45271 田中角栄の思想、人となり

 (最新見直し2006.2.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 角栄について、当時の岩見隆夫毎日新聞記者は、「あのマスク、あのダミ声、あの語り口、あのせっかち、あの強引さ、とにかく全てがしみじみとなつかしい」と回顧している。後藤田正晴氏は、次のように述べている。

 「田中さんが仕えやすかったのは、責任を持ってくれるから。『任せる』と言って、責任はきちっと負ってくれたもの。そういうことですよ」。

 他にも次のように評されている。

 「明快、簡略、独善的でも紋切り型でもない、ユーモアもまじえてそれでいて決して本質を外さない。国際レベルにおいても当代の優れた知識人の一人であった」。
 「明晰な国家ビジョン、世界情勢、経済動向の洞察力、政治哲学、信念、理念を持っていた」。
 「発想はオリジナルで、言葉は平易で明快、内容は簡明直截である。道学者流の持って回った難解な説教は一切しない」。

 いろんな風に言われているが、まさに角栄はそのような御方であった。角栄には、現代の我々が失っている「体を張って諸事対処し、責任と決断と実行力を掲げる『原日本人の典型』」がある。

 ロッキード事件の裁判を担当し鬼検事と言われた堀田力・氏の角栄評はこうである。

 「いい意味でも悪い意味でも、極めて日本的な政治家でした。日本社会のいい面も悪い面も非常に拡大した形で持っていた。だから、善悪双方において比類なく傑出した人物だったと思います。頭もいい。理解力に優れている。それに人の気持ちをつかむ感性にも優れている。右脳も左脳も日本的に発達した人でした」。

 23年間角栄の秘書として行動を共にしてきた早坂茂三氏は、名著「政治家田中角栄」のあとがきで、次のように述べている。まことに味わい深い。

 「本書を書き終えて、私は新しい田中角栄を発見した。政治家・田中の内奥に潜むスサノオノミコト的な性格と大国主命的なそれである。両者の性格は矛盾するが、この矛盾こそ彼の政治活動の原動力であった。そして、この矛盾の共通項は、共に縄文人であり、弱者を救い、全ての人間を大事にしようという縄文思想の持ち主であるということである。政治家・田中角栄の発想の異能、雄大なスケール、激越な行動力は、やがて弥生文化的な日米両国の既成秩序から疎んじられ、斥(しりぞ)けられ、排撃されていく。田中をめぐり、日本社会の深層部分で『縄文の神』と『弥生の神』の壮絶な戦いが繰り広げられたのである。田中は病に倒れた。政治家としての復活は奇跡に近い。しかし、『田中角栄の政治』は、多くの改善と改革を重ねて、日本の政治社会に必ず再生するだろう。昔も今も日本列島を守る地霊は、『縄文の神々』だからである」。

 佐藤昭子は、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」の中で次のように述べている。
 「田中角栄を語るときに、強烈なリーダーシップと共に挙げられるのが庶民性である。田中は庶民をこよなく愛し大切にした政治家だった。いつも目線は庶民に向いていた。モットーは主権在民。庶民の生命と財産を守るのが政治家の責務であり、それ以外に政治家に何が求められようかというのが田中の考えだった。どうしたら国民が裕福に暮らせるのかを第一に政策をつくり実行した。庶民宰相と呼ばれた所以である。だから演説では誰にでも分かりやすい言葉で語り続けた。このことで庶民の共感と理解を得て、政治にパワーと実行力が備わったのである」。
 概要「田中がそうしたように、その時代時代に即した政策を実行するのが為政者の責務である。しかし、今の財務省は財源をつくる方法も知らず、赤字国債で財政が逼迫してくると、公共事業はだめだ、増税だとなる。私は、もし、田中が生きていたなら日本の経済も財政もこんな逼迫した状態にはなっていなかったと確信している。『いくら財政再建を叫んでも、石頭ばかり揃っていたのでは、いつまでたっても財政再建できない』、田中の言である」。

