45223 健保問題解決


 1961(昭和)7.18日第二次池田内閣の政調会長に就任した角栄に待ち受けていたものは、日本医師会との折衝であった。当時武見太郎を会長とする日本医師会は全国7万人余りを抱える自民党の有力圧力団体であった。この8.1日を期して「医療費の値上げを認めなければ、健康保険の医者は、全部辞める」と政府・自民党に恫喝していた。灘尾弘吉厚生大臣はこれを認めず、かくて交渉は難航していた。この当時武見氏はケンカ太郎、武見天皇と云われるほどの、吉田茂元首相との姻戚関係もあって政治的影響力を持っていた。

 角栄が政調会長になってまだ半月ばかりの7.24日と25日の両日、角栄は御茶ノ水の医師会館を訪れ、武見氏と会見した。この時厚生省案を携えていったが「こんな古証文では話にならん。出直してもらいたい」と言い渡され、物別れとなった。期日の一日前の7.31日再び医師会館に乗り込んだ。角栄はこの時余人の真似できない芸当を演じている。白紙の下に「右により総辞退は行わない」と認(したた)めた白紙委任の便箋を渡し、「ここに思うとおりの要求を書き込んでください。但し、政治家にも分かるように書いてください」と内容一切を武見会長に下駄を預けた。武見は便箋を受け取り、「医療保険制度の抜本的改正」、「医学研究と教育の向上と、国民福祉の結合」、「医師と患者の人間関係に基づく自由の確保」、「自由経済社会における診療報酬制度の確立」という四原則と、「医療懇談会設置」という付帯事項を書き込んだ。この時の遣り取りを後に武見氏は次のように回想している。「田中さんは僕とずっと話し合ってきて『あいつならそう無理なことを云うまい』と信頼したのだろう。僕も田中さんを信頼できると思ったから具体的なことは書かなかった。相手の都合もあることだし抽象的に書こうと思った。信頼関係に基づいて文書を交換するときはああいう形でなければならない」(「実録・日本医師会」)。

 このメモを持って帰った角栄は、自民党幹部会を開き、池田首相、灘尾厚生大臣、党三役で白熱の議論を続けた。厚生省の役人の向上を受け継ぐ灘尾氏を漸く説き伏せ、議論を制した。改めて医師会館を訪れ武見に報告に出向いている。この時、武見は、角栄を評して「あいつは若いが、信頼できるよ。馬鹿の一つ覚えのようなやり方は、決してしない男だ」、「あいつは、どんな状況にも、戦法を変えて応じてくる。どんな相手に対しても、必ず自分の言うことを納得させるという、天分を持っているよ」と云ったと伝えられている。武見氏もまた傑物であることを思えば、その武見氏にここまで信頼された角栄の非凡さを認めるべきであろう。






(私論.私見)