内田良平

 内田良平は黒竜会総帥として知られる。同時代の宮崎滔天、頭山満と比較して云える事は、宮崎滔天は色濃く、頭山満が幾分か持ち合わせていた自由民権運動の残滓を微塵も感じさせない国士ぶりであろう。してみれば、同じような右翼運動指導者としてみなされていたこの三者間にも微妙な違いを見て取ることができる。れんだいこには、同じ右翼といっても、宮崎滔天から頭山満へ、頭山から内田良平へ次第に更に右へ右へと傾いてきているように思える。

 三浦重周氏によって次のように評されている。これにコメント付けておく。「維新日本とほぼ同時に呱々の声を上げた内田良平は朝鮮独立から支那 事変まで、近代日本のこうした有為転変に悉く主体的に関り、大経綸を 抱いて渾身込めて格闘し歴史を動かしながら世を去っていった」と評しいるが、問題は、主体的な関り方のその内実にこそあろう。

 「正に草莽の身でありながら国を背負って立つ、『国士』と言わざるを得ない。その生涯を貫いた大道念は『第二維新』であり、一貫した旗幟は 『大日本主義』であった」と云うが、この記述だけでは解説に過ぎない。内田良平の「第二維新」、「大日本主義」に向けた国士ぶりが日本の国家百年の計に照らしたときいか様に国士足りえていたのか、ということが問題にされるべきであろう。

 2004.8.24日 れんだいこ拝


目次

内田良平の履歴(プロフィール)
内田良平の思想遍歴
内田良平の言行録
黒竜会史
李容九の朝鮮解放運動と内田良平の関わり
インターネットサイト
参考文献
情報ストック




(私論.私見) 

【内田良平の履歴(プロフィール)】
 明治・大正・昭和期の右翼運動指導者。
 1894(明治27)年、東学党応援のため14名からなる「天佑侠」を組織し、ダイナマイトを持って朝鮮に渡る。この時の「東学党」は反西洋、反日本という色彩が強かったが、彼らに協力する。この辺り内田イデオロギーの微妙さがある。後に内田良平はロシア革命も支援をしなければならないというような事も言っているとのことである。

 結局、東学党は李朝の手に捕らえられ首謀者の崔時享は斬首、また内田良平はダイナマイト強奪犯として日本の官憲からも追われる身となり、各地を転々として、日本に戻ってくる。

 日清戦争後に李朝は(明治30年)東学党の残党狩りを行い、李容九も李朝官憲から追われる。李容九は左足を(日清戦争時に日本軍から銃撃)負傷したまま老いた母と妻子を連れて逃亡生活を続けるが、翌年(明治31年)李朝官憲に捕らえられ獄中へ。李容九は左足を拷問により砕かれるが完全黙秘を通す。


 三国干渉後対露報復のためシベリア横断。1898年、孫文に会い援助を約束。

 1901(明治34).2.3日、内田良平が日清戦争後の三国干渉に憤激し黒龍会を結成し、自ら主幹となる。黒龍会の名は黒龍江(アムール川)からとったものであったが、英訳でBlack Dragon Society と訳され恐れられることになる。

 黒龍会は、玄洋社直系の右翼団体の一つとして、大アジア主義と天皇主義を標榜しつつ大陸進出、対外強硬論を煽っていくことになる。他に、伊東知也、吉倉汪聖ら大陸浪人多数が加わっている。

 日露戦争、韓国併合、辛亥革命援助などの実際局面では裏面で活躍した。それは、日本の対外侵略をときには触発・推進し、あるいは側面から支える結果となった。当初はアジアからのロシア駆逐という大アジア主義を唱え、大陸での対露活動を企画した。フィリピン独立運動や中国革命も援助していくことになる。

 一方,第一次世界大戦末期からの民主主義運動、労農運動、社会主義運動の発展により天皇制と日本帝国主義が動揺すると、国権論の側に著しく傾斜し、反民主主義・反労農運動の立場を明確にしていった。 

