四元義隆(よつもと・よしたか)

 2004.6.28日、戦後戦後にわたる政界の黒幕的な存在として知られている四元義隆(よつもと・よしたか)氏が老衰のため逝去した(享年96歳)。この四元氏の史的意義はどのあたりにあるのだろうか。田中清玄同様に山本玄峰老師に師事していたようであるが、田中清玄に比べてどうだろう。れんだいこには、少々俗物のように思える。清玄は何といったって元日共委員長としてしゃかりきに奮闘した時期がある。当然マルクス主義的社会観、世界観を経由して濾過している。四元氏に感じる物足りなさは、この観点の無さに拠るのでは無かろうか。

 人間的な器の大きさではかなりのものがあったのかも知れない。しかし、どうみ時局に背を向けているようで迎合しているような臭いが付きまとっているように思えてならない。それはどこで分かるか。れんだいこの歴史リトマス試験紙「角栄札」に対する判じ方で分かる。四元氏はどうも角栄を毛嫌いしている。その点、清玄は偉い。角栄の不世出な異能ぶりを的確につかまえている。どうやらその辺りに差があるように思えてしまう。

 それはそれとして四元氏も考察しておく。歴史の散歩道
「四元義隆『戦後五十年の生き証人』が語る 田原総一朗 (1996.4月、中央公論)四元義隆 「首相は引き際を考え謙虚に臨め「時」誤れば大混乱に  朝日新聞 記事その他を参照する。

 2004.8.14日 れんだいこ拝

目次

四元義隆の履歴(プロフィール)
血盟団事件との関わり
歴代首相との交わりの様子
四元義隆の言行録
四元義隆の人物評
インターネットサイト
情報ストック 参考文献




(私論.私見)


【四元義隆(よつもと・よしたか)氏の履歴(プロフィール)】
 四元氏の履歴は次の通り。
 190(明治41)年、鹿児島県生まれ。第七高等学校卒。
 1928(昭和3).4月、東京帝大法科(現東京大法学部)入学(中退することになる)。四元義隆は東大法学部時代、法学博士・上杉慎吉(うえすぎけんきち)の主宰する国家主義団体・七生社の同人となった。上杉慎吉の教え子には他に岸信介がいる。

 1933(昭和5)年、上杉の死後、安岡正篤(やすおかまさひろ)が経営する金鶏学院に入り、その指導を受けた。だが、ロンドン条約反対運動に従事しているとき、四元は安岡に不満を抱く。この時、日蓮宗の僧籍を持つ井上日召と知り合い、日召の思想信念に心服し血盟団の同志となる。

 こうして在学中から右翼国粋主義思想を強め、井上日召(いのうえにっしょう)に傾倒する。井上は、国家革新のため一人一殺を唱えていた。遂に政財界要人暗殺計画にまで至った。

 1932(昭和7).2.9日、血盟団の団員・小沼正が井上準之助元蔵相を暗殺。3.5日、血盟団の団員・菱沼五郎が団琢磨(だんたくま)三井合名理事長を相次いでテロり暗殺する。更に、牧野伸顕内大臣を暗殺する予定であった。3.11日、首謀者であった井上日召が自首し、血盟団は全員が検挙される。

 四元はこの血盟団事件に連座して逮捕された。四元義隆は学生組の中心的人物、参謀格として行動している。「一人一殺主義」を標榜する血盟団において、四元の担当するのは、大久保利通の息子であり内大臣であった牧野伸顕だったが、警戒が厳重であったため、暗殺することはできなかった。四元は同志の連絡統制に当たり、菱沼五郎に拳銃を渡すなど、各自が担当する暗殺計画を進行させた。

 3.28日、血盟団員13名が起訴される。

 1934(昭和9).11.22日、殺人罪で懲役15年の実刑判決を受け服役した。1940年(昭和15年)、他の血盟団員と同じく恩赦で出獄する。
 

 1940(昭和15).年、他の血盟団員と同じく恩赦で出獄。その後、井上日召らと共に近衛陣営の中枢部に参画する。四元は近衛文麿元首相の書生や鈴木貫太郎首相の秘書を務めた。

