32518−2 | 社会主義運動における「青写真」の重要性考 |
この章を設けたのは、社会主義運動における青写真の必要性を、日本共産党中央を長年占拠し今も有害無益思想を振り撒きつづける不破議長が2002年度新春企画「21世紀はどんな時代になるか」(聞き手は関口赤旗編集局長、庄子編集局次長)で明白に否定し、これに何らの反論らしきものが生まれていないが故にである。このような論を受け入れれば、我らの頭脳が脳死状態に陥ることが不可避で、その挙句党中央の似非論理に支配され、そのロボトミー運動に堕し、永遠にそのくびきから抜け出せないだろう。 それを批判する前に、今春不破がどのように語ったのかを見ておくことにする。不破は言う。庄子の「マルクスは、『資本論』のなかで、社会主義、共産主義の問題をずいぶん立ち入って論じているんですね」の質問に対し、エンゲルスの言による次のような「資本論」評価を紹介し、「マルクスの経済学的=社会主義的見解の基礎と、現存社会つまり資本主義的生産様式とその諸結果とにたいする彼の批判の大綱とを叙述したその主著」(「カール・マルクス」1877年)と特徴づけていますとした後、わざわざ全文太字で次のように述べている。余程強調したいのだろうが、読みにくいので、重要な点のみ太字に切り替えて読んでみる。 「実は、ここに、強調したいもう一つの点があるのです。マルクスは、『資本論』のなかで、現在の社会――資本主義社会の矛盾からの人類史的な活路が社会主義、共産主義への前進にあることを証明し、それが人間社会のどのような発展方向なのかを大づかみに明らかにすることはしましたが、この未来社会の青写真を描きだすことは、いっさいしませんでした。つまり、科学的社会主義による未来社会の設計図はこれだといって、将来の世代の手をしばることはやらなかったのです。これは、非常に重要なことなんです」。続けて、「のちにエンゲルスは、ドイツの若い理論家で、共産主義社会に移行するさいの見取り図を書こうという勇ましいことを考えた人物が現れたとき、そんなことはできるものではない、新しいトラストが一つできただけで、条件は変わり、攻め方も違ってくるじゃないかと、それをたしなめる手紙を出したことがあります」(1891.7.1日付け「シュミットへの手紙」)と補足する。 次のようなことが云いたいらしい。「マルクスとエンゲルスのこの態度は、科学的社会主義者の態度として、たいへん理性ある賢明な態度でした。エンゲルスは新しいトラストができたら条件が変わってくるといいましたが、マルクス、エンゲルスが活動した19世紀と現代との社会的な変化の大きさは、一つのトラストの出現などと比較になるものではありません。電力がまだ登場したばかりで産業でも蒸気力が主力だった時代の資本主義社会と、IT革命が熱い問題になってきた時代の資本主義社会とでは、生産を社会の管理下におくといっても、その形式、方法、内容が大きく違ったものとなってくるのは、当然のことです」。 「だから、マルクス、エンゲルスは、自分たちが活動した時代の条件を固定化して、いつでもどこでも通用するような青写真を書くことはしなかったし、そういうことをやろうという『社会主義者』には手きびしい批判をくわえたのです」、「私たちがいま、21世紀の世界における社会主義への大きなうねりを展望するときにも、この見地はたいへん大事なものです。21世紀には、さまざまな国が、社会主義をめざす道にふみだすでしょうが、どういう道筋で新しい社会にすすんでゆくのか、その社会はどういう形態になるのか、これらはすべて、それぞれの国民が、国民的な歴史と経験をふまえ、英知と努力をつくして創造的に解決してゆくべきことです。こうした多様な努力がたがいに合流しあって、人類史の新しい時代を開いてゆく、それが21世紀でありたい、と思いますね」。 この大嘘を例証で批判するのは容易い。例えば、共産党宣言の次のような「社会改革提言青写真」を見れば良い。 「もちろんこのことは、はじめは所有権とブルジョア的生産関係とへの専制的な侵害を通じてのみおこなわれる。したがって、経済的には不十分で、長もちしえないように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身をのりこえて前進し、しかも全生産様式を変革する手段として不可欠であるような諸方策によってのみおこなわれるのである。これらの方策は、当然、国によっていろいろであろう。しかしもっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり全般的に適用されるであろう」と述べ、次のような具体的施策=「社会改革提言青写真」を提言している。
その他その種の「青写真」を例示することは容易であるし、何より戦前から戦後の一時期とりわけ宮顕-不破系が支配するようになる以前の党運動の歴史の中から、この種の提言を探し出すことはいとも簡単である。 終戦に伴う獄中党員の解放より2ヶ月足らず迅速にも1945.12.1より「第4回党大会」が開かれている。この大会で、徳球が最高指導者としての書記長に、bQに志賀義雄が選出された。この時「第4回大会行動綱領」と規約が採択されているが、行動綱領には、「我が日本共産党が掲げる左記の実践的要求こそ日本民衆を苦しめる鞭と搾取と牢獄の天皇制支配を終滅せしめ、労働者、農民その他一切の勤労大衆を自由の新野に解放する為の指標となるものである」と前書きして、以下具体的に次の事項が書き込まれている。
これらの「行動綱領」を「青写真」と呼ばずして何と云おうか。「青写真」は党中央の責務である。 してみれば、「青写真不要論」を公然と掲げる不破見解は異邦人の証(あかし)であろう。「未来社会の青写真を描きだすことは、いっさいしませんでした。つまり、科学的社会主義による未来社会の設計図はこれだといって、将来の世代の手をしばることはやらなかったのです。これは、非常に重要なことなんです」、「私たちがいま、21世紀の世界における社会主義への大きなうねりを展望するときにも、この見地はたいへん大事なものです。21世紀には、さまざまな国が、社会主義をめざす道にふみだすでしょうが、どういう道筋で新しい社会にすすんでゆくのか、その社会はどういう形態になるのか、これらはすべて、それぞれの国民が、国民的な歴史と経験をふまえ、英知と努力をつくして創造的に解決してゆくべきことです」の嘘臭さを知るべしである。 問題は、不破が我らが左派運動になぜかような有害無益思想を押し付けようとするのか、その意図の解明のほうに興趣が注がれるべきであろう。宮顕と云い不破といいその左派世界での一生は、実にかような本来為すべき活動の反対側の軌跡ばかりを遺しつつある。これを間違いだ的に批判してみても、それは半面の有効さでしか無かろう。残りの半面の批判は、確信犯的に為そうとしているそのどす黒い意図の解明であるべきであろう。 以下、れんだいこ的解析を供えようと思う。 |
(私論.私見)