人民公社運動

 文化大革命解析中)

 (最新見直し2006.7.20日)

【スターリン批判に対する中共の総括】

 1956.2.24日、フルシチョフは第20回党大会でスターリンの誤りを激しく批判した(いわゆるフルシチョフ秘密報告)。この時、人民日報は政治局会議を開いて対応を協議し、「プロレタリア独裁の歴史的経験について」(56.4.5日)、「再びプロレタリア独裁の歴史的経験について」(56.12.29日)を書いて、スターリンの誤りを個人崇拝の問題としてとらえ、次のように分析した。

 概要「スターリンは誤って自己の役割を不適当な地位にまで誇張し、彼個人の権力を集団指導と対立する地位に置いた。一方では人民大衆が歴史の創造者であること、党は大衆と永遠に結合すべきこと、党内民主主義を発展させるためには、自己批判と下から上への批判を発展させるべきことを認めたが、他方、個人崇拝を受容し奨励し、個人専断を実行した」、「党と国家の民主集中制を徹底的に遵守し、大衆に真剣に依拠しさえすれば、全国的な長期の、重大な誤りは避けることができる」。 

【毛沢東指示による反右派闘争の呼びかけ】

 毛沢東はスターリンが1930年代に「反革命の粛清」を拡大してしまった誤りから教訓を学ぼうとした。

 1957.2.27日、毛沢東は「敵・味方」の二元論を止揚するために、「人民内部の矛盾」という考え方を提起した(講演「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」)。

 1957年春、毛沢東は知識人階級に対し、自由に共産党批判をするよう求めた。「百花斉放」政策である。しかし毛沢東は同時に「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)と言う秘密発言もしていた。前年の秋、ハンガリー暴動が起こり、中国でも知識人たちが同様な穏健・自由主義路線を望んでいることが分かっていたので、毛沢東が先手で罠を仕掛けた、とみなされている。

 半年後の6.19日に講演内容が公表されたときには、すでに反右派闘争が始まっていた。「百花斉放、百家争鳴」の自由化路線は「反右派闘争」へ暗転していた。そこで当時の政治的雰囲気に合わせ、「修正主義反対」や「プロレタリア階級とブルジョア階級のイデオロギー面での闘争は長期の、曲折した、時には激烈なものでさえある」との文言を挿入し、「階級闘争は基本的に収束した」という一句に「革命期の大規模な嵐のような、大衆的な」という形容句を付加した。

 皮肉なことに、毛沢東が講話で「嵐のような階級闘争は収束した」と語った直後に中国で嵐が発生し、彼は講話の修正を迫られることになった。このとき、毛沢東は、「百花斉放は毒草を発見するための手段であった」と弁解し、また陰謀ではなくて「陽謀」であるとも説明した。共産党に対する予想外の不満が噴出し、毛沢東ら指導部は驚愕した。彼らは直ちに反撃に転じたが、今日では「反右派闘争の拡大化」の誤りが反省されている。あれほどの「階級闘争」が必要であったのかどうか疑問視されている。というのは反右派闘争以後、知識人は口を閉ざすようになり、党の欠点を批判しなくなった。「言う者に罪なし」と約束しておいて、「(右派分子には)“言う者に罪なし”は適用されない」とまるでペテン師のような言いわけをして、「右派分子」をデッチ上げたのであった(反右派闘争の被害者はおよそ20万人に上る。ほとんどがケ小平時代初期に、胡耀邦によって名誉回復された)(文化大革命参照)。


 地球史探訪:中国の失われた20年(上)〜2千万人餓死への『大躍進』」参照」は次のように記している。
 小説「ワイルド・スワン」の作者ユン・チアンの母は、当時四川省成都東城区の宣伝部長をしていた。1957年6月に「 『右派分子』が共産党と中国の社会主義を傍若無人に攻撃した。右派は知識人全体の1%から10%ほどにあたり、これらの者たちを粉砕しなければならない」と云う毛沢東の講話が伝わってきた。この命令を実行するために、毛沢東のあげた数字の中間をとって、5%の知識人を右派として告発することになった。この「割り当て」を満たすためには、ユンの母は自分の監督下にある組織から、合計100人の右派を告発しなければならなかった。

 ある部下は、国民党将校だった夫を内戦で亡くした小学校教師で、「今の中国は昔より貧しくなった」と発言した女性を見つけ出してきた。しかし、こうして頑張っても10人足らずにしかならない。上司は、「右派分子を見つけ出せないのは、君自身が右傾化している証拠だ」と脅した。ユンの母は、自分が右派のレッテルを貼られて夫や子供たちの将来を犠牲にするのか、自分と家族を守るために、100人以上の無実の人を犠牲にするのか、二律背反の窮地に陥った。

 しかし危機一髪の所で、窮地から救われた。担当地域にある師範学校で、学生130人が奨学金増額を求めてデモを行い、上司がこれらの学生全員を右派として告発し、なんとか、割当てを満たせたのである。学生たちは、工場や農村で肉体労働をさせられるか、強制労働収容所に送られる。しかし、これは「大躍進」「文化大革命」と20年も続く苦難のほんの始まりに過ぎなかった。

 57年から58年にかけての右派闘争で、全国で55万人以上が右派とされた。北京大学では、700人が「右派分子」のレッテルを貼られ、800人が何らかの処分を受けた。これは学生・教員総数の20%にあたる。無事だった知識人たちも、これ以降、表立って政治的発言はしなくなる。

 アメリカの中国史研究の権威フェアバンク教授の評価はこうである。国家建設と経済発展の両方に鍛えられた知性が欠かせなかった。「原理主義」のために中国の知識人エリートのそんなにも多くの人々を退けてしまったことは愚かなことであり、大きな被害をもたらすことであった。この「大きな被害」について、教授は次のように述べている。1958年から1960年に、中国共産党が強要した政策のために約2千〜3千万の人々が栄養失調と飢餓で命を失った。・・これは人類の災害の最大級のものの一つであった。その原因は完全に毛主席に帰すべきである。

【ロシア革命40周年式典でのフルシチョフと毛沢東のアメリカ、イギリスを追い越せ宣言】
 1957.11月、ロシア革命40周年式典がモスクワで開かれた。ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの生産高の面でアメリカを上回るだろう、と宣言した。この式典に参加していた毛沢東は、各国の指導者を前にして、「中国は15年以内にイギリスに追いつく」と宣言した。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。「わが国は今年520万トンの粗鋼を生産できる。5年後には1000〜1500万トンとなろう。さらに5年後には3500〜4000万トンとなる。こうして15年後にはイギリスに追いつき、追い越すことができる」と彼は説いた。毛沢東にとって、粗鋼の生産量が近代化の基準なのであった。

