45216 党の要職時代

 (最新見直し2005.6.23日)

1957(昭和32)年、角栄39歳
2.25  【第一次岸内閣発足】石橋首相が突然病に倒れ、岸が後を引き継ぐことになった。角栄は、後年「岸内閣は僕が作ったんだ」と述べている。
3.29  【国土開発縦貫自動車道路建設法成立】角栄が提出者。
3.31  特定多目的ダム法公布】角栄が立案に参画。
4.25  【高速自動車国道法公布】角栄が立案に参画。
4.27  【北海道東北開発公庫法公布】角栄が立案に参画。
5.17  【東北開発促進法公布】角栄が立案に参画。
7.5  【岸内閣就任5ヵ月後の第一次岸内閣改造】角栄が郵政大臣に就任。戦後最年少大臣となる。ここまで裏方の党務で能力を発揮していた角栄の政治的才能が、この郵政相時代に堰を切ったように表舞台で噴出する。

◎次のような7.10日の弁が残されている。
 「30代で大臣になったのは、尾崎がく堂先生一人だね。マァ、若い大臣は、ものにならんといわれるような前例をつくっては、これからの人に迷惑だから、大いに頑張るよ。若さと情熱でぶつかるだけだ」。

 真偽不明であるが、「田中は入閣の際に『岸にいくらゼニを持っていくか』と聞いた。『3百万円でどうだ』と話が決まり、リュックに札を詰めていった」(古くからの田中支持者)とも伝えられている。

 岸は、後日この時の角栄の抜擢について次のように述べている
 「私は30代の田中君を郵政大臣にしたことを、間違ったことをやったとは思っていない。又、その後の田中君は党の幹事長や大蔵大臣といった重要な職に就いて、てきぱきとやるし、才能もあると思うんだ。人間的にもなかなか面白い人物ですよ」。
◎郵政省に初登庁した田中大臣は、玄関に全逓信労働組合の大きな看板がかかっているのを咎め、「大家よりでっかい看板を出す奴があるか」と叱る。

◎角栄の郵政省職員に対する訓示は次のようなものであった。
 「私は、新潟県柏崎の生まれで、まだ39才。未熟者であることは云うまでも無い。だから有能老練な平井先輩の後を受けて果たして上手くやれるかどうか、心配している。しかし、まだ若いのであるから先は長い。前大臣と比較するような意地悪をせず、先を見て、まぁ使い甲斐のある男だと思ってもらいたい」。

 事務次官は小野吉郎であったが、次官が大臣室に足を運ぶしきたりにこだわらず、角栄のほうから足を運んでくることもちょくちょくであった。

 小野は次のように回想している。
 「普通、新任の大臣に、仕事の説明をして理解してもらうのに凡そ一ヶ月ほどかかる。が、田中に対しては、ほとんど一週間もかからなかった。小野側の説明は、ごく簡単で済んだ。むしろ、田中のほうから、要点を説明し、逆に小野に質問した」。
◎当時、郵政省内には二大派閥が横行し、主導権と人事抗争に明け暮れていた。角栄は、省内を精査した上で、「この省内のだらけた空気は、真面目に働こうという人間の集まる環境ではない。それもこれも、二大派閥とかいうボスが元凶なんだ。派閥が、局長から課長まで、役職にある人間の縄張り意識を増長して、まともな人間の労働意欲まで奪っているじゃないか」と叱り、二大派閥のボスを「勇退」させ、省内の空気を一新させた。

◎「省内の派閥をあっという間に片付け、春闘の責任を問う全逓処分もこれまでにない厳しいものを打ち出したが(全逓労組幹部7名の解雇、297名の停職他組合員の約1割にも及ぶ大量処分)、全逓との労使関係正常化を成し遂げている。まぁ交渉のやりがいのある相手だった」(当時の全逓副委員長・宝樹文彦)。この当時の全逓委員長は野上元、書記長は大出俊。
 【153局の民放テレビの申請を39局に纏めて大量一括予備免許を一挙に認可】角栄の管掌による。やがて通信情報の時代が来るという読みが背景にあった。4年越したなざらしにされていた懸案事項であった。
◎この頃、等級コンツェルンの創始者五島慶太と知り合い、田中・小佐野・五島の兄弟杯が生まれている。
8.28 ◎NHKの人気番組であった宮田輝司会の「三つの歌」にゲスト出演、浪花節を披露する。当初は別の歌を歌おうとしたが途中支えてしまい、そこで得意の浪曲「天保水滸伝・鹿島の棒祭り」を披露。「賭場に小判が乱れ飛ぶ」の文句が後に国会で問題にされている。
9.25 ◎郵政大臣名で、「郵政職員の皆様へ」という要望書を全職員の家庭に郵送。
10.15  【NHKの教育テレビ局に予備免許を許可】角栄の管掌による。
10.22  【テレビ放送局の大量予備免許を許可】これにより民間テレビが各県で視聴可能となる。角栄の管掌による。
11.7 ◎全逓の秋季・年末闘争が早期解決。
11.8  【FM放送用実験局の予備免許を許可】角栄の管掌による。
12.1  【郵便貯金の総額制限を引き下げ】角栄の管掌による。
12.8 ◎田中を支えてきた曳田照治秘書が死去。「陳情や要望の窓口は曳田だった。死後は山田泰司が引き継ぐ。越山会も曳田が東京でまかなっていた。それを引き継いだのが後の越後交通社長、田中勇だ」(地元筆頭秘書・本間幸一)。この時、後任に大出全逓書記長を起用しようとしていたが、郵政省事務当局の反対で断念。
12.26 【NHK及びNTVのカラーテレビ実験局の予備免許を許可】角栄の管掌による。
1958(昭和33)年、角栄40歳
3.27  【ソ連でフルシチョフ第一書記が首相を兼任、フルシチョフ体制確立】
3.31  【道路整備緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
4.1  【簡易保険加入限度額の引き上げ、簡易保険の重度障害による保険金支払い制度を創設】角栄の管掌による。
4月初旬 ◎角栄が小佐野と密談。この時長岡鉄道・中越自動車・栃尾鉄道の三社合併案構想が練られた模様。これに東急コンツェルンの総帥・五島慶太が噛んで株の買占めが始まることになる。
4.25  【工業用水事業法公布】角栄が立案に参画。
4.25  【衆議院解散】
4.28 全逓・野上委員長ら2万2476名の大量処分を行う。
4.28  【首都圏市街地開発区域整備法公布】角栄が立案に参画。
5.22  【第28回衆議員総選挙】角栄がトップ当選。以来トップ当選を続けることになった。初の8万票台を突破して(新潟3区ではこれまで7万票を得た候補者はいなかった)8万6131票。前回よりも3万票を伸ばしている。郵政大臣効果が重なった。