 2006.1.5日再編集 れんだいこ拝 


◎・率先垂範の人であった。
 角栄の率先垂範は生来の気質で、実業時代も政界に入ってもそうであった。何事も常に自分が体を張って手本を示すことで周囲を引っ張って行き、要所では全力投球であった。してみれば、リーダーシップの要諦をマスターした人であったということになる。

◎・学閥、門閥、閨閥何一つ持たずの徒手空拳の角栄であった。それを正々堂々克服する能力を磨いていた。
 1964年、44才で大蔵大臣に就任した角栄は、時間、局長以下、大蔵省の幹部を前に次のような挨拶をしている。
 「私はご承知のようにし、小学校の高等部しか出ていない。しかし、世の中の経験は、多少積んでいるつもりである。まぁ、諸君は財政、金融の政治家だ。これからは、もし私に会いたいときは、いちいち上司を通して来ることは無い。こう思う、これはおかしい、これを考えてくれなんてことがあれば、遠慮せずに来てくれ。そして、国家有事の現在、諸君は思い切って仕事をしてくれ。これは局長も課長も同じだッ。私はできることはやる。できないことはやらない。事の成否はともかく、結果の責任は、全て大臣であるこの田中がとる。今日から、大臣室のドアは取っぱずす!以上」。

 角栄は、後ろ盾を持たない裸一貫の成り上がり居士であった。その人物が一国の首相の座に上り詰め、世界と丁々発止で渡り合ったという稀有な歴史を遺している。このような事例は、日本史上の快挙として評されるべきであろう。

◎・その類稀なる能力と人間洞察力、人心収攬術は他の追随を許さないものであった。
 角栄は、「ワカッタの角さん」と云われたくらい速断の人であった。問題の急所を捉える呑み込みが早く、タイミングを外さなかった。須らく機先を制する術を得ており、先手必勝作戦であった。人情の機微に通じており、「泣かせる男」であった。

◎・練成された判断で即断即決を下し、その判断を誤らなかった。一種霊能者的なものがあった。

◎・判断の的確さ、抜群の決断力、行動力、事に処して常に責任を引き受ける態度が充満していた。

◎・角栄は人の悪口を言わず、恩着せがましい態度を極力とらなかった。
 角栄は、ロッキード事件渦中の政局の中で時局を憂い、次のように述べている。
 「私はかって他人の悪口を言ったことがあるか! 誰か私が一度でも他人の悪口を言っているのを聞いたことがるか!私は一度として他人の悪口を云ったことは無い。しかし、今日だけは口に出して云わずにおれないッ。(中略)政治家は51%は公に奉ずべきだ。私情というものは、49%にとどめておくのが政治家だ。自分の為だけにあらゆることをして、テンとして恥じることの無い者は、これは断固、排除せざるをえないッ。日本を誤らせるような行動は絶対に許せん。我々のグループだけは、このことだけは守ろうではないか!こうなれば、もはや個人の問題ではない。私もかっては、日本を代表する立場にあったんだ。が、疑いを受け、生命を絶たなければならないと思ったこともあった。しかし、生きながらえた以上、果たさなければならんこともある。また、迷惑をかけた諸君にも詫びなければならないが、いつかいったことは必ず果たしたいと思っている。全員当選してくるんだ!参院の連中にはできるだけのことはするッ−」。

◎・角栄は本当に誇り高く、誠実な人間だった。
 長年政治活動を共にした佐藤秘書は、角栄の生き様を次のように語り評している。
 「私は32年間、それこそ二人三脚で過ごしてきた。もちろん人間だから数々の欠点はあったけれど、田中は本当に誇り高く、誠実な人間だった。私はいろいろな人たちにだまされ裏切られたけれど、田中にはただの一度も裏切られたことはなかった」。
 「田中角栄という政治家は、保守本流の中でも非常に柔軟な発想の持ち主であり、進歩的で従来の弊害を是正するに何のためらいも持たない政治家であった」。