【「人民公社」政策】

 訪ソから帰国した毛沢東は、1958年初めから大車輪で活動を始めた。毛沢東にとって人民公社はいわば「共産主義の夢」なのであった。毛沢東がその夢にかけていたことは、成都会議以後一連の会議における毛沢東の活動を見れば、推測がつく。

 1958.1月、杭州会議で「工作方法60カ条」構想を語り、南寧会議(1958.1.11〜22日、九省二市党委員会書記会議)で大躍進を呼びかけ、「六〇カ条草案」を起草した。

 続く成都会議(1958.3.9〜26日、政治局拡大会議)で、社会主義建設の一連の問題を検討し、「地方工業の問題」など37の文件を採択している。この会議で毛沢東は、「フアイトを燃やし、高きを目指し、より多く、早く、立派に、ムダなく」社会主義建設を行う総路線を提起した。

 第8回党大会二次会議(1958.5.5〜23日)では、工農業同時並進、中央地方工業の同時並進、大型企業中小型企業の同時並進からなる社会主義建設の総路線を決定している。こうした流れのなかで北戴河会議(1958.8.17〜30日)が開かれ、人民公社設立と、1070万トンの鉄作り(57年の生産量を58年だけで倍増させようとするもの)が決定されたのであった。毛沢東はこの間、一貫して陣頭指揮を行った。

 1958年初夏、毛沢東は農業合作社の合併問題、農業集団化問題を研究していた。55年以来の農業集団化運動のなかで成立した農業合作社をさらに飛躍的に発展させるために、「工、農、商、学、兵」を含む「大公社」に組織し、それを「社会の基本単位」にしようとする構想がひらめいた。新組織には「大公社」あるいは「人民公社」の名が浮かんだ。ちなみにパリ・コミューンは中国語では「巴黎公社」と訳されている。公社はコミューンの意味である。ただし、毛沢東の場合には「兵」すなわち民兵の役割が大きく、人民皆兵によるゲリラ戦争のための根拠地コミューンの色彩が濃厚である。

 1958.8.17日から30日まで、夏の避暑地北戴河で政治局拡大会議が開かれた。毛沢東はこの会議で人民公社の夢を語り、「人民公社設立についての決議」が採択された。「工、農、商、学、兵の結合した人民公社の樹立は、社会主義建設を速め、しだいに共産主義に移行するうえでとるべき基本方針である」「一般には一郷を一つの人民公社とし、規模は約2000戸が適当である」とされた。この決議が発表されるや、11月初めまでの約3カ月間で全国農村に人民公社化が実現し、従来の74万の農業合作社は2万6000の人民公社に改組された。人民公社加入農家は1億2000万戸に上った。

 人民公社は「共産主義への移行を目指す基礎組織」であり、行政権力と農業合作社が合体された組織(原文=政社合一)であるとされた。そこでは「生産と生活と政権」の管理が目指された。人民公社では集団労働、そして「労働点数制」による収穫の分配が全面的に行われた。生活の場では「公共食堂」が設けられた。農民は家庭での個別的な食事をやめて公共食堂で食事をとり、婦人はカマドから解放され、農場や水利工事に動員された。政権としての人民公社は、学校や養老院を経営するだけでなく、民兵による武装の任務をも担おうとしていた。

 人民公社の成立はあまりにも準備不足であったために、極左偏向の誤りが少なからず見られた。第一は規模の問題である。いくつかの郷を一つの人民公社にし、戸数6千、7千という大公社さえ現れ、なかには県レベルを単位とする「連社」を提唱する動きさえあった。第二に、公有化の程度である。貧しい生産隊と豊かな生産隊の所得を公社レベルで平均分配する偏向、公共蓄積の名において、過大な無償労働を強要すること、生産隊や農民の財産を無償で公社の所有に帰することなど、が広範に行われた。こうした偏向を批判する言葉が一に平均主義、二に徴発主義(原文=一平二調)である。また私有制の残滓の一掃という名目で、自留地が集団所有制に移され、家庭副業が禁じられ、自由市場も閉鎖された。

 この決議が発表されると、一一月初めまでの約三カ月間で、全国農村の七四万の農業合作社は、二・六万の人民公社に改組された。農家の圧倒的多数が人民公社に参加し、その数は一・二億戸にたっした。当時は下からの盛りあがり、熱狂的な大衆運動が喧伝されたが、のちにこれは単に人民公社の看板をかかげたたぐいや、農民の意志を無視して農村の幹部が誇大報告する例がすくなくないことが明らかになった。

人民公社数2.6万という数字は何を意味しているか。中国は約五万の郷=行政村からなっているから、一時は二つの行政村を合わせた戸数6千、7千からなる大人民公社がモデルとされたことがわかる。

 しかし、これでは規模が大きすぎて管理ができない。いきおい管理不在の無責任体制とならざるをえなかった。また人民公社設立にさいして、旧生産隊や農民の財産を無償で公社所有に帰するなど、私有制の残滓の一掃という名目で農民の利益を侵害する例がしばしばみられた。

 第一に規模を大きく、第二に私有制を公有制に(原文=一大二公)が人民公社の理念を象徴していたが、これこそが農業における社会主義の道と考えられたからである。人民公社化によって大衆の生産への意欲が高まり、生産の大躍進がもたらされたと喧伝されたが、その大部分は誇大報告(原文=虚報)であり、実際にはそんなに豊作ではなった。

 食糧生産量が一挙に倍増したという報告を聞いた毛沢東が豚の餌にしても余ってしまうと、その処理方法に頭を悩ましたという挿話がある。誇大報告ではないかと県の幹部が現地調査にいくと、現場では隣村から食糧をはこんで実物をみせたり、あるいは倉庫の見える部分にだけ本物をおいて、見えないところは藁でごまかしたという話もある。

 目標がいつのまにか実績にスリ変わり、またその数字も釣り落とした魚のように、どんどん大きくなった。現場の幹部たちと上級の幹部たちがたがいに自分の業績を飾るために水増し数字を創作していく過程は、落語の花見酒に酔ったかのごとくである。上は毛沢東から下は農民にいたるまで共産主義社会実現の夢と現実を混同していたといえる。

 人民公社設立と同時に、全国で1070万トンの鉄つくりのために約9000万人が動員された。粗鋼生産量でイギリスにおいつくスローガンのもとで、土法製鉄(近代的製鉄に対する伝統的製鉄方法)の大衆運動がおこなわれた。しかし、そこで生産された鉄は、大部分が品質がわるくて使いものにならず、壮大な損失がもたらされた。

 3カ月足らずで全中国に人民公社を作るという、ケタ外れに熱狂的な大衆運動のなかで「極左偏向」は免れなかった。人民公社化運動も、鉄つくり運動も大失敗におわり、1959〜61年は食糧危機におちいり、1000〜2000万人の餓死者さえ出た。毛沢東の指導の失敗が明らかになりつつあった。