 自民党党紀委員、党新潟県連会長に就任。大河内記念館理事に就任。
この時竹下登・金丸信・安倍晋太郎が初当選している。
6.12  【第二次岸内閣発足】
7.6 自民党党紀委員、自民党新潟県支部連合会長に就任
7.10 ◎エレクトロニクス協議会設置に尽力。
◎郵政大臣としてお国入りしていた角栄は、信濃川河川敷の耕作権を持つ農民グループから陳情を受ける。これが後の「信濃川河川敷問題」の始まりとなる。
10.8  【警職法騒動】政府が警職法を提出し、第30回臨時国会が混乱。
12月 ◎再選を目指す岸内閣に、池田の入閣を説得、池田はこれに従う。この時、角栄は次のように述べたと伝えられている。
 「(岸は本当に俺の言うことを聞くのかとの池田の言に対して)ああ、聞くとも。大臣というものは、なりたいと思ってもなれないときもある。ここでなっておかんと、官僚というものは干乾しになる。官僚なんていうものはその地位から外れたら、全く無価値なんだから、就いてなきゃ駄目だよ」。
12.25 公共用水域の水質の保全に関する法律、工場排水等の規制に関する法律公布】角栄が立案に参画。
◎この年の暮れ、角栄は、佐藤派だけでなく他派閥の議員にまで指導料という名の「モチ代」を配っており、佐藤派内田中派の萌芽的な動きを見せている。
1959(昭和34)年、角栄41歳
3.17  【首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律公布】角栄が立案に参画。
3.30  【特定港湾施設整備特別措置法公布、九州地方開発促進法公布】角栄が立案に参画。
4.9 【 皇太子殿下ご成婚】
4.14  【首都高速道路公団法公布】角栄が立案に参画。
 【福田赳夫幹事長になる】
5月 ◎中越自動車会長に就任。「東急社長の五島慶太に呼ばれ、『中越の株を取ってしまえ』といわれた。田中はオレと別筋で動いた」(当時の東急常務・田中勇)。「長岡鉄道による中越自動車の買占めで、合併が決まった。裏で長鉄に資金を出したのが小佐野賢治だった」(元小出町長・桜井貞一)。
6.11 ◎小出只見線全通期成同盟の大会。会長に田中がなった。この時田中のエピソードとして、「県議が只見線全通を田中に陳情した。田中が『天下の代議士に頼むんだ、わかっているだろうな』と云ったんで、町では『いくら包むか』と論議した」(小出町の老社会党員)がある。
9.10 ◎角栄が自民党副幹事長に就任。この頃、角栄は川島幹事長の下で二度目の副幹事長。幹事長室に詰めっきりで、深夜国会の連続。
9.15  【米ソ首脳会談開催される】
10.25  西尾末広氏ら社会党を離党。
11.20 ◎大河内記念館理事となる。
1960(昭和35)年、角栄42歳
1.19  【日米新安保条約等調印】
1.24  西尾末広氏ら民主社会党結成。
2.20 ◎売春対策審議会委員に就任。
3.31  【治山治水緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
4.26  【四国地方開発促進法公布】角栄が立案に参画。
5.19  【衆議員本会議、警察官を導入して自民党議員のみで会期延長を決議】
5.20  【岸内閣が新安保条約を衆議院で強行採決】
6.15  【60年安保闘争】全学連主流派学生約7千名が国会突入、警官隊と衝突。樺美智子氏死去、重傷者多数発生事件へと発展した。
6.16 【 アイゼンハワー米国大統領訪日延期】
6.23  【日米新安保条約発効】
6月 ◎第二次岸内閣の後、総裁のイスを廻って池田と争った佐藤に対し、ここは池田に譲れと画策し功を奏している。この時の角栄の伝は、「佐藤さん、おまえさんは必ず(総理に)なる」との力強い予言であった。
7.14  【自由民主党大会の総裁公選で、池田隼人氏が総裁に選出される】
7.19  【第一次池田内閣成立】
9.25  【東海道幹線自動車国道(東名高速道路)建設法公布】角栄が立案に参画。
10.12  【浅沼社会党委員長刺殺事件】浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂で演説中に右翼青年によって刺殺される。
10.19 ◎長岡鉄道と中越自動車と栃尾電鉄の三社が合併し、越後交通となる。資本金5億750万円、従業員1700名。田中が会長に就任する。社長には東急の総帥「強盗慶太」の異名を持つ五島慶太の「懐刀」といわれた田中勇、専務には長岡鉄道の関藤栄、取締役に小佐野賢治が座った。

