四人組イデオロギー考 |
文化大革命四人組(ぶんかだいかくめいよにんぐみ、文革四人組、文革カルテット)は中国の文化大革命後半において主導的な役割を担った江青、張春橋、姚文元、王洪文ら 4人の政治局員。
プロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧したが、毛沢東の死後失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。
1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青(中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張し、1971年9月の林彪墜死以降中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。1973年8月の10全大会では 4人全員が中央政治局員となり、この時から局内に四人組が成立する。
四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に周恩来を批判する批林批孔運動や、復活していたケ小平の打倒へと続いたが、毛沢東は1974年7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文がケ小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。
1976年1月の周恩来の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、ケ小平を再度の失脚へ追い込んだ。続く1976年9月9日の毛沢東の死去で、四人組はその象徴を失ったにも関らず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようとしたが、政権は華国鋒に引き継がれている。人民軍元帥で反文革派の葉剣英から支持を受けた華国鋒らと文革堅持を主張する四人組の対立は毛の死直後から急激に表面化し、上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。
四人組は1977年7月の10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の11全大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。
1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。1981年に下された判決で江青と張春橋には死刑(後に無期懲役に、張春橋については更に懲役18年に減刑)、姚文元には懲役20年、王洪文には無期懲役が宣告されている。
姚文元(ようぶんげん、簡体字表記:姚文元、ピンイン:Yao Wenyuan 1932年〜2005年12月23日)は中国の政治家、四人組の一人。浙江省出身。父は中国の作家・翻訳家の姚蓬子。
1948年に中国共産党に入党。上海の党地区委員会で宣伝工作に携わる。1955年に胡風を批判した『分清是非、?清界限』を発表し張春橋の注目を浴びる。その評論活動から1950年代中ごろまでに毛沢東の知遇を得た。
1965年11月10日の「文匯報」に『評新編歴史劇「海瑞罷官」』(新編歴史劇『海瑞の免官』を評す)を発表。翌1966年5月10日の「文匯報」「解放日報」にも『評「三家村」──「燕山夜話」「三家村札記」的反動本質』(『三家村』を評す──「燕山夜話」「三家村札記」の反動的本質)を発表し、文化大革命の発端を開いた。これを契機に「解放日報」編集委員・党上海市委員会宣伝部長と出世し中央文革小組の一員にまでなった。その後も党上海市委員会第二書記・党政治局委員を歴任し、文化大革命をイデオロギー面から支えた。
1976年10月に他の四人組と共に隔離審査され、1981年1月に最高人民法院特別法廷で、懲役20年・政治権利剥奪5年の判決を受けた。1996年に出所。 2005年12月23日に74歳で死去した。
どうもお世話様です。少しばかり落ち着きました。
今回はひさびさに本の紹介をば…。
同書は、私の大好きな古本屋の100円均一コーナーで買いました。当時は50円だったそうです。薄いパンフです。出しているのは北京の外文出版社です。発行は1967年。文革まっさかりです。
姚文元という人は、文革で活躍した文芸評論家さんです。「四人組」の一人でもあります。そおゆうおひとが書いたもんですんで、当然、めがねっ娘の江青同志を賛美するコンテンツもたっぷりとございます。
この「四人組」てえのがどんな方々かというのは、2ちゃんねる世界史板で拾った、下記文書の通りです。
313 :世界@名無史さん :02/07/16 14:28URL
国務院で鳴らした俺達四人組は、濡れ衣を着せられ党中央に逮捕されたが、
刑務所を脱出し地下にもぐった。
しかし、地下でくすぶっているような俺達じゃあない。
党古参幹部を追放するためなら何でもやってのける命知らず、
不可能を可能にし修正主義の黒い路線を粉砕する、
俺達、文革野郎四人組!
私はリーダー江青。通称「毛沢東の妻」
クサイ演技と迫害の名人。
私のようなメガネっ娘でなければ、
百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらないわ。
俺は王洪文。通称「党副主席」
自慢の鋭い舌鋒に、紅衛兵はみんなイチコロさ。
ハッタリかまして、内乱罪から外患誘致罪まで、何でもそろえてみせるぜ。
よおお待ちどう。俺様こそ張春橋。通称「副首相」
マルクス主義の改竄論文は天下一品!
嘘つき? 死刑? だから何。
姚文元。通称「党政治局員」
ブルジョア文芸批判の天才だ。劉少奇でもブン殴ってみせらぁ。
でも華国峰だけはかんべんな。
俺達は、ブルジョア階級司令部にあえて挑戦する。
頼りになる神出鬼没の、文革野郎 四人組!
人民裁判を開きたいときは、いつでも言ってくれ。
プロレタリア文化大革命の奔流が、大会の怒涛のように、暗く無気味な毒蛇の穴にはげしく押し寄せた。
ズシン! 反革命修正主義分子が長期にわたって盤踞していた旧中央宣伝部の伏魔殿はくずれさった。
●姚文元 ようぶんげん
アジア 中華人民共和国 AD1931 中華民国
1931〜 浙江省生まれ。1948年入党。1950年「文芸報」の通信員となり,文革開始前まで上海市作家協会理事。上海「萠芽」誌編集委員,「解放日報」主筆。マルクス主義関係の評論で名を上げる。1965年11月『新編歴史劇「海瑞免官」を評す』を上海「文芸報」に発表,文革の火ぶたを切り,1966年8月中央文革小組に加わり文芸工作を統括。1967年1月の上海奪権闘争に参画,上海市革命委員会副主任,市海市委第二書記に抜てきされた。論文『陶鋳の二冊の本を評す』『労働者階級がすべてを導かなければならない』などを発表,文革理論を宣伝,1969年中国共産党第9回全国代表大会で党中央政治局委員。1975年論文「林彪反党集団の社会的基礎について」を発表した。1976年10月6日“四人組”の一員として逮捕された。1981年の特別法廷では〈宣伝・世論機関を直接支配し,長期にわたって反革命の宣伝・扇動を行った〉と認められ,1981年1月懲役20年の判決を受け服役した。
張春橋(ちょうしゅんきょう、簡体字表記:?春?、ピンイン: Zh?ng Ch?nqiao 1917年〜2005年4月21日)は中国元副首相、四人組の一人。山東省出身。
1930年代までは、上海の作家だった。
1938年中国共産党を入党。『晋察冀日報』と『新石門日報』の編集長を歴任。
中華人民共和国成立後、『解放日報』の編集長、上海市常任委員、宣伝部部長、上海市書記候補などの役職に就く。
1958年、『破除資産階級法権』を発表、毛沢東に絶賛された。上海で江青と合流し、文化大革命の発動に関わる。
王洪文(おうこうぶん、簡体字表記:王洪文、ピンイン: Wang Hongwen 1935年〜1992年8月3日)は、元中国共産党中央副主席。四人組の一人。吉林省出身。
江 青(こう せい、ピンイン:Jiang Qing。1915年 - 1991年5月14日)は、毛沢東の4番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。
「江青」は女優時からの名乗りであり、出生時の名は李淑蒙とも李進(李進孩)とも。小学校入学時には李雲鶴と名乗る。「江青」の前の女優としての名乗りに藍蘋がある。毛沢東の漢詩に「李進同志」に宛てたものがある。
上海で女優として働いていた頃に毛沢東と知り合う。2度の結婚を経て、1937年に中国共産党の根拠地だった延安に赴き、翌年には毛沢東と結婚。
この結婚は毛沢東との不倫の末になされたものだが、このことは朱徳や周恩来といった他の幹部達の非難を招くことになる。結局、毛沢東は3番目の夫人、賀子珍と離婚して江青と再婚することになったのだが、その代わり江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。
ところが約束は守られず、1966年に始まる文化大革命で「四人組」の一人として活躍することになる。1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。この背景として、女優だった頃に自分を評価してくれなかった演劇界に対して個人的怨嗟があったといわれる。
1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文革の主導権を握る。さらに、1976年には復活したケ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。1976年毛沢東の死の直後に四人組の1人として逮捕され、1981年に死刑判決を受ける。1983年、無期懲役に減刑。1991年、獄中で精神病の療養中に自殺。
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10年に及んだ歴史的大動乱 | ||
文化大革命 プロレタリア文化大革命 文革 |
プロレタリア文化大革命(無産階級文化大革命)。1966年から1970年代半ばにいたる約10年間、毛沢東が発動し、中国社会を歴史的な混乱に巻き込んだ動乱、権力闘争、大衆運動。党政府の幹部から知識人、一般庶民まで多大な犠牲者が生まれた。
文革の発動 1958年の大躍進運動が破産すると、党主席の毛沢東は自己批判を迫られ、その権力は棚上げされた。これを契機に劉少奇(国家主席)や?ケ小平(総書記)が実権を握った。劉、?ケらは市場的メカニズムを一部導入することで、農民や労働者の積極性を引き出すことで経済の立て直しをはかろうとした。 文革の展開 翌1967年1月、上海で文革派が奪権(1月革命)。黒竜江省に全国初の「革命委員会」が成立。2月に「上海人民公社」(上海コミューン)が成立。これに対して、譚震林、葉剣英、李先念、徐向前、聶栄臻らの長老は中央文革小組の行動を行き過ぎと批判(2月逆流)したが、こうした批判は封じ込められた。 文革の終焉 1971年9月、後継者の林彪が毛沢東暗殺を企て失敗、ソ連に逃亡中モンゴル国境付近で墜死するという「林彪事件」が起きた。これを機に林彪グループは脱落。 文革とは 文革は中国人民にとっては大きな災禍だったが、その本質は果たして何だったのだろうか。例えば、亡命作家の鄭義は、文革には2つの対立する要素があったとする。1つは、大衆運動を利用した権力闘争であり、もう1つは、封建的な特権と政治的圧迫に対する民衆の反抗である。そして、「これは互いに利用し合うと同時に、衝突し合う二つの文革である。ところが、時空をともにしたことが二者を一体化させ、この融合体をわけの分からぬ政治の怪物にしてしまった」(『中国の地の底で』)と総括している。 |
http://72.14.203.104/search?q=cache:qSNN68e7LJgJ:www.goukou.com/ziliao/nennpyou/bunkakugo.htm+%E5%A7%9A%E6%96%87%E5%85%83&hl=ja1966年から1970年までの略年表 | 02年1月14日作成 |
http://72.14.203.104/search?q=cache:qSNN68e7LJgJ:www.goukou.com/ziliao/nennpyou/bunkakugo.htm+%E5%A7%9A%E6%96%87%E5%85%83&hl=ja
年月 | 出来事 | 内容・影響 | |
1966年 | 文革の発動と紅衛兵の登場 | ||
1、1 | 『紅旗』、社説「政治は統帥であり、魂である」を発表。 | ||
2、1 | 『人民日報』、雲松「田漢の『謝瑤環』は一株の大毒草である」を発表。 | 田漢批判が始まる。 | |
2、3 | 彭真、「文化革命五人小組」会議を招集し、『海瑞免官』批判問題を討論。 | 「当面の学術討論に関する集約提綱(二月要綱)」を作成。呉?ヨに対する批判を学術討論の範囲に限定する。?ケ小平の署名・発行により党中央文献として全党に通達される(2、12)。 | |
2、7 | 『人民日報』、社説「毛沢東同志の立派な学生――焦裕禄同志に学ぼう」を発表。 | 焦裕禄学習運動が始まる。 | |
2、2-20 | 江青、上海で「部隊文芸工作座談会」を開催。建国以来、「毛主席の思想と対立する反党反社会主義の黒い線が我々に独裁を行ってきた」。 | 座談会の内容は、「林彪同志の委託により江青同志が招集した部隊文芸工作座談会部隊文芸工作座談会紀要」として、党中央文献として全党に通達(4、10)。 | |
3 | 党中央、ソ連共産党第23回大会出席を拒否する書簡をソ共中央に送る。 | ||
3、17-20 | 政治局常務委員拡大会議 | 毛「現在の学術界と教育界では知識分子が実権を握っている」、「各地は学校、刊行物、出版社がどんな人物の手の中にあるかを注意し、ブルジョア階級の学術権威に対して適切な批判を加えねばならない」。 | |
4、5 | 『紅旗』、 | 呉?ヨの「海瑞免官」を反党と断定する。 | |
4、16 | 『北京日報』、 | 『燕山夜話』、『三家村札記』批判 | |
4、18 | 『解放軍報』、社説「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、社会主義の文化大革命に積極的に参加しよう」を発表。 | 「社会主義文化大革命」という呼び方が始まる。 | |
4、24 | 中央政治局常務委員会拡大会議、「中共中央委員会通知」を採択 | ||
5、7 | 毛、林彪の「部隊の農業副業生産をいっそう立派におこなうことについての報告」に返信を書く(「5・7指示」)。8月1日の『人民日報』社説で公表。 | 「学制は短縮し、教育は革命しなければならない。ブルジョア知識分子が我々の学校を支配するという現象はこれ以上継続させてはならない。 | |
5、8 | 『解放軍報』、「反党反社会主義の黒い線に対して火ぶたを切ろう」を発表。 | ||
5、8 | 『光明日報』、何明(関鋒)「眼をこすって真偽を見分けよう」を発表し、北京市党委員会の雑誌『前線』と『北京日報』を批判。 | 「あなた方はプロレタリア独裁のための道具なのか、それとも資本主義の宣伝と復活のための道具なのか?」 | |
5、10 | 『文匯報』、『解放軍報』、姚文元「『三家村』を評す――『燕山夜話』、『三家村札記』の反動的本質」を発表。 | ||
5、11 | 『紅旗』誌、戚本禹「『前線』と『北京日報』のブルジョア的立場を評す」を発表。 | ||
5、11 | 『紅旗』誌、仲正文「政治を先行させ英雄を大きく描く――長編小説『欧陽海の歌』を評す」を発表。 | ||
5、4-26 | 党中央、劉少奇の主宰で中央政治局拡大会議(5月政治局会議)を開催。「5・16通知」を採択。 | ||
5、18 | 林彪、「5・18講話」 | ||
5、23 | 中央政治局拡大会議で、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らを全職務から解任することを決定。 | ||
5、28 | 党中央、中央文化革命小組の成立を宣言 | 組長・陳伯達、顧問・康生、副組長・江青、王任重、劉志堅、張春橋、組員・王力、関鋒、戚本禹、姚文元など。中央政治局、中央書記処は機能停止 | |
5、29 | 清華大学附属中学に全国で最初の紅衛兵組織が成立。 | ||
5、29 | 映画『紅日』(真紅の太陽)批判 | ||
5、30 | 陳伯達、人民日報社を奪権 | ||
6、1 | 『人民日報』、社説「すべての牛鬼邪神を一掃しよう」を発表。 | ||
6、2 | 『人民日報』、聶元梓らが北京大学党委員会と北京市党委員会を批判した大字報を掲載。 | ||
6、3 | 『北京日報』、北京市委員会の改組決定を伝える。 | ||
6、4 | 党中央、陸定一文化部宣伝部長を解任。後任に陶鋳。 | ||
6、6 | 『人民日報』・『解放軍報』、「文化大革命の宣伝教育の要点について」を発表。 | ||
6、8 | 党中央、劉少奇の主宰で常務委員会拡大会議を開催。「八条指示」(中央八条)を制定。 | 「大字報を貼ってはならない」、「デモを行ってはならない」、「大規模な糺弾集会を行ってはならない」、「人を殴ること、侮辱することを禁止する」、など。 | |
6、16 | 『人民日報』、社説「思いきり大衆を立ち上がらせ、反革命の黒いグループを徹底的に打倒しよう」 | 「あらゆる牛鬼邪神をすべて暴き出して、目茶苦茶に、立ち上がれないほど、徹底的につるし上げなければならない」。「八条指示」と真っ向から対立。 | |
6、18 | 「6・18事件」。北京大学で、党や共青団の幹部、教師ら40人をつるし上げる。 | 工作組が事件の収拾にあたる。 | |
6、23 | 李雪峰(北京市党委第一書記)、工作組に反対する者は反党であると演説。 | ||
7、18 | 毛、武漢から北京に戻る。工作組撤収を指示。 | ||
7、25 | 毛、中央文革小組に接見した席で、工作組への不満を表明する。 | ||
7、28 | 北京市党委員会、毛の指示に基づいて、「各大学高専の工作組を撤収することについての決定」を通達。 | 29日、人民大会堂で一万人大会を開いて、「決定」を宣言。大学、中学校を半年間休業とし革命に参加させることを発表。 | |
8、1-12 | 党中央、八期十一中全会を北京で開催。「十六条」を採択(8、8)。 | 林彪の序列2位へ、劉少奇8位に下がる。 | |
8、1 | 毛、清華大学附属中学の紅衛兵に手紙を送る。 | 「反動派に対する造反有理」、「革命無罪」 | |
8、5 | 毛、大字報「司令部を砲撃せよ」(『人民日報』)を発表し、劉少奇、?ケ小平を批判。 | ||
8、12 | 最初の『毛沢東選集』が出版される。 | ||
8、18 | 毛、天安門で百万の大衆と紅衛兵に接見する。 | この後、紅衛兵運動は全国に拡大する。 | |
9 | 『紅旗』誌、社説「毛沢東思想の大道を前進しよう」を発表。 | 「フルシチョフ式の人物が党、軍隊、政権の乗っ取りを企てている」。 | |
9、5 | 党中央・国務院「地方の大学高専の革命的学生、中等学校の革命的学生代表および革命的教職員代表を組織し、文化大革命運動を上京参観させることについての通知」を発表。 | 全国的な経験大交流が開始される。 | |
9、11 | 『人民日報』、社説「労働者農民大衆と革命的学生は毛沢東思想の旗印の下に団結せよ」を発表。 | 紅衛兵運動を支持。極度の混乱により、党の基層組織は解放軍野戦部隊を除いてすべて活動を停止する。 | |
9、12 | 北京大学文化大革命委員会成立。主任は聶元梓。 | ||
10、5 | 中央軍事委員会10・5緊急指示 | 「軍隊・大学の文化大革命運動は工作組撤退後に大学の党委員会によって指導される規定」の取り消しを公布。 | |
10、9-28 | 中央工作会議を北京で開催 | 陳伯達、林彪の講話 | |
10、15 | 北京で工作組問題について李雪峰批判大会。 | ||
10、23 | 劉少奇、中共中央工作会議で自己批判。 | ||
11、8 | 中央軍事委員会、北京工人体育場、 | 陳毅、葉剣英らが軍部の混乱に対して批判意見を提起する。 | |
11、9 | 王洪文らをリーダーとする「上海工人革命造反総司令部」(「工総司)が成立。 | ||
11、10 | 「工総司」、上海市郊外の安亭駅で30時間にわたり列車を止める。「安亭事件」 | ||
11、16 | 党中央・国務院、「革命的教師、学生の大交流問題に関する通知」 | 紅衛兵交流の停止を通告。 | |
11、16-26 | 党中央の指示に基づき、谷牧(国家基本建設委員会主任)、余秋里(石油工業部部長)の主宰で工業交通座談会が開催される。 | 工業、交通、企業分野でいかに「文化大革命」を展開するかを討論。「文化教育部門、党・政府指導機関とは区別すべき」。 | |
12、4-6 | 林彪の主宰で中央政治局拡大会議が開催される。「革命に力を入れ生産を促すことについての十条の規定」(工業十条)を採択。 | 工業、交通、企業分野でも「文化大革命」を全面的に展開することを提起。 | |
12、5 | 「首都紅衛兵聯合行動委員会」 | ||
12、15 | 党中央、「農村のプロレタリア文化大革命についての指示(草案)」(農村十条)を発表する。 | ||
12、18 | 劉少奇の秘密審査を目的とする「王光美特別案件班」が成立。 | ||
12、25 | 毛、67年は「全国的に、全面的に、階級闘争が展開される一年になるであろう」。 | ||
12、30 | 「康平路事件」 | ||
1967年 | 革命委員会の成立と武漢事件 | ||
1、1 | 『人民日報』、『紅旗』誌、共同社説「プロレタリア文化大革命を最後まで推し進めよう」を発表。 | 「党内の一握りの資本主義の道を歩む実権派と社会に潜む牛鬼邪神に総攻撃を展開しよう」。 | |
1、4 | 張春橋・姚文元が「中央文革小組調査員」の肩書で上海を訪れる。 | ||
1、4 | 『文匯報』の造反派が奪権を宣言。 | ||
1、5 | 『解放日報』の造反派が奪権を宣言。 | 毛、「二紙の奪権、これは全国的な問題である。我々は彼らの造反を支持しなければならない」(1、8)。 | |
1、6 | 工総司をはじめとする32の造反派組織が「上海市党委員会打倒大会」を開催。 | 陳丕顕(上海市党委第一書記)、曹荻秋(上海市長)らが批判闘争にかけられる。曹荻秋を上海市長と認めないと宣言する。 | |