【全人民製鉄・製鋼運動の顛末】
 毛沢東は1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1070万トンにするよう命じた。ここから全人民製鉄・製鋼運動が展開されることになった。しかし本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も、時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国
に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを命じた。


 無駄になったのは、膨大な労働力だけではない。土法炉の燃料として、大量の石炭が使われた。そのために、逆に正規の製鉄所が燃料不足に陥り、操業停止に追い込まれる所が出てきた。さらに石炭を買えない農民は、樹木を伐採して、薪とした。全人民製鉄・製鋼運動はたちまち、全人民樹木伐採運動へと一変した。この環境破壊は、数十年後にも続く悪影響を残す。

 20余年後の1980年に、解放軍の李貞将軍が故郷の湖西省に戻ると、村人たちは貧窮のどん底にあえいでおり、将軍に訴えた。昔、裏山には、数人がかりでも抱えきれないほどの大きな樹木が数え切れないほど生い茂っていました。・・・でも大製鉄・製鋼運動以後には、すべて切り倒されてしまいました。山はハゲ山になり、土地もやせてしまいました。一度大雨が降れば土砂が田畑に流れ込み、肥えた土地も荒れ地になってしまいました。これでどうして豊かになることができるでしょうか。[3,p51]

 また、かまどを作るには、レンガが必要だ。そのために古代からの城壁を破壊して、そのレンガが用いられた。前漢時代に国都長安を守る東の関門として、2千年の歴史を持つ河南省の函谷関の2層の楼閣、甘粛省威武県の唐代からの城壁など、いくつもの由緒ある建造物がこうして破壊された。[3,p46]

■6.保身のために、誰も真実を語れない■

 毛沢東の一言で、なぜ全人民がこれほど、愚かな運動に全力をあげて取り組んだのか? 共産党の幹部たちは、鉄鋼生産のノルマを課され、毎日生産高を報告することが求められた。上級幹部の関心は、毛沢東の命じた「1070万トン」という数字のみであった。その鉄を使うあてがあるわけでもなく、品質もどうでも良い。当然、下からの報告は水増しされる。

 水増し報告に反対した良心的な幹部は、統計局長を含め、「右派」のレッテルを貼られ、労働改造所か、牢獄に送り込まれていた。残る党幹部、官僚も、専門技術者たちも、この運動がいかに人民を苦しめ、経済発展を阻害しているか、分かってはいても、保身のためには、口を閉ざすしかなかったのである。[3,p88]

■7.人民公社で奇跡的な増産!?■

 鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であった人民公社による農村の共産化が進められた。「共産主義は天国だ。人民公社はその掛け橋だ。」というスローガンが、1958年以降、中国全土に響き渡った。

 2千から2万戸を一つの単位として、人民公社を作り、その中では、人々は田畑や森林、家畜、農機具などすべての私有財産を提供し、共有化する。自宅での食事は禁止され、農民は農作業が終わると、公共食堂で食事をとる。収穫はすべて国のものとされるので、誰も農作業の能率など気にしない。農村にも鉄鋼生産のノルマがあるので、農耕作業は二の次にされた。そして食べたいだけ食べるので、食料備蓄はまたたく間に底をついた。

 人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始める。ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100kg)程度しか小麦がとれなかったのに、2105斤もの増産に成功した、とのニュースを人民日報で流した。毛沢東が提唱した畑に隙間なくびっしりと作物を植える「密植」により、出来高が10倍にもなったというのである。

 すると、他の公社も負けじと、水稲7000斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6956斤というニュースが報道された時、人民日報は四人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。

 これらは完全なでっちあげであった。農民に徹夜作業で何畝かの田畑の稲や麦を1畝に移し変えさせたものだ。しかしこれだけ密植すると、風が通らず、蒸れてすぐに作物がだめになってしまうので、農民は四六時中、風を送っていなければならなかった。

 出来高の水増し報告により、上納すべき量も増やされ、農民たち自身の食料がさらに減らされた。こうして、農民たちの製鉄運動への駆り立て、人民公社化による効率低下、さらに上納分の増加により、食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲った。

■8.子供たちがどんどん飢えて死んでいる■

 ユン・チアンも、小さな饅頭をかじりながら学校へと歩いていく途中、パンツ一枚で痩せこけた少年から、饅頭を奪われた体験をしている。ユンの父母は共産党幹部で、食事には困らなかったが、父から「おまえは、幸せなんだよ。お前と同じ位の子供たちが、どんどん飢えて死んでいるんだ。」と聞かされた。

 ユンの家のお手伝い・華嬢嬢(ホア・ニャン・ニャン)の家は革命前に地主だったせいで、食糧配給リストの最下位に置かれていた。ある日、華嬢嬢の老母が訪ねてきて、ユンの母の顔を見るなり、ぺたんとすわり、額を床に打ちつけて言った。「あなた様は娘の命の恩人でございます。」老母は華嬢嬢の父親と弟が亡くなったことを伝えに来たのだった。華嬢嬢が生きていられるのは、まったくユンの家にいられるお蔭だというのである。

 さらに一ヵ月後、その母親自身が亡くなったという知らせが来た。華嬢嬢がテラスの柱に寄りかかるようにして、ハンカチを口に押し当てて、声を殺して泣いていた、その嗚咽を忘れることはできないと、ユンは述べている。[1,p86]

■9.彭徳懐元帥の涙■

 高級幹部の中には、保身のためにこうした事態を見て見ぬふりをする人ばかりではなかった。国防部部長だった彭徳懐元帥は、貧しい農民の出身で、その苦しみは人ごとではなかった。元帥が、58年末、まだ飢饉の初期の段階に郷里の湖南省湘譚県を訪れると、一人の老人が「天帝(毛沢東)に農民のひでえ暮らしを訴えて、何とかしてもらってくだせえ」と、ひざまづこうとした。

 彭徳懐ははらはらと涙を流しながら、言った。「あなたは私の郷里の長老なのに、こんなみじめな暮らしをしている。ひざまづいて詫びねばならないのは私の方だ。」[3,p157]

 彭徳懐は毛沢東に婉曲に事態を訴える手紙を出した。毛沢東は彭の手紙を印刷して、党首脳部に回覧し、その反応を見た。これも、「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)の戦術である。

 彭徳懐は最近、フルシチョフと会談をしていたことから、今回の毛沢東批判は、ソ連と内通しているからではないか、と林彪が毛沢東の指示を受けて糾弾した。彭徳懐に同調した者たちも、「反党集団」「右翼日和見主義者」などとレッテルを貼られて、次々と失脚し、自宅に軟禁されたり、自殺した。

