補足(17)―4117 不破理論解析考(七)最新市場経済論論
 2002.9月不破ら一行が中国に招かれ、不破はこの時の会談、講演で次のような「市場経済論」を展開している。これを見ておくことにする。


【2002.9.22日赤旗、「北京の五日間(6)中央委員会議長 不破哲三 社会科学院での学術講演(上)」抜粋】

 レーニンの「新経済政策」を研究して

 私の演題は「レーニンと市場経済」である。この問題は、実は、一九九八年に雑誌『経済』に連載を開始した「レーニンと『資本論』」の研究のなかで、深い興味をもって追跡した問題の一つだった。レーニンが、その活動の最後の時期に、「新経済政策(ネップ)」を展開するなかで市場経済と社会主義の問題に正面から取り組んだことは、以前からよく知っていたが、その理論と実践の足跡をあらためて追ってみると、ことの経過は、そんなに単純なものではないことが分かった。

 明らかになったのは、次のような点だった。

十月革命後の早い時期から、レーニンが、市場経済を否定する立場で、社会主義建設を構想し、「戦時共産主義」の時期にそれを極端なところにまで発展させたこと。
干渉と反革命との戦争に勝利したあとも、この構想を捨てなかったが、農民との矛盾が激化し、一九二一年三月、いわゆる「新経済政策」への転換を余儀なくされたこと。
それでも、レーニンは、市場経済を認めることだけは、なんとかして避けようとし、市場経済抜きで農民との矛盾を解決すべく懸命の模索を試みたこと。
痛苦に満ちた模索の結論として、レーニンが市場経済の容認に踏み切ったのは、一九二一年十月だったこと。
踏み切って以後は、レーニンは、この問題の本格的な研究に取り組み、農民との関係の改善という部分的な視野にとどまらず、その政策を「市場経済を通じて社会主義へ」という基本路線とそれを裏付ける政策体系に発展させたこと。

 レーニンの時代と現代の中国には、大きな共通点があった

 研究をすすめるうちに、レーニンのこの転換は、六〇年代から九〇年代にかけての中国の経済路線の動きと、歴史を越えた共通点があることも分かってきた。

 毛沢東時代、「文革」の指導方針の中心に位置づけられた「資本主義の道を歩む実権派との闘争」という方針は、「戦時共産主義」の時代の市場経済否定論にその原型があった。

 また、トウ小平(しょうへい)時代に始まった市場経済の導入は、レーニンが「新経済政策」に転換した過程とたいへんよく似ている。歴史を見ると、同じ市場経済の導入でも、ベトナムの「ドイモイ(刷新)」の場合には、レーニンを研究しながら取り組んだ形跡が見られるが、中国の場合には、実践の必要にせまられて一歩一歩市場経済への取り組みを進めた、という色合いが強い。

 一九二〇年代のロシアと、一九八〇年代の中国が、自国の経済の現実と切り結びながら、事実の圧力におされて、同じ道に足を踏み出したということは、かえって、問題の共通性を浮き彫りにするものとなっている。

 そういう点で、市場経済へのレーニンの取り組みを系統だった形で紹介することで、いまその課題に取り組んでいる中国の人たちに、何らかの示唆をくみとってもらえるかもしれない。私がこの演題を選んだ気持ちは、ほぼそういう点にあった。(つづく)

【2002.9.23日赤旗、「北京の五日間(7)中央委員会議長 不破哲三 社会科学院での学術講演(下)」】

 講演の前半は、レーニンの取り組みの経過的な説明、後半は、理論的な問題点のいくつかの解明にあてたが、みなの表情は真剣である。

 市場経済の二面性に関連して

 市場経済というものは、資本主義への道にも、社会主義への道にもなりうるという、二面性をもっている。だから、現在の中国を見て、「市場経済が栄えているから資本主義だ」などと言うのは、この二面性を知らない皮相の議論である。しかし、社会主義をめざす政権のもとにあるからといって、市場経済が社会主義に結びつくことが自動的に保障されているわけではない。

 後半ではまずこの問題を取り上げ、「市場経済を社会主義への道とするには、何が必要か」――この点をめぐるレーニンの研究を紹介した。レーニンが、国のリーダーとして、実際に市場経済に取り組めたのは、一年半にも満たない短い期間だったが、彼が残したこの時期の文章には、大胆でち密な、また展望のある考察が満たされている。おそらく中国での「社会主義市場経済」の理論と実践でも、時とともに、この分野の位置づけが重要になってくることが、予想される。

 理論と笑いは世界に共通する

 つづく問題としては、社会が社会主義に到達した時、市場経済はどうなるのか――将来の問題ではあるが、社会の未来を見通すうえでは、いまでも大事な問題を取り上げた。

 労働の生産性や企業の生産の成績をはかるのに、市場経済に代わるモノサシがあるか、これは、実は、旧ソ連がスターリン時代以後、六十年の時間をかけても解きえなかった難問である。ソ連では、製品の重さをモノサシにした時期が、かなり長くあった。生産のノルマは達成されるが、できた製品は、家庭用のシャンデリアであれ、工業用の機械であれ、重くて使いものにならない。フルシチョフが書記長だった時代に、党の中央委員会総会で、「こんな状態でいいのか」と怒りの声をあげた報告が、いくつも記録されている。

 しかし、その後も事態はあまり改善されなかったようで、七〇年代に、私たちが経済視察団をベトナムに送った時、ソ連から送られた田植え機がその重さのため田んぼにズブズブ沈む光景をみて、あきれたことがある。

 党本部で開催している「代々木『資本論』ゼミナール」の商品流通論の講義のさいに、この話を紹介したら、満場爆笑だった。中国でも反応はまったく同じ、くりかえしの笑いから爆笑となった。理論も笑いも、国際的な共通性をもつことの実証である。






(私論.私見)