  1944(昭和19)年、,翼賛壮年団理事となり、1945(昭和20)年からは近衛文麿の秘書や緒方竹虎のブレーンとして活躍する。

 1948(昭和23)年の農場経営を経て1955(昭和30)年から田中清玄の後を継いで三幸建設工業株式会社(東京都中央区)社長に就任。2000年から会長となり、2003.4月に退任した。乱脈経営で破綻(はたん)した旧安全信組の非常勤理事も務めていた。

 戦後も歴代首相の「陰の指南役」となり、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、細川護煕、武村正義との繋がりが認められる。

 特に親しく接したのは中曽根氏であった。在任中「ご意見番」と呼ばれ、一緒に座禅を組むなど精神的支えとなった。中曽根康弘首相は、その在任中、週末になると東京・谷中の全生庵で坐禅を組んだがそれは四元義隆の指示によるものだといわれている。85年8月の靖国神社公式参拝の際のアドバイスでも知られている。

 その後も、政治の舞台裏で活躍し、細川護煕元首相との繋がりが認められる。細川氏の別荘「近衛山荘」(神奈川県湯河原町)の光熱費を三幸建設工業が一時期負担していた間柄であり、1994.4月に辞任表明する2日前、中山素平、平岩外四両氏とともに東京都内のホテルで会い、退陣を進言した、とのことである。細川の突然の政権投げ出しの背景にこういう史実があったとは。

 この人物についての神話・伝説の類は少なからずある。「一匹狼の非利権右翼」といわれている。

 

 「阿修羅政治選挙8」に2005.2.1日付「南京虫」氏の投稿「政界の陰の実力者」四元義隆という男について

 転載元は「行政調査新聞」の「重信房子は四元義隆と会っていた?」

 米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。
 
 さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。
 
 現実には、後藤田が重信と会った形跡はない。後藤田の秘書が会ったとも言われるが真偽は不明。いっぽう四元義隆は「逮捕前に重信房子に会ったか?」とのマスコミの質問に対し否定はしなかった。彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。
 
 山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、 彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

 先の湾岸戦争の折り、邦人解放交渉はすべて重信房子が裏面で行ったものであり、外務省はその一部始終を知っている。恐らく重信は今後、日本とアラブの橋渡しの役を担うことになるだろう。

 http://members.tripod.co.jp/saitatochi/22.html



【四元義隆の言行録】
 「やはりリーダーが間違うと国家全体が間違うということだ。まずトップがよくならなければだめなんだ」。
 「人類の社会にとり最も大切なことは、一人のリーダー出よということである。一人一人では決してない。このような時代においては、大衆は心から、すぐれたリーダーを待望していること間違いない。どんな小さな組織であれ、また巨大な組織であれ、まず一人のリーダーこそ大切である。一人のリーダーは決して独りではない。その独り独りの結集はその全組織を起こす。国家であれ、会社であれ、すぐれたリーダーの結集に依り興り、それ無くば即ち亡ぶ。古語にいう、『天下一人にして興り、一人にして亡ぶ』」。
 概要「大徳寺170世・清巌宗謂(せいがんそうい)和尚の一句『狂人走不狂人走』は僕にとって長い間の公案というべく、又長年の課題であり続けている。歴史を見れば『狂人走不狂人走』の例は数多い。悠久の歴史でいえば短いとも云える狂人に依る暴走は幾多の不幸な狂気の悲惨な痕を残している。しかし人間社会は絶えず復元しながら成長していく。しかし、逆のことも起こる。一人の狂人が走ったから、狂人でない人間まで走った。一人の狂った独裁者のために、日本中が戦争へ突き進んだんだ」。

