王子製紙争議に対する介入考

 田中清玄の王子製紙争議に対する関わりの実際を考察してみることにする。日共は、「唐牛問題」の際に、次のような清玄批判をしていた。概要「そして戦後は、労働運動や民主運動の破壊工作に渡り歩く職業的な反共右翼として名前を売っていた。TBSラジオのナレーターも云っていたように、戦後、彼は土建業に従事するようになったが、合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた。戦後の大争議と云われた苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」。この謂いがどれだけ正確なのかここで検証してみたい。

 前述したが、2002.6.15日発刊の「60年安保とブントを読む」の中で、東原吉伸氏が次のように書いている。「独占支配に対抗すると称して工場占拠・労組による経営管理まで行おうとするソ連の第5列、日共の指導する労働争議などを分裂・解体する仕事にも体を張った。泥沼に叩き込まれていた王子製紙苫小牧の180日に及ぶ争議の現地指導を最後まで行い、解決させ、会社蘇生の基礎を固めた」。

 「これ以上は分からない」のだが、インターネット上で「竹田誠著作集」がサイトアップされており、その中に
「王子製紙争議」が所収されている。争議の経緯について詳しいのでこれを参照しつつれんだいこ風に批評してみることにする。付言しておけば、竹田氏が王子製紙争議を本格的に取り上げた意義は高い。資料の豊富さも評価される。但し、考察観点が折衷的で、この争議からどういう教訓を生み出そうとしているのかの視点が弱い。左派の目線では決して無い、そういう気がする。それはともかく、これを元にしてれんだいこが意見申し上げることにする。

 2004.8.8日再編集 れんだいこ拝


【「王子製紙ストライキ」の関わりについて】

 王子製紙争議(1957〜60)は、日鋼室蘭争議(1954年)、三池争議(1960年)とともに「戦後の争議史」を形づくる「山脈の三つの高峰」とされている大争議となった。争議内容から見れば、王子製紙争議の労使双方とも質が高く、経営の有り方をめぐり直接的には側の労務管理をめぐり労資が激しく対立し、結果的にその後の日本的労資関係の経営側優位の基を作った。その意味で、王子製紙争議の意義は高い。労働側から見れば、生産管理闘争に向かう地平からの投降であり、経営側主導による労資協調路線導入のモデルとなった。但し、その経緯で労働側の利益を斟酌させ、まことに日本的名企業モデルづくりに貢献した事になる。

 集中排除による3社分割後の王子製紙史(ただし、分割直後は「財閥の商号使用禁止」により苫小牧製紙と称した)

 1945.12月〜1946.5月、王子製紙18事業所に労働組合結成される。1946.8月、王子労連(企業連)結成。
 1947.5月、行員、職員の身分制廃止。
 1949.8、職務給制度実施。
 1949.8月、財閥解体。集中排除による王子製紙3社分割。王子、十条、本州の3社に分かれ、樺太、満州、朝鮮にある大工場を失った。
 1950年、レッド・パージで苫小牧工場労働者10名(中4名が組合の執行委員)が解雇(形式は依願退職)された。
 1954.4月、本社管理部発足。同年6月、職務給制度廃止。
 1956.10月、苫小牧工場管理部発足。()市村修平和副部長。
 1956.11月、定期大会で、、社会党王子労組党員協議会によりレッド・パージ該当者を復職させるための闘争=レッド・パージ復職闘争が提起された市川年雄代議員が緊急動議として提案し満場一致で可決された。復職闘争は、執行部が提案したものではなく、その頃執行部内では、この闘争に関する意志統一がとれていなかった。

 復職要求に関する団体交渉は、1956年末から1957年初めにかけて行われ、組合は春闘の賃上げ要求と一緒にしてスト権一般投票を行い、3月30日、賛成2876反対922(組合総数4382)でスト権を確立した。交渉の結果、会社が譲歩し、復職は認めないが、会社が資金を与え従業員なみの生活を可能にすることとなった。具体的には、ある者には、会社が自動車を与え社宅内のゴミ集めをさせ、他の者には、資金が与えられ食料品販売に従事させた。

 この頃、全国的にレッド・パージで解雇された者の闘争が広がりつつあったが、そのほとんどが当該本人と企業の間の法廷での争いであり、労働組合が機関決定により復職闘争を進めることはほとんどなかった。このような状況の中で、王子労組が復職闘争において一定の成果をあげたことは、広く注目されることとなった。


 1957年、春闘。国策パルプ経営者は労働協約改訂を申し入れ、これに対して組合は反対した。そして、一部の組合員が脱退し、自信を失った執行部はリコール要求を受け入れて総辞職した。新執行部には「合理化」に協力的な者が選ばれた。この争議を主導したのは、水野成夫国策パルプ社長と南喜一副社長であった。彼らは、戦前の日本共産党の幹部である。国策パルプと王子製紙は、国策パルプの経営難に当って王子が援助する等の協力関係にあり、水野成夫は王子争議で会社側の「参謀」の役割を果たしたと言われている。

 
 1957.9月、中島慶次社長が宥和的対組合政策を清算し、組合の「体質変革」のために強硬な手段を採ることを決定。この頃、組合内部では、支部長選挙で、社会党左派の市川年雄と山内義衛が、現職の戸部卯吉−遠山五十二を追い落とし、1398対1377で破った。破れた戸部卯吉と遠山五十二は、翌年第二組合結成の中心人物となった。
 1957.11月、王子争議開始。年末一時金闘争。組合は支部ごとにストを反復した。
 1958.7.18日から12.9日の無期限ストライキ(145日間)。長期スト化する。
 8.4日、から11日にかけて3事業所に新労(第二組合)結成される。闘争至上主義批判。新労は“パイの理論”に基づく「うんと働いて、うんと獲ろう」のスローガンを掲げ、労働者への分配をふやすためには「うんと働いて」自分達の企業の繁栄を図り“パイ”を大きくしなければならず、「無責任」な「外部団体」すなわち王子従業員以外の者の「扇動」にふりまわされてはならないと訴えた。

 組合脱退者に対する王子労組員の「イヤガラセ」行為は7月18日の無期限スト突入以降頻発した。
 1960.1月、第一組合が争議終結。
 1961.4月、「近代化協定」会社と新労働間で締結。雇用保障。
 同年8月、敢然操業開始。ほぼ同時に大規模な配点、要因削減。

 1962.8月、苫小牧工場人事部、教育訓練課設置。

 王子製紙争議の史的意義は、経営側の反動的労務管理に対する闘いであったのではなく、むしろ「争議は、戦前の労務管理の反省からいかにも戦後的な近代的経営手法が導入されたところから始まる」ところにある。中島社長体制下の経営側の市村、田中、組合出身の浅田コンビがその旗振り役となった。彼らは、「年功序列」的給与制度にメスを入れ、個人の能力、努力を拠り所にして、昇給、昇進していくような、自立した個人こそ、「生産性向上」の要だと考え、責任の明確化を前提としてする賃金制度としての職務給制度の必要性を説き、導入を図った。それは、管理会計、IEというアメリカ的手法に学びながらも企業共同体意識の強化を目指すといういわば最新式の労務管理手法の革新的試みであった。が、労働組合はこれに古典的に反発した。


 この過程で戦前の共産党委員長田中清玄が登場してくる事になる。経営側は、戦前の共産党委員長田中清玄を使って王子労組内に「右派勢力」を育成し、新労(事業所別組織である各工場の新労とそれによって構成される企業連である連合会)を結成させる。「右派勢力」の背後には、波多野鼎元農林大臣(片山内閣)主宰の労働文化研究所(社会党右派系、三池争議にも深く関与)、日本能率協会、田中清玄、佐野博、鍋山貞親ら元共産党員等数多くの知恵袋がいた。

 

 1961年4月、経営側と新労間で、「従業員としての地位の保障」を前提として「近代化」=能率増進を進めることを明文化した「近代化協定」を締結した。その内容は、労資双方が旧来の親方日の丸主義的労務慣行を尊重しつつ、近代合理主義的経営に向けて妥当と見られる改革につき相協力する為の種々の取り決め。

   

 道炭労(日本炭鉱労働組合北海道地方本部)と紙パ労連を中心とする「総評系共闘体制」が組織され、王子労組の闘いを支援した。王子争議は50年代総評の代表的争議戦術であった「家族ぐるみ、町ぐるみ」闘争の典型例となった。

 王子争議における王子労組側の「暴力」をも理由の一つとして岸内閣によって提案された警察官職務執行法の改正に反対する闘いである「警職法闘争」の高揚も彼らを勇気づけた。60年安保闘争が三池闘争を包んだように、「警職法闘争」は王子労働者の闘いを包みこんだのである。

 会社は、新労に対して、就労=生産再開を要請し、1958年8月17日から、新労は「就労デモ」を始めた。王子労組側はピケを張り工場内への入構を阻止し続けたが、「就労デモ」は、生産再開の意志を強く社会にアピールし、それが王子労組によって実力で阻止されているために、仮処分執行が必要であることを示すために行われたのである。会社は、既に8月13日に、札幌地裁に対し、工場等会社施設内立入禁止、出入妨害排除仮処分命令の申請を行っていた。

 

 札幌地裁の入出構妨害排除仮処分の決定は、9月6日午後3時30分に下された。そして、同日、警視庁公安二課は、王子労組中央執行委員会の吉住秀雄委員長、田原賢蔵書記長、服部治男執行委員、東京支部役員の中でただ一人脱退しなかった安原昭三東京支部書記長等の逮捕状をとり、9月7日、8日の2日間で、これら5名を逮捕した。その容疑は、約1ヶ月も前の8月13日、15日、本社で新労組員に対して彼らが「暴行」(14) をはたらいたというもので、しかも、5名はその後「なんら起訴されることもなく」釈放されたのであった。これは、闘争指導部を一括逮捕することによって、重大な段階を迎えた王子労組の闘争体制を麻痺させ、仮処分執行を円滑化することを意図したものであったと考えられる。こうして、9月15日の苫小牧工場の新労の強行入構、9月14日の春日井工場のそれは、主だった組合役員逮捕の内に実行された。

 札幌地裁の仮処分決定が近日に迫ったことを察知し、9月1日の現地共闘会議は、連日千名の炭労を中心とする支援オルグの動員を決定し、断固として仮処分執行を実力阻止する態勢を強化した。そして、9月6日仮処分決定が下りてからも、新労の就労を実力によって阻止し続けた。「会社にとって操業の自由はある。しかし、会社には第二組合をつくったり、第二組合を育成したりする自由は不当労働行為として禁じられている。」「第二組合は会社の違法行為によって組織されたものである。そのような脱退者集団をつかった操業は許されない。その結果、会社の操業の自由は大きく制約されているのである」。 これが、王子労組側の主張であった。

 9月15日午前5時15分、新労の先発隊55名はバス2台に分乗し、武装警官約千名に守られて苫小牧工場正門に向い、約百名のピケ隊を排除し、正門付近の柵を乗り越えて入構した。「警官のふり廻す棍棒がビュンビュンと音をたて」、王子労組側は何の抵抗もできなかった。その後、午前6時、会社はロックアウトを宣言した。王子労組側は直ちに、2千名を動員し、ロックアウト宣言を無視して、800名が工場構内になだれこみデモ行進した。午前7時頃、新労の第2隊514名が、警官隊1500名を先頭にして正門に向い、7時10分、正門前50mでピケ隊に阻止されたが、執行吏、警察側と全道労協川上教宣部長の話し合いが続けられている内に、7時50分突然コースを変更し、東北門からピケの手薄間隙を突いて強行入構した。これに気づいた工場構内の王子労組側が入構を阻止しようとして新労側部隊に襲いかかり、新労側は48名の重軽傷者を出し、この負傷者の内、20名が入院し、その内3名は瀕死の重傷を負い、さらにその内の1名は頭部切開手術によって一命を取止めるほどであった。春日井工場でも、9月14日、新労組員146名が入構し、生産を再開した。 苫小牧工場の新労組合員は、9月15日負傷者を除き全員が、工場長以下会社幹部出席の下に就労式を行い、鷲津新労委員長より560余名が労務提供のため入構したとの挨拶があり、次いで工場長から感謝の言葉が述べられ、翌16日から生産が再開された。王子労組側が、各門のピケを強化したため、入構した新労組合員はそのまま構内に籠城して生産に従事せざるをえなくなり、その後10月6日に一部入出構、11月8日に臨時休業による一斉出構、11月12日に一斉再入構が夫々その都度警官隊の大量動員を得て行われはしたものの、12月9日の無期限スト終結時まで、延べ83日間にわたって籠城状態を強いられた。会社は、工場内の休憩所や就寝設備を改造して、寝具も当初の紙ブトンに毛布といった応急のものからベッド式の半恒久的な施設に改め、医療室、理髪所、簡易食堂を設置したり、娯楽としては毎休日の夜映画を上映したりした(16)。また、王子労組側が食糧の搬入を認めたものの、酒類の持込は実力で阻止したため、会社は酒等の慰問品をヘリコプターで空輸した(17)。

 日鋼室蘭争議では、第一組合は新労の入構、生産再開の14日後ピケを解除し(18)、その後、組合員の中に敗北感がひろがっていった(19)。そこで王子の経営者は「日鋼室蘭争議の例」から「籠城状態」より「通勤体制」に「次第に移行」でき、王子労組員の「精神的動揺」が「深刻化」して「スト終結の契機」となるだろうとの「観測」を行っていた(20)。しかし、その予測に反して、王子労組は、共闘体制に支えられて強靱な抵抗力を示し、トラック、工場内への国鉄の引込線、原木を流送するための「送木水路」を通じた製品、原材料の入出荷を実力によって阻止あるいは遅延させ続けた。また、王子労組側は連日連夜、宣伝カーのスピーカーのアンプの出力を最高にし、流行歌等のレコードを流したり、ドラム缶をたたき、かんしゃく玉を鳴らす等騒音をたて、構内の新労組合員の睡眠を妨害した(21)。

 

 3.警察、裁判所の動向と暴力団の投入

 前述のように、生産再開後も原料、製品の入出荷の妨害が続けられたのに対して、会社側は、9月22日札幌地裁に対し仮処分申請を行い、10月9日札幌地裁は入出荷妨害を禁止する命令を下した。しかし、この決定においては、入出荷妨害の取締を裁判所任命の執行吏に委ねることを求めた会社の申請は認められなかった。

 そこで、会社は再度執行吏による「妨害排除」を求める申請を行った。しかし、10月18日札幌地裁はこの申請を却下した。そして、王子労組側が、線路から1.8mの距離を置いてピケを張り「言論による説得ならびに団結による示威」を続けることを認めた。1.8mとは3.6mの半分であり、3.6mとは国有鉄道建設規程第21条の「停車場外ニ於テハ軌道の中心間隔ハ三米六〇以上……タルコトヲ要ス」に基づくものであった。この規程は列車がすれ違う場合の安全のための間隔を示したものである。そして、裁判所はピケが列車通行の障害にならない(?)ギリギリの線を線路から1.8mの距離としたのである。ただし、後述の「フクラミ戦術」に示されたように、この1.8mのラインは必ずしも列車通行の妨げとならない距離ではなかった。また、さらに、札幌地裁は、王子労組側が「人力による抵抗」で「不作為義務」(入出荷を妨害しない義務)に違反した場合に、「その人体に対し、直接的な強制を加えてその違反行為を除去することは許されない」という見解を示した。すなわち、王子労組側がピケの実力によって入出荷を妨害したとしても、警官隊がピケ労働者を実力によって排除することは許されず、会社側は損害賠償の請求等によって対処すべきだとしたのである。

 ただし、この決定の効力の及ぶ範囲は、争議当事者である会社、王子労組の間に限定され、当事者ではない国鉄の業務を妨害することは「威力業務妨害」として警察による実力排除、検挙の対象となりえた。したがって、警官隊の実力行使が完全に不可能になったわけではないが、札幌地裁決定によって著しく制限されるに至ったことは否定しえない。

 では、なぜ、裁判所は、王子労組側に有利な決定を下したのであろうか。まず、我々は、「静止的権利関係をコトとしている裁判官にとっては、相手の出方によって変化し、それが日によってあるいは時間によって激しく変貌する労働争議の流動性を、どの点においてとらえ、且つ真実としてつかみ出すかは、極言すれば裁判官のその場その場の脳三寸にあるとすらいい得るかもしれない」ということに着目しなければならない(22)。そして、この時の王子労組側の弁護士渡辺正雄は、「スト破り」による生産に対する実力阻止についてはすべて違法だとする見解と、「暴力以外」のあらゆる行動は適法だとする見解があり、当時の裁判所は、このふたつの見解の間を揺れ動いていたと語っている(23)。

 さらに、王子労組側の実力行使は、警官隊の弱体さによっても、かなりの程度取締を免れることになった。現地における警官の動員の特徴は、北海道警察本部発行の「王子争議に伴う警備措置上の問題点について」(1958年10月28日)という文書によれば次の通りである。第1に、人数不足のため、警官隊は争議対策の訓練を受けた部隊を核としながらも、第14表のように農村部の市町村の「駐在」をも多数動員して編成されていた。したがって、訓練の行き届いた部隊だとは言いがたかった。それでも警官の人数は不足していた。「多数の警察官を動員する場合は遠く函館、釧路、北見等の警察官を招集しなければなら」ず、「格別急速に多数の動員を要する場合は已むなくその数が限定され」人数不足のため「警察学校の生徒」まで動員した。第2に、9月15日(苫小牧工場への新労の入構)の仮処分執行時の動員は自衛隊の協力の下に行われた。警察には「機動力」が不足していたため警官隊は「自衛隊の車輛10輛」によって出動した。また、遠方から動員された者は「恵庭及び島松の自衛隊宿舎」に宿泊した。

 王子労組側は、9月15日の事件により多数の逮捕者を出した経験から、警官隊の手薄に乗じて実力阻止の行動をとった後、警察の実力行使が予想されるとその直前のところで中止もしくは戦術転換を行うように配慮しながらも、入出荷妨害を継続した。すなわち、多数のピケ隊員が、線路の両側1.8mの地点に並び、貨車が運行を試みると、最前列の者が上半身を大きく前傾させる波状スクラムを打ち、貨車の運行を危険ならしめ停止させた。これは「フクラミ戦術」と呼ばれた。そのため、警官隊500名から700名がその都度実力を行使し、貨車を通した。こうした戦術によって王子労組は、貨車の出入りを阻止ないし遅延させた。このような「フクラミ戦術」による貨車の運行の妨害は、長期スト解除の12月6日まで続けられ、貨車は最低1時間半、最高5時間遅れて入構し、製品を搬出した(24)。これは、極力工場の生産出荷を妨害し、会社に打撃を与えつつ、中労委の斡旋乗り出しのための条件、また会社がこれに応ずるための条件を生み出し、それによって争議における有利な解決を図ろうとする方針に基づくものであった。

 そこで、会社は、先に述べたような、警察、裁判所による取締の不充分さを、私的暴力装置の駆使によって補完しなければならなかった。前述のように裁判所が会社に都合の良い決定を出さなくなった直後、会社は暴力団を投入した。10月13日、苫小牧工場の送木水路における原木流送作業を王子労組側が阻止しようとしていた所へ約30名の一団が襲いかかった。「入墨」の腕をまくりあげ「おれは室蘭の笹谷一家だ。なめられてたまるか」と「棍棒」をふりまわしてピケ隊にとびこみ、多くの組合員を負傷させた。さらに、10月20日にも「暴力団スタイルの者」約200名が、スコップ、つるはしなどをかざし、薪をふりまわす等の暴力をふるい重軽傷者24名を出した(24)。

 会社による暴力団の投入については、新聞も次のように報じた。「函館労働会議では去る21日、40人、23日、47人の暴力団が王子争議で会社側に雇われるため苫小牧に向かったと問題にしている」(朝日新聞11月2日)、「24日午後」「警視庁公安課」が「確認した情報によると東京江東区深川のバク徒高橋某は『争議中の王子製紙苫小牧工場から工場警備を依頼された』といって、都内のヤクザの親分たちに協力を求め……二隊に分かれて去る21、2両日、午後八時半上野発の列車で北海道に向かった」(毎日新聞都内版10月25日)。この報道の真ぴょう性を裏づけるかのように、この記事の2日後、苫小牧工場に、「王子の従業員とは縁もゆかりもない」「見ず知らずの顔振れ」によって「自警団」が編成された(25)。また、「自警団員」を自称する者は一般市民に対する恐喝も行った。そこで、新労はビラによって、王子労組が「悪質な集団イヤガラセ」を行わなければ「このような自警組織を必要とするものではない」とした上で、「自警団」を自称する者が「金銭の強要やドスをちらつかせてオドシ、或は乱暴を働く等のイヤガラセをしておる模様」であるが「新労とは何等関係ないということを念の為御注意申し上げます」と釈明した(26)。

  第5節 長期ストライキの終結

 中山伊知郎中労委会長は、11月8日、王子争議に関する職権斡旋を開始した。中山会長を斡旋に引き出したのは、争議の長期化が翌年の北海道知事選挙における社会党公認候補の落選につながることを恐れた知事および社会党道連の幹部達である。社会党幹部は、知事選挙に勝つためには、争議に拘束されている炭労の支援部隊を選挙運動に投入することが不可欠であり、マスコミによって「暴力スト」として報道されていたこの争議が、得票減を結果すると判断したのである。

 中山会長は、二段構えの争議解決を提案した。すなわち、まず初めに王子労組が新労の存在を承認し、一時ユニオンショップ問題を棚上げすることが先決であるとした。次に、冷却期間(スト終結時〜翌年3月31日)を設定し、この期間中に会社、第一、第二の両組合が平和回復に向けて努力し、ユニオンショップ協定を結ぶための前提条件(両労組の統一、労使間の平和回復)を作り出すべきだとした。また、冷却期間中は、両組合間の組合員の移動がないようにすること、そして、争議に関する訴訟、不当労働行為救済の申立を労使双方が全部取り下げることを提案した。これに対して、王子労組は「ユニオンショップ棚上げ」に反対し、冷却期間中に王子労組を除名された者を会社が解雇するという条項を斡旋案に盛りこむことを強く求めた。両組合間の引抜き防止策として組合間の協定の締結も提案されたが、王子労組は、切崩し防止の保障としては弱すぎると主張しこれを一蹴した。一方、会社も「除名即解雇」の条項を認めることは、ユニオンショップを認めることと同じだとして、絶対承認できないと主張した。したがって、斡旋は暗礁にのりあげ、11月13日夜、中山会長は斡旋の一時中断を決定した(1)。

 しかし、11月15日、事態を王子労組に有利に展開させる事件が発生した。苫小牧工場内で、1人の新労組員が作業中にチップサイロに転落し、スクリューコンベアーの研ぎすまされた羽に巻きこまれて死亡したのである。死亡者は新制高校卒のホワイトカラーであり、スト以前に現場作業に従事したことはなく、作業に不慣れであった。しかも、単独作業だったため、転落時の目撃者もおらずコンベアーに血まみれのチップが出てきて初めて発見されたのである。こうした事故の可能性は、不慣れな作業を強いられていた多数のホワイトカラーにも該当するものであった。事実、この頃、その他にも労災による重傷者が続出していた。10月31日には1名が骨折、11月16日には1名が負傷(右手を7針ぬう)、26日には2名が入院(ねんざ、肋間神経症)し、1名が指を切断した(2)。

 死亡災害は、会社、新労に深刻な衝撃を与えた。こうした状況下に王子労組は会社を追撃するとともに、中断状態にあった斡旋を有利な方向に運び冷却期間中の除名即解雇を明記した斡旋案を引き出すために、11月18日発電所の占拠、発電停止を決行した。苫小牧工場の消費電力の9割は王子製紙所有の発電所によって供給されていたが、その内最も重要なものが支笏湖畔の山中にある千歳第1発電所であった。300名の部隊は、会社、警察の不意をついてこれを占拠し発電スイッチを切り、警官隊によって排除されるまでの間苫小牧工場の操業を停止させた。中労委は発電所占拠の後(11月21日)ついに除名即解雇の条項を含む斡旋案を提示した(3)。

〈 中労委あっせん案 〉

 今次の争議について職権あっせんの形をとらざるを得なかったのは遺憾であるが、これは各般の事情から止むを得ない結果であったので、労使双方ともこの間の事情を諒解して下記によって紛争の解決を図られたい。

1.今回の争議の焦点はユニオンショップ制であるが、現在の王子の労使関係に は、本来この制度の基本条件たる相互の信頼感が欠けているので、直ちにこの 制度を全面的に容認することは出来ない。将来この点が改善せられ、組合の組 織が安定した時には、従来のようなユニオンショップを結ぶことが望ましい。