 この頃、越山会が本格的に組織され始め、越後交通が角栄の後援会「越山会」の母体となって経済的なささえにもなっていくことになる。ここに本間が陣取り、越山会を統括していくことになった。選挙結果の査定、冠婚葬祭、就職の斡旋。迅速な被災地見舞い等の司令塔となった。新潟県越山会会長。初代・田中勇、2代目・庭山康徳、3代目片岡甚松。

 佐藤昭子の「私の田中角栄日記」は次のように記している。
 「田中の頭の中は、すでに王道を歩むという気持ちが、戦略的にあった。国対委員長をやらないかという話は、これまで何回も来ていて、なろうと思えばいつでもできた。しかし、田中は『党7役にはならない』といって、ずっと断り続けた。(略)政治団体を作ったのも田中の長期戦略の一つだった」。

10.24  【衆議院解散(安保解散)】
11.20  【第29回衆議員総選挙】角栄が7回目の当選。8万9892票。
12.8  【第一次池田改造内閣発足】。池田首相が所得倍増計画打ち出す。
12.14 ◎自民党水資源開発特別委員長に就任。
12.27  【国民所得倍増計画を閣議決定】
12.27  【北陸地方開発促進法公布】角栄が立案に参画。
1961(昭和36)年、角栄43歳
◎この年、衆院北陸地方開発特別委員長に就任。
3.31  【港湾整備緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
5.26 日本電建社長に就任。「電建社長の寺尾芳男は、岡田と相談して田中を後継者に決めた。岡田御三家(塚田十一郎、渡辺良夫、田中角栄)の中で商売に向くのは田中だった」(岡田知事時代の秘書課長・前田実)。
6.2  【後進地域の開発に関する公共事業に係る国の負担割合の特例に関する法律公布】角栄が立案に参画。
7.18  【第二次池田勇人内閣が成立】角栄は、自民党政調会長に就任。この時43歳の若さで、初の党三役入りであった。福田が外され、田中が座った。この時の党三役は、赤城宗徳(川島派)総務会長、前尾(池田派)幹事長。

 角栄は、私邸で次のように述べたと伝えられている。
 「前尾、赤城というのは、素晴らしい頭脳の持ち主だが、口下手でね。僕がエンジンをかけたり、ホースを引っ張り、筒口を持って火の中へ飛び込むことになりそうだ」(私邸で)。鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。

 佐藤昭子の「私の田中角栄日記」は次のように記している。
 「当選回数を重ねれば、誰でもいずれ大臣のイスに座れる。しかし、党三役になると話は別だ。(略)たとえ田中が大臣を1回か2回やるだけで終わる平凡な政治家であったとしても、秘書を辞めないであろう。けれど、この人は絶対に大物政治家になる。私がどこまでも一緒に走り続けなければいけない。という気持ちに変わったのは、政調会長になってからだ」。
◎鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。
7.31 ◎武見太郎日医会長らと会談し、こじれていた保険医総辞退問題を解決。政調会長就任の日から、当時日本医師会会長の武見太郎と折衝。「保険医総辞退」を掲げて政府と対決していた当時の難問題であった健保問題の交渉に入り、解決し、実力を見せる。「隣村同士の出身だから知っていたし、面識もあった。だから、(対決ではなく)気楽に話し合った」(日本医師会会長武見太郎)の伝がある。
8月 ◎新星企業を設立。
8.18 ◎「災害復旧を合理的に解決するため、国土庁を新たに設置したい。これは、水資源問題や地方格差是正にも密接な関係を持つもので、毎年の災害が2千億円に及ぶことを考えれば、思い切って設置することが必要だ」(中越地方の水害視察の為來県した時の弁)。
9月 ◎鳥屋野潟湖底地買収が具体化、翌年購入。
11.13  【低開発地域工業開発促進法、水資源開発促進法、水資源開発公団法公布】角栄が立案に参画。
12.29  【昭和37年度総予算閣議決定】角栄が尽力した政策は、@・大規模減税、A・教科書無料配布、B・新全国総合開発計画の策定、C・恩給のベースアップ、D・農地被買収者に対する特別融資。
1962(昭和37)年、角栄44歳
◎皇室経済会議員、関税審議会会長、財政制度審議会会長、資産再評価審議会会長、外資審議会会長、外国為替審議会会長を務める。
1.7 【 ガリオア・エロア返済協定調印】9.11日よりガリオア・エロア債務の支払いを開始。
1.23 ◎衆院で代表質問に立ち、社会党を「中共の片棒をかつぎ、反米闘争の一翼を担った」と批判。
2月 黒又分水中止の地元補償金を廻り、県会が紛糾。北魚沼郡小出町議会は、真相究明へ百条委員会を組織。
2月  ロバート・ケネディ司法長官が来日し、政調会長の角栄、中曽根、江崎真澄、石田博英、宮沢喜一ら当時の自民党中堅が非公式に懇談した。その席で、司法長官は、日本の防衛力増強を持ち出した。この時、角栄は次のように述べている。
 概要「なるほど、あなたの云うのは理屈だ。ただ防衛力増強と云われるが、アメリカが敗戦国である日本に押し付けた憲法は、我が国に根付いてしまった。今や大木に成長している。大きな枝ぶり一本でも伐ろうとすれば、内閣の一つや二つは吹っ飛ぶ。根こそぎ倒そうとすれば、世の中がひっくり返る。しかし、我々にしても、あなたたちにいつまでも『おんぶに抱っこ』では申し訳ない。だから、どうしても防衛力を増やしてくれ、と云うのなら、アメリカから名本国民に対し、改めて日本国憲法の成立過程について一言あつてしかるべきではないか」(佐藤昭子「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」)。
2.9日 ◎日本の憲法改正・再軍備発言(2.6日ロバート・ケネディ司法長官との懇談)に関連し、衆院予算委理事会で、「発言は遺憾であった」と釈明。「米国が沖縄を返還するには、日本の憲法が改正され、再軍備して共同の責任で防衛体制をとらねばできない」が問題の発言であった。
3.12 ◎越後交通会長に就任。
◎初陳情から4年経ったこの頃角栄は、「全員が土地売却に同意するなら買おう」と申し出、新設した室町産業を通じて農民グループ全員と契約した。価格は坪当たり一律500円。この土地がおお化けし、疑惑を呼ぶことになる。
3.31  【豪雪地帯対策特別措置法が成立】角栄が立案に参画。
5.10  【新産業都市建設促進法公布】角栄が立案に参画。
7.18  【第二次池田内閣改造】角栄は、大蔵大臣就任(40.6.3日まで努める)。この時大平は外務大臣となり、田中−大平コンビが誕生している。

