4526 田中角栄語録

 (最新見直し2007.4.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 田中角栄の思想、人となり、「議会政治家の申し子としての角栄」その他でも取り上げているが、ここでは、田中角栄語録を項目別に採録する。角栄の実像の一端に迫ることが出来ればとの思いから記した。別サイトに田中角栄の人物評を設けた。

 角栄その人の実像を知らぬまま「角栄元凶説」が根強く流布されており、れんだいこは本サイトでその盲を啓くことにする。「或る人」かく語りき。
 「誰それがこう言った」、「あの人のこういう見方は正しいと思う」、「それは何々の本によるところですね」といった薀蓄をひけらかす事が得意な人がいる。しかし、悲しいかな、自分の言葉が無い。世の中には他人様の噂話、伝聞をいつもポケットに入れ、それを放出することで一日の生活が回っているアホがいる。自分の言葉無いのは寂しいことである。
 
 それを思えば、以下の角栄の言葉は全て自分で験し味わった上での角栄の生身の言葉である。心して聞け。

 2004.11.30日 れんだいこ拝


【政治家及び政治能力論】
 角栄は、政治家たる所以の任務を次のように諭している。
 「国の方向を示すのが政治家の役目だ。それが出来なければ役人以下だ」。

 政治の任務について次のように述べている。
 「政治とは生活である」。

 角栄はかく述べ、側近の早坂茂三氏や新聞記者に常日ごろ語っていた。大衆政治家の面目躍如の言であろう。

 その上で次のように抱負している。
 「大仕事を遂げて死なまし 熱情の若き日は又と来はせじ」(角栄が送った色紙の言葉)。

【政府の予算案づくりに関わってきたとの自負】
 ある時、角栄は次のように豪語した。
 「私は、吉田内閣以来、政府の予算案づくりには全部関わってきた」。

(私論.私見) 角栄の予算案目通しについて

 「私は、吉田内閣以来、政府の予算案づくりには全部関わってきた」は見過ごされがちで有るが、相当重要なメッセージをしているように思える。それは、角栄の時代までは、赤字国債の発行と軍事費の偏重を抑制した健全財政下に有ったからである。今日、デマゴギーにより、今日の累積国家債務の責任を角栄に求める観点が流布されている。

 それは全くのウソデタラメで、福田、三木、中曽根により仕掛けられ今日に至っているという観点を持つ必要が有る。れんだいこは、覚束ないまでも「国債論」で論証している。

 2005.9.6日 れんだいこ拝


 角栄の予算編成目通しは本当の話であり、次のような逸話で裏付けられる。
 大野伴睦が威勢を振るっていた吉田内閣か、岸内閣の頃のこと。ある年の予算編成で、要求が入れられなかった大野は、大蔵大臣室に怒鳴り込んだ。そしてひょいと大臣室の奥の小部屋を覗くと、チョビヒゲをはやした若い男が、そろばんを片手に、ワイシャツの袖をまくりあげて、数字をいじくっている。「なんだァ、こいつは」と怒鳴りつけると、「俺は田中角栄だァ」という怒鳴り声が跳ね返ってきた。後年、池田内閣で、田中が政調会長、大蔵大臣に抜擢された時、大野は「ああ、あの時一生懸命そろばんをはじていた男か」とつぶやいた云々。

【政治家の演説の際の心構え】
 「いいか、演説というのはな、原稿を読むようなものでは駄目だ。聴衆は、初めから終わりまで集中して聞いていない。きっちりとした起承転結の話をしても、駄目なんだ。話があっちへいつたり、こっちに行ったりしてもいい。聴衆の顔を見て、関心のありそうな話をしろ。30分か1時間の演説の中で、何か一つ印象に残るような話をもって帰ってもらえばいいんだ」

【総理の器】
 「好むと好まざるとに関わらず、たたなければならない時がある。総理という職責は、なりたいと思ってもなれない。なりたくないと思っていても、やらなければならない時があるんだよ」
 「一国の総理総裁はなろうと思ってもなれ るものではない。時がきて天が命じなけれ ば絶対になれない」。

【政治における考え方の基本について】
 「政治家にはオール・オア・ナッシングというのはない。まず最善手を指し、次善、三善の策を考えることだ」

【政治家の能力について】
 角栄が政策研究に余念が無かったことを裏付ける福田赳夫の角栄評がある。
 「私が初めて田中角栄氏を親しく知るようになりましたのは、佐藤政権ができて間もない頃、僕は佐藤政権で大蔵大臣になったんだが、その頃に国会内の総理大臣室に『ちょっと来てくれ』と言われ行ってみたら、何か弁舌さわやかにね、とうとうとやっている人がいる。あれが田中氏である、と。何の話かというと、都市計画だな。東京をはじめ地方都市などをどういう風につくっていくべきか、という話をやっていた。とうとうと都市計画について、佐藤さんにね。都市計画ばかりじゃないですがね、関連して治山、治水とか、そういうことに至るまでの話を事細かに、雄弁にね、やっておりました。『ああ、これが何年も長い間聞かされていた田中角栄君か』と。これが初めてだったね」。

【政策研修制度の確立について】
 角栄は、「責任政治を目指した」。その為に、日頃から政策研修を怠らなかった。次のように述べている。
 「勉強せよ、専門知識をもて、議員立法せよ」。
 「政治家たるるもの、国会で国政に携わる者は、全てのことは無理にしても、一つや二つ、誰にも負けない専門分野を持たなくては、国家国民のための政治家にはなれん!」

