西郷頼母史観考 幕末の研究

 (最新見直し2006.5.3日)

Re:れんだいこのカンテラ時評その167 れんだいこ 2006/05/04
 【西郷頼母史観考】

 「西郷頼母史観」の何たるかは「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」(http://www.daitouryu.com/syoudoukan/frame/f-aikiage.htm)に詳しい。ここでは、この流派の歴史観を学ぶこととする。

 もとより、れんだいこ史観と一致する箇所ばかりではない。食えないところも多いので、不一致のところを捨象し、れんだいこが理解できるところをサイトアップしておくことにする。れんだいこが理解できるところとは、妙に説得性の有るところという意味である。 

 「西郷派大東流合気武術総本部」は、ペリー黒船の来航より幕末維新への流れ、明治以降の流れに国際ユダヤの息づかいを認め、それに対抗する結社として大東流が創設されたとして、次のように延べている。


 概要「元会津藩家老の西郷頼母は、西欧列強の正体(国際ユダヤ金融資本の上に西欧の肉と皮を纏った西欧支配層)を見抜いていた。西洋と言う、欧米の実態が、実はヨーロッパやアメリカの骨格の上にユダヤと言う肉を纏ったものであるということを知っていた。だからこれに対峙し、牽制(けんせい)するためには『大東流』というものが表面に打ち出されていなければならず、この流名由来は『九州のスメラギ』と言われた菊池一族の『大いなる東(ひむがし)』であった。

 そして、欧米ユダヤ(国際ユダヤ金融資本)の『血のネットワーク』(欧米は同じ先祖から出て、血統のつづいている者、あるいは養親子を含める法定血族からなる血族結婚によってその血統を重んじる社会)に対峙(たいじ)して、西郷頼母の掲げたものは『大東流蜘蛛之巣伝』(だいとうりゅうくものすでん)という日本人の霊的神性を蘇らせる特異な『秘伝科学』だった」。
 
 れんだいこは、ネオ・シオニズムの世界支配構想の存在と動向につき太田龍史観にほぼ同様の見立てを学んでいるが、元会津藩家老西郷頼母は、幕末の只中の時点でかような認識を得ていたことになる。そしてそれを「西郷派大東流合気武術総本部」がインターネットで伝えていることになる。

 れんだいこの判ずるところ、事象の根本を射抜いており、古来より連綿と継承されてきた日本武術の眼力の確かさと頭脳を証しているように思われる。この眼力と頭脳は史上に誉れであり誇るべきものであろう。最近知るところとなったが、今からでも大いに学ぶべきであろう。

 以下、れんだいこ風に整理しつつ弁証してみたいと思う。個々の史実に関するところは、れんだいこの「幕末通史」に取り込み、幕末維新観につき注目させたい記述のくだりを採りあげることにする。

 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoryuaikidoco/top.htm

 それにしても歴史は深い。明治維新を問う講座派と労農派の論争など象の表皮を撫でる遣り取りに過ぎなかったとさえ思えてくる。この所感いかがなものだろうか。

 2006.5.3日 れんだいこ拝


【「西郷派大東流合気武術」とは】
 「西郷派大東流合気武術」とはどういうものかについて、次のように語られている。詳細は「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」で確認するとして、れんだいこが要点整理すると次のように概述できるようである。
 「西郷派大東流合気武術を創始した西郷頼母の一族系統は、その先祖が九州の菊池一族に始まる。菊池一族は菊池則隆(孝)を初代当主とする日本屈指の豪族で、歴史の中で極めて重要な位置に属した一族である。菊池氏は古代末から中世にかけて、肥後国菊池郡を本拠地として栄えてきた武当派の戦闘集団で、この一族の掲げるスローガンは、何時の時代も尊王主義に基づく『正義武断』であった。菊池則隆の祖父に当たる太宰府の長官であった権帥藤原隆家(979ー1044年)は、1019(寛仁3)年、沿海州辺境民の女真人による刀伊(刀夷)の賊が来冦し、壱岐・対馬、博多を襲い、掠奪と殺戮を繰り返して北九州にまで及んだ時、隆家は北部九州の豪族たちを指揮して、これを悉く撃退したという。その子孫が長距離遠征を繰り返して、中国四国地方、関東各地、更には東北に至り、会津に及んだ。ちなみに、幕末の英雄西郷隆盛が薩摩藩の藩命により大島に流された時、彼は菊池源吾と名を変えている。つまり薩摩西郷家も菊池一族の末裔である可能性がある。

