力を最優先の課題としなければならない。われわれは多くの限界をもちながらも十二回大会が踏み出そうとした過去の組織建設のあり方に対する全般的克服と真に独立したレーニン主義革命党建設の道を継承・発展させていくために奮闘していく。集中した綱領論争をつうじてプロレタリア革命党の建設を闘いとろう。


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