2.当面の一つの重要な問題は現在組合が二つに分裂しているという事情である が、これは事実として認めざるを得ないので、労使双方ともこの事実の上に立 って紛争の収束を図るよう努力されたい。

3.このような状態の下で事態を収束するためには、差当り明年3月31日を期 限として平和回復への努力の期間をもつことが必要且つ妥当であると考える。 この期間については、旧協約第五条によって会社は組合を除名された者は解雇 するものとする。但し同条覚書はそのまま適用する。

4.その他の協約事項については、争のあった条項を除いてなるべく従来の慣行 によることとし、必要なものについてはこれを協定化すること。右協定期間は 第三項の期間とする。

5.上記期間中に会社は異動及び役付の任免はこれを行わない。

6.昇給、賞与、福利厚生その他従業員の労働条件、待遇については、本組合の 組合員たると否とによって差別的取扱いをしない。

7.今次争議に関連して労使双方とも現に行っている告訴、告発、訴訟及び不当 労働行為の申立は、全部これをとりさげる。なお、正当なる争議行為の責任は これを追及しない。

8.あっせん案が双方に受諾されたときは直ちに就労の協議に入ること。

9.もともと本争議の中心は経済問題ではないが、長期の争議を終結して生産を   (一人一律五千円)を支給すること。

10.本争議の終結について紛争が生じ、当事者間で解決がつかないときは、中 労委のあっせんによって解決をはかるよう努力すること。

  昭和33年11月21日

               中央労働委員会
                  王子製紙争議 
                    あっせん員 中山伊知郎
                    同     藤林敬三 

 しかし、一般にショップ条項自体が法的効力をほとんど持たないことは明らかであり、力関係次第では会社が被除名者の解雇を拒否することも充分可能であった。にもかかわらず、会社が執拗に除名即解雇の条項に反対してきたのは、それが王子労組に勝利感と自信を与え、新労側に敗北感と強い不安を与えるものだったからである。しかし、会社は次のような事情のため11月22日斡旋案を受諾した。受諾の最大の理由は死亡災害の発生であった。戸部卯吉苫小牧新労副委員長(当時)は、中島社長が彼に次のように語ったと述べている。社長が受諾を決意した「一番大きな」理由は、「争議によって人を殺したこと」に社長が「ものすごくショック」を受け「これ以上死者を出すわけにはいかない」と考えたことにあった(4)。第2の理由は全国新聞用紙在庫の枯渇であった。多数の事務員を含む新労の籠城生産は思うような成果をあげることができなかった。また、無期限スト突入後、同業他社は新聞用紙を増産したが、王子製紙のシェアは全国生産高の3割を占め、設備が新設されない限り、増産には限界があった。したがって、全国の在庫は8,577万ポンド(6月)から1,766万ポンド(12月)にまで激減した。そして、年末には需要に応じえなくなることが予測され、通産省は11月15日新聞用紙の緊急輸入を決定した(5)。第3の理由は、会社の不当労働行為に関して11月7日北海道地労委が「会社側に不当労働行為があったとの結論」(6) を出したことである。救済申立の内容は、不当労働行為を「二度とくりかえさないこと」「陳謝文を掲示すること」(7) だけだったが、救済命令が会社にとって不利なものであることに変わりはなかった。斡旋案には不当労働行為の申立の取下が謳われており会社は、この斡旋案によるスト収拾によって、不当労働行為救済命令が公式の命令として出される前にこれを消滅させることを意図したのである。第4に、王子労組からの脱退が11月に入るとほぼ停止したこともその理由であろう。 一方、新労組員の内現場職制、現場の平社員は、新労が現場で少数のままストが終結すれば王子労組側による「吊し上げ」が始まると予想し恐怖を感じていた。新労幹部は、除名即解雇の条項が新労組合員に敗北感を与えるものだということに不安を感じていただけでなく、生産現場の新労組織が「吊し上げ」によって危機にさらされることをも憂慮していたのである。したがって、彼らは籠城の疲労、死亡災害の衝撃にもかかわらずストが長びくことを願っていた。戸部卯吉苫小牧新労副委員長は、争議において「負けた」と考え、斡旋案受諾について会社に「抗議」した(8)。中村英雄本社新労副委員長も「正直言って敗北だと思い、がく然とした」(9) と語っている。すなわち、斡旋案受諾は新労側に敗北を意識させたのである。そして、王子労組側の就労が予定されていた12月15日春日井新労は「就労式」への参加を拒否することによって、会社に対する抗議の意志を示した。また、苫小牧工場における会社側の争議戦術の立案、実行の中心人物市村修平も、中山斡旋案受諾に反対した(10)。中島社長は、経営者内強硬派および新労幹部の反対を押切って争議収拾を決定したのである。

 他方、王子労組は、春日井支部(11月23、24日)、苫小牧支部(25日)の全員大会で斡旋案受諾を決定(満場一致)した(11)。王子労組は新労の解体、吸収を目標としてきたが、当時の労使間の力関係の下で、会社が新労を解散させることを呑む可能性がないことは明白だったからである。

 以上のように、スト終結が確定されたのであるが、直ちにストが解除されたわけではなかった。就労方法をめぐる対立が残されていたからである。日鋼室蘭争議では、第二組合員が工場内で態勢を固めていた所へ、第一組合員が3分割されてそれぞれ2週間の間隔で入構、就労させられたため、職制による切崩しが容易になり、職場闘争も1週間で潰え去り第一組合は急速に崩壊した。王子の経営者も「スト解除後、明春3月31日まで」の期間に王子労組を4回に分けて「分割入構」させる方針を発表した。これに対して、王子労組は、労使双方の斡旋案受諾後、製品、原材料の搬出入の阻止等の実力行使を強化し、「分割就労絶対反対」の態度を示した(12)。他方、会社も「分割就労」に固執したため、中労委会長は「仲裁」を申し入れ、仲裁の結果には異議を唱えないことを要請した。労使ともに仲裁を受け入れたが、王子労組は組合員に対しては「中労委がどのような仲裁裁定を出そうとも実力をもって突破する」との方針を示し、12月9日午前7時を期して無期限ストを解除し「職場確保闘争」に入ることを宣言した。

 全組合員は12月8日夜7時より工場を包囲し町は緊張に包まれた。しかし、組合員は「不安」を全く感じなかったという。百数十日の激闘を共に闘った仲間への信頼、団結の力と「勝利」への確信がみなぎっていた。焚火の炎がまっ暗な北海道の冬空を焦がし、労働歌が暗闇に静まりかえった工場の巨大な建物にこだました。緊張と抑えられた興奮の中で誰もが一体感に浸っていた。焚火は絶え間なく燃え続け会社が工場の周囲に張りめぐらせたバリケードの丸太が壊されて次々に炎の中に投げこまれた。後は夜明けを待つだけであった。12月9日午前2時10分、中労委は「一斉就労」を仲裁裁定によって決定し、会社もこれに従った。会社の意図した「分割就労」は「粉砕」されたのである。市川年雄苫小牧支部長は「我々の主張は通った。この勝利感をかみしめて今後脱落集団の吸収統一と職場闘争に入る。闘いは終わったわけではない。さらにさらにがんばろう」とあいさつを送り、割れんばかりの拍手に包まれた(13)。この輝ける英雄市川年雄支部長が、その後、会社の意を受けた田中清玄の信奉者となり、王子労組崩壊に決定的役割を果たすことを、この時歓喜に浸っていた労働者の中でいったい誰が予想しえたであろうか。

 王子労組側の戦術の特徴は、中労委を利用しながらもそれに「ゲタ」を預けて実力闘争を放棄することなく、発電所占拠、職場確保闘争等常に実力行使を前面に押し出すことによって、中労委の態度を変化させ会社に譲歩を強要した点にある。そして、その背景には、日産の益田哲夫のアドバイスがあった。全自動車日産分会は中労委が斡旋にのり出すと安心し、また「職場闘争はお手のもの」で争議を「おさめて生産に入れば」闘いを有利に進めることができるという自信があったため、早期に闘争を収拾してしまった。そして生産が再開されると「労働者はホット」して「生産再開」が同時に「闘争体型の解除」となり「職制の力でガタガタ」に崩された。益田は「スト中にすべてのものを、勝ちとるという、原則を崩してはだめだ」と忠告した(14)。王子労組は「すべて」を「勝ちとる」ことはできなかったにせよ、この忠告に従い、その時点での力関係の許す最大限のものをスト中の実力行使によって獲得したのである。



第3章 争議後半期  ───第一組合の崩壊───

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 第3章では、145日間の長期ストライキ解除、第一組合員の就労(1958年12月)から、第一組合の雪崩のごとき崩壊(1960年1月)までの時期、すなわち、争議“後半期”を分析する。ただし、本章は第2章と違って時系列的叙述にはなっていない。その点で事実の前後関係がわかりにくいかもしれないが、そこは年表を見ることによって補なっていただきたい。

  第1節 王子労組崩壊の直接的契機

 本章の課題は、第一組合である王子労組が一挙に大量の脱退者を出して労働者数の1割に満たない少数派に転落し、第二組合(新労)が労働者の大多数を吸収した根拠を検討することにある。

 新労が労働者の多数を吸収した理由について、新労や、これを支援した全日本労働組合会議は、労働者が、新労の「方針」の「正しさ」を認識し、これを支持するようになったからだと主張している(1)。もし、それが真実なら、組合分裂の指導者達は、なぜ、組合を分裂させず従来の組合内に留まって、労働者の支持をとりつけ組合の路線転換をはかる道を選択しなかったのであろうか。

 一方、王子労組側の公式の文書は、新労の組織拡大は、王子労組組合員に対する「差別待遇」等「脅迫」および「利益誘導」の結果だとしている。大多数の労働者は、新労指導者の主張を支持せず、支持するようになる見込もなかった。会社が、組合の体質変革のために、組合を分裂させ、「脅迫」や「利益誘導」(2) に訴えて第二組合(新労)を「育成」せざるをえなかったのは、それゆえであると主張している。しかし、そうした「差別待遇」が事実であったとしても、それに抗して組合組織を維持しえなかった王子労組側の問題を看過することはできない。

 労働運動史家である斎藤一郎は、闘争の敗北における労働者側の根拠について、労働者政党の「情けないほどの無理論」、組合幹部の「たえまない原則からの逸脱と、公然たるとりひき」のために「ほとんどの闘争は敗北に追いやられた」(3) と指摘している。しかし、たとえ指導者の方針が誤まっていたとしても、それをくつがえし「正しい」方針を幹部に採用させることができなかった一般労働者の問題を見落としてはならない。指導者の誤まった方針自体、一般労働者の意識の反映としての側面を持つのではないだろうか。

 以上のように、第二組合側、第一組合側、そして、斎藤の主張のいずれもが一面的である。第一組合の凋落の根拠を考察するためには、会社による「差別待遇」等の影響、第一組合指導者の方針、一般労働者の意識を総合的に検討しなければならない。

 第1図のように、王子労組は、スト終了1年後の1960年1月、一挙に多数の脱退者を出して崩壊し、新労が全従業員の約9割を傘下に収めた。この事態の直接の引金となったのは、1月15日の「第三勢力」と呼ばれた集団に属する5名の執行委員の辞任であった。当時、王子労組は、懲戒処分の撤回とりわけ4名の被解雇者の復職を目的とした闘争の再開を決定した直後であった。第三勢力はこの闘争再開に反対した。そして、1959年12月24日の支部臨時大会で、第三勢力の内現職の執行委員でなかったメンバーは、スト権一般投票の実施に執拗に反対した。しかし、当時、組合員の8割を占めていた苫小牧支部では、採決の結果、スト権集約賛成34、反対29(白紙1)の僅少差(春日井支部では22対6、白紙1)で第三勢力は敗れた。王子労組はこの決定に基づき、12月30日一般投票によってスト権を確立した(4)。これに対して、第三勢力である一部執行委員は「闘う方針には従えない」として辞任し、これに続いて大量脱退が起こったのである。

 会社側の争議記録はこの事態を次のように記述している。一般組合員は会社、新労との「平和」の回復を目指していた「穏健派」である第三勢力を支持していた。大量脱退が起こったのは、第三勢力の主張が敗れ、「極左勢力」の指導の下に闘争が再開されることになり、第三勢力に託していた「望みが絶たれた」ためである(5)。新労の「組織拡大」は、その「指導理念」と「実績」が「多くの従業員」の「理解」と「共鳴」を得た結果である(6)。また、新労によれば、それは、王子労組指導者の闘争再開方針に対する労働者の拒絶、労働者が新労の路線の「正しさ」(7) を認識し始めたことの結果であった。

 しかし、この解釈は次の点で事実に反している。第1に、第三勢力の主張は、苫小牧支部大会ではかなりの賛成を得たが、一般投票ではスト賛成が圧倒的多数(組合員数1,767、賛成1,406、反対191)を占めた(8)。すなわち、大多数の組合員は、第三勢力の主張を拒絶し闘争再開に賛成したのである。第2に、1960年11月の衆議院議員選挙の際、新労が推した民社党候補は、王子の企業城下町である苫小牧市で約3千票しか獲得しなかったのに対して、王子労組が推した社会党候補は1万票を獲得した。当時の苫小牧工場における組合員数は、新労が約2,700名、その家族と下請企業の労働者の票を合わせれば7〜8千票に達するが、王子労組員は400名にすぎなかった(9)。すなわち、王子労組の推薦候補に新労組員からも大量の票が流れたのである。また、苫小牧市議会議員選挙でも、分裂前の王子労組が4〜5名を当選させていたのに対して、1963年、200名(新労2,800名)にすぎない王子労組が4名の組合員を当選させ、合計約5,900票(新労側は合計5千票)を集めた(10)。

 労働者はたとえ脱退しても王子労組を「支持」し続け「その気持は、会社のきびしい統制下では表現できないが、投票の秘密の守られる公職選挙において、ようやく表現できた」のである。この事態は「身は新労、心は王労」(11) の言葉を生んだ。これらの事実は、労働者が合理化に反対する「極左的」な王子労組を見放し、「生産性向上」への「積極的協力」を公言する新労を支持するようになったという会社、新労側の解釈と背反するものである。 では、労働者はストに賛成し、脱退後も胸中では王子労組を支持し続けたにもかかわらず、なぜ脱退し新労に加入したのか。王子労組側は、脱退の原因は幹部への不信だと述べているが、確かに直接的にはそう解釈する他はない。中央執行委員長兼苫小牧支部長である岩崎俊雄、前年の長期スト時の苫小牧支部長であった支部執行委員市川年雄ら名だたる幹部5名が、闘争再開を目前にして辞任し、その内のいく人かはまもなく組合を脱退したのである。組合員が強い衝撃を受け執行部への不信によって動揺したのは当然であろう。また、臨時大会で執行部方針として提出された闘争再開方針に対して反対の論陣を張ったのは、元執行委員を中心とする者であり、執行部は組合員に対して「執行委員は全員闘う方針で意志統一している」と強調していた。したがって、第三勢力に対して一面では反発しながらも、それなりの「信頼」を寄せていた組合員は、第三勢力の執行委員も組合の決定に従って闘争を遂行すると信じていたのである。また、この頃、第三勢力である執行委員が秘密裏に会社幹部と会い、組合内の情報を提供してきた事実も明らかにされ、幹部不信に拍車をかけた(12)。

 しかしながら、幹部不信がいかに深刻なものであったにせよ、なぜ、それが大量脱退、新労への加入を結果したかについて疑問が残る。会社側と「内通」し闘争を前にして「逃亡」するような幹部に対し「不信」を抱いたのであれば、なぜ、新しい信頼しうる執行部を選出して闘争体制を再確立しストを実施する道を選ばなかったのであろうか。

 この時の脱退者達は、王子労組の指導者の所へ来て「涙」を流しながら、王子労組に残っていれば「将来が不安だ。本当にすまないと思うが脱退させてもらう」(13) と丁寧にあいさつしていった。すなわち、組合員は、闘いの見通しと自己の将来に対する不安を抱き、敗北感に打ちひしがれ、闘う自信、勇気を喪失していたのである。この敗北感と自信喪失は、執行委員の辞任によって新たに生み出されたものではなかった。圧倒的多数でスト権が確立されたスト権投票時にも、同時に脱退届を出していった者もあったという。さらに、辞任以前にも脱退者が増加しつつあったことも見落とせない。組合員は、闘争再開を支持し闘うべきだと考えながらも、自らが王子労組に留まって闘いを遂行するための勇気と自信を、辞任以前にかなりの程度萎縮させていたのである。闘わなければならない、闘うことが正しいことだと考えることと、自らが闘争を遂行すること、闘争のために必要な気力と自信を有していることとは必ずしも同じではない。では、組合員は、なぜ、闘いを遂行する気力を既に失っていたのであろうか。

  第2節 会社による処分、差別待遇の影響

 王子労組側は、その理由として「処分」および「差別待遇」を挙げている。職場闘争(詳しくは後述)に対する懲戒処分(1月31日)は、最も戦闘的な職場活動家を対象とするものであり、職場闘争推進への壁となった。また、1959年夏期賞与支給(7月)の際、王子労組員と新労組員との間にストによる不就業を理由とする平均約2万円の差がつけられた(1)。

 また、4月17日、春日井工場で35名の配置転換が発令されたが、対象者の内新労組員は全員が「昇進」したのに対し、王子労組側はすべて「格下げ」か「横すべり」であった。ある王子労組員の組長はワインダー係に格下げされた。入社後1〜4年の者の職務であるワインダー係に、勤続16年の組長が落されることは、通常では考えられないことであった。また、2号、3号抄紙機に配転された2名は戦傷者等で、それゆえ他の抄紙機よりも仕事が楽な1号機に配属されていたのである。彼らには、他の抄紙機では体が「もたない」のではないかという心配があった(2)。

 さらに、3月の「子弟採用差別」は、就職を間近に控えた子供を持つ年齢層の脱退を促進した。王子の労働者にとって、子供を王子製紙に就職させることは切実な願いであった。当時、王子の賃金水準は日本全国でトップクラスであり、また、子供が就職すればひき続き社宅を利用できるからであった。(3)。労働協約付随の「諒解事項」第4項では、停年退職者の子弟を「優先的に採用する」とされていたが、実際には、例年、まだ退職していない者の子弟をも優先的に採用していた。しかし、1959年3月の新規採用では、管理職(非組合員)、新労組員の子弟を中心に採用され、王子労組員の子弟の採用はゼロであった。すなわち、高校卒では、王子労組側は64名が受験し12名が学科試験に合格したが、面接で全員不合格となった。他方、非組合員、新労の側は37名が受験、20名が学科試験に合格し面接で18名が最終合格した。この事態について、北海道高等学校教職員組合は、道教育委員会に調査を要求し、それに対して教育委員会は「学校長の意見書と学業成績その他の資料に基づき検討した結果、公正を欠いた採用と言わなければならない」(4) と回答した。3月から4月にかけて、この年の8月までの他の月に比べれば多くの脱退者が出たのは、この子弟採用の結果であると考えられる。

 しかし、この時の脱退増は少数かつ一時的なものでしかなかった。それは、王子労組員の63%(分裂前)が40歳未満(5)であり、就職を間近に控えた子弟を持つ者が少なかったからかもしれない。また、その他の会社による「攻撃」も脱退増をもたらしたが、それらも少数で一時的なものであった。しかも、会社の攻撃が、かえって組合員の闘志を高揚させ、「切崩し」が「労多くして効果が少ない」(6) 状況を生み出したことについて、会社側の文書が指摘していることも見落せない。特に、前述の春日井工場の配転の場合はその典型である。4月20日から23日まで関係職場で部分ストが実施され(7)、ワインダー係への組長の降格、健康上問題のある者の配転は撤回(8) された。この「勝利」が組合員に自信を与えたため、春日井工場における脱退は、これ以降2ヶ月にわたってほぼ停止した(9)。

 第1図を見れば、懲戒処分、「子弟採用差別」「賞与差別」等の攻撃にもかかわらず、1959年8月までは、脱退増が抑制されていることが判る。また、7月末か8月執筆の会社側の文書(10) には、紛争を再開しその中で王子労組の「崩壊」「第二組合の育成」をはかることは「不可能」であると記されている。当時、会社は、王子労組がかなりの程度の闘争遂行能力を維持していると判断していたのである。したがって、執行委員辞任の時点に、組合員が既に闘志を失っていたことが、処分や「差別待遇」の結果であると直ちに断定することには無理がある。では、なぜ、8月までは闘争意欲をそれなりに維持していた組合員が、翌年1月には闘志を喪失していたのであろうか。第2表のように、脱退者数は、1月にピークに達するが、それ以前にも緩やかながらも増加している。そして、脱退増が、はっきりした上昇カーブを描くようになったのは9月以降である。9月以降の時期に、組合員の闘志を著しく減殺するようなことがあったに違いない。

  第3節 平和路線

 1.吉住執行部の路線

 9月は、第三勢力のメンバーである岩崎俊雄を中央執行委員長兼苫小牧支部長とする新執行部(岩崎執行部)が発足した月である。岩崎執行部は、新労および会社との「平和」回復を目指し、闘争放棄、会社への譲歩を内容とする「平和路線」を採用した。

 前年、長期ストを指導した吉住秀雄を委員長とする旧執行部は、第三勢力の台頭、闘争中止を求める社会党道連(日本社会党北海道支部連合会)の圧力の下で動揺しつつも、会社による攻撃に対してはストによって反撃してきた。例えば、懲戒処分、「子弟採用差別」の撤回等の要求のために、3月24日2時間の時限スト、24、25日には「安全遵法闘争」による生産停止(労働安全衛生規則が禁止していた無資格者による10馬力以上のモーターの操作を執行部の了承の下に王子労組職場組織が拒否)を実行した。さらに、4月8日には24時間ストを実施した(1)。

 また、4月、社会党道連のストを中止せよとの圧力によって、会社との「平和的交渉」に入ることを余儀なくされたが、会社が「互譲の精神」「江戸城あけ渡しの西郷と勝のような腹がまえ」(2) などの言葉で、譲歩の可能性を示唆しつつ、2ヶ月間にわたって交渉を引延したことに対しては、次のような態度をとった。すなわち、子弟採用、処分撤回、王子労組の切崩しの中止等の諸問題が、6月18日までに「解決」しない場合にはストを反復することを、執行部内の第三勢力の反対を押し切って決定した(3)。そして、6月19日、会社から「両組合に対し中立の立場をとり、差別待遇を行わない」という「覚書」、「懲戒処分の問題については、組合の希望について、年内に解決するよう、誠意をもって努力する」「新規採用については組合の希望を考慮し、引続き話し合う」という「メモ」をとりつけた(4)。また、処分による被解雇者の復職については、会社側の代表である田中文雄春日井工場長から「復職について田中前知事と力を合せ社長を説得すれば出来るという自信もある」(5) という口頭の約束を得た。

 さらに、「夏期賞与差別」に対しても、7月9日2時間のストを実施した。そこで、田中春日井工場長は、賞与の格差分1人当り2万円を貸しつけること、連操実施と引きかえに、貸付金の内「僅少の額」(6) 以外は返済を免除することを認め、労使は了解点に達した。しかし、「僅少の額」だけを返済すればいいということは口約束で、しかも、対外的には秘密とされた。また、貸付金返済の期限や貸付の条件とされた連操実施の日程、および、条件(連操手当、要員補充等)の確定も先に延ばされた。このように、妥結内容は極めて曖昧なものであった。しかし、これらの会社の譲歩がストを背景に勝ちとった成果であったことは否定しえない。吉住執行部は前年のストの時の借金がまだ残っていた(7) こと、あるいはその他の事情により、長期ストこそ実施しなかったが、基本的には闘う姿勢を維持していたのである。

 

 2.岩崎執行部の平和路線

 吉住執行部は、処分撤回、子弟採用、貸付金返済の額、期日等の懸案諸事項についての要求が実現しない限り連操を拒否し続ける方針であった。これに対して、岩崎執行部は、懸案事項についての会社の譲歩が無くても、連操に「踏切る」(8) ことを決定し、討論のため下部機関に降しこれを可決した。この時(11月8日開始)実施された連操は、日曜休日を2日に1日返上する13日連操であり、労働時間の延長を伴うものであった(王子労組崩壊後の1960年5月指定休日制の13日連操に切替えられ、さらに1961年8月完全操業に移行)。連操に関する交渉では、連操手当の支給、労働負荷を軽減するための要員補充、休日返上による疲労の蓄積に伴う労働災害の増加を防ぐための措置等の問題が重要な交渉点となるのが一般的であった。しかし、岩崎執行部は、これらの点に関する会社の提案をそのまま受け入れた(9)。そのため、「会社の言いなり」になった組合に失望する労働者も多く、闘争に対して消極的な「弱い」組合員ではなく、闘うことを欲している「強い層」が、王子労組が「新労のような組織になりつつある」ことに絶望して脱退することも少なくなかったという(10)。連操受諾は、王子労組の弱さを印象づけ、一般労働者に敗北感を抱かせたのである。

