45274 議会政治家の申し子としての角栄

 (最新見直し2006.10.26日)

 角栄は、生粋の党人派政治家であり、大衆的支持基盤を持つ議会政治の落とし子代議士であった。それを証左する事項を以下掲げる。これを知れば、角栄こそ左派政治家の鏡と云うべきだろう。逆に、仮に社共の政治家の実態を見よ、無能さばかりが見えてくるではないか。角栄の政界追放はひょっとして、手前達のそういう無能さと正体暴露から来るジェラシーだったのではなかろうか。

 2006.10.26日再編集 れんだいこ拝



【1、「戸別訪問は3万軒、辻説法は5万回」】

 角栄は、戦後の普通選挙制度を重視しており、大衆的支持基盤を持つ議会政治の落とし子代議士であった。次のような語録を残している。

 「戸別訪問は3万軒、辻説法は5万回、雨の日も風の日もやれ。聴衆の数で手抜きはするな。流した汗と、ふりしぼった知恵だけの結果しか出ない。選挙に僥倖などあるものか。そして、選挙民には口でいって見せるだけでは絶対駄目だということだ。、必ず、自分で率先してやってみせろ。政治は結果である。そのためにこそ、選挙区をくまなく歩くことだ。選挙民が何を一番望んでいるのか、何に一番困っているのかを、他の誰よりも早くつかまなきゃいかん。とにかく歩け、歩いて話を聞け。しかし、それで終わったら並みの代議士に過ぎない。それをやった上で、現実のものにしてはじめて政治家というものだ。オレはそれを、最初から一人でやってきた」。

 羽田孜は、回顧録で次のように記して角栄の「戸別訪問は3万軒、辻説法は5万回話」を裏付けている。

 「君の場合はお父さんが大変に苦労しながら築いた地盤だから間違いなく当選する。しかし、当選するだけじゃ駄目だよ。これから三万軒歩け」。
 「君は当選してから本当の仕事をやっていくためにも各地域の実情をしっかり見て来い。君の選挙区は日本の地方の一つの縮図なんだから、そこをキチンと見てくれば日本の国全体をキチンと語ることができるようになる。とにかく歩いて来い」。

 角栄の薫陶を受けた羽田は、角栄を次のように評している。
 「大変な努力家であると同時に政治の天才だったなと。あの人のことを思うと今でも気持ちが躍動するね」。

  角栄らしい物言いとして次のような演説がある。

 「私は役人は怖くねーが、あんたら地元の人が一番怖い」とおどけていた。
 「大学出も、70、80のばあさんも同じ一票」

 角栄の二度目の選挙時から応援してきた小倉康男・元六日町懲戒議員、六日町越山会会長は、田中の選挙戦について次のように語っている。

 「とにかく田中先生は、最初の選挙に落ちて以来、新潟三区の特に山間部の農村部をくまなく、それも何度も歩き回った。麦わらで作った笠を被り、地下足袋に脚半、冬になるとつぎはぎだらけの長靴で‐‐‐‐。そして誘われるとどの家にでも上がって大胡座をかき、村の衆と一緒に酒を飲んで何時間でも喋った。それまで、こんな政治家は一人もいなかった」。
 「農民達が、初めて同じ目線で話ができる政治家、それが田中角栄だった。新潟三区の保守系の政治家として選挙に強かったのは、大きな回船問屋の養子である旦四郎や、新潟で有数の旅館チェーンの息子である大野市郎などであったが、彼らは都市部の旦那衆に守られていて、雪で道が閉ざされた農村部には足を踏み入れようとしなかった」。
 「山に近い村は半年は雪に埋もれて何も出来ない。病人が出ても、道が雪に埋まって町の病院に連れて行けずに死んでしまう。男達は出稼ぎに東京へ行かなければならない。水も米も、電機も人間も全部東京に取られて、貧しい不便な生活を強いられている。そんな新潟県人の憤懣、怨念を村人達は田中先生にぶちまけたのだよ」。

 角栄のそういう選挙姿勢が「金帰火来」を生んでいくことになった。自民党の「金帰火来」は他のどの政党よりも地元民に対する国政報告を日頃から地道にしていくことになった。自民党が選挙に強いのは、単に金権に拠るのではなく、そういう普段からの足腰の強さにあった、と認めるべきだろう。