 という考えから党の各委員会、小委員会、分会の「勉強会」以外に、田中派内にも各分野の勉強会を連日開かせ、一人一人に専門分野の知識を、その道の専門家と丁丁発止で討論ができるように育てていった。これが、後に、田中派が「総合デパート」と云われるようになる下地となった。ちなみに、勉強会の費用を飲食代まで全て派閥事務所が負担した。「勉強会」は、「同じ釜の飯を食った仲間意識」の醸成にも役立つこととなった。

 このことにつき、浜田幸一氏が「日本をダメにした9人の政治家」の中で次のように裏付けている。
 「自民党には部会制度があって、火曜日から金曜日まで、約20の部会で朝の8時から法律作成のための議論が行われている。一つの法律案をつくるにも、3年も4年もかけて勉強を重ね、あらゆる角度から検討し、質疑応答を繰り返している。ここまでしている政党は、他にはない。日本では自民党だけである。こうして部会でつくられた法律案が、政務調査会、総務会、党三役などの議を経て、その間にも修正されたり、検討のやり直しをさせられたりし、最終的に総裁がOKしてはじめて提出法案となるのである。これまで自民党が提出してきた、年間90本なり百本の法律案はみな、こうした地道な積み重ねから出てきたものなのだ。こういうことが、意外と一般には知られていない。自民党はといえば、いつでも派閥抗争ばかりしている党のように思われている」。
 概要「野党側は、法案を通す見返りに、まず、自分達も何かをしたのだという『証拠』を残すために付帯条件をつけさせ、さらに、ここが最大の問題なのだが、その裏で金銭の遣り取りが行われる」、「これが、自民党政権時代に行われてきた国対政治の実態なのである」。

【議会制民主主義の生命力について】
 「(田中の議会制民主主義への認識は)多数決原理と少数意見尊重の二つが柱。その政治が国民多数にとって現実的不利益を招けば、次の総選挙で必ず公正な審判が下る。議会制民主主義の生命力の源はここにある」

【議会における討論の重視について】
 角栄は、「議会討論を重視し、率先した」。角栄の議会に対する態度を物語る当人の国会弁舌がある。1947年、初めて登院した衆議院本会議で「自由討議」(フリートーキング)をテーマにしての演説である。
 「新国会法によりまして、本会議において、議員相互に自由討議の機会を与えられましたことは、形式主義に流されやすい本会議に、清新なる活を入れたものでありまして、新国会運営上、重大視せねばならないと思うのであります」。
 「本会議場において活発なる討議の展開ができますことは、明朗なる政治、すなわちガラス箱の中での民主政治の発達助長に資すること大なりと思うものであります」。
 「明治大帝陛下も、よきをとり悪しきを捨てよ、と仰せられましたごとく、他議員の発表はこれを聴き、しかして、それに対する賛否は自由なのであります。己のみを正しいとして、他を容れざるは、民主政治家にあらず。それをもし一歩を誤れば、戦時下におけるあの抑圧議会の再現を見るのであります」。
 「議員は一人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員一人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります」。

 「自由討議」(フリートーキング)制度は、新憲法が制定された当初、国会法第78条において「各議院は、国政に携わる議院に自由討議の機会を与えるため、少なくとも、二週間に一回その会議を開くことを要する」と定められ開始された。ところが、わずか数回行われただけで、1955年の国会法改正によって実益の無い制度として削除された。このようにして、国会から自由清新な議論が消えていった。これについては、「自由討議」でもう少し詳しく見ておくことにする。

【政策論争好みについて】
 角栄は、政策論争を好んだ。若手議員を掴まえては政策論争したと伝えられている。政策がおかしければ、おかしいとはっきりと口にした。発想力の豊かさに感心したと伝えられている。自然と門下生教育となった。

【選挙の要諦について】
 これを裏付ける角栄自身の次のような語録がある。
 「『戸別訪問は3万軒、辻説法は5万回』、2万人と握手をして廻れ、靴が何足も履き潰されるほどに雨の日も風の日もやれ。聴衆の数で手抜きはするな。流した汗と、ふりしぼった知恵だけの結果しか出ない。選挙に僥倖などあるものか。そして、選挙民には口でいって見せるだけでは絶対駄目だということだ。、必ず、自分で率先してやってみせろ。政治は結果である。そのためにこそ、選挙区をくまなく歩くことだ。選挙民が何を一番望んでいるのか、何に一番困っているのかを、他の誰よりも早くつかまなきゃいかん。とにかく歩け、歩いて話を聞け。しかし、それで終わったら並みの代議士に過ぎない。それをやった上で、現実のものにしてはじめて政治家というものだ。オレはそれを、最初から一人でやってきた」。
 「(羽田孜に対して)君の場合はお父さんが大変に苦労しながら築いた地盤だから間違いなく当選する。しかし、当選するだけじゃ駄目だよ。これから三万軒歩け」。
 「君は当選してから本当の仕事をやっていくためにも各地域の実情をしっかり見て来い。君の選挙区は日本の地方の一つの縮図なんだから、そこをキチンと見てくれば日本の国全体をキチンと語ることができるようになる。とにかく歩いて来い」。