1、8 | 「革命に力を入れ生産を促す上海市前線指揮部」が成立(張春橋・姚文元が指揮)。 | 全市の生産における事実上の指導組織となる。 | |
「プロレタリア文化大革命防衛委員会」が成立。 | 公安、司法機関にとってかわる。 | ||
1、13 | 党中央・国務院、「プロレタリア文化大革命における公安工作を強化することについての若干の規定」(「公安六条」)を公布。 | 「偉大な指導者毛主席とその親密な戦友林彪同志を誹謗攻撃するものは、すべて現行反革命行為であり、法に照らして処罰すべきである」。 | |
1、16 | 『人民日報』、『紅旗』評論員「プロレタリア革命派は連合しよう」を発表。 | 上海の「経験を一点に要約するなら、それはとりもなおさずプロレタリア革命派が連合して、党内の一握りの資本主義の道を歩む実権派から権力を奪い返し、上海の政治、経済、文化の大権をしっかりと自分たちの手に握ったことである」。 | |
1、19-20 | 中央軍事委員会、各大軍区の責任者を集め、京西賓館で会議を開催。 | 人民解放軍総政治部主任・蕭華を批判。二月抗争の最初の高まりとなる。 | |
1、23 | 党中央・国務院・中央軍事委員会・中央文革小組、「人民解放軍が断固として革命的左派大衆を支持することについての決定」を通達。 | 文革初期の、人民解放軍は民間の運動に介入してはならないという規定を変更。 | |
1、23 | 『人民日報』、社説「プロレタリア革命派は大連合して、資本主義の道を歩む実権派から権力を奪い取ろう!」を発表。 | 「真の革命左派が目をつけていること、考えていることは奪権である、やっていることもやはり奪権なのである」。 | |
1、28 | 「上海市紅衛兵革命委員会(略称、紅革会)が張春橋を攻撃。 | 反革命組織と断定され、鎮圧される。 | |
1、28 | 中央軍事委員会、「中央軍事委員会命令」を発布。 | 軍の安定維持を計る。 | |
1、31 | 黒竜江省紅色造反者革命委員会が成立。全国で最初の革命委員会。 | ||
2、2 | 『人民日報』、社説「東北の新しい曙」を発表。 | 「毛沢東思想の輝かしい光のもとに、黒竜江省は新しく生まれ変わった」。 | |
2、5 | 「上海人民公社」が正式に成立。 | 主任・張春橋、副主任・姚文元、王洪文。 | |
2、6 | 『文匯報』、社説「偉大な歴史的革命の壮挙――上海人民公社の誕生に歓呼の声を送る」 | 「上海人民公社の誕生はプロレタリア階級に新たな奪権の重要な経験を提供した」。 | |
2、11・16 | 中南海懐仁堂で、周恩来主宰の中央連絡会議が開催される。党・政・軍の長老と江青・張春橋らが文化大革命の原則問題を巡って対立する。 | 葉剣英、「君たちは党を攪乱し、政府を攪乱し、工場と農村を攪乱した!それでもまだ飽き足らずに軍隊を攪乱しようとしている!」。 | |
2、17 | 党中央・国務院、「上山下郷の知識青年の経験交流・請願・陳情の処理に関する通知」を公布。 | ||
2、18 | 毛、 | ||
2、19 | 党中央、 | ||
3、2 | 『人民日報』、社説「革命的『三結合』は奪権闘争の勝利の保証である」を発表。 | ||
2、25-3、18 | 毛の指示により、懐仁堂で七回にわたる政治活動会が開催される。 | 古参幹部の、文革小組に対する批判を「二月逆流」だと攻撃する。 | |
3、16 | 党中央、「薄一波、劉瀾涛、安子文、楊献珍ら61人の自首寝返りに関する資料」を配布。 | 古参幹部に対する攻撃がさらに激化する。 | |
3、20 | 林彪、解放軍の幹部会議で演説する。 | 「一部の古参幹部は社会主義に入る時期についていけず、社会主義革命の戦士に変わることができず、旧い民主主義革命の段階に留まっている」。 | |
4、1 | 『人民日報』、戚本禹「愛国主義か、それとも売国主義か」を発表。 | 劉少奇を「党内最大の資本主義の道を歩む実権派」として批判する。 | |
4、10 | 清華大学で数十万人が参加した大会が開かれ、王光美がつるし上げを受ける。 | ||
5、8 | 『紅旗』・『人民日報』、「『共産党員の修養を論ず』の核心はプロレタリア独裁への裏切りにある」を発表。 | ||
5、17 | 江青、「伍豪公告」事件で周恩来を攻撃。 | ||
6、17 | 中国、初の水爆実験に成功。 | ||
7、18 | 戚本禹、「劉少奇批判闘争」大会を開催する。 | ||
7、20 | 武漢「7・20」事件発生。謝富治と王力ら、武漢の大衆組織「百万雄師」に拘束される。 | ||
7、22 | 江青、「文で攻め、武で防ぐ」というスローガンを提起。 | ||
8月上旬 | 南京、常州、長春、瀋陽、重慶、長沙などで大規模な武闘事件が発生。 | ||
8、7 | 謝富治、 | ||
8、9 | 林彪、講話「現在の革命は我々が元々やってきた革命を革命するものである」。 | ||
8、22 | 「イギリス代理大使館事務所焼き討ち事件」が発生。 | ||
8月下旬 | 毛の承認を得て、中央文革小組メンバー、王力と関鋒の隔離審査実施。 | ||
9、5 | 「人民解放軍の武器、武装、および各種の軍用物資の略奪禁止についての命令」 | ||
9、8 | 『人民日報』、姚文元「陶鋳の二冊の本を評す」を発表。 | ||
9、13 | 「国家の物資、商品の略奪および倉庫襲撃を厳しく禁じ、国家の財産の安全を確保することについての通知」 | ||
9、23 | 党中央・国務院・中央軍事委員会・中央文革小組、「各地で経験交流中の学生、および陳情で北京滞在中の者は即刻所属機関に戻ることに関する緊急通知」を発布。 | ||
10、14 | 党中央・国務院・中央軍事委員会・中央文革小組、「大学・中学・小学校が授業を再開して革命を行うことに関する通知」を発布。 | ||
10、7 | 毛の演説紀要 | ||
1968年 | 混乱の収拾 | ||
1、16 | 毛、「伍豪公告」事件に関し、「本件は国民党がでっちあげた中傷である」と指示を出す。 | ||
3、22 | 党中央、楊成武(人民解放軍総参謀長代理)・余立金(空軍党委員会第二書記)・傳崇碧(北京衛戍区司令官)の職務を解任。 | 人民解放軍総参謀長の後任には黄永勝、北京衛戍区司令官の後任には温玉成。 | |
3、27 | 中央文革小組、首都体育館で「『二月逆流の新しい反撃を徹底的に粉砕し、プロレタリア文化大革命の全面的勝利を奪い取る決起大会」を開催。 | ||
3、30 | 『人民日報』・『紅旗』、共同社説「革命委員会は素晴らしい」を発表。 | 毛、「革命委員会の基本的経験は三つある。一つは革命幹部の代表がいることであり、一つは軍隊の代表がいることであり、一つは革命大衆の代表がいることだ」。 | |
7、21 | 『人民日報』、 | ||
7、27 | 「首都労働者毛沢東思想宣伝隊」が清華大学に進駐し、全校を支配下に置く。 | ||
8 | 「反逆者、敵の回し者、労働者階級の裏切り者、劉少奇の罪悪行為についての審査報告」 | ||
8、25 | 党中央・国務院・中央軍事委員会・中央文革小組、「労働者宣伝隊を学校に派遣することに関する通知」を発布する。 | 「革命大連合を実現していない両派の革命大衆組織が、毛沢東思想の基礎の上に革命大連合を実行するのを援助し、促進し、武闘のある地方では断固としてそれを阻止しなければならない」。 | |
8、26 | 『人民日報』、姚文元「労働者階級はすべてを指導しなければならない」を発表。 | ||
9、5 | チベット・新彊自治区で革命委員会が成立し、全国すべてのの省・市・自治区に革命委員会が樹立される。 | ||
9、7 | 『人民日報』・『解放軍報』、共同社説「プロレタリア文化大革命の全面的勝利万歳!」を発表。 | ||
10、13-31 | 八期十二中全会が北京で開催。主な議題は、1、九全大会の代表選出の原則と方法の討論、2、党規約改正草案の討論、3、国内外の情勢についての説明、4、劉少奇の特別審査報告に関する採択の討論。 | 「劉少奇を永久に党から除名し、党内外の一切の職務を解任し、引き続き劉少奇とその一味の、党と国家を裏切る罪悪行為を清算する」ことを採択。劉少奇は69年10月17に開封に護送され、11月12日に死去。 | |
10、16 | 『紅旗』誌、社説「プロレタリア階級の新鮮な血液を吸収しよう」を発表。 | 劉少奇の「六つの理論」(階級闘争消滅論、従順な道具論、大衆落伍論、入党役人論、党内平和論、公私融合論)の批判を呼びかける。 | |
11、27 | 党中央・中央文革小組、「『九全大会』招集についての意見の諮問に関する通達」を発布。 | ||
12、16 | 党中央・中央文革小組、「党の綱領・党の規約改正を行うことについての通知」を発布。 | ||
12、22 | 毛、「知識青年が農村に行って、貧農・下層中農の再教育を受けることはきわめて必要なことである」。 | これ以後、各地で知識青年の「上山下郷」運動が起こる。 | |
1969年 | 九全大会 | ||
1、29 | 中共中央、中央文化革命小組、「清華大学が知識分子に対する“再教育”と“活路を与える”政策を断固としてやりぬいたことの報告」を全国に通達。 | ||
3、2 | 中ソ国境の東部、黒竜江省の珍宝島(ダマンスキー島)で中ソ両軍が武力衝突 | ||
3、15 | 毛、中央文革小組連絡会議で戦争準備について語る。 | ||
4、1-24 | 第九回全国代表大会 | ||
4、28 | 九期一中全会 | ||
1970年 | 廬山会議と批陳整風 | ||
1月 | 米中大使級会議 | ||
1、31 | 中共中央、「反革命の破壊活動に打撃を与えることに関する指示」を発布。 | ||
2、5 | 中共中央、「汚職・横領と投機的売買に反対することに関する指示」・「派手な浪費に反対することに関する指示」を発布。 | これ以後、“一打三反”運動が全国で展開され、裏切り者・スパイ・反革命分子として184万人が摘発され、そのうち逮捕された者は28万あまりに達した。 | |
2、15-3、21 | 国務院、全国計画工作会議を開催。 | 第四次五カ年計画要綱(草案)を制定する。 | |
3、17-20 | 中央工作会議 | 第四期全人大の開催、憲法改正および国家主席を設けないことについての討論。 | |
3、27 | 党中央、「『5・16』反革命陰謀集団の摘発・審査に関する通知」を発布。 | ||
4、24 | 中国、初の人工衛星打ち上げに成功。 | ||
5、21 | 『人民日報』、毛「全世界の人民は団結し、アメリカ侵略者およびそのすべての を打ち負かそう!」(“5・20声明”) | 「アメリカ帝国主義は 実際には張り子の虎である」。 | |
6、27 | 中共中央、北京大学、清華大学が提出した、試験的な学生募集方法に関する調査報告を批准する。 | 大学入学試験制度が廃止される。 | |
8、13 | 憲法工作会議 | ||
8、23-9、6 | 九期二中全会が廬山で開催される。林彪・陳伯達が「天才論」と国家主席設置を提唱。毛、「私の若干の意見」を書き、陳伯達を名指しで批判。 | 「中華人民共和国憲法改正草案」を採択。 | |
11、6 | 党中央、「中央組織宣伝組の設置に関する決定」を発布。 | 組長・康生、メンバー・江青、張春橋、王洪文、紀登奎、李徳生。 | |
11、16 | 党中央、「陳伯達反党問題の伝達についての指示」を発布。 | 「陳伯達はふいに襲撃をしかけ、風をあおり、火をつけ、デマをでっちあげ、同志をペテンにかけるという悪辣な手段で、党を分裂させるという活動を行った」。この後、「批陳整風」運動が展開される。 |
中国現代史上稀にみる10年にわたる大動乱――「文化大革命」 ] |
「文化大革命」(1966〜1976年、昭和41〜51年)、または「プロレタリア文化大革命」、略に「文革」と呼ばれる。 1958年(昭和33年)の「大躍進運動」の失敗後、毛沢東は自己批判を迫られ、中国共産党党主席としての権力は棚上げされた。 これを契機に劉少奇(国家主席)や?ケ小平(総書記)が実権を握った。彼らは市場メカニズムを一部に導入することで、農民や労働者のやる気を引き出すことで経済の立て直しをはかろうとした。 それに対して、農村を中心に資本主義的風潮が蔓延したと主張する毛沢東は、プロレタリアの「継続革命」を打ち出し、「プロレタリア文化大革命」による政権“奪還”へと向かった。 「文革」は文芸界から始まった。65年(昭和40年)11月、のちの「四人組」の1人、姚文元が「『海瑞の免官』を評す」を発表。ここに文革の口火が切られた。 翌年66年(昭和41年)5月、毛沢東の林彪宛書簡「5・7指示」が党中央政治局拡大会議で「5・16通知」として採択され、続いて文化大革命指導チーム「中央文革小組」が設置された。組長に毛沢東側近の陳伯達、顧問には康生、副組長には夫人江青、王任重、劉志堅、張春橋、組員に王力、関鋒、戚本禹、姚文元らがつき、「文革」は本格化した。 6月、北京大学の学生聶元梓氏が初の大字報(壁新聞)で大学当局と北京市当局を攻撃。「紅衛兵」(毛沢東の近衛という意味)が組織され、「劉・?ケ実権派」への攻撃が始まった。 8月、清華大学附属中学で紅衛兵による毛沢東支持の「造反」が起き、毛沢東の天安門での閲兵には全国から100万の紅衛兵が結集した。同じく8月の中国共産党第8期11回中央全体会議で、「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。 1967年(昭和42年)年1月、上海で文革支持一派が奪権、いわゆる「1月革命」。そして、2月に「上海人民公社」(上海コミューン)が成立。 これに対して、譚震林、葉剣英、李先念、徐向前、聶栄臻らが中央文革小組の行動を行き過ぎと批判したが、毛沢東はこれを「2月逆流」と名指して批判し、封じ込めに成功した。 7月20日、武漢において、文革派の王力らが当時劉・?ケ実権派といわれる大衆組織「百万雄師」によって監禁され、事後の弾圧で10万人以上が死傷するという「武漢事件」が発生した。 1968年(昭和43年)には全国各地で打倒された行政府の代わりに「革命委員会」が結成されるなど、文革は頂点に達した。 同年10月の中国共産党第8期12回中央全体会議で、国家主席劉少奇が党籍剥奪となり、投獄された。 そして、1969年(昭和44年)4月の中国共産党第9回全国代表大会で林彪(党副主席)を毛沢東の後継者に指名することで、毛沢東をはじめ、文革派が権力を完全に掌握、大会でその成果を総括した決議が行われた。 1971年(昭和46年)9月、後継者の林彪が毛沢東暗殺を企て失敗、ソ連に逃亡中モンゴル国境付近で墜死するという「林彪事件」が起きた。 1973年(昭和48年)8月の中国共産党第10回全国代表大会では、文革の主導権は毛沢東夫人の江青や張春橋、王洪文、姚文元の「四人組」が握ることになる。 大会以降、周恩来総理は国務院を中心に経済の再建に取り組もうとしたが、四人組は「批林批孔運動」(林彪・孔子批判の政治キャンペーン)で周恩来追い落としをはかろうとした。 1976年(昭和51年)1月に国民に敬愛されている周恩来総理が世を去った。4月には周恩来を追悼する群衆が天安門広場に集結、詩文(暗喩)で毛沢東夫人の江青や張春橋、王洪文、姚文元の「四人組」を批判した。 これが四人組によって鎮圧、「第1回天安門事件」だった。この事件で、当時副総理として復活していた?ケ小平が再び失脚。 しかし、同年9月に毛沢東が世を去った。それに伴い、四人組は急速に力を失っていった。翌10月、四人組が華国鋒、汪東興らの文革右派によって逮捕。 華国鋒は毛沢東の遺言「君に任せれば安心だ」を盾に翌日、党主席に就任した。 1977年(昭和52年)7月、実権派の烙印を押され2度も失脚に追い込まれた?ケ小平が再復活、実権を掌握。 8月の中国共産党第11回全国代表大会で「文化大革命終結宣言」が出され、ここに10年にわたった中国現代史上に稀に見る大動乱に終止符が打たれた。 1980年(昭和55年)12月には、中国共産党機関紙『人民日報』が「毛主席は文化大革命で過ちを犯した」という社説を発表し、初めて毛沢東を名指しで批判。 1981年(昭和56年)6月の中国共産党第11期6回中央全体会議で、『建国以来の党の若干の歴史問題についての決議』、いわゆる『歴史決議』が採択され、「文化大革命はいかなる意味でも革命や社会進歩とはいえない」とし、「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と断定された。 毛沢東については、国民の間に根強く毛沢東信仰を考慮するかのように、彼のことを「文革では重大な誤りを犯したが、功績の方が誤りよりも大きい。“功績第一、誤り第二”」とされた。 それがきっかけで華国鋒が失脚し、?ケ小平の信任が厚い胡耀邦が党主席就任。 新しい時代が始まった。 |
アジア 中華人民共和国 AD1966 中華人民共和国
1966年から1969年にいたる約3年間,中国社会を未曽有の激動と混乱にまきこんだ政治運動で,それにつづく“四人組”の支配時期をふくめて,中国では“動乱の10年”と呼んでいる。この運動は毛沢東とその側近(四人組)が直接指導したものであり,正式には「プロレタリア文化大革命」(略して文革)という。その経過と性格は以下のとおりである。【文化大革命の発端】1965年11月10日,上海の新聞「ブンワイホウ※注1※」は上海作家協会に所属する姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」と題した長大な論文を発表し,『海瑞罷官』なる作品が“一株の毒草”であり,これを著した作者は危険思想の持ち主であると批判した。『海瑞罷官』の著者は有名な歴史学者で,北京市副市長の要職にあったゴガン呉※注2※であるが,姚文元の批判が唐突かつこじつけに満ちていたことから,ゴガン※注2※自身はもちろん,当時の中国の歴史学界では問題にもされなかった。しかし,日を追うにつれ,ゴガン※注2※への批判は激化し,1966年に入るやゴガン※注2※を含めて北京市のいわゆる“二家村グループ”は反党・反革命分子であったとされ,ゴガン※注2※は失脚,拘禁された。“二家村グループ”とはゴガン※注2※・廖拓(とうたく)・廖沫沙(りょうまっさ)ら3人の文人政治家をいい,彼らは呉南星という共同ペンネームをもちいて現体制批判の筆をとっていたのである。しかも,ゴガン※注2※につづいて田漢(劇作家)・翦伯賛(せんぱくさん,北京大学副学長)・周揚(文芸理論家)・老舎(作家)・巴金(作家)など著名な文化人が次々と激しい批判にさらされた。ここにいたって,姚文元の意図が単なる文化・芸術のあり方を問題にしているのではなく,その標的は上記文化人らの政治的擁護者である劉少奇(当時,国家主席)の政策と路線にあること,それが毛沢東に反対する修正主義であり,批判されねばならぬことを示唆したものであることが明らかになった。姚文元論文が毛沢東の直接の命を受けて書かれたことは,それを物語る。文化界の大御所郭沫若(かくまつじゃく)が劇的な自己批判を行ったのはこの前後であり,郭は党内闘争の火の粉が自己にふりかかるのを未然に防いだのであろう。本質的には中国共産党内の路線の対立,すなわち毛沢東と劉少奇の党内抗争が“文化大革命”の名で呼ばれるのは,これが以上のような文化人批判に始まったことによる。ちなみに,上記『海瑞罷官』の海瑞とは16世紀明代の官僚で,不正不義を憎み,人民に善政をしいたため,皇帝にうとまれ,失脚した人物であるが,姚文元の批判点は,ゴガン※注2※がこの人物に仮託して1959年に毛沢東に反対し失脚させられた彭徳懐(ほうとくかい,当時,国防部長)の名誉回復をねらったのであった。
【毛沢東思想絶対化状況の現出】ゴガン※注2※批判に見られる毛沢東の強引な反修正主義=劉少奇打倒の意図は,1966年8月8日に開催された中国共産党第8期中央委員会第11回総会において,明確に示された。すなわち,この総会では「プロレタリア文化大革命についての中国共産党中央委員会の決定」が採択されたが,ここには党内には〈資本主義の道を歩む実権派〉が存在すること,今回の文化大革命の当面の目的は,〈敢然〉かつ〈思いきり大衆を立ちあがらせて〉,これらの実権派を打倒すべきであること,が高らかにうたわれていたからである。“実権派”とはのちに“走資派”ともいわれるが,要するにブルジョワ思想をもった党内の実務家集団をいい,具体的には劉少奇をはじめトウショウヘイ※注3※・彭真(ぼうしん)ら当時の党指導部をさしている。しかし,この段階ではまだ彼らは名ざしで批判されなかった。彼らの命運がきわまったのは,上記総会の10日後の8月18日に北京で開かれた「プロレタリア文化大革命を祝う100万人大集会」においてであった。この集会は従来,国慶節以外に大衆の面前に現れたことのない毛沢東の直接参加のもと,全国各地からはせ参じた革命的大衆を結集して行われたものであるが,ここで明らかになったのは中国共産党内のリーダーシップが大きく変わったこと,具体的には林彪(りんぴょう,当時,国防部長)の地位の向上と劉少奇の地位の異常な低下であった。北京放送と新華社電が,当日の参加者を毛沢東・林彪・周恩来・陶鑄(とうじゅ)・陳伯達(ちんはくたつ)・トウショウヘイ※注3※・康生(こうせい)・劉少奇の順で報じたこと,中国各紙が毛沢東と並んだ林彪の写真を大きく掲載したことはそのことを裏づけるものであろう。しかも,この集会における林彪の演説は,毛沢東礼賛の一語につきるものであった。彼はまず“実権派”の打倒を叫んだあと,〈毛主席は現代におけるプロレタリアートの最も優れた指導者であり,現代における最も偉大な天才である……毛沢東思想はマルクス=レーニン主義のまったく新しい発展段階であり,現代最高のマルクス=レーニン主義である〉といったのである。しかも,紅衛兵(こうえいへい)が初めて出現したのはこの大会においてであり,以後,“紅衛兵旋風”の名による彼らの過激な行動は,中国社会を恐怖と混乱の渦のなかにまきこんだのであった。