【2、「陳情受付け大衆政治家」その1、民衆政治の真骨頂としての陳情処理】

 陳情受付政治を廻って、角栄の次のような言葉がある。

 「戦後の政治家は行政に精通し、予算書が読めて、法律案文を修正することが政治だという錯覚に陥っている者が多い(それさえ出来かねている政治家が大部分であろうが−れんだいこ註)。それもいいが、国民各階層の個別的な利益を吸い上げ、それを十分にろ過した上で、国民全体の利益に統合し、自らの手で立法することにより政治や政策の方向を示すことこそ、政治家本来の機能であることを明確にしておきたいのである」(「中央公論」昭和42年6月号)。
(私論.私見)

 角栄は、代議制民主主義の基盤として陳情政治を大事にした。選挙区はもちろん関わった案件について面倒見が良かった。このことは誉れであっても批判されることではなかろう。これを批判するような自称インテリが多過ぎるが、度し難いと云うべきだろう。

 小林吉弥氏の「究極の人間洞察力」は次のように記している。
 「東京・目白の田中邸には各界、各層のあらゆる人間が、陳情などで詰め掛けたことは知られているが、こうした中には人の目を気にするようにして革新系の首長なども姿を見せていた。しかし、田中は革新系だからといって一蹴、帰してしまうことはなかった。話を聞き、住民のためとなれば、これが政治とばかりその革新系首長の要望も実現化にひと肌脱いでいた」。

 農民作家の山下惣一氏は次のように記している。
 「役人は威張っている。みんなだ。常日頃百姓をバカにしている。陳情に行っても請願したも木で鼻をくくるような返事。末端の小役人でさうそうだから、日本を動かしていると自負している中央官庁の連中がどれほどだか、想像にかたくない。その冷血動物さながらの奴らが、センセイを通じて行くと、まるでコメツキバッタさながらペコペコするのだ。こんな愉快なことがまたとあろうか。この痛快さのためなら命をも惜しくないと、多くの村人は実感するのだ。東野栄治郎扮する黄門様と、おらがセンセイがダブっているのはもちろんだ。それはいい気分である。そして農民にとって現代の黄門さまの筆頭が田中角栄だろう」。

 羽田孜・氏は、著書「田中学校」の中で次のように述べている。
 「それは単なる利益誘導の政治として非難すべきものではない。そこには血の通った政治の原風景がある。郷土愛の原風景がある。そして均衡ある国土計画の原点がある」
(私論.私見)

 れんだいこには、この謂いこそ的確であるように思われる。

 この角栄と対極的な在り方をしていたのが稲葉修氏である。新潟2区から選出されていたが、55年6月の選挙で落選している。その時の地元の声として次の指摘が為されている。

 「稲葉さんは立派なことを云う。田中さん批判もそれはそれで良いでしょう。しかし、県北で遅れている2区に対して、稲葉さんは何もしてくれない。貧乏を放置している。評論家ならそれでいいでしょうが、政治家はそれでは困る。有権者は稲葉さんにも、それなりの地元の為の努力を求めていたのですよ」。
(私論.私見)

 我々は、この謂いをどう受け止めるべきであろうか。

 角栄は、陳情について独自の見識を持っていた。

 概要「現代は陳情の時代だ。陳情は、現代の議会制民主主義制度下にあっては、必要不可欠な主権者の権利行使ですよ。提言とも云うべきものじゃあないですか。国民が、立法府あるいは行政府に対して、社会生活上の様々な問題を持ち込むというのは、最も至極当然なことじゃあないんですか。陳情という言い方が悪ければ、主権者の提言といってもよい。

 マスコミは、癒着の温床だとか、賄賂だ、利権だとか陳情をいけないことのようにいうが何を云うかだ。そういう物差しこそ反憲法的思想で、ものの見方が逆立ちしている。国民が立法や行政府に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳情するのは、株主が取締役会に対して意見するのと同じ、取締役会に累積投票権を要求するのと同じことでね。選挙民だから、投票されたこちらとしてはね、請願、陳情は、いつでも聞く耳を持たなきゃなりませんよ。国民に取っても、それが憲法でちゃんと認められた大権なんだから。主権者の請願、陳情権は憲法上の大権といってよいんだ」

(私論.私見)