 
「池田総理から『君達3人(田中、大平、前尾)で相談し、幹事長、大蔵大臣、外務大臣を3人でやれよ』という話が開口一番あったのにはびっくりした」(自署『大臣日記』)。

 
この時の弁で、「全国民の台所を預かる大任を引き受け、身の引き締まる思いだ。私は、刈羽の貧乏人の子として生まれ、人生の苦しみも味わっている。今後、納税する国民の立場から政治を行いたい」(私邸)。この頃の弁に「天下を取れるかもしれないぞ」が伝えられている。皇室経済会議議員、関税率審議会長、財政制度審議会長、資産評価審議会長、外為法審議会長、外資審議会長などを兼任。
◎学歴なしの44歳の角栄が官僚中の官僚とも云われる大蔵省に乗り込むことになった。この時の角栄の猛勉強振りは語り草になっている。大蔵官僚が一週間かかって読む財政案をたった一晩で読み切ったとか、事務次官以下課長以上クラスの人の一人一人と会っての徹底論議、大蔵官僚を論破することも肝胆通じ合う仲ともなり、最後には大蔵官僚がその有能さに舌を巻いたとも云われている。
◎この当時大蔵省には池田人脈(森永貞一郎、石野信一、谷村裕)と福田赳夫人脈(佐藤一郎、澄田智、橋口収)が確立されていたが、これに割ってはいるかのように相沢英之、鳩山威一郎らの大蔵官僚を引き付けていった。
7.23  【ブラジルのウジミナス製鉄所に大幅増資を決定】角栄の管掌による。
7.27  社会党・江田書記長が「新しい社会主義のビジョン」を発表、党内論争起こる。
8.4 ◎「ガリオア・エロア問題」を片付け、才覚を発揮した。
9.17 ◎大蔵大臣としてIMF(国際通貨基金)の年次総会に出席。世界銀行から日本道路公団への道路借款を取り付けている。世銀総裁を中心としたお別れパーティーの席で、ジャパニーズ・ソング王将を歌い、盛んな拍手を得ている。
10.22  【キューバ危機発生】
12月 ◎東京タイムズ社記者早坂茂三が角栄の秘書になる。
12月 ◎室町産業を設立。信濃川河川敷買占めの窓口とする。長岡鉄道総務部長・小林文雄は、この時の角栄の次のような弁を伝えている。
 「河川敷き農民から買い上げ陳情を受けるたび、田中は『難しいがやってみる』と答えた。陳情団が帰ると『あの連中は今はオレの支持者じゃないが、目をかければこちらになびく。第一、ツツガムシのいるあの畑じゃ、連中も可哀想だ』と言っていた」。
12.30 38年度予算の政府原案を早々と年内に纏めあげ、臨時閣議で決定された。この頃より「歩くコンピューター」と評されるようになった。この頃より、自民党内に角栄の異能振りが知られるようになり、金丸、竹下、二階堂らと誼を通じている。
1963(昭和38)年、角栄45歳新潟県への政府補助金154億円で4位。
冬季  【新潟地方に「38豪雪」被害角栄は、この時の豪雪被害に「激甚災害」指定し、救援物資その他の対策を迅速に手当てし、評価を高めた。以降、新潟県への公共事業投資が活発になる。
2.20  【中ソ対立、国境問題で表面化】
 【首都高速道路など高速交通体系整備】IMF資金によって東名高速道路、首都高速道路など今日の高速交通体系が整備された。当時の国家財政は今のような他国へのODA(政府開発援助)どころか、借金しなければ事業ができなかった時代だった。
7.10  【近畿圏整備法公布】角栄が立案に参画。
7.11  【老人福祉法公布】8.1日施行。
7.12  【新産業都市、工業整備特別地域を指定】
7.20  【関越自動車道建設法公布】角栄が立案に参画。
9.20 ◎カナダ及びアメリカへ外遊。
10.23  【衆議院解散】
11.21  【第30回衆議員総選挙】角栄は8期目当選。11万票台を越す11万3392票を得る。橋本龍太郎と小渕恵三が共に26歳の2世代議士として初当選。
12.9  【第三次池田内閣発足】角栄は、大蔵大臣留任「私は大蔵大臣として国の財政責任者の立場にある。この機会をはずしては雪が法律上の枠に入ることは無いかも知れない、私は先人達の多年の夢を実現すべく積極的に行動した」(自著「大臣日記」)。
1964(昭和39)年、角栄46歳新潟県への政府補助金183億円で4位。
◎小佐野がこの頃児玉と知り合っている。「児玉先生と私、昭和39年頃ですか、京成の株をめぐりまして、お知りあいになって以来、ごじっ魂いただいているんです」(東京地裁での田中彰治事件の公判廷での証言)。
1.9  【日韓会談予備折衝が再開される】
1.27  【中国とフランスが外交関係を発表、多極化時代が始まる】
2.29  【日本鉄道建設公団法公布】角栄が立案に参画。
4.1  【IMF8条国へ移行を決定】
4.16  【新潟大地震】
4.25 父角治死去(79歳)。
4.28  【日本がOECDに正式加盟】
7.3  【工業整備特別地域整備促進法公布】角栄が立案に参画。
7.10  【河川法公布】角栄が立案に参画。
8.4  【米空軍、北ベトナム爆撃始める】
9.1  【名神高速道路(一宮−西宮)開通】
9.7  【IMF・世銀の東京総会を主催する】
10.1  【東海道新幹線開業
10.10  【オリンピック東京大会始まる】
10.15  【フルシチョフ・ソ連首相解任される】
11.9  【第一次佐藤内閣発足】角栄が、大蔵大臣留任
11.17  【公明党結成大会】
1965(昭和40)年、角栄47歳新潟県への政府補助金241億円で4位
1.29  【道路整備5カ年計画を決定】角栄が立案に参画。
2.18 ◎田中角栄の大蔵大臣時代、2.18日から日本テレビで「大蔵大臣アワー」(毎週木曜夜11時から30分)番組が始まった。田中角栄がレギュラー出演し、「政治と台所を結びつける」ことを狙った。スポンサーは、宇部興産、八幡製鉄、富士製鉄で、政府広報番組ではなかった。アメリカであれば好評を得るところ、番組私物化の遣り過ぎのPR番組であるとして国会でも問題となり、半年分のスポンサーが決まっていたところを13回で打ち切りとなった。