 西郷氏(及び西の姓)は菊池家と親族関係にあり、他にも、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れを汲んでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つ。菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している。

 幕末時に会津藩国家老・西郷頼母近悳(ちかのり)が出現する。国家の大事の時、頼母は家老としての優れた見識を示し、屡々(しばしば)藩主に建議したが用いられず、刺客を差し向けられたり、栖雲亭(せいうんてい)に幽閉された事もある。幽閉の身となっても、天下国家を広い見地から観察する見識に長(た)けていた。

 西郷頼母は、密かに幕府の命を受け、「会津藩御留流」と称して伝来されていた古来よりの武術、武技(剣術、柔術、拳法、杖術、棒術、槍術、馬術、弓術、鉄扇術、古式泳法、居合術、躰術(体術)、骨法、白兵戦組討躰術等)を編纂し直し、西郷派大東流を創出した。その直接の意図は、幕末動乱に於ける幕府や皇族の要員を警護する事にあった。西郷頼母は、幕府の命を受け、江戸幕末期から明治初期に至って完成させた。

 但し、西郷派大東流を裏付ける伝書や記録等は一切なく、会津藩にもその痕跡は全く残っていない。全て秘密に古神道や密教の印伝形式をとり、そして門外不出の武技の研究が行われていたものと思われる。大東流は現代でも流派の人脈が複雑で、極めて系統的、及び修行法に謎が多い。

 西郷頼母は、会津戊辰戦争、函館戦争に幕府側で参戦し、戦争に明け暮れる日々を送った。函館戦争で敗れて後、館林藩(群馬県)お預かりとなり、そこで6カ月間幽閉生活を送る。後に釈放されて日光東照宮禰宜(ねぎ)を勤めた。最後は福島県霊山神社の宮司となる。この時に、頼母の編纂した武術は霊的な神技(天之御中主神を中心座に据えた、左右旋回の右旋回の神・高御産巣日神と、左旋回の神産巣日神の業)が加わり、これが『合気』となったとされている。

 西郷頼母の創始した西郷派大東流合気武術は、極秘の裡に養子の西郷四郎(旧姓志田四郎、頼母と骨格が似ているので実子かも知れない)に受け継がれていく。四郎は、柔道創始者の嘉納治五郎とも関係している。

 この頃、中国大陸では、孫文派の革命勢力が台頭していた。秘密結社「哥老会」(かろうかい)、「興中会」(こうちゅうかい、清末の1894年に孫文がハワイで広東出身の華僑を中心に組織した反満革命の秘密政治結社)、後に「華興会」、「光復会」が合同して起した中国同盟会(後の中国国民党の母体)が発足する。

 「興中会」勃興当時、日本人として孫文に惜しみない援助をしたのが梅屋庄吉(Mパティー商会で現在の日活の前身の社長)であった。梅屋は孫文の掲げる三民主義(民権・民生・民族)のスローガンである「自由・平等・博愛」(フリーメーソンのスローガン)に入れ上げ、彼の盟友となる。また梅屋とともに孫文に応援したのが、当時外務省の役人であった宮崎滔天(とうてん/名は虎蔵または寅蔵。熊本県生まれ)だった。宮崎は中国革命運動の援助者で、孫文と深く交わり、その革命運動を支援した人物である。

 西郷頼母は、中国大陸に於けるフリーメーソンの不穏な行動に気付き、孫文の掲げる革命(レボリューション/revolution)の地に養子四郎を新聞記者として差し向けた。目的は彼等革命勢力の実態を暴き、事態を正しく認識して有効な対処策を講ずるためであった。
西郷四郎は単独でこれを為したわけではなかった。頼母の「大東流蜘蛛之巣伝」(だいとうりゅうくものすでん)の情報網が働いていた。