 ここには、事業経験者ならではの大局的発想、総合的比較認識が窺える。加えて、戦後憲法に則り、それを物差しにしていたことも窺える。こういう観点の下に、角栄は議員活動自体を事業感覚で捉えていたのではなかろうか。


 これを補足すれば、党人政治家大野伴睦の次のような陳情政治論がある。
 「多くの人たちの頼みごとを政治の上にどんどん反映さそうと努力すると、世間では『陳情政治』と批判する。しかし、民主政治から陳情を除いたら、そこに残るものは、明治の初めから築かれてきた官僚政治でしかない。お役所という官僚の安住の地で考えられる政治は、彼らの勢力拡大の政治である」(「回想録」)。
(私論.私見)

 これが、日本の廃墟からの再建に貢献した党人派の心意気であり政治哲学であった。今日から見れば「古典的な民主政治論」でしかないが、ここに見られる「正」の面を見て取ることが必要ではなかろうか。

(私論.私見) 【角栄の陳情政治考】
 角栄はいわば本能的に陳情処理を積極的に受け付けていった。こうした角栄の立ち働きは、地元に対する面倒見のよさ、地元サービスに熱心且つ処理に有能なる政治家として頭角を顕(あら)わしていくことになった。こういう土着志向の強さは、今日利益誘導として非難されているが、地元から選出される選挙制度からして最も自然なあり方であり、なりゆきとでも云えるのではなかろうか。もしこれを否定するのなら、貴族院、元老院政治にでも復古させるしかなかろう。それが良いとする者がいるのならそう弁論して見給え。

 特に、衆議員は地域貢献を課せられているのであって、それは議員の重要な仕事ではなかろうか。それが証拠に、地元に貢献しない議員の存在なぞ何の意義があるだろう。参議員ならまだしも衆議員は地元有権者の期待と利益に応えるべき性質を持つそういう性格の議員なのではなかろうか。もしこのことが非難されるとするならば、それは一人議員が責めを負うものではなく、有権者もまた同罪であろう。

 こうした「利益」から離れた聖人君子像を求める道徳的な説教こそ軽薄なインテリ性であり、我々は「利益」の中身の精査にこそ関心を持ち続けるべきではなかろうか。


【2、「陳情受付け大衆政治家」その2、陳情政治を廻る角栄とナベツネの大バトル】

 幹事長時代を迎えても角栄の陳情処理は止まず、というか一層門前市を為していった。これを廻って、角栄は、当時の読売新聞夜回り記者であった渡辺恒雄(ナベツネ)と次のような激論を交わしている。

ナベツネ  「田中邸には毎朝何十人もの陳情客が押しかけ、あなたはそれに全部会っているそうだが、(目白邸での陳情処理に対して)大幹事長になったからには、そんなくだらんことは止めたらどうか」
田中  「そうはいかん。選挙区の連中に会えんようになるのなら、俺は政治家を辞める。それに大野伴睦や河野一郎が死んでからは、陳情に行くところがなくなった連中だっているんだ。俺が会ってやらなきゃ、誰が会ってやるんだ」
ナベツネ  「それはなるほど結構なことかも知れないが、与党の幹事長たる者は、毎朝、陳情の受け付けをするより、他にもっと大事なことがあるんじゃないか」。
田中  「ないっ、ないっ。俺は陳情客に会っているが、その為に幹事長の仕事をないがしろにしたことは一度もない。政治家が自分の選挙区の者と会うということは、取りも直さず民主主義なんだ。そこで国民の声を聞いて、政治に取り入れるんだ」。

 両者とも声が大きく、向こう息が強い。三十人近くの各新聞、放送記者達が居る面前でこの遣り取りが為された。「首をすくめ、目を見張ったものである」とある。

(私論.私見)

 この「角栄−ナベツネ激論」は貴重である。ナベツネは元共産党員席に一時身をおいていたこともある右派系且つシオニズムエージェントである。ここで、ナベツネ思想の胡散臭さが随所に露呈している。ナベツネの謂いの方が官僚機構的であり、角栄がこれに堂々と民主政治論で立ち向かっている姿が見えてくる。角栄は、陳情受付が単に選挙目当てのものではなく、民主主義政治の基本であるという認識を示している。角栄の明確な政治姿勢及び哲学をここに窺うことができる。
Re:公私混同、陳情政治について れんだいこ 2005/09/24
 kotaさんちわぁ。
> 上記は公私混同の具体例です。
> 田中邸は角栄さんの私邸であり、田中事務所とは違います。
> この区別ができなくなったので角栄さんは殺された(密室の談義は違法やん)
> Kotaもアホなので公私の区別をキッチリ付けられないんです。

