3251216 社会分析論その6、共産主義社会の歴史的必然論

 以上、過去の歴史を通覧し資本主義社会に貫く歴史法則を洞察したマルクスは、この流れが歴史的必然であるとしてやがて社会主義−共産主義社会が到来することを見通した。そして、この流れを合目的且つ主体的に引き寄せるせる主体としてプロレタリアートに歴史的役割を鼓吹し、その中核組織として共産党の結成と運動における前衛的指導性を指針させようとした。その際、マルクス主義を社会変革の理論としての導きの糸たらんとした。

 このマルクスの予期に反して、現代資本主義は依然として自転しており、今も変貌を遂げつつある。
そのことはともかく、マルクスが如何に社会主義社会の到来の必然性を指し示したのか、それを見ていくことにする。留意すべきは、歴史的必然論とは、自動必然論とは違うという意味で理解されねばならないことであろう。いわば、矛盾の解決策としてその方向に行くのが歴史の合理性であり、紆余曲折を経ながらも人類の叡智は賢明に合目的性の方向へ解決を見出していくであろう、という意味で理解する必要があるように思われる。

 たまたま興味深い記述に出くわした。歴史学者・井沢元彦氏は、連載の「週間ポスト」2002.2.1日号「新しき権力の構造編そのB」で、「しかし歴史というものは、大局的に見ると、進むべき方向に必ず進むものだ」とコメントしている。戦国武将・織田信長の天下統一の過程を追跡する途上での見識であるが、凡そこのセンテンスで、マルクスによる社会主義社会の到来の必然性を理解すれば良いのではなかろうか。

 では、マルクスは、これをどのようにメッセージしたのか見ていくことにする。マルクスは云う。ブルジョアジーによってつくりだされた巨大な生産力が、もはやブルジョアジー自身によっても制御できなくなるほどに巨大化し、ブルジョア社会の存続をも脅かすようになる。この過程で、資本主義の中から社会主義実現の客観的「物質的」諸条件が生み出される。ブルジョアジーが封建制度を打倒したように、今度はプロレタリアートが資本制度の墓堀人となり解体を目指すようになる。かくて、資本主義の崩壊し、歴史の歯車は資本主義から社会主義へと向かう。それは歴史の発展の必然性であり、この流れは不可避であると洞察した。

 そもそも資本主義の由来とはどういうものであったのか。資本主義の社会制度は現在の支配階級であるブルジョアジーによって作り出されたものであるが、
「資本主義的生産方法と呼ばれているブルジョアジー特有の生産方法は、封建制下での狭い地域での又身分的特権とも、その人間のめんどうくさい相互関係とも相容れないものであった。そこでブルジョアジーは封建制を打ち壊しその廃墟の上にブルジョア的社会制度をうちたてた。それは自由競争、移転の自由、商品所有者の同権の王国であった」(「共産党宣言」)。

 ブルジョアジーは、封建制度を打破することにより、資本主義的生産方法の自由な発展を獲得した。マニュファクチャー時代から勃興した資本主義は、蒸気と新たな機械を得てから大工業時代へと向かった。ブルジョアジーの主導によってつくり出された生産力は史上未曾有の規模で発展し続けている。しかし、この発展が更に進むと、いつか生産力の発展そのものが自らの資本主義的な生産方法と衝突する時代に突入する。

 他方、生産力の発展は生産力をますます社会化させる。にもかかわらず、その生産関係が依然として資本家的私的なものにとどまることにより、経済矛盾が深く広くなって行く。その政治的な現われとして、資本家と労働者の根本的対立とそれの激化が産みだされる。今や膨脹した生産力を合目的化させる為には資本主義的な狭い生産関係を打破する以外に方途が無くなる。生産力の解放は社会主義経済の中にしかありえない。

 してみれば、資本主義は、生産力を飛躍的に発展させ社会主義社会の客観的条件を準備するとともに、自ら大量の労働者を生み出し社会主義社会の主体的条件も準備する。
「ブルジョアジー、つまり資本が発展するにつれて、プロレタリアートすなわち近代労働者階級もそれだけ発展する」、「大工業が発展するにつれて、ブルジョアジーが生産をおこない生産物を取得する基礎そのものが、ブルジョアジーの足もとからとりさられる。ブルジョアジーはなによりもまず自分自身の墓掘り人を生産する」(「共産党宣言」)。

 マルクスは次のようにも述べている。
「今日ブルジョアジーに対立しているすべての階級の中で、ひとりプロレタリアートだけが真に革命的な階級である」。補足すれば、プロレタリアートに比して小生産者の置かれた社会的立場は次のようにみなされている。概要「小生産者達がブルジョアジーと闘うのは、すべて中産身分として彼らの地位を没落から守るためである。彼らはしたがって革命的ではなく保守的である。それだけでなく彼らは反動的でさえある。なぜなら、彼らは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。もし彼らが革命的になるとすれば、彼らは現在の利益ではなしに将来の利益をまもっているのであり、彼ら自身の立場をすててプロレタリアートの立場に立っているのである」