 1901年、崔の死後、東学党の実質的指導者である孫秉煕(そんへいき)が、李容九を伴い渡日する。東学党の再建に向けて活動を開始する。

 1903年、対露開戦を主張。

 1905年、日韓合邦運動を推進。朝鮮併合後、有隣会を組織し、中国問題にとりくむ。

 1918(大正7)年、米騒動を鎮圧するため浪人会とともに「大阪朝日新聞」膺懲運動を起こし、吉野作造(8-1-13-18)と公開論争をして敗北。

 その後、宮内某重大事件・ロシア飢餓救済運動・排日移民法反対などで活躍。

 1925年、加藤高明首相暗殺未遂事件で入獄。

 1931(昭和6)年、内田が大日本生産党を結成し総裁、満蒙独立運動を推進した。強硬な大陸侵略主義ならびに天皇主義的国内改造を唱えた。



李容九の朝鮮解放運動と内田良平の関わり
 「李容九と内田良平
 親日的な一進会は、韓国が日本の保護国になったからといって統監府から優遇されはしなかった。
 李朝末期の大きな悩みの一つは、産業の荒廃と農村の疲弊であった。農工商の実業を蔑視する両班や宮廷官吏たちの政府論より、殖産興と農村振興が急務だったのである。李容九はそれを目指した。一進会が中心となり、郡を単位とし、庶民の力によって産業を起こして民力を培養し、地方政治の革新、行政の円滑をはかる、つまり、国民の自治制による殖産興業の運動を進めたのである。それは、両班や宮廷官吏らの封建的特権階級の存在を否定するものであった。ところが、統監府が交渉相手としたのは行政上やはり彼ら旧体制下の特権階級たちであった。彼らは、自分たちの地位を脅かす一進会の活動に恐怖感を抱き、一進会員は全て無頼の徒であり、さも治安撹乱の元凶であるかの如く統監府に吹聴していたのである。

 一進会が日露戦争に実績があったとはいえ、一進会員とは直接の交渉がなく支配者階級のみを相手としていた統監府に対しては、かかる一進会への悪宣伝は十分に効果があった。この一進会への誤解を解くべく、統監府内にあって奔走したのが内田良平であった。一進会の計画の中には、殖産興業の他に、更に一段と飛躍的なものの遂行が含まれていた。

 それは、アジア連邦結成の第一歩として日韓両国を合邦せしめ、根本的な内政改革を断行すると同時に、李容九が自ら一進会員五十万乃至百万を率いて満州に移住し、一般官民からも参加者を求めて殖産衣食の道を与え、早晩起こるであろう中国革命の機に乗じて満州独立の旗をひるがえし、日韓満蒙の連盟国家を建設し、ヨーロッパ、とりわけロシアのアジア侵略に対抗し、東洋平和の根幹をなそうという遠大なものであった。

 ロシアのアジア侵略を防ぐには、満州を固める以外に道はなかった。しかし、中国が革命を経て兵備を充実し、これを成し遂げるまでには時間がかかりすぎ、また中国がそれを単独で成し遂げる保障は当時全くなかった。これは孫文自身が認めるところであり、満州を日本に托そうとしたのも、大アジア主義の一環と言えよぅ。李容九の構想は、それを更に多くのアジア人によって実現しようとするものであり、まさしく大アジア主義の具現である。

 それを、韓国内で誤解と偏見に苦しみながら人々を啓蒙し、且つ果敢に行っていったのが、李容九の一進会であり、日本国内で猛然とその世論の高まりを指導していったのが、内田良平の黒龍会であった。一進会の日韓合邦への実行計画は、「其の最も安全なる方法は、一進会内閣を組織し、閣議において決定実行すること。若し一進会内閣を組織すること能わざる場合は、一進会員を以て全鮮十三道の地方長官となし、地方官会議に於いて発議せしむること。地方官も独占する能わざる時は、全国民の与論として請願書を提出し、竹槍蓆旗に訴えても実現せしむること」(内田良平著「日本の亜細亜」より) であった。また、この運動を進めると同時に、内田と計って統監府への説得工作も粘り強く進めていった。

 そのような苦難を踏みながら、一進会の活動は徐々に効を奏し、一進会以外は全くの保守一色であったと言っていい程の韓国世論の中にも、ようやく大アジア主義の理想がささやかれるようになった。

 また、内田良平と黒龍会員の奔走により、当初 「日韓一家」 の理念が全くなかった統監府部内に於いても、大アジア主義を根幹とした 「日韓合邦」 が具体論として聞かれるまでに至った。

 桂首相自ら、李容九の「日韓満蒙連盟国家論」に賛意を表わし、一進会員の満州移住に対して一千万円の援助も辞さない旨を誓約する程となったのである。(参考資料 大日本生産党 李容九先生没後九十周年記念出版原稿より)