【西郷頼母史観による幕末維新考】
 このような系譜を持つ「西郷派大東流合気武術」の創始者西郷頼母が捉えた歴史観に興味深いものが認められる。これを仮に「西郷頼母史観」と命名する。「西郷頼母史観」は、幕末情勢に於ける「フリーメーソンの眼、企図」について次のように述べている。「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」がこれを伝えているので、要点を確認する。
 「この時、日本攻略フリーメーソンは、イギリスを中心としたアングロサクソン・グループとフランスを中心としたラテン・グループに分かれていた。そして両者は地下脈路では完全に繋がっていた。西南雄藩が徳川幕府と対立し、これらが対決する時、西南雄藩にはイギリスが、そして幕府側にはフランスがついて軍事顧問となっていた」。
 「明治維新の幕開けは、ペリーの砲艦外交に始まり、孝明天皇崩御、大政奉還、明治維新、会津戊辰戦争と目紛しく時流が移り変わった。幕末に起こった倒幕運動は、反西欧的な徳川幕府を打倒させ、日本に、親欧米的な立憲君主国を建設するのが欧米列強の狙いであった。つまりこの狙いの意図は、ユダヤ地下政府(日本では「ユッタ衆」と言われた)を司令塔にして、明治維新即ち日本に於て神秘主義を推進し、これを基盤にしたフリーメーソン革命を日本で成功させる事が目的であった」。
 「一般には、明治維新がフリーメーソン革命であり、その背後に『弥次郎』(やじろう)という、影の総帥が居て、その配下にユッタ衆と言う穏微な集団が暗躍したという事が、あまり知られていない。日本においても、幕末以前からこうした組織が入り込んでいて、既に十六世紀には陰の易断政府というものがあり、ここに暗躍した結社員を『ユッタ衆』と呼んでいた。そしてこのユッタ衆は、幕末期、欧米のフリーメーソンと秘密提携し、この提携によって明治維新の構想が練られるのである。」。
 「明治という近代史の裏には、既に欧米に操られる火種が存在していたということになるのである。そして明治維新の構想プログラムは、その第一が、約265年程続いた反欧米的である徳川幕府を打倒して、親欧米的な立権君主制に基づく政府を樹立させることであった。これが尊王思想と結び付き、更には水戸学(江戸時代、水戸藩で興隆した学派で、特色ある学風を形成したのは寛政年間以降のことである。そして幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた)などが利用された」。

 「西郷頼母史観」は、幕末情勢を上述のように見立てている。この観点に照らせば、徳川幕府最後の将軍(十五代)徳川慶喜の徳川政権の引き際は、敵の策に乗ぜられず賢明に対処していたことになる。次のように述べている。
 「しかしイギリスとフランスの巧妙な仕掛けに気付いた人物がいた。それは徳川幕府最後の将軍(十五代)徳川慶喜だった。慶喜は、政権を捨ててまでフリーメーソンの仕掛ける内乱誘発陰謀に乗らぬよう自重する。大政奉還が行われたのは慶応3年10月14日(1867年11月9日)のことだった。翌年の2月12日、朝敵の汚名を着せられた慶喜は、江戸城を明け渡して上野寛永寺大慈院に移った。そしてそこで示した態度は、恭順謹慎であった。謹慎を貫いて、日本の内乱を防いだことになる」。
 「明治維新という革命は、紛れもなくイギリスとフランスのフリーメーソンによって仕掛けられたフリーメーソン革命であった。従って、そこには西欧の虎視眈々と漁夫の利を窺うワン・ワールド主義者達の意図が働いていた。そうした気配を敏感に感じ取っていたのが、慶喜だった。謹慎を貫き通し、貝の如く頑(かたくな)に口を閉ざしたままであった。万一、イギリスとフランスのフリーメーソンの画策に載せられて、西南雄藩軍と幕府軍が戦っていたらどうなったか。恐らく日本は分裂の危機を招いたであろう」。

 「西郷頼母史観」は、徳川慶喜の対応を上述のように見立てている。この観点に照らせば、その後の戊辰戦争には何としてでも内乱を誘発せしめようとしていたフリーメーソンの意図が働いていたことになる。次のように述べている。
 「こうした慶喜の謹慎の中で、翌年の4月11日、江戸城が開城した。西欧支配層は、日本分裂を目論んでいたが、幕府軍の呆気無さに、拍子抜けし、次に戦場の場を東北に移す事を企てる。これが戊辰戦争であった」。

 つまり、上野戦争、奥羽列藩同盟の動き、長岡藩国家老・河井継之助率いる長岡城攻防戦、会津戦争、函館五稜郭(ごりょうかく)戦争は、フリーメーソンの意図を知りつつ、その策に乗りつつ闘わざるを得ず、遂に散華した悲劇の歴史であったことになる。

 「西郷頼母史観」は、
水戸学について次のように述べている。
 「水戸学は江戸時代、水戸藩で興隆した学派である。国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とし、藩主徳川光圀(みつくに)の大日本史編纂(へんさん)に由来するが、特色ある学風を形成したのは寛政(1789〜1801)年間以降であり、尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。そしてこの運動は、瞬く間に全国に、尊王攘夷思想として飛び火する」。