■10.餓死者2〜3千万人■

 幹部の粛清の後、59年には毛沢東はさらに大々的な反右傾運動を展開した。農民や人民公社の幹部・役人で、少しでも政策に不平不満をもらすものは、どしどし摘発された。その総数は中国全土で1000万人にのぼったとケ小平は述べている。[1,p209]

 彭徳懐の批判に耳を貸さず、引き続き鉄鋼増産や人民公社化を強行した結果、60年、61年にはさらにひどい飢饉が全土を襲った。

 中国全土での餓死者は、2〜3千万人と言われている。55年から58年までの平均人口増加率2.29%を適用すると、61年末の人口は7億632万人になるはずなのに、実際にはそれより4,638万人少なかった。このうち、飢饉による出生率低下が2,128万人あり、これを引くと、2,510万人が餓死で失われたと推定される。毛沢東の「大躍進」政策によって、中国人民は近代史上、最大規模の大量餓死に駆られたのであった。[3,p251]

 このような事態の深刻さは、地方からの水増しされた食糧増産報告のため、首脳部には届かなかった。60年にも、270万トンの食料が無理やり徴発され、輸出に回されていた。これは3千万人が半年間食いつなぐのに十分な量だった。[3,p263]

 61年初めには、毛沢東も「大躍進」政策を続けることができなくなり、劉少奇やトウ小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるようになった。トウ小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」とは、「国民を食わせる」という事なのである。

 実務派の市場主義的舵取りにより、2年ほどで中国経済はふたたび好調に動き始めた。しかし、一時後退した毛沢東は、権力奪還を狙って、逆襲に出る。中国人民の前には「文化大革命」という次の悲劇が待ち受けていた。

【毛沢東、国家主席を劉少奇にゆずる】
 毛沢東は1959.4月の全国人民代表大会で、大躍進政策の失策の責任をとるため国家主席を劉少奇にゆずり、第一線をしりぞく。第一線をしりぞいた毛沢東にかわって、党中央の日常工作をすすめたのは、劉少奇国家主席、ケ小平総書記である。彼らのすすめる調整政策のなかで、毛沢東路線への批判はしだいに強まってきた。

【廬山会議と国防部長彭徳懐の失脚】

 こうした状況下で江西省廬山で会議が開かれることになった。廬山会議とは、1959.7.2〜8.1日の政治局拡大会議と、8.2〜8.16日の8期8中全会からなる45日間の大会議を云う。当初大躍進運動の行き過ぎを是正することが目的であったが、毛沢東が繰り出してくることになった。毛沢東は前半の政治局拡大会議の冒頭で、「成績は偉大、問題は少なからず、前途は光明なり」の三句で総括し、会議で討論すべき課題として、情勢、1959年の任務、1960年の任務など、先に文書にまとめておいた19の問題を列挙して講話を行った。

 この講話のあと、会議はグループ討論に移った。国防部長・彭徳懐は西北小組の討論に参加した。7.10日、毛沢東は「情勢と任務について──廬山会議議定記録(修正草案)」を配付し、討論をよびかけていた。彭徳懐は7.13日朝、小組会議の模様および自らの見解を毛沢東に報告しようと出かけたが、ボディガードから「主席はいましがた就寝されたばかりだ」と伝えられ、安眠を妨げてはならないと思い直し、私信を差し出すことになった。

 彭徳懐が大躍進に対して疑問を抱くようになったのは次の通り。最初に疑問を抱いたのは、1958.12月のことである。当時彼は故郷の湘潭県烏石やかってゲリラを戦った平江などを訪れ、農民の直訴に衝撃を受けたのであった。食糧不足のもとでムリな集団労働を幹部が強要するために、子宮下垂や月経停止などの婦人病が少なくなかった。また鍋や鉄器を破壊して製鉄原料として供出する例、家屋や樹木を破壊して製鉄の燃料とするなど、行き過ぎた大衆運動の欠点を目のあたりにしたのであった。しかし、彼は当時は疑問を抱きつつも、1959.4月のチベット反乱対策、その後の東欧訪問などに忙殺され、他方では毛沢東による政策の手直しに期待をつないでいたのであった。

 さて1959.5月彭徳懐は東欧各国を訪問し、6月中旬に北京に帰った(アルバニアの首都チラナでフルシチョフと会っている)。帰国翌日、留守を預かる黄克誠(総参謀長)に国内情勢を聞くと、山東省の食糧不足は出国当時よりは改善されている。甘粛省は食糧余剰の省と報告されてきたが、いまや厳しい不足である。しかし輸送力が欠如しており、食糧を運べない。海軍も重慶まで食糧輸送に動員され、空軍も動員されている。これ以上に軍を動員することは「備戦」の建前からして不可能である。そのうえ、いまやガソリンの備蓄にも問題が出てきた、という惨憺たるありさまである。

 彭徳懐は東欧旅行の長旅のため、疲労しており、廬山会議への出席を黄克誠に代わってもらおうとしたが、黄克誠の勧めでやはり重い腰を上げたのであった。廬山に着くと、周小舟(湖南省第一書記)が訪ねてきた。周小舟によると、昨1958年の食糧増産数字は誇大報告だという。上級が圧力をかけるので、下層の地方幹部が「虚報」(誇大報告)を行ったのだと彼が説明してくれた(たとえば『中国報道写真展』陝西日報社編、1989年、113頁に大躍進期の三葉のフェーク写真がある。「子供が乗っても倒れない稲穂」の偽造された写真などである)。周小舟はさらに「いまは公共食堂なので、大釜飯であり、薪も労働力も節約せず、浪費している。そのうえ、公共食堂制度は家庭で茶を飲むにも不便なので、大衆は食堂に対して大きな不満をもっている」と訴えた。張聞天(外交部副部長)とは廬山で宿舎が隣だったので、散歩のときにいろいろ意見を交換した。

 彭徳懐が「土法製鉄〔近代的方法によるものではなく、鍛冶屋による製鉄〕は得あり、失ありだ」と述べたのに対して、張聞天は現実はもっとひどい、「あなたの評価は甘すぎるほどだ」とたしなめた(『彭徳懐元帥豊碑永存』)。こうした経緯を経て、彭徳懐は7.13日夜、3000字余りの私信を書いて、翌7.14日朝に毛沢東のもとに届けた。

 その内容を知りたいが公開されているように思えない。推測するのに、重工業本意の政策批判と、科学技術導入に対する党幹部の無知指導を批判していたのではないかと思われる。