【紅衛兵の跳梁と文革の悲惨】紅衛兵は初め首都北京だけであったが,8月20日以降は全国の主要都市に出現した。彼らは革命的な大学生・高校生を主体としていたが,のちには中学生および一部青年労働者が糾合して,“毛主席万歳”と『毛主席語録』(毛沢東の著作・言動のなかから文化大革命の遂行に必要な部分を摘記・集録したもの)を自己の絶対的信条のシンボルとして街頭に進出,〈毛主席の意志である〉として“実権派”打倒の激烈な行動を開始した。彼らは〈われわれは旧世界の批判者であり,新世界の創造者である〉と呼号しつつ,“実権派”たちを襲い,トウショウヘイ※注3※・彭真・羅瑞卿(らずいきょう)・陸定一(りくていいち)ら党と国家の指導者たちをひき回した。劉少奇は大衆批判大会に引き出されたあと,幽閉された。“実権派”とみなされたすべての人が迫害され,失脚した。そればかりか,紅衛兵は街路・商店・史跡の名称変更を要求し,道行く人の服装・容姿・言動にまで“ブルジョワ思想”を見出してこれを摘発・批判し,ついに[1]民主諸党派の解散,[2]人民公社の1958年創立時への復帰,[3]民族資本家への定期利子支払いの停止,[4]教育制度の徹底的改革など,既存の政治・社会制度の根本的改革を求める挙に出たのであった。“造反有理”(反逆には道理がある)なることばが世界中で流行語になったのも,この時期である。各地で流血の惨事が頻発し,中国の教育は学校教育の全体系にわたって全面的にストップしたばかりか,共産主義青年団・少年先鋒隊をはじめ,既存の青少年組織はすべて解散させられた。こうした状況は1968年いっぱいつづくのであるが,この期間,“文化”の発展は何一つなく,あるのはただ“毛沢東文化”のみであった。1966年から1969年までの期間,『毛沢東選集』は430万部,『毛主席語録』は10億部出版されたという。なお,ゴガン※注2※は1969年10月に北京で,劉少奇は同じく11月に河南省開封で,いずれも迫害のなかで死亡した。
【四人組の専制】1969年4月,中国共産党は第9回党大会を開催した。前回1958年の第8回大会(第2回会議)から数えて実に11年ぶりであった。この大会は“団結の大会”“勝利の大会”とうたわれているように,毛沢東派による反対派一掃の勝利を祝う大会であり,“実権派”打倒に功績のあった林彪がただ一人の党副主席に選ばれ,〈毛主席の後継者である〉ことが党規約に規定されたほか,党中央政治局員に江青(毛沢東夫人)・張春橋および姚文元らが新たに加えられた。党中央政治局とは党運営の中枢部に当たるのであるが,かつての実務家では周恩来が残っただけであった。異常な人事といわなければならないのであるが,ただこれによって文革の混乱が収束されるであろうことを国民は期待した。事実,紅衛兵組織はこの時点ですべて解消させられてもいた。しかし,1970年代に入っても林彪および江青らは依然として極左主義路線を掲げ,周恩来を主とする穏健実務派の追い落としを画策したばかりか,内外全般にわたって“思想第1”の緊張政策を強いたのであった。政治的混乱は長びき,経済は停滞した。とくに江青はのちに党中央入りする王洪文を含めて張・姚らと“四人組”を形成し,毛主席夫人という権威をかさに専横のかぎりを尽くした。文化・教育面に限っていえば,この時期,“教育と労働の結合”が極端なまでに強調され,学制が短縮されているが,これは“四人組”の施策によるものであった。彼らは知識人を“9番目の鼻つまみ者”といい,文革前までの教授・教員・知識人の80%以上を職場から追放した。大学の進学には中学・高校卒業後2〜3年の労働体験が必要とされ,学力テストに代わって毛沢東著作の習熟度いかんによって人間の価値が決められた。文革期の教育が“知識”不在・“文化”不在といわれるのはこのためで,ABC はおろか,一次方程式も解けない大学生,魯迅も杜甫も知らない青少年が,多数存在したと想像される。なお,林彪は功をあせって毛沢東・“四人組”と対立し,モンゴル上空で非業の死をとげた。
【毛沢東の死と文革の終息】1976年1月8日,周恩来首相が死亡,ついで7月6日,軍の最長老朱徳が死亡した。そして,これらを追うように9月9日,毛沢東もまた他界した。毛沢東の権威を背景に権力の掌握をねらっていた“四人組”の受けた衝撃は大きく,彼らは毛の遺書なるもの(〈既定方針通りやれ〉)を盾に体制の建て直しをはかった。しかし,周恩来のあとを継ぎ,首相代理の任にあった党第1副主席華国鋒の反対にあい,10月6日,彼らは逮捕された。“四人組”の計画では,毛亡きあとの権力構造は江青を党主席,張春橋を首相にし,姚・王にそれぞれ重要ポストを与え,党・政の全般にわたって“四人組”支配を貫徹させることにあったという。そうなれば中国はどうなっていたか。華国鋒は危機寸前で中国を救った。劉少奇支持派の国民はこぞってこの快挙を喜んだ。そして,1977年8月に開かれた党の第11回大会では,1966年以来11年にわたった文革の終結が正式に宣言され,“四人組”が断罪された。当然のことながら,“実権派”といわれ,迫害と追放の身に置かれていたかつての指導者たちの名誉が回復され,復活した。トウショウヘイ※注3※がそうであり,胡耀邦(こようほう)・彭真が復帰した。中国は開放体制をとることを内外に約し,“現代化”政策のもと法制を整えた。文革=“四人組”時代の“暗い”イメージは,徐々に払拭されつつある。現指導部(トウショウヘイ※注3※・胡耀邦体制)による文革の評価は,1981年6月27日のいわゆる“歴史決議”(「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」)に集約されている。
〔参考文献〕東方書店出版部編『中国プロレタリア文化革命資料集成第1〜5巻・別巻』1970〜71,東方書店
小林文男『中国現代史の課題』1979,勁草書房
霞山会東亜文化研究所編『中国文化大革命の再検討』上・下,1979,霞山会
1971年から1978年までの略年表(林彪事件から十一期三中全会まで) | 02年1月14日作成 |
年表の作成にあたり、以下の資料を参考にさせていただきました。
『「文化大革命」簡史』(中央公論社)、『原典中国現代史 政治(上下)、思想・文学巻』(岩波書店)、『中華人民共和国史』(天児慧、岩波新書)、『文化大革命』(矢吹晋、講談社新書)、『現代中国政治』(毛里和子、名古屋大学出版社)、『岩波現代中国事典』、『中国文化大革命事典』(中国書店)など。
なお、ところどころ未整理の箇所(特に76年以降)があります。ご了承ください。
年月 | 出来事 | 内容・影響 |
---|---|---|
1971年 | 林彪事件 | |
4、11 | アメリカ卓球チーム | |
4、15-7、31 | 北京で全国教育工作会議が開催される。「全国教育工作会議紀要」を採択。 | |
4、29 | 党中央、「批陳整風運動をさらに深く推し進め発展させることについての通知」を発布。 | |
7、17 | 『人民日報』、周恩来とキッシンジャー | |
8、14-9、12 | 毛、南方を視察。各地の責任者と会談し、林彪らを名指しで批判。 | |
9、13 | 9・13事件(林彪事件) | 林彪・葉群・林立果らが乗っていたとされる飛行機が国外に逃亡し、モンゴルのウンデルハンに墜落、乗員は全員死亡。 |
9、18 | 中共中央、「国家に対する林彪の反逆と出国逃亡に関する通知」 | 林彪事件について全国の省・市・自治区クラス以上の幹部に伝達。 |
10、3 | 中共中央、葉剣英に軍事委員会の日常業務を担当させることを通達 | 軍事委員会事務組を廃止。 |
10、24 | 中共中央、林彪事件を全国に通達 | |
10、25 | 中華人民共和国、国連で議席を回復 | 蒋介石政権は国連から脱退。 |
11、14 | 毛、「二度と彼(葉剣英)を『二月逆流』だと言ってはいけない」 | 「二月逆流」で失脚した幹部の復活に根据を与える |
12〜 | 中共中央、「林・陳反党グループの反革命クーデターを粉砕する闘争」を全国に通達。これ以後、「批林整風」運動が全国で展開 | 林彪は資本家、地主の代表と見なされ、林彪批判は「第十回目の路線闘争」だと位置づけられる |
1972年 | ニクソン訪中と古参幹部の復帰 | |
1、10 | 毛、陳毅の追悼会に出席 | |
2、21 | ニクソン訪中、27日、「共同コミュニケ(上海コミュニケ)」を発表 | 中国は72年末までに41カ国と国交回復 |
3、26 | 謝富治、北京で病死 | |
4、24 | 『人民日報』、周恩来の意見に基づいて、「過去の誤りを戒めとして、病を治して人を救う」を発表 | 社説の発表後、大量の古参幹部、専門家、教授が職務に復帰 |
5、1 | 中共中央、「大学高等教育機関の学生募集業務の「裏口利用(走後門)」現象の徹底防止に関する通知」を通達 | |
5、10−6、20 | 中共中央、北京で批林整風報告会を開催、周恩来が講話で、「毛沢東が江青に宛てた手紙」と、いわゆる「伍豪事件」の真相を紹介。 | |
8、1 | 陳雲・王震などの指導者が自由の身となり、建軍記念日慶祝レセプションに出席 | |
8、3 | ?ケ小平が毛に手紙を書き、林彪を批判し、自分に仕事を与えてくれるよう要請 | →14日、毛が?ケ小平の手紙に批示を書き、?ケについては「劉少奇とは区別するべきだ」と指摘。 |
8月 | 江青はロクサーヌ・ウィトケと何度も会見し、ウィトケはこれをもとにして『紅都女皇』(原名『江青同志』)を執筆。 | |
8−9月 | 周恩来は二度の講話の中で、林彪の極左路線を批判する考えを提起 | |
9、25 | 田中角栄訪中 | →27日、中日国交回復 |
10、6 | 周培源・北大副学長が周恩来の指示を受け、『光明日報』に「総合大学の自然科学系教育革命についての若干の見解」を発表、自然科学基礎理論の学習の必要性を強調 | 張春橋、この論文を『文匯報』で批判。「周培源には後ろ盾がいる。」 |
10、14 | 『人民日報』、極左思想と無政府主義を批判する三本の論文を発表 | 張春橋、姚文元はこの三本の論文を「大毒草」と呼び、人民日報社内部で「右傾復活」批判を展開するよう命令 |
11、28 | 党中央対外連絡部・外交部は、林彪反党集団を極左思想として批判することを提起 | 江青らは、林彪を極右として批判するよう主張 |
12、17 | 毛、「林彪は極右である」、「極左思想はあまり批判してはならない」と述べる | この発言以降、極左批判はタブーとされる。 |
1973年 | 第十回党大会 | |
1、1 | 『人民日報』、『解放軍報』、雑誌『紅旗』、元旦社説で林彪一味の反革命の目的は資本主義の復活であったと強調? | この社説以後、林彪の極右批判だけが許され、極左批判はタブーとされる 嘘? |
3、8 | 周恩来、国際婦人デーの記念会で、文革中に迫害にあった外国の専門家に対し遺憾の意を表明。 | |
3、10 | 中共中央、「?ケ小平同志の党での組織生活と国務院副総理の職務への復帰に関する決定」を通達 | →?ケ小平、国務院副総理に復帰、十全大会で中共中央委員に選出 |
3月 | 毛、批林には批孔が必要だと提起し、また、詩の中で郭沫若の孔子崇拝を批判する | |
4 | 国務院、学生募集の文件、実録p4893 | |
4、12 | シアヌーク前カンボジア国家元首の招待宴会で、?ケ小平が復帰後初めて公式の場に登場 | |
4、20ー31 | 北京で中共中央の工作会議が開催され、一群の古参幹部を解放すると宣言、また王洪文・華国鋒・呉徳が党中央政治局の工作に参加することを決定。 | |
4、25 | 毛、福建省の小学校教師李慶霖の手紙に返事を書き、同時に300元を送金。 | →6月10日、中共中央は毛の手紙を全国に通達し、知識青年の上山下郷に伴う問題の解決に着手する。 |
5月 | 『紅旗』誌、「私は辺境の地の一木一草を心からいとおしむ」という文章を発表し、知識青年の朱克家が雲南で辺境に深く根を下ろした「反潮流」の事跡を紹介。 | |
6、27 | 中国、初の水爆実験に成功 | |
6月−7月 | 全国知識青年上山下郷会議 | 知識青年の生活レベルの向上を指示 |
7月1日 | ★成都で「文化大革命の十大罪状」事件が発生 | |
7、10 | 党中央特別事項調査班、「林彪反党グループの反革命罪に関する審査報告」を提出。 | |
河南省唐振扶中学で、生徒の張玉勤が試験に通らなかったため叱責を受けたのち自殺した事件が発生。 | →江青は謝静宜らを派遣し、「唐振扶中学修正主義復活事件」として政治問題化させる。 | |
7、19 | 『遼寧日報』、「深く考えさせられる一枚の答案」 | →張鉄生が、“反潮流の英雄”として宣伝される |
7、28 | 江青・張春橋、映画『園丁之歌』に対して「文化大革命を否定するもの」として批判 | →この後批判論文が組織的に発表される |
8、5 | 毛、自作の詩「『封建論』を読みて――郭沫若に呈す」を江青に朗読させ、郭が秦の始皇帝を否定していると批判 | |
8、7 | 『人民日報』、中山大学教授楊栄国の「孔子――頑固に封建奴隷制を擁護した思想家」を発表 | |
8、20 | 中共中央、「林彪反党集団の反革命罪行に関する審査報告」を批准 | 林彪、陳伯達らの党籍を永遠に剥奪。 |
8、24−28 | 第十回党大会 | 九大路線を継承。周恩来の政治報告(張春橋が起草)、王洪文の党規約改正報告 |
8、30 | 十期一中全会 | 中央委員会主席に毛沢東、副主席に周恩来、王洪文、康生、葉剣英、李徳生。張春橋が中央政治局常務委員に、江青、姚文元が政治局委員に選出され、党内で“四人組”を結成する。 |
9、8−11 | 国務院生産組、「教育戦線批判孔子問題座談会」を開催。 | 中山大学教授楊栄国、「儒法両家的闘争和孔子反動思想的影響」と題する報告を行う。遅群が批孔が批林整風運動の重要な要素であることを提起する。 |
10月−翌年1月 | 江青らの指示で、遅群・謝静宜が北京大学・精華大学で「右傾の逆流[右傾回潮]に反撃する運動」を開始 | |
10、4? 7月? |
毛、王洪文と張春橋との談話で、外交部を批判 | 「大事は討論せず、小事は一日送り。現状は変更せず、勢い修正[主義]をやる」 「林彪の思想の源泉は儒家にあり、林彪は国民党と同じで、どちらも“尊孔反法” |
11月 | 毛の意見に基づき、中共中央政治局は周恩来を批判する会議を開く。 | 江青が周恩来は「待ちきれなくて毛主席に取って代わろうとしており」、これは「十一回目の路線闘争」であると述べる。 |
中央五七芸術大学を設立、江青が名誉学長に就任 | ||
12、12 | 毛、中央政治局会議での講話の中で、周恩来・葉剣英の主管部門について、「政治局は政治を議せず、軍事委員会は軍事を議せず」と批判。 | 毛、?ケ小平の中央政治局・軍事委員会入りと、総参謀長就任を提議。 |
12、12 | 『北京日報』、北京の小学生黄師の手紙と日記の要約を掲載。28日『人民日報』が転載。 | この後、江青らの手配により、全国の教育界に「師道の尊厳」批判と、「反潮流」の運動が巻き起こされ、林彪事件後、落ち着きを取り戻し始めていた教育界は再び大混乱に陥る。 |
12、21 | 新華社、68年12月22日から現在までの5年間で800万の知識青年が上山下郷したことを報道 | |
毛、賀龍・羅瑞卿らを誤って罪に落としてしまったと自己批判する。また朱徳を「紅い司令」であると指摘。 | ||
12、30 | 毛のある講話の主旨に基づき、国務院科学教育組と北京市委員会は、突然北京の17の大学の教授・助教授613人に対して、数学・物理・化学のテストを実施、結果はわずか53人が合格。いわゆる「教授テスト事件」 | |
1974年 | 批林批孔 | |
1、1 | 『人民日報』など三紙誌が「元旦祝辞」で、「批林批孔」を呼びかける | |
1、4 | 『人民日報』、「孔子が少正○を殺したことは何を説明しているのか」 | 孔子を「儒者宰相」と呼び暗に周恩来を攻撃 |
1、14日 | 上海港湾局の労働者が「出来高のみに縛られる奴隷にはならない」との大字報を貼りだす。 | →2月1日、『人民日報』がこれを転載。この後全国に「誤った路線のためには生産をしない」という風潮が高まる。 |
1、18 | 党中央、北京大学、清華大学の「大批判組」によって編集された「林彪と孔孟の道」(材料の一)を中央文件として全党に配布 | 「批林整風」運動が「批林批孔」運動へと変わる |
『人民日報』、南京大学の労農兵出身学生の鐘志民が「裏口利用」に反対し退学を申し出た報告文を発表 | ||
1、19 | 西沙海戦 | 中国海軍が西沙群島に入り込んできた南ベトナム軍に対し、「反撃戦」を展開 |
1、23−2、20 | 北京で華北地区文学芸術選抜公演を挙行される。 | 公演期間中、江青・于会泳らは普劇「三上桃峰」を、「劉少奇、王光美の名誉回復を図る」ものだと批判(『三上桃峰』事件)。 |
1、24−25 | 江青、首都体育館で「批林批孔」動員大会を開催 | 大会に参加した周恩来、葉剣英らを批判。 |
1、30 | 『人民日報』、「悪辣な下心、卑劣な手段」を発表し、イタリアの監督アントニオーニによる映画『中国』を批判 | |
2、10日 | カタツムリ事件 | 江青、周恩来と対外貿易部門を「外国にかぶれ、外国に媚びる」ものとして批判。 |
2、11日 | 『人民日報』、北京の小学生黄師が「王亜卓」に宛てた手紙を発表。 | →王亜卓批判事件 |
2、20日 | 中共中央、「指導幹部の「裏口利用」による子女の入隊・入学に関する通知」を発行。 | |
2、14−4、5 | 江青・于会泳らが「黒い絵画」展覧会を開催し、周恩来が指図して創作させた輸出用の中国画を批判 | |
2、22 | 毛、ザンビア大統領との談話の中で“三つの世界観”を提起 | |
2、25 | 毛、葉剣英への手紙の中で、江青らによる批林批孔のやり方を批判 | |
3、1 | 張春橋、『解放軍報』の文章を批判し、中央政治局を通して『解放軍報』の停刊事件を引き起こす。 | |
3、5 | 江青・張春橋が陳亜丁らを呼んで会見し、軍の総参謀部の攪乱を狙って、「放火焼荒事件」を引き起こすよう指示 | |
3、12 | 江青、北京の中学教師からの手紙に批示をし、北京「永楽中学事件」を引き起こす | |
3、15 | 『光明日報』、張永枚の詩ルポ「西沙の戦い」を発表 | |
3月 | 江青の御用執筆グループの「梁効」が正式に成立。 | 4月1日、『紅旗』誌に「孔丘という人物」を発表 |
4、10 | 中共中央が通知を出し、批林批孔による社会混乱の拡大を阻止するため、運動は大衆組織を結成する必要はなく、党委員会の統一指導下で実施することを規定 | |
?ケ小平、国連第六期特別会議で演説 | 「中国は社会主義国家であり、また発展途上国でもある。中国は第三世界に属す」 | |
6、1 | 『人民日報』、江青の指図によって創作された北京西四北小学校の「革命童謡」を報道する。 | |
6、19 | 江青、天津儒法闘争史報告会を開催 | 江青、「今回の運動の重点は党内の大儒を批判することである」 |
7、1 | 中共中央、「革命に力を入れ、生産を促すことに関する通知」を発表 | 批林批孔による生産停滞の打開を図る |
7、17 | 毛、中央政治局会議で江青、張春橋、姚文元らを批判 | 毛「四人の小セクトを作ってはならない」【四人小宗派】 |
8、13 | 北京で四省・市の文芸選抜公演を挙行 | |
9、29 | 中共中央、賀龍の名誉回復を通知 | |
10、4 | 毛、?ケ小平を国務院第一副総理に任命するよう提案 | |
10、11 | 党中央、近く第四期全国人民代表大会を開催することを通知 | 毛、「現在は安定が必要だ。全党、全軍は団結すべきである」 |
10、12 | 『文匯報』、『解放日報』、「★ | 風慶号事件 |
10、17 | 江青ら政治局会議で、「風慶号事件」について?ケ小平に問いただす。 | |
10、18 | 王洪文、長沙の毛を訪れ、?ケ小平を批判 | 毛は逆に王洪文を叱責する |
10月 | 吉林で「44号重大反革命事件」が発生し、労働者の史雲峰が劉少奇の名誉回復を呼びかける | |
11 | ★広州に「李一哲」の壁新聞が登場する | 文革中の専制政治を糾弾し、「林彪体制と切っても切れぬ関係だったあの人たち」といった言葉で江青らを批判 |
11、29 | 彭徳懐、拘禁中に無実の罪のまま死去 | |
12、2 | 『人民日報』、朝陽農学院の「人民公社から来て人民公社に戻る」経験を紹介した調査報告を発表 | |
12、12 | 毛遠新、遼寧省彰武県ハルタオ公社を訪問し、「ハルタオの大定期市」という「新生事物」を宣伝する。 | |
12、23 | 毛、周恩来、王洪文と会見 | 毛、?ケ小平を高く評価、「得難い人材であり、政治思想は強固」 |
1975年 | ?ケ小平による整頓 | |
1、5 | 中共中央、?ケ小平を軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に任命すると同時に、張春橋を総政治部主任に任命(前任は李徳生) | |
1、8−10 | 十期二中全会 | ?ケ小平を中共中央副主席、中央政治局常務委員に選出(前任は李徳生) |
1、13−17 | 第四期全国人民代表大会 | 周恩来の「政治工作報告」、張春橋の「憲法改正に関する報告」 周恩来、四つの近代化を提唱、?ケ小平、国務院副総理に選出される |
1、25 | ?ケ小平、総参謀部機関団以上の幹部会の演説で「軍隊は整頓しなければならない」という講話を行う。 | |
2 | 映画『海霞』をめぐる論争がはじまる | らが一致して肯定した映画『海霞』の放映を、于会泳らが拒否。江青らは『海霞』を文化部の「右からの巻き返し」の「典型事件」として、矛先を周恩来、?ケ小平らにむけた |
2、1 | 『紅旗』誌が「池恒」の「真剣にプロレタリア独裁の理論を学習しよう」を発表 | |
2、5 | 党中央、中央軍事委員会事務会議(71年10月設立)を廃止し、党中央軍事委員会常務委員会を設立する旨の通知を出す。 | 葉剣英、王洪文、?ケ小平、張春橋など11名が常務委員となり、葉剣英が業務を主宰。 |
2、9 | 『人民日報』、「プロレタリア独裁の理論をしっかり学ぼう」 | |
2、10 | 党中央、「1975年国民経済計画を回覧審査する通知」 | 経済の向上と生産の促進を呼びかける |
2、18 | 党中央、「毛主席の理論問題に関する重要指示」を全国に配布 | |
2、22 | 『人民日報』、「マルクス・エンゲルス・レーニンのプロレタリア独裁論」(いわゆる三十三条) | |
3、1 | 張春橋、政治部主任座談会で経験主義を批判 | 「物質的刺激、利潤優先、奨励金などは制限すべきである」 |
『紅旗』第三期、姚文元「林彪反党集団の社会的基盤について」 | 「今や主要な危険は経験主義である」 | |
3、5 | 党中央、「鉄道工作を強化することに関する決定」(九号文件) | |
4、1 | 『人民日報』、張春橋「ブルジョア階級に対する全面独裁について」 | |
4、4 | もと遼寧省委員会宣伝部女性幹部の張志新が投獄のすえ殺される。 | |
4、27 | 江青、政治局会議で自己批判 | ★ |