 角栄らしい物言いとして次のような演説がある。
 「私は役人は怖くねーが、あんたら地元の人が一番怖い」とおどけていた。「大学出も、70、80のばあさんも同じ一票」

【大衆政治論】
 新潟出身の友人に連れられて田中角栄さんの目白の家に行ったとき聞かきれたハナシ。
 「暇があったら区内を歩き、できるだけ区民に会って苦情や注文を聞くこと。自分の背丈に合った出来る約束をして一つずつ実行すること。これを信念にしています」 、「政治とは何か。生活である。政治とは国民の暮らしをよくするためにある。わが国は発達した議会制民主国家であり国民の知的レペルは高い。こうした国で政治が国民の手の挙げかた、足の運びかたまで指図する必要はない。政治の仕事は国民の邪魔になる小石をたんねんに拾って捨てる。国の力でなければ壊せない岩を砕いて道をあける。それだけでよい。いい政治というのは、国民生活の片隅にあるものだ。目立たずつましく、国民のうしろに控えている。吹きすぎて行く風、政治はそれでよい」。

【金権政治論】

 福田と総理を争ったときに、麓と早坂秘書に言った言葉。

 「政治に金がかかるのは事実だ。酢だ、コンニャクだと、理屈をこねても始まらない。池田や佐藤にしても、危ない橋を渡ってきた。きれいごとだけでは済まないんだ。必要な金は、俺が血のしょんべんを流しても、自分の才覚で作る。君達は俺の金を使い、仕事に活かしてくれれば、それで良い」
 「池田、佐藤は京大、東大だ。財界の連中もだいたい、そうだ。みんな先輩、後輩、身内の仲間なんだ。俺は小学校出身だ。ひがみじゃないが、俺は彼等に頭を下げて、おめおめとカネを貰いに行く気はない」。

【政権取りの戦略戦術としての中間地帯論】

 角栄は、政権取りの戦略戦術として「中間地帯論」を述べている。いわば「政界操縦遊泳術」と云え、自民党のみならず野党対策にも適用された。

 「第一は、できるだけ敵をへらしていくこと。世の中は、嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。第二は、自分に少しでも好意をもった広い中間層を握ること。第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」。
 「山頂をきわめるには、敵を減らすことだ。好意をもってくれる広大な中間地帯をつくることだ」。
 概要「世の中は、白と黒ばかりでは無い。敵と味方ばかりでもない。その真ん中にグレーゾーン(中間地帯)があり、これが一番広い。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなれば、決して取れない。真理は常に中間にありだ。このことを知ることが大事だ」。

【野党批判論】
 「野党は政策を競うのではなく、取引ばかりしている。労働組合のやり方が蔓延している。日本政治の最大の問題は野党が無いことだ」。

【責任政治論】
 角栄は”舌先三寸”政治を嫌った。次のように述べている。
 「仕事をすれば、批判、反対があって当然。何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、ああ田中は仕事をしているんだと、まぁこう思っていただきたい」
  「何もしないでおれば内閣が長く持つなんてことはないんでね。ここまできたら、期限内で物事を片付けていくべきだ。4年なら4年のうちに、キッチリ仕事をする。急ぐとケガをする時、仕事をやらなければ長生きするとか、孫子の兵法を国の政治に使うのは誤りです。まさに、自民党、内閣が今心しなければならないのはそこだな。人間のやることですからね。そりゃぁ未熟なところもあります。しかし、それは長い間の歴史の中で補完されていくんだ。空しく日を送っていたのでは、責任政党の務めは果たせないですね。慎重の上にも慎重で時機を失するマイナスより、少しピッチを上げて拙速が生じ、批判が出ても、こちらの方が国民は納得する」。

【単なる反対ではいけない論】
 「田中の日本列島改造などというのは、ありゃ駄目だと。駄目だと言うなら、それなりのいい案を出しなさいッ。そう言ってるではありませんか!!!」」

【現実政治論】
 角栄は、「理想と現実」について次のようなコメントを残している。
 「(角栄は土方代議士だと言われたことに対し)私は、原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちで、敢えてこの批判に甘んじています」。
 「私はね、理想がないわけじゃないが、理想を求めて果てしない旅を続けていく性分じゃない。今日は今日、いわゆるその日にタイムリーにものを片付けるんです。明日でも来年でも、また同じ政策問題がやってくるかも知れないよねぇ。でもいいんです。そういう時にはまたやり直したらいい。考えたにいい。とりあえず今日は今日である方向性で解決する。明日なら、同じ問題に対してまた別の方法による解決方法が見つかるかもしれない。そうなったら、政策転換すればいい。だから、判断は非常に早いんだ」(戸川猪佐武とのインタビュー・昭和45.10.8「週間大衆」・幹事長時代)。
 「私はメシも仕事も早い。一生の間理想を追っても結論を見いだせないような生き方はキライだ。すべてのことにタイム・リミットを置いて、可能な限りの努力をするタイプなんだ」。

【体当たり政治論】

 日中国交回復交渉の際の角栄の言葉。台湾国府の取り扱いが揉めにもめて一頓挫していた時である。二日目の夕食は日本側の田中、大平、二階堂、外務官僚・橋本の4人だけが共にした。田中はマオタイ酒をぐいぐいと呑む。大平は交渉不調のためかシュンとなっており、食事に箸をつけなかった。田中はそんな大平に言う。