 同番組は田中角栄の地元、新潟放送から毎週木曜6時と金曜午後の2回にわたってスポンサーなしで放映されていた。地元放送局による田中角栄のワンマンショー番組であった。これを「『田中角栄によるマスコミ支配』を象徴する事件のひとつであった」と評する剥きもるが、そういう論は視野が狭いというべきだろう。
5.2 【山一證券倒産の危機】田中は、日銀法第25条発動で「無制限無期限」の日銀特別融資を即決し、倒産を救った。この時の日銀総裁は宇佐美洵。実際の融資は5.29日。
5.10  【山村振興法公布】角栄が立案に参画。
6.2  【佐藤内閣第一次改造】角栄は、蔵相辞任、自民党幹事長(一期目)に就任。65.6.2日付け朝日新聞夕刊は、次のように評している。
 概要「決断のはやさ、読みの深さ、政、財界人への顔の広さ、の三つに裏打ちされた実行力−と、ほめる人は云う。決断の速さは予算折衝での手際のよさにもみられた。読みの深さは、池田内閣に佐藤派が協力して、その後佐藤内閣へという手順を誤らなかった、当の立役者だったことでも分かる。ハラと策略を重んじるのが保守党旧派であるとすれば、政策と実行を軽視しない新しい感覚もある。新旧両面が同居している奇妙な魅力をかもし出す」。

 福田が角栄に代わって大蔵大臣に就任。福田は、池田内閣時代に岸前首相の強い要望で政調会長になっていたが、池田の所得倍増論に真っ向から反対して外され、その後冷や飯を喰わされ続けていた。佐藤に再抜擢された福田は、「経済の福田」を自認しながら、この時戦後初の赤字国債を作り出している。
この頃の角栄の伝。
 「議員というものは努力、勉強すれば、大臣、幹事長まではなれる。しかし、総理総裁というとそういう訳にはいかない。それは運命だ」。この頃の佐藤昭子の伝。「幹事長となった田中は、まさに水を得た魚のようだった。恐らく彼の生涯の中で一番活き活きしていた時代といっていい」(「私の田中角栄日記」)。
6.22  【日韓条約調印】角栄はこの頃、党内の意見調整に尽力。
6.29 ◎へき地校への給食補助の決定に尽力。
8.19 ◎国会終了後、佐藤首相らと沖縄訪問。
8.27 し尿、ゴミ処理5ヵ年計画の決定に尽力。
10.5  日韓国会(第50回臨時国会)始まる。
11.12  【日韓条約可決】衆議員本会議で、議長が日程を変更し、混乱のうちに日韓条約を可決。12.11日、参議員本会議で可決。
暮れ  角栄が初めて幹事長になった年の暮れ、院内紙(ブラックジャーナリズム的ミニコミ紙)に、お歳暮として一律5万円ずつ贈り、「こんなハシタガネが受け取れるか」と反発を買う。それまで歴代の幹事長は五十万、百万贈っており、以来院内紙にしばしば攻撃される身となった。
1966(昭和41)年、角栄48歳新潟県への政府補助金296億円で4位。
6.25  【国民の祝日法改正(建国の日など)成立】
7.1  【国土開発幹線自動車道建設法、中部圏開発整備法公布】角栄が立案に参画。
7月 ◎自民党幹事長ー川島副総裁とのコンビで政局に対応する。
8.1  【第一次佐藤内閣改造】角栄は、幹事長留任(二期目)。
8.5  【虎ノ門国有地払い下げ事件】虎ノ門国有地払い下げ問題で田中彰治代議士(新潟4区選出)逮捕される。馬場検事総長指揮下の東京地検特捜部によって恐喝罪で逮捕された。田中彰治代議士は小佐野賢治を脅していた。これを虎の門事件と云う。
11.30  【黒い霧国会(第53回臨時国会)始まる】
 虎の門事件に続いて深谷工業団地事件、大阪拘置所事件、共和製糖事件など政界の一連の不祥事件が浮上。農林大臣・松野頼三の海外出張時の家族連れラスベガス豪遊事件、防衛庁長官・上林山栄吉の派手なお国入り事件が重なる。
12.2 これら一連の政界黒い霧事件で、幹事長を引責辞任(19966.暮れから幹事長にカムバックする1968年までの丸2年間を雌伏することになる) 後任には福田赳夫氏が就任。
12.27 【衆議院解散】
1967(昭和42)年、角栄49歳新潟県への政府補助金351億円で4位。
1.29  【第31回衆議員総選挙】田中角栄は9000票増えて、12万2756票獲得のトップ当選9期目。自民党14減の280、社会党参減の141、民社党7増の30、 公明党が初めて衆議員へ進出、25人当選(国会のキャスチングボートを握る)、自民党得票率50%を割る→多党化時代始まる。