【西郷頼母史観による明治政府考】
 「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、総纏めとして次のように述べている。
 「明治維新という革命事件は徳川十五代まで続いた将軍慶喜を追放することによって封建時代が終焉を向かえ、江戸幕府を瓦解に導くことによって、日本を近代国家に移行させたと一般には信じられている。この時、スローガンとして掲げられたものが大政奉還であり、王政復古であった。しかし結局はこの革命事件は神をも恐れぬ欧米に入れ挙げる唯物論者が仕掛けた事件であり、そのスローガンは有名無実に回帰した。唱えられたのは掛け声だけで、終わって見れば当時の事件を画策した権力者層の都合のいいように扱われ、仕立て上げられてしまったのである。そして権力者が自分の特権を更に不動のものにするために、西郷隆盛を追放して西南の役を画策する。

 そしてユッタ衆(影の易断政府)の総帥・弥次郎(やじろう)の指令に従い、坂本龍馬、伊藤博文、井上馨(かおる)、五代友厚、岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)、大隈重信(しげのぶ)、寺島宗則、森有礼(ありのり)、福沢諭吉、新渡戸稲造、西園寺公望(さいおんじきんもち)らが走狗となって奔走する。いつの時代も、有識者や進歩的文化人がこうした穏微な集団の手先となって走狗(そうく)する現実がある。

 この事実を、西郷頼母はしっかりと把握し、「欧米は騙す」という、白人主導型の骨子に、ユダヤと言う肉を纏った国家群であると言う事を見抜いいていたのである。頼母の目指すところは、歐米に喰われないための日本であり、彼等の圧力に対峙し、牽制して、是非がでも『大いなる東』の、菊池一族の大スローガンでなければならないと考え、これが大東流を名乗る根拠になっていたようである。

 この背後には欧米列強の帝国主義の陰が見隠れする。近代における帝国主義は、植民地主義であり、近代史は穏微な集団によって画策された、もう一つの歴史を持つ。幕末から明治にかけて、日本はこうした穏微な集団に画策され、内戦状態となり、コ国内二分化の危機にあった。ところがこうした現実を即座に見抜いたのは、徳川十五代将軍慶喜であり、また会津藩では西郷頼母であった。西郷頼母の『大東流蜘蛛之巣伝』はこうした時代を背景に誕生する」。

【ユッタ衆について】
 「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、「ユッタ衆」について次のように解析している。れんだいこにとって「ユッタ衆」というのは初めて聞く言葉であり首肯し難いが、暫し沈思黙考するに値する内容なのでれんだいこ風に分かりやすく意訳して愚考する。

 概要「明治維新を陰で操ったユッタ衆とは何者か。ユッタ衆とは弥次郎集団とも云われるが、ユダ者が訛った語源であり、ユダ衆と置き換えられてもいいものである。大衆からはヤジロベイ(=弥次郎兵衛)と称されて、親しみとも、愚直ともとれぬ呼び名で呼ばれていた。日本では、戦国時代にイエズス会系キリスト教を始発として種々のカトリック教派が外来してきたが、彼らはこの時同時に上陸したと考えられる。今風に云うならばネオ・シオニズムの使徒である。

 戦国時代が終焉(しゅうえん)を告げ、徳川家康によって日本が統一されると、徳川幕府は直ちに鎖国を敷き、キリスト教その背後のネオ・シオニズムは禁教された。これにより、ユッタ衆達は地下に潜った。そして、陰の易断(えきだん)政府を形成する事になる。キリスト教の布教(カトリシズム工作)を仮想したネオ・シオニストによる易断政府を形成した。そして徳川幕藩体制が揺らぐまで逼塞することになる。

 ペリーの黒船砲艦外交がユッタ衆復権の合図となった。この穏微な集団は、背後に巨大な経済力を持ち、幕末期に多くの志士達を洗脳して、日本を縦横に駆け巡った。「ユッタ衆」は、明治維新の志士達の裏方として実質的な活動を行っていくことになった。

 ユッタ衆、幕末維新の過程で、まず西南雄藩に取り憑いた。これに関わるのは、グラバーに代表されるフリーメーソンであり、これに内応したのが薩摩の小松帯刀(こまつたてわき/島津久光の側役として藩政に参与。のち京都にあって大政奉還に尽力、薩長同盟を結んだ)、公家の岩倉具視、長州の木戸孝允、伊藤博文、井上馨、土佐の坂本龍馬、政商・五代友厚、その他明治政府下で頭角を現した森有礼、寺島宗則、西園寺公望、福沢諭吉らである。当時の開国派有識者や文化人は殆どこれに被れている」。
 