田中  「食べろよ。冷めてしまうぞ」。大平は深刻な顔をし続ける。田中はからかった。「大体な、大学を出たヤツは修羅場をくぐってないから、駄目なんだ。こんなときにすぐそうなる」。
大平  「しかし、明日からはどうするんだ?」。
田中  田中はにゃっと笑った。「明日からどうするかは、大学を出たヤツが考える」。
大平  暫しの沈黙があって、大平がしんみりした口調で言った。「なぁ、田中君、君は越後の田舎から出てきたとき、総理になれる思ったかい?」。
田中  「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」。
大平  「オレもそうさ。讃岐の水呑百姓の小セガレじゃ食えんからのう」。
田中  二人は暫ししんみりした気分に浸っていたが、田中が急に大声を出した。「それなら、当たって砕けても元々じゃないか。決裂なら決裂でもいい。オレが責任を取る」。
大平  「しかし、手ぶらでは帰れないぞ」。
田中  「そんなことはこのオレに任せろ。オレが何とかする。それがオレの仕事じゃないか」。

 この時、橋本は角栄を凄い人だと思った、と伝えられている。この大仕事はこの人にしか出来ないと、橋本はこの時痛感したとも伝えられている。


【官僚論】

 角栄は、官僚の優秀さを認めたうえでその限界も知り、官僚に使われるのではなく、使いきろうとした。次のように述べている。

 概要「大蔵省の役人というのはそりゃ優秀です。正しいデータさえ入れればちゃんとした結論を出してくる」(1981年「月刊ペン」)
 「官僚には、もとより優秀な人材が多い。こちら(政治家)がうまく理解させられれば、相当の仕事をしてくれる。理解してもらうには、三つの要素がある。まず、こちらのほうに相手(官僚)を説得させるだけの能力があるか否か。次に、仕事の話にこちらの野心、私心というものがないか否か。もう一つは、彼ら(官僚)が納得するまで、徹底的な議論をやる勇気と努力、能力があるか否かだ。これが出来る政治家なら、官僚たちは理解し、ついてきてくれる」。

 1964年、44才で大蔵大臣に就任した角栄は、時間、局長以下、大蔵省の幹部を前に次のような挨拶をしている。

 「私はご承知のようにし、小学校の高等部しか出ていない。しかし、世の中の経験は、多少積んでいるつもりである。まぁ、諸君は財政、金融の政治家だ。これからは、もし私に会いたいときは、いちいち上司を通して来ることは無い。こう思う、これはおかしい、これを考えてくれなんてことがあれば、遠慮せずに来てくれ。そして、国家有事の現在、諸君は思い切って仕事をしてくれ。これは局長も課長も同じだッ。私はできることはやる。できないことはやらない。事の成否はともかく、結果の責任は、全て大臣であるこの田中がとる。今日から、大臣室のドアは取っぱずす!以上」。

 マックスウェーバーの言に、「フランスやアメリカの腐敗した官吏制度、イギリスの非常に侮辱されている夜警統治、部分的には腐敗した官吏制度をもって民主的に統治されている国は、高度に道徳的な官僚制よりはるかに大きな成功をおさめてきた」というのがあるが、まさにマックスウェーバーの言を地で行ったのが角栄政治であった。
 
 次のように評されている。

 「田中は、官僚をつかった。が官僚の言いなりになどなりっこない。優秀な官僚の知識を利用するが、最終的には自分が上のほうから政治的に判断する。それが、本来の政治家の在り方だと思う。今でこそ政治は官僚指導と言われているが、田中の時代は、短い期間ではあったが政治家主導でなしえた」。
 「官僚の使い方がうまかった」田中は、官僚の話を聞くのがうまかった。それも、事務次官や局長など上のクラスの人だけではない。必要とあらば、例え一課長とも気軽に会った。官僚は、自分の担当については頭で整理できている。その考えを上手に聞き出し、時には政策などに活かした。その意味で、官僚の使い方がうまかった」。

 角栄の秘書の一人早坂茂三氏は、「宝石・平成元年12月号」の「」の中で次のように評している。

 「彼は役人をよく知っていた。自分が組む相手がどういう属性をもっているか。このメリット、デメリットは何か。役人をどう使っていけば、給料の10倍も20倍も働くか。どうすれば裏切らないか。これを良く知っていれば、役人の力をフルに引き出すことが出来る。これが、頭領の器というものでしょう。田中は、『役人は生きたコンピューターた』と、よく僕にいつていた。『役人にはハッキリした方向を示して、ガイドラインをせいかくに与えてることだ。インプットする情報、数字、ファクトが間違っていなければ、コンピューターは正確に機能して、何万人分もの能力を一瞬のうちにやってのける』と」。

 大蔵大臣就任早々の頃の大蔵大臣室での、田中角栄と藤原弘達の会話。
 「角さん、大蔵省というところは、一高−東大−大蔵省人脈といってね、大体頭のいい奴が集まるところなんだ。福田なんてその最たるもんだな。そういうところに、あんたのような西山町の馬喰(ばくろう)のせがれで、尋常高等小学校出が大臣になって、上から抑えようったって、到底まともにいうことはきかんぜ。どうやってやるつもりかね」。田中はニヤッと笑って、平然と答えた。「なに、たいしたことはないさ」。「どうして?」。「役人という奴は、要するに、エライ地位につきたい動物なんだ。自分のことを考えんで、日本全体のことを考えているやつなんて、本省の課長までさ。部長から局長、次官になるにつれて、大臣から何か言われて、それに反対するのは出てこれないね。だから、ちょっとお小遣いをやるとか、ちょっと出世させてやる、いいとこ連れて行ってやる。選挙に出たいといったら世話してやる---。そんな具合に、面倒見て大事にしてやれば、ちゃんと従うもんさ。角栄流の人間操縦術というのは、大蔵大臣になったって、同じだよ」。大蔵官僚の監視の中で、そのようなことを平然というものだから、さすがの私もいささか驚いてしまった---(角栄、もうええかげんにせんかい)。