 この時山下元利が滋賀県全県区から初出馬で当選している。堤康治郎の地盤を継いでいたが、この禅譲に角栄の骨折りがあった。

 共産党は5名当選。123名立候補。得票数219万票。
2.17 【第二次佐藤内閣発足】
2月 ◎この頃佐藤首相に勧められてかゴルフを覚えている。早坂秘書伝によると、ゴルフを覚えたのは幹事長時代であり、早坂氏が勧めたという。当初角栄は、「何だ。止まっている球を打つのか。あんなものはアホでもできる。年寄りと金持ちがやるもんだ。ブルジョアの遊びだ」と拒否したが、足腰の強化になるというのが決め手になり、「よし、ゴルフをやる。ついてはゴルフの本を三貫目ほど買って来い」ということになり、ゴルフの味を覚えることになったとある。
3.9 ◎柏崎原発建設予定地の土地転がし、柏崎市会で追及。
3.16 自民党都市政策調査会長に就任都市政策の立案に着手。「都市問題は今や政治全般の焦点であり、都市改造と地方開発は同義語である。私も積極的に取り組むが、皆さんも勉強に務めて欲しい」(第一回総会での挨拶)。
4.15  【東京都知事選で、革新系社共統一候補の美濃部亮吉氏が当選】自民党は独自候補の擁立を見送り、民社党が推す松下正寿を応援し敗れた。
5.10 ◎「中央公論」6月号に「自民党の反省」と題した一文を発表。「今日、東京で起きていることは、明日、全国に広まる」と危機感を訴え、「この敗北を契機として、我々は地べたから起きあがり、泥を落とし、ほこりをきれいに払った後、時代に対応した近代的な政策、思想内容、国民多数に密着した党組織、『新しい保守党』の建設を目指して、一歩ずつ進みたい」と書き上げている。
6.15  【都市計画法公布】角栄が立案に参画。
7.27  【健保国会(第56回臨時国会)始まる】
8.1  【外国貿易埠頭公団法公布】角栄が立案に参画。
8.5  【社会党佐々木委員長・成田書記長が辞任】健保法改正案をめぐる議長斡旋の党内取りまとめに失敗し責任を取った。
1968(昭和43)年、角栄50歳新潟県への政府補助金376億円で4位。
角栄の無役時代。
3.8 自民党米価調査会会長に就任
5.22 日本列島改造論の原型である「都市政策大綱」を発表「37年夏に田中と酒席を共にした時、『オレは新しい国家改造論を作りたい』と漏らし、『一緒に書くと約束した。その後発足した調査会は高度成長のひずみの是正が狙いだった。大綱発表で、全国に通用する日本の田中になった』」(田中の元秘書・麓邦明)。5.27日党総務会で承認される。
9.9  【自由民主党が、田中・米価調査会長の意見により総合農政調査会を設置】
11.30  【第二次佐藤内閣改造】角栄が、自民党幹事長に再度就任(三期目)。この時一回りも二回りも大きくなっていた。1971(昭和46)年まで通産5期務める。
12.27  【第61回通常国会始まる】
1969(昭和44)年、角栄51歳新潟県への政府補助金433億円で4位。
1.10  【東大紛争】東大安田講堂で学生と機動隊が衝突。この頃学園紛争が激化。
4月 ◎長女真紀子、鈴木直人元代議士の3男直紀と結婚。
6.3  【都市再開発法公布】角栄が立案に参画。
5.24 【自動車新税成立】角栄はこれに尽力。鉄道・道路建設を促進させるためにその資金手当てとして軽自動車からトラックまでの全車種に新税を課すという角栄の構想は、当初は実現困難と嘲笑され、業界からの反発も強かった。
6.10  【米価据え置きなどを決定】
7.14  【衆議員本会議で、健保法改正案を混乱のうちに可決。参院は8.2日可決】
7.29  【衆議員本会議で、大学運営法案を徹夜審議で強行採決。参院は8.3日可決
11.10  藤原弘達氏の「創価学会を斬る」刊行される。
11.17  【佐藤首相訪米、21日の日米共同声明で3年後の沖縄返還がうたわれる】
12.2  【衆議院解散(沖縄返還解散)】
12.27  【第32回衆議員総選挙(師走選挙)】角栄が10期目当選。13万3042票。この時自民党は303議席を獲得し大勝した。この時羽田孜・小沢一郎・梶山静六。渡部恒三・奥田敬和・高島修・佐藤恵・石井一、浜田幸一氏らが初当選している。佐藤派は、福田−保利ラインと田中−川島コンビとに分かれつつあった。
◎「太平洋側どころか、日本列島全体が産業基盤にならねばならない。このためには関越高速道、上越新幹線が絶対必要だ。54年までにケリをつけたい」(新潟日報社とのインタビュー)の弁がある。
1970(昭和45)年、角栄52歳新潟県への政府補助金533億円で3位。
1.13  【第三次佐藤内閣発足】角栄が自民党幹事長に留任(四期目)
3.14  大阪吹田市で日本万国博覧会開幕。
3.17  【核拡散防止条約を調印】角栄が自由民主党内の意見調整に尽力。
3.17 ◎創価学会出版妨害問題の収拾に乗り出す。
3.31  赤軍派学生が日航機よど号をハイジャック。
4.24  【沖縄の国政参加法成立】角栄が自由民主党内の取りまとめに尽力。
4.24  【過疎地域対策緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
5.18  【全国新幹線鉄道整備法公布】角栄が立案に参画。
5.20  【本州四国連絡架橋公団法公布】角栄が立案に参画。
6.23  【日米安保条約が自動延長継続となる】
8.20 ◎田中−福田の「ゴルフ巌流島の戦い」が総裁選の思惑がらみで行われた。福田側の立会人倉石忠雄農林大臣と田中側の立会人鈴木善幸総務会長とでプレーが行われ、ゴルフ決戦は田中が勝った(この時のスコアは、角栄51ー46、福田61ー56)。二人がいっしょにゴルフをした最初で最後となる。
9月中旬