 さて、毛沢東宛て「私信」(意見書)を書いて、毛沢東の提唱する人民公社の欠陥を批判する等問題提起した国防部長彭徳懐はどのように遇されることになったか。

 「野人」彭徳懐が、廬山会議で「野人」毛沢東と激突した。李鋭(元毛沢東秘書)は、彭徳懐の剛毅な性格をこう評している。彭徳懐総司令は「山野の人」であり、終始「ゲリラ作風」を保持しており、「毛沢東万歳」を唱えず、「東方紅」を歌わず、「主席」とよばなかった。李鋭の証言は彭徳懐の性格をよくつかんでいる。

 毛沢東の権威は45年におこなわれた7回大会前後から大いに高まり、かつての同志たちに君臨するようになった。ここで党文書のなかに初めて「毛沢東思想」の五文字が書きこまれた。しかしひとり彭徳懐だけはかつての「ゲリラ仲間毛沢東」としてつきあっていた。彭徳懐はまた自分を『三国志』の豪傑、粗野な張飛になぞらえている。

 もっとも彭徳懐の野性を口にするなら、毛沢東も似たようなものと李鋭は書いているところがおもしろい。毛沢東は寝巻を着てベッドに横になったまま客と話をすることが珍しくなかったし、またフルシチョフをむかえたときはプールサイドで会談した。寝巻のまま来客をむかえた毛沢東のイメージは、足を洗いながら儒者をむかえた劉邦を想起させる。

 もう一つ、品の悪さを象徴する例がある。彭徳懐は廬山会議で激昂して、「お前は俺の母親と40日強姦したのだから、俺がお前の母親と20日強姦してなぜ悪いのか」(原文=ニイ操了我四十天娘、我操ニイ二十天娘不行?)とどなった。この言葉をそっくりつかって毛沢東は彭徳懐を反批判している。ここで20日間というのは、1940.8〜12月のいわゆる百団大戦作戦の欠点をかって毛沢東批判したことを踏まえている。

 野人同士の激突にさいして、スマートな周恩来はいかに身を処したのか。彭徳懐が「私信」を出した直後、李鋭が夜のダンスパーティの機会に周恩来の顔色をうかがったところ、「あれはどうということないよ」と語り、大躍進の結果について異論が出るのは当然という態度だった。

 この彭徳懐私信に対する毛沢東の扱いは異様であった。毛沢東は、周恩来の予想に反して、この私信に「意見書」の表題を付して印刷させ、会議用資料として配付した。そして意見書は「右傾日和見主義の反党綱領」だと厳しく批判し、「廬山で出現した闘争は、階級闘争であり、過去10年の社会主義革命の過程におけるブルジョア階級とプロレタリア階級という敵対する階級の生死をかけた闘争の継続である」と論断していた。

 毛沢東は、「私信」を厳しく斥ける大演説をおこなった。彭徳懐を弾劾するこの演説のなかで、毛沢東は周恩来にこう言及している。「総理よ、あなたはあの時は反冒進の立場だったが、今回は腰がふらついておらず、意気ごみが強い。あのときの教訓を学んだ。あのとき周恩来、陳雲を批判した者が今回は逆の立場に立った」。ここには廬山会議における周恩来の立場がよく出ている。「あの教訓」とは、毛沢東の冒進に反対した周恩来が逆に批判され、以後毛沢東に追随したことを指している。もはや周恩来は毛沢東に対して異議を申し立てることができなくなっており、毛沢東にとり込まれている。

 毛沢東が同志彭徳懐の意見書を敵による人民公社の攻撃であるかのごとく扱ったのはなぜか。二つの理由が考えられる。一つは、毛沢東にとって人民公社はいわば「共産主義の夢」なのであった。その人民公社運動に彭徳懐の手紙が冷水を浴びせたことである。これにより毛沢東はむしろ、この機会をとらえて、彭徳懐を日和見主義者の代表に仕立て上げ、反面教師として利用しようとしていった。

 もう一つの理由は、彭徳懐がチラナでフルシチョフと会ったことである。国防部長彭徳懐が「中ソ蜜月」時に同盟国のリーダーに会ったところで、何の不思議もない。しかし、毛沢東はこのとき、「社会主義への中国の道」を提起することによって、共産主義世界におけるフルシチョフの権威に挑戦しようとしていた。社会主義建設の総路線、とりわけ人民公社はその有力な武器なのであった。彭徳懐が人民公社にクレームをつけたとき、毛沢東は彭徳懐の背後にフルシチョフの顔を見たはずである。むろん彭徳懐がフルシチョフと組んで、毛沢東打倒を考えたなどというのは、憶測も甚だしい。

 事の成り行きに驚いたのは、むしろ彭徳懐の方である。しかし、現実は彭徳懐失脚となった。彭徳懐失脚後、
軍部の実権は、林彪の手に渡る事になる。これが後の「文革」の伏線となる点で、「彭徳懐失脚」の重みには大きいものがある。

 彭徳懐は国防部長解任後、毛沢東を訪ねて、@・私はいかなる情況下でも反革命はやらない、A・いかなる情況下でも自殺しない(自殺は処分に対する「抵抗」の意思表示と受け取られる)、B・今後は生産労働を行い、自力で生活する、の「3カ条の誓約」をしている。彭徳懐から見たボス毛沢東とのつきあい方がよく分かるであろう。

 後日談。毛沢東は解任6年後の1965.9.23日、彭徳懐と会って、「3カ条の誓約」を聞かされ、こう答えている。「後の二カ条は私はまだ覚えている。〔廬山会議の論争において〕真理はあなたの側に在ったかもしれぬ」と。つまり、ここで毛沢東は彭徳懐の意見書の正しさを事実上認め、にもかかわらず彼を処分してしまった自己の誤りを示唆しているわけである。しかし、毛沢東は彭徳懐にシャッポを脱いだわけではない。総路線は基本的に断固として擁護さるべきものである。誤りは部分的なものにすぎないというのが、毛沢東の確信なのであった。これが人民公社問題をめぐる毛沢東と彭徳懐の対決物語である(蘇暁康ほか「ユートピア祭:1959年廬山の夏」『華人世界』1989年1期は、興味深いノンフィクションである)。


 劉少奇も同じ運命を辿る。劉少奇は、食糧危機、経済危機に陥った際に、経済再建の第一線で陣頭指揮していた。ここで劉少奇は自由化政策を打ち出すが、毛沢東はこれを「修正主義をもたらした」との理由で批判する。

 中国は地大物博、すなわち国土が広く、資源にも恵まれている。南と北、東と西では、きわめて大きな違いがある。だから、南北や東西で対立するのは、容易に理解できることである。興味深いことは、毛沢東、彭徳懐、劉少奇の三者三様の観点の違いである。毛沢東も彭徳懐も劉少奇も、湖南省のほとんど同じ地域の人民公社を実際に現地調査している。ほとんど同じ(場合によっては全く同じ)人民公社を視察して、一方は人民公社が成功したといい、他方は失敗したとする、全く逆の結論を導くことになったのはなぜか。文革のナゾの核心の一つはおそらくこの辺にある。毛沢東が大躍進期に彭徳懐を追放したのはなぜか。文革期に劉少奇を追放したのはなぜか。