 「辞め方と辞め時の『方』と『時』は、同じことを意味する。それは総理・総裁が見識と責任をもって自分独りで決断することだ。タイミングを失うと、自民党が大混乱に陥るし、首相の政治家としての成果もいっペんに水泡に帰しかねない。首相のこれからの一瞬、一瞬はこれまでにも増して、真剣勝負になる」。

 「自民党が一番警戒しなきゃならんのは金権に陥ることだ。確かに政治にはカネがかかる。しかし『君子は財を愛す。これを取るに道あり』というじゃないか。不正なカネは手にしてはならん。民意は見るべきものはちゃんと見ている。カネでどうにでもなる国や政治なら、他国からも尊敬されない。民族の誇りもどこかに吹き飛んでしまう」。

 「三百を超える議席を得た機会に、自民党は何を最重要の党是とするべきか、というところまで帰らなければならん。もし憲法を改正したら日本がすぐよくなる、国民生活の豊かさの基礎が固まるというのならそれもいいが、そんな簡単なもんじゃない。下手をすると悪くなるくらいだ」。

 概要「(田原・でも四元さんはもともと民族派、いわば右翼出身でしょう。憲法改正派かと思っていましたが)。いや、僕は右翼じゃないです。あえて言えは、右のさらに右、左のさらに左」。

 


【鈴木評】

 鈴木貫太郎(1867〜1948年、海軍大将。昭和4年に予備役編入後、侍従長兼枢密顧問官・議長として昭和天皇に長く仕える。昭和二十年四月、小磯国昭内閣の後を受けて首相となり、本土決戦を唱える軍部を抑え、二度の御前会議という非常手段で日本を終戦に導いた)を高く評価している。

 とある日の次のようなエピソードを披露している。「
玄峰老師が真先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう』と、意見が一致したんですょ。その帰り、車の中で玄峰老師は、『もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ』と言いましたね」。 

 
「鈴木貫太郎総理は、とにかくずば抜けた総理でした。なぜ、僕がこんなに鈴木さんのことを言うかというと、今の日本を見ていると、戦時中の日本の軍国主義が行くところまで行ったときとそっくりだからなんだ。表面上は違うけれど、日本人全体が盲目状態に陥ったという点で同じなんですね。このままでは日本はどうなるか、という心配は、五十年前よりも奥が深いんじゃないか。そういう国家の危機に際して必要なのは、優れた人による『ワンマンルール』なんですよ。これは吉田茂さんの時代に、アメリカのシュレジンガーという学者が唱えた言葉で非常に流行ったけれども、鈴木さんは吉田さん以上に『ワンマンルール』の人だった」。


【吉田評】

 吉田首相を高く評価している。次のように評している。

 「(田原・吉田さんが首相としていちばん苦労したのはどんな点ですか。) アメリカのことでしょう。アメリカの圧政というか行き過ぎに対抗しつつ、上手に操縦し、日本を再建した。あの人はチャーチルと対等になれる人だ。アメリカ人の気質なんてあの人からみたら小さいですょ。人間の器が違う」。

 「岸内閣末期にパリにいた吉田さんを訪ねたことがあった。一緒に帰るわけにはいかないから、二、三日ずらして帰った。吉田さんをオルリー空港まで見送りに行ったんだが、赤い絨毯の上を歩いてゆく後ろ姿が本当に堂々としていた。背の低いずんぐりした人だが、日本を代表する人だと思ったね。池田勇人や佐藤栄作とは格が違っていた」。