幹事長田中角栄に近い一年生議員23名が結集してつくられた“きさらぎ会”の青年部研修会のレセプションが、党本部九階で行なわれた。若手議員の選挙区をまもる若き後援者約五百名が集い、むんむんする雰囲気のなかで、顔を上気させた田中幹事長が党の近代化を訴える熱気のこもった挨拶をした。

 この時、田中内閣実現を誓って乾杯音頭が為されている。「国民の期待する党の近代化を実現し、思いきった政治の若返りを断行するためには、近い将来我われの手によって若い党人政治家田中角栄に天下を取らせよう」。

 当時、政界の情勢は、佐藤派の長老橋本運輸相(現幹事長)の発言によって佐藤四選が確実視され、総裁候補としては、福田、三木、前尾の三氏が話題の中心であった。マスコミは福田氏を佐藤内閣のクラウン・プリンスと呼び、角栄の出番はその後のことと考えられていた。しかし、佐藤政権の官僚型政治があきられつつあり、逆に党人派の若い政治家、たとえば田中角栄、中曽根康弘、石田博英らが注目される機運を醸成しつつあった。

10.29  【佐藤首相4選される】353票の圧倒的多数。
11.5  【川島副総裁逝去】川島副総裁が喘息による心臓麻痺で逝去(80才)。田中を支持していた死は打撃となった。
11.24 【公害国会(第64回臨時国会)始まる】角栄が、環境庁の設置を含む公害関係法律14件を成立させるために尽力。
11.25  三島由紀夫氏が、市ガ谷の自衛隊内で割腹自殺。
11.11  【北陸自動車道(新潟−長岡)の路線発表】角栄尽力する。
12.18  【公害国会で、公害関係16法案成立】角栄尽力する。
12.29 角栄が自民党幹事長に留任(五期目)
1971(昭和46)年、角栄53歳新潟県への政府補助金663億円で3位。
正月 ◎目白の年始パーティーで、木村武雄が「田中内閣万歳!」を叫び、「佐藤の『待ち』の官僚政治では民衆本位の政治はできない。拠らしむべし、知らしむべからずの官僚政治に対する国民の苛立ちが限界に達している。官僚政治をぶち壊すのに、学閥も閨閥も皆無のエネルギーの塊のようなリーダーが是非必要なのだ」とぶちあげている。
1月 田中の所属する鉄道建設審議会で、上越、東北、成田の三新幹線基本計画答申。「新幹線駅誘致の陳情にずいぶん目白に行った。先生は盛んに『難しい、難しい』といっていたが、昭和46年秋に出向いた陳情団に『大和町浦佐の毘沙門天様もやがて世に出るかもしれない』と漏らしてくれた」(大和町議会議長・関孝一郎)。
2月  成田の新東京国際空港公団、用地の強制収容騒ぎ。
3.31  最高裁の裁判官会議で、青法協加入の判事補の再任を拒否、紛糾。
5.31  【自動車重量税法公布】角栄が立案に参画。
6月  公明党の竹入委員長が訪中して周恩来と会談。
6.17  【ワシントンで沖縄返還協定調印】
6.21  【農村地域工業導入促進法公布】角栄が立案に参画。豪雪地帯特別措置法改正(特別な補助金を支給する制度の創設)の成立に尽力。
6.27  【参議院選挙】自民党は63名の議席で改選前の64を下回った。その後無所属当選者の入党と繰上げ当選で改選議席を辛うじて上回ったものの、前々回(昭和40.7)の71、前回(昭和43.7)の69議席から見ると低落傾向に入ったことになった。この時、細川護(もり)が初当選している。
◎角栄は幹事長采配の責任をとり辞することになった。連動して参議院の重宗議長も四選断念の呼び水となり、河野新議長が生まれることになった。
6.29  【訪中の竹入公明党委員長が周恩来首相と会談、日中国交回復促進で合意】
6.29 6.27日の参院選敗北の責任を取り幹事長辞任。「政治にはタイミングが必要だが、それを捉えるのが実にうまい。幹事長を辞めたとき、野党の書記長が慰労会を開いたが、歴代保守政治家では初めてじゃないか。」(民社党書記長時代の佐々木良作)。
7.1  【環境庁設置】
7.5 【第三次佐藤内閣の第一次内閣改造】角栄が通産大臣に就任。この時福田は大蔵大臣から外務大臣になった。保利茂幹事長、竹下登内閣官房長官の布陣となった。
7.15  キッシンジャー米大統領補佐官が極秘で訪中、ニクソン大統領の訪中を決定した。
7.15  【ニクソン訪中発表(第一次ニクソン・ショック)】
8.15  【第二次ニクソン・ショック】ニクソン大統領が、ドル防衛策によるドルと金との交換禁止、金ドル本位制からドル本位制への切り替えを発表した(第二次ニクソン・ショック)。同時に米国への輸入品に15パーセントの課徴金を課す政策を発表した。為替市場は大混乱し、8.16日東京証券取引所は史上最大の暴落となる。
8.17  政府が「円対策8項目」実施を発表。
8.28  政府が円の変動相場制移行を実施。
9.9  【第8回日米貿易経済合同委員会】第8回日米貿易経済合同委員会がワシントンで開かれ、角栄も出席。
9.23 ◎ドル・ショックに対応するため、臨時中小企業対策本部長に就任。商工中金、中小企公庫、国金の融資規模を1500億円枠に拡大する等の緊急対策を実施。
9.27  天皇・皇后両陛下がヨーロッパ外遊。
10.4  通産省、初の資源白書を発表。
10.6  日米繊維問題で、自民党三役、野党書記長らと会談、政府の方針を説明。
10.8  ドルショック対策として、中小企業の輸出成約促進を目的とした外為銀行への外貨預託の実施を閣議決定。
10.12  昭和46年度補正予算を閣議決定。160億円の減税追加などを内容とする中小企業への支援措置が決められた。
10.15 日米繊維交渉決着させる(本協定は翌47.1.3)。「火中のクリを拾い、自分の責任において結論を出し、見事に裁く」好例を見せつけた。宮沢喜一、大平正芳の二人の通産大臣が解決できなかった難問であったが、国内の繊維業界の廃業した機械を国で買い上げるという発想で切り抜けた。