 これについてですが、思案せねばならんと考えております。私邸と事務所の違いを指摘されておりますが、根本は陳情を受け付けるのかどうかという陳情政治問題になると考えます。

 これについては興味深いやり取りがあり、「議会政治家の申し子としての角栄」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/phirosophy_gikaiseizika.htm)に記しております。特に、ナベツネとのやり取りの項に注目してください。

 角栄は、「政治家が自分の選挙区の者と会うということは、取りも直さず民主主義なんだ。そこで国民の声を聞いて、政治に取り入れるんだ」と説いております。これこそ角栄の本領とも云える実学主義であり、下手に学校テキストで習うと失われてしまう観点だろうと思います。

 角栄は、現下の戦後普通選挙システムをそのまま捉えており、選挙区の有権者に選出される以上、選挙民の声を聞き届けるのが当たり前としているように思います。ここに生きた政治があるとして、ここで得た皮膚感覚を大事にしたがっているように思います。実際にはかなり能力の問われることですが。

 マスコミはこの政治を嫌い、ナベツネ的見解を学があると評しているように思います。あるいは地元に寄与しない三木流をクリーンなどと称しております。さしづめ選挙時に敢えて自分の選挙区に戻って運動しないことを誉れとしている小泉流などカガミなのでせう。

 自称インテリの評論というのはこの程度のものが多い。先だってはムネオがやられましたが、そしてこの時も「ムネオハウス」などという造語でムネオ批判の先頭に立ったのが日共でしたが、馬鹿げてます。

 陳情の受付は政治家の最初の政治能力が問われる仕事であり、要は何を受付け受付けないかが問われているのだと思います。実際に、与党系は国際金融資本の陳情を受け付けております。独占企業体の陳情を受け付けております。それを思えば、角栄が地元の声を受付け調理したことはむしろオープンで宜しいと思っております。

 実際にこれやると毎日大変で、門前市を為した目白邸の家族と秘書の苦労ははかりしれません。それでもやり続けたのが角栄で大衆政治家としての面目躍如といえませう。角栄のすごさは、そういう地元政治をやりつつ国内の大局政治もこなし、国際政治でも対等にわたりあったところにあります。

 百年一人の逸材、否五百年一人の逸材で、角栄こそが織田信長政治と同じ高みにあるといえます。小ネズミがミニ信長を気取るなどおこがましくて、そう評するおべんちゃらマスコミのオツムの底の何と浅いことよ。

 もとへ。「密室の談義は違法やん」などというようでは子供的見解です。政治は密室もあればオープンもあります。局面や内容によるでせう。「Kotaもアホなので公私の区別をキッチリ付けられないんです」の方が自然で、つけなくても良い公私もあればつけなければならない公私もあります。

 つけねばならない時につけず、つけなくても良い時につけているのが今時の公私観で、勉強しすぎるとそういうことになります。その点角栄は偉かった。筋道を外して居らず、私は私で法に触れぬ以上はばかることなく、公は公で取り組んだ。そのどちらにも類稀な才を発揮しました。

 それは手本であれども批判されることではない。その角栄をあの手この手使って法さえ曲げて滅茶苦茶に叩いていったのが当時の自称インテリ達であった。そのなれの果てが小ネズミ政治であり、日共の現下の腐敗です。

 そういえば、小ネズミと日共の政治手法は酷似していますねぇ。あの排除の論理は宮顕以来のもので、小ネズミは勝共連合統一原理の御用聞きかとばかり思っていたら、日共かぶれであったとは。俗に言う、ウマが合うという関係でせうね。そういえば、不破の「戦後60年」読んだら、全編政府高官のような物言いで政界ご意見番を気取ってらぁ。