 さらに、岩崎執行部は職場闘争を抑制しようとした。王子労組は、スト終了後、職制による切崩しを防ぎ組合組織を守ることを主たる目的として職場闘争を展開した。すなわち、脱退の勧誘を行った職制に対する追及行動を行いつつ、職場組織の団結を固めることを目指した。職場闘争は処分発表以降それまでの勢いを失ったが、それでも、吉住執行部の下では継続され、職場組織による実力行使も、就業規則違反として処分されることを防ぐため、「安全遵法闘争」または執行部指令の部分ストの形をとって実行され続けた。吉住執行部は「中央交渉」で「柔軟」な態度をとる場合も、職場「生産点」では「常に闘う姿勢」を保つことを「基本路線」としていた。これに対して、岩崎執行部は「中央交渉でも生産点でも闘わぬ姿勢」(11) をとったのである。例えば、10月19日の苫小牧工場汽力部の配転に対して、組合員が「差別待遇」だとして抗議行動を起し、また10月末には職制による切崩しが憤激を呼び起こしたが、岩崎執行部は職場におけるこれらの動きを抑えつけた(12)。このような職場闘争の抑制は、組合員を意気消沈させ組合組織の武装解除、切崩しの助長を結果した。

 当時の一般組合員の状況については、紙パ労連オルグによって次のように報告されている。「組合員」は「孤立感に疲れている」「執行部は組合員の日常と感情を把握すべきである」「組合員は実に圧迫に抗し、がんばっている」にもかかわらず「執行部は、落ちる者は落ちろというきらいがある」「執行部」は「会社との交渉」に埋没し「組織づくり」「組合員の把握」「日常活動」が疎かになっている(13)。

 そして、このような状況の中で、王子労組は力を失った、これ以上王子労組に留まっていると「お前の将来はまっ暗」だという脱退勧誘は、不安を拡大した。その結果脱退者数が累進的に増加し、10月22日、全社(3事業所合計)では、王子労組、新労の勢力比が逆転した。第三勢力は、闘いをやめ会社への譲歩を重ねれば労使間の「平和」が回復され脱退も止むと主張していたが、事態は逆の経過をたどったのである。そして、12月8日、苫小牧工場においても新労が過半数を制し、12月17日、会社は最終回答として処分を撤回しないことを宣言した(14)。これに対して、王子労組は前述のように闘争再開を決定したのであるが、会社は、もはや王子労組に闘争遂行能力が無いことを確信した上でこのような回答をつきつけたのである(15)。そして、この判断は正しかったと言える。

 以上のような事実経過から、執行委員の辞任の時点で、組合員が既に闘志を喪失していたことは、岩崎執行部の平和路線の結果であると考えられる。第三勢力は、闘争放棄によって組合員の闘志を萎縮させ、最終的には自分達の辞任によって組織を崩壊させたのである。

 一方、平和路線に反発していた王子労組左派幹部(第三勢力以外の幹部)は、岩崎執行部内でもかなりの人数を占め発言力を維持していたにもかかわらず、処分の不撤回が宣言された12月に至るまで、組織的に第三勢力と対決しその路線をくつがえそうとはしなかった。岩崎執行部内の第三勢力と左派の比率は、会社側の認識によれば、中央執行委員会では4名(第三勢力)対3名、苫小牧支部執行委員会では8名対7名であった(16)。ただし、執行委員の中には動揺的な者もあり、状況次第で態度を変えた者も含まれていた。12月に左派主導の下に、闘争再開を執行部方針として決定できたのは、そのためであった。すなわち、左派は、岩崎執行部内でも、状況によっては平和路線をくつがえしうる力を持っていたのである。にもかかわらず、左派が12月まで本気になってそうしようとしなかったのは、「平和路線には反対であったが、執行委員の多忙な業務に疲れ」ていたため「今までの方針を貫こうとする気概に欠け」(17)、また、闘争が「弾圧」を招来し脱退者を増加させるのではないかという不安を感じていたからである。また、後で見るように左派の吉住秀雄自身が一面では社長の「誠意」に期待をかけていたからであった。

 

 

  《補足》

 上記のような、1959年末の王子労組脱退者数の増加のペースは、会社側にとっても予想外であった。それは次の文書から明白である。また、この文書は、当時の会社側の戦術を知る上で興味深いものである。

 1959年11月すなわち前述の13日連操実施直後、会社側がどのような見通しの下にいかなる方針をたてていたのかは、『王子連操問題を卜す──苫小牧現地事情メモ』(王子製紙水曜会会員頒布資料No.25、1959年11月16日)に記されている。この文書は、13日連操の期限が切れる6ヶ月後に、連操の延長を可能にするための、戦術の解明を行なっている。まず、@として「王労が」連操延長に「反対」でも、「新労が3/4組合に成長して」いれば延長が可能であるとして、そうなる見通しがどの程度あるかを分析している。「新労が来年4月末」(連操の期限切れ)「までに3/4組合に成長するという確固たる見通しはたてにくい。11月6日現在、両組合の組織状況は、新労2266名、王労2168名、中立その他27名、計4461名となっている。」「4461名の3/4は3345名となる。従って新労が3/4組合となるためには、3345名−2266名=1079名を今後6ヶ月間に新しく獲得しなければならない。これは1ヶ月平均180名、1日平均約6名の新労加入者が必要なことを示している。最近の新労加入者のペースは、ややこれに近いものがある。しかし、王子労組に遅くまで残留している者ほど、新労に加入しにくい事情をもっているから、このペースが今後も継続されるという断定はできない。結局、王子労組からの脱退者が続出するような大事件が発生するか、或は各関係者が王子労組脱退の促進についてよほど努力を傾注しない限り4月までに新労を3/4組合に成長させることは困難であろう。」

 次にAとして「王子労組が左派組合と右派組合に分裂し、この右派組合と新労の組織人員の合計が全従業員の3/4以上に達」する可能性を考察している。「将来このような事態が発生する可能性がでてくるかもしれない。しかしここ6ヶ月の間に王子労組組織を左右に分裂させることは無理であるように思われる。元来、組織の分裂ということは、頭の中で容易に変えうるとしても、組織の構成員や指導者にとっては極めて複雑な利害関係があるだけに、平常な状態のもとで発生させることは不可能に近い。勿論、無理をすれば少数の右派系組合を分離させることが出来るかも知れない。しかし、協定延長という点からみれば、少なくとも1000名以上の組織でないと意味がない。若し1000名以上の右派系組合を分離させようとするのであれば、やはり、相当な長期闘争 ─ 組合員にとってマイナスとなるような ─ を行うことが前提条件である。しかし、現在の王子労組は、組織の崩壊をもたらすような長期的闘争力を持ちあわせていないから、このような前提条件の発生は望む方が無理であろう。又、会社としても、今更長期闘争は希望していないであろう。このように王子労組の左右両組織の分裂が期待できないとしたら、次善の策として、王子労組─新労の統一を行ないその後左派を少数派として追出し、新労と王子労組右派で3/4組合を作るという構想が生まれてくる。しかし、これとても、現在の新労員や王労員の感情から判断して6ヶ月以内に統一が達成できるという条件は殆ど見当らない。」「従って、このような構想も来年4月末までには間に合わないとみて差支えない。いいかえれば、Aの状態期待可能性は殆ど皆無と思われる。」

 次に最も期待可能な状態としてB「王労が協定延長の方向で機関決定ができる状態にある時」をあげ、そのための工作の方法を論じている。「この場合における工作の重点は、第1に王子労組内部の右派勢力−連操協力派を拡大すること、第2に−左派勢力−連操反対派を連操延長にふみきらざるを得ない窮地に追い込むことの二点にしぼられる。」 そして、そのための具体的戦術は次の通りである。「懲戒問題、貸付金、新規採用の解決はもっとも留意すべきである。結論的にいえば、この3つは出来るだけ切りはなして解決を図るようにすべきである。

 先ず新規採用はJ−@で指摘したように、連操延長との関連──別ないい方をすれば協定延長の既成事実を作るという含みをもたせながら解決してゆくことが効果的である。貸付金は、連操協定延長の際の有力なキメ手とすべきであるから、来年4月の協定切れの頃に話合えばよい。

 懲戒処分については、平和覚書や連操協定の締結時に、王労幹部との間に具体的な話合いがされておれば別であるが、はっきりした取決めがないとすれば、出来るだけ引延し戦術を採用した方がよい。その理由については、協定延長交渉と密接なつながりがあるので後述する。

 少なくとも、この3問題のうち、貸付金と新規採用の二つを解決すれば条件付反対派の中、相当数が軟化してくることであろう。もっとも解決の時期と方法を誤らないことが前提である。即ちその時期は王労員に連操延長の気持をもたせる最も効果的な時期であり、その解決方法は、連操延長と関連をもっているものでなければならない。」

 「王労員の中に、連操打切りは不利であるという気持をおこさせ、加えて連操否定の情感をほりくずす工作が進められてゆくにつれて、王労の各級機関の構成員は微妙な立場にたたされてくるであろう。勿論、前述した工作を進めるに際しては、王労右派勢力を有効に使うべきであるが、それと同時に工作の成果をつみとるという意味から、王労員の気持の変化に応じて、各級機関の構成員の獲得運動をも進めさせる必要がある。

 少なくとも、大会代議員、支部委員の過半数を確保し連操延長で左派と五分以上に闘える状態を作らねばならない。唯、この獲得工作を進める場合、連操延長反対と目される代議員、委員の反対理由を詳細に把握し、分析することが大切である。恐らく連操延長反対派と一口にいっても、その内容は千差万別であると思われる。それは@純理的立場から、連操に反対しなければならない左派分子とそれに同調するもの。A左派分子及びその同調者と理論的なつながりはないが、人間的な関係で結ばれているために反対の立場をとるもの。B特定の問題が解決すれば連操反対をとり下げるもの。の三種類に大別されよう。この中、特にBの範疇に属する者を集中的にねらうべきである。」

 「王労苫小牧支部の中に、右派を中心とした連操延長派を作りあげてゆくのと平行して、反対勢力である左派への工作を進めねばならない。その工作とは脅かしと懐柔の両面作戦で、これにより左派の分断をねらうべきである。残念ながら具体的な作戦を記述することは出来ないのでこの点は各関係者に研究してもらうことにしたい。

 唯、一つの材料として『吉住氏が貸付金2万円と13日連操とを取引した具体的事実を公表する(会社声明のように抽象的なものでなく、もっと事実を具体的に述べたもの)』ということが、左派勢力に対して大きな圧力となることはたしかである。この材料が来年4月末に再度脅迫材料として使用できるか、どうかという点については各人によって判断が違うであろう。しかし、この材料は使い方によって、左派の親分を組合運動から失脚させるだけの影響力を持っている筈である。

 従って、この材料を活用して吉住氏をおどすだけおどし、彼とその一派が連操延長に積極的な反対ができない状態──いいかえれば消極的に賛成させる状態を作り出してゆくことも一つの方法であろう。もっと欲をいえば6ヶ月の間に左派勢力をオドすことが出来る決定的な材料を二つ、三つくらい作り出しておくことが必要かも知れない。」

 「王労左派勢力に対する脅迫と懐柔によって、その勢力の分断をはかることには、連操延長問題と同時に、懲戒問題を有利に解決しようとする伏線が秘められている。王労左派が懲戒処分の撤回をもっとも重視していることは衆知の通りである。従って彼等は最後までこの問題の解決と連操延長とをカラミ合わす作戦をとるであろう。というのは、王労の現状は、懲戒問題を解決するために実力行使がおこなえるような体制にないからだ。(註、イヤガラセ的なサミダレストは出来るかも知れないが、それは長期的なものではなかろう。)その為に最後の手段としては『連操延長の拒否権』をかかげて会社に圧力をかける道しか残されていない。これを反対からいうと、懲戒処分の問題は、王労左派を連操延長にまきこんでゆく有力な材料であることを示している。いうなれば切札である。

 しかし、会社が連操を望むのあまり、最初からこの切札を出してしまうことは、懲戒問題が大きな影響力をもつだけに感心できない。若し、会社が懲戒処分を安易に撤回すれば、第一に会社の社会的信用の問題が発生する。第二に王労左派を勇気づけ、将来の労働政策にマイナスの結果を与える。第三に被害者の立場にある新労が著しく窮地に追込まれ、新労対会社の労使関係を暗いものとしてしまう。

 これらの点をあわせて考えると、会社はこの問題を将来の労使関係にプラスになるような形で処理すべきであろう。そのためには、連操延長は出来るだけ他の材料や条件を有効に活用して処理をはかり、最後の切札である懲戒問題は出来るだけ使用しないこと。いいかえれば、懲戒問題と連操延長とは極力切りはなして取扱う。王労左派のペースにまきこまれることを避けなければならない。

 そこで、王労左派に対する脅迫と懐柔の必要性が生まれてくる。若し、会社が王労左派幹部の決定的な弱点を握っておれば、そのことだけで王労左派は追込まれてゆき連操延長と懲戒問題をからみ合わす余裕を失ってゆくであろう。そうなれば、会社も連操延長と懲戒問題とをそれぞれ独自の立場から有利な形で処理できる筈である。」

 「以上6ヶ月後の連操協定延長の問題について分析してみた。この外に新しい取引の材料として、賃金なり、労働協約の問題が出てきそうである。しかし、この問題は王労が長期的な闘争力を失った現在においては、会社の方に有利な取引材料となるであろう。ともかく、もう一度前述したことがらを要約してみよう。

@王労春日井支部を連操延長の方向にむけてゆくこと。

A王労春日井支部と苫小牧支部右派勢力の連合戦線を結成し、王労全体として連 操延長の機関決定ができる体制を作ること。

B王労苫小牧支部の内部に、連操延長に賛成する雰囲気を作ること。

Cこの工作と平行して、連操延長を認める大会代議員支部委員を1/2以上獲得 する運動を進めること。

D同時に王労左派勢力を窮地に追込み、連操延長に積極的に反対できない状態 

 ──消極的にでも賛成する状態を作りあげてゆくこと。

E懲戒問題はできるだけ連操延長と切りはなして取扱うこと。」

 「若し、今後の工作によって、前述したような状態を作ることに成功すれば、次のような道が開けてゆくであろう。

@先ず新労連が積極的に連操協定延長の方針を打出す。恐らく、来年4月頃には、新労連は3/5組合まで成長しているだろうから、その影響力は現在より比較にならぬ程大きなものとなっている筈だ。従って、王労がうけるショックも大きいだろう。しかも、その頃になると、王労と新労の下部組合員の対抗意識が現在よりも冷却しているであろうから、王労がうけるショックも『連操に反対する』という方向にゆかず、むしろ『新労が決めたのだから仕方なく認める』という形をとる可能性が強い。無論この場合王労が少数組合になったことによって、かえって依怙地になり、新労のやることにことごとく反対するというケースも考えられないわけではない。しかし、王労の各級機関における右派勢力の影響力を強めておけば、そのような危険性は回避できよう。

A次いで王労春日井、本部の順で連操延長の決定を強行する。これによって苫小牧の左派勢力は一段と孤立化し、反対の気勢をくじかれることになる。又、本部が決定したということで、右派勢力の発言も容易となろう。つまり『本部の方針を承認するかどうか』で議論すればよいからだ。

B苫小牧の左派勢力が孤立化してゆく進行の度合とにらみ合わせて、左派勢力にオドシをかけ、彼らの反対運動をセーブしてゆく。そうすれば左派勢力は益々動きがとれなくなってくるであろう。

Cこれまでの手を講じてもうまくゆかない場合は、貸付金2万円の残金処理と連操延長とを搦み合わせた交渉を進める。この他に賃金や労協も適当に搦ませる。ただし、これについては、王労にスト能力があるかないかで戦法をかえる必要があろう。スト能力があり、会社も僅かな犠牲でも回避したい場合には、搦み合わせの程度について再検討を要する。具体的な方法は、その時にならなければ判断できかねる。

D最後の切札として懲戒問題をとりあげる。」

  第4節 第三勢力

 1.第三勢力の性格

 では、「平和路線」を推し進めるという意味で「平和グループ」、争議以降の第一組合、第二組合の路線を否定し第三の道を進むという意味で「第三勢力」と名のった、王子労組幹部の集団とは、いかなる性格の集団だったのであろうか。

 王子労組、新労の幹部の学歴、出身職場等は第3表の通りである。この表によれば、まず、新労幹部の多くが大学卒であることが判る。また、新労には、結成当初政党のメンバーは全く存在しなかったが、新労が全労会議に加盟したため一部の幹部は民社党に加入した。左派幹部の多くは、高学歴で、将来の「出世」が約束されていたにもかかわらず、王子労組に留まることによって、その可能性を棒に振った者、あるいは、そうでなければ、共産党員等強固な左翼思想を持つ現場労働者であった(王子労組内の共産党員は5名のみであった。彼らに対する組合運動の進め方に関する党の指導はほとんどなく、組合運動についての党細胞独自の路線も無いも同然であった(1))。

 それに対して、第三勢力の多くは、高等小学校卒の生産現場の平社員であり、大学卒は一人もいなかった。また、彼らは無党派または社会党員であり共産党員は全く存在しなかった。王子労組内の社会党員のほとんどは、明確かつ強固な左翼思想の持ち主ではなかった(社会党員は約50名存在した。王子労組内の社会党員が、日本社会党の左右分裂に際し左派に属したのは、政治的立場の主体的選択の結果ではなく、単に社会党道連が左派に所属したからでしかなかった。当時の社会党は、学歴が低く企業内での昇進を期待しえなかった者に対して、組合幹部の地位を足がかりに市会議員、道議会議員になるという「出世コース」を提供していた(2))。以上のように、第三勢力は、学歴、出身職場、あるいは強固な左翼思想の欠如という点で、左派や新労幹部と比べて、平均的な王子製紙労働者(3) に近い体質を有していたと言える。

 第三勢力は左派と対立しつつ平和路線を進めたが、彼らも長期スト時には左派と異なる派閥を形成していたわけではない。彼らの中には、市川年雄支部長(苫小牧支部)、今田勝義支部執行委員のように、最も戦闘的な指導者であると会社側から思われていた者(4) も少なくなかった。彼らが第三勢力を形成したのは、スト終了後、職場闘争が展開されていた1959年1月から2月にかけてである(5)。彼らが第三勢力となり、組合を平和路線に導いた理由は、彼ら自身の言葉(6) によれば次の通りであった。

 @彼らは、吉住執行部の路線について、それが「無謀」かつ「極左的」な方針であり、徒に会社の「弾圧」を招き王子労組からの脱退を促進する結果をもたらしていると考えた。そして、闘争を控え会社に対して譲歩することによって「平和」を回復しなければならないと考えた。A長期スト、スト後の職場闘争の中で、第一、第二の両組合員は憎しみ合い、多くの暴力的衝突も発生したのであるが、彼らは、このような、かつては同じ組合の組合員であった「同じ従業員」「仲間同士」の対立を否定的に把え、特に、王子労組の就労後、現場では圧倒的多数を占めていた王子労組側が、少数の新労組員を「吊上げ」たことについて「反省」した。B新労との暴力的衝突を伴うスト中の闘争戦術、新労組員との憎しみ合いの増幅を結果した職場闘争を王子製紙に持ち込んだ炭労活動家を中心とする総評派遣のオルグに対して反感を抱いた。そして、「無責任」な「外部勢力」の「介入」は、王子の従業員にとって「有害無益」だと考えるようになった。また、オルグの横山春雄紙パ労連副委員長の出身企業である東北パルプが、王子のストに乗じてシェアを伸ばしたことについても憤慨し、同業他社出身のオルグは「口先」では「産業別統一闘争」を叫んではいても、実際には自分の企業の利害に従って行動するものだと認識した。そして、地域共闘、産業別統一闘争等超企業的共闘を否定し、総評、紙パ労連からの脱退を指向し始めた。

 これに対して、左派は、合理化反対闘争を推進すべきだと考えるとともに、第三勢力とは違って職場闘争や超企業的共闘についても肯定的であった。そして、争議前の王子労組が超企業的共闘や職場闘争に消極的だったことを反省し、王子労組を「企業内的」な「殿様組合」から「階級的」な労働組合に脱皮させなければならないと考えていた(7)。

 他方、新労幹部もまた職場闘争や超企業的共闘を否定していた。しかし、次のような点で第三勢力の考え方は新労幹部のそれとは異なっていたという。新労幹部は、製品市場における王子のシェア低下を憂慮し「独り当社のみが、昔の王者の夢をむさぼっていられなくなって」(8) いると訴えた。「企業の繁栄」が「労働条件向上」の前提条件だと主張し、積極的に「生産性向上に協力しよう」「分配率の増大よりは生産量の増大を」(9) と呼びかけた。そして、連続操業、要員削減等の合理化に対して「全幅の協力と努力を傾注」(10) した。さらに「安定賃金協定」を進んで受け入れ賃金増額の抑制についても協力した。第三勢力は、このような新労幹部の態度に反発し次のように考えていたという。新労は「御用組合」であり労働者の利益を「代表」するものではなく、多くの新労組員は、その「幹部のやり方」に不満を持っている。王子労組も、今後は、合理化に対して、ある程度は協力していかなければならない。また、連操受諾は、労使間の「平和」を回復し、組合からの脱退を防ぎ、処分撤回等会社の譲歩を引出すための配慮として妥当な施策である。しかし、労働運動の基本的なあり方としては、合理化に歯止めをかけ続けることを忘れてはならず、合理化に全面的に協力しようとする新労の態度は行き過ぎである。したがって、争議前の王子労組の合理化反対の姿勢については、基本的には継承すべきである。また、賃金増額についても新労のように会社の「言うなり」になってはならない。王子労組は職場闘争や超企業的共闘の路線と訣別し、新労と「対等合併」し「御用組合」でも「超企業的」でもない従業員の利益を真に実現する組合をつくるべきである。そして、争議前の「企業内的」な王子労組「本来」の姿に帰るべきである。もし、これらの言葉が真実なら、合理化反対路線を真向から否定していた新労幹部とは著しく異なっていたと言える(新労幹部と第三勢力の考え方に相違が生じたのは、新労幹部の多くが大学卒だったのに対して、第三勢力の多くが高小卒の現場労働者だったからだと考えられる。第三勢力は現場労働者の合理化に対する反発をよく理解しており、彼らの支持基盤も現場にあった)。

 しかし、第三勢力のこれらの言葉は単なる自己弁護であり本音を伝えていないのではないかという疑問が生じる余地はある。そこで次に左派が第三勢力をどのように見ていたかを検討しよう。第三勢力による闘争放棄や執行委員辞任は王子労組の崩壊を結果したのであるが、左派は、第三勢力のメンバーの多くが目的意識的に王子労組を破壊し組合員を新労に送りこむことを目指していたのではないと述べている(11)。王子労組の目的意識的破壊者が、彼らの内少数でしかなかったことは、次の事実からも明白である。今田勝義らが執行委員の辞任による動揺に乗じて「今、脱退して新労に入れば将来の地位は保証される」と脱退を勧誘してまわったのに対して、岩崎俊雄や市川年雄達第三勢力の多数は、この頃、呆然自失の状態にあったのである(12)。

 また、王子労組の目的意識的破壊者とそうでない者との相違は、王子労組脱退、新労加入の時期、および、その後の彼らの経歴に現われている。例えば、“目的意識的破壊者”の今田が、1960年1月王子労組の雪崩的崩壊と同時に直ちに新労に加入したのに対して、加賀谷昭夫の加入は同年2月30日であり、市川年雄、瀬川忠男は退職するまで新労には加入しなかった。そして、今田勝義がその後新労の推薦で苫小牧市議会議員(民社党)に当選するという“出世コース”を歩んだのに対し、市川年雄は1960年8月会社から退職を勧告され(拒否した場合は違法な争議行為を指導した責任により懲戒解雇処分に処すと通告)これに応じて退職し、加賀谷昭夫は春日井工場転勤、苫小牧工場に残った瀬川忠男、岩崎俊雄も、新労幹部等の重職に就くことなく“生涯不遇”であった。