 日韓併合後の内田良平(2)(西 尾 陽 太 郎)

 大正八年三月の万歳事件は勃発した。彼は直ちに「朝鮮暴動に関する愚見」(大正八年四月)を書き、政界要人に配布した。文中、彼ほ「吾人ハ…今回ノ如キ暴動ガ何時カハ必ズ爆発スルコトヲ疾クヨリ憂ヒツツアリシヲ以テ」とのべ、大正三年提出の建白が顧られなかったことを遺憾とし、更に今回事件首謀者中、反日主義者孫秉煕と共に旧一進会会長李容九の股紘権秉悳の存在に注目して、親日派として辛苦の中に日韓合邦に尽力した権が、今や反日暴動の首魁に変じた理由を、政府の一進会に対する非情なる強制的解散と、李容九の憤死、会員の生活難等、「我政府ガ従来朝鮮人二対シテ執リ来レル薄恩ニシテ苛酷ナル行為」の結果と力説、直言以って非議せざるを得ずという。

 「元来政府ノ対韓人策ハ、我ガ懐ニ入ル者ニ酷ニシテ、却ッテ路傍ノ人否ナ反対ノ…者ニ寛ナルノ癖」あり、「併合後、総督府ハ親日党ニ対シテハ…薄恩ヲ加へ、排日党ヲシテ親日党 ヲ征服セシムルノ失態ヲ現出スルニ至レリ。」そして今後の措置として、「漸進穏和主義者」の庇護操縦による「自治政策」の推進の他なしと主張する。

 しかし彼自身はこれを以って能事足れりとはしていない。同年九月には「鮮人授産 協会設立」を試みており、その趣意書が現存する。彼は日韓併合当時、一進会の 存続を希望し、その功に報ゆるためにも、その間島移住策を政府に希望して容れ られずに終っていた。八年の万歳事件の原因には複雑なるものがあるとしても、 内田良平のいう政府の武断抑圧政策の他に、日本の資本主義的収奪による 韓国民の生活難もその一つなることは明白であって、この点から急速計画されたの が、この授産協会であったろう。

 その趣旨は「朝鮮ニ対シ一視同仁、 彼我同化ノ政策ヲ執ルベキコトハ、先帝併合ノ大詔並二今上陛下最近ノ御詔勅二 炳焉‥帝国万代不易ノ大方針」と、皇の名による同化政策として、韓人を北海道・ 樺太等に移住定着させようというものである。

 「之ヲ優遇シ、之レニ便宜ヲ与へ、 男子ハ出テ、採掘ニ従事セシメ、婦女ハ家二在ッテ農業ニ従事セシメ、以テ老ヲ扶ケ 幼ヲ養フコトヲ得シメバ、鮮人二在ッテハ流亡的移住…ノ惨事ヲ免レ…方ニ始メ テ北海道・樺太鉱業界ノ基礎確立シテ…一挙両得」という。国権論者内田良平の 自国の利益、他国の幸福」という曽っての論理は、ここにも顔をのぞかせている。

 併合後内地人の韓土移住者数当時三十五万、そのための地価及び物価の騰貴は、韓民たちの満州・シベリアへの流亡的移民をひきおこし、その数二百万と彼はいう。

 そして彼等移民の「悲惨言語ニ絶スル…ニ拘ラズ、我官憲ハ之二対シ末ダ何等「日本人トシテノ保護ヲ加ヘタルヲ聞カズ」、「既二鮮人ヲ統治スルト称スル以上、其ノ任ニ当ルモノハ、タダ指導按排ノ宜シキヲ得サルコトヲ憂フベキノミ‥・誠ニ同情二価スルモノナキニ非ザルオヤ、又タ況ンヤ救済上適当ノ方法ヲ講ズルコトハ、 深仁ナル御詔勅ノ大精神ヨリ考フルモ刻下ノ最大急務タルニ於テオヤ」と、厚顔無恥、 「馬耳東風」の政府官僚に対して、民間個人の無力をなげきつつも彼は天皇の名によってこれを 叱陀しているのである。


内田良平の言行録

志士

生きては官に養はれ 死しては神と祀らるる

幸ある人多き世に こは何事ぞ憂国の

志士てふものは国のため

尽くしつくして草莽の 伏屋の軒と朽ちはつる

弔ふものは泣く蟲の 声より外に亡き後も

不滅の精神 皇国守る

(内田良平翁)