【自民党論】
 角栄の真骨頂とも云うべき軽妙洒脱な自民党論に次のような言い回しが有る。
 「皆さん! 自民党は何やってんだと! 自民党はいつまで政権を握っているんだと! まあ、いつもいつもねえ、何でも自民党が悪いと、そう云われているのであります! でも、ま、これはねぇ、皆さん。酒癖は悪いが、働き者だから亭主代えないっていうおっかさんの気持ちと、同じだわねぇ」。

【田中派論】
 「お前達は幸運だぞ。俺の時代よりマシなんだ。俺の時代にはなかったバックアップが受けられるんだからな。そこをうまく利用しないとバチが当たるぞ。いいか、もうだめだと思っても、諦めるな。必ず相談しろ。そう簡単に、選挙民の願いは叶えられない。公約するのはサルでも出来るが、実現するのは大変なんだ。そこんところで、ほとんどの政治家が頓挫する。投げ出す。挫折するんだ。だから相談しろ。先輩が居る。俺が居る。ここは最大派閥なんだからな。元医者から弁護士、学者から警察まで、何でもあるし、誰で居る。これを利用しない手はない」。

【公約責任論】
 「お前達は幸運だぞ。俺の時代よりマシなんだ。俺の時代にはなかったバックアップが受けられるんだからな。そこをうまく利用しないとバチが当たるぞ。いいか、もうだめだと思っても、諦めるな。必ず相談しろ。そう簡単に、選挙民の願いは叶えられない。公約するのはサルでも出来るが、実現するのは大変なんだ。そこんところで、ほとんどの政治家が頓挫する。投げ出す。挫折するんだ。だから相談しろ。先輩が居る。俺が居る。ここは最大派閥なんだからな。元医者から弁護士、学者から警察まで、何でもあるし、誰で居る。これを利用しない手はない」。

【財源政策論】
 「金はねえ、必要とあらばつくれるんです! しかし、金をつくって積極政策をすれば、勢い物価は跳ね上がり、景気を刺激する! これは日本の経済にとっても、国民生活に取っても、今は困ることなんであります! となれば、現在の予算枠の中で、財源を生み出し、効率的二使うしかないんじゃねえですか。世間では生産者米価を上げろ! 消費者米価は上げるな! しかし、減税はしなさい!と。まえねぇ、小学校の算数にはこんな計算はないっ! これをねえ、高等数学で解くのが、大蔵大臣の務めと、こう思っているのですが、いかんせん難しい! 財布を持つ母親の苦労いかなるやと、密かに思う今日この頃であります」(赤塚行雄「田中角栄の実践心理術」)。

【財政政策論】
 「いくら財政再建を叫んでも、石頭ばっかり揃っていたのでは、いつまでたっても財政再建は出来ない」。

【規制緩和論】
 「規制をとっぱらってみな株式会社にする。医療も学校もみな株式会社でいいんです。皆さん。役人に任せると井の中の蛙(かわず)になるが、規制をとっぱらうと民間のカネが流れて競争原理が働き、不活発な分野もどんどん良くなる。日本は自由主義の国ということを忘れちゃなりません」(新野哲也「角栄なら日本をどう変えるか」より。
 但し、出典を明示していない。れんだいこの臭いとしては、角栄の発言趣旨の曲解部分もあると思うが、規制緩和必要論に立っていたことを証する発言として引用しておく)。

【結論と理由付けの仕方について】
 「初めに結論を言え。理由は、三つに限定しろ」。

 次のような逸話もある。角栄の幹事長時代、三木派長老にして総務長官の白井荘一が訪ねて来た。白井が腰を降ろすのに合わせて、角栄はそれまで座っていた椅子から立ち上がり、話が始まった。沖縄問題に関する話が半分にも至らないところで、「わかった、わかった」を連発し始め、白井は毒気を抜かれて不首尾のまま引き返した。この時の角栄の言葉が、「僕は忙しいんだよ。一つの問題を半日がかりで話をする老人とは同じペースで仕事は出来んのだよ」。

【最近の議員の資質について】
 「最近の議員の資質はなかなかの優等生だが、独創性、エネルギー、統率力といったものが欠けている。内外の情勢は教授会のような議論は許さないんだが」

【北方領土論】
 「北方領土は、いっぺん向こうが取ったものだから、簡単に返せというだけじゃ返すものか。買えばいい。お金だよ。シベリア開発にこっちが注ぎ込んで、その見返りで取り返せばいい」。

【自由主義市場論】
 「保護貿易主義にあぐらをかいては駄目。工業製品は全て自由化する。関税は思い切って引き下げる。日本は自由化に十分対応できる」

【起業家へのまなざしについて】

 エスエス製薬を中心とした泰道グループの創業者・泰道照山氏の一周忌法要参列時の挨拶。

 「創業ということが、いかに難しいかは誰でも知っている。先達が作った会社を継承し、業績をあげるのは難しいことではない。初めて仕事を起こすときは、実績が無いので銀行が金を貸してくれないし、友達も協力してくれない。創業者に敬意を払い、敬慕の情を持つのは、お互い当然のことである」