【彭徳懐の述懐】

 廬山会議で外交部副部長を解任された張聞天は、当時こう感想をもらした。毛沢東はたいへん英明だが、粛清もひどい。スターリンの晩年と同じだ。彼は中国史から少なからず良いものを学んだが、支配階級の権謀術策も学んでいる。

 これに対して彭徳懐は当時こう述懐した。毛沢東はスターリンの晩年とは異なる。毛沢東は社会主義社会の矛盾を二種類、すなわち人民内部の矛盾と敵味方の矛盾にわけた。スターリンは敵味方の矛盾という概念を否定しておりながら、実際には人民内部の矛盾にすぎないものを敵味方の矛盾にしてしまった。毛沢東は中国史に精通しており、いかなる同志も及ばない。毛沢東は皇帝とは本質的に異なる。

 彭徳懐はこのように、毛沢東=スターリン論をしりぞけている。ただし毛沢東への不満をこう述べた。主席は自分で誤りを犯しながらそれを認めず、自己批判せず、逆に他人を責めている。革命と建設の勝利によって頭脳が幻惑され、傲慢になった。

 これは彭徳懐が廬山会議で衝突した前後の印象であるにすぎない。彭徳懐はその後文化大革命で辛酸をなめ、ついに惨死した。死への旅路において、彭徳懐がそれでも「毛沢東はスターリンの晩年と異なる」と 信じていたかどうかは疑わしい。


【周恩来の立ち回り】

 こうした微妙な立場のなかで、周恩来は一歩退いて、いつものように会議の舞台つくりのために小まめに働いた。毛沢東演説をうけて彭徳懐弾劾に会議の基調が変化するなかで、7.26日、周恩来は長い演説をした。会議のメモをとった李鋭はこう証言している。総理は管理人(原文=当家人)であり、廬山では終始、実務的であった。彼には北京からやってきた幹部たちの心理がわかっていた。気がかりなのは今年の生産指標をどう設定し、達成するかであった。彼は心配でならぬおもむきであった。言葉の端々に内心の矛盾があらわれていた。

 批判がエスカレートし、事柄から個人に及ぶに際して、周恩来は一方では主席の指示と意図に従いつつ、他方で工作の正常な進行を保証しようとしていた。巨大な嵐の到来を感じつつ、皆に工作をしっかりやらせようとしていた。

 8.2日、中央委員全体会議がひらかれることになり、前夜に周恩来は会議の趣旨を説明した。彭徳懐、張聞天の意見書は、右翼日和見主義が党中央、毛主席に進攻したものである、と。この認識は毛沢東の危機意識をそのまま敷衍したものである。周恩来をはじめとして、劉少奇、その他の指導者たちは毛沢東の独走に掣肘を加えることに失敗した。

 李鋭は後日、周恩来の述懐を紹介している。彭徳懐とともに処分された黄克誠(総参謀長)がもっと早く廬山に来ていれば、毛沢東との激突は避けられたであろうという仮定である。黄克誠は富田事件のさいにAB団(アンチ・ボルシェビキ団、すなわち反革命組織)と誤認されて、危うく毛沢東の部隊によって粛清されそうになったところを、彭徳懐に助けられた経歴をもつ。そこで物事の処理にたいへん慎重になった。だから、かりに彼が周辺にいたならば、彭徳懐に思いとどまるよう説得したに違いない。

 実に深刻な歴史の皮肉である。一つは周恩来が毛沢東の酷薄な性格を最初に感じたのは富田事件の調査を通じてであり、そこから逆に黄克誠の人柄を知った。もう一つは、東欧からの旅行疲れで気の進まぬ彭徳懐に「やはり会議には私ではなく、国防部長(彭徳懐)が参加されるのがよい」と進言したのがほかならぬ黄克誠であったからだ。こうした偶然の積みかさねのなかで、廬山会議の前半を通じて、大躍進の行きすぎの是正に力をいれていた毛沢東が意見書を契機として、行きすぎをさらに拡大する方向へ政治のドラマが転回した。

 大躍進、人民公社運動は、毛沢東晩年の「空想的社会主義」の実践であったと李鋭は総括している。彭徳懐や張聞天は、総路線自体が誤りだと認識していた。毛沢東は彭徳懐の後ろにフルシチョフの影を発見し、ソ連修正主義の使者と錯覚したのであろう。

 フルシチョフは一方で平和共存政策をすすめ、他方で中国の人民公社政策を「空想的」ときびしく批判していた。毛沢東はフルシチョフのこのような態度はアメリカ帝国主義に屈伏し、修正主義者に転落したことをしめすと受けとめた。ここから中ソ対立は一挙にすすみ、六〇年夏のソ連の援助引き揚げまでエスカレートしている。

 こうした文脈のなかで、毛沢東には盟友彭徳懐の率直な意見でさえも、素直にうけいれることができなかった。こうして廬山会議の結果を総括するなかで、内外の修正主義という観念にとりつかれた毛沢東は、これを過渡期の階級闘争として理論化し、文化大革命という実践に乗り出した。


【毛沢東第一線を退き、劉少奇が国家主席になる】

 1959.2月の第二次鄭州会議で「三級所有制、隊を基礎とする」方針が決定された。ここでいう「隊」とは、生産大隊であり、人民公社レベルでのドンブリ勘定をやめて、旧生産大隊レベル(200〜300戸からなる。旧高級農業合作社に相当する)に下ろしたのであった。

 1961.9月の毛沢東の「党内通信」以後、「三級所有制、隊を基礎とする」方針の「隊」が生産大隊ではなく、「生産隊」(20〜30戸からなる。旧初級農業合作社に相当する)を指すようになった。こうして、1958年の大躍進は人民公社という形は残ったものの、1959年初めにすでに手直しが始まり、1961年秋の時点では経済計算の単位(原文=基本核算単位)に関するかぎり、1955年段階にまで後戻りしていたことになる。

 劉少奇、Deng Xiaoping ら第一線の指導者たちは、毛沢東が第二線に退いた後を襲って、指導部の全面に立って、1961.1月、「調整、強化、充実、向上」の政策を掲げたのを皮切りに、大躍進の失敗をつくろう仕事に全力を挙げていた。

 
1962.1月中共中央は工作会議(7千人大会)をひらき、大躍進政策の責任問題を論じた。毛沢東は、中央が犯した誤りは、直接的には私の責任であるし、間接的にも相応の責任があると自己批判した。しかし、彭徳懐の名誉回復、すなわち彭徳懐批判の撤回には同意しなかった。