【2、「陳情受付け大衆政治家」その3、陳情政治の実際】
 「2チャンネル田中角栄bS」より転載する。
774 :名無しさん@3周年:2006/10/21
 陳情団の代表とともに目白台の田中首相邸に出向いた。保岡興治は、田中首相に懸命に訴えた。「昭和四十年当時、コメとさとうきびの価格はともに六千円でした。しかし、コメは、いまや一万円だというのに、さとうきびは六千九百五十円です。これは、ビートとの関係によるものです。ビートも、コメとは三千円の差がついている。しかし、ビートは機械化により生産性があがっています。輪作も、できます。しかし、奄美は、さとうきびしかできません。台風に強いさとうきびにしがみつくしか、ないんです。だが、機械化も、基盤整備もされていない。それなのに、価格を抑えられるのはおかしい。コメとおなじに してください」

 田中首相は、即答した。 「わかった」 田中首相は、なんと保岡らの眼の前で愛知揆一蔵相に電話をかけた。「さとうきびの買上げ価格だがな、奨励金を乗せて米一俵とおなじにしろ。九千九百九十九円じゃ、駄目だ。一万円だぞ。さとうきびの価格を上げてやれないようでは、政治じゃない」  保岡は、おどろきを隠せなかった。陳情団の代表者も、みな呆気にとられている。無理もない。これまで、毎年五十円づつしか上がらなかった価格が一気に三千円もアップするのである。保岡は、田中首相の決断力に舌を巻いた。

【3、「勉強せよ、専門知識をもて、議員立法せよ」】
 角栄の議員立法については「議員立法」に記した。角栄は、実績を踏まえて、「政治家たるるもの、国会で国政に携わる者は、全てのことは無理にしても、一つや二つ、誰にも負けない専門分野を持たなくては、国家国民のための政治家にはなれん!」という考えから、党の各委員会、小委員会、分会の「勉強会」以外に、田中派内にも各分野の勉強会を連日開かせ、一人一人に専門分野の知識を、その道の専門家と丁丁発止で討論ができるように育てていった。これが、後に、田中派が「総合デパート」と云われるようになる下地となった。ちなみに、勉強会の費用を飲食代まで全て派閥事務所が負担した。「勉強会」は、「同じ釜の飯を食った仲間意識」の醸成にも役立つこととなった。

 角栄が政策研究に余念が無かったことを裏付ける福田赳夫の角栄評がある。
 「私が初めて田中角栄氏を親しく知るようになりましたのは、佐藤政権ができて間もない頃、僕は佐藤政権で大蔵大臣になったんだが、その頃に国会内の総理大臣室に『ちょっと来てくれ』と言われ行ってみたら、何か弁舌さわやかにね、とうとうとやっている人がいる。あれが田中氏である、と。何の話かというと、都市計画だな。東京をはじめ地方都市などをどういう風につくっていくべきか、という話をやっていた。とうとうと都市計画について、佐藤さんにね。都市計画ばかりじゃないですがね、関連して治山、治水とか、そういうことに至るまでの話を事細かに、雄弁にね、やっておりました。『ああ、これが何年も長い間聞かされていた田中角栄君か』と。これが初めてだったね」。

【4、「議会討論を重視し、率先した」】

 角栄の議会に対する態度を物語る当人の国会弁舌がある。1947年、初めて登院した衆議院本会議で「自由討議」(フリートーキング)をテーマにしての演説である。

 「新国会法によりまして、本会議において、議員相互に自由討議の機会を与えられましたことは、形式主義に流されやすい本会議に、清新なる活を入れたものでありまして、新国会運営上、重大視せねばならないと思うのであります」、「本会議場において活発なる討議の展開ができますことは、明朗なる政治、すなわちガラス箱の中での民主政治の発達助長に資すること大なりと思うものであります」、「明治大帝陛下も、よきをとり悪しきを捨てよ、と仰せられましたごとく、他議員の発表はこれを聴き、しかして、それに対する賛否は自由なのであります。己のみを正しいとして、他を容れざるは、民主政治家にあらず。それをもし一歩を誤れば、戦時下におけるあの抑圧議会の再現を見るのであります」、「議員は一人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員一人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります」。

 「自由討議」(フリートーキング)制度は、新憲法が制定された当初、国会法第78条において「各議院は、国政に携わる議院に自由討議の機会を与えるため、少なくとも、二週間に一回その会議を開くことを要する」と定められ開始された。ところが、わずか数回行われただけで、1955年の国会法改正によって実益の無い制度として削除された。このようにして、国会から自由清新な議論が消えていった。