【歴史哲学について】
 田中角栄の秘書を勤め、76年12月に田中の支援を受けて国会議員となった鳩山邦夫氏の回想弁。「田中先生が『今太閤・庶民宰相』として任期絶頂だった頃、『お前は苦労していないボンボンだ。それが欠点だという人もいるが、そこがお前のいいところだ』といわれたんです。田中先生は、苦労した、ものすごい無理をしてきた。だから、無理が祟ってこれからいろんなことが起きるかも知れない.....。『鳩山一郎(元首相)さんの孫なんだから、無理をしなくていい部分があれば無理をしない方がいい。田中政治をあまり見習うな』とおっしゃった」。さらに、「お前が政治の表舞台に出るのは、21世紀になるかならないかという時期だろう。恐らくその頃は、田中政治は反面教師になっている」とも云われた、という。

【総合判断力こそ真価が問われる】

 「医者だって、ノミのキンタマばかり研究しおって医学博士になっても一人前とは言えん・全てのものを総合的に判断できて、正しい処方箋とならなきゃだめだ」。


【間の大事さについて】
 「人生は、すべて『間』だ。お前みたいに一本調子、直進しようとするだけでは何も前に進まない。『間』の取れない奴はどうしようもないぞ」。

【待ち合わせ時間の厳格さについて】
 「時間の守れん人間は、何をやってもダメだ」

【器量について】
 「人間誰しも、若いときはみな偉くなりたいと思うもんだが、簡単にはなれない。経験も知識も素養も無くてしゃべっているのは、バカ騒ぎを繰り広げているだけで、しまいには誰も相手にしなくなる」

【人物について】

 「自分の物差しばかりでものを云っちゃいかんということだ。世の中には、人の為に働かないで、文句ばかり言う横着な人間が少なくない。こういうのはダメだ。使いものにならない」。


【下積み苦労の重要性について】
 「赤坂、柳橋、新橋でも、料亭の女将で店を大きくするのはどんな奴かわかるか。仲居上がり、女中頭あがりだ。芸者や板場を立てて、見事に大きくする。ダメなのは芸者上がり」

【勤労の重要性について】
 昭和48年の総理大臣時の全国勤労青少年会館の開館式での角栄の挨拶。
 「ただ単に、青少年時代を学生として、思うばかりはばたける、好きなことをし放題にできることが楽しいかと言うと、私は必ずしもそうではないと思っている。お互い一人一人、皆、生まれ育つ環境も違いますから、いろいろな社会にいろいろな生き方をして育ってくる訳でありますが、私はその中で勤労というものがいかに大切であるか、勤労と言うことを知らないで育った人は不幸だと思っています。本当に勤労をしながら育った人の中には、人生に対する思いやりももあるし、人生を素直に見つめる目もできてくるし、我が身に比べて人を見る立場にも成り得る訳でありまして、私はそれは大きな教育だと、また教育だったと考えている。本当に病気をしてみなければ病気の苦しみが分からないように、本当に貧乏なければ貧乏の苦しみは分からないと言う人がありますが、勤労しない人が勤労の価値を論ずることはできない。勤労をしない人が、どうして勤労の価値を評価することができるでしょうか。勤労は生きるための一つの手段でしかないという考え方が、このところ充満しつつあるような気がします。もしあるとすれば、それは政治の責任かなとも思います。

 私も、かっては勤労青年だった。朱きの『偶成』という詩に、『少年老いやすく学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、池とう春草の夢、階前の梧葉既に秋声』というのがあります。また、何人が詠んだ詩か知りませんが、『大仕事を遂げて死なまし、熱情の若き日はまた来はせじ』と、これらは皆、勤労少年の時自信を失う時には、国家や民族の危機と考える必要がある」。

【国家有為人材形成について】
 「馬鹿も休み休み言え。総理が政治で動いてたまるか。そんな心配する前に、お前等はまず国家にとって人材となることを考えろ。政策の勉強をする方が先だろう」。

【人の面倒み哲学について】
 「俺は戦争には行ったが、自分の手で人を殺したことが一度もなかったことを一番幸せだと思っている。自ら逃げていくものはしようがないが、自分がひとたび面倒を見たものは、最後まで面倒を見つづけるというのが俺の人生観なんだ」。

【本音の信頼を目指せ】
 「ウソはつくな。すぐばれる。気の利いたことは云うな。後が続かなくなる。そして何より、自分の言葉でしゃべることだ」

 ある時、早坂秘書に対して次のように語っている。

 「若い君が本当に思っていることを話せばよい。借り物はダメだ。百姓を侮ってはいけない。小理屈で人間は動かないことを知れ」


【公と私情について】
 「私はかって他人の悪口を言ったことがあるか! 誰か私が一度でも他人の悪口を言っているのを聞いたことがるか!私は一度として他人の悪口を云ったことは無い。しかし、今日だけは口に出して云わずにおれないッ。(中略)政治家は51%は公に奉ずべきだ。私情というものは、49%にとどめておくのが政治家だ。自分の為だけにあらゆることをして、テンとして恥じることの無い者は、これは断固、排除せざるをえないッ。日本を誤らせるような行動は絶対に許せん。我々のグループだけは、このことだけは守ろうではないか!こうなれば、もはや個人の問題ではない。私もかっては、日本を代表する立場にあったんだ。が、疑いを受け、生命を絶たなければならないと思ったこともあった。しかし、生きながらえた以上、果たさなければならんこともある。また、迷惑をかけた諸君にも詫びなければならないが、いつかいったことは必ず果たしたいと思っている。全員当選してくるんだ!参院の連中にはできるだけのことはするッ−」。