 この時毛沢東は、「社会主義建設において経験が不足していた」と自己批判するとともに、「このような混乱がもたらされた原因が民主主義の不足にある」として、民主主義の発揚を呼びかけている。
中国では民衆の不満に耳をかたむけ政策に反映させることによってスターリンの誤りをくりかえすことを避けたいとの考えから、「百花斉放、百家争鳴」の方針を提起して、共産党や政府に対する不満を率直に述べることを呼びかけた。ところがそこで出てきた不満は毛沢東の予想をはるかに超えたきびしいものであり、なかには共産党が権力の座から下りることを要求するものさえあった。

 他方、劉少奇は経済困難は「三分が天災、七分が人災である」、「人民公社はやらない方がよかった」、「彭徳懐同志の意見書は、やはり事実に合致していた」(「7000人大会における講話」『選集(下)』)などと述べた。Deng Xiaoping は「党内闘争に偏向が生じ、一部の幹部を誤って処分した」と反省した。

 劉少奇、ケ小平を中心に「調整政策」が打ち出されたが、これが国内経済の再建に大きく貢献し、その結果毛沢東の権威に大きく傷つけることになった。

 こうした流れに驚いた毛沢東は、これらの批判は同志的な意見ではなく、敵側の批判であるとして、批判者たちを「ブルジョア右派」と断定し、弾圧の対象にふくめていくことになった。


【人民公社の整頓運動(「整風整社」)】

 毛沢東は人民公社の設立に共産主義への夢を託したが、矛盾に気づかなかったわけではない。早くも1958年末から人民公社の整頓運動(「整風整社」)に取り組んでいる。整頓運動はつぎの三つの段階に分けられる。

 第一段階。1958年末の八期六中全会から1959.7、8月の廬山会議まで。

 この段階の整頓運動は平均主義、徴発主義、「共産風」によってもたらされた経済的混乱を是正することに重点が置かれた。幹部の作風や階級闘争の問題にも目が向けられたが、地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子と同列視されることはなかった。

 第二段階。1959年の廬山会議から1960年冬の「12カ条緊急指示」通達まで。この段階になると、整風整社運動は右傾日和見主義運動反対と同時に行われ、人民公社の基層幹部の問題と社会的な階級闘争とが結びつけて扱われるようになった。

 基層幹部の官僚主義をあばくだけでなく、幹部の「組織不純」問題に注意が向けられ、農村基層政権には反革命分子、富農分子、悪質分子が少なくない、それゆえにこそ一部の生産隊は貧困隊になったのだと認識されるようになった。こうして人民公社(生産大隊、生産隊)を三種類に分類し、三類の人民公社の幹部は政治的に信用できないとした。しかし、この段階では運動の中心は平均主義、徴発主義是正という経済闘争に置かれていたために、基層幹部問題での極左的政策はまだ登場しなかった。

 第三段階。1960.11月の「緊急指示12カ条」から1963.2月の中央工作会議まで。

 人民公社整頓運動の中心が経済から政治に移り、基層幹部と基層政権に対する懐疑が深まり、「奪権闘争」が提起され始めた。単幹風批判と奪権闘争が結びつけて論じられ、人民公社整頓運動は政治運動化した。

 人民公社という農業組織の矛盾が噴出し、混乱が表面化してきた時期。

 韶山冲の龍盤山と虎踞山に抱かれた中腹に、「滴水洞」と名付けられた毛沢東の別荘が建設されたのは一九六二〜六四年である。この滴水洞にはその後、第三次世界大戦に備えて山腹をくりぬいて核シェルターまで付設された。

 第三次5カ年計画(1963〜67年)。


【中央工作会議(7千人集会)
 1962.1.11〜2.07まで中共中央拡大工作会議 (七千人大会)が開かれ 、その名の通り、党幹部、地方幹部など7千名が参加した。会議の内容は、大躍進運動以来の総括、国民経済回復への基調を定めた。劉少奇が党を代表して大躍進運動の総括を行い、党の失敗を認め党中央の責任問題を提起した。毛沢東も失敗を認める発言を行っている。

 こうして毛・劉少奇らが大躍進政策を自己批判し、調整政策が打ち出される大会となった。調整政策とは、家庭を単位とする生産請負制や個人経営の導入、自由市場の解禁を云う。毛沢東は、次のようにも警告している。
 「修正主義が我々を覆そうとしている。それと闘わなければ、十数年から数十年のうちに中国は変色するかも知れない」。

 6.16日、彭徳懐が「八万言書」を提出。

【ケ小平が「白猫黒猫論」をぶつ】
 ケ小平が、共産主義青年団の全国会議出席者との会見の場で、「白猫黒猫論」をぶった。
 「劉伯承同志は『黄色い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ』という四川の言葉をよく話した。戦争の話で、蒋介石に勝つには、形式に捉われず、状況に応じた戦法が必要ということだ。現在の農業生産回復も同様だ」。

【毛沢東の反撃】

 大躍進や人民公社路線の失敗は明らかであった。毛沢東の指導権は大きくゆらいだ。こうした潮流を毛沢東は逆流と認識した。そして1962.9月、社会主義にも階級と階級闘争があることを忘れてはならないとする「継続革命論」を提起し、「絶対に階級闘争を忘れるな」と訴え、大躍進や人民公社を批判する同志を階級闘争の対象と考えるようになった。もはやスターリンの粛清の誤りという教訓は忘れられ、スターリンの階級闘争激化論と類似した社会主義社会における階級闘争論が主張されるようになった。つまり、1956年にスターリンの誤りを批判した毛沢東は、1962年には早くもスターリンの誤りを繰り返し始めたことになる。

 1962.9月、8期10中全会を機に、毛沢東が反撃に転じた。自己批判から半年後のことである。生産手段の所有制を社会主義的に改造したあとでも、政治上、思想上の闘争はつづく。イデオロギー面での影響は長期にわたる、と述べた。毛沢東は社会主義か、資本主義かという二つの道の闘争こそが重要だとこれを前面に押し出した。毛沢東によれば、問題は個々の政策にではなく、路線にあった。そこから間違った路線の担い手である実権派を打倒しなければならないという考え方が出てくる。打倒対象が登場したからには、いよいよ文化大革命である。


【「社会主義教育運動」】

 1963年以降毛沢東は、「農村での四清運動(労働点数、帳簿、倉庫、財産を再点検する)、都市での五反運動(汚職・盗み、投機、浪費、分散主義、官僚主義に反対する運動)」を展開する。1965.1月、毛沢東の主張に沿い、「四清」の中身が政治、経済、組織、思想を清める運動に改められ、劉少奇やケ小平ら「資本主義を歩む実権派」をターゲットにする運動となった。