 「世界の流れは流れとして受け入れ、後は徹底した国内生産者対策を練り上げる」、「それは我々が全く考えが及ばないほどの、大胆且つユニークなものであった」(竹下登談話)というのが識見としてあった。

10.16  沖縄国会(第67回臨時国会)始まる。
10.19  「政党政治研究会」が佐藤派の長老木村武雄の音頭で創立された。
10.25  国連で、日米が画策した「逆重要事項指定決議案」が否決され、「中国加盟、国府追放」を決議可決した。
10.27  衆議院本会議、田中通産相の不信任決議案を否決。11.9日参院でも否決。
11.24  衆院で沖縄返還協定可決承認。社・共両党は欠席した。参院は12.22日。
12.29  第68回通常国会始まる。
1972(昭和47)年、角栄54歳新潟県への政府補助金806億円で3位
1.5  カリフォルニア州サクラメント(サンクレメンテ)で日米首脳会談。日本側は佐藤首相、福田外相、田中通産相、水田蔵相、佐藤文生・自民党新聞局長が同行す。米国側は、ニクソン大統領、コナリー財務長官、キッシンジャー大統領特別補佐官。1.8日、共同声明。5.15日、沖縄返還決定。
2.3  佐藤首相、札幌での記者会見で、国会終了後の引退を示唆。
2.19  連合赤軍による浅間山荘篭城事件。
2.21  ニクソン米大統領が訪中。毛・周と会談。2.27日米中共同声明。
3.7 ◎永年在職議員として衆議員より表彰される(12名)。
5.9 田中派が旗揚げ(衆院40名、参院41名)、柳橋の料亭「いな垣」に集う。
5.15  沖縄返還協定の調印式。沖縄施政権復帰。
5.29  下水道事業センター法公布。角栄が立案に参画。
6.2 ◎田中・大平会談で、総裁選挙の相互協力を確認。
6.9  佐藤首相が、総裁選調整工作のため、田中通産相、福田外相と個別会談。
6.11 田中通産相が、「日本列島改造論」を発表する。
6.16  【工業再配置促進法、工業再配置産炭地域振興事業団法公布】角栄が立案に参画。
6.17  佐藤首相が退陣表明。7年8ヶ月の長期政権に幕を閉じた。佐藤派の福田支持グループが「周山クラブ」結成。大平正芳氏が総裁選立候補を表明。この頃の角の弁に「総理の座はなろうと思ってもなれるものではないし、なりたくないと思ってもやらなければならない事もある」が伝えられている。
6.18  佐藤首相が、福田支持工作をはじめる。
6.19  中曽根総務会長が田中支持を表明。
6.20  佐藤退陣表明の三日後、「日本列島改造論」が発売され、たちまちベストセラーになった。福田が立候補を表明。
6.21 田中が総裁選の事務所開きに出席し、正式に立候補を表明。「私は国民の皆さんと熟慮し、断行する。政治責任の明らかな決断と実行の政治こそ、私の目指すところである」。三木氏も表明。中曽根氏が総裁選不出馬と田中支持を表明。
6.23 ◎角栄が、「国民への提言」(私の十大基本政策)発表。
7.2 田中・大平・三木候補が三者会談。政策合意と決選投票での3派「上位協力」で合意。




(私論.私見)