田中清玄の履歴(プロフィール)

 (最新見直し2008.1.22日)

 明治39年生まれ。会津藩城代家老家の家系で、出身は北海道函館(亀田郡七飯町)。幼少の頃父親(逓信省の役人)を失い、母親の手で育てられる。次男は田中愛治。

 函館中学から弘前高校へ進み、在学中、軍事教練反対闘争、東北の農民運動などを指導。休暇を利用して小樽港に潜り込み、沖中仕6000名の大ストを組織している。東大入学と共に入党。新人会を拠点に激しいオルグ活動を展開し、学内の右翼グループ七生社と対立、新人会の自衛隊長として睨み合う。

 東京地方委員長、地区オルグ責任者、党中央委員長歴任。この時代が「武装共産党」と云われている。

 和歌山へ本部を移した昭和5.2月特高の急襲を受けるも、拳銃の乱射戦の末逃走し、同年7月東京祖師谷大蔵のアジトに潜伏中特高・中川茂夫刑事に検挙される。この時24歳。母が自刃。

 1933(昭和8)年同志の小宮山ひでと獄中結婚。

 1941(昭和16)年4月、逮捕後11年に及ぶ獄中生活中に転向し刑務所から仮出所。身元引受人となった山本玄峰老師に私淑し、三島の禅寺・龍沢寺での修行生活に入る。

 終戦後は、神中組(後の三幸建設工業)、神中造船、沼津酸素工業、三島木材、丸和産業、光祥建設、田中技術開発総合研究所など幾つかの会社を経営。


 戦後活動は主として海外に向かい、「日本でのマスコミの風評とは異なり、彼はこれらの地域では、『トーキョータイガー』と呼ばれた革命家であり、中東から東南アジア諸国の独立のために命をかけた熱血漢だった」、「彼は、戦後日本に温存された守旧勢力と一切の妥協をせず、それに挑戦状をたたきつけ、若き企業家、政治家、学者など、新興勢力を糾合して新しい、強力な日本産業国家の再建に尽力していた」。

 1967〜69年、アブダビのシェイクザイド国王と何度も会見、その後アラブ諸国を十三回にわたり訪問するなど深い親交を築きあげ、中東石油を日本に持ち込む橋渡しを為し、オイル・ショック時の危機を救った。

 その人脈は昭和天皇をはじめ、吉田茂、佐藤栄作、田中角栄、中曾根康弘など戦後日本の骨格造りに重要な役割を演じた歴代首相、池田成彬、松永安左ェ門、土光敏夫らの財界首脳、スハルト、ピブン、ソングラム、アンドレ・マルロー、ハプスブルグ家の当主・オットー・フォン・ハプスグルフなど日本のみならず世界の錚錚たる人物と濃密な付き合いから戦後の怪物と報じられている。

 経済学者のフリードリヒ・A・ハイエクがノーベル賞を授賞した受賞式にはパートナーをつとめている。

 中国のとう小平とも親しかった。

 その世界観と理論観は田中の秘書である杉浦健五に引き継がれている。




(私論.私見)