 では、王子労組の組織を維持しようと努力していたメンバーは、なぜ第三勢力を形成したのであろうか。左派の服部治男中央執行委員(1958年)は、彼らの中には自己保身のために第三勢力となった者もあると述べている。すなわち、彼らが新労との対等合併を指向したのは、王子労組が切崩されて新労に吸収される場合には組合幹部としての地位を保つことが不可能であり、彼らの「面子」も立たないからであったという(13)。しかし、服部や同じく左派の田原賢蔵書記長は同時に、第三勢力が少数の例外を除いて単に私的利害のみに基づいて行動したのではなく、組合の「将来」を「良心的」に考えていたことを認めている(14)。そして、服部は、第三勢力の考えが、単に闘いの見通しについての悲観論や戦術的慎重論に留まるものではなく、第三勢力は、「同じ従業員同士」の対立を「反省」し、かつての「仲間」であった者どうしの間における“和”の回復を真剣に追求していたと記している(15)。なお、この文書は服部によって王子争議直後の1960年に書かれたものであり、長い年月を経た後の回顧録ではないという点でも信頼に値するものである。そして、第三勢力のメンバーの気質、性格を長年の付き合いによって熟知しており、しかも、彼らと対立していた左派ですらこう書いていることから、第三勢力の言葉が単に自己弁護の虚構であるとは考えられない。さらに、第三勢力が「従業員同士」の対立について「反省」していたことは、次のような岩崎俊雄の発言にも示されている。1959年5月17日午後1時より、東京大学社会科学研究所講師藤田若雄を交えて、王子労組幹部8名による会議が開かれたが、その席で岩崎は「青ボウに敵意がむきすぎていたのではないか、また親しみをもっていくべきではないか」(16) と主張した(青ボウとは新労組員を指す、長期ストライキ中彼らは青い帽子をかぶった)。

 

 

 2.会社による第三勢力の育成

 このように第三勢力の多くは、王子労組の目的意識的破壊者ではなかったが、第三勢力の育成に当って会社による「工作」が重要な役割を果たしたことも事実である。会社の対組合工作のシナリオとも言うべき文書(1)には、1959年9月の役員選挙における第三勢力(右派勢力)の「進出」計画が次のように記されている。

 「次期王子労組の役員の選出」について、これを「放任」すれば「現在の左派役員が殆んど全部当選することは略々明確」である。この「左派役員」は「今次争議」について「何等反省がなく」その「再選」は「紛争再発の素因を醸成する禍根」となる。左派の打倒のためには「現在の左派役員を再選」させ闘争を再開させた方が得策だとする「意見」もあるが、それは誤りである。なぜなら、王子労組の「組合員大衆」には、再開された紛争の中で、第三勢力が左派を打倒しようとする時、これに「追随する基盤」が無いからである。また、会社にも闘争に耐えうる「体力」が無いので、この「左派再選の方策」による「左派勢力の打倒」は「不可能」である。したがって、採用すべき方策は「凡ゆる方途を尽して」「右派勢力」の「進出を図り」「左派勢力」の「独走を制約しその行動を阻害し混乱せしめる」ことである。以上の「目的達成のため両工場長を中心とする動きがあるが、この方策を強力に推進するためには会社の役員会に於いてこの方針で行く旨を打合決定し、会社幹部の意志統一を行い、管理者層を通じ強力に施策を実行する決定を下部に督励することが焦眉の急務である」。

 そして、直接に、第三勢力を組織化したのは、戦前の日本共産党委員長である田中清玄であり、彼を王子製紙の経営者に紹介したのは、元北海道庁職員組合委員長である社会党系の北海道知事田中敏文であった(2)。知事が田中清玄を王子の経営者に紹介した理由は次の通りである。1959年は統一地方選挙の年で、4月23日には北海道知事、道議会議員、4月30日には市町村議会議員の選挙が予定されており、特に、当時の社会党道連幹部にとって、田中敏文の後継者として横路節雄候補を当選させることは「至上命令」であった。1959年3月、王子労組は「懲戒処分撤回」「子弟採用差別撤回」のために闘いを再開したばかりであったが、社会党道連、全道労協(全北海道労働組合協議会)幹部、田中知事は、選挙戦を有利に運ぶためにスト再発を阻止しようとした。それは、スト再開によって選挙運動のための人員(全道労協傘下の労組員)を王子の闘争の支援のために割かれること、また、マスコミが「暴力スト」として報道していたストの再発による得票の減少を恐れたためであった(3)。知事は、田中清玄の働きによってスト再発が阻止されることを期待していたのである。

 また、社会党道連、全道労協幹部は、4月8日に予定されていた24時間ストが迫ると市川年雄苫小牧支部長を札幌に呼び出してスト中止を要請した。前日の4月7日に、市川支部長は「朝から」札幌に呼び出されストを中止せよと「ギュウギュウやられ」たため、「メンツもあるので、せいぜい3時間くらいの時限ストをやってお茶をにごすから」と「約束」して「7日夜もおそくなって、解放され」帰途についた。そして、東京駐在の中央執行委員会とかけあったが、彼らは、この頃既に第三勢力に組織化されつつあった市川支部長とは違って闘争推進の決意を有していたため、24時間ストの変更を認めず、8日のストは予定通り実施された。これに対して、社会党道連幹部は「これはかんべんならぬ」と、市川支部長、加賀谷昭夫苫小牧支部書記長を札幌に呼び出して厳しく叱責した。さらに、田中知事は、自らが仲介者となって王子労組、新労、会社の「三者会談」を斡旋した。4月13日東京において、知事は電話で社会党道連幹部と翌14日のストを中止させる方針を確認し合った後、スト中止や平和的交渉に難色を示した吉住中央執行委員長らを強く説得し、「三者会談」に臨むことを承諾させた。そして、14日、17日に予定されていたストは中止されることになった(4)。

 知事は、田中清玄をまず王子製紙春日井工場長田中文雄に紹介した。知事は田中文雄とは九州帝大林学科の同級生で「こうした争議は、実戦経験のある専門家を頼まないと解決が難しい」と田中文雄に勧め田中清玄を紹介した。それ以来彼ら3人は、その風貌から「ハゲ田中」(工場長)、「ヒゲ田中」(知事)、「キチガイ田中」(田中清玄)の「三田中」と呼ばれ、相互に親交を深めることになった(5)。1959年1月、田中清玄と知事は、まず、苫小牧地区労書記長今田勝義(スト中は王子労組苫小牧支部執行委員)に働きかけ(6)、その後、今田勝義を通じて他の幹部達を第三勢力に組織化していった(7)。その結果、市川年雄支部長は、田中清玄を「生涯の師」として尊敬しその熱烈な信奉者となるに至った(8)。

 このように、第三勢力の組織者が田中清玄だと述べると、彼らのすべてが会社の「スパイ」、組合の目的意識的破壊者であるかのような印象を受けるかもしれない。しかし、それは前述のように誤りである。田中清玄の説得の内容は、「同じ労働者同士」が「憎み合ってはだめだ」と両組合の再統一を勧め、経営者の態度についても、労働者の主張に耳を傾けていないとして批判し、会社、王子労組の双方が自己の誤まりを改めて新しい労使関係を築くことを勧めたものであった(9)。彼の説得が、「スパイ」となって破壊工作を担うことを勧めたものでなかったからこそ、真面目に組合の将来を案じていた市川支部長らの心を把えることができたのであろう。以上の検討から明らかなように、第三勢力の中には王子労組の破壊を目的意識的に追求した者も含まれていたが、その多くは主観的意図において、王子労組の維持、発展を願いつつ「良心的」に行動したのである。

 ここで、会社の労務政策における第三勢力の位置づけについてふれておこう。経営者側にも内部対立が存在した。社長とその意を受けた田中清玄は、第三勢力の育成を通じて王子労組を「穏健」な組合に変質させ、総評から脱退させた上で新労と対等合併させることによって労使関係の安定を実現しようとしていた。そして、彼らは王子労組幹部の心を和らげ第三勢力への共鳴者を増やすために、新労による切崩しを抑制しようとした。例えば、「赤坂の料亭」で田中清玄は、苫小牧工場における争議対策の事実上の最高責任者であった市村修平管理部長(争議中に副部長から昇進)に対して「社長の命令」だとして「直ちに」王子労組の「切崩しをやめろ」と叫んだこともあった(10)。他方、反社長派であり社長の座を狙っていた熊沢貞夫副社長の輩下であった市村は、第三勢力を、王子労組を切崩し新労を拡大するための手段として位置づけていた。会社の労務政策は、この両派の反発と妥協の内に揺れ動きながら、具体的には「冷却──刺激」戦術として進められた。

 会社側の秘密文書にはこう記されている。「これまでの報告では冷却―刺激―混乱の反復が組織の分化を促進する効果的な方法であることを繰り返しのべてきた。そしてその成果は次第に実を結んできたとみてよいであろう」(11) この文書の発行日である1959年8月5日までの期間における会社の対応は、懲戒処分、子弟採用差別(刺激)―北海道知事仲介の「三者会談」(冷却)―春日井工場の配置転換発表―その基本的撤回(冷却)―「ボーナス差別」(刺激)―ボーナス差額分平均2万円貸付(冷却)と、まさに「冷却―刺激」の「反復」そのものであった。王子労組が闘争を再開しようとすると、譲歩を示唆して闘争を先送りさせ組合幹部の心を和らげて第三勢力に組織化するとともに、組合員の闘志を意気消沈させ「冷却」する。その上で、再び「ボーナス差別」等の攻撃をかけて切崩し、組合脱退者を増加させる。もちろん、前述のように、切崩しと第三勢力育成が相互に阻害し合うこともあった。会社の政策は矛盾を孕みながら展開され、最終的には市村修平管理部長の王子労組解体路線が勝利を収めたのである。

 なお、市村と同じく、争議対策および争議後の「経営合理化」の中心人物であった田中文雄春日井工場長は、中島社長=田中清玄、熊沢副社長=市村管理部長の対立する二つの路線の狭間にあって、調停者的な役割を果たしたと推測される。なぜなら、前述のように田中文雄が中島社長、熊沢副社長の双方と“良好”な人間関係を保ち続けたからであり、また、退嬰的経営政策の払拭の意図をもっていたという点において、経営路線としては熊沢派の市村と同一のものを持ちながら、1959年の王子労組との交渉、協議においては、常に自らを中島社長の意志の代弁者として押し出している(後述)からである。

 

 3.第三勢力の“日本的精神構造”

 第三勢力が労資間の「平和」の回復、第一、第二の両組合の対等合併を目指していたことについては先に記した。その箇所では、それ以上掘り下げて論じなかったが、彼らがそうした路線を選択し第三勢力を形成するようになるに当っては“日本的”だと推測される精神構造が決定的な意味をもっていた。ここでは、そのことを第三勢力の形成過程、組合内の会議および労使交渉、協議の席における彼らの発言から明らかにしたい。

 第三勢力の形成に当っては、田中北海道知事、そして、田中知事の私設秘書であり、社会党道連常任執行委員であった平野晁、そして、全電通出身で社会党苫小牧支部長、元苫小牧地区労議長、市議会議員の合坪正三が重要な役割を果たした。彼ら社会党幹部達は、田中清玄とともに、王子労組幹部を説得し「第三勢力」に組織化した(1)。

 社会党道連による説得の論理は、次の文章(社会新報論説)に如実に表現されている。「王子労組と第二組合の組合員同士、同じ従業員同士が日本人同士の同じ労働者階層が感情のもつれから来る血で血を洗う状態は会社百年の大計上決して有益でない事は衆知の通りである。衆知の事実でありながら、労資、第一、第二の両労組の間に『和』の精神の生まれないのは何故だろう、円満解決への進展を見ないのは何故だろう。」「王子製紙の如く、化学産業であり連続的職場において操業態勢の確立こそ極めて重要、真の解決はこの操業態勢の確立である。操業態勢の確立は従業員、組合員同士の『和』の精神であり、組合の完全統一である。果たしてこの重要課題を会社側も第一第二組合の幹部、組合員が考えているのだろうか。力による解決は解決ではない。操業態勢の確立でもない。此処に日本人特有の面子にとらわれる事なく、道民、市民の声に静かに耳を傾けるべきである。」(2)。

 ここに見られる論理の特徴は第1に、王子労組と第二組合のどちらが正しいか悪いかを問題にしていない点にある。第2に、「日本人同士」の「同じ従業員同士」の「和」の提唱である。そして、この「和」は“善悪の論理を超えた和”であった。こうした考え方が、平野晁、合坪正三ら社会党幹部、および、田中清玄による説得の主たる内容だったことは、第三勢力メンバー(今田勝義、加賀谷昭夫、瀬川忠男)および、当時の社会党苫小牧支部長合坪正三からの聞きとりによっても確かめられた(3)。

 彼らの説得によって、田中清玄の熱烈な信奉者となったのが、レッド・パージ復職闘争、連操反対闘争の旗手であり、145日のストにおける“輝ける苫小牧支部長”であった市川年雄であった。市村修平苫小牧工場管理部長は、市川「支部長が常時白さやの短刀をふところにしのばせているという風聞を耳にし、その浪曲じみた性格を分析し」「裸同士で話合おう」と「一緒に入浴して見せ」情緒的な方向からの和解を追求した(4)。こうして、市川は会社側の「誠意」を信じるようになった。そのことは、執行委員会内の議論(1959年6月8日)における、市川の「組合が心から誠意をつくして諸問題の解決に当っているのに、会社が誠意を示さないわけがない」(5) という主張に現われている。王子労組の闘争再開に対する社会党道連、全道労協による圧力、北海道知事の仲介によって実現した「三者会談」(1959年4月) 以降、王子労組と会社は「平和交渉」を続けたが、会社は譲歩を匂わせながら交渉を引延し、王子労組側にとっては成果が得られなかった。そのため、王子労組は、6月、闘いを再開しようとしたのであるが、市川年雄は先のように主張して闘争再開に強く反対したのである。

 1959年4月、除名解雇、職場闘争に対する懲戒処分、子弟採用差別の問題で、王子労組が闘争を再開しようとした時の、田中敏文北海道知事および中島慶次社長による説得内容も、対立点を棚上して情緒的和解を図ろうとするものであった。

 4月14日東京で、田中知事の仲介の下に、王子労組、新労、会社は「三者会談」を開始したのであるが、「三者会談にのぞむ条件としては、旧労は色々出して、団交でやる様なことを、皆三者会談に持込むというようなやり方を主張したが、そういうことでは、現在平和的空気を作り出すために三者会談をやろうとしているので、具体的な条件が何かあろうと、それは三者会談の問題ではないから、すっきり割切りなさいと田中知事に言われて、結局諒承した」。すなわち、除名解雇、処分、子弟採用等の問題は棚上されたまま、「平和解決」のための「三者会談」が進められたのである。この「三者会談」で、既にこの頃第三勢力に組織化されつつあった市川苫小牧支部長が知事および会社が進める「平和解決」の方向に好意的な態度を示したことは言うまでもない。市川は、既に4月10日、苫小牧で合坪正三社会党苫小牧支部長の仲介の下に、戸部卯吉苫小牧新労副委員長、石川晴樹書記長と非公式に会談し、翌4月11日、市川と石川新労書記長は「仲良く二人で上京」(6) した。

 また、中島社長は「三者会談」の席で、次のように発言した。「会社も色々と反省しているし組合にも反省をお願いしたい。……当社の最高責任者として自分としては一身を投げ出してこの問題を解決したい。誠心誠意これに当りたい。自分は体の都合で代わりの人を出すが責任根本は私にある。信を相手方の腹中におくつもりである。」(7) これまで団交、協議の席にほとんど出席したことがない中島社長の、しかも、異例の低姿勢だと受けとることのできるこの言葉は、第三勢力のみならず、左派の吉住秀雄中央執行委員長の心をも強くゆさぶった。戦後1946年頃共産党シンパとなった吉住秀雄(入党は1965年)は、1919年直属の監督者を排斥するための運動を行い解雇処分を受けた千葉喜三郎の実弟で、解雇された兄の生活苦を間近に見て、「社会の矛盾」に対する怒りを形成した(8)。また、生産現場(調木)の労働者であった吉住は労働災害によって指を切断していた。こうした経歴から吉住は、「筋金入り」の「労働者魂」と、インテリ層に対する強い反感を持っていたという(9)。そうした吉住であったが、社長の挨拶に心を動かされ、同日4月14日午後9時、東京、苫小牧間の電話連絡において、「我々も腹中に入って行くという心構えで進めて行きたい」(10) と語った。 このように、第三勢力、そして、左派の吉住委員長も半ばこれに同調して、4月から6月にかけて「平和交渉」が進められたが、会社側は交渉を引延すだけで具体的譲歩を示さなかった。そこで、前述のように左派主導の吉住執行部は第三勢力の反対を押し切って闘争再開を決定したのであるが、この時の会社回答は、またしても、“具体的”譲歩を示すものではなく“玉虫色”のものであった(前述)。田中清玄を使って第三勢力を育成した田中文雄春日井工場長は、労使間の諒解事項が曖昧で玉虫色の文章に表現されたことに対する王子労組側の不満に対しては、田中文雄個人および中島社長の「腹」「誠意」を「信頼してくれ」と迫ることにより、説得しようとした。

 田中工場長は次のように語った。職場闘争に対する懲戒処分の撤回は「今ならダメだ。ストをやっても撤回出来ない。しかし今後に向って解決する自信を持っている。」「復職については田中前知事と力を合わせ社長を説得すれば出来るという自信もある。」(11) しかし、「年内に解決するといっても新労もあり、会社の方だってわからない人間もいるんだし、足をひっぱられるおそれもある。また重役間でも色々内部的な問題が沢山あるわけだ。又日経連もあるわけだ。そういう処から、一たん発表した処分というものをなんらかの形で撤回する、復職させるということをいま出した、今労使で話を進めたとなれば横やり、じゃまが入るということなんだ。将来この解決については絶対自信を持ってやるから」(12)

 さらに、1959年7月、スト参加者とそうでない者のボーナスに出勤日数に応じた差がつけられたことに関する団体交渉(7月11日午後8時10分〜10時50分)の席で、会社代表の田中文雄はこう発言した。「前にも言ったがね、そういう筋だとか主張という所から始まるから、まとまらない。」「争議をしなくてはならないという観点から離れないと出発しない、あなた方だってストをやりたくないわけでしょう」(13) 田中文雄は、ボーナス問題における具体的妥協案を示すことなく、王子労組に対して「筋」や「主張」を棚上し、当面するストライキを中止することを求めた。

 また、1959年9月10日午後3時〜6時30分の団体交渉では、同年夏期ボーナス差額分を補填するための貸付金返済問題等を具体的に解決することなしに、王子労組に休日返上の13日連操を呑ませるために(王子労組側は連操承認の代わりに貸付金返済を免除せよと要求)、田中文雄はこう説得した。貸付金問題解決の具体的条件を「ハッキリさせるならぶちこわしになる、交渉は労使の信頼の中に出来たもので、私(田中)や社長を信頼しないのか」、労使間に「これまで欠けていたのは信頼」であり「絶対に悪いようにしない、信頼してくれ」「素直にかけてもらいたい」(14)。こうした説得に応じて、第三勢力の岩崎俊雄を中央執行委員長兼苫小牧支部長とする新執行部は連操実施を承諾したのである。

 連操問題等に関する岩崎執行部の考え方は、1959年10月4日の東京での会議における次のような結論に如実に表現されている。貸付金問題の解決は「労資間又は労々間の感情の如何にかかる」。職場闘争に対する懲戒処分の撤回のためには「新労の感情緩和が必要となってくる」。そのためには「過去のわだかまりをすてること」、「相互に信義と信頼を確立する努力に踏切ること」が不可欠である。「会社は組合の態度に不信を内蔵しているので組合の態度があいまいな場合には信頼回復に疑問を持っており組合としては少々難点があっても組合員に理解させる事に責任を持たなければ」ならない。「社長及重役会に対して充分に組合の態度を理解させ組合の真意を示す必要がある」(15)。そして、「感情緩和」「信頼回復」のために岩崎執行部が行ったのが、休日返上の13日連操の受諾であった。会社側からの譲歩が何もないのに、王子労組側から“先んじて”譲歩し、会社側の「感情」を和らげ、「信頼」を回復しようとしたのである。

 これは、もはや、“バーゲニング”とは呼びえないものである。なぜならば、ギヴ・アンド・テイクの関係となっていないからである。もちろん、岩崎委員長らは、王子労組側の“一方的譲歩”によって会社がその「感情」を和らげ、その結果として貸付金、処分等の問題について譲歩することを期待していた。しかし、人間関係を良好に維持するための中元、歳暮のやり取りがバーゲニングとは異質なものであるならば、岩崎執行部の連操受諾もバーゲニングとは呼びえないであろう。

 そして、前述のように、田中文雄の口約束、曖昧な表現による譲歩の示唆は、すべて反故にされ、懲戒処分は撤回されず、ボーナス差額分の貸付金は全額、月々の賃金から天引、徴収された。また、子弟採用差別の補正措置として1959年12月および翌1月、王子労組員の子弟5名(採用者は全部で31名)の採用が行われたが(16)、この子弟採用はその父親を王子労組から脱退させるための手段として利用された。

 以上のように、第三勢力は、善悪の論理的判断、対立点の解決の具体的内容を常に曖昧にし棚上し、労資間および労労間(第一、第二両組合間)の「感情融和」「和解」の自己目的的追求を勧める会社側および社会党幹部、田中清玄の説得を受け入れ、それに従って行動した。その「和解」の前提条件は、対立点を棚上したまま、中島社長、田中文雄工場長の「誠意」、「腹」を「信じる」ことであった。さらに、信頼関係の回復のためには、対立点の具体的解決ではなく、「一緒に入浴」し「裸」になって「腹を割って」話し合うという情緒的一体化が追求されたのである。そして、対立点を棚上したまま情緒的一体化を図ろうとする会社側の説得には、左派の吉住秀雄ですら心を“半ば”動かされた。

 しかし、皆川光男中央執行委員会副委員長(1957〜1960年、東京本社出身、東大経済学部大塚久雄ゼミナール出身)のように、玉虫色の“解決”とは対立する資質を持つリーダーも存在した。145日のスト収拾に関与した太田薫総評議長(当時)はこう記している。「流血の惨をまじえながらも、この大闘争は最後に中労委にかかったが、その収拾のために私もたいへん苦労した。このときの王子の副委員長は、名まえは忘れたが、なかなか頭がよかった。中労委の斡旋にかかっているとき『テニヲハ』の一つ一つに因縁をつけてねばったものである。私は中労委四階の委員室におり、中山会長が三階で斡旋にあたっていたが、私は一晩のうちに三階と四階とを四十回も上がったり下ったりした。そのために、すっかり心臓がわるくなったと思うくらいだ。」「たしかに中山さんも、あの副委員長の頭のよかったことを、ずっとあとで中労委会長を辞任されるときの会で話しておられた(17)」。

 この太田の文章を見れば、「テニヲハ」の「一つ一つに因縁」をつける者、すなわち、玉虫色ではなく一義的に解釈しうる論理的に明確な妥結案を求める組合幹部は、王子に限らず一般的にもよほど少なかったものと思われる。そして、王子労組においても、皆川副委員長は特殊な存在であった。大部分の一般組合員と、第三勢力の多くや、左派であるにもかかわらず中島社長の「誠意」に心を半ば動かされた吉住秀雄が、同じく高等小学校卒の現場労働者であり、かなり似かよった心情を有していたのに対して、そうした心情から無縁であった東大卒の皆川は相当異質な存在だったと言える。高学歴の者は、その長期にわたる学校生活によって、「我々がしばしば口にする日本人らしさ、それがひしひしと身につき肉となり、自分と共に成長する機会」(18)を、通常の人々に比べてより多く喪失している。それゆえに、皆川は“日本的心情”が結果する陥穽を免れてはいたが、それだけに、その影響力は、王子労組執行委員会内部においてさえ、限られたものでしかなかったのである。 したがって、このような皆川の努力によっても、145日のストの収拾は、“玉虫色”であることを免れなかった。確かに、中山斡旋案は約3ヶ月の暫定期間に「組合を除名された者」を会社が「解雇」することを謳っていた。しかし、斡旋案は同時に第2項で「当面一つの重要な問題は現在組合が二つに分裂しているという事情であるが、これは事実として認めざるを得ないので労使双方ともこの事実の上に立って紛争の収拾を図るように努力されたい」としており、新労は、この第2項を「二つの組合の併存」を認めたものとして宣伝した。二つの組合の内どちらに加入するかは個人の自由(憲法に保障された結社の自由)であり、「脱退と除名とは関係ない」、「個人は自由に新、旧いずれかの組合に加入できるので、新労に加入するために旧労を脱退しても除名することはできない」と主張した。そして、「会社が旧労の圧力に屈して解雇したら」その解雇は「第一に二つの組合を自由に選択する権利を無視したこと。第二に新労の団結権を無視する会社の不当介入、不当労働行為であることによって、法的にも無効である。」(19) とした。このように、暫定期間中の脱退者を王子労組が除名すれば会社は解雇しなければならないことを、斡旋案が意味しているとする王子労組側と、それを「結社の自由」および「団結権」によって否定する新労側との二つの解釈が対立することになった。しかし、中山伊知郎中労委会長は、自らが出した斡旋案について明確な解釈を示さなかった。確かに、中山斡旋案による収拾は、王子労組側に勝利感を、新労側に敗北感を抱かせた。だからこそ、会社は、被除名者解雇の条項に執拗に反対し、新労幹部は会社による中山斡旋案受諾に抗議したのである。したがって、145日のストはおよそ6対4の差で王子労組の「基本的勝利」に終わったと言っても過言ではあるまい。しかし、それが、あくまでも“玉虫色”の収拾という側面を有していたことも事実である。1959年2月13日、暫定期間中最初の脱退者(新労に加入)が出現し、王子労組が斡旋案に基づいてその解雇を要求したにもかかわらず、会社は拒否した。そして、暫定期間中の王子労組脱退者は苫小牧工場63名、春日井工場61名に達した。こうした事態に対して、3月18日、王子労組は、この除名解雇問題を、職場闘争に対する懲戒処分問題等とともに、中労委の斡旋に付したのであるが、3月28日中山会長は斡旋打切りを通告した(20)。すなわち、中山伊知郎会長は、自らが提示した斡旋案についての解釈の具体化を、労資間の現実の力関係の推移に任せてしまったのである。