 1963.5月の杭州会議から文革の開始まで3年にわたって「社会主義教育運動」が行われた。これも三つの段階に分けられる。

 第一段階は、1963.8月から1964.5月までの時期である。党中央は二つの重要会議を開いて、この問題を討論した。1963.5.2日〜12日、毛沢東は杭州で一部の政治局委員と大行政区書記(当時全中国を六つの行政区=協作区に分けていた)の参加する小型会議を開いた。この会議で「当面の農村工作における若干の問題についての決定(草案)」(いわゆる「前十条」)が採択され、社会主義教育運動の綱領的文件とされた。

 このなかで先鋭な階級闘争の状況が9カ条にわたって列挙され、こう断言された。「一部の人民公社、生産大隊の指導権は、実際には彼らの手中にある。その他の機関の一部の環節にも彼らの代理人がいる」。また「前十条」には毛沢東のつぎのコメントが引用された。「(階級闘争をつかまなければ)地主、富農、反革命分子、悪質分子、妖怪変化が一斉に飛び出してこよう。多くの者は敵見方の区別がつかず、敵に腐蝕させられ、瓦解させられ、引きずりだされ、殴りこまれる」「少なければ数年、十数年、長くとも数十年のうちに不可避的に全国的な反革命復活が行われ、マルクス・レーニン主義の党は必ず修正主義の党に変質し、全中国が変色してしまうだろう」(この一句は「九評」にも引用された)。

 まもなく党中央は9.5〜27日、北京で中央工作会議を開いた。会議は「農村の社会主義教育運動における若干の具体的政策についての決定」(「後十条」)を採択し、「前十条」の補充とした。

 たとえば「前十条」は「95%以上の幹部と団結し、95%以上の大衆と団結することが前提条件である」としていたが、この点について「後十条」は「誤りを犯した幹部に対しては教育を主とし懲罰を輔とする。(資本主義)復活を行う階級敵とぼんやりして敵に利用された後れた大衆とは区別する。投機活動と正当な自由市場活動は区別する」など政策の境界を明らかにしている。ここで注目すべきことは、この段階では社会主義教育運動はまだ試点を選んでの試行にとどまっていたことである。

 第二段階は、1964.5月から1964年末までの時期である。この段階で運動は試点の段階から全国的に拡大され、矛先は主として幹部と党内に向けられるようになった。1964.5.15〜6.17日、党中央は北京で工作会議を開いて、「中華人民共和国貧農下層中農協会組織条例(草案)」を採択した。毛沢東はこの会議で6.16日に「農村と都市の約三分の一の権力はわれわれの手ではなく、敵の手に握られている」と述べて、中央にも修正主義が現れると危惧し、もし現れたら抵抗しなければならないと問題を提起した。劉少奇は一年来の運動が浸透しない原因は上層幹部が下を庇っているからだとし、農村革命の「妥協風」を批判し、大衆を発動して奪権闘争を行う必要があると述べた。

 1964.8月下旬、劉少奇は各中央局第一書記を集めた会議で「後十条」を修正した。これに毛沢東が朱筆を加える過程で、階級敵は「反革命の両面政権を樹立しようとしている」など状況認識はますます激しくなり、「今回の運動は土地改革よりも広範で深刻な大衆運動である」とされるに至った。

 9.18日、「後十条」の修正草案が下達され、「すべての運動は工作隊の指導により」「大兵団作戦」によって行われることになった。すなわち各省では地区レベルを単位として工作隊を重点県に集中し、上下左右から同時に点検を行うわけである。

 毛沢東が奪権闘争を提起すれば、下からはこれに呼応する動きが出てくる。6.23日に党中央は甘粛省党委員会の「白銀有色金属公司の指導権奪還についての報告」を通達したが、そこには白銀公司が地主ブルジョア階級グループの統治する独立王国になり、社会主義所有制はブルジョア所有制に変質していたと書かれていた。この事件では数百名の幹部と大衆が冤罪に連座した。

 天津市南郊外の小站地区では三つの党支部が反革命集団とされ、250余人がメンバーにデッチあげられ、残酷な闘争にかけられたが、陳伯達が捏造したものとされている。

 10.24日、党中央は「社会主義教育運動の奪権闘争の問題についての指示」を発出し、敵に指導権を簒奪されたところ、堕落変質分子が指導権を握っているところでは「奪権闘争を行うべし」と指示した。11.12日、党中央は「問題の重大な地区で貧農下層中農協会が権力を行使することについての批示」を発出し、さらに翌11.13日には「農村の社会主義教育運動の工作団の指導権限についての規定(草案)」を通知している。工作団の所在している県では、県党委員会および県人民政府は工作団党委員会の指導に従い、県内の各公社もその指導に従うべきものと決めたものである。これ以後、工作団による奪権闘争が運動の主な内容となった。

 毛沢東は12.5日、あるコメント(瀋陽冶煉工場での謝富治の蹲点報告に対する批示)のなかで「われわれの工業は経営管理の面で結局どれほど資本主義化しているのであろうか。三分の一か、二分の一か、それとももっと多いのか。一つ一つ調査し改造して初めて分かる」と書いている。12.12日には「官僚主義者階級」の語を用いている(洛陽トラクター工場での蹲点報告を書いた陳正人に対する批示)。

 社会主義教育運動はどの程度の規模で行われたのか。工業面では1964.5月の中央工作会議以後、各級党委員会が13万人の工作隊を組織して1800余の企業で四清運動を行い、運動参加者は職員労働者の3.9%に達した。農村では全国三分の一の県で行われ、200万人の幹部がこの運動に参加した。 

 第三段階は、1965.1月から1966年前半までの時期である。
1964.12.15日から1965.1.14日まで政治局の全国工作会議が開かれ、「農村の社会主義教育運動のなかでいま提起されている若干の問題」(「23カ条」)が採択された。「この運動の重点は党内のあの資本主義の道を歩む実権派をたたくことにある」という規定はこれに書き込まれた(魏維鈞論文『党史研究』1984.6期)。

 こうして、人民公社の整頓を行う過程で、「修正主義者による指導権の奪権」という観念が生まれ、マルクス主義による再奪権の闘争が構想されていった。






(私論.私見)


農家生産量リンク生産責任請負制請負制の発展形

 農家生産量リンク生産責任請負制とは、農地の所有保持者である集団から、その構成員である農家が、一定の請負料を集団に納入することを条件に、一定面積の農地を請け負う方式である。所有権はあくまで集団にあり、農家は使用収益権が与えられるのみである。わかりやすく言えば農家(個人)が、集団から土地を借りて、行う請負制農業のことである。