【情報収集の大切さについて】
 角栄は、常日頃の情報収集の大事さを心得ていた。新聞代に対する次のようなコメントを残している。
 「決断力は、情報力によって支えられる。単なる直感だけでは、見通しを誤る。新聞代が月2、3千円というのは安い。あれだけの情報が詰まっているのだから、1万円でも安いものだ」

「末ついに海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり」(角栄が好んで色紙に書いた句)
「人生は間だよ。一本調子では何事もうまくいかない」
「私は越後の生まれです。頼まれればどこにでも米搗きに雇われ、出稼ぎに行く」。
「俺は節を曲げてまで出世しようとは思わない」。

「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人」

「念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い」
「父は政治は数だ、とはいってましたが、数は金だと申したことは一度もありません」(田中真紀子)
「ここまでは役人の作文。次からが私の言いたいことです」と云って人を笑わせた。
「人は実感したものを信用する」

【陳情政治について】
 田中角栄は、若いころはもちろん闇将軍となってからも、日に100件、およそ300人の陳情をさばいていたという。陳情について田中はある新聞でこう語っている。
 「必ず返事を出すんだ。結果が相手の希望通りでなくても『聞いてくれたんだ』となる。大切なことだよ」。
 「陳情は、現代の議会制民主主義制度下にあっては必要不可欠な主権者の権利行使ですよ。提言とも云うべきものじゃあねえですか。国民が、立法府、あるいは行政府に対して、社会生活上の様々な問題を持ち込むというのは、もっとも至極当然なことじゃあないんですか。マスコミは、癒着の温床だとか、賄賂だ、利権だとか云いますがねえ、何を云うか!だ。株主総会で、株主が意見するのと同じ! 取締役会に累積投票権を要求するのと同じなんだ! 選挙民だから、投票されたこちらとしてはね、請願、陳情は、いつでも聞く耳を持たなきゃなりませんよ。国民に取っても、それが憲法でちゃんと認められた大権なんだから」。

【角栄の経済合理主義について】
 角栄は、各社の望みをよく聞き、その実現に努めた。全員の希望通りにならなくても、ここはA社に泣いてもらい、B社にも我慢してもらい……ときて、最後のE社を決して切り捨てることがなかった。このことを角栄は次のように表現している。
 「子供が十人おるから羊かんを均等に切る、そんな杜会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。キミ、自由主義は別なんだよ。羊羮《ようかん》をちょんちょんと切って、いちばん小さい子に、いちばんでっかい羊羮をあげる。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きい奴には"少しぐらい我慢しろ"と言えるけどね、生まれて三、四歳のは納まらないよ。そうでしょう。……それが自由経済というものだ」 (「安広よしのり編著、『田中角栄・悪の語録』、1983年、日新報道刊」参照)

【角栄の金の使い方について】
 角栄は金の使い方について次のように指導している。
 「お前がこれから会う相手は、大半が善人だ。こういう連中が、一番つらい、切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取る、もらうときだ」(早坂茂三、「駕籠に乗る人・担ぐ人-自民党裏面史に学ぶ』、一九八八年、祥伝社刊)。
 概要「人がカネの無心をする時の心境にはとてもつらいものがある。100万円の金策を頼まれた時、この話を受けるのなら黙って300万円渡せ。「1・100万で借金を返せ、2・100万で家族や従業員にうまいものを食わせよ、3・100万は貯金しておけ、以上返却は一切無用」とのメモを入れておけ。こうされれば、相手は傷つかず、恩を一生忘れまい。この気配りと心遣いが肝要だ」。

【マスコミ論】
 
 「日本のマスコミは、司法、立法、行政の三権と並ぶ第四権力だ」。  


【福祉充実論】
 「日本列島改造論」の中で次のように述べている。
 概要「高度成長政策と福祉の充実を天秤にかけて「成長か福祉か」、「産業か国民生活か」という二者択一式の考え方は誤りである。福祉は天から降ってくるものではなく、日本人自身が自らのバイタリティーをもって経済を発展させ、その経済力によって築き上げるほかに必要な資金の出所は無いのである」。
 概要「過密と公害を克服し、住み良く豊かな社会をつくるためには、工業の再配置、過密都市の再開発、道路、下水道など社会資本の充実、公害絶滅技術の早期開発などが必要である。これらに要する莫大な資金は、低い経済成長のもとでは捻出できない。従って、適当に高い経済成長ができる体制を前提としない限り、日本経済が当面している多くの問題を解決することは困難である」。
 概要「日本経済の成長の可能性は『両刃の剣』であり、使い方によっては善ともなり、悪ともなる。このような富を何に、どのようにして使うかが、私たちに与えられている選択だと思う」、「今後は成長を追及するだけでなく、成長によって拡大した経済力を、国民の福祉や国家間の協調などに積極的に活用してゆくことが強く要請されている。私たちは、これまでの『成長追求型』の経済運営を止めて『成長活用型』の経済運営に切り替えるべき時を迎えている」。
 概要「国民に住み良く、生き甲斐のある日本を提供するために、社会資本の充実、社会保障の大幅な引き上げを急がなくてはならない。国民の教育、健康に対する配慮も肝要である。成長した経済力を積極的に活用してゆくことによってのみ、国民生活の向上と社会福祉の充実を図ることができるし、同時に新しい好循環の経済成長を達成する道も拓けてくるのである。『福祉が成長を生み、成長が福祉を約束する』という好循環が望ましい」。