4月 | ★于会泳らが「陶鈍事件」をでっちあげる | |
5、3 | 毛、中央政治局委員を集めた談話で江青らを批判 | 毛「四人組をやってはならない」 |
5、29 | ?ケ小平、鋼鉄工業座談会で演説 | |
5 | ?ケ小平、文芸の整頓について毛に相談 | 毛「模範劇は数が少ないし、少しでも問題があるとすぐに批判される。あの連中以外は意見を言うこともできない」 |
6、2 | 中共中央、江蘇省委員会の「徐海の経験」を批准通達★ | |
6、4 | 中共中央、「今年の鉄鋼生産計画を努力して達成することに関する指示」 | |
6、24−7、15 | 中央軍事委員会拡大会議が開かれ、葉剣英・?ケ小平が講話をし、軍隊の整頓を提起。 | →7月17日、中共中央が二人の講話を通達する。 |
7、14 | 毛、文芸政策に対する調整の必要性を述べる | 毛、「詩歌も小説も、散文も文芸評論も数が足りない。作家に対しては、過去の誤りを今後の戒めとして立派に成長するよう指導し、潜伏したり、重大な反革命行為をする反革命分子以外の者には手を差し伸べるべきだ」 |
7、18 | 『創業』のシナリオライター張天民が毛に手紙 | →7月24日、毛「この映画に大きな誤りはない。十以上の罪名をつけるのはやりすぎだ」 |
7月−8月 | 毛沢東の江青に対する批判が世間の噂となる。翌年になって「7・8・9月の政治的デマ」として追跡調査が行われる。 | |
8、8 | 中央五七芸術大学の教師の李春光が大字報を貼りだし、江青らの専制主義を批判 | |
8、13 | 清華大学党委員会副書記の劉冰が毛沢東の上申書を送り、遅群・謝静宜の問題を告発。 | 10月13日、再び書面で告発する。 |
8、14 | 北京大学教授・蘆荻が、『水滸伝』に関する毛沢東の発言を文章にまとめ、姚文元に渡す。 | |
8、26 | 『紅旗』誌、「『水滸』についての評論を重視しよう」という短文を掲載し、「投降派」の摘発を提起する | |
8月−10月 | ||
9、2 | 国務院、「工業発展を速めることに関する若干の問題について」(「工業二十条」)草稿 | 江青らの妨害により正式文書としては伝達されず |
9、4 | 『人民日報』、毛の『水滸』についての評論を公布し、あわせて「『水滸』についての評論を展開しよう」という社説を発表。 | この後、毛沢東の批評を論点として『水滸伝』批判が新聞や雑誌に相次いで登場し、全国で「『水滸』を論評し、投降派に反対する」運動が展開する。 |
9、26 | 胡耀邦、「科学技術工作に関するいくつかの問題」(報告要綱)を作成し?ケ小平に報告 | ?ケ「科学研究も生産力と見なさなければならない」 |
9、15−10、19 | 「農業は大寨に学ぶ」全国会議 | |
9、23−10、21 | 農村工作座談会 | 陳永貴が提起した、人民公社の計算単位を生産隊から大隊へ移すことに関して、集中的に討論される。 |
10月初め | 新華社の朱○之・○青・李琴が毛に書状を送り、江青が大寨で話した講話の問題点を告発 | |
10、1 | 造反で名を挙げた舒竜山が毛に対し、張愛○を「右からの巻き返し」を狙っていると攻撃した書簡を送る。 | |
10、21 | 『人民日報』、「大寨型の県を広めよう」と題する社説を発表。 | 「社会主義の道を歩むのか、それとも資本主義の道を歩むのかが、終始社会主義の歴史段階での農村の主要矛盾である」 |
10、25 | 清華大学幹部の林○万が毛に書簡を送り、周栄○を攻撃して、遅群の歓心を買う。 | |
10月 | 国務院政治研究室、「全党、全国の各項の工作の総綱について」を起草 | 「右からの巻き返しへの反撃」により発表されず |
9月末−11月初め | 毛、?ケ小平を代表とする一部の古参幹部を批判 | 「一部の同志、特に古参同志の思想はまだブルジョア階級の民主主義革命の段階で停滞しており、社会主義革命を理解せず、不満を感じ、さらには反対している。文革に対しては二つの態度が見られる。一つは文革に対して不満を持つもの、もう一つは文革のツケを返そうとするものである」 |
11、2 | 毛は毛遠新の報告を聞いたのち、劉冰の8月13日付と10月13日付の手紙は「矛先を私に向けたものである」と述べ、中央政治局に会議を開いて?ケ小平を批判するよう要求。 | ?ケ小平は会議で毛遠新の批判に対し反駁するが、その後大部分の工作を停止され、もっぱら渉外関係を管轄 |
11、3 | 清華大学党委、常務委員会拡大会議で、遅群に対する毛の支持を伝達 | これにより、「右からの巻き返しの風に反撃する」運動が開始される。 |
12、1 | 『紅旗』誌、「教育革命の方向の改竄は許されない」を掲載 | 「教育戦線上のこの論争」は「現在の社会における二つの階級、道、路線の闘争の構成要素である」 |
12、16 | 康生が北京で病死 | |
1976年 | 毛沢東死去と四人組の打倒 | |
1、1 | 三紙誌は共同社説「世の中に難事はなく、ただ敢えて登攀を要するのみ」を発表し、「安定団結とは階級闘争が不要ということではない」という毛の指示を伝える。 | |
1、8 | 周恩来、死去 | |
1、12 | ★張春橋のそそのかしで「更新号事件」が引き起こされる | |
1、15 | 周恩来の追悼会を北京で開催。王洪文が主宰し、?ケ小平が弔辞を読む | |
1、21-28 | 毛の提案で、華国鋒が国務院代理総理に就任し、かつ党中央の日常工作を主宰することが確定する。 | |
1月 | 浙江省杭州の労働者の李君旭が書いた「周恩来の遺言」が世間に流布しはじめる。 | |
2、2 | 中共中央は通知を出し、華国鋒の代理総理就任と、陳錫聯が葉剣英に代わって中央軍事委員会の工作を主宰することを宣布。 | |
2、3 | ★張春橋が「1976年2月3日の所感」を書く。 | |
2、16 | 中共中央は中央軍事委員会に報告を批准して下部に通達し、?ケ小平・葉剣英の1975年7月の軍事委員会拡大会議における講話に誤りがあったとして、二人の講話の内容の実行を中止 | |
2、25 | 党中央は各省・市・自治区と各大軍区の責任者の会議を開き、毛遠新が整理した「毛沢東主席の重要指示」(1975年10月から76年1月までの毛の「?ケ批判と、右からの巻き返しの風への反撃」に関する講話)を伝達。華国鋒が講話を行い、「?ケ批判」を深めるよう全党に要求。 | |
3、3 | 中共中央は通知を出し、「毛主席の重要指示」と華国鋒の2月25日の講話を通達。 | 党内 正式に「?ケ批判」が開始される。 |
3、10 | 『人民日報』は社説「巻き返しは人心を得ない」を発表し、毛の?ケ小平に対する批判を伝える。 | |
3、16ー23 | 文化部が創作座談会を開催する。江青は于会泳に指示して「走資派との闘争を描いた作品が登場する」よう手配させる。 | |
3、24ー30 | 南京で、周恩来を追悼し四人組に反対する大衆運動が勃発 | |
3、29 | 安徽省蕪湖で、四人組に反対し、?ケ小平を擁護しよう、という大スローガンが貼りだされる。 | |
3月下旬−4月初旬 | 天安門広場に数十万人が集まり、周恩来を追悼し、四人組を糾弾 | |
4、4 | 中央政治局は同夜の会議で「天安門事件」につき討論、これを反革命事件と断定。 | |
4、5 | 早朝、天安門広場の花輪が撤去される。当日、憤慨した民衆が指導部の自動車と建物を焼き討ちする。その夜、広場にいた民衆は民兵・警察・軍隊の鎮圧される。 | |
4、7 | 北京市革命委員会は「緊急通知」を出し、「天安門事件」は「解放以前にもなかった最大の反革命事件」であると指摘。 | |
毛は毛遠新の報告を聴取したのち、?ケ小平をすべての職務から解任して、党籍保留のまま、その後の態度を見ることを提起する。 | ||
中央政治局は「華国鋒同志の中共中央第一副主席・国務院総理就任に関する決議」と「?ケ小平の党内外のすべての職務の解任に関する決議」を可決し、全国に正式に放送する。 | ||
4、8 | 『人民日報』が現場ルポ「天安門広場の反革命政治事件」を発表 | |
4、12 | 教育部長の周栄○が批判闘争中に死去 | |
5、16 | 三紙誌が「文化大革命は永久に光芒を放つ――中共中央の『5・16通知』十周年を記念して」と題する文章を発表 | |
6、9 | 四人組が上海で「銅製プレート事件」を引き起こす | |
中旬 | 四人組が上海で「対外貿易関係倉庫調査事件」を引き起こす | |
7、6 | 朱徳が死去 | |
7、28 | 河北省唐山・豊南地区でマグニチュード7.8の大地震が発生。死亡24万2千人、重傷16万4千人 | |
8月 | 全国で「三株の大毒草」批判が展開される。 | |
9、9 | 毛沢東が死去 | |
9、16 | 三紙誌は社説「毛主席は永遠に我々の心の中に生きる」を発表し、いわゆる「臨終での遺言」と「既定方針どおりに行う」の言葉を公表 | |
9、18 | 天安門広場で100万人の毛沢東追悼大会が挙行され、王洪文が主宰し、華国鋒が弔辞を読む | |
10、2 | 華国鋒が○冠華の発言原稿の「既定方針通りに行う」を削除し、誤りがあると指摘。 | |
10、4 | 『光明日報』が梁効の文章「永遠に毛主席の既定方針通りに行う」を発表し、暗に華国鋒を攻撃。 | 「修正主義の頭目が厚かましくも毛主席の既定方針を改竄している」 |
10、6 | 華国鋒・葉剣英らが、江青、張春橋、王洪文、姚文元を逮捕、彼らに対する隔離審査を実施。 | |
10、7 | 中央政治局が、華国鋒の中共中央主席・中央軍事委員会主席就任を全会一致で決議 | |
10月8−15 | 中央政治局は事前心得会議(打招呼会議)を開催し、四人組の粉砕を宣言する。 | 同じ頃、上海の四人組グループが武装暴動を画策したが、制圧される。 |
10、18 | 中共中央が、全党に向けて四人組に対する隔離審査の決定を通知 | |
10、21−30 | 全国各地で四人組打倒を祝賀する集会とデモ行進が挙行される。 | |
10、25 | 三紙誌が社説「偉大な歴史的勝利」を発表し、四人組打倒のニュースを公開 | |
12、10 | 中共中央が通知を出し「王洪文・張春橋・江青・姚文元反党集団の罪証」(資料の一)を通達。 | 翌年3月6日に「資料の二」、9月23日に「資料の三」を通達 |
1977年 | ||
1月 | 李冬民らが?ケ小平の職務復帰を要求する大字報を貼りだしたが、華国鋒・呉徳に「反革命事件」と断定される。 | |
2、7 | 三紙誌が社説「文献をよく学びかなめをつかもう」を発表し、初めて公に「二つのすべて」を提起 | |
3、10−22 | 中央工作会議が開かれ、「天安門事件」の名誉回復を求める主張が否定される | |
7、16−21 | 中共第十期三中全会が開催、王洪文・張春橋・江青・姚文元を党から永遠に除名する決定を採択。?ケ小平の指導的職務を回復 | |
8、12−18 | 中共第十一期全国代表大会が開催、華国鋒が政治報告を行い、文化大革命の終結を宣言 | |
12、10 | 中共中央は胡耀邦を中央組織部部長に任命し、全国的範囲で冤罪事件の名誉回復を開始する | |
1978年 | ||
2、18−23 | 中共第十二期二中全会が開催される | |
2、26-3、5 | 第五期全人代第一回会議開催 | 葉剣英を委員長に選出 |
4、5 | 中共中央はすべての右派分子のレッテルを取り去ることを批准 | |
5、11 | 『光明日報』が「実践は真理を検証する唯一の基準である」と題した文章を発表し、真理基準問題に関する大討論を引き起こす | |
9、10 | 復刊した雑誌『中国青年』が天安門事件の詩文を掲載したが、汪東興の指示で回収される | |
11、14 | 中央政治局常務委員会の批准を経て、北京市委員会が「天安門事件」の冤罪を晴らすことを宣布。 | |
12、18−22 | 中共第十一期三中全会が開催され、文化大革命およびそれ以前の誤りの全面的な是正を開始。彭徳懐・陶鋳・薄一波・楊尚昆などに対する |
「四人組」逮捕は一九七六年のことであるから、すでに二二年を経た。この歳月を経て、歴史の真実が少しずつ浮かびあがってきた。いわゆる「四人組」が江青、張春橋、王洪文、姚文元を指すことはいうまでもない。これに毛沢東を加えて「五人組」とする解釈は当時広く行われたが、「八人組」説は今回初めて知った。
胡績偉著『従華国鋒下台到胡耀邦下台』(香港明鏡出版社、九七年一一月初版、九八年四月二版)のことは、前から気にしていたが、最近になってようやく開いて、興味津々である。
裏表紙には七六年九月一二日早暁、中南海撮影小組杜修賢の写した一枚のカラー写真が掲げられている。毛沢東の柩の前で手をつなぎあう八人組の姿を鮮明に写している。向かって左から数えると、張春橋、王洪文、江青、華国鋒、毛遠新、姚文元、陳錫聯、汪東興である。この八人組の並び方およびそれぞれが手をつなぎあっている姿、そして厳粛な表情が印象的である。
七六年九月一二日早暁というのは、九月九日の死去三日後である。そして一〇月六日には、この八人組から「四人組」が作られ、華国鋒と汪東興は「四人組」逮捕の主役を演じることになる。八人組を「一分為二」して対象をしぼり、逮捕劇の主役をそのなかから選ぶという脚本がどのように書かれたのか、粗筋を書いたのは誰かなど、これまでの公認の説明とは異なる真相への道が当時の『人民日報』社長、総編輯の手で切り開かれたわけだ。今年は真理基準論争二〇周年であり、その舞台裏でどのような闘争が行われたのか、華国鋒の功罪をどのように評価するのか、新聞界の覇王胡喬木批判、開明派胡耀邦への挽歌など、この本は「屍を借りて、魂を還す」ことを防ぐための回想録である。「屍を借りて、魂を還す」とは、元来は胡耀邦の言葉だという。すなわち「四人組の捲土重来はありえないが、専制主義の魂を保守派が還すことはありうるので、これと闘うべしとする改革派の気概を示すものである。この本は大陸ではまだ出版を許されていないが、八二歳の胡績偉老自身は大陸で矍鑠と生きている。
ヘビアタマとアタマヘビについて-------白石法学士に答える
『蒼蒼』第八一号の「蛇頭考」を読んで、感じたことを書き留めておく。
私はこれまで、二回、白石法学士によって救われた体験がある。最初は、例の何新事件である。なにしろ、中国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』(九〇年一二月一一日)がとんでもない捏造記事を掲げたのであるから、私はブッたまげた。おろおろする私を叱咤激励して、抗議文の書き方を手ほどきしてもらった。この恩義は忘れがたい。当時は、天安門事件の直後、そして旧ソ連解体の前夜であった。中国にとって、国家非常時にあたり、中国共産党も『人民日報』も狂ったわけだ。このとき、私は断固とした立場を堅持し、私自身の名誉を守ることができた。それはなにがしかの意味で、『人民日報』自身が頭を冷やす契機になったものと私は確信している。『人民日報』論調のその後の変化は、それを示唆する。いわゆる皇甫平論文である。そのときに登場したキーワードの一つが「帯頭羊」である。これは皇甫平第一評論「改革開放の導きの羊たれ」(『解放日報』二月一五日)のタイトルであるから、文字通り「帯頭語」である。この「頭羊」を白石検察官は、どのように説明するのか、興味津々である。「羊頭は羊の頭そのものであって、それ以上の意味はないし、したがって、羊頭であるか、頭羊であるかを議論する人もいない」、と切り捨ててよいのか。
蛇や龍についてのみ、「頭脳」を感じ、羊について同じ扱いをしないのは不当である。「羊頭狗肉」は北方世界の話、「狗頭羊肉」こそが南方のペテン師の世界であることも重要な視点であろう。
白石法学士にもう一度救われたことかある。ある著名な出版社がわれわれの『チャイナ・クライシス』に関わる剽窃事件を引き起こした。共著者の私も村田忠禧もこの種のやりとりにはまことに暗い。ひたすら,怒るばかりだ。ここでただひとり、白石法学士が冷静な頭脳を働かせて、事態を分析し、孤軍奮闘した。先方の有力弁護士(大出版社のお抱え弁護士が無能では勤まるまい。先方は私と同じ世代、同じ大学で学ぶ優秀な法学士であったことは、和解後に知った)の論理を逐一論破し、ついに先方の非を認めさせ、われわれは勝利した。ただし、勝利の代価はン万円也であり、限りなく千円札に近かった。これに費やした時間と得た代償は、コスト・ベネフィット・アナリシスからは、とうてい問題にならない。われわれはただ、白石法学士の「論理」でわれわれの「名誉」だけをまもることができたにすぎない(名誉を守るために、これほどのコストがかかる社会とは、市場経済の論理が貫徹していないね。著作権法の世界は基本的に泣き寝入りの社会なのかも)。
さて、『「蛇頭」考』だが、これは白石法学士の頭脳構造、論理構造を知る最良の証拠資料である。読者の便宜のために、あらかじめ、私の結論を提示しておく。
南方語「頭家」(タウケー)が私の証人である。いま愛知大学編『中日大辞典』を開くと、「賭博の胴元」のイミしか書かれていない。『現代漢語詞典』には、「胴元」のほか「庄家」「上家」という説明があるが、基本的にバクチがらみ語彙である。最後に「方言」として「店主、老板」と説明されているが、私の求めたのはこの意味である。三〇年前、東南アジアを放浪して、しばしば耳にしたのが「タウケー」であり、これはバクチの話ではなく、「老板」を指していた。つまり、「タウケー」の漢字は「頭家」だが、南方語(ここでは福建語)の論理では、これは「頭+家」ではなく、「家+頭」なのである。「家人」「家属」「家小」に対して「家頭」なのである。したがって北方語の「家長」と類似のコトバであり、商家ならまさに「老板」である(三〇年前に触れたコトバを突然想起するのは、近頃はすっかり落ち目になったかに見えるが、「華人ネットワーク」論などといういかがわしい議論の危うさに気づかない日本人の無知を憂えてのことだ)。
白石検察官の結論は以下の通りである。まず前提として、「蛇とは密航者」である。この定義に対しては私も異論はない。同意する。
(1)「蛇=密航者の頭脳の機能を果たすものが蛇頭である」。
(2)蛇頭は、「一人の人間であっても、グループの数人であっても、組織体であってもよい」。
(3)「蛇頭という言葉は機能に着目している言葉」である。
(4)「機能を果たす主体については限定を加えていない」。
以上の分析に基づいて、白石検察官は被告に対して、こう有罪を宣告する。
「蛇頭を犯罪集団の頭目に限定することは、機能を果たす主体に対して勝手に限定を加えていることであり、それがこの解釈を誤りとする所以である」と。
白石検察官は、(2)蛇頭は、「一人の人間であっても、グループの数人であっても、組織体であってもよい」、と犯罪者の主体が「単独犯」か、「複数犯」か、あるいはその複数者が組織を構成しているものと認定できるかどうかに注目している。
ここで白石検察官は、(3)において、蛇頭という言葉は「機能に着目している言葉」だと念を押しているが、実は、それは(4)から分かるように、機能を果たす(犯罪者の)「主体」に着目しているにすぎない。要するに、検察官の目から見ると、「単独犯」か、「複数犯」か。その複数者が「組織である」と断定できるかどうかに注目しており、それ以外には関心はないごとくである。かくて、このポイントに焦点をしぼり、矢吹(高木)が「頭目、首長、オカシラ、首領さま」と説明したことは、誤りであり、有罪だと宣告するわけである。
だが、ここがまさに白石検察官の弱点になるであろう。それが弁証法の論理というものである。
まずは検察官の証拠を点検しよう。
事例1の典拠は『人民日報』九五年である。「密航者六八三名、蛇頭二〇〇名余」から、検察官は両者の比率を問題にする(被告の声。密航者が蛇は当然、蛇頭は密航斡旋組織の大ボス、小ボスを指す。首領もボスも同じこと)。
事例2の典拠は『解放日報』九五年である。検察官は「一四名の密航者に四名の蛇頭」が同行したことを問題にしている(被告の声。基本的には事例1と同じだね)。
事例3の典拠は『中国信息報』九六年である。検察官曰く「部下のいない首領さまはおかしい、商品に手を出すのは三下」だ(三下とは、むろんバクチ打ちの仲間で一番身分が低い者のこと)。
では、白石検察官に反論しよう。
まず第一の事実は、これらの辞書の出版がいずれも一九九五〜九六年であること。すなわち記載内容は、きわめて新しい。これは歴史的実証に耐えうるであろうか。「蛇頭の原義」から乖離した用法によって汚染されているように思われる。
第二に、これらの媒体の出版地はいずれも、北京あるいは上海であり、広東省のものではない。書き手は、おそらくは広東語(あるいはタイ語、ミャオ語)など南方語についての知識を欠いている可能性が強い。ここで特に着目すべきは、『人民日報』(九七年五月二七日)がヘビについての特別な発明を行っている事実である。「蛇は、昼は寝て夜歩き、警戒心が非常に強い」といった解説は、生身のヘビを知らぬ者に必要なものである。蛇を龍と名付けて食し、そこから「補身」のスタミナを得ようとする。あるいはこれを飼育し、家畜同様に珍重する南方人にとっては、有害無益な解説である。この種の偏見を免れないヘビ・イメージに基づく論断からは、公正妥当な判決を期待できない(白石検察官が京劇「白蛇伝」に詳しいことは承知しているが、あれは龍の話だ)。
次に検察官は、辞書の解釈をまとめて「蛇は密航者そのもの」と総括する。
ここで検察官が用いた辞書は
(1)『中国民間方言詞典』(天津)
(2)『漢語新詞詞典』(北京)
(3)『俚語隠語行語詞典』(上海)
(4)『隠語行話黒話秘笈釈義』(北京)
(5)『語海・秘密語分冊』(上海)
である。
被告(矢吹)が注意を喚起したいのは、まずこれらの辞書の出版地である。すべて上海以北であり、広東は含まれていない。次に、これらの辞書の性格である。(1)は「方言」、(2)は,「新詞」、(3)は「俚語・隠語・行語」、(4)は「隠語・行話・黒話」、(5)は「秘密語」である。五種類の「辞書」のうち、(2)を除けば、すべてこのコトバが「正統的な漢語」ではないことを示唆している。フツーの漢語辞書にはないコトバなのだ。
かくて、白石検察官の論告求刑に対する被告の弁論は、以下の論理構成となるるが、まず訴えたいのは、「蛇頭」なるコトバは、いつ、どこで生まれたのか、どのように使われてきたのか、についての考察である。
検察官は「一九九五〜九六年の資料」に基づいて、「釈然としない経験」を語っているが、これは現代北京標準語の「書き言葉」の語感で、南方中国語の「話し言葉」を扱うものであり、はなはだ遺憾である。