  第5節 一般組合員の意識

 1.第二組合員との対立の忌避

 では、王子労組崩壊の主要な根拠は、左派幹部の動揺によっても許容された第三勢力の闘争放棄にあったと結論づけ、ここで分析を終えていいのであろうか。そうではない。岩崎執行部は、組合員が直接投票によって選出したものである。また、連操受け入れも、それに対して反対が少なくなく討議が「難航」し、また、苫小牧支部では「但し会社側に誠意が認められない場合には断乎闘う」という但し書をつけはしたものの、結局は修正可決(10月26日支部大会63対13)され、また、同日の春日井支部大会でも39対0で可決されたものであった(1)。組合員は平和路線を基本的には受け入れていったのである。したがって、一般労働者は「戦闘的」であったにもかかわらず、指導部が闘争を放棄し組合を崩壊に導いたという図式は当てはまらない。

 一般組合員は、なぜ第三勢力の岩崎を委員長に選出し、彼による闘争放棄を受け入れたのであろうか。それについて検討する前に、第三勢力の主張や行動の内、組合員に知られていたことと、隠されていたこととを分けなければならない。第1に、彼らが会社幹部と秘密裏に会合を持っていたこと(2)は、彼らの辞任直前まで大部分の組合員には知られていなかった。第2に、総評、紙パ労連からの脱退を指向し新労との対等合併を目指していたことも、ほとんど知られていなかった(3)。組合員が理解していた方針は、会社に対して譲歩しつつ、労資間、両組合間の「和解」を推し進めることでしかなかった(4)。したがって、第三勢力の考えの内で組合員が受け入れた部分はこの限りに留まっていたと考えられる。

 ここで、まず、労働者大衆の意識の分析の方法について述べておきたい。争議分析において、最も容易かつ明確に把握しやすいのが、リーダーの行動、そして、その行動およびそのリーダーが記した日誌、回顧録、等の文章から明らかにしうるリーダーの思想、思考様式である。そのリーダーが存命中であれば面接調査も可能である。また、リーダーの行動は、ビラ、組合日誌、会社側が記した争議記録、新聞記事、裁判記録によって、相当確実に把握することができる。

 他方、労働者大衆の行動となると、その把握がリーダーの行動に比べかなり困難になる。数人のリーダーとは異なり、労働者大衆は数千、数万人にのぼる。その多数の人々それぞれが毎日、極めて多様な行動を展開する。組合の指令によって行われた行動だけを追っていたのでは争議の核心に迫ることができないかもしれない。面接調査にしても、数人あるいは数十人の調査対象でもって全体を代表しうるか否かという問題がある。もちろん、争議期間中の大衆の行動についての文書は存在する。しかし、それは、あくまでも、特定の争議観に基づく認識のフレーム・ワークによって抽出された“事実”でしかない。立場、イデオロギーが異なれば、自ずと、いかなる事実をどのような形で取り上げるかが違ってくる。

 しかし、さらに認識が困難なのが、労働者大衆の意識である。外に現われた行動よりも内面の意識に関する分析の方が難しいのは自明である。行動の場合は、様々な“証拠”によって、そうした事実が存在したか否かを確定的に証明することもできよう。他方、意識の場合は、労働者の様々な行動をもとに特定の立場に立つ認識主体が解釈するしかない。したがって、不確かさはより大きな比重を占める。

 @リーダーの行動、意識、A大衆の行動、B大衆の意識と並べれば、あとに行くほど事実の確定が困難になるのである。しかし、労働者大衆の意識に迫ることなくしては、争議研究の意味がない。そこで、我々は、労働者大衆の意識に関して、対立し異なる様々な立場からの解釈をつき合わせ、それぞれの妥当性を検討するという分析方法を採らなければならない。すなわち、新労幹部、第三勢力、王子労組左派幹部のそれぞれが労働者大衆の意識をどう把握しているかをつき合わせつつ検討を進めなければならないのである。

 石川晴樹苫小牧新労書記長(1959年)によれば、王子労組員が平和路線を受け入れた理由は次の通りであった(5)。ストライキ中、両組合員間には「たいへんな」「憎しみ合い」が存在した。しかし、ストが終わって就労すると次第に「異常な興奮がさめ」王子労組員も「争議」を「さめた目」で見はじめた。そして、「平常心」が「よみがえってくる」と、スト中に「人殺しよりも悪い」と考えた新労組員についても長年にわたり世話になり仲良くつきあってきた「同じ職場の仲間」だと再認識し始めた。そうなると、スト中に自分達が「悪夢」の中に居たように感じられ、「労働者同士の憎しみ合い」についての「反省」が広がっていった。また、戸部卯吉苫小牧新労副委員長(1959年)も、スト中に激しく「対立」した人間関係は「全部」「後で元にもどった」「闘いが終わったら仲間」であり「不思議」なものだと語っている(6)。第三勢力であった加賀谷昭夫王子労組苫小牧支部書記長(1959年)も、新労組員である現場職制との関係は、争議前には「正月だ、盆だといっしょに酒を飲んだ間柄」で「敵、味方に分けて考えられない」ものであったと述べている(7)。

 以上のように、新労、第三勢力側は、組合員の平和路線受容の主たる理由は、「同じ労働者同士」の「対立」についての「反省」であったと語っている。しかし、平和路線への傾斜の根拠が、会社による処分や差別待遇に対する恐怖、不安ではなく、「憎しみ合い」についての「反省」だとすることは、新労側が自らの立場を正当化するに当って都合のよい解釈であり、したがって、それを直ちに真実とするわけにはいかない。

 では、左派はどう考えていたのであろうか。田原賢蔵王子労組中央執行委員会書記長(1959年)は、専ら「差別待遇」の下での「苦しみ」や闘争の「疲労」による厭戦気分を挙げている(8)。しかし、左派の中にも「憎しみ合い」についての「反省」、「対立」への忌避感情を重視する見方があることに注目すべきである。服部治男王子労組中央執行委員(1958年)は次のように記している。新労組員に対する「敵対感情」が「ストライキ中」のみならず「就労後」も持続され、「敵対感情」は職場闘争の「エネルギー」となった。しかし、それは長続きせず、生産現場では少数の新労組員を多数でとり囲み「彼らの非を強調」し弾劾したことについての「批判」が広がり、それが平和路線受容の「一つの原因」となった(9)。なお、この記述は争議直後の1960年に執筆されたものである。

 新労、第三勢力、左派すべての立場から指摘されているがゆえに、新労組員との対立忌避の感情が「平和路線」受容の重要な要因だったということは、かなりの妥当性を持つのではなかろうか。また、先に、第三勢力に対する社会党幹部や田中清玄の説得内容、および、第三勢力の主張が「同じ従業員」が対立してはならないとするものだったことを見た。第三勢力が学歴、出身職場、共産党員等強固な左翼思想の持主ではないこと等の点において、王子の平均的労働者に最も近い体質を有していたがゆえに、そのメンタリティにおいても共有部分が大であっても不思議はない。この点からも、一般労働者の中に職場における対立を忌避する感情が存在したことは確かであろうと推測される。

 旧職員層を中心とする新労組員に対する“近親増悪的感情”が145日の長期ストの原動力になったことについては第2章で検討した。新労組員の住宅の窓ガラスは投石によって割られ、爆竹が投げ込まれ、ペンキで「ウラギリ者」「会社の犬」等の文字が書かれた。そして、このような増悪は、スト終了後、職場闘争の中に持ち込まれた。

 王子労組の職場闘争は、炭労、特に、三井美唄炭鉱のそれをモデル(10)とするものであり、長期スト中に炭労オルグから教えられたものであった。ただし、それは炭労の職場闘争には無かった課題を抱えていた。王子労組は、職場闘争によって職制による切崩しからの組織防衛をはかるとともに、新労の解体、吸収を意図していた(11)。そのため王子労組の職場闘争は、組織問題を中心とする闘いとなった。1958年12月15日、王子労組は、当初の要求に照して不充分なものであったが、斡旋案第3項により「ユニオンショップ」を「勝ちとった」として勝利感をもって「凱旋将軍」のように苫小牧工場内に入構した。この日以降、新労組員に対しては、王子労組に復帰させるための執拗な「説得」が続けられた。この「説得」は、しばしば「仲間」に対する「裏切り」への怒りによって数十人でとり囲んで罵声を浴びせる「吊上げ」にエスカレートした。生産現場で「村八分」にされ毎日「吊上げ」られる新労組員は、出勤するにも「悲壮」な覚悟を固めなければならないほどであった。新労組員は「腕や肩、胸ぐら等」をつかまれ「小突き」まわされ「後から木ッパや鳶がとんできても責任をもたんぞ」「組織をわったものは殺人罪より重い。殺されても仕方ないぞ」等の言葉を浴びせられた(12)。

 中村英雄本社新労副委員長(1958年)は、王子労組の職場闘争について「日本社会の中で村八分にされたら、どんなにその人間が苦しむだろうかということを計算に入れた、極めて陰湿な闘争形態」であり「今の中学生のイジメと本質的には同じ」(13)ものだと語っている。「反省」の対象となったのは、こうした「憎しみ合い」であった。

 

 

 2.職場闘争の挫折

 王子労組の職場闘争方針は、会社、新労側の秘密文書「スト終結後の諸問題及び対策」(前出、第2章)に記された戦術に対抗することを意識して立案された。そこには、こう記されている。「旧労は職場闘争組織を作って対抗して来ているが、実際に日鋼の経験上からいうと出来るものではない。会社の職制、末端の職制が強く毅然たる態度を示していればよい」「部下の信頼のない職場は今もって切崩しは出来ないが、平常人の使い方がうまく信望のある人は殆んど全部を新労に吸収し得る」「今スト中の下部職制は弱いが操業すれば三倍以上の力を発揮する事から、操業のリーダーシップをいち早くにぎることである」「末端職制が能率評定において新労を有利に取扱うのは止むを得ない」「組合事務所の貸与、掲示板の貸与等の便宜供与については積極的な新労優先主義をとる」。さらに、この文書には「分割就労」の方針(王子労組が粉砕)も記されていた。「スト終了後の生産再開には新労を先ず入れる事を考える」「旧労については分割就労を計画」。

 ストライキ期間中、王子労組組合員は、新労のメンバーである末端職制から基本的に隔離されていた。しかし、就労し職場に入れば、日常的に職制と顔を合わせることになる。王子労組の職場闘争方針は、こうした職制による切崩しに対抗して組織を防衛すること、新労を解体、吸収することに主眼を置いて立案された。職制による切崩し、脱退勧誘は、日常的に工場、居住区のいたる所で行われ、その数は膨大なものになる。したがって、組合執行部の具体的指令を待たず、切崩しに対しては、職場労働者集団が、直ちに、抗議行動を自発的、能動的に展開する必要があった。

 もちろん、王子労組の方針には、切崩し防止、新労解体という組織問題だけでなく、作業環境、安全衛生、手袋、工具等の支給(いわゆる物取り要求)の問題についても職場交渉を行うことが謳われ、実際の職場闘争においても、こうした要求が突きつけられた。そして、王子労組は第2図のような職場交渉のシステムを作り上げ、長期的に労働の質および量を規制することを展望していた。それは、同年1958年に発表された総評組織綱領草案の路線に従ったものであった。しかし、状況の特殊性ゆえに、職場闘争が組織問題を中心とするものとなったことも否定しえない。

 1958年12月15日、就労と同時に、職場闘争は、上記の方針に従って開始されたのであるが、これに対して、会社側は次のような指針をもって対処した。「部課長、係長」には組合の職場組織と交渉する権限はない、「従ってかかる無権限の行為はなすべきではない」「つまり、交渉権限はあくまで工場長にあり、部課長、係長等には右の権限を委譲していないのである」「たとえその要求が些細な事項であっても」交渉に応じてはならない。「この申入れを無意識のうちに受けつけると、組合の職場組織と会社の職制との間に部長交渉、課長交渉、係長交渉という『交渉の窓口』を認めた形になる。一度これを認めると、これを実績としてその次に再び同様の交渉方式を執拗に要求してくることが考えられる。即ち組合の『職場闘争の場』を認めたことになる。従って職場における職制は組合に対して職場闘争の場を与えないことが大切である」(1)。

 こうした指示に基づいて、職制は職場交渉を拒否しようとした。そこで、王子労組側は、しばしば、職場交渉に応じるよう、職制を取囲んで吊し上げ、「職場要求」を突き付けた。しかし、王子製紙においては、ついに安定的に存続する職場交渉のシステムは構築されることなく、職場闘争は消沈していくことになるのである。

 王子労組のスト中に慣れない危険な作業に従事していた新労組員(ホワイトカラー)の労働災害による死亡、全国新聞用紙在庫の涸渇等会社にとって不利な情勢の下で、中島社長は、新労幹部および経営者内強硬派の反対を押し切って、王子労組側に有利な斡旋案を受諾してストを収拾した。そして、会社は、職場闘争についても当初「時を与えることにより徐々に第一組合組合員の対立感情が緩和し生産に協力する方向へ転換すること」を期待しつつ放任していた。王子労組を刺激することによって「労使の対立」が「一層激化」すれば「長期争議によって多大の損失を蒙り同業他社に比し立ち遅れるに至った当社の経営に更に深刻な打撃を与える」(2) ことになると恐れていたからである。

 しかし、職場組織による作業放棄の続発は、会社に攻撃再開を決意させた。1959年1月23日、苫小牧工場調木職場で「吊し上げ」に疲労困憊して欠勤した新労組員を係長が出勤扱い(3)にしたことに対する抗議として実行された作業放棄は、工場の全工程を約24時間にわたって停止させた(4)。1月26日にも抄取職場で作業放棄が実施された。当時、多くの炭鉱では、組合執行部の具体的指令に基づかない、職場組織の自主的決定による作業放棄が頻発(5) しており王子労組の作業放棄はこれに倣ったものであった。しかし、炭鉱では、ひとつの切羽で作業が停止しても、他の多くの職場の作業には影響がないが、ベルトコンベアーと装置によって結合された一貫工程である紙パルプ工場においては、一職場の作業放棄は他の工程をも停止させることになる。したがって、紙パルプ工場における職場ストは、炭鉱のそれに比べて著しく甚大な損害を会社に与えざるをえない。こうした問題について、ストの「勝利」に有頂天になっていた王子労組側は、執行部も一般組合員も全く考慮していなかった。また、三池労組のように、職場ストが山猫ストとして処分の対象となることを防ぐために、スト権を職場組織に移譲するという工夫もしていなかった。王子製紙の労働者は、処分の危険を顧慮することなく、炭労の経験を機械的に模倣して作業放棄を実施したのである。そして、作業放棄が始まった後、事態の重大さに気づいた苫小牧支部執行部は、一度は作業放棄の中止を指示したが「口出しするな」(6) と追い返され、対処の方法に困って10時間以上もの間姿を隠し、会社の追及から逃げまわった(7)。このような職場労働者の安易な作業放棄、それに対して指導力の欠如を露わにした執行部の狼狽は、争議前には職場闘争の経験がほとんど無く、俄仕込みで職場闘争を始めたことの結果であった。

 

 このように王子労組は失敗を教訓として、1月29日、下記の「職闘3原則」を示し、今後の職場闘争は常に執行部と連絡をとりつつ行う様に指導した。

(イ)“職場で解決出来るものは出来るだけ職場でする”ことは職場闘争の原則であることは論をまたない。だからといって、なんでもかんでも職場闘争で解決出来るということにはならない。従って問題が職場に起きた場合、部門担当執行委員を入れて解決の方途を協議し、その内容は必ず執行部に連絡すること。

(ロ)職場で解決出来るものは職場闘争に持ち込み、どうしても解決できない場合、職場の大衆検討の意向に基づき職場代表の参加を得て支部団交に持ち込む。

(ハ)職場の要求が工場全体の共通問題の場合は支部団交で行う事を原則とするが、この場合の統一行動は大衆討議の中で決める。

 そして、1月31日の処分発表に対しては、「不当処分を実力行使によって撤回せしめる」との方針を決定、一般投票を行って2月7日にスト権を確立すると共に、今後の職場闘争は、「安全遵法闘争」を中心に行うことを指示した(8)。

 「安全遵法」とは、「各職場は労働基準法第49条第2項及び労働安全規則第45条第9項の規定を完全に遵守すること」「各組合員は危害予防に充分留意し特に電気関係の組合員は安全衛生規則に従った作業手順に依り確実に作業すること」「電気関係以外の組合員は原動機(10馬力以上のモーター)の運転について法規を無視し、みだりに作業をしてはならないこと」を意味する。従来は、調木係の労働者が、規則によれば、禁止されているにもかかわらず、10馬力以上のモーターをもつ、ドラムバーカーなどのスイッチを操作してきた。それは、安全衛生規則によれば、特定の資格をもつ、電気担当者でなければ、操作してはならないものであった。王子労組の調木班は、そこを突き、ドラムバーカーのスイッチを入れることを拒否した。

 3月24日、時限ストに参加した後、就業した調木係の王子労組組合員は「遵法闘争」によって、3台のドラムバーカーを停止させ、その結果、抄紙機は原料不足から、10台のうち9台までが平均4時間停止した。25日にも調木労働者の「遵法闘争」により、8台の抄紙機が約3時間停止した。この職場組織による事実上の実力行使は、就業規則違反として処分の対象となった1月23日、26日の事態とは異なり、会社に対して多大の損害を与えながらも、処分されることはなかった。また、部分ストともちがい、不就業による賃金控除も受けなかった。

 こうした事実経過は、炭鉱とは著しく技術的特質を異にする装置工業に属する紙パルプ産業においても、職場組織の自主的決定(したがって部分ストではない)による職場ストライキが可能だということを示している。もちろん、炭鉱の職場ストとは違って会社の損害は甚大であるから、何らかの形における反撃に対処できる態勢を前もって整えることが必要とされることは言うまでもない。また、職場組織がストライキを行う場合、執行部と緊密な連絡をとり合い、執行部指令をとりつけた部分ストの形式をとることも可能である。1959年4月の春日井工場抄造部の配置転換反対の闘い(前述)がそうした例の典型であった。ただし、職場闘争を“職場労働者集団による組合執行部の具体的指令に基づかない職制との対決”と定義すれば、この闘いは、部分ストであり厳密には職場闘争とは呼べないのではあるが。

 また、作業放棄だけが職場闘争ではない。査定、配転上の差別待遇、組織の切崩しをやめさせるための、職制に対する勤務時間外の追及行動も続けられた。

 第2章で見たように、王子製紙では上部への権限の集中が職制の力を弱めていた。しかしながら、職制の職場掌握力の強化のためには、いずれは権限の下降、分権化が必要であり、それが実施され、かつ、その時も王子労組が多数の現場労働者を組織し続けていたならば、争議前には工場協議会、後には職場小集団活動の中で処理された作業環境、安全衛生、操業要員、労働強度等の問題も職場交渉の付議事項となったはずである。

 一般的に、職場闘争の存立条件を奪うことを意図した権限の引上は、経営側が職場闘争を抑えるための一時的戦術としては有効であっても、労働者に対する掌握力を強め能率増進をはかるための長期的労務管理戦略としては有効ではない。自らの権限によって部下の苦情、希望を迅速に処理できない職制が、労働者に信頼されて労働者を強く掌握できるはずはない。したがって、経営者が能率増進を目指すならば、装置工業においても一定の権限を現場職制に降さざるをえない。そこに、職場闘争の課題が生まれるはずである。したがって、王子においても職場闘争が定着しえたかもしれない可能性を、産業の技術的特質を理由として全面的に否定することは不可能である。

 ただし、装置工業とは違って生産性が労働者の労働意欲によって著しく左右されることから能率給を採用せざるをえず、労働条件および生産性が、採炭の進行に伴なって日々変化する自然条件に強く依存することから、職場で賃金が決定されなければならない炭鉱において、職場闘争が定着した理由は、産業の技術的特質を無視しては説明しえない。そこで、王子製紙には、炭鉱のごとき技術的条件が存在しなかったことが、争議前の王子に職場闘争がほとんど存在しなかったことと関わっており、それゆえに俄仕込みの職場闘争が失敗したと考えれば、王子労組の職場闘争の挫折、消滅が、産業の技術的特質と深く関わっていたと把えることも可能であろう。しかし、争議において「つらかったこと」が、ストライキ中の生活苦および自分や子供の将来よりも、職場における“人間関係”の問題だったことに注目するならば、そこに“労働者の精神構造”の影響を認めないわけにもいかないのではないだろうか。そのことについては後で再び論じることにしたい。

 145日のストライキ終結後、時がたつにつれて、そして、組合幹部の中に第三勢力が形成、拡大されていくのと並行して、王子労組の職場闘争は下火になっていった。スト中は、非日常的な興奮の中で警官隊との衝突、対峙をくりかえす毎日であり、それが5ヶ月間も続いたのであるが、定時刻に出勤し通常の労働に従事するという日常生活への復帰による興奮の冷却も職場における対立についての「反省」の広がる原因となったという。さらに、興奮の冷却は、炭労オルグの引揚によっても促進された。最も多い時で1500名にものぼった炭労オルグはスト終了と同時に苫小牧工場を引揚げた。スト中の興奮が、炭労の支援部隊によって創出され、その支えによって維持されていたものであった以上、オルグの引揚が冷却を促進したのは当然であろう。また、職場闘争に対する懲戒処分等によって、勝利感をくつがえされ頭を冷すことを余儀なくされたことが「同じ労働者同士」の対立についての「反省」や対立忌避の感情が広がる契機となったという(9)。

 懲戒処分が王子労組側に与えた影響について会社側の記録は次のように述べている。「会社は王子労組組合員の職場秩序紊乱行為に対して懲戒処分を断行する決意を固めるまでに一ヶ月以上の時日をかけ」たのであるが「このように会社が懲戒に当って慎重を期した根本的な原因は、(イ)処分断行によって労使の対立が一層激化されることになれば、どのような不祥事態が発生するか、予測できない。(ロ)処分を契機として労使の対立抗争が泥沼化するならば、単に中労委斡旋案の指示した平和回復期間を設けて安定を回復するという構想が破られるのみならず、長期争議によって多大の損失を蒙り同業他社に比し立ち遅れるに至った当社の経営に更に深刻な打撃を与える、ことを懸念したからであった。しかしながら、会社が懲戒を決意しその意思表示を行うや、王子労組の相当の抵抗はみられたものの、基本的にはこの会社の決意は王子労組の会社との対決の動機とはならず、逆にその組合員の反省と執行部に対する批判となって現れ」「無期限ストに突入して以来一貫して押し進めて来た闘争一本槍の方針の転換を図ることを余儀なくされるに至ったのである」(10)。

 さらに、処分だけでなく、王子労組脱退者の解雇拒否、子弟採用差別も組合員の勝利感をくつがえした。特に、除名即解雇を謳った斡旋案第3項は王子労組にとって勝利の証し(11) だったため、この事態が組合員に少なからぬ衝撃を与えたことは言うまでもない。職場における「憎しみ合い」を「反省」し、新労組員との「和解」、企業内の「平和」を求める感情が広がっていったのは、以上のような事実経過と並行してであった。