◎・角栄の付き合った女性は最後まで信服していた。
 角栄の女性関係はそれなりにあったようであるが、得意然の時から失脚に至ってもその信服は変わらず、誰一人として悪くいう者が出なかった。
 「角さんの女性関係は数えたらキリが無い(佐藤昭子氏は、角栄は議員活動に忙しくそれほどでなかったはずであると云っている)。親方が立派だと思うのは、反逆の旗を立てた女が一人もいなかったことだ」(早坂茂三秘書伝)。
 「昭和60年2月、脳梗塞で倒れた親方が東京飯田橋の逓信病院に入院したころ、オヤジとわりない仲だった女達が、知人を介して何回も差し入れしてくれた。5人や10人ではない。寒中のお百度参りや水垢離をした神社や寺の御札、正体不明の煎じ薬に丸薬、大好物のアンパン、大福もち、富有柿などが、「先生早くよくなって---」。思いの丈を綴った手紙と一緒にワンサカ届いた。三本指で失脚した某宰相と違って、反乱の旗を立てた女はいない。『私が大切にしているのは人間との接し方だ。戦略や戦術じゃない』と云ったのは田中である」(早坂「オヤジの知恵」)。

◎・角栄は、原日本人とでも云うべき感性と責任感の篤い人物であった。
 角栄は、原日本人とでも云うべき感性と責任感の篤い人物であった。特に、冠婚葬祭を大事にしていた。次のように語っている。
 「オレは長男だ。弟や妹達を食わせにゃならん。屁理屈をいっている暇は無い。理想をいってたんじや飢え死にする。きれいごとではない長男の責任を負っているんだ」。

◎・角栄は、能筆家であり且つ自筆文をモットーにしていた。

 後に幹事長、蔵相などの激務のさなかでも、可能な限り自ら筆をとった。やむを得ず代筆させるときでも、出来上がった原稿に、納得のいくまで赤筆を入れた。簡単なインタビューでも、口述がそのまま原稿になるよう配慮する。その文体は、簡潔な散文調である。


◎・角栄は、筆を持てば天下一品、端正で勢いのある字を書いた。自筆をモットーにしていた。
 政治家に色紙や額の題字書きは、つきものだ。角栄は「こんなに書かされたら死ぬ」と文句をいいながらも、山積みの色紙に一切手抜きせず、真剣に筆を執った。

◎・角栄には単純・明快・直裁な人生哲学があった。
 自伝「わたくしの少年時代」の巻頭ページには、「一、人を信ぜよ、二、自信を持って行動せよ、三、責任は絶対に回避しない」と自筆で書かれている。これが角栄の思想であり行動哲学であったのではないかと思われる。

◎・角栄の政治哲学は哲人的風貌があった。
 角栄の秘書・早坂氏は次のように証言している。
 「田中角栄という人は、ことを為すにあたっては常に大局観に立ち、問題の具体的な解決策を用意して、役人や仲間の政治家、スタッフに方針を示す政治家である。他にあまり例を見ない。田中はプラグマチズムの化身のように見られることが多く、抽象的な思弁や哲学的な命題に無縁な俗物と見る向きも世間にはある。しかし、それは田中と言う桁外れにスケールの大きい人物を知らない人の俗論である。彼は、人類とか、宇宙、宗教、政治、教育とは何か−そういうでかいテーマに思いを凝らすのが好きだ。忙中閑のひととき、オルドパーの水割りで調子が上がると、そんな大きなテーマを持ち出しては、説き来たり、説き去って、とどまることを知らない。発想はオリジナルで、言葉は平易で明快、内容は簡明直裁である。道学者風の持って回った難解な説教は一切しない」(早坂茂三「田中角栄回想録」)。

◎・角栄は責任から逃げず、人に転嫁せず、自ら真っ向から解決していった。
 次のような逸話がある。
 角栄蔵相時、主税局税制第一課長・山下元利は、所得税法改正案の税率表の数字を間違えるいう「事件」を起した。電子計算機の取り扱いミスが原因だった。しかし、既に閣議決定を済まし、国会に提出された後の数字ミスであったので、担当責任者山下氏の大失態としての責任が免れなかった。山下氏は委細覚悟の上角栄蔵相のところに詫びに行った。ところが角栄は破顔一笑、こういった。「何、大したことじやない。日本のソロバンがコンピューターのミスを発見したことにしておけばいい。辞める必要なぞは毛頭ない」と。咄嗟の名機転でこの失態の窮地を脱せさせ、山下の首もつながり、所得税法案も成立させた。