ちなみに、北方中国語の帝国主義的発想からすると、このコトバは、せいぜい「方言」、「新詞」である。これらの表現は許容するとしても、「俚語・隠語・行語」、「隠語・行話・黒話」、「秘密語」としか認定しないところには、検察官の自大主義、権威主義が露呈している。これでは正当な判断は期待しがたい。この点、はなはだ不満である。
第二に、これらの媒体はいずれも、北京あるいは上海であり、南方中国のものではなく、それゆえ広東語(あるいはタイ語、ミャオ語)など南方語についての正確な判断を期待し難い。検察官の不当な求刑についての弁明は以上の通りだが、この際、被告としてあえて強調しておきいたい論点がある。
それは検察官の論理のすり替え問題である。被告は元来、南方中国語の基本的特質として、形容句が名詞の後に位置する順行構造の例として、「大哥大」と並べて「蛇頭」をあげ、これは北方中国語的表現方法によれば、「大(大哥)」、「頭蛇」の含意である、と論じたものである。このエッセイを読んで旧友高木誠一郎教授は、おそらく「セ・タウ」なる耳慣れない表現とともに、香港の巷の匂いを想起したものである。そこで矢吹・高木の感性は、一致して「酒量」が一段と増え、「首領」なる日本語が意識に上ったものである。検察官は、この「首領」概念を強調して、「単独、複数、組織」にこだわり、ここから一点突破、カシラヘビを粉砕しようとした。ヘビにカシラがあるのならば、カシラのようなヘビがいてもおかしくはあるまい。「羊頭狗肉」があれば、「帯頭羊」もあるのだから。重要なポイントは、やはり広東語と北方語の語法である。この論点を外した論証は、以下に精緻なものであれ、判断に際しては排されるべきである。この意味で、本件は、棄却さるべきものと思料する。ただし、検察官が集めた証拠調べは用意周到であり、歴史的に北方語に蹂躪されつつある南方語の運命を示唆した点では、意味のある考察と評価されるであろう。この意味では、検察官の論告文中、「最後の八行」にこそ真実が宿ると被告は確信している。
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(私論.私見)
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年 | 月 | 日 | 出 来 事 |
1949 | 9 | 21 | 第1回人民政協開催。毛沢東を中央人民政府委員会主席に選出 |
10 | 1 | 毛沢東、中華人民共和国建国を宣言 | |
2 | ソ連、中国を承認 | ||
16 | 蒋介石の国民党政府、重慶に移転 | ||
12 | 10 | 蒋介石、台湾へ | |
16 | 毛沢東、訪ソ。スターリンと首脳会談 | ||
30 | インド、中国を承認 | ||
1950 | 1 | 6 | 英国、中国を承認 |
13 | ベトナム民主共和国、独立を宣言 | ||
31 | 人民解放軍総司令部、チベットを除く全中国本土の解放を宣言 | ||
2 | 14 | 中ソ友好同盟相互援助条約調印 | |
6 | 25 | 朝鮮戦争勃発 | |
10 | 8 | 党中央、中国人民義勇軍の朝鮮戦線出動を決定 | |
25 | 中国人民義勇軍、朝鮮戦線に出動。彭徳懐を中国人民志願軍の司令官兼政治委員に任命 | ||
1951 | 1 | 4 | 中国・朝鮮人民軍、ソウル入城 |
2 | 1 | 国連総会、中国を「侵略者」と決議 | |
3 | 24 | マッカーサー「中国本土攻撃も辞せず」 | |
4 | 11 | マッカーサーが国連軍最高司令官、GHQ最高司令官を解任される。後任にリッジウェイ中将 | |
5 | 20 | 人民日報社説。映画「武訓伝」の批判キャンペーン(筆者は毛沢東) | |
23 | チベット政府と北京で「西蔵の平和的解放の弁法に関する協定」 | ||
9 | 8 | サンフランシスコ対日講話条約。日米安保条約締結 | |
10 | 16 | 人民解放軍、チベットに進駐 | |
12 | 8 | 三反運動始まる | |
1952 | 2 | 10 | 人民解放軍チベット軍区成立 |
4 | 28 | 日華平和条約締結 | |
5 | 5 | 周恩来総理、対日講和発行に反対声明 | |
6 | 1 | 中・日貿易協定に調印 | |
8 | 20 | スターリン・周恩来会談 | |
12 | 8 | 毛沢東主席、チベット政府代表団と会談。対チベット政策を明示 | |
1953 | 第1次5カ年計画 | ||
3 | 5 | スターリン死去 | |
6 | 全国財経工作会議、「過渡期の総路線を討議」(6月下旬〜8月) | ||
7 | 27 | 朝鮮休戦協定調印 | |
9 | 12 | ソ連共産党第1書記にフルシチョフ | |
28 | 中ソ経済技術援助協定調印 | ||
10 | 14 | 徳田球一、北京で客死 | |
12 | 16 | 党中央委員会、農業生産合作社発展に関する決議を採択 | |
1954 | 2 | 6 | 7期4中全会(〜10日)。高崗らを除名 |
5 | 7 | ベトナム人民軍、ディエンビエンフーで勝利。仏、インドシナ戦争敗退へ | |
6 | 28 | 周恩来、ネルー首相、「平和5原則」を盛り込んだ共同声明を発表 | |
7 | 21 | インドシナ、ジュネーブ休戦協定 | |
8 | 1 | 朱徳総司令、「台湾解放」を強調 | |
9 | 15 | 第1期全人代開催(〜28日)。常務委員長に劉少奇。憲法を採択・公布 | |
20 | 中華人民共和国憲法公布(20日) | ||
29 | フルシチョフ第1書記が北京訪問。中ソ首脳会談 | ||
10 | 12 | 中ソ共同宣言 | |
12 | 2 | 米国と台湾、「米華相互防衛条約」調印 | |
1955 | 2 | 16 | 米第7艦隊、台湾防衛のためと台湾海峡に集結 |
4 | 15 | 日中民間漁業協定調印 | |
4 | 18 | 第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)。平和10原則採択 | |
5 | 14 | ソ連と東欧7カ国、ワルシャワ条約に調印 | |
6 | 25 | 訪中のホー・チ・ミン北ベトナム大統領、毛沢東主席と会談 | |
8 | 1 | 第1回米中大使級会談 | |
9 | 4 | 人民解放軍と台湾軍が金門島で砲撃戦 | |
10 | 26 | 南ベトナム共和国樹立宣言。ゴ・ジン・ジエムが大統領就任 | |
1956 | 2 | 14 | ソ連共産党20回大会。フルシチョフ第一書記、スターリン批判の秘密報告。平和共存路線へ |
4 | 17 | コミンフォルム解散 | |
25 | 毛沢東「十大関係論」。「向ソ一辺倒」からの離脱へ | ||
5 | 26 | 陸定一宣伝部長、百花斉放・百家争鳴を提唱 | |
6 | 28 | ポーランド、ポズナニ暴動 | |
9 | 15 | 共産党第8回大会。?ケ小平、個人崇拝を批判 | |
10 | 23 | ハンガリー暴動 | |
29 | 第2次中東戦争(スエズ戦争) | ||
1957 | 1 | 18 | 中ソ共同宣言。社会主義諸国の団結を強調 |
2 | 27 | 毛沢東、「人民内部の矛盾について」講演 | |
6 | 8 | 反右派闘争始まる | |
10 | 4 | ソ連、人類初の人工衛星スプートニク1号を打上げ | |
11 | 2 | 毛沢東、訪ソ。ロシア革命40周年で | |
19 | モスクワで64カ国共産党・労働者党会議。毛沢東「東風は西風を圧す」「米帝国主義は張り子の虎」 | ||
1958 | 3 | 5 | 日中民間貿易協定に調印 |
5 | 2 | 日中友好協会長崎支部主催の中国物産展で右翼が中国国旗を侮辱(長崎国旗事件) | |
5 | 第8期2中全会(〜23日)。大躍進運動開始。「社会主義建設の総路線」 | ||
7 | 31 | フルシチョフ訪中。毛沢東と会談。大躍進・人民公社を批判し毛と対立 | |
8 | 17 | 政治局拡大会議、農村の人民公社設立・鉄鋼大増産など決議 | |
23 | 金門島への砲撃が激化 | ||
29 | 人民公社設立決議 | ||
1959 | 1 | 1 | キュ−バでカストロ政権成立 |
3 | 10 | チベット反乱。ダライ・ラマ14世、インドに亡命(31日) | |
4 | 18 | 第2期全人代第1回会議開催(〜28日)。劉少奇、国家主席に選出(4月27日) | |
6 | 20 | ソ連が中ソ間の国防用新技術に関する協定を破棄 | |
7 | 2 | 盧山会議(政治局拡大会議)始まる(〜8月1日)。彭徳懐国防相が毛沢東の大躍進政策を批判 | |
8 | 2 | 盧山会議(8期8中全会。〜16日)。「彭徳懐・黄克誠・張聞天・周小舟らの反党集団に関する決議」 | |
8 | 25 | 中印、国境衝突 | |
9 | 17 | 彭徳懐国防相解任。後任に林彪 | |
30 | フルシチョフ訪中。毛沢東と会談。共同声明出せず、中ソ論争が深刻化。 | ||
1960 | 1 | 19 | 新日米安保条約調印 |
4 | 16 | 党機関誌『紅旗』、「レーニン主義万歳」で平和共存を批判。中ソ論争公然化 | |
20 | 訪印の周恩来総理、ネール首相と会談 | ||
27 | 李承晩韓国大統領辞任 | ||
5 | 9 | 北京で日米軍事同盟条約に反対する日本人民支持大集会。以後全国に | |
7 | 16 | モスクワで中ソ党会議開催(〜22日)。ソ連、技術者の引き揚げを通告 | |
1961 | 1 | 14 | 8期9中全会。大躍進の失敗を受けて、劉少奇、?ケ小平主導で経済調整政策へ転換 |
4 | 12 | ソ連が有人衛星船ボストーク1号を打ち上げ。「地球は青かった」(ガガーリン) | |
7 | 11 | 北朝鮮と友好協力相互援助条約に調印 | |
8 | 13 | 東ドイツがベルリンの壁を構築 | |
10 | 25 | ソ連共産党22回大会。周恩来が途中帰国 | |
12 | 16 | 国連総会、中国代表権問題を重要事項に指定 | |
1962 | 1 | 11 | 党拡大中央工作会議(7000人大会、〜2.7)で、毛沢東、大躍進政策を自己批判 |
9 | 24 | 8期10全会開催(〜27日)。毛沢東、「社会主義社会における階級闘争」論 | |
10 | 10 | 中印国境で両軍衝突激化。20日中国軍の全面攻撃を開始。インドが非常事態宣言(26日) | |
10 | 22 | キューバ危機。米国、キューバ海上封鎖宣言 | |
11 | 9 | 日中総合貿易に関する覚書に調印。LT貿易始まる | |
11 | 22 | 中印国境紛争、中国が一方的停戦 | |
1963 | 2 | 10 | ソ連、中ソ共産党会談提唱 |
3 | 5 | 「雷鋒に学ぼう」運動始まる | |
7 | 5 | ?ケ小平が訪ソ。中ソ共産党会談。会議を中断して途中帰国 | |
31 | 中国、米英ソによる部分的核実験停止条約仮調印に対して批判声明(8月5日正式調印) | ||
1964 | 1 | 27 | 仏、中国承認(2月10日、蒋介石政権、対仏断交) |
4 | 5 | 『毛沢東語録』刊行 | |
5 | 22 | 人民解放軍、階級制度廃止 | |
27 | ネール・インド首相死去 | ||
8 | 2 | トンキン湾事件。ベトナム戦争へ | |
9 | 29 | 日本と駐在記者の相互派遣が始まる。中国記者7人が東京に、日本記者9人が北京に派遣。 | |
10 | 15 | フルシチョフ第一書記解任。後任にブレジネフ | |
16 | 初の核実験 | ||
11 | 7 | マリノフスキーソ連国防相、訪ソ団副団長の賀竜に「毛沢東退陣」発言。団長の周恩来が抗議 | |
12 | 20 | 第3期全人代第1回会議。周恩来総理が四つの現代化を提起 | |
1965 | 1 | 14 | 毛沢東が党内の「資本主義の道を歩む実権派」を批判 |
2 | 6 | 米軍、北爆開始 | |
4 | 15 | ユーゴスラビアで第28回世界卓球選手権大会(〜25日)。荘則棟が男子シングルスで優勝 | |
5 | 9 | 羅瑞卿、反米統一戦線を主張 | |
22 | 人民解放軍、階級制を廃止 | ||
9 | 1 | チベット自治区が成立 | |
9 | 3 | 林彪、「人民戦争の勝利万歳」発表 | |
30 | インドネシアで9・30事件 | ||
11 | 10 | 姚文元が「『海瑞の免官』を評す」(文匯報)を発表。プロレタリア文化大革命の口火を切る | |
15 | 日米など10カ国、中国代表権問題を重要事項に指定する決議案を国連総会に提出 | ||
1966 | 2 | 12 | 党中央、実権派主導の「二月提綱」 |
3 | 28 | 毛沢東、宮本顕治(日本共産党書記長)の会談決裂 | |
5 | 7 | 毛沢東、林彪に「5・7指示」の書簡。文革が本格開始 | |
16 | 党中央、「5・16通知」(文革の綱領的文献)を採択 | ||
28 | 中央文革小組設置。組長に陳伯達、顧問に康生、副組長に江青、張春橋ら | ||
31 | 陳伯達、人民日報を奪権 | ||
6 | 1 | 北京大学の聶元梓らが最初の大字報で大学当局を攻撃 | |
3 | 彭真北京市第一書記が解任される | ||
8 | 1 | 8期11中全会、「プロレタリア文化大革命についての決定」 | |
18 | 文革祝賀大会。毛沢東と林彪、天安門前広場で全国の紅衛兵を接見。以後10月まで8回の接見 | ||
24 | 老舎、迫害の末“入水自殺”。翌日に死体発見 | ||
10 | 23 | 中央委工作会議で、劉少奇、?ケ小平が自己批判 | |
25 | 日中友好協会が分裂、親中派は「日中友好協会正統本部」を結成 | ||
27 | 初のミサイル発射実験に成功 | ||
1967 | 1 | 3 | 上海で造反派による市党委、人民政府の奪権「1月革命」。毛沢東が賞賛 |
13 | 「公安6条」(プロレタリア文化大革命の公安工作の強化に関する若干の規定)発布 | ||
24 | 日本共産党機関紙「赤旗」が中国共産党を批判 | ||
31 | 黒竜江省に全国で初の「革命委員会」 | ||
2 | 5 | 「上海人民公社」が成立 | |
9 | インドネシア、スカルノ大統領解任。スハルト体制へ | ||
14 | “二月逆流”(政治局ポン頭会で実権派が文革小組を批判) | ||
22 | 政治局、譚震林、陳毅らを批判。政治局は活動停止。実権は中央文革小組へ | ||
3 | 27 | 中央文化革命小組の主催で、北京労働者体育場で十万人集会。二月逆流の実権派を批判 | |
31 | 「革命の『三結合』を論じる」(紅旗)。毛沢東が臨時権力機関「革命委員会」の設立を提唱 | ||
5 | 11 | 香港で反英運動 | |
6 | 17 | 初の水爆実験 | |
7 | 18 | 文革派が劉少奇、?ケ小平、陶鋳夫婦のつるし上げ大会 | |
20 | 実権派支持の大衆組織「百万雄師」が文革派の謝富治、王力を監禁(武漢事件) | ||
8 | 22 | 紅衛兵が英国、ソ連大使館など襲撃 | |
10 | 8 | チェ・ゲバラがボリビア山中で政府軍に拘束。翌日射殺 | |
11 | 6 | 「10月社会主義革命が切り開いた道に沿って前進しよう」で、陳伯達らが「継続革命論」を提起 | |
1968 | 1 | 5 | チェコ共産党第1書記にドプチェクが就任 |
3 | 16 | 南ベトナムで米軍によるソンミ村虐殺事件(69年11月に報道で発覚) | |
22 | 楊成武総参謀長が解任され、 後任に黄永勝。林彪グループが伸張 | ||
7 | 27 | 労働者毛沢東思想宣伝隊が清華大学に進駐。紅衛兵運動は沈静へ | |
8 | 20 | ソ連軍、チェコに侵攻 | |
9 | 5 | チベット・新彊自治区に革命委員会。全国すべての省・市・自治区に革命委員会が成立 | |
10 | 13 | 8期12中全会。劉少奇、党籍剥奪 | |
30 | 南京長江大橋鉄道橋の建設が完成(12月29日、大橋道路が完成) | ||
1969 | 3 | 2 | 珍宝島(ダマンスキー島)で中ソ両軍が衝突 |
4 | 1 | 第9回党大会(9全大会)、党規約で林彪を毛沢東の後継に指名 | |
17 | チェコ、ドプチェク第1書記を解任、後任にフサーク | ||
7 | 20 | 米アポロ11号が初の月面着陸 | |
9 | 3 | ホー・チ・ミン北ベトナム大統領死去 | |
11 | 12 | 劉少奇、河南省開封で獄死 | |
1970 | 3 | 18 | カンボジアでクーデター。外遊中のシアヌーク国王を解任、ロン・ノル首相が実権掌握 |
4 | 24 | 初の人工衛星「東方紅」1号を打ち上げ | |
5 | 5 | シアヌークが北京で王国民族連合政府樹立を発表 | |
8 | 23 | 9期2中全会(〜9月8日)。陳伯達を批判。林彪、国家主席ポストを求め、毛沢東に反対される | |
9 | 28 | ナセル・エジプト大統領死去。後任にサダト | |
10 | 1 | 国慶節。天安門にエドガー・スノー夫妻 | |
13 | カナダと国交樹立 | ||
11 | 6 | イタリアと国交樹立 | |
12 | 22 | 華北会議。陳伯達批判の「批陳整風」へ | |
1971 | 3 | 28 | 31回世界卓球選手権大会が名古屋で開幕。中国が参加。ピンポン外交 |
4 | 10 | 米国卓球チームが中国訪問(米中ピンポン外交) | |
17 | バングラデシュがパキスタンから独立 | ||
7 | 9 | キッシンジャー米大統領補佐官、秘密裏に訪中。ニクソン訪中計画 | |
9 | 8 | 林彪クーデター未遂事件。13日、葉群、林立果らとともに逃亡中、モンゴル国境付近で墜死 | |
9 | 11 | フルシチョフ死去 | |
10 | 25 | 国連総会が中国復帰、台湾追放を決議 | |
12 | 3 | 第3次印パ戦争。17日パキスタンが無条件降伏。72年7月平和協定調印 | |
12 | 30 | 外交部、尖閣列島を沖縄協定の返還区域に含めたのは中国の主権侵害と声明 | |
1972 | 2 | 21 | ニクソン米大統領訪中。上海コミュニケ発表(28日) |
8 | 1 | 陳雲、王震が復活。建軍45周年レセプションにらが出席 | |
9 | 25 | 田中角栄首相訪中。 | |
29 | 日中共同声明発表。国交正常化 | ||
1973 | 1 | 11 | 在中国日本大使館開設 |
27 | パリでベトナム和平協定調印 | ||
2 | 1 | 在日中国大使館開設 | |
3 | 10 | 党中央が?ケ小平の副首相としての復活を決定 | |
4 | 16 | 中日友好協会訪日代表団(団長・廖承志会長)訪日 | |
8 | 7 | 「人民日報」に楊栄国(中山大学教授)の「孔子--頑迷な奴隷制擁護の思想家」を発表 | |
30 | 10全大会(〜28日)。党副主席に王洪文。張春橋が常務委員、江青、姚文元が政治局委員 | ||
9 | 11 | チリで軍事クーデター。アジェンデ大統領自殺 | |
10 | 6 | 第4次中東戦争。24日停戦 | |
1974 | 1 | 18 | 批林批孔運動始まる |
2 | 22 | 毛沢東「三つの世界論」 | |
3 | 29 | 西安郊外の村で、井戸掘り中の農民が「秦始皇帝兵馬俑坑」を発見 | |
4 | 10 | ?ケ小平、国連資源特別総会で「三つの世界論」を演説 | |
7 | 17 | 毛沢東が四人組を批判 | |
11 | 7 | 広州市に「李一哲大字報」(社会主義の民主と法制について) | |
11 | 29 | 彭徳懐、拘禁中に死去 | |
1975 | 1 | 8 | 10期2中全会(〜10日)。?ケ小平、党副主席に |
13 | 第4期全人代。会議後に周恩来が入院、代わって?ケ小平が日常工作を指導 | ||
4 | 4 | 林彪、四人組を批判した女性党幹部の張志新が獄中で殺害 | |
5 | 蒋介石死去。蒋経国が国民党主席に | ||
30 | ベトナム人民軍と南ベトナム解放戦線が首都サイゴン入城。米軍撤退でベトナム戦争終わる | ||
6 | 7 | マルコス・フィリピン大統領が中国訪問。国交樹立へ | |
8 | 23 | 「光明日報」、水滸伝批判を開始。四人組による?ケ小平批判 | |
9 | 15 | 「農業は大寨に学ぶ全国会議」 | |
1976 | 1 | 8 | 周恩来総理死去。華国鋒が総理代行へ(2月3日) |
4 | 5 | 第1次天安門事件。周恩来を追悼。天安門広場の花輪撤去で民衆暴動(4・5運動) | |
7 | 政治局会議、天安門事件を反革命と断罪。?ケ小平解任。華国鋒、党第一副主席・首相に | ||
7 | 6 | 朱徳委員長死去 | |
28 | 唐山大地震 20万人以上が犠牲に | ||
9 | 9 | 毛沢東主席死去 | |
10 | 6 | 華国鋒、葉剣英らが江青、張春橋、王洪文、姚文元の四人組逮捕 | |
7 | 華国鋒が党主席、中央軍事委員会主席に就任 | ||
1977 | 7 | 16 | 10期3中全会。?ケ小平が再復活。四人組を除名 |
8 | 12 | 11全大会(〜18日)。「文革終結宣言」。「四つの現代化」 | |
1978 | 2 | 26 | 第5期全人代第1回会議開催(〜3月6日)。新憲法を採択(3月5日) |
5 | 20 | 蒋経国が台湾総統に就任 | |
7 | 3 | ベトナム援助の全面停止を通告。中越対立本格化 | |
8 | 12 | 日中平和友好条約調印 | |
10 | 22 | ?ケ小平副首相訪日。福田首相と会談 | |
12 | 18 | 第11期3中全会。?ケ小平主導で改革開放路線を決定。彭徳懐、陶鋳、薄一波、楊尚昆ら名誉回復 |
改革開放が始まる |
1979 | 1 | 1 | 米国と国交樹立 |
7 | カンボジアでポル・ポト政権崩壊。親ベトナム派のヘン・サムリン政権樹立 | ||
16 | イラン革命。2月1日、ホメイニ師が帰国 | ||
2 | 17 | 中越戦争勃発。中国は「懲罰戦争」と。3月16日撤退 | |
3 | 29 | 魏京生逮捕 | |
4 | 米国議会、台湾関係法を制定。 | ||
3 | ソ連に中ソ友好同盟相互援助条約(1980年4月11日満期)の廃棄を通告 | ||
7 | 1 | 全人代、革命委員会を撤廃。地方各級人民政府が回復 | |
12 | 5 | 大平首相訪中。円借款供与表明 | |
27 | アフガニスタンでクーデター。革命評議会議長に親ソ派のカルマル。ソ連軍が軍事介入 | ||
1980 | 2 | 23 | 11期5中全会(〜29日)。劉少奇が名誉回復。総書記に胡耀邦。汪東興、陳錫聯ら解任 |