 マルクスは、「ゴータ綱領批判」(1875年)において、プロレタリアートの歴史的任務について次のように述べている。概要「賃労働制度は一つの奴隷制度であり、それは労働の社会的生産力の発展につれてますます過酷になる奴隷制度である。この世に賃金奴隷制度が存在するかぎり、そのもとでの一種の奴隷階級であるプロレタリアートのブルジョアジーに対する反抗と闘争は決して止むことはない。プロレタリアートはブルジョアジーとの階級闘争に勝利するまでたたかい続ける以外にはない。賃金奴隷たるプロレタリアートは、同時に資本主義を変革し、新しい社会をつくりだしていく能力を生まれながらにしてもつ階級である。プロレタリアートは社会の多数者であり、この社会で行われている生産活動の真の主体であり、生産手段を何一つもたない無所有であるがゆえに団結することのできる階級であり、また世界的な階級−世界的な結合を可能にする階級である。プロレタリアートには、もはやブルジョアジーという特別な階級は不必要になっている。彼らは自分自身だけの力で生産を組織し、社会を運営することのできる能力をすでに実際にもっている」

 
つまり、凡そ以上のような構図で、マルクス・エンゲルスは、「共産党宣言」において歴史観とその趨勢的な流れを叙述した。封建制社会を打ち破ったブルジョア社会の次に来るものが社会主義-共産主義社会であり、その変革を担う主体が誰であるのかに答え、資本主義自身が大量に生み出す近代プロレタリアートこそがその唯一の階級であると結論づけた。

 この当時、プロレタリアートにこのような歴史変革の主体を観る者はマルクスを嚆矢としている。先行するフーリエやオーエンなどのいわゆる空想的社会主義者たちでさえ、プロレタリアートの階級的能力に期待するという観点を持ち合わせていなかった。彼らにとっては、それまでのプロレタリアートは、もっとも苦しんでいる階級として救済の対象でしか見られておらず、プロレタリアート自身もまたそういう考えから自由ではなかった。

 「空想より科学」では次のように述べられている。
「社会階級を廃止するためには、あれこれの特定の支配階級の存在だけでなく、一般に支配階級というものの存在、従って階級区別そのものの存在が時代錯誤となり、古臭くなってしまうような、そういう歴史的発展水準が前提とされる。従って、そのためには、ある特殊な社会階級が生産手段と生産物を取得し、それとともに政治的支配権や、教養の独占権や、精神的指導権を我が物にするということが、余計なことになっているばかりか、経済的にも、政治的にも、知識上でも発展の障害となっているような、そういう生産の高度な発展水準が前提とされるのである。こう云う点が、今や到達されたのである。(中略)

 生産手段の膨張力は、資本主義的生産様式がそれに加えている束縛を爆破する。この束縛から生産手段を解放することは、生産力が不断に、たえず速度を加えつつ発展していくための、従って又生産そのものが実際上無制限に上昇していくための、唯一の前提条件なのである。それだけではない。社会が生産手段を取得すれば、生産に対する現存の人為的な障害が取り除かれるばかりでなく、現在では生産の不可避的な随伴物となっていて恐慌の際に頂点に達する、あの生産力と生産物との直接の浪費や破壊もなくなる。

 さらに、そうなれば、今日の支配階級やその政治的代表者の愚かな奢侈的浪費がなくなるので、大量の生産手段と生産物とが全社会のために利用できるようになる。社会の全員に対して、物質的に完全に満ちたりて日増しに豊かになっていく生活というだけでなく、さらに彼等の肉体的及び精神的素質が完全に自由に伸ばされ発揮されるように保障する生活を社会的生産によって確保する可能性、そういう可能性が今始めて存在するようになったのである。然り、この可能性は現に存在している


 以上、マルクス・エンゲルスの協働は、社会の矛盾構造を分析し、そこに階級闘争を見出し、そこから得られる階級的位置関係による客観的分析として、資本主義もまた歴史的な産物であり永遠に続くものではなく、その没落は不可避であることを明解に示すと同時に、さし迫るこのたびの革命はプロレタリアートの事業であり、プロレタリアートの解放は彼ら自身によって担われなければならないと指針させた。概要
「労働者階級こそが時代への変革主体となるべき歴史的使命を持っており、真に革命的な階級であり、資本の支配を打倒し、社会主義社会を建設する本当の担い手である」とみなした。かくて、「ブルジョアジーはなによりもまず自分自身の墓堀人を生産する」が「共産党宣言」の有名なテーゼとなった。「共産党宣言」は、プロレタリアートが歴史においてどのような役割を果たすべきかをさし示していたことに不朽の価値がある。