 山下は人柄も実直、温厚、普段の仕事振りも有能の評価が高い逸材であった。次のように述懐している。
 概要「田中さんは、常に全責任は俺に有りの姿勢で臨んでいた。度胸、着想のよさ、人間味、僕は完全に心酔してしまった。やがて、僕のところには政界入りの話があちこちからきましたが、僕の中には政治をやるなら田中さんのもとでしか考えられなかった」。

◎・角栄は約束を必ず守った。結んだ人間関係を極めて大事にした。
 次のような逸話がある。
 二階堂進元自民党副総裁は、昭和38年衆院の商工委員長を務めていた。時に、ジェトロ(日本貿易振興会)では翌年度予算編成に当たって、5億円の出資金増額を要求していた。ジェトロは20億円の政府全額出資で昭和33年に特殊法人としてスタート、日本の貿易振興のための海外市場調査、取引の斡旋などを事業目的としている。時の理事長・杉道助は二階堂商工委員長経由で、時の田中大蔵大臣に掛け合い、39年度の予算に入れることの了承を取り付けていた。ところが、なぜか予算案の内示ではこれが入っておらず、ゼロ査定となっていた。二階堂は大蔵大臣室に駆け込み、約束違反を田中になじった。この時予算決定閣議が迫っていた。田中は答えた。「そうか、すまなかった。俺のチェック不足だ」。直ちに、予算担当の大蔵省幹部を呼びつけ、「今すぐ、ジェトロに5億円!」と命令、すぐさま政府と各政党に出す印刷物を刷り直させた。閣議を当初の予定時刻より1時間遅らせるという放れワザの挙句であった。結果、二階堂は杉との信義を守れ、面目をほどこした。

 後に二階堂は次のように述懐している。
 「時間的にも、普通なら不可能に近いことだったが、田中さんは閣議時刻を遅らせるまでして『男の約束』を守ってくれた。これを契機に、私の田中さんへの見方が変わった。それまではブルドーザーのような政治力の人かと思っていたけど、実行力、自分のミスを認める素直さも身に付けている」。

 後々二階堂は、「俺の趣味は田中角栄」と誰憚ることなく公言するに至った。

◎・角栄の勤労哲学は社会主義的であった。
 昭和48年の総理大臣時の全国勤労青少年会館の開館式での角栄の挨拶はこうである。
 「ただ単に、青少年時代を学生として、思うばかりはばたける、好きなことをし放題にできることが楽しいかと言うと、私は必ずしもそうではないと思っている。お互い一人一人、皆、生まれ育つ環境も違いますから、いろいろな社会にいろいろな生き方をして育ってくる訳でありますが、私はその中で勤労というものがいかに大切であるか、勤労と言うことを知らないで育った人は不幸だと思っています。

 本当に勤労をしながら育った人の中には、人生に対する思いやりももあるし、人生を素直に見つめる目もできてくるし、我が身に比べて人を見る立場にも成り得る訳でありまして、私はそれは大きな教育だと、また教育だったと考えている。本当に病気をしてみなければ病気の苦しみが分からないように、本当に貧乏なければ貧乏の苦しみは分からないと言う人がありますが、勤労しない人が勤労の価値を論ずることはできない。勤労をしない人が、どうして勤労の価値を評価することができるでしょうか。

 勤労は生きるための一つの手段でしかないという考え方が、このところ充満しつつあるような気がします。もしあるとすれば、それは政治の責任かなとも思います。私も、かっては勤労青年だった。朱きの『偶成』という詩に、『少年老いやすく学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、池とう春草の夢、階前の梧葉既に秋声』というのがあります。また、何人が詠んだ詩か知りませんが、『大仕事を遂げて死なまし、熱情の若き日はまた来はせじ』と、これらは皆、勤労少年の時自信を失う時には、国家や民族の危機と考える必要がある」。

 次のような言葉も残している。

 「雪は金持ちの屋敷にも、貧乏人の庭にも、平等に降り積もる」。


◎・角栄は常に、分かりやすい言葉で説明、持って回った言い方を嫌った。




(私論.私見)