4 | IMF(国際通貨基金)に加盟 | ||
14 | ベルリンゲル伊共産党書記長訪中 | ||
5 | 経済特別区の設置を決定 | ||
4 | ユーゴのチトー大統領死去 | ||
18 | 初のICBM発射実験に成功 | ||
7 | 27 | 華国鋒首相、故大平総理葬儀のため訪日 | |
8 | 23 | 「元日本共産党政治局員・伊藤律が北京で生存、帰国を希望している」と発表 | |
30 | 第5期全人代第3回会議開催(〜9月10日)、華国鋒首相辞任、後任に趙紫陽 | ||
9 | 3 | 伊藤律が日本に帰国 | |
10 | 華国鋒首相が辞任。後任に趙紫陽副首相 | ||
11 | 4 | 米大統領選でレーガンがカーター大統領を破る | |
20 | 最高人民法院特別法廷で林彪・四人組裁判が始まる | ||
12 | 22 | 人民日報、「毛主席は文化大革命で過ち」 | |
1981 | 1 | 4 | 長江の葛洲ダムで、長江の流れの堰き止めに成功 |
25 | 最高人民法院法廷の林彪・4人組裁判。江青と張春橋に死刑(執行猶予2年)判決 | ||
5 | 16 | 中国・ベトナム国境で軍事衝突 | |
6 | 27 | 11期6中全会。「歴史決議」で文革を断罪。華国鋒失脚。胡耀邦が党主席、?ケ小平が軍事委主席 | |
9 | 30 | 葉剣英全人代委員長、台湾との平和統一実現の9項目提案を発表(10月7日、蒋経国総統が拒否 | |
10 | 6 | エジプトでサダト大統領暗殺 | |
12 | 10 | 北京で中印国境交渉が19年ぶりに再開 | |
1982 | 5 | 31 | 趙紫陽首相訪日 |
7 | 1 | 人口センサス実施 | |
12 | カンボジアで反ベトナム3派(による民主カンボジア連合政府が発足 | ||
20 | 人民日報、日本の歴史教科書検定内容を批判 | ||
9 | 1 | 12全大会(〜11日)。党主席制を廃止。胡耀邦総書記、?ケ小平中央軍事委員会主席 | |
16 | 金日成朝鮮民主主義人民共和国首相、中国を公式訪問(〜25日) | ||
26 | 鈴木首相訪中 | ||
10 | 4 | 北京で中ソ外務次官級会談 | |
14 | マルシュ仏共産党書記長訪中、中仏両党関係が17年ぶりに修復 | ||
11 | 10 | ソ連共産党書記長ブレジネフ死去。後任にアンドロポフ(12日) | |
11 | 26 | 5期全人代第5回会議(〜12月10日)。新憲法を採択 | |
12 | 人民公社廃止 | ||
1983 | 1 | 2 | 「人民日報」、胡燿邦党総書記の「政治思想工作問題に関して」と題する講話を発表 |
5 | 5 | 中国民航の国内線旅客機が6人の武装グループに乗っ取られ、韓国で投降 | |
6 | 18 | 6期全人代、国家主席に李先念、軍事委主席に?ケ小平、全人代常務委員長に彰真を選出 | |
11 | 21 | 国産初のスーパーコンピュータ「銀河1号」が誕生 | |
23 | 胡耀邦総書記が訪日 | ||
1984 | 1 | 5 | 中曽根首相が靖国神社に新春参拝 |
2 | 9 | アンドロポフ・ソ連共産党書記長が死去。後任にチェルネンコ | |
3 | 23 | 中曽根首相訪中 | |
4 | 26 | レーガン米大統領が訪中 | |
5 | 「沿海開放都市」の設置を制定 | ||
6 | 22 | ?ケ小平、「一国両制」 | |
11 | 6 | 米大統領選でレーガン再選 | |
12 | 19 | 中英共同声明。97年の香港復帰が決まる | |
1985 | 2 | 15 | 中国初の南極調査ステーション「長城ステーション」が建設 |
3 | 3 | 全人代代表団が訪ソ | |
11 | ソ連共産党書記長にゴルバチョフ | ||
7 | 23 | 訪米の李先念国家主席、レーガン大統領と会談 | |
9 | 18 | 北京で学生デモ。中曽根首相の靖国神社公式参拝(8月)に抗議 | |
24 | 12期5中全会で胡啓立、李鵬ら6人の新政治局委員を選出 | ||
10 | 10 | ソ連最高会議代表団が訪中。中ソ対立後初 | |
1986 | 4 | 26 | チェルノブイリ原発事故 |
6 | 7 | 日本の新編高校日本史教科書を侵略戦争を美化するものとして是正を要請 | |
7 | 18 | 長江流域の四川盆地の三星堆遺跡で大量の出土品 | |
9 | 25 | 12期6中全会。「精神文明決議」を採択 | |
10 | 11 | レイキャビクで米ソ首脳会談 | |
11 | 8 | 中曽根首相訪中 | |
12 | 17 | ベトナム共産党のチュオン・チン書記長、ファン・バン・ドン首相ら引退。後任書記長にグエン・バン・リン | |
19 | 上海で民主化要求の学生デモ。全国に拡大。胡耀邦総書記は寛容姿勢。保守派が胡耀邦批判 | ||
1987 | 1 | 1 | 天安門前広場で民主化要求の学生デモ |
6 | 人民日報がブルジョア自由化に警告 | ||
16 | 胡耀邦総書記が解任。趙紫陽が代行 | ||
7 | 14 | 台湾が38年ぶりに戒厳令を解除 | |
10 | 1 | チベットのラサで反中デモ | |
10 | 25 | 第13回党大会。社会主義初級段階論を採択。趙紫陽総書記就任 | |
11 | 2 | 趙紫陽を総書記に選任 | |
24 | 首相代行に李鵬副首相 | ||
1988 | 1 | 13 | 蒋経国総統死去。李登輝副総統、総統に就任 |
3 | 24 | 上海市郊外で高知学芸高校生らの乗った列車が衝突事故。生徒と教師ら27人が死亡 | |
25 | 第7期全人代。李鵬を総理に選出 | ||
4 | 13 | 全人代、海南島の省への昇格を決定。経済特別区に指定 | |
8 | 25 | 竹下首相訪中。第3次円借款供与を約束 | |
1989 | 4 | 15 | 胡耀邦死去。学生の民主化運動始まる |
4 | 22 | 党主催の胡耀邦追悼大会。学生らは天安門広場で独自の追悼集会 | |
24 | 党政治局、民主化要求を「動乱」と規定 | ||
5 | 13 | 天安門広場で学生らでハンストに突入 | |
15 | ゴルバチョフソ連大統領訪中。中ソ首脳会談で歴史的和解(16日) | ||
18 | 趙紫陽総書記、李鵬首相らが天安門広場のハンストで入院中の学生を見舞う | ||
20 | 北京市の1部地区に戒厳令布告。23日には戒厳令に対する抗議の100万人デモ | ||
6 | 4 | 天安門事件(第2次。6・4事件)。人民解放軍、武力鎮圧 | |
23 | 13期4中全会。趙紫陽総書記が失脚。江沢民、党総書記に就任。 | ||
11 | 6 | 13期5中全会。?ケ小平が党中央軍事委主席を引退。後任に江沢民 | |
12 | 16 | 妻子を連れた中国人が中国民航機をハイジャック。福岡空港に着陸 | |
1990 | 1 | 11 | 戒厳令解除 |
8 | 10 | 第1回世界華商大会がシンガポールで開催 | |
9 | 22 | 北京アジア大会開催 | |
10 | 3 | 東西ドイツ統一 | |
12 | 12 | 上海証券取引所が開設 | |
1991 | 1 | 17 | 湾岸戦争勃発 |
5 | 14 | 江青が自殺 | |
8 | 10 | 海部首相、天安門事件後初の西側首脳として訪中 | |
19 | ソ連で保守派のクーデター。8月21日失敗に終わる | ||
24 | ゴルバチョフがソ連共産党書記長を辞任。共産党解散を提唱 | ||
12 | 25 | ゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任。26日ソ連解体 | |
29 | 核不拡散条約(NPT)への参加を決める | ||
1992 | 1 | ?ケ小平、南方視察で、南巡講話。改革開放の加速へ。 | |
4 | 6 | 江沢民主席、日中国交20周年で訪日 | |
8 | 24 | 韓国と国交樹立。台湾が対韓断交へ | |
9 | 27 | 盧泰愚大統領が韓国大統領として初の訪中。楊尚昆国家主席らと会談(〜30日) | |
10 | 12 | 第14回党大会。社会主義市場経済を宣言 | |
10 | 23 | 天皇訪中 | |
1993 | 3 | 27 | 江沢民総書記、国家主席に就任(第8期全人代第1回会議) |
4 | 27 | 大陸の汪道涵と台湾の辜振甫の「汪辜会談」(シンガポール) | |
7 | 2 | 朱鎔基副首相、人民銀行総裁兼任。金融整頓へ | |
9 | 23 | わずか2票の差で北京がオリンピック誘致に失敗 | |
12 | 16 | 田中角栄元首相が死去 | |
1994 | 1 | 1 | 外貨兌換券を廃止 |
2 | 5 | 大亜湾原発(広東省)、商業運行が始まる | |
3 | 19 | 細川首相訪中 | |
4 | 26 | 台湾の中華航空機が名古屋空港で着陸に失敗、炎上。264人が死亡 | |
7 | 8 | 北朝鮮の金日成主席が死去 | |
12 | 14 | 三峡ダムが着工 | |
1995 | 1 | 30 | 江沢民、台湾問題で8項目提案(江八点) |
4 | 8 | 李登輝、中国に6項目提案(李六点) | |
4 | 27 | 陳希同北京市党委書記、汚職事件で解任。後任は尉健行 | |
5 | 2 | 村山首相訪中 | |
6 | 李登輝総統が訪米 | ||
7 | 11 | 米国とベトナムが国交正常化 | |
8 | 15 | 村山首相が「村山談話」 | |
8 | 30 | 国連「第4回世界女性会議」始まる。政府間会議は9月4日〜15日。「北京宣言」採択 | |
1996 | 2 | 15 | 長征3Bが打ち上げ直後に爆発炎上。破片で発射基地の四川省西昌市周辺の農民6人が死亡 |
3 | 8 | 台湾海峡で大規模軍事演習。台湾海峡危機 | |
3 | 23 | 李登輝総統が初の直接選挙で大勝 | |
4 | 上海で中国、ロシア、カザフ、キルギス、タジクの5カ国首脳会議。「上海ファイブ」として定例化 | ||
7 | 4 | ロシア大統領選でエリツィン大統領が再選 | |
29 | 45回目の核実験。実験を凍結宣言 | ||
9 | 27 | アフガニスタンでタリバンが首都カブールを制圧 | |
10 | 7 | 台湾の活動家らが釣魚島(尖閣諸島)海域に入り、一部が上陸 | |
11 | 25 | APEC非公式首脳会議(フィリピン)。江沢民、クリントンと会談 | |
1997 | 2 | 19 | ?ケ小平死去 |
3 | 重慶市、4番目の中央直轄都市に決定 | ||
5 | 京九鉄道(北京-香港九龍)開通 | ||
7 | 1 | 香港復帰 | |
9 | 12 | 第15回党大会 | |
9 | 4 | 橋本首相訪中。柳条湖を訪問 | |
10 | 8 | 北朝鮮の金正日書記が党総書記に就任 | |
25 | 江沢民訪米。ブッシュと首脳会談 | ||
11 | 16 | 民主活動家、魏京生が仮釈放。米国へ | |
1998 | 3 | 17 | 朱鎔基、総理に就任(第9期全人代第1回会議) |
4 | 19 | 民主運動家の王丹、病気治療の名目で仮釈放。米国へ出国 | |
6 | 11 | 日中両共産党が関係正常化で合意 | |
27 | クリントン米大統領が訪中。「3つのノー」を表明 | ||
6月中旬から9月にかけて、長江流域、嫩江、松花江流域などで大洪水 | |||
7 | 21 | 北京で江沢民総書記が不破哲三委員長と会談 | |
31 | 陳希同・元北京市党委書記、汚職事件で懲役16年の判決 | ||
11 | 4 | 全人代、村民委員会組織法を可決。「村民自治」始まる | |
25 | 江沢民主席訪日。26日小渕首相と首脳会談 | ||
1999 | 1 | 1 | EU11カ国で単一通貨「ユーロ」導入 |
4 | 25 | 法輪功、北京の中南海を1万人が包囲 | |
5 | 7 | NATO米軍、ユーゴスラビアの中国大使館を爆撃。記者ら3人が死亡 | |
7 | 9 | 李登輝台湾総統、大陸と台湾は「特殊な国と国との関係」発言 | |
7 | 小渕首相が訪中 | ||
9 | 19 | 第15期4中全会。国有企業の改革へ | |
11 | 20 | 宇宙船「神舟1号」打ち上げ成功。有人宇宙飛行に前進 | |
12 | 20 | マカオ復帰(20日) | |
31 | エリツィン・ロシア大統領が辞任 | ||
31 | パナマ運河が米国からパナマに返還 | ||
2000 | 1 | 5 | カルパマ17世、チベットを離れ、ダライ・ラマのもとへ |
2 | 江沢民主席、広東視察で3つの代表を提起 | ||
3 | 18 | 台湾総統選で民進党の陳水扁が勝利 | |
5 | 29 | 北朝鮮の金正日総書記が非公式で訪中。江沢民主席と会談 | |
6 | 13 | 金大中・韓国大統領が平壌訪問。金正日総書記と初の南北首脳会談 | |
7 | 18 | 江沢民主席、プーチン露大統領と北京で首脳会談 | |
31 | 成克傑・元全人代常務副委員長、汚職事件で死刑判決(9月執行) | ||
9 | 13 | 黒竜江省北安市で旧日本軍遺棄化学兵器の回収作業が始まる | |
10 | 12 | 朱鎔基首相訪日 | |
10 | 14 | 朱鎔基首、TBSテレビで市民と対話 | |
11 | 8 | 中央紀律委員会が「アモイ密輸事件」について処分 | |
2001 | 1 | 15 | 金正日総書記が秘密訪中(〜20日)。中朝首脳会談 |
3 | 全人代、第10次5カ年計画採択 | ||
4 | 1 | 南シナ海で米中軍機接触事件 | |
4 | 22 | 李登輝前総統が来日し、中国が反発 | |
4 | 23 | 日本、中国からの農産物輸入急増で、3品目に暫定セーフガード | |
6 | 14 | 上海ファイブが常設機関「上海協力機構」に。ウズベキスタンが加盟 | |
23 | 北京五輪招致、世界3大テノールが紫禁城共演 | ||
7 | 13 | 北京オリンピックの2008年開催が決定 | |
8 | 13 | 小泉純一郎首相が靖国神社を参拝 | |
9 | 3 | 江沢民主席が11年ぶりの訪朝。中朝首脳会談 | |
11 | 米国で同時多発テロ事件 | ||
10 | 7 | アフガン戦争開始 | |
8 | 小泉首相が訪中、廬溝橋を訪問。江沢民主席と日中首脳会談 | ||
15 | 西安事件の張学良が死去。享年101歳 | ||
20 | 上海でAPEC首脳会議。米中首脳会談 | ||
12 | 11 | WTO(世界貿易機関)に正式加盟。台湾も加盟 | |
2002 | 2 | 21 | ブッシュ米大統領が訪中(〜22日)。江沢民主席と米中首脳会談 |
5 | 8 | 瀋陽の日本総領事館内で北朝鮮からの脱出者連行事件 | |
6 | 7 | 上海協力機構6カ国、憲章に調印 | |
7 | 24 | 女優の劉暁慶、脱税容疑で逮捕 | |
8 | 3 | 陳水扁台湾総統「一辺一国」(大陸と台湾はそれぞれ別の国)発言。のち軌道修正の発言 | |
9 | 17 | 小泉首相が訪朝。金正日総書記と首脳会談 | |
9 | 29 | 日中国交正常化30周年 | |
11 | 4 | ASEANと自由貿易協定(FTA)の枠組み協定に調印 | |
11 | 8 | 16回党大会。胡錦涛が総書記に就任。3つの代表を規約に盛り込む | |
12 | 3 | 2010年「上海万博」の開催が決定 | |
31 | 上海リニア開通 |
五、何新の政協委員就任と香港マスコミへの恫喝(九一年三月末〜七月)
▲三月二八日、香港『明報』紙掲載のレポートが何新の全国政治協商会議委員就任を伝える。
程小雪「何新が官位をもらう・自由論壇」香港『明報』(三月二八日)
何新がついに「官位」をもらった。与えられた官職は政協全国委員(実はこれは官職とはいえないが)であり、昇格した爵位は中国社会科学院文学研究所正研究員である(ただし、これは内定であり、正式に発令されてはいない)。
国務院に入り、部長級あるいは副部長級の待遇を受ける官職に対比して(これが何新の希望なのだが、惜しいことに高望みにすぎて役所の門にぶつかった)、これではおそらく何新の欲望を満たせないであろう。
しかし、またワン・ステップ登ったことは確かである。「いやしくも日に新たなれば、また日に新たなり」〔出所『大学』「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新」〕〕。何新の未来には新たな希望が出てきた。
何新は「事実にもとる通信──矢吹晋との一事の真相を語る」(『明報』五日付「自由論壇」)において、自分が副研究員に昇格したのは六四以前であり、以後ではないとしている。これは確かであり、この点については誤りがあった。
これは逆に六四以前に何新が当時の文学研究所所長劉再復と兄弟を標榜していたことを想起させる。五月に学生運動がピークに達するや、何新は中央に上書して、「動乱」平定の策を建議したのである。これには「鬚をはやした」知識人をどう扱うかも含まれている。具体的にどうであったかはやはり、何新自身の口からしゃべってもらおう。この上書は、何新が六四以後「暴乱」平定を積極的に支持する基礎となった。
恩寵ますます久しい日本矢吹晋教授との対話録については、彼は「加工を行い」「修正し書き加えた」こと、「本人の作品」であること、「矢吹晋教授の同意を得ることなく発表したこと」は「ミス」〔原文=失誤〕であり、「陰謀ではないこと」……などを認めている。要するに、非を認めたわけである。ただし、こっそり録音したという「陰謀」は認めておらず、また否認してもいない。
フセインを持ち上げた「内部文章」については、何新は断章取義されたと言うが、フセインが一カ月持ち堪えるならば勝利できるとの論を否認してはいない。実際にはフセインは一カ月持ち堪えただけでなく、確かに「勝利した」と述べた。フセインは攻撃されてあわてて撤兵し、講和を求める時に発表した声明で自分は「勝利した」と自称した。フセインはまことに何新の「勝利の同志」であり、何新はフセインの異国の知己なのである。
ここにもう一つの事実にもとるエピソードがある。何新の所属する中国社会科学院でこんな言い方が行われている。湾岸戦争を展望した何新の文章は、香港で発表され、香港を揺るがした。香港の読者はこれを聞いて爆笑せざるをえなかった。「違うんじゃないのかね」。
このウワサと同じく、誰かがクレイトン大学の名で何新に名誉学位を送ると電話をかけたことも中国社会科学院のウワサになっている。この電話は存在せず、同僚の誰かがこんな電話をかけてみたらと思っただけなのかもしれない。
何新は「天子の寵愛、まさに隆し」であるから、最高当局の開く文芸界座談会や中国社会科学院座談会にはすべて招かれる。そしてこう褒められる。「やはりこんな大男だったのか」──そのココロは、小人物である。
▲三月二二日、皇甫平の何新批判
三月二二日付皇甫平評論は「開放拡大の意識をさらに強めよ」と題して、外資導入にかかわるさまざまの誤った思想を系統的に批判したが、これは事実上、何新「対談」の考え方を論駁したもの、と香港誌(『鏡報』五月号、二五頁)が解説している。
何新は、先進国の投資が第三世界の貧困をもたらすとして、「先進国はまず多国籍会社を発明し、続いて外債型経済を発明し、発展途上国の肥えた水(富)を外に流している」と論じた。これに反駁して皇甫平曰く──
「?ケ小平同志は九〇年代の上海の開放に対して上海は改革開放の旗幟を高く掲げ、浦東開発をもっと速く、もっとりっぱに、もっと大胆に、と厚い希望を寄せているが、これは九〇年代の上海に与えられた上海の歴史的重責である」「このような意識がなければ、われわれは敢えてリスクを冒し、敢えて天下に先立って胆魄を開くことはできないし、挑戦に直面してチャンスをつかみ、進取、開拓、競争のなかで世界に歩むことはできない」「今に至るも一部の同志は外資導入に際して視野が小さい(原文=目光短浅)ことは、開放問題において新たな思想解放の必要なことを説明している」。
「九〇年代上海の開放が歩みを大きくするには、一連の斬新な思考をもち、リスクを敢えて冒し、先人のやったことのないことをやらなければならない。これはわれわれの開放意識にとってより厳しい試練である。たとえば浦東開発において保税区を設け、輸出入を自由とし、輸出税を免除するような自由港的性質の特殊な政策を実行することは『社会主義の香港』ともいえるような試みだが、もしわれわれが依然として『姓は社会主義か、資本主義か』といった難癖をつけるならば、座してチャンスを失うのみである」「外国人が浦東に銀行を設け、バンドに金融街を作り、上海国際金融センターを作るような、敢えて天下に先んじて行う探索に対して、もしもわれわれが『新上海か、旧上海か』などとぼんやり考えていたのでは、前進できず、大事を行うことはできない」「現在、開放拡大の一部の措置は、それ自身が改革深化の内容をもっている。たとえば外国人に銀行開設を許すこと自身が金融体制の改革を深化させ、国際化した金融体系の突破を形成するものである。また外国人が不動産を経営するのを許すことも、住宅の商品化を推進し、不動産市場を健全化することに資する。開放拡大の一部の措置は、深層から体制改革をつき動かす。たとえば大規模に外資を導入するには、管理体制の改革から着手して、法制の不備、法の執行が厳格でなく、行政部門の事務能率が悪く、たがいに責任をなすりつけあう状況を改め、投資のソフト環境を大いに改善する必要がある。また外国貿易の拡大のためには、外国貿易の体制改革を深化し、自主経営、自己責任、工業と貿易の結合、窓口を統一して外に当たる外国貿易経営の新体制を必要とする。また外資を導入して国営企業を改造するなら、必ずや国営企業の管理方式と体制の転換を推進するであろう」「開放拡大の歩みは、われわれに大量の新思考、新意識をもたらし、深層・全方位から思想のさらなる解放をもたらし、観念はよりいっそう新しくなり、社会的ムードはよりいっそう調整されよう」「明らかに九〇年代の新情勢のもとで、強烈な開放意識をもつか否かが深層の改革意識をもつか否かの重要な試金石であり、開放拡大の意識を強めることの実質も意識改革の再教育、再深化なのである」〔傍線は矢吹による〕。
▲四月一二日、皇甫平評論による改革派のイデオロギー攻勢。
朱鎔基昇格人事の背景を説明した皇甫平論文(四月一二日付『解放日報』)
▲四月二四日、皇甫平評論に対する保守派の反撃。
保守派の反撃『当代思潮』の評論員論文(『人民日報』四月二四日付)。