【岸評】
 岸首相に対して距離を保っていた。次のように評している。「(田原 岸信介さんも嫌いだとか。そうだ」。

【池田評】
 池田首相との実懇ぶりを語っている。次のように評している。

 「僕は池田勇人とは仲がよかった。佐藤とも仲がよかったんだが、二人はライバル関係にあった」。

 「(田原・で、池田さんは後継総裁になるわけですが、池田さんが首相になって、日本の政治が大きく変わります。岸さんや鳩山さんは憲法を改正して再軍備しょうと言っていましたが、池田さんからは、憲法改正を言わなくなりました。) それだけ池田が現実派だということですよ。僕も現実派だよ。憲法なんて上手に使えばいいんです。都合の悪いところだけ直せばいい。(田原・でも四元さんはもともと民族派、いわば右翼出身でしょう。憲法改正派かと思っていましたが。) いや、僕は右翼じゃないです。あえて言えは、右のさらに右、左のさらに左。(田原・憲法は改正しないほうがいいと思ってますか。) 今はもう、いじらなくてもいいでしょう」。

【田中評】

 田中首相に対して距離を保っていた。次のように評している。

 「(田原・佐藤さんの後継総裁の田中角栄さんですが、たいへん力のあった政治家だと思いますが、四元さんはだめだそうですね。)
 彼も私心の塊だからね」。

 「田原 どんな印象でした?) 何もないな。少なくとも魅力は感じなかった。あるとき鹿児島で若い経済人たちと議論したことがあったんだが、僕が『あんな奴はすぐ刑務所行きだ』と言ったんです。2〜3年たって、僕の言うとおりになった〔笑〕」。


【大平評】

【鈴木評】

【中曽根評】

 中曽根首相に対して次のように評している。四元氏は「中曽根のご意見番」的地位にあった。

「『戦後五十年の生き証人』が語る 中央公論社」より転載。
田原 中曽根康弘さんも四元さんにいろいろ相談をされたようですが、世間では中曽根さんは世渡りのうまい風見鶏と言われています。本当はどうなんですか。
四元 難しい質問だな…。
田原 鳩山さんや河野さん、岸さんよりはいいと思っているのですか。
四元 そういいとは思っていません。能力はある。現に六年間、内閣が続いたんだから。それは後藤田正晴伊東正義が支えたからなんだが、あの二人を使ったのは、やはり中曽根だからだよ。
田原 具体的に、中曽根さんにどんな忠告や進言をされました?
四元 しょっちゅうした。「私心をなくせ」ということをね。
田原 中曽根さんが全生庵で坐禅を組むようになったきっかけは、四元さんの進言だそうですね。
四元 そう、僕が坐らせた。彼が自民党総裁に決まったその日の夜、あそこで十二時まで三時間くらい坐った。僕と稲葉修、それから僕と一緒に服役していた古内栄司という男と四人で。初めての人が、三時問も坐るということは大変なことですよ。で、終わった後、お茶を飲んでいろんな話をした。
田原 どんな話をされましたか。
四元 忘れたな。坐った後だから生臭い話はしなかったよ。
田原 ところで四元さんは、中曽根さんの後継者は安倍晋太郎さんがいいと考えていたとか。
四元 彼は惜しいことをしましたね。彼が生きていたら、今の政治はずいぶん違ったものになっていたと思います。
田原 具体的に、中曽根さんにどんな忠告や進言をされました?

四元 しょっちゅうした。「私心をなくせ」ということをね。

田原 中曽根さんが全生庵で坐禅を組むようになったきっかけは、四元さんの進言だそうですね。

四元 そう、僕が坐らせた。彼が自民党総裁に決まったその日の夜、あそこで十二時まで三時間くらい坐った。僕と稲葉修、それから僕と一緒に服役していた古内栄司という男と四人で。初めての人が、三時問も坐るということは大変なことですよ。で、終わった後、お茶を飲んでいろんな話をした。

 「何をさておいても早速にやらなけれはならないことが山ほどある。中曽根政権のなかで民意の洗礼をうけた国鉄改革、税制改革、経済構造調整などの大公約だ。政治生命をかけてこれらをやり遂げ、あるいは軌道に乗せる仕事ができるのは、中曽根政権をおいてない。それがいまの政界の正直な実情だよ」





(私論.私見)