被逮捕時の拷問の様子

 清玄氏の被逮捕時の拷問の様子をここで取り上げる理由は、清玄氏への拷問時の様子と宮顕のそれとの差異を明らかにするということにある。以下、簡略ながら田中清玄の逮捕時の取調べの様子を記すことにする。田中に対する取調べの様子は概要次のようであった。

 取調べは峻烈を極め、同僚の敵討ちだと公言して憚らなかった。拷問していると、さあ殺せと清玄が怒鳴り、よし殺してやると刑事達が殺気だった。拷問で失神するまでに4時間かかった。後で聞けば、大抵の党員は30分か1時間で失神し、次の拷問の前に自白し始めるそうだ。清玄は失神から醒めてみると、手錠と足錠をかけられ独房に転がされていた。暗闇だった高い窓の外が白み、夜が明けると、また拷問だった。

 拷問は、大腿部を分厚い三角型の棒でつくったソロバンで絞り上げ、これをねじあげる。清玄は頑丈だったため、一回の拷問に4時間は耐え、却って官憲の怒りを煽った。ある特高は、「貴様のような悪逆非道な奴は全人類と日本民族の敵だと怒号した」。拷問と失神の日々が十数日間続いた。「大腿骨にひびが入り、手の指は紫色に腫れ上がった。それでも自白しなかった」。拷問最中に、毛利特高課長に(彼も会津出身なので)「貴様みたいな岡引にしゃべってたまるか、武士の名がすたる」とタンかをきり、痛く驚かした。こんなコムミニストは前例が無い、田中という奴はなんという奴だと評判が立った、とある。

 ちなみに、これに相当する宮顕の取調べの様子は次の如くであった。宮顕は、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で概要次のように述べている。大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は、鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く、「これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる」と言って、非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた (文化評論昭和51年臨時増刊号、「リンチ共産党事件の思い出」87P)。

 宮顕は、この時の拷問の様子について次のように語っている。「特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て、『世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか』、『この間良い樫の棒があったからとってある』と云いながら、椅子の背に後ろ手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水を掛けた。そして、『岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか』とうそぶきながら拷問を続けたが、私は一言もしゃべらなかった。歩けなくなった私を、看守が抱えて留置場に放りこんだ。12.26日で、監房の高い窓からは雪がしきりに吹き込んだ。一切の夜具もなく、拷問の痛みと寒さのため私は眠ることが出来なかった。

 その後も拷問は続けられたが、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせないという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会にきた母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」(宮本「私の50年史」.「日本共産党の65年」73〜74P)。

 この時のことを宮顕はこうも語っている。「追憶談」(週刊読売)で、「 (彼の追憶によると)はじめは、猛烈な拷問を加えられたが、そのうち向こうが、『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめて、持久戦に入った。寒中でも夜具を与えず、寒さで眠らさないような悪どい拷問に出てきた」、「それも一年ほどして切り抜けると、府中警察に、足錠、手錠をかけたままの姿で、二ヶ月置かれた」、「警察にいる期間は、ほとんど風呂にも入れず、本も全く読ませないで、一年間ただ座らされていた」という。宮顕は、これを称して「原始野蛮による人間への持久拷問」と言っており、この記者も「信念のない者ならたちまち拘禁ノイローゼにかかり、警察側の思い通りにされてしまったことであろう」と妙な感心の仕方で提灯している。

 以上、田中清玄氏の拷問状況にはリアリティーがあり、宮顕の拷問情況のそれは具体性に乏しくウソっぽいという気づきはれんだいこだけであろうか。

 宮顕の「その頃、面会にきた母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」なる文章の変調さを愚考せよ。母親が拷問で膨れ上がった顔を見て可哀想にと思いそれに順じた言葉を発するのは普通だが、「お前は変わったのうとつぶやいた」とは。宮顕が文芸評論家である以上、この辺りの記述が粗雑であることは有り得てならない。解釈すれば、息子の顔の膨れを見て、昔の面影とすっかり変わっていたから「お前は変わったのう」とつぶやいたという文意であるが、宮顕の母親が面会時にそういう客観描写発言したとすれば、その母親はそれこそかなり変わっていよう。言葉にならず嗚咽したというのなら分かる。その他いろいろ考えられる。それを、母親が「お前は変わったのうとつぶやいた」としてその言辞を得々として記述し、拷問の酷さ証言として利用している。宮顕にとっては意味のある記述ではあるが、利用された母親にとっては愚昧さ丸出しである。ここには、母親をも冒涜して恥じない宮顕の感性が垣間見える。れんだいこは、その原因を、全体に脚色まみれにしていることに起因している、と読む。(以前このような書き付けをして非難された覚えがあるが、れんだいこのこの解釈にどこか間違いがあるだろうか)

 ちなみに、清玄氏の場合、「夜が明けると、また拷問だった。拷問と失神の日々が十数日間続いた」という下りがあるが、宮顕には無い。代わりに、「はじめは、猛烈な拷問を加えられたが、そのうち向こうが、『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめて、持久戦に入った」とあるのみで、しかもこの記述では、一度の拷問で以って『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめさせたような風がある。こういうことって信じられるだろうか。これが「唯一非転向完黙人士」の実際である。だとしたら、何と嘘っぽい神話に誑(たぶら)かされてきたことだろう。

 次に、清玄氏と宮顕の責任の取り方に対する大きな差異があることを見ておこく事にする。清玄氏は、「この後、いつまでも取り調べに応じないことで検挙された下部党員へ迷惑を及ぼしていることも考慮し、まま取り調べに応じて行くことになる。『武装メーデー事件』の際は田中は肺炎で活動していない時期であったが、『武装は私の指示である』と責任をひっかぶっている。当の責任者であった田代が『実は私がやりました。田中さんには申し訳ないことをしました』と告白した後も、『どっちにせよ、責任は委員長である私にあるんですよ』と罪を引き受け、公判でも一貫して通している」。この田中清玄の責任の取り方を見よ。

 これに対して、宮顕の場合はどうであったか。極めて対極的である様を見せている。宮顕の場合、自身が手を染めたリンチ事件に対し、相手が持病でポックリ逝ったと言い張り、遺体の損傷に対しては「それは大部分彼が逃亡を試みて頭そのほかで壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」などと述べ、むしろ「蘇生させる努力をしたのは私と秋笹だけだ」と売り込み、死体の埋匿に対しては概要「関知していない、小畑の死体を遺棄すべく協議決定したことは無く、また遺棄したこともない」 と責任逃れしている。あるいは責任を下級幹部に転嫁さえしている。

 党指導者の両極として、田中清玄と宮顕を対比的に考察することは興味深い課題となっている。


 2004.4.25日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)