上海からの思想解放攻撃に対して、北京の保守派はさっそく反撃に転じた。四月二四日付『人民日報』は天安門事件以後、保守派の肝煎で出版された『当代思潮』の評論員論文「なぜ断固としてブルジョア自由化反対を堅持しなければならないのか」(九一年二期)を転載して、皇甫平論文には「ブルジョア自由化反対」が欠如していると暗に攻撃した。 これは徹頭徹尾、?ケ小平語録に依拠してブルジョア自由化反対を論じたものである。まさに「子の矛をもって子の盾を攻める」の構図にほかならない。
さて、上海の皇甫平と北京の『当代思潮』、改革派と保守派のイデオロギー抗争について何新が発言した。香港誌『鏡報』はこう紹介している。
「この尋常ならざる南北筆墨大戦がある者を驚かせた。すなわち学術界で“新蒙昧主義の発起人”(原文=新蒙昧主義発起人)とされている何新である。何新は最近、中央に書簡を書いたが、その要旨は──中央内部の闘争を公然化してはならない。暴露してはならない。中央の指導的同志の、党内の異なる思想の闘争は速度が速いか遅いかの争いにすぎないのであり、自由化との闘争こそが生死存亡の闘争なのだ、というものである。
何新の子わっぱめ(原文=何新豎子)が敢えてトップにこのような教訓を垂れようとしたのは、次の背景があるといわれる。三月に、?ケ小平は李先念、江沢民を上海で訪ねて、中共第一四回党大会で江沢民、朱鎔基に指導権を委ね、朱鎔基を総理にすることを要求した。これが当然ながら、中共トップ・レベルの新たな権力闘争を引き起こしたからである。李鵬が第一四回党大会で実権を放棄することはすでに固まったが、李鵬は総理のポストを留ソ派仲間の鄒家華に渡そうとしている」(『鏡報』六月号、二八頁)。
矢吹コメント。「新蒙昧主義の発起人」「何新の子わっぱめ」といった揶揄、侮辱的表現から中国および香港の改革派知識人から見た何新イメージの一端がうかがわれる。
▲四月一〇日、何新の出世秘史──憎まれっ子、世にはばかる。魯晋陽「政協委員に新たに増補された何新の出世秘史」(香港『鏡報』九一年四月号)
文革期に中国では一群の大批判論文を書いてプロレタリア階級の「金の棍棒」になり、政治的に出世した人物が現れた。頭は当然、張春橋、姚文元、戚本禹などである。「六四事件」以後、中国の大批判の波は捲土重来し、勢いは減るところがない。しかし、風雲人物の数は当時に比べるべくもない。ただ政協委員に新たに増補された何新だけが張春橋、姚文元に劣らない程度である。無党派人士の何新はいま中国社会科学院文学研究所の副研究員であり、彼は中共統一戦線部長丁関根に指名された。しかし、何新の出世の後楯は中共統一戦線部ではなく、別に黒幕がいる。
知るところによれば、何新は政協委員に任命されると同時に、中国社会科学院の関連部門は文学研究所が彼を正研究員に昇格させる審査をするよう指示を受けた。文学研究所の回答はこうであった。「何新の学問はあまりにも大きすぎて、われわれには審査できない。やはりあなたがた中国社会科学院本部で審査してほしい」。中国社会科学院は当然、何新に正研究員という桂冠を与えた。
六四以後、中央宣伝部、北京市委員会宣伝部が大批判組を組織して書かせた文章は、庶民が文革の匂いを感じただけでなく、?ケ力群(保守●も不満であった。八七年、胡喬木、?ケ力群が組織した自由化批判グループがまさにこれらの人々であり、当時彼らの住む建物には、千字につき百元の懸賞をつけたが、四〜五カ月経っても、文章が出来上がらなかった。原因は当時の総書記趙紫陽が彼らの書いた文章には説得力がないと批判したからであった。九〇年秋、?ケ力群はこう述べた。「どうやら、ちょっと自由化をやったことのある人間を探して書かせるほかなさそうだ」。何新はこうして選ばれることになった。
六四の前、著名な改革派の新聞・北京『経済学周報』(王軍濤が副主編であった)に、よく何新の大きな文章が見られたが、その一篇は「東方現代化の夢」であり、彼は中国の東北、東南の経済がふたたびアメリカ、日本の植民地になると予言していた。このような資本があれば、当然何新は「ちょっと自由化をやったことがある」という資格に当てはまる。もしもあなたが何新は力群お気に入りの人物だからとだけ見るならば、見誤りである。何新は十数年来、政治上、学術上で流行の尖端を切った人物なのである。
何新の家柄からは書物の香りもする。父親何炳然は『光明日報』、中華書局で働いたことがあり、いまは中国社会科学院新聞研究所を定年退職した身である。親父は息子に似ず、評判は悪くない。文革中に何新は中学から東北建設兵団に入った。“四人組”粉砕以後、東北から北京に戻り、自分で中国社会科学院歴史研究所〔正しくは、近代史研究所〕の黎所長〔一九一二〜八八年、近代史家、拙著『中国のペレストロイカ』に紹介あり〕を探し、助手となった。しかし黎の名前を使ってあちこちで動き回るので、黎からクビにされた。このとき何新は胡喬木の息子胡世英と知り合い、胡世英の主編した二種類の雑誌『醜小鴨』〔醜いアヒルの子の意味〕『自学』に短編小説を書いた。数年後、八方手を尽くして、中国社会科学院研究生院学報編輯部にもぐり込んだ。編輯者としての小さな特権を利用して再度取引きを重ね、互いに仲間褒めをしあい、原稿を載せ合った。この間、何新は最初の文芸理論専著『諸神起源』を書いたが、直ちに台湾の作家から剽窃したと突っ込まれた。この種の毀誉褒貶を何新はいささかも意に介さず、『ベーコン文選』の翻訳を始めた。
一九八六年、劉索拉が『別無選択』〔あなたには選択の余地はない〕を、徐星が『無主題変奏』を発表するや、何新はこの二篇の文学作品は中国現代人の情緒を反映したものだと書評を書いて『読書』に投稿した。同時に彼はこの書評を知り合いになった胡世英を通じて胡喬木に見せた。『読書』が何新の文章を活字に組み印刷する段階になって、何新は突然胡喬木が自ら朱を入れたものを編集部に渡した。修正箇所は一〇〇箇所に及んでいたので、『読書』編集部は時間の制約のなかで非常に当惑させられた。
まもなく何新は編制がらみの特殊な人物として中国社会科学院文学研究所に入った。当時所長は劉再復であり、彼は『文学主体性』〔原文の「主題性」はミスプリ〕を書いており、この大人物を嫌った。一説では何新は劉再復に代わって文学研究所の所長になるのだといわれた。
一挙に所長になるのは実際には容易ではなく、何新はあちこちに文章を書き始めた。渉猟する領域はますます広くなり、『経済学周報』に書いたものの多くは経済、政治評論であり、何新自身が吹聴するところによれば、多くは姚依林から賞賛されたとのことである。
しかし何新その人と作品を知る人々の語るところによれば、何新は確固とした見解をもつ人物ではなく、自分で主張したことのある見解に反対するような人物である。変わらざる信条があるとすれば、それは思想的、学術的主張は、有名になれるのならば何でもやるというものである。何新に人に勝る聰明なところがあるとすれば、それは外国の権威ある著作を読んで、それを自分のものとして勝手に使うことである。彼の近著『世界経済情勢と中国の経済問題』において五〇年代にラテンアメリカで生まれた従属論を用いたのは、それである。
一九八九年、中国社会科学院が昇格審査を行った時、何新はもし研究員になれないならば外国に行き、もはや帰国しないとあちこちで揚言した。結果は研究員になれず、副研究員にとどまったが、外国には行かなかった。
一九八九年五月四日、趙紫陽がアジア開発銀行の関係者に対して講話を発表するや、何新は直ちに「目前の時局に対する緊急の建議」を中央に宛てて書いた。その内容は趙紫陽の講話を具体化したものだが、趙紫陽よりもはるかに徹底したものであった。
五月一五日、ゴルバチョフが中国を訪問した。何新は中央宛てに二度目の書簡を書いた。現在の世界はアメリカがすでに凋落しているから、中ソは補完しあい「中国は連ソ反米を行え」と建議したものであった。この書簡を何新は?ケ小平の娘榕と姚依林に渡した。知るところによれば、榕は読んだ後、反応を示さなかった。何新はこの書簡をあちこちに投稿したが、どこにも公開発表されなかった。
六四の後、何新は方向を転換した。彼はこう語っている。「いまや皆は共産党のために話をすることをしなくなったので、私がそれをやろう」。まもなく人々は『人民日報』に一人の知識人が民主化運動を譴責した文章を見ることになった。
中国社会科学院で「清査」が始まると、何新の民主化運動における態度について清査対象とせよと提案する人もあったが、上部からの回答は「積極分子に打撃を与えてはならぬ」というものであった。
何新が本当に売れっ子になったのは、一九九〇年一二月一一日、『人民日報』が二面半の紙幅を割いて、彼と日本経済学教授Sとの談話録「世界経済と中国経済」を発表して以来のことである。これは実際には談話録などではなく、何新がこの日本経済学教授に対して教え諭したもの(原文=耳提面命)である。文章が出た後、イニシャルSとされた日本の教授矢吹晋は繰り返し抗議し、この談話録は完全に何新が一手にデッチ上げたものであることを暴露し、大いに興醒めであった。しかし、これは中国当局のこの文章および何新本人に対する賞讃と肯定とにいささかも影響しなかった。中共当局はこの長文に対して「マルクス主義の立場、観点と方法で現代の重大な政治、経済、社会問題を研究、探究した」模範であるとし、何新を中国、西洋の学問を学び、敢えて西方の権威に挑戦し」「祖国と民族のために利益を図ることを一切の学術活動の最高の宗旨」としている「愛国主義的」学者だとした。世人の周知のように、何新はこの文のなかで論理が混乱しているだけでなく、多くの理論、概念がいずれも曖昧模糊としており、取柄といえばただ一つ、大胆にものを言った程度である。彼の分析によれば、中国は社会主義の道を歩むべきではなく、資本主義の道を歩んで世界に拡張すべきである。堅持すべき改革開放とは万国を朝貢させるべきであり、なによりもまず日本はボーイにすべきである。
かくも口からでまかせを語るとは、学術上で中国人のメンツをつぶすものだが、中国の一部の老人の心理と好みにはピッタリであり、王震は直ちに何新を接見し、力群もこれに陪席した。
時を隔てること一カ月余、湾岸戦争が勃発した五日目の一月二二日、『人民日報』がもっぱらトップ指導者たちに届けるため編集した『内部参閲』に何新のもう一つの論文「湾岸戦争と中国」を掲載した。この文章は政治局委員に限り各一部配付程度の重要論文だとされるが、中国の庶民からすれば、掛け声ばかりで、中身を読んだ者がおらず、いまだに真面目は不明である。何新はこの文章で四つの要点を提起したという。1湾岸戦争は一九四五〜一九九〇年という世界全体=歴史的時代に終止符を打った。世界がグローバルな戦国時代に入る始まりであり、新たな世界戦争の前夜である。2イラクが一カ月以上、防御できさえすれば、経済と政治からしてアメリカは溶鉱炉にすべり落ち、凋落の第一歩となろう。3もしアメリカがすみやかに完全勝利をするならば、中東には新たな問題があらわれ、アメリカと日本、欧州との矛盾は次第に激化し、世界には大不況が現れ、中国の輸出には不利となろう。4湾岸戦争後、アメリカは軍隊を東に移すので、中国の内外の情勢はかなり厳しくなるので、わが国は速やかに対策を研究すべきである。
この文が人を驚かせるのは何新の湾岸戦争に対する予見が正しいかどうかではなく、彼の立場である。彼は完全にイラクの側に立っている。彼はイラクによるクウェートの武力併呑事件について「発展途上国の武力による造反」と呼び、途上国の「専制」にアメリカが反対した目的の一つは、国際戦略上の敵を消滅させるためであったとしている。これは国連における中国の立場と根本から矛盾している。何新は「アメリカは中国の人権問題を忘れていない」と重ねて指摘し、もしアメリカが意のままに湾岸をコントロールする目的を実現するならば、世界戦略の目標と自身の安全の必要からして「中国の現行制度をつぶし、中国の政権を改組し、最終的には中国を無害化(民主化)するに決まっている」という。何新は甚だしきは鬼面人を驚かすように、「今後三年で中国は統一か分裂かの歴史的運命が決まる」と述べている。
この文章のこのような結論を読むと、何新の論点がいかに出鱈目であるとしても、彼は中国のトップ層の一部の者が言いたくとも公然とは言えないことを語ったものであることが分かる。したがって何新は再度王震の接見を受けた。格式は前と同じであり、力群が陪席した。
「湾岸戦争と中国」を発表した後、何新は自ら「国際戦略の専門家」を僣称するようになったのであるから、文学研究所が「何新の学問は大きすぎて、われわれは評価できない」と称したのも不思議ではない。
八六年から八八年にかけて、何新は『自学』雑誌に自らの小伝を連載した。幼稚園から書き始めて中学時代にチンピラ・グループに入り、ケンカしたと書いている。何新は当時、武術も練習したことがあり、東単のボス(原文=東単一覇)を称したことがあり、表現はすこぶる生き生きしている。今や「国際戦略の専門家」となり、学問は成長したのであるから、自伝は再読の価値があろう。最近、二つの消息が伝えられている。一つは彼の老朋友胡世英があちこちで、人に会うや騙されたと訴えていることである。何新と商売をやる約束だったのに、何新は胡世英を騙したという。二つは何新が『人民日報』に「世界経済情勢と中国経済問題」の談話録を発表した後、彼を侮辱した若干の脅迫状を受け取った。何新も脅迫状でこれにお返しをして、しかもトイレット・ペーパーに書いたという。
誰かが中共の歴史区分を行い、七代に分けている。第一世代は李大、陳独秀であり、真理を追求した世代である。第二世代は毛沢東であり、農民の造反を鼓舞し、混乱のなかから天下を取った世代である。第三世代は一二月九日運動以後、民族の救亡に参加した世代である。第四世代は一九四六年以後、大趨勢を見て革命の隊列に加わった、官のため、メシのための世代である。第五世代は李鵬から始まり、文革前までに成長した世代であり、規則に忠実、唯々諾々と出世してきた世代である。第六世代は文革後の反省(原文=反思)の世代である。第七世代は乳を与えてくれる者が母親だと思い込む世代である。感情の上からいえば、一、三、六の世代はウマが合い、年齢からすれば、六、七の世代が区別しにくい。何新はどの世代に属しているのであろうか。世人の論評に委ねるとしよう。(『鏡報』九一年四期)
▲五月二日『朝日新聞』夕刊に佐々木毅の「論壇時評・下」掲載。
何新の「“米国独覇”の戦略的考察」(『
Foresight』九一年四月号)の要旨を紹介しつつ、こうコメントした。「戦略論につきまとう単純さは免れないが、中国から見た世界の姿の特徴的なとらえ方と共に、米国の荒っぽい単極論を見透かすような鋭さが見られる」
ここで佐々木が何新論文を湾岸戦争後の「中国から見た世界の姿」を代表するものであるかのごとく、大きな紙幅を用いて紹介するのは著しくミスリーディングであろう。これが中共保守派の一部の見方であることは確かだが、中国の国際問題研究者、外交政策担当者のなかでは、むしろ異端・少数派である。中国の現実の外交政策にどこまで影響を与えているかは甚だ疑わしい。
「単純さを免れない」のは、おそらくは何新の論理だけではなく、佐々木自身の中国理解である。何新とそのイデオロギー、およびその背景について『朝日新聞』が捏造関連の報道をほとんど無視してきたことも佐々木の貧しい中国理解の一因かもしれない。
いずれにせよ、皇甫平三月二二日付論評が示すように、「もっと立派に、もっと大胆に」開放政策を展開する傾向が表面化してきた。天安門事件以後二年、中国の改革開放路線はふたたび活性化しつつある。このような現実を見つめることができるならば、何新の議論がウドンゲにも似た徒花にすぎなかったことが容易に理解できるはずである。
何新との一年におよぶやりとりを体験した私から見ると、佐々木毅のコメントは「論壇時評」の浅薄さを象徴しているように思われる。
▲何新の記者会見
七月一〇日、何新は北京で「内外記者会見」を行った。これについて『読売新聞』(八月二日付)は、次のような解説記事を掲載した。
〔香港支局八月一日〕天安門事件以降、中国の新保守派イデオローグとして話題になっている何新氏(四二歳、中国社会科学院文学研究所副研究員)が、今度は香港のマスコミや言論人を激しく非難、香港の報道界が強く反発する騒ぎになっている。一介の研究者だった何新氏だが、現政権を擁護する独自の理論で李鵬首相ら保守派指導者の覚えがめでたく、今春、統一戦線組織である中国人民政治協商会議委員に昇格したばかり。
九七年の香港返還を前に強まる大陸の圧力に、同氏が一役買った格好だ。
発端は今年五月、何新氏が政協会議全国委員会に対し、大陸を論評した香港のマスコミ記事について、「中国の長老指導者と共産党、政府、軍の一部指導者を誹謗、中傷、人身攻撃している」と名指しで批判。中国の司法当局に取り締まりを提案、同時にこの訴追権を香港の大陸返還期限である九七年以降に留保すると発言し、暗に返還後は取り締まりを強化すると脅しをかけたことにある。
さらに七月一〇日には、北京に内外報道陣を集め、政協委員としては異例の記者会見で、現政権を改めて擁護し、香港報道界への非難を繰り返した。
これに対し、批判された香港の雑誌『百姓』は最新号の社説で「(昨年秋)矢吹晋・横浜市大教授と何新氏との対談記事問題で、でっちあげと同教授に抗議されたため、香港のマスコミにいろいろ批判されたことへの報復で、中国指導者たちの歓心を買おうとする言動だ」と反撃、九七年以降の「憲法」となる「香港特別基本法」でも、香港の犯罪は香港の法廷で裁くよう規定してある点を指摘、何新氏の主張の不当性を訴えた。
また、政協会議全国委員会の香港代表委員も務める有力者で、雑誌『鏡報』社長の徐四民氏は、「全国二〇〇〇人の政協委員を前に、香港の愛国的雑誌に言いがかりをつけるとあっては見逃せない。わが雑誌のどこが該当するのか証拠を出してもらいたい。そうでないなら政協会議全国委への提言を撤回してほしい」と怒りの書簡を氏に送りつけた。
林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。
「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」
この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。
林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。
さて、最後に周恩来について書かねばならない。林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。
彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。
このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。
林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。
周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。彼があとすこし生き延びていたら、劉少奇と同じ運命をたどっていなかったと、だれが断言できようか。しかし、それもこれも彼自身の身から出た錆ではないだろうか。周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。
しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。
(少し長い文章を4回に分けて連載した。推敲をしなかったので、生硬な文章になってしまったが、読んで下さった方々には感謝します。この文章を書くに当たって、横浜市立大学教授の矢吹晋さんのHP、「矢吹チャイナ・ウオッチ研究室」http://www2.big.or.jp/~yabuki/が大いに参考になった)
1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。
しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。
1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。
これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。
31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。
合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。
翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。
12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。
ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。
異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。
確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。
つづく
羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。
林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。しかし、これはもう時間の問題だった。林彪によって実権派の有力者4名が粛正された時点で、勝負はついていた。手足をもがれた劉少奇に、いかほどの権力も残っていなかった。
1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」
劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。
1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は「司令部を砲撃しよう──私の大字報」を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。
劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。
No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。
しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。