【ロッキード裁判について】
 「なぜ見も知らぬ、コーチャンという男のために被告席に座らされ、何一つ抗弁を許されないまま、有罪判決を受けなければならなないのか」。

【ロッキード事件について】
 1983(昭和58)年、角栄は、柏崎市で支持者を前に次のように述べている。
 「ロッキード事件というトラバサミにかけられた。足をとられた方が悪いのか、トラバサミを仕掛けた方が悪いのか、それは後世の学者が判断するもの。私は断じて何もしておりません」。

【「田中首相が外人記者クラブで記者会見】

 1974.10.22日、田中首相は、東京外国特派員協会の外人記者クラブで記者会見した。会見直前、「文芸春秋11月号」の立花論文やその関連資料の英訳版が何者かによって特派員たちに配布され、会見のテーマは「金脈問題」に関する質問攻めの場になった。記者の質問は、「文芸春秋」記事に集中し、一種査問委員会のような雰囲気となった。

 この外国人記者クラブでの会見で、日本のメディアが一斉に動き出した。宮崎学氏の「民主主義の原価」には、「いわば外圧をきっかけに、日本のマスコミが一気に金脈報道に乗り出したのだ。R氏は、この記者会見を仲介したのは共同通信記者だったが、その記者はCIAのエージェントであったと話している」とある。 

 田中首相の予想を超える「査問会見」となり、しどろもどろの弁明となった。次のように述べている。

 「一言で言うと、私は経済界の出身であり、政治に支障のない限り経済活動をしてきた。記事で個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない。米国だけでなく、政治家が国民の支持と理解を得るためには、プライバシーの問題をある意味で制限されることは承知している」。

【「学生運動上がり」の登用考】

 角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。昭和38.12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。

 「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまが無かっただけだ」。
 「俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマも無い。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元「全共闘」闘士で、一転「田中イズム」のとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。


【フランスのル・モンド記者の証言】
 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。

 私を指差して話を続けた。「彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている」。ギランが「ウィ・ムッシュウ」と微笑み、私は仕方なく苦笑した。

【理想と現実の処世法】

 「頑固な私の総括」に次の逸話が披露されている。れんだいこ風に意訳して照会しておく。

 概要「角栄は、歌手・村田英雄の『やると思えば、どこまでやるさ、これが男の命じゃないか』で知られる人生劇場を好んだ。山下元利元防衛庁長官に『元、人生劇場をやろう』をよく歌わせた」。

【田中政治の無理について】
 「2チャンネル田中角栄bS」より転載する。
778 :名無しさん@3周年:2006/10/25
 ある日、ポツンと田中事務所に鳩山邦夫ひとりでいると、ふらりと首相の田中が入ってきた。 末席の私設秘書である鳩山は、官邸の主である田中とめったに会うことはなかった。 鳩山は驚いて椅子から立ち上がった。

 「まあまあ、いいから座んなさい。」

 田中はそう言うと、隣の椅子に腰をかけた。鳩山が、何事なのか緊張していると、田中がしみじみとした口調で言った。
 「いま、たしかに田中内閣の支持率は高い。 しかし、邦夫君、きみが本当に第一線で活躍するのは、二十一世紀になるかならないかのときだろうな。 そういう将来のことを考えれば、いまの田中政治というものを大いに勉強してほしいけれども、それを押しつけようとはまったく思わない。田中政治を継承しろとも思わない。時代は変わる。きみとおれとではタイプが違う。 したがって、田中政治の教師たる部分は、大いに吸収してもらいたいが、むしろ反面教師の部分もあるだろうから、それは批判精神をもっておれの政治を見ておってくれ。」

 田中はなかば眼を閉じ、天井を見上げた。
 「おれは、ここまでくるのに無理をした。 無理をしなければここまでこれなかった。 でも、きみは鳩山一郎さんの孫だ。 無理をする必要がない。 無理は、しなければ、しないほうがいいんだよ。 苦労というものは、いい部分もあるが、悪い部分もある。 苦労はしてもいいけど、無駄な苦労はしないほうがいいんだ。」

 田中はそう言うと、さっと事務所から出ていった。

【首相権限、首相能力について】
 自民党の加藤紘一元幹事長は、新著の「テロルの真犯人」(講談社)で、「言葉には、おそろしいほどその政治家の地金がでる」と述べ、大物政治家たちの印象的な一言をまとめている。その中に角栄語録が採り上げられている。1972.7月、田中が福田赳夫との激しい総裁選を制した直後の記者会見で、記者の一人が、「佐藤政権で幹事長などを務めたあなたは、佐藤栄作前総理とどこが違うのか」と質問した。田中は一瞬キッとなって次のように答えた。
 「いいですか、一軒の家でも財布が親父(おやじ)から息子に移ると、やり方も変わってくるんだよ」。

 民主党の藤井裕久前代表代行(元蔵相)は、田中政権の官房長官秘書官を務めていた時、田中が次のように述べたことを明らかにしている。

 「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったとき、怖いなあ。しかし、勉強してもらえばいいやな」。

 (「岩見隆夫の近聞遠見:角栄が残した『いいもの』」参照)





(私論.私見)