 こうした新労組員との対立についての忌避感情は、争議前の労働者達が、旧職員である現場職制、ホワイトカラーをも「同じ労働者」の「仲間」だととらえ、特に現場職制とは情緒的に融合していたことと深く関わっていたと考えられる。そして、対立忌避の感情は、旧職員層に対する“近親憎悪的感情”の“裏返し”であった。激烈な憎悪は興奮の冷却とともに容易に裏返されてしまったのである。このような労働者と現場職制の癒着関係は、中央集権的な労務管理様式、産業の技術的特質と深く関わるものであったが、同時に、第2次世界大戦後の工職混合組合の結成、「身分制」廃止闘争の勝利、旧工職間の労働条件格差の飛躍的縮小によっても規定されていた。職制と労働者の情緒的一体化は、戦前のヒエラルヒッシュで強力な支配──服従関係が崩壊し、一見するとフラットな癒着関係に変

質することによって飛躍的に強化されたのである。労働者の闘いによる職制の権威失墜は、職制と職場労働者集団との間に労働条件をめぐって「交渉」する「契約的関係」をつくり出すことなく、情緒的な癒着関係を強化する結果をもたらし、ひいてはそれが、近代的な契約的交渉関係成立を目指す職場闘争の成立を不可能ならしめる根拠となった。したがって、王子の労働者は、皮肉にも、歴史的経過における自分達の闘いを通じて職制との癒着という職場闘争の阻害要因を強化してきたと言えるのである。

 そして、この癒着関係は、職制が会社管理機構の末端の担い手であると同時に職場労働者の利益代表者でもあるという「二重性」を持ち、職場労働者に対する強力な掌握力、ヘゲモニーを有するといった状況とは正反対の内実のものであった(第2章参照)。苫小牧工場の組合分裂はほぼ階層別であったが、そのことは職制の職場掌握力の脆弱さを示している。もしも職制の掌握力が強力であれば部下の労働者は直ちに職制の後を追って新労に加入したはずである。職場闘争の阻害要因となった職制との情緒的一体感は、職制が組合役員になれないような、職制の力が弱い状況の中でこそ凝結していったのである。

 高度経済成長期、民間大企業諸労組は、「鉄鋼一発回答」定着=賃金抑制体制の構築、要員削減、労働時間制度の能率化等、経営者の能率増進策に対する協力の度合を深めていった。それは、労働組合が“合理化”に対する規制力を喪失し企業が国際競争力を高めていく過程であった。こうした動向は、1958年発表の総評組織綱領草案に示された職場闘争を通じた組合強化の路線の挫折によって初めて現実化した。職場闘争路線が成功していれば、能率増進に対する大きな障害となったことであろう。

 総評組織綱領草案の骨格部分の執筆者(12)藤田若雄は、「職制支配」の打破を目指していた。ただし、「草案」や藤田が目指した「職制支配の打破」とは、労働強度、時間、昇進、昇給等の決定に当って「職場交渉」を介在させ職制支配を制限し客観化することであった。すなわち、契約的関係の確立を目指していた。したがって、藤田は職制支配の消滅=労働者による自主管理を目指す方向を否定し、「職場の主人公」なる表現に対しては「事大主義的表現」(13)だと批判していた。このように、藤田は、職場闘争を通じて、職場に契約的関係を確立し職場社会を「近代化」することを目標としていた。

 では、戦後労資関係史において重要な意義を持ち、日本社会の「近代化」という目標を担わせられた職場闘争の路線が挫折に至った根拠を、我々は一般的にどう考えればよいのであろうか。王子の個別事例の検討は、職場闘争路線の挫折の根拠を考える上でいかなる一般的示唆を与えうるのか。それとも、王子製紙の事情は特殊な例外的ケースとして切捨てられるべきなのであろうか。

 王子製紙のように、職制と労働者が情緒的に一体化した職場状況に、職場内の利害対立を顕在化させるような職場闘争が持ち込まれようとすれば、次のような事態を結果せざるをえないのではないだろうか。すなわち、“近親憎悪的感情”を生み出した上でそれがその“裏返し”である対立忌避に転化し、その内実を問わず“和”の回復が強く指向されるか、あるいは、初めから職場の“和”に固執するがゆえに職場闘争導入が事実上拒絶されるかのどちらかの結果に陥らざるをえないのではなかろうか(14)。このことは、王子だけでなくかなり広く一般化することも可能であろう。利害対立および思想、信条の対立が基本的には存在しないことになっている集団、情緒的に一体化した集団の中で、利害や考え方の相違が顕在化した場合には、それが“全人格的対立”となり激しい憎悪を結果することは当然だと考えられるからである。“契約的関係”とは利害の相違を前提とするものである。情緒的に一体化した集団の中に、契約的関係を持ち込もうとすることが、激烈な憎しみ合いを結果したとしても不思議はない。

 確かに、王子製紙の場合は組合分裂の後に職場闘争が導入されたという点で特殊性を有していたとも言えよう。職場闘争の中に持込まれた激烈な憎悪は、その特殊性の表現でもあろう。極端に言えば、王子の職場闘争は、組織防衛のための“付け焼刃”の争議戦術だったと言えなくもない。しかし、炭鉱や鉄道の例外的ケースを除いて、職場闘争が総評の“全盛期”である1950年代においてさえ、日本の一般的産業において微弱だったことは、王子の事情が特殊性のみならず、一般性をも有していたことを示しているのではないだろうか。

 では、これまでに挙げたような、職場闘争の定着を困難ならしめた事情の規定要因を労働者の精神構造として提示することは妥当なのであろうか。職制と労働者の癒着、情緒的一体化が、労働者の闘いを通じた「身分制」廃止、労働条件格差の縮小、また、労働者の闘争および産業の技術的特質によって規定された中央集権的な労務管理様式と深く関わっていたことについては、第2章で検討した。

 また、こうした職制──労働者関係は、(旧)工員と職員が同じ組合に組織されていることとも関係していたと考えられる。重化学工業大企業においてはほとんど例外なく工職混合組合であるのに対し、石炭産業では釧路の太平洋炭鉱を除くすべての大手炭鉱が鉱職別組合であり、国鉄では「キャリア組」および末端職制の多くが非組合員である。このことは、炭鉱および国鉄における労働者と職制の関係が、重化学工業のそれとは相当異なっていることを示している。その意味においても、条件の著しく異なる炭鉱の職場闘争をいきなり王子製紙に“輸入”しようとしても無理が生じるのは当然であろう。そして、一方が工職混合組合、他方が別組合となったことの根拠については、厳密な産業間の比較なしに論じることは不可能ではあるが、産業の技術的特質と無関係ではありえないと考えられる。

 以上のような諸事情を考慮に入れるならば、職場闘争の定着を困難ならしめた根拠を、日本人一般の心情のみに求めることが誤まりであることは明白である。「身分制」廃止および労働条件格差の縮小、中央集権的な労務管理様式、産業の技術的特質、こうした条件に着目すれば、王子における職場闘争の挫折を、直線的に“人間関係の和”を重視する日本人のメンタリティ、日本文化に帰着させることには、相当な無理を感じざるをえない。

 しかし、にもかかわらず、職制との情緒的一体化、近親憎悪的感情、その裏返しとしての“和”の回復の追求が、単に、技術的条件や労務管理様式、組合の組織形態(工職混合か否か)、労資対抗の経緯によって規定されていたとするだけでは、充分納得的にその根拠を説明しえたとは言いえないように思われる。

 しかも、これらの一連のプロセスのなかで、とりわけ次の点は、日本社会の文化的諸条件に規定された精神構造の表現として、特に明白に把握しうるのではないだろうか。そして、この点は、イギリスと対比した場合の、労働者の精神構造における“日本的特質”として提示することが可能であるように思われる。それは、対立点、善悪の論理的判断を“棚上げ”することによって、“職場の和”の回復すなわち、現場職制を中心とする職場の新労組員との人間関係の修復が追求されたことである。

 「身分」の同一性、労働条件の近接等によって「仲間意識」を共有している者どうしの間に、対立が持ち込まれた時、激烈な憎悪が生じるのは、イギリスの炭鉱争議においても同様であろう。イギリスの炭鉱争議における、ストライキ労働者とスト破りを行った労働者の間の対立の状況は、少なくとも表面的には、王子製紙の第一、第二の両組合員間のそれと非常によく似ている。しかし、“善悪の判断を超えて”和解を追求した王子製紙労働者と、スト破りの是非に関する判断を親子間の絆の回復よりも優先したイギリス炭鉱労働者との相違は明白であろう。 最後に、前述のように王子の職場闘争に“コンサルタント”的立場で関与していた藤田若雄の認識について言及したい。藤田は王子労組の職場闘争の挫折の根拠について、苫小牧支部執行部と職場組織との間の連携の欠如、執行部に、「巨大な共闘体制」の中で戦闘的になった組合員の意識を「リードする能力にかけるところがあった」こと、すなわち、145日のストの中で支部執行部が「自己成長をなしとげること」ができなかったことを挙げている。しかし、彼は、職場闘争挫折の根拠になった一般労働者の意識については深く検討しなかった(15)。すなわち、藤田は王子労組側が新労に対する「ニクシミの感情をかきたてることを唯一の精神的支柱」にしていたことを指摘(16) しながらも、その憎しみの感情の性格についてそれ以上深く考察していない。そして、その憎悪が裏返されて職場闘争忌避の感情になったことについても指摘していない。このことは、王子争議の場合も含めて藤田の争議分析の力点が「年功制度」とその「矛盾」、すなわち、「労働力構成」の「内部矛盾」に置かれ、それに直結しない労働意識が看過される傾向があったことの結果であったと考えられる。

 以上のように、王子製紙における“妥結”は常に玉虫色の色彩にいろどられていた。また、中島社長と田中文雄工場長が常に提唱したのは、「腹」および「誠意」を信じることであった。これは、相互の利害対立、および、相手に対する不信を前提とする契約的思想とは正反対のものである。そして、会社側が示した、対立し合った者同士の和解のあるべきモデルは、「江戸城あけ渡しの西郷と勝のような腹がまえ」であった。西郷隆盛・勝海舟の会談は「絶対にヨーロッパ的意味における交渉ではない」、なぜなら、西郷が「いろいろむずかしい議論もありましようが、私が一身をかけてお引受けします」と言ったのに対し、「勝はなにもいわずに一任」したからだという(21)。これは「腹でわかりあう」ということであろう。腹芸の語を「形式や論理を超えて、度胸や経験で物事を処理すること」(広辞苑)と解すれば、田中文雄工場長は腹芸の名人だったと言えよう。第三勢力の精神構造は、こうした腹芸を通じた策動によって、からめとられやすい性格のものだったのである。



第3章 争議後半期  ───第一組合の崩壊───

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 第3章では、145日間の長期ストライキ解除、第一組合員の就労(1958年12月)から、第一組合の雪崩のごとき崩壊(1960年1月)までの時期、すなわち、争議“後半期”を分析する。ただし、本章は第2章と違って時系列的叙述にはなっていない。その点で事実の前後関係がわかりにくいかもしれないが、そこは年表を見ることによって補なっていただきたい。

  第1節 王子労組崩壊の直接的契機

 本章の課題は、第一組合である王子労組が一挙に大量の脱退者を出して労働者数の1割に満たない少数派に転落し、第二組合(新労)が労働者の大多数を吸収した根拠を検討することにある。

 新労が労働者の多数を吸収した理由について、新労や、これを支援した全日本労働組合会議は、労働者が、新労の「方針」の「正しさ」を認識し、これを支持するようになったからだと主張している(1)。もし、それが真実なら、組合分裂の指導者達は、なぜ、組合を分裂させず従来の組合内に留まって、労働者の支持をとりつけ組合の路線転換をはかる道を選択しなかったのであろうか。

 一方、王子労組側の公式の文書は、新労の組織拡大は、王子労組組合員に対する「差別待遇」等「脅迫」および「利益誘導」の結果だとしている。大多数の労働者は、新労指導者の主張を支持せず、支持するようになる見込もなかった。会社が、組合の体質変革のために、組合を分裂させ、「脅迫」や「利益誘導」(2) に訴えて第二組合(新労)を「育成」せざるをえなかったのは、それゆえであると主張している。しかし、そうした「差別待遇」が事実であったとしても、それに抗して組合組織を維持しえなかった王子労組側の問題を看過することはできない。

 労働運動史家である斎藤一郎は、闘争の敗北における労働者側の根拠について、労働者政党の「情けないほどの無理論」、組合幹部の「たえまない原則からの逸脱と、公然たるとりひき」のために「ほとんどの闘争は敗北に追いやられた」(3) と指摘している。しかし、たとえ指導者の方針が誤まっていたとしても、それをくつがえし「正しい」方針を幹部に採用させることができなかった一般労働者の問題を見落としてはならない。指導者の誤まった方針自体、一般労働者の意識の反映としての側面を持つのではないだろうか。

 以上のように、第二組合側、第一組合側、そして、斎藤の主張のいずれもが一面的である。第一組合の凋落の根拠を考察するためには、会社による「差別待遇」等の影響、第一組合指導者の方針、一般労働者の意識を総合的に検討しなければならない。

 第1図のように、王子労組は、スト終了1年後の1960年1月、一挙に多数の脱退者を出して崩壊し、新労が全従業員の約9割を傘下に収めた。この事態の直接の引金となったのは、1月15日の「第三勢力」と呼ばれた集団に属する5名の執行委員の辞任であった。当時、王子労組は、懲戒処分の撤回とりわけ4名の被解雇者の復職を目的とした闘争の再開を決定した直後であった。第三勢力はこの闘争再開に反対した。そして、1959年12月24日の支部臨時大会で、第三勢力の内現職の執行委員でなかったメンバーは、スト権一般投票の実施に執拗に反対した。しかし、当時、組合員の8割を占めていた苫小牧支部では、採決の結果、スト権集約賛成34、反対29(白紙1)の僅少差(春日井支部では22対6、白紙1)で第三勢力は敗れた。王子労組はこの決定に基づき、12月30日一般投票によってスト権を確立した(4)。これに対して、第三勢力である一部執行委員は「闘う方針には従えない」として辞任し、これに続いて大量脱退が起こったのである。

 会社側の争議記録はこの事態を次のように記述している。一般組合員は会社、新労との「平和」の回復を目指していた「穏健派」である第三勢力を支持していた。大量脱退が起こったのは、第三勢力の主張が敗れ、「極左勢力」の指導の下に闘争が再開されることになり、第三勢力に託していた「望みが絶たれた」ためである(5)。新労の「組織拡大」は、その「指導理念」と「実績」が「多くの従業員」の「理解」と「共鳴」を得た結果である(6)。また、新労によれば、それは、王子労組指導者の闘争再開方針に対する労働者の拒絶、労働者が新労の路線の「正しさ」(7) を認識し始めたことの結果であった。

 しかし、この解釈は次の点で事実に反している。第1に、第三勢力の主張は、苫小牧支部大会ではかなりの賛成を得たが、一般投票ではスト賛成が圧倒的多数(組合員数1,767、賛成1,406、反対191)を占めた(8)。すなわち、大多数の組合員は、第三勢力の主張を拒絶し闘争再開に賛成したのである。第2に、1960年11月の衆議院議員選挙の際、新労が推した民社党候補は、王子の企業城下町である苫小牧市で約3千票しか獲得しなかったのに対して、王子労組が推した社会党候補は1万票を獲得した。当時の苫小牧工場における組合員数は、新労が約2,700名、その家族と下請企業の労働者の票を合わせれば7〜8千票に達するが、王子労組員は400名にすぎなかった(9)。すなわち、王子労組の推薦候補に新労組員からも大量の票が流れたのである。また、苫小牧市議会議員選挙でも、分裂前の王子労組が4〜5名を当選させていたのに対して、1963年、200名(新労2,800名)にすぎない王子労組が4名の組合員を当選させ、合計約5,900票(新労側は合計5千票)を集めた(10)。

 労働者はたとえ脱退しても王子労組を「支持」し続け「その気持は、会社のきびしい統制下では表現できないが、投票の秘密の守られる公職選挙において、ようやく表現できた」のである。この事態は「身は新労、心は王労」(11) の言葉を生んだ。これらの事実は、労働者が合理化に反対する「極左的」な王子労組を見放し、「生産性向上」への「積極的協力」を公言する新労を支持するようになったという会社、新労側の解釈と背反するものである。 では、労働者はストに賛成し、脱退後も胸中では王子労組を支持し続けたにもかかわらず、なぜ脱退し新労に加入したのか。王子労組側は、脱退の原因は幹部への不信だと述べているが、確かに直接的にはそう解釈する他はない。中央執行委員長兼苫小牧支部長である岩崎俊雄、前年の長期スト時の苫小牧支部長であった支部執行委員市川年雄ら名だたる幹部5名が、闘争再開を目前にして辞任し、その内のいく人かはまもなく組合を脱退したのである。組合員が強い衝撃を受け執行部への不信によって動揺したのは当然であろう。また、臨時大会で執行部方針として提出された闘争再開方針に対して反対の論陣を張ったのは、元執行委員を中心とする者であり、執行部は組合員に対して「執行委員は全員闘う方針で意志統一している」と強調していた。したがって、第三勢力に対して一面では反発しながらも、それなりの「信頼」を寄せていた組合員は、第三勢力の執行委員も組合の決定に従って闘争を遂行すると信じていたのである。また、この頃、第三勢力である執行委員が秘密裏に会社幹部と会い、組合内の情報を提供してきた事実も明らかにされ、幹部不信に拍車をかけた(12)。

 しかしながら、幹部不信がいかに深刻なものであったにせよ、なぜ、それが大量脱退、新労への加入を結果したかについて疑問が残る。会社側と「内通」し闘争を前にして「逃亡」するような幹部に対し「不信」を抱いたのであれば、なぜ、新しい信頼しうる執行部を選出して闘争体制を再確立しストを実施する道を選ばなかったのであろうか。

 この時の脱退者達は、王子労組の指導者の所へ来て「涙」を流しながら、王子労組に残っていれば「将来が不安だ。本当にすまないと思うが脱退させてもらう」(13) と丁寧にあいさつしていった。すなわち、組合員は、闘いの見通しと自己の将来に対する不安を抱き、敗北感に打ちひしがれ、闘う自信、勇気を喪失していたのである。この敗北感と自信喪失は、執行委員の辞任によって新たに生み出されたものではなかった。圧倒的多数でスト権が確立されたスト権投票時にも、同時に脱退届を出していった者もあったという。さらに、辞任以前にも脱退者が増加しつつあったことも見落とせない。組合員は、闘争再開を支持し闘うべきだと考えながらも、自らが王子労組に留まって闘いを遂行するための勇気と自信を、辞任以前にかなりの程度萎縮させていたのである。闘わなければならない、闘うことが正しいことだと考えることと、自らが闘争を遂行すること、闘争のために必要な気力と自信を有していることとは必ずしも同じではない。では、組合員は、なぜ、闘いを遂行する気力を既に失っていたのであろうか。

  第2節 会社による処分、差別待遇の影響

 王子労組側は、その理由として「処分」および「差別待遇」を挙げている。職場闘争(詳しくは後述)に対する懲戒処分(1月31日)は、最も戦闘的な職場活動家を対象とするものであり、職場闘争推進への壁となった。また、1959年夏期賞与支給(7月)の際、王子労組員と新労組員との間にストによる不就業を理由とする平均約2万円の差がつけられた(1)。

 また、4月17日、春日井工場で35名の配置転換が発令されたが、対象者の内新労組員は全員が「昇進」したのに対し、王子労組側はすべて「格下げ」か「横すべり」であった。ある王子労組員の組長はワインダー係に格下げされた。入社後1〜4年の者の職務であるワインダー係に、勤続16年の組長が落されることは、通常では考えられないことであった。また、2号、3号抄紙機に配転された2名は戦傷者等で、それゆえ他の抄紙機よりも仕事が楽な1号機に配属されていたのである。彼らには、他の抄紙機では体が「もたない」のではないかという心配があった(2)。

 さらに、3月の「子弟採用差別」は、就職を間近に控えた子供を持つ年齢層の脱退を促進した。王子の労働者にとって、子供を王子製紙に就職させることは切実な願いであった。当時、王子の賃金水準は日本全国でトップクラスであり、また、子供が就職すればひき続き社宅を利用できるからであった。(3)。労働協約付随の「諒解事項」第4項では、停年退職者の子弟を「優先的に採用する」とされていたが、実際には、例年、まだ退職していない者の子弟をも優先的に採用していた。しかし、1959年3月の新規採用では、管理職(非組合員)、新労組員の子弟を中心に採用され、王子労組員の子弟の採用はゼロであった。すなわち、高校卒では、王子労組側は64名が受験し12名が学科試験に合格したが、面接で全員不合格となった。他方、非組合員、新労の側は37名が受験、20名が学科試験に合格し面接で18名が最終合格した。この事態について、北海道高等学校教職員組合は、道教育委員会に調査を要求し、それに対して教育委員会は「学校長の意見書と学業成績その他の資料に基づき検討した結果、公正を欠いた採用と言わなければならない」(4) と回答した。3月から4月にかけて、この年の8月までの他の月に比べれば多くの脱退者が出たのは、この子弟採用の結果であると考えられる。

 しかし、この時の脱退増は少数かつ一時的なものでしかなかった。それは、王子労組員の63%(分裂前)が40歳未満(5)であり、就職を間近に控えた子弟を持つ者が少なかったからかもしれない。また、その他の会社による「攻撃」も脱退増をもたらしたが、それらも少数で一時的なものであった。しかも、会社の攻撃が、かえって組合員の闘志を高揚させ、「切崩し」が「労多くして効果が少ない」(6) 状況を生み出したことについて、会社側の文書が指摘していることも見落せない。特に、前述の春日井工場の配転の場合はその典型である。4月20日から23日まで関係職場で部分ストが実施され(7)、ワインダー係への組長の降格、健康上問題のある者の配転は撤回(8) された。この「勝利」が組合員に自信を与えたため、春日井工場における脱退は、これ以降2ヶ月にわたってほぼ停止した(9)。

 第1図を見れば、懲戒処分、「子弟採用差別」「賞与差別」等の攻撃にもかかわらず、1959年8月までは、脱退増が抑制されていることが判る。また、7月末か8月執筆の会社側の文書(10) には、紛争を再開しその中で王子労組の「崩壊」「第二組合の育成」をはかることは「不可能」であると記されている。当時、会社は、王子労組がかなりの程度の闘争遂行能力を維持していると判断していたのである。したがって、執行委員辞任の時点に、組合員が既に闘志を失っていたことが、処分や「差別待遇」の結果であると直ちに断定することには無理がある。では、なぜ、8月までは闘争意欲をそれなりに維持していた組合員が、翌年1月には闘志を喪失していたのであろうか。第2表のように、脱退者数は、1月にピークに達するが、それ以前にも緩やかながらも増加している。そして、脱退増が、はっきりした上昇カーブを描くようになったのは9月以降である。9月以降の時期に、組合員の闘志を著しく減殺するようなことがあったに違いない。

  第3節 平和路線

 1.吉住執行部の路線

 9月は、第三勢力のメンバーである岩崎俊雄を中央執行委員長兼苫小牧支部長とする新執行部(岩崎執行部)が発足した月である。岩崎執行部は、新労および会社との「平和」回復を目指し、闘争放棄、会社への譲歩を内容とする「平和路線」を採用した。

 前年、長期ストを指導した吉住秀雄を委員長とする旧執行部は、第三勢力の台頭、闘争中止を求める社会党道連(日本社会党北海道支部連合会)の圧力の下で動揺しつつも、会社による攻撃に対してはストによって反撃してきた。例えば、懲戒処分、「子弟採用差別」の撤回等の要求のために、3月24日2時間の時限スト、24、25日には「安全遵法闘争」による生産停止(労働安全衛生規則が禁止していた無資格者による10馬力以上のモーターの操作を執行部の了承の下に王子労組職場組織が拒否)を実行した。さらに、4月8日には24時間ストを実施した(1)。

 また、4月、社会党道連のストを中止せよとの圧力によって、会社との「平和的交渉」に入ることを余儀なくされたが、会社が「互譲の精神」「江戸城あけ渡しの西郷と勝のような腹がまえ」(2) などの言葉で、譲歩の可能性を示唆しつつ、2ヶ月間にわたって交渉を引延したことに対しては、次のような態度をとった。すなわち、子弟採用、処分撤回、王子労組の切崩しの中止等の諸問題が、6月18日までに「解決」しない場合にはストを反復することを、執行部内の第三勢力の反対を押し切って決定した(3)。そして、6月19日、会社から「両組合に対し中立の立場をとり、差別待遇を行わない」という「覚書」、「懲戒処分の問題については、組合の希望について、年内に解決するよう、誠意をもって努力する」「新規採用については組合の希望を考慮し、引続き話し合う」という「メモ」をとりつけた(4)。また、処分による被解雇者の復職については、会社側の代表である田中文雄春日井工場長から「復職について田中前知事と力を合せ社長を説得すれば出来るという自信もある」(5) という口頭の約束を得た。