八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。(このとき選ばれた21名の政治局委員のうち、半数以上の12名がのちに林彪、江青グループとして処分された)
第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。
これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。
つづく
何事もそうだが、歴史も少し視点を変えてみると、また思いがけない真実が浮かび上がってくるものだ。これまで現代中国の政治を論じたほとんどの書物は、毛沢東は問題があったが、周恩来は立派だったという「周恩来善玉説」である。しかし、この通説に私は疑問を呈してきた。今日はこうした立場から、林彪によるクーデター未遂事件を取りあげてみたいと思う。
文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。
毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。
こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。
1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。
この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。
さすがに毛沢東もこの主要な実務4部門の責任者を粛正することには反対だったが、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説する林彪にしぶしぶ同意を与えた。羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。毛沢東は生まれて初めて意に反して、他人の意見に同意したと、江青に宛てた手紙(1966年7月8日)に書いている。(林彪失脚後、羅瑞卿の名誉は回復された)
つづく
1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。
毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇と?ケ小平である。
焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。
さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。
これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、?ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。
ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、?ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。
そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、映画や小説にも描かれているので説明するまでもないだろう。
こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、?ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。
周恩来なかりせば、毛沢東の偉業はなかった。と同時に、度を外れた毛沢東の悪行の数々もなかっただろう。私は周恩来をあえて、「人類史上まれにみる極悪人」と呼んだ。なぜ、私が周恩来を毛沢東以上に巨悪だと考えるか、以上に述べたことから、その一端を理解してもらえたらありがたい。
周恩来はなぜこれほどまでに毛沢東に忠愚を貫き通したのであろうか。ここに一つの大きな謎がある。周恩来を擁護する人々は、毛沢東に対する個人崇拝が破られれば、中国は内戦状態に陥っただろうという。しかし、私はそうは考えない。
フルシチョフによる「スターリン批判」があったあと、中国は「毛沢東個人崇拝」を脱却する方向に一時動きだした。これは時代の要請であり、これによって中国はスムーズに国の近代化や民主化をはかることができた筈である。そうすれば、中国の現代史ははるかに明るく、美しいものになっていたし、毛沢東自身も歴史上の偉人として、私たちの胸にいつまでも輝き続けに違いないのである。
その、歴史上のターニング・ポイントを握る人物こそ周恩来その人であった。毛沢東の手足となり、毛沢東の命令を忠実に実行することで、彼は毛沢東と常に一心同体だった。そして国政上の実権を握っていた彼のこうした暗愚が、中国を恐るべき恐怖と貧窮の王国と化したのである。その後遺症は、今も中国大陸に住む十数億の人々の上を覆っている。
最近、毛沢東に関する興味深い一冊の本を読んだ。「毛沢東の私生活」(文春文庫上、下)である。著者は二十数年間に渡って毛沢東の主治医を勤め、彼の臨終を看取った李志綏 という人である。
毛沢東の一番近くにいた人物によって、毛沢東と彼を中心とする中国共産の赤裸々な真実がここに描かれている。彼はこの本をアメリカで出版した。おそらく命がけのことだったと思う。北京政府はただちにこの書物を発禁処分にした。しかし、それでことはすまなかった。
「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」という著者の予言がすぐにほんとうのことになった。著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見されたからだ。
毛沢東の前でひざまずく忠犬のような周恩来の姿、そして愛人に溺れ、口げんかをして心筋梗塞におそわれる毛沢東の姿。取り次ぎ役を自認じていたその愛人が昼寝をしているため、2時間も待った後ですごすごと帰っていく華国峰首相の姿。そして文化大革命の嵐の中で、自裁に追い込まれていく人たち。
著者はまた、数千万人が餓死している中で、毛沢東の家で催される豪華なパーティを様子を冷静な筆で描く。この本に描かれてあることを真実と認めるのは、毛沢東や周恩来を崇拝する人には、かなりの勇気がいることかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・資料1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
産經新聞1994年7月18日付
【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。
同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。
同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。
中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。
こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・資料2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「愚忠をつらぬいた宰相」 http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc5/mz196.htm
このような周恩来讃歌に真向から挑戦して、周恩来のもう一つの顔を描こうとしたのが、香港の政論家金鐘である。
金鐘によれば、周恩来は遵義会議以後、四〇年間一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東、林彪、江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。
文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、まさにその通りであり、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。
周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほど甚だしく、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物であって、まさに現代の大儒にふさわしい。
金鐘はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。
「周恩来は宰相であり、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐(元国防部長)と同じ運命をたどったであろう」。
奇妙なことに、毛沢東批判に関するかぎり、中国大陸でもかなり深い分析が行われるようになってきたが、周恩来についてはまだ厳しい批判が少なくとも活字には登場していないようである。その理由として考えられるのは、次の事情であろう。
まず第一に、社会主義建設期の二つの大きな誤り(大躍進政策と文化大革命)は毛沢東の提唱したものであるから、この点で毛沢東はいわば「主犯」である。周恩来は「従犯」にすぎない(むろん、ここで周恩来が協力したからこそ、矛盾の爆発、顕在化が遅れたとして、周恩来の役割を強調する、省無聯や金鐘のような見方もある)。
第二に、ソ連では長らく、レーニンの権威に依拠して、スターリンの誤りを批判する時期がつづいた。レーニンを含めてソ連社会主義を、全体として批判的に総括する動きが出てきたのは、ゴルバチョフのペレストロイカ以後のことである。
中国では革命と建設双方の当事者だという意味で、毛沢東はレーニンとスターリンの役割をかねていた。そこで中国ではレーニンの役割をはたした毛沢東を評価しつつ、スターリンの役割をはたした毛沢東を批判するという使いわけがおこなわれてきたのである。肝心の毛沢東評価でさえ、このように曖昧さを残したものである以上、矛先が周恩来まで届かないのも当然であった。
それだけではない。長きにわたって神格化された毛沢東を批判することに伴う心理的動揺を、周恩来の存在によって補償しようとする心理状況が、広範に存在していたことも否めない。この場合、過ちを犯した厳父と対照して、周恩来は慈母のごとくである。周恩来に関してはとくに「棺を蓋うて論定まる」段階にはまだ到っていないことがわかる。
北さんがあまりに周恩来を持ちあげるので、すこし反対意見を書いてみたくなった。平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。
これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。
毛沢東は、「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。
こうした巨悪の体制を、周恩来は毛沢東とともに実質上指揮してきた。毛沢東が死んだ後は、英雄のように祭られているが、常識的に考えてもこれはおかしい。私はつねづね周恩来こそ人類史上まれにみる極悪人だと考えているのだが、いまだ、彼を賛美する人が絶えない。
1947年3月の動員大会で周恩来は、「われわれには毛主席の直接指導があり、必ず勝ち戦さができる。延安を防衛せよ、毛主席を防衛せよ」という有名な演説をした。毛沢東を神格化した元凶は周恩来である。彼が文化大革命に乗り気でなかったという話があるが、彼がこのすさまじい犠牲を看過し、毛沢東の忠実な下僕であり続けたことはまぎれもない事実である。
なおついでに書いておくと、1997年11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、内4,000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したという。北京放送が真実を伝える日はいつのことだろう。
(参考サイト)「虐殺事件の犠牲者数」http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1209301.htm
ここ数年、血圧が上昇していて、健康診断をうけるといつも要注意だと言われる。検査の結果が悪いので、養護の先生が保健室に呼んで測ってくれたが、何度測っても値が出ないので、最後はベッドに寝て、一休みしてから測った。それでもかなり高い値だった。
血圧が高い理由は、たぶんストレスだろう。少し前まで最高血圧が100を切っていて、むしろ低血圧だと言われていた。それが一転して160を超える高血圧になったのは、ストレスの多い環境に身を置くようになってからだ。
最近は血圧の他に、心電図でも異常が出るようになり、ときどき胸が苦しくなる。そんなとき、ふと、死を思う。今ここでぽっくり死んで、何か不都合はあるだろうかと考える。まあ、死にたいとは思わないが、死んで悪いとも思わない。50歳を過ぎれば、あとはもうけものの人生だと、日頃から思っているので、とくに不満があるわけではない。
養護の先生は、病院へ行って治療してはどうですかとすすめてくれるが、私は病院が嫌いだし、薬で症状を抑える気にもならない。そうした対症療法がなんだか姑息に感じられるのである。むしろ、ぽっくり死ねば、それはそれでもうけものだなどと考えてしまう。とはいえ、健康で長生きできれば、それにこしたことはない。
そこで、なるべく血圧が上がらないように、生き方を変えてみよう思っている。小さなことでくよくよしないで、何事も腹八分目をよしとして、とにかくあまり頑張らずに、なるべくのんびり構えること。50歳を過ぎたら余生だと考えて、肩肘をはらずに、気ままに生きて行くのがいいのではないだろうか。
せせらぎに まなこつむれば 春の風 裕
中学生の長女が、高校は普通科ではなく、看護科にすすみたいと言い出して、看護科のある県立高校のパンフレットを見せたとき、私は「大学へ行かなくていいの?うちは借金があって貧乏だけど、大学くらいは出してあげられるよ」と一応確認した。「看護婦になりたいから」と長女。妻も私も長女のこの選択に反対しなかった。
道端で身をかがめて具合悪そうにしていた見知らぬ人に、通学途中の長女が近づいて親切に話しかけていた、そんな情景を近所の人が見ていて、「感心ですね」と話してくれたことがある。まあ、そんな面倒見のいいやさしいところがあるので、看護婦にはむいているかなとも思った。
その長女が高校に進学して、2年生が終わる頃、国立大学の看護学科に進学したいと言い出したとき、私は意外だった。そして、まずそんなことが可能だとは思わなかった。長女は中学時代はテニスであけくれた感じで、勉強は得意な方ではなかった。推薦で県立高校の看護学科に入ったので、受験勉強らしいこともこれまでしたことがない。
高校に入ってからも近所の歯医者でアルバイトをしたり、デートをしたり、漫画を読んだりばかりで、ろくに勉強している様子はない。これで難関の大学入試に合格できるなど、虫がよすぎると思った。しかし、またどうして、急に大学進学を考えるようになったのか。
部活動で一緒だった先輩が、とてもいい先輩で、その先輩の進学した大学へ行きたいということも一つ、アルバイト先で出会ったとても知的で魅力的な大学生の影響、そして病院での実習体験も大きかったようだ。進路を看護婦に限定しないで、もう少し広く考えて、さまざまなことを学びたいと思ったのだろう。しかし、現実はそれほど甘くはない。いまさら手遅れではないかと思った。
予想した通り、共通一次(センター入試)の点数は、英、数、国とも、あまりぱっとしない。同じ高校から受験するA子さんと比べても、はるかに低い点数である。きくところによると、A子さんは1年生の頃から大学進学に照準を合わせて、河合塾に通って勉強したのだという。長女の場合、塾はおろか、模擬試験をうけた形跡もない。とても受験生とは思えない暢気で優雅な生活だった。
ところが、ふたをあけてみると、高得点のA子さんが不合格になって、長女が合格した。妻は涙を流して喜んでいたが、私はなんだかキツネに化かされたような気持である。世の中には不思議なこともあるものだと思った。
こうしたことが起こったのは、大学入試が多様化して、大学が学力だけで合否を決めなくなったせいだろう。長女の場合は共通一次の成績は悪かったが、小論文や面接の成績がよかったようである。
長女は中学生の頃から看護婦になりたいと言っていたので、志望の動機などはかなりしっかりしていた。その上に、歯科でのアルバイト体験や、1ヶ月近くあった病院での実習も自分の進路を考えるよすがになった。一般の受験者と違って、こうした現場に身を置いた体験の重みは大きい。
あとで知ったことだが、ノートに医療関係の新聞の記事を切り出して、医療問題について自分なりに考えていたようである。親の知らないところで、本人なりに努力していたということだろう。あまり、「奇跡だ」などと騒ぎ立てるのは、本人に対して失礼かも知れない。
長女は高校では合唱部と数学クラブに入っていたが、面接官の一人が「数学というのはどんな学問ですか」と訊いてきたらしい。長女は父親の口癖を思い出して、即座に、「数学で大切なのは、証明です」と答えたらしいが、これでいくらか点数が稼げたのかも知れない。まぁ、私も少しは貢献したわけだ。
大学生になった娘は、歯医者のアルバイトがいそがしくて、ほとんど家では勉強しないと言う。それでも英語や中国語の授業は面白いというし、何とか及第点をもらえたようだ。専門の看護科目については、昔取ったなんとかで、最高点だったと喜んでいたが、すぐに天狗になる性格は私に似ているのだろうか。ともあれ、大学の入試がこうした形で変わっていくことは、とてもよいことだと思わずにはいられない。
昨日の朝日新聞の「私の視点」に法政大学教授の川成洋さんが、「昨今の大学生の学力低下はすさまじい」と書いている。川成さんによると、現在、国立大学の6割がリメディアルと称する高校指導内容の補習教育を実施しているのだという。
どうしてこうした状況が生まれたのか、川成さんは「ゆとりの教育」が原因だという。そして、大学入試の形骸化がこれに拍車をかけている。たとえば、私大の場合は学力検査をいっさい行わない推薦入試やAO入試で、定員の6割も入学させている。
「おためごかし的な入試を一切やめて、学力テスト一本に絞るべきである。それも、入試科目を5教科に増やして、高校卒業の基礎学力を持たない学生は入試段階でチェックすべきである」
私も大学生の学力崩壊や「大学のレジャーランド化」を憂える点で、川成さんとかわらない。ただその処方箋については、大学入試を学力試験に一本化し、受験科目数を増やすという、受験体制強化を目差す川成案には賛成できない。これは一つの対症療法にはなろうが、根本的な解決にはならないと考えるからである。
その理由については、これまでこの日記に繰り返し書いてきた。「何でも研究室」の「数学World」には、それらがまとめて再録してある。そこに詳述してあることを一言にまとめるのは難しいが、要するにほんとうの学力は「思考力を鍛える」ことによって得られるということである。
この観点から考えて、私は大学入試に学力検査は必要ないと考える。5教科はおろか、1教科も必要ではないと思っている。そのかわり、国語と数学について、大学入学のための資格試験を実施する。これに合格すれば、すくなくとも学力的にはよしとするのである。
大学生の学力崩壊は受験体制を強化しても無理である。ますます勉強嫌いを大量生産し、姑息な計算ばかり達者で、自ら主体的に考えることの苦手な、「安楽な精神主義者」を大量生産するだけである。受験のための勉強から生まれるのはこうした怠惰な精神であり、それが今日本を覆っている。学生ばかりではなく、学生の学力低下を嘆く教授たちさえ、その例外ではない。
しかし、生徒たちを受験のための勉強から解放することで、問題は解決するだろうか。受験体制をゆるめれば、多くの人はその先に「さらなる学力崩壊」を予想するのだろうが、私はこの点でかなり楽観している。
それはほとんど受験勉強のない他の先進国の状況をみればあきらかだからだ。日本の大学生の知的レベルが低いことの本当の理由は、実は大学自身のあり方に根本的な原因がある。しかし、受験体制の勝者によつて今の大学が支配されている現状では、大学の改革もむつかしい。
彼らをはじめ日本の教育界の指導者たちの多くは、自分の成功体験を唯一無二のものと考える「安楽な独善主義」に汚染されている。彼らに欠如しているのは、事柄の本質をつきつめて考える力、つまり私が「ほんとうの学力」と呼ぶところの「思考力」に他ならない。
私は基本的に評論家が嫌いである。なかでも嫌いなのが教育評論家。あれこれ立派なことを言うが、言うは易く、行うのが難しいのが育児や教育である。新聞の投書などでも、随分立派なことを書く人がいるが、実際、現場に立ってみると、なかなかそう思ったようにはことが運ばない。
以前に塾の先生が「塾では授業崩壊が起こっていない。そのことを学校の教員はよくよく考えるべきだ」などと新聞に書いていたのを見て、「塾と学校の違いもわからずによく書くなぁ」と腹立たしい思いをしたものだ。
以前に中学の教師に平手打ちを食ったと訴えた女生徒にたいして、東京地裁が学校側の非を認める判決を言い渡した。この判決について、私は何も不満はないのだが、そのときの判決文の内容に、首を傾げたことがある。
「体罰を加えるからにはよほどの事情があったはずだというような積極、消極の体罰擁護論が、いわば国民の本音として聞かれることは憂えるべきことである」
体罰擁護論が国民の本音であって、どうしていけないのだろうか。裁判官は法に則り、判決を下せばよいのであって、それ以上、国民の思想信条に介入する必要はないし、またその権限もないはずである。国民の本音を「憂える」などというのは、思い上がりもはなはだしい。裁判官はいつから私たちに道徳を説くようになったのだろう。
ちなみにこの判決文を、我が意を得たりとばかり引用したのが、朝日新聞の「天声人語」である。さらに国法に従って死の道を選んだソクラテスの言葉まで引用して、「実際にはソクラテスの道を選ばず、法などおかまいもなく体罰に走る教師が少なからずいる」と、こちらのほうも、大いに憂えている。
教師は規則や法律を守らない生徒を野放しにするわけにはいかない。そのような生徒に対してどのような罰がふさわしいのか、体罰に代わる有効な方法を考えてみることが必要だろう。体罰反対を叫ぶのは簡単だが、それでは何