【5、「官僚に使われるのではなく、使いきろうとした。官僚の使い方がうまかった」】

 角栄は、「官僚に使われるのではなく、使いきろうとした」。次のような弁を残している。

 「大蔵省の役人というのはそりゃ優秀です。(中略)正しいデータさえ入れればちゃんとした結論を出してくる」(1981年「月刊ペン」)。


 角栄は、官僚の話を聞くのがうまかった。それも、事務次官や局長など上のクラスの人だけではない。必要とあらば、例え一課長とも気軽に会った。官僚は、自分の担当については頭で整理できている。その考えを上手に聞き出し、時には政策などに活かした。その意味で、官僚の使い方がうまかった。

 「田中は、官僚をつかった。が官僚の言いなりになどなりっこない。優秀な官僚の知識を利用するが、最終的には自分が上のほうから政治的に判断する。それが、本来の政治家の在り方だと思う。今でこそ政治は官僚指導と言われているが、田中の時代は、短い期間ではあったが政治家主導でなしえた」。

 マックスウェーバーの言は次の通り。
 「フランスやアメリカの腐敗した官吏制度、イギリスの非常に侮辱されている夜警統治、部分的には腐敗した官吏制度をもって民主的に統治されている国は、高度に道徳的な官僚制よりはるかに大きな成功をおさめてきた」。

【6、「野党対策国対政治の元祖」にして野党との議論を好んだ】
 小林吉弥氏は、「究極の人間洞察力」の中で、角栄の野党との議論好きな様子を次のように伝えている。
 「国会の控え室と言わず、社会党本部と言わず、バンバン電話を入れてくる。委員長、書記長と怒鳴り合う。しかし、喧嘩ではない。お互いに、お国のためにはこちらがいいとの主張のぶつけ合いだ。角さんは、『ここまでは譲る。あれとこれはダメだ。考えてくれ』と、当事者能力をフルにぶつけてくるが、私心というものは感じなかった。譲ると約束したものは、ちゃんと守った。手ごわかったが、交渉相手としては上等な人物だった。我々の面子をつぶすことなく、点数も稼がせてもくれた。一つの対決が済むと、また笑って会える人物だった」。

 これは功罪相半ばすることになったが、角栄は、野党に対して力で押し切るのではなく、「足して2で割る国対政治」を志向した。「佐藤栄作内閣時代から国対の持つウェイトが次第に大きくなり、田中内閣時代には、全ての協議事項が国対での『根回し』を前提とするようになってしまった。そして、お茶を飲みながら、あるいは食事をとりながら妥協を図るということが習慣になり、ここから、国対政治の腐敗が始まる。もちろん、自民党だけでできるわけはなく、相手方あってのことである」(浜田幸一「日本をダメにした9人の政治家」)結局、野党がだらしないということになるのだが、あろうことかそういう反省に向かうことなく、角栄の国対政治術を非難して事済ませている。


【7、「責任政治を目指した」】
 「自民党には部会制度があって、火曜日から金曜日まで、約20の部会で朝の8時から法律作成のための議論が行われている。一つの法律案をつくるにも、3年も4年もかけて勉強を重ね、あらゆる角度から検討し、質疑応答を繰り返している。ここまでしている政党は、他にはない。日本では自民党だけである。こうして部会でつくられた法律案が、政務調査会、総務会、党三役などの議を経て、その間にも修正されたり、検討のやり直しをさせられたりし、最終的に総裁がOKしてはじめて提出法案となるのである。これまで自民党が提出してきた、年間90本なり百本の法律案はみな、こうした地道な積み重ねから出てきたものなのだ。こういうことが、意外と一般には知られていない。自民党はといえば、いつでも派閥抗争ばかりしている党のように思われている」(浜田幸一「日本をダメにした9人の政治家」)。
 「野党側は、法案を通す見返りに、まず、自分達も何かをしたのだという『証拠』を残すために付帯条件をつけさせ、さらに、ここが最大の問題なのだが、その裏で金銭の遣り取りが行われる」、「これが、自民党政権時代に行われてきた国対政治の実態なのである」。

【8、「政策論争を好んだ」】
 若手議員を掴まえては政策論争したと伝えられている。政策がおかしければ、おかしいとはっきりと口にした。発想力の豊かさに感心したと伝えられている。自然と門下生教育となった。




(私論.私見)