 さらに、「夏期賞与差別」に対しても、7月9日2時間のストを実施した。そこで、田中春日井工場長は、賞与の格差分1人当り2万円を貸しつけること、連操実施と引きかえに、貸付金の内「僅少の額」(6) 以外は返済を免除することを認め、労使は了解点に達した。しかし、「僅少の額」だけを返済すればいいということは口約束で、しかも、対外的には秘密とされた。また、貸付金返済の期限や貸付の条件とされた連操実施の日程、および、条件(連操手当、要員補充等)の確定も先に延ばされた。このように、妥結内容は極めて曖昧なものであった。しかし、これらの会社の譲歩がストを背景に勝ちとった成果であったことは否定しえない。吉住執行部は前年のストの時の借金がまだ残っていた(7) こと、あるいはその他の事情により、長期ストこそ実施しなかったが、基本的には闘う姿勢を維持していたのである。

 

 2.岩崎執行部の平和路線

 吉住執行部は、処分撤回、子弟採用、貸付金返済の額、期日等の懸案諸事項についての要求が実現しない限り連操を拒否し続ける方針であった。これに対して、岩崎執行部は、懸案事項についての会社の譲歩が無くても、連操に「踏切る」(8) ことを決定し、討論のため下部機関に降しこれを可決した。この時(11月8日開始)実施された連操は、日曜休日を2日に1日返上する13日連操であり、労働時間の延長を伴うものであった(王子労組崩壊後の1960年5月指定休日制の13日連操に切替えられ、さらに1961年8月完全操業に移行)。連操に関する交渉では、連操手当の支給、労働負荷を軽減するための要員補充、休日返上による疲労の蓄積に伴う労働災害の増加を防ぐための措置等の問題が重要な交渉点となるのが一般的であった。しかし、岩崎執行部は、これらの点に関する会社の提案をそのまま受け入れた(9)。そのため、「会社の言いなり」になった組合に失望する労働者も多く、闘争に対して消極的な「弱い」組合員ではなく、闘うことを欲している「強い層」が、王子労組が「新労のような組織になりつつある」ことに絶望して脱退することも少なくなかったという(10)。連操受諾は、王子労組の弱さを印象づけ、一般労働者に敗北感を抱かせたのである。

 さらに、岩崎執行部は職場闘争を抑制しようとした。王子労組は、スト終了後、職制による切崩しを防ぎ組合組織を守ることを主たる目的として職場闘争を展開した。すなわち、脱退の勧誘を行った職制に対する追及行動を行いつつ、職場組織の団結を固めることを目指した。職場闘争は処分発表以降それまでの勢いを失ったが、それでも、吉住執行部の下では継続され、職場組織による実力行使も、就業規則違反として処分されることを防ぐため、「安全遵法闘争」または執行部指令の部分ストの形をとって実行され続けた。吉住執行部は「中央交渉」で「柔軟」な態度をとる場合も、職場「生産点」では「常に闘う姿勢」を保つことを「基本路線」としていた。これに対して、岩崎執行部は「中央交渉でも生産点でも闘わぬ姿勢」(11) をとったのである。例えば、10月19日の苫小牧工場汽力部の配転に対して、組合員が「差別待遇」だとして抗議行動を起し、また10月末には職制による切崩しが憤激を呼び起こしたが、岩崎執行部は職場におけるこれらの動きを抑えつけた(12)。このような職場闘争の抑制は、組合員を意気消沈させ組合組織の武装解除、切崩しの助長を結果した。

 当時の一般組合員の状況については、紙パ労連オルグによって次のように報告されている。「組合員」は「孤立感に疲れている」「執行部は組合員の日常と感情を把握すべきである」「組合員は実に圧迫に抗し、がんばっている」にもかかわらず「執行部は、落ちる者は落ちろというきらいがある」「執行部」は「会社との交渉」に埋没し「組織づくり」「組合員の把握」「日常活動」が疎かになっている(13)。

 そして、このような状況の中で、王子労組は力を失った、これ以上王子労組に留まっていると「お前の将来はまっ暗」だという脱退勧誘は、不安を拡大した。その結果脱退者数が累進的に増加し、10月22日、全社(3事業所合計)では、王子労組、新労の勢力比が逆転した。第三勢力は、闘いをやめ会社への譲歩を重ねれば労使間の「平和」が回復され脱退も止むと主張していたが、事態は逆の経過をたどったのである。そして、12月8日、苫小牧工場においても新労が過半数を制し、12月17日、会社は最終回答として処分を撤回しないことを宣言した(14)。これに対して、王子労組は前述のように闘争再開を決定したのであるが、会社は、もはや王子労組に闘争遂行能力が無いことを確信した上でこのような回答をつきつけたのである(15)。そして、この判断は正しかったと言える。

 以上のような事実経過から、執行委員の辞任の時点で、組合員が既に闘志を喪失していたことは、岩崎執行部の平和路線の結果であると考えられる。第三勢力は、闘争放棄によって組合員の闘志を萎縮させ、最終的には自分達の辞任によって組織を崩壊させたのである。

 一方、平和路線に反発していた王子労組左派幹部(第三勢力以外の幹部)は、岩崎執行部内でもかなりの人数を占め発言力を維持していたにもかかわらず、処分の不撤回が宣言された12月に至るまで、組織的に第三勢力と対決しその路線をくつがえそうとはしなかった。岩崎執行部内の第三勢力と左派の比率は、会社側の認識によれば、中央執行委員会では4名(第三勢力)対3名、苫小牧支部執行委員会では8名対7名であった(16)。ただし、執行委員の中には動揺的な者もあり、状況次第で態度を変えた者も含まれていた。12月に左派主導の下に、闘争再開を執行部方針として決定できたのは、そのためであった。すなわち、左派は、岩崎執行部内でも、状況によっては平和路線をくつがえしうる力を持っていたのである。にもかかわらず、左派が12月まで本気になってそうしようとしなかったのは、「平和路線には反対であったが、執行委員の多忙な業務に疲れ」ていたため「今までの方針を貫こうとする気概に欠け」(17)、また、闘争が「弾圧」を招来し脱退者を増加させるのではないかという不安を感じていたからである。また、後で見るように左派の吉住秀雄自身が一面では社長の「誠意」に期待をかけていたからであった。

 

 

  《補足》

 上記のような、1959年末の王子労組脱退者数の増加のペースは、会社側にとっても予想外であった。それは次の文書から明白である。また、この文書は、当時の会社側の戦術を知る上で興味深いものである。

 1959年11月すなわち前述の13日連操実施直後、会社側がどのような見通しの下にいかなる方針をたてていたのかは、『王子連操問題を卜す──苫小牧現地事情メモ』(王子製紙水曜会会員頒布資料No.25、1959年11月16日)に記されている。この文書は、13日連操の期限が切れる6ヶ月後に、連操の延長を可能にするための、戦術の解明を行なっている。まず、@として「王労が」連操延長に「反対」でも、「新労が3/4組合に成長して」いれば延長が可能であるとして、そうなる見通しがどの程度あるかを分析している。「新労が来年4月末」(連操の期限切れ)「までに3/4組合に成長するという確固たる見通しはたてにくい。11月6日現在、両組合の組織状況は、新労2266名、王労2168名、中立その他27名、計4461名となっている。」「4461名の3/4は3345名となる。従って新労が3/4組合となるためには、3345名−2266名=1079名を今後6ヶ月間に新しく獲得しなければならない。これは1ヶ月平均180名、1日平均約6名の新労加入者が必要なことを示している。最近の新労加入者のペースは、ややこれに近いものがある。しかし、王子労組に遅くまで残留している者ほど、新労に加入しにくい事情をもっているから、このペースが今後も継続されるという断定はできない。結局、王子労組からの脱退者が続出するような大事件が発生するか、或は各関係者が王子労組脱退の促進についてよほど努力を傾注しない限り4月までに新労を3/4組合に成長させることは困難であろう。」

 次にAとして「王子労組が左派組合と右派組合に分裂し、この右派組合と新労の組織人員の合計が全従業員の3/4以上に達」する可能性を考察している。「将来このような事態が発生する可能性がでてくるかもしれない。しかしここ6ヶ月の間に王子労組組織を左右に分裂させることは無理であるように思われる。元来、組織の分裂ということは、頭の中で容易に変えうるとしても、組織の構成員や指導者にとっては極めて複雑な利害関係があるだけに、平常な状態のもとで発生させることは不可能に近い。勿論、無理をすれば少数の右派系組合を分離させることが出来るかも知れない。しかし、協定延長という点からみれば、少なくとも1000名以上の組織でないと意味がない。若し1000名以上の右派系組合を分離させようとするのであれば、やはり、相当な長期闘争 ─ 組合員にとってマイナスとなるような ─ を行うことが前提条件である。しかし、現在の王子労組は、組織の崩壊をもたらすような長期的闘争力を持ちあわせていないから、このような前提条件の発生は望む方が無理であろう。又、会社としても、今更長期闘争は希望していないであろう。このように王子労組の左右両組織の分裂が期待できないとしたら、次善の策として、王子労組─新労の統一を行ないその後左派を少数派として追出し、新労と王子労組右派で3/4組合を作るという構想が生まれてくる。しかし、これとても、現在の新労員や王労員の感情から判断して6ヶ月以内に統一が達成できるという条件は殆ど見当らない。」「従って、このような構想も来年4月末までには間に合わないとみて差支えない。いいかえれば、Aの状態期待可能性は殆ど皆無と思われる。」

 次に最も期待可能な状態としてB「王労が協定延長の方向で機関決定ができる状態にある時」をあげ、そのための工作の方法を論じている。「この場合における工作の重点は、第1に王子労組内部の右派勢力−連操協力派を拡大すること、第2に−左派勢力−連操反対派を連操延長にふみきらざるを得ない窮地に追い込むことの二点にしぼられる。」 そして、そのための具体的戦術は次の通りである。「懲戒問題、貸付金、新規採用の解決はもっとも留意すべきである。結論的にいえば、この3つは出来るだけ切りはなして解決を図るようにすべきである。

 先ず新規採用はJ−@で指摘したように、連操延長との関連──別ないい方をすれば協定延長の既成事実を作るという含みをもたせながら解決してゆくことが効果的である。貸付金は、連操協定延長の際の有力なキメ手とすべきであるから、来年4月の協定切れの頃に話合えばよい。

 懲戒処分については、平和覚書や連操協定の締結時に、王労幹部との間に具体的な話合いがされておれば別であるが、はっきりした取決めがないとすれば、出来るだけ引延し戦術を採用した方がよい。その理由については、協定延長交渉と密接なつながりがあるので後述する。

 少なくとも、この3問題のうち、貸付金と新規採用の二つを解決すれば条件付反対派の中、相当数が軟化してくることであろう。もっとも解決の時期と方法を誤らないことが前提である。即ちその時期は王労員に連操延長の気持をもたせる最も効果的な時期であり、その解決方法は、連操延長と関連をもっているものでなければならない。」

 「王労員の中に、連操打切りは不利であるという気持をおこさせ、加えて連操否定の情感をほりくずす工作が進められてゆくにつれて、王労の各級機関の構成員は微妙な立場にたたされてくるであろう。勿論、前述した工作を進めるに際しては、王労右派勢力を有効に使うべきであるが、それと同時に工作の成果をつみとるという意味から、王労員の気持の変化に応じて、各級機関の構成員の獲得運動をも進めさせる必要がある。

 少なくとも、大会代議員、支部委員の過半数を確保し連操延長で左派と五分以上に闘える状態を作らねばならない。唯、この獲得工作を進める場合、連操延長反対と目される代議員、委員の反対理由を詳細に把握し、分析することが大切である。恐らく連操延長反対派と一口にいっても、その内容は千差万別であると思われる。それは@純理的立場から、連操に反対しなければならない左派分子とそれに同調するもの。A左派分子及びその同調者と理論的なつながりはないが、人間的な関係で結ばれているために反対の立場をとるもの。B特定の問題が解決すれば連操反対をとり下げるもの。の三種類に大別されよう。この中、特にBの範疇に属する者を集中的にねらうべきである。」

 「王労苫小牧支部の中に、右派を中心とした連操延長派を作りあげてゆくのと平行して、反対勢力である左派への工作を進めねばならない。その工作とは脅かしと懐柔の両面作戦で、これにより左派の分断をねらうべきである。残念ながら具体的な作戦を記述することは出来ないのでこの点は各関係者に研究してもらうことにしたい。

 唯、一つの材料として『吉住氏が貸付金2万円と13日連操とを取引した具体的事実を公表する(会社声明のように抽象的なものでなく、もっと事実を具体的に述べたもの)』ということが、左派勢力に対して大きな圧力となることはたしかである。この材料が来年4月末に再度脅迫材料として使用できるか、どうかという点については各人によって判断が違うであろう。しかし、この材料は使い方によって、左派の親分を組合運動から失脚させるだけの影響力を持っている筈である。

 従って、この材料を活用して吉住氏をおどすだけおどし、彼とその一派が連操延長に積極的な反対ができない状態──いいかえれば消極的に賛成させる状態を作り出してゆくことも一つの方法であろう。もっと欲をいえば6ヶ月の間に左派勢力をオドすことが出来る決定的な材料を二つ、三つくらい作り出しておくことが必要かも知れない。」

 「王労左派勢力に対する脅迫と懐柔によって、その勢力の分断をはかることには、連操延長問題と同時に、懲戒問題を有利に解決しようとする伏線が秘められている。王労左派が懲戒処分の撤回をもっとも重視していることは衆知の通りである。従って彼等は最後までこの問題の解決と連操延長とをカラミ合わす作戦をとるであろう。というのは、王労の現状は、懲戒問題を解決するために実力行使がおこなえるような体制にないからだ。(註、イヤガラセ的なサミダレストは出来るかも知れないが、それは長期的なものではなかろう。)その為に最後の手段としては『連操延長の拒否権』をかかげて会社に圧力をかける道しか残されていない。これを反対からいうと、懲戒処分の問題は、王労左派を連操延長にまきこんでゆく有力な材料であることを示している。いうなれば切札である。

 しかし、会社が連操を望むのあまり、最初からこの切札を出してしまうことは、懲戒問題が大きな影響力をもつだけに感心できない。若し、会社が懲戒処分を安易に撤回すれば、第一に会社の社会的信用の問題が発生する。第二に王労左派を勇気づけ、将来の労働政策にマイナスの結果を与える。第三に被害者の立場にある新労が著しく窮地に追込まれ、新労対会社の労使関係を暗いものとしてしまう。

 これらの点をあわせて考えると、会社はこの問題を将来の労使関係にプラスになるような形で処理すべきであろう。そのためには、連操延長は出来るだけ他の材料や条件を有効に活用して処理をはかり、最後の切札である懲戒問題は出来るだけ使用しないこと。いいかえれば、懲戒問題と連操延長とは極力切りはなして取扱う。王労左派のペースにまきこまれることを避けなければならない。

 そこで、王労左派に対する脅迫と懐柔の必要性が生まれてくる。若し、会社が王労左派幹部の決定的な弱点を握っておれば、そのことだけで王労左派は追込まれてゆき連操延長と懲戒問題をからみ合わす余裕を失ってゆくであろう。そうなれば、会社も連操延長と懲戒問題とをそれぞれ独自の立場から有利な形で処理できる筈である。」

 「以上6ヶ月後の連操協定延長の問題について分析してみた。この外に新しい取引の材料として、賃金なり、労働協約の問題が出てきそうである。しかし、この問題は王労が長期的な闘争力を失った現在においては、会社の方に有利な取引材料となるであろう。ともかく、もう一度前述したことがらを要約してみよう。

@王労春日井支部を連操延長の方向にむけてゆくこと。

A王労春日井支部と苫小牧支部右派勢力の連合戦線を結成し、王労全体として連 操延長の機関決定ができる体制を作ること。

B王労苫小牧支部の内部に、連操延長に賛成する雰囲気を作ること。

Cこの工作と平行して、連操延長を認める大会代議員支部委員を1/2以上獲得 する運動を進めること。

D同時に王労左派勢力を窮地に追込み、連操延長に積極的に反対できない状態 

 ──消極的にでも賛成する状態を作りあげてゆくこと。

E懲戒問題はできるだけ連操延長と切りはなして取扱うこと。」

 「若し、今後の工作によって、前述したような状態を作ることに成功すれば、次のような道が開けてゆくであろう。

@先ず新労連が積極的に連操協定延長の方針を打出す。恐らく、来年4月頃には、新労連は3/5組合まで成長しているだろうから、その影響力は現在より比較にならぬ程大きなものとなっている筈だ。従って、王労がうけるショックも大きいだろう。しかも、その頃になると、王労と新労の下部組合員の対抗意識が現在よりも冷却しているであろうから、王労がうけるショックも『連操に反対する』という方向にゆかず、むしろ『新労が決めたのだから仕方なく認める』という形をとる可能性が強い。無論この場合王労が少数組合になったことによって、かえって依怙地になり、新労のやることにことごとく反対するというケースも考えられないわけではない。しかし、王労の各級機関における右派勢力の影響力を強めておけば、そのような危険性は回避できよう。

A次いで王労春日井、本部の順で連操延長の決定を強行する。これによって苫小牧の左派勢力は一段と孤立化し、反対の気勢をくじかれることになる。又、本部が決定したということで、右派勢力の発言も容易となろう。つまり『本部の方針を承認するかどうか』で議論すればよいからだ。

B苫小牧の左派勢力が孤立化してゆく進行の度合とにらみ合わせて、左派勢力にオドシをかけ、彼らの反対運動をセーブしてゆく。そうすれば左派勢力は益々動きがとれなくなってくるであろう。

Cこれまでの手を講じてもうまくゆかない場合は、貸付金2万円の残金処理と連操延長とを搦み合わせた交渉を進める。この他に賃金や労協も適当に搦ませる。ただし、これについては、王労にスト能力があるかないかで戦法をかえる必要があろう。スト能力があり、会社も僅かな犠牲でも回避したい場合には、搦み合わせの程度について再検討を要する。具体的な方法は、その時にならなければ判断できかねる。

D最後の切札として懲戒問題をとりあげる。」

  第4節 第三勢力

 1.第三勢力の性格

 では、「平和路線」を推し進めるという意味で「平和グループ」、争議以降の第一組合、第二組合の路線を否定し第三の道を進むという意味で「第三勢力」と名のった、王子労組幹部の集団とは、いかなる性格の集団だったのであろうか。

 王子労組、新労の幹部の学歴、出身職場等は第3表の通りである。この表によれば、まず、新労幹部の多くが大学卒であることが判る。また、新労には、結成当初政党のメンバーは全く存在しなかったが、新労が全労会議に加盟したため一部の幹部は民社党に加入した。左派幹部の多くは、高学歴で、将来の「出世」が約束されていたにもかかわらず、王子労組に留まることによって、その可能性を棒に振った者、あるいは、そうでなければ、共産党員等強固な左翼思想を持つ現場労働者であった(王子労組内の共産党員は5名のみであった。彼らに対する組合運動の進め方に関する党の指導はほとんどなく、組合運動についての党細胞独自の路線も無いも同然であった(1))。

 それに対して、第三勢力の多くは、高等小学校卒の生産現場の平社員であり、大学卒は一人もいなかった。また、彼らは無党派または社会党員であり共産党員は全く存在しなかった。王子労組内の社会党員のほとんどは、明確かつ強固な左翼思想の持ち主ではなかった(社会党員は約50名存在した。王子労組内の社会党員が、日本社会党の左右分裂に際し左派に属したのは、政治的立場の主体的選択の結果ではなく、単に社会党道連が左派に所属したからでしかなかった。当時の社会党は、学歴が低く企業内での昇進を期待しえなかった者に対して、組合幹部の地位を足がかりに市会議員、道議会議員になるという「出世コース」を提供していた(2))。以上のように、第三勢力は、学歴、出身職場、あるいは強固な左翼思想の欠如という点で、左派や新労幹部と比べて、平均的な王子製紙労働者(3) に近い体質を有していたと言える。

 第三勢力は左派と対立しつつ平和路線を進めたが、彼らも長期スト時には左派と異なる派閥を形成していたわけではない。彼らの中には、市川年雄支部長(苫小牧支部)、今田勝義支部執行委員のように、最も戦闘的な指導者であると会社側から思われていた者(4) も少なくなかった。彼らが第三勢力を形成したのは、スト終了後、職場闘争が展開されていた1959年1月から2月にかけてである(5)。彼らが第三勢力となり、組合を平和路線に導いた理由は、彼ら自身の言葉(6) によれば次の通りであった。

 @彼らは、吉住執行部の路線について、それが「無謀」かつ「極左的」な方針であり、徒に会社の「弾圧」を招き王子労組からの脱退を促進する結果をもたらしていると考えた。そして、闘争を控え会社に対して譲歩することによって「平和」を回復しなければならないと考えた。A長期スト、スト後の職場闘争の中で、第一、第二の両組合員は憎しみ合い、多くの暴力的衝突も発生したのであるが、彼らは、このような、かつては同じ組合の組合員であった「同じ従業員」「仲間同士」の対立を否定的に把え、特に、王子労組の就労後、現場では圧倒的多数を占めていた王子労組側が、少数の新労組員を「吊上げ」たことについて「反省」した。B新労との暴力的衝突を伴うスト中の闘争戦術、新労組員との憎しみ合いの増幅を結果した職場闘争を王子製紙に持ち込んだ炭労活動家を中心とする総評派遣のオルグに対して反感を抱いた。そして、「無責任」な「外部勢力」の「介入」は、王子の従業員にとって「有害無益」だと考えるようになった。また、オルグの横山春雄紙パ労連副委員長の出身企業である東北パルプが、王子のストに乗じてシェアを伸ばしたことについても憤慨し、同業他社出身のオルグは「口先」では「産業別統一闘争」を叫んではいても、実際には自分の企業の利害に従って行動するものだと認識した。そして、地域共闘、産業別統一闘争等超企業的共闘を否定し、総評、紙パ労連からの脱退を指向し始めた。

 これに対して、左派は、合理化反対闘争を推進すべきだと考えるとともに、第三勢力とは違って職場闘争や超企業的共闘についても肯定的であった。そして、争議前の王子労組が超企業的共闘や職場闘争に消極的だったことを反省し、王子労組を「企業内的」な「殿様組合」から「階級的」な労働組合に脱皮させなければならないと考えていた(7)。

 他方、新労幹部もまた職場闘争や超企業的共闘を否定していた。しかし、次のような点で第三勢力の考え方は新労幹部のそれとは異なっていたという。新労幹部は、製品市場における王子のシェア低下を憂慮し「独り当社のみが、昔の王者の夢をむさぼっていられなくなって」(8) いると訴えた。「企業の繁栄」が「労働条件向上」の前提条件だと主張し、積極的に「生産性向上に協力しよう」「分配率の増大よりは生産量の増大を」(9) と呼びかけた。そして、連続操業、要員削減等の合理化に対して「全幅の協力と努力を傾注」(10) した。さらに「安定賃金協定」を進んで受け入れ賃金増額の抑制についても協力した。第三勢力は、このような新労幹部の態度に反発し次のように考えていたという。新労は「御用組合」であり労働者の利益を「代表」するものではなく、多くの新労組員は、その「幹部のやり方」に不満を持っている。王子労組も、今後は、合理化に対して、ある程度は協力していかなければならない。また、連操受諾は、労使間の「平和」を回復し、組合からの脱退を防ぎ、処分撤回等会社の譲歩を引出すための配慮として妥当な施策である。しかし、労働運動の基本的なあり方としては、合理化に歯止めをかけ続けることを忘れてはならず、合理化に全面的に協力しようとする新労の態度は行き過ぎである。したがって、争議前の王子労組の合理化反対の姿勢については、基本的には継承すべきである。また、賃金増額についても新労のように会社の「言うなり」になってはならない。王子労組は職場闘争や超企業的共闘の路線と訣別し、新労と「対等合併」し「御用組合」でも「超企業的」でもない従業員の利益を真に実現する組合をつくるべきである。そして、争議前の「企業内的」な王子労組「本来」の姿に帰るべきである。もし、これらの言葉が真実なら、合理化反対路線を真向から否定していた新労幹部とは著しく異なっていたと言える(新労幹部と第三勢力の考え方に相違が生じたのは、新労幹部の多くが大学卒だったのに対して、第三勢力の多くが高小卒の現場労働者だったからだと考えられる。第三勢力は現場労働者の合理化に対する反発をよく理解しており、彼らの支持基盤も現場にあった)。