 これ以降については稿を改める。

【西郷頼母・四郎親子の眼力と奔走について】
 西郷派大東流合気武道の開祖西郷頼母・四郎親子の眼力を確認しておく。次のように述べられている。
 「西郷頼母・四郎親子が徹底的な毛唐(欧米人)嫌いであったのは、日本が真の独立国家としての国体を失い、日本古来から連綿として続いた秩序は旧来の陋習と受け止められ、一方的に欧米従属主義を押し進める、欧米推進派の自由主義・功利主義を危惧したからであった。薩長こそ、国を誤る奸臣(かんしん)だとしたのである。そしてその背後に薩長を操るユッタ衆の存在に気付いたのであった。そしてこれ等の背後にはもっと大きな、日本の神秘主義をすっぽり包含する、ユダヤ地下政府のプロ活動家の姿が、波の狭間から見え隠れしていたのである。西郷頼母は、これを即座に捕えたのだった。」。
 「会津戊辰戦争で敗れて以来、頼母の怒りの眼は、明治新政府を横領したこれ等の藩閥政治首謀者に向けられる事になる。事あるごとにその反撃の機会を窺(うかが)っていたが、明治10年の西南戦争が蜂起した際、頼母は薩摩西郷軍に軍資金を送って、これを援助している。会津藩を考えた場合、これは戊辰戦争の恨みに逆行する事であるが、会津という一藩を超えて考えた場合、大局的には頼母の考え方の方が、欧米列強を相手にしてその深層部に鎮座する、列強の奥の院に対峙する思想であった。頼母は、真当の敵が誰であるかを知っていたのである。西南の役後、西欧追随政策をとり、西欧的植民地主義を模倣して、日本は帝国主義路線を直走る事になる」。

【西郷頼母史観による近代革命、マルクス主義運動について】
 西郷頼母史観による近代革命、マルクス主義運動について、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。興味深いので採録しておく。

 「19世紀初頭、世界を戦争の渦中に巻き込んだ植民地主義、並びに帝国主義は、資本主義を継続するための、一種の詭弁(きべん)であり、また資本主義に対抗して生まれた社会主義や共産主義は、まぎれもない虚構理論であった。

 世界は疑いようもなく、18世紀頃から、ある種の意図をもって、凡(おおよ)その一つの流脈をもった人工的な意図に導かれて動かされるようになった。つまり、歴史はまさしく、特定の目的をもち、特定の意図をもって、穏微な集団によって動かされているという事である。

 アメリカ合衆国建国(アメリカ革命戦争)も、フランス革命も、第一次世界大戦も、ロシア革命も、総べて、ある特定の目的と意をもって画策されたものである。その意味で、近代史は一つの方向性をもった、特定の目的と意図によって動かされ来たと言っても過言ではない。そしてあらゆる民族や国家を包含する世界人類は、最終ゴールに向かって動いているのである。

 もしこうした政治体制が完成すれば、もはや国家と言う意識はなくなるのである。これが国際主義(インターナショナリズム)であり、民族は融合され、争いがなくなり、価値観の総ては統一される事になる。

 この魁(さきがけ)として、十九世紀初頭に登場したのが社会主義並びに共産主義(社会主義を方便として起用し、その完成された形が共産主義)であった。しかしこの虚構理論は、ソビエト崩壊と言う終焉(しゅうえん)によって奇(く)しくも潰えた。そして近年に新たな産声を上げたのがワン・ワールドであり、国際主義と言われるものである。

 この国際主義は、統一の宗教、統一の言語、統一の通貨、統一の価値観によって、地球を一つの国家とみなすもので、世界は一つの覇権巨大勢力によって運営ならびに融合するというものである。

 その為に、大衆を進歩的文化人の権威で洗脳し、工作し、家畜化もしくは動物化して、思想的価値観を根底から覆して、覇権的巨大国家体制に吸収しようとするものなのである。そして今、世界は、紛れもなく白人主導型の、グローバリズムの政治システムによって運営されているのである。

 その運営の根底には、西欧と言うユダヤの骨格に、肉を纏った思考が、その根底にあり、その走狗は欧米ではフリーメーソンであり、日本国内ではユッタ衆と言われる穏微な集団が、一般大衆を装って走狗となっているのである。

 また、この穏微な集団は、進歩的文化人と言われる有識者層のコントロールを、実に上手にやる技術を持っている。その最たるものが、ダーウィンの進化論であり、この進化論は、思想的な洗脳を行う事を第一の目的にした策略である。しかし大衆の多くは、その隠れた部分に真摯(しんし)に目を向けようとしない。誰もが安易に進化論を受け入れているのである」。




(私論.私見)