 更に、プロレタリアートの自己解放闘争は、社会のあらゆる搾取・抑圧をなくし、階級そのものを廃絶していく闘いであると云う観点からも聖戦を呼びかけ、プロレタリアートにその課題を課していた。この呼びかけは、現実に根拠をもたない空論では決してなかった。「共産党宣言」が発刊された1848年のヨーロッパ各国での政治情勢は、イギリスでは史上初のプロレタリアートの大衆的政治運動といわれるチャーティズム運動が1830年代から闘われ続けており、フランス、ドイツにおいても近代プロレタリアートがめざましい成長をみせ始めていた。

 更に云う。「共産主義者は,自分の見解や意図をかくすことを恥とする。共産主義者は、かれらの目的は既存の全社会秩序を暴力でくつがえすことによってはじめて達成できるということを、公然と宣言する。支配階級を共産主義革命のまえにふるえあがらせよう!プロレタリアがこの革命のなかで失うものはただ鉄鎖だけである。かれらの得るものは全世界である」(『共産党宣言』)。

 マルクスによって打ち立てられたこのような歴史観を唯物史観と云う。唯物史観とは、史上未曾有の歴史観・世界観であり、自然科学の手法で社会を科学した先駆けの地位を獲得している。このような史観を創出したマルクス・エンゲルス協働の成果は、以降においても未だ生み出されておらず、むしろこの史観に拠ってこそ初めて勝利的に貫徹されたという革命事例に事欠かない。もっとも、革命後の社会建設が同じように成功したという例も未だ無いことは付記しておかねばならないであろうが。

 マルクスは1851年から52年にかけて執筆した「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」の中で次のようにも述べている。
「歴史をみればわかるとおり、革命にはいろいろあるが、その多くは短命である。しかしプロレタリア革命は最後の革命であり、プロレタリアートは最後の階級であり、最後の勝利者である。故にこの革命は、どんな勝利の時代、平和な時代にも有頂天になることなく、むしろ中途で立ち止まり、勝利と敗北から深く学び、時には徹底的に自己を破壊し、ぶち壊し、始めからやり直す。ときには迷い、尻込みをし、動揺する。しかし歴史が解決する。歴史がプロレタリア革命を要求し、プロレタリアに決断を求め、プロレタリアはこれにこたえて最終革命に向かって決断する」


 唯物史観とはいかなるものであるのかを見てきたが、その現代的評価をせねばならない頃でもある。その後の歴史の歩みは、マルクスの予見通りには進行しなかった。最も早期に期待されていた先進国において実現せず、西欧的環では最も遠い辺地に過ぎなかったロシアにおいて実現したという皮肉を見せている。その後東欧革命、中国を筆頭とするアジア革命その他数国において革命が成就されたが、いわばいずれも「後進国地域における民族独立型革命」であったことに特徴がある。仮にこれを「先行社会主義実験国家」と命名する。

 「先行社会主義実験国家」の建国後の社会主義革命は、ほぼ共通して失政に帰している。仮に、第二次世界大戦後の経済的発展を指標にすれば、資本主義諸国の発展スピードに悉く遅れを取り、政治体制的に見てもむしろより硬直化した統制社会をつくりあげている。2002年初頭現在、「先行社会主義実験国家」の多くの国の自称共産主義政権が崩壊するという憂き目を見ている。

 他方、資本主義の発展は、多くの矛盾を内包しつつもはるかに変貌を遂げ、今なお変貌しつつある。その後の歴史の語るところは、マルクスの予見にも関わらず、資本制社会のしたたかさ、延命力である。最新の資本主義の動きは次のように概されている。「現代の大規模化した資本の運動は、過去のそれを何倍も上回る破壊力をもっている。過剰生産恐慌は一定制御されつつ、今や一国の範囲をこえて世界的な規模で発生するようになっている。今日的課題としては、国境を越えた膨大な金融資本が、実態経済を必ずしも反映しない姿態でマネーゲームと呼ばれる投機経済を加熱させ、各国で通貨や株価の乱高下を引き起こしている。独占資本が成長を続ける一方で、貧困が世界化し、貧富の格差は異常なまでに拡大し続けている。そして新たに人類の生存の危機とも云える国際環境破壊問題があちこちで発生している。先進国後進国を問わず巨額の累積債務問題が発生しており、失業問題も世界的規模で広がりつつある。帝国主義諸国家による世界のあちこちでの軍事介入や核戦争の危機・・・・。これらはすべて今日の資本主義がつくりだしたものである」。

 この両局面を踏まえて、唯物史観の現代的再考が迫られていると云えるであろう。マルクスのこの予見は当たらなかったのだろうか。資本制社会が死の苦悶をより複雑にしつつのた打ち回っているだけなのか。否、マルクスの予見そのものがイデオロギー過剰であったのか。未だ論争に決着がついていない。(以下略)




(私論.私見)