 しかし、第三勢力のこれらの言葉は単なる自己弁護であり本音を伝えていないのではないかという疑問が生じる余地はある。そこで次に左派が第三勢力をどのように見ていたかを検討しよう。第三勢力による闘争放棄や執行委員辞任は王子労組の崩壊を結果したのであるが、左派は、第三勢力のメンバーの多くが目的意識的に王子労組を破壊し組合員を新労に送りこむことを目指していたのではないと述べている(11)。王子労組の目的意識的破壊者が、彼らの内少数でしかなかったことは、次の事実からも明白である。今田勝義らが執行委員の辞任による動揺に乗じて「今、脱退して新労に入れば将来の地位は保証される」と脱退を勧誘してまわったのに対して、岩崎俊雄や市川年雄達第三勢力の多数は、この頃、呆然自失の状態にあったのである(12)。

 また、王子労組の目的意識的破壊者とそうでない者との相違は、王子労組脱退、新労加入の時期、および、その後の彼らの経歴に現われている。例えば、“目的意識的破壊者”の今田が、1960年1月王子労組の雪崩的崩壊と同時に直ちに新労に加入したのに対して、加賀谷昭夫の加入は同年2月30日であり、市川年雄、瀬川忠男は退職するまで新労には加入しなかった。そして、今田勝義がその後新労の推薦で苫小牧市議会議員(民社党)に当選するという“出世コース”を歩んだのに対し、市川年雄は1960年8月会社から退職を勧告され(拒否した場合は違法な争議行為を指導した責任により懲戒解雇処分に処すと通告)これに応じて退職し、加賀谷昭夫は春日井工場転勤、苫小牧工場に残った瀬川忠男、岩崎俊雄も、新労幹部等の重職に就くことなく“生涯不遇”であった。

 では、王子労組の組織を維持しようと努力していたメンバーは、なぜ第三勢力を形成したのであろうか。左派の服部治男中央執行委員(1958年)は、彼らの中には自己保身のために第三勢力となった者もあると述べている。すなわち、彼らが新労との対等合併を指向したのは、王子労組が切崩されて新労に吸収される場合には組合幹部としての地位を保つことが不可能であり、彼らの「面子」も立たないからであったという(13)。しかし、服部や同じく左派の田原賢蔵書記長は同時に、第三勢力が少数の例外を除いて単に私的利害のみに基づいて行動したのではなく、組合の「将来」を「良心的」に考えていたことを認めている(14)。そして、服部は、第三勢力の考えが、単に闘いの見通しについての悲観論や戦術的慎重論に留まるものではなく、第三勢力は、「同じ従業員同士」の対立を「反省」し、かつての「仲間」であった者どうしの間における“和”の回復を真剣に追求していたと記している(15)。なお、この文書は服部によって王子争議直後の1960年に書かれたものであり、長い年月を経た後の回顧録ではないという点でも信頼に値するものである。そして、第三勢力のメンバーの気質、性格を長年の付き合いによって熟知しており、しかも、彼らと対立していた左派ですらこう書いていることから、第三勢力の言葉が単に自己弁護の虚構であるとは考えられない。さらに、第三勢力が「従業員同士」の対立について「反省」していたことは、次のような岩崎俊雄の発言にも示されている。1959年5月17日午後1時より、東京大学社会科学研究所講師藤田若雄を交えて、王子労組幹部8名による会議が開かれたが、その席で岩崎は「青ボウに敵意がむきすぎていたのではないか、また親しみをもっていくべきではないか」(16) と主張した(青ボウとは新労組員を指す、長期ストライキ中彼らは青い帽子をかぶった)。

 

 

 2.会社による第三勢力の育成

 このように第三勢力の多くは、王子労組の目的意識的破壊者ではなかったが、第三勢力の育成に当って会社による「工作」が重要な役割を果たしたことも事実である。会社の対組合工作のシナリオとも言うべき文書(1)には、1959年9月の役員選挙における第三勢力(右派勢力)の「進出」計画が次のように記されている。

 「次期王子労組の役員の選出」について、これを「放任」すれば「現在の左派役員が殆んど全部当選することは略々明確」である。この「左派役員」は「今次争議」について「何等反省がなく」その「再選」は「紛争再発の素因を醸成する禍根」となる。左派の打倒のためには「現在の左派役員を再選」させ闘争を再開させた方が得策だとする「意見」もあるが、それは誤りである。なぜなら、王子労組の「組合員大衆」には、再開された紛争の中で、第三勢力が左派を打倒しようとする時、これに「追随する基盤」が無いからである。また、会社にも闘争に耐えうる「体力」が無いので、この「左派再選の方策」による「左派勢力の打倒」は「不可能」である。したがって、採用すべき方策は「凡ゆる方途を尽して」「右派勢力」の「進出を図り」「左派勢力」の「独走を制約しその行動を阻害し混乱せしめる」ことである。以上の「目的達成のため両工場長を中心とする動きがあるが、この方策を強力に推進するためには会社の役員会に於いてこの方針で行く旨を打合決定し、会社幹部の意志統一を行い、管理者層を通じ強力に施策を実行する決定を下部に督励することが焦眉の急務である」。

 そして、直接に、第三勢力を組織化したのは、戦前の日本共産党委員長である田中清玄であり、彼を王子製紙の経営者に紹介したのは、元北海道庁職員組合委員長である社会党系の北海道知事田中敏文であった(2)。知事が田中清玄を王子の経営者に紹介した理由は次の通りである。1959年は統一地方選挙の年で、4月23日には北海道知事、道議会議員、4月30日には市町村議会議員の選挙が予定されており、特に、当時の社会党道連幹部にとって、田中敏文の後継者として横路節雄候補を当選させることは「至上命令」であった。1959年3月、王子労組は「懲戒処分撤回」「子弟採用差別撤回」のために闘いを再開したばかりであったが、社会党道連、全道労協(全北海道労働組合協議会)幹部、田中知事は、選挙戦を有利に運ぶためにスト再発を阻止しようとした。それは、スト再開によって選挙運動のための人員(全道労協傘下の労組員)を王子の闘争の支援のために割かれること、また、マスコミが「暴力スト」として報道していたストの再発による得票の減少を恐れたためであった(3)。知事は、田中清玄の働きによってスト再発が阻止されることを期待していたのである。

 また、社会党道連、全道労協幹部は、4月8日に予定されていた24時間ストが迫ると市川年雄苫小牧支部長を札幌に呼び出してスト中止を要請した。前日の4月7日に、市川支部長は「朝から」札幌に呼び出されストを中止せよと「ギュウギュウやられ」たため、「メンツもあるので、せいぜい3時間くらいの時限ストをやってお茶をにごすから」と「約束」して「7日夜もおそくなって、解放され」帰途についた。そして、東京駐在の中央執行委員会とかけあったが、彼らは、この頃既に第三勢力に組織化されつつあった市川支部長とは違って闘争推進の決意を有していたため、24時間ストの変更を認めず、8日のストは予定通り実施された。これに対して、社会党道連幹部は「これはかんべんならぬ」と、市川支部長、加賀谷昭夫苫小牧支部書記長を札幌に呼び出して厳しく叱責した。さらに、田中知事は、自らが仲介者となって王子労組、新労、会社の「三者会談」を斡旋した。4月13日東京において、知事は電話で社会党道連幹部と翌14日のストを中止させる方針を確認し合った後、スト中止や平和的交渉に難色を示した吉住中央執行委員長らを強く説得し、「三者会談」に臨むことを承諾させた。そして、14日、17日に予定されていたストは中止されることになった(4)。

 知事は、田中清玄をまず王子製紙春日井工場長田中文雄に紹介した。知事は田中文雄とは九州帝大林学科の同級生で「こうした争議は、実戦経験のある専門家を頼まないと解決が難しい」と田中文雄に勧め田中清玄を紹介した。それ以来彼ら3人は、その風貌から「ハゲ田中」(工場長)、「ヒゲ田中」(知事)、「キチガイ田中」(田中清玄)の「三田中」と呼ばれ、相互に親交を深めることになった(5)。1959年1月、田中清玄と知事は、まず、苫小牧地区労書記長今田勝義(スト中は王子労組苫小牧支部執行委員)に働きかけ(6)、その後、今田勝義を通じて他の幹部達を第三勢力に組織化していった(7)。その結果、市川年雄支部長は、田中清玄を「生涯の師」として尊敬しその熱烈な信奉者となるに至った(8)。

 このように、第三勢力の組織者が田中清玄だと述べると、彼らのすべてが会社の「スパイ」、組合の目的意識的破壊者であるかのような印象を受けるかもしれない。しかし、それは前述のように誤りである。田中清玄の説得の内容は、「同じ労働者同士」が「憎み合ってはだめだ」と両組合の再統一を勧め、経営者の態度についても、労働者の主張に耳を傾けていないとして批判し、会社、王子労組の双方が自己の誤まりを改めて新しい労使関係を築くことを勧めたものであった(9)。彼の説得が、「スパイ」となって破壊工作を担うことを勧めたものでなかったからこそ、真面目に組合の将来を案じていた市川支部長らの心を把えることができたのであろう。以上の検討から明らかなように、第三勢力の中には王子労組の破壊を目的意識的に追求した者も含まれていたが、その多くは主観的意図において、王子労組の維持、発展を願いつつ「良心的」に行動したのである。

 ここで、会社の労務政策における第三勢力の位置づけについてふれておこう。経営者側にも内部対立が存在した。社長とその意を受けた田中清玄は、第三勢力の育成を通じて王子労組を「穏健」な組合に変質させ、総評から脱退させた上で新労と対等合併させることによって労使関係の安定を実現しようとしていた。そして、彼らは王子労組幹部の心を和らげ第三勢力への共鳴者を増やすために、新労による切崩しを抑制しようとした。例えば、「赤坂の料亭」で田中清玄は、苫小牧工場における争議対策の事実上の最高責任者であった市村修平管理部長(争議中に副部長から昇進)に対して「社長の命令」だとして「直ちに」王子労組の「切崩しをやめろ」と叫んだこともあった(10)。他方、反社長派であり社長の座を狙っていた熊沢貞夫副社長の輩下であった市村は、第三勢力を、王子労組を切崩し新労を拡大するための手段として位置づけていた。会社の労務政策は、この両派の反発と妥協の内に揺れ動きながら、具体的には「冷却──刺激」戦術として進められた。

 

 3.第三勢力の“日本的精神構造”

 第三勢力の形成に当っては、田中北海道知事、そして、田中知事の私設秘書であり、社会党道連常任執行委員であった平野晁、そして、全電通出身で社会党苫小牧支部長、元苫小牧地区労議長、市議会議員の合坪正三が重要な役割を果たした。彼ら社会党幹部達は、田中清玄とともに、王子労組幹部を説得し「第三勢力」に組織化した(1)。

 社会党道連による説得の論理は、次の文章(社会新報論説)に如実に表現されている。「王子労組と第二組合の組合員同士、同じ従業員同士が日本人同士の同じ労働者階層が感情のもつれから来る血で血を洗う状態は会社百年の大計上決して有益でない事は衆知の通りである。衆知の事実でありながら、労資、第一、第二の両労組の間に『和』の精神の生まれないのは何故だろう、円満解決への進展を見ないのは何故だろう。」「王子製紙の如く、化学産業であり連続的職場において操業態勢の確立こそ極めて重要、真の解決はこの操業態勢の確立である。操業態勢の確立は従業員、組合員同士の『和』の精神であり、組合の完全統一である。果たしてこの重要課題を会社側も第一第二組合の幹部、組合員が考えているのだろうか。力による解決は解決ではない。操業態勢の確立でもない。此処に日本人特有の面子にとらわれる事なく、道民、市民の声に静かに耳を傾けるべきである。」(2)。

 ここに見られる論理の特徴は第1に、王子労組と第二組合のどちらが正しいか悪いかを問題にしていない点にある。第2に、「日本人同士」の「同じ従業員同士」の「和」の提唱である。そして、この「和」は“善悪の論理を超えた和”であった。こうした考え方が、平野晁、合坪正三ら社会党幹部、および、田中清玄による説得の主たる内容だったことは、第三勢力メンバー(今田勝義、加賀谷昭夫、瀬川忠男)および、当時の社会党苫小牧支部長合坪正三からの聞きとりによっても確かめられた(3)。

 彼らの説得によって、田中清玄の熱烈な信奉者となったのが、レッド・パージ復職闘争、連操反対闘争の旗手であり、145日のストにおける“輝ける苫小牧支部長”であった市川年雄であった。市村修平苫小牧工場管理部長は、市川「支部長が常時白さやの短刀をふところにしのばせているという風聞を耳にし、その浪曲じみた性格を分析し」「裸同士で話合おう」と「一緒に入浴して見せ」情緒的な方向からの和解を追求した(4)。こうして、市川は会社側の「誠意」を信じるようになった。そのことは、執行委員会内の議論(1959年6月8日)における、市川の「組合が心から誠意をつくして諸問題の解決に当っているのに、会社が誠意を示さないわけがない」(5) という主張に現われている。王子労組の闘争再開に対する社会党道連、全道労協による圧力、北海道知事の仲介によって実現した「三者会談」(1959年4月) 以降、王子労組と会社は「平和交渉」を続けたが、会社は譲歩を匂わせながら交渉を引延し、王子労組側にとっては成果が得られなかった。そのため、王子労組は、6月、闘いを再開しようとしたのであるが、市川年雄は先のように主張して闘争再開に強く反対したのである。

 1959年4月、除名解雇、職場闘争に対する懲戒処分、子弟採用差別の問題で、王子労組が闘争を再開しようとした時の、田中敏文北海道知事および中島慶次社長による説得内容も、対立点を棚上して情緒的和解を図ろうとするものであった。

 4月14日東京で、田中知事の仲介の下に、王子労組、新労、会社は「三者会談」を開始したのであるが、「三者会談にのぞむ条件としては、旧労は色々出して、団交でやる様なことを、皆三者会談に持込むというようなやり方を主張したが、そういうことでは、現在平和的空気を作り出すために三者会談をやろうとしているので、具体的な条件が何かあろうと、それは三者会談の問題ではないから、すっきり割切りなさいと田中知事に言われて、結局諒承した」。すなわち、除名解雇、処分、子弟採用等の問題は棚上されたまま、「平和解決」のための「三者会談」が進められたのである。この「三者会談」で、既にこの頃第三勢力に組織化されつつあった市川苫小牧支部長が知事および会社が進める「平和解決」の方向に好意的な態度を示したことは言うまでもない。市川は、既に4月10日、苫小牧で合坪正三社会党苫小牧支部長の仲介の下に、戸部卯吉苫小牧新労副委員長、石川晴樹書記長と非公式に会談し、翌4月11日、市川と石川新労書記長は「仲良く二人で上京」(6) した。

 また、中島社長は「三者会談」の席で、次のように発言した。「会社も色々と反省しているし組合にも反省をお願いしたい。……当社の最高責任者として自分としては一身を投げ出してこの問題を解決したい。誠心誠意これに当りたい。自分は体の都合で代わりの人を出すが責任根本は私にある。信を相手方の腹中におくつもりである。」(7) これまで団交、協議の席にほとんど出席したことがない中島社長の、しかも、異例の低姿勢だと受けとることのできるこの言葉は、第三勢力のみならず、左派の吉住秀雄中央執行委員長の心をも強くゆさぶった。戦後1946年頃共産党シンパとなった吉住秀雄(入党は1965年)は、1919年直属の監督者を排斥するための運動を行い解雇処分を受けた千葉喜三郎の実弟で、解雇された兄の生活苦を間近に見て、「社会の矛盾」に対する怒りを形成した(8)。また、生産現場(調木)の労働者であった吉住は労働災害によって指を切断していた。こうした経歴から吉住は、「筋金入り」の「労働者魂」と、インテリ層に対する強い反感を持っていたという(9)。そうした吉住であったが、社長の挨拶に心を動かされ、同日4月14日午後9時、東京、苫小牧間の電話連絡において、「我々も腹中に入って行くという心構えで進めて行きたい」(10) と語った。 このように、第三勢力、そして、左派の吉住委員長も半ばこれに同調して、4月から6月にかけて「平和交渉」が進められたが、会社側は交渉を引延すだけで具体的譲歩を示さなかった。そこで、前述のように左派主導の吉住執行部は第三勢力の反対を押し切って闘争再開を決定したのであるが、この時の会社回答は、またしても、“具体的”譲歩を示すものではなく“玉虫色”のものであった(前述)。田中清玄を使って第三勢力を育成した田中文雄春日井工場長は、労使間の諒解事項が曖昧で玉虫色の文章に表現されたことに対する王子労組側の不満に対しては、田中文雄個人および中島社長の「腹」「誠意」を「信頼してくれ」と迫ることにより、説得しようとした。

 田中工場長は次のように語った。職場闘争に対する懲戒処分の撤回は「今ならダメだ。ストをやっても撤回出来ない。しかし今後に向って解決する自信を持っている。」「復職については田中前知事と力を合わせ社長を説得すれば出来るという自信もある。」(11) しかし、「年内に解決するといっても新労もあり、会社の方だってわからない人間もいるんだし、足をひっぱられるおそれもある。また重役間でも色々内部的な問題が沢山あるわけだ。又日経連もあるわけだ。そういう処から、一たん発表した処分というものをなんらかの形で撤回する、復職させるということをいま出した、今労使で話を進めたとなれば横やり、じゃまが入るということなんだ。将来この解決については絶対自信を持ってやるから」(12)

 さらに、1959年7月、スト参加者とそうでない者のボーナスに出勤日数に応じた差がつけられたことに関する団体交渉(7月11日午後8時10分〜10時50分)の席で、会社代表の田中文雄はこう発言した。「前にも言ったがね、そういう筋だとか主張という所から始まるから、まとまらない。」「争議をしなくてはならないという観点から離れないと出発しない、あなた方だってストをやりたくないわけでしょう」(13) 田中文雄は、ボーナス問題における具体的妥協案を示すことなく、王子労組に対して「筋」や「主張」を棚上し、当面するストライキを中止することを求めた。

 また、1959年9月10日午後3時〜6時30分の団体交渉では、同年夏期ボーナス差額分を補填するための貸付金返済問題等を具体的に解決することなしに、王子労組に休日返上の13日連操を呑ませるために(王子労組側は連操承認の代わりに貸付金返済を免除せよと要求)、田中文雄はこう説得した。貸付金問題解決の具体的条件を「ハッキリさせるならぶちこわしになる、交渉は労使の信頼の中に出来たもので、私(田中)や社長を信頼しないのか」、労使間に「これまで欠けていたのは信頼」であり「絶対に悪いようにしない、信頼してくれ」「素直にかけてもらいたい」(14)。こうした説得に応じて、第三勢力の岩崎俊雄を中央執行委員長兼苫小牧支部長とする新執行部は連操実施を承諾したのである。

 連操問題等に関する岩崎執行部の考え方は、1959年10月4日の東京での会議における次のような結論に如実に表現されている。貸付金問題の解決は「労資間又は労々間の感情の如何にかかる」。職場闘争に対する懲戒処分の撤回のためには「新労の感情緩和が必要となってくる」。そのためには「過去のわだかまりをすてること」、「相互に信義と信頼を確立する努力に踏切ること」が不可欠である。「会社は組合の態度に不信を内蔵しているので組合の態度があいまいな場合には信頼回復に疑問を持っており組合としては少々難点があっても組合員に理解させる事に責任を持たなければ」ならない。「社長及重役会に対して充分に組合の態度を理解させ組合の真意を示す必要がある」(15)。そして、「感情緩和」「信頼回復」のために岩崎執行部が行ったのが、休日返上の13日連操の受諾であった。会社側からの譲歩が何もないのに、王子労組側から“先んじて”譲歩し、会社側の「感情」を和らげ、「信頼」を回復しようとしたのである。

 

 

  第5節 一般組合員の意識

 1.第二組合員との対立の忌避

 では、王子労組崩壊の主要な根拠は、左派幹部の動揺によっても許容された第三勢力の闘争放棄にあったと結論づけ、ここで分析を終えていいのであろうか。そうではない。岩崎執行部は、組合員が直接投票によって選出したものである。また、連操受け入れも、それに対して反対が少なくなく討議が「難航」し、また、苫小牧支部では「但し会社側に誠意が認められない場合には断乎闘う」という但し書をつけはしたものの、結局は修正可決(10月26日支部大会63対13)され、また、同日の春日井支部大会でも39対0で可決されたものであった(1)。組合員は平和路線を基本的には受け入れていったのである。したがって、一般労働者は「戦闘的」であったにもかかわらず、指導部が闘争を放棄し組合を崩壊に導いたという図式は当てはまらない。

 一般組合員は、なぜ第三勢力の岩崎を委員長に選出し、彼による闘争放棄を受け入れたのであろうか。それについて検討する前に、第三勢力の主張や行動の内、組合員に知られていたことと、隠されていたこととを分けなければならない。第1に、彼らが会社幹部と秘密裏に会合を持っていたこと(2)は、彼らの辞任直前まで大部分の組合員には知られていなかった。第2に、総評、紙パ労連からの脱退を指向し新労との対等合併を目指していたことも、ほとんど知られていなかった(3)。組合員が理解していた方針は、会社に対して譲歩しつつ、労資間、両組合間の「和解」を推し進めることでしかなかった(4)。したがって、第三勢力の考えの内で組合員が受け入れた部分はこの限りに留まっていたと考えられる。 

 もちろん、この程度の論拠をもって、王子労働者の従業員意識の存在を否定あるいは希薄なものとして把えることには無理があろう。しかしながら、労働運動の路線および労資関係の転換に当って、企業の繁栄を労働条件の安定、向上の前提と考え、企業の「構成員」「生産の主体」たる自覚をもって「生産性向上」に能動的に協力しようとする「従業員意識」が大きな意味を持ったことが、たとえ仮に事実であったとしても、その明確さ、強さの程度においては、将来の経営者である大学卒の第二組合幹部、現場労働者出身の組合幹部、一般労働者のそれぞれの間に相当な相違があることも看過してはならないであろう。アンケートの結果から推測すれば、王子労組の闘争放棄への傾斜に当っては、上記のような意味における「従業員意識」よりも職場における「人間関係」にまつわる心情の方がより大きな意味を持ったと考えられる。

 2.職場闘争の挫折

 1958年12月15日、就労と同時に、職場闘争は、上記の方針に従って開始されたのであるが、これに対して、会社側は次のような指針をもって対処した。「部課長、係長」には組合の職場組織と交渉する権限はない、「従ってかかる無権限の行為はなすべきではない」「つまり、交渉権限はあくまで工場長にあり、部課長、係長等には右の権限を委譲していないのである」「たとえその要求が些細な事項であっても」交渉に応じてはならない。「この申入れを無意識のうちに受けつけると、組合の職場組織と会社の職制との間に部長交渉、課長交渉、係長交渉という『交渉の窓口』を認めた形になる。一度これを認めると、これを実績としてその次に再び同様の交渉方式を執拗に要求してくることが考えられる。即ち組合の『職場闘争の場』を認めたことになる。従って職場における職制は組合に対して職場闘争の場を与えないことが大切である」(1)。

 王子労組の職場闘争戦術の緻密化に大きな役割を果したのが藤田若雄東大社会科学研究所講師(当時)であった。藤田若雄による苫小牧工場の職場闘争に関する「調査報告書」(1959年1月) には、「現場(職場)、部門レベル、執行部レベルの主体的関連および部門相互の関連が確立していない、すなわち、職場闘争の体制が確立していない、例えば、調木、抄取の職場闘争は部門相互にも、執行部とも意思統一が形成されないままで行われている」とある。

 このように王子労組は失敗を教訓として、1月29日、下記の「職闘3原則」を示し、今後の職場闘争は常に執行部と連絡をとりつつ行う様に指導した。

(イ)“職場で解決出来るものは出来るだけ職場でする”ことは職場闘争の原則であることは論をまたない。だからといって、なんでもかんでも職場闘争で解決出来るということにはならない。従って問題が職場に起きた場合、部門担当執行委員を入れて解決の方途を協議し、その内容は必ず執行部に連絡すること。

(ロ)職場で解決出来るものは職場闘争に持ち込み、どうしても解決できない場合、職場の大衆検討の意向に基づき職場代表の参加を得て支部団交に持ち込む。

(ハ)職場の要求が工場全体の共通問題の場合は支部団交で行う事を原則とするが、この場合の統一行動は大衆討議の中で決める。

 そして、1月31日の処分発表に対しては、「不当処分を実力行使によって撤回せしめる」との方針を決定、一般投票を行って2月7日にスト権を確立すると共に、今後の職場闘争は、「安全遵法闘争」を中心に行うことを指示した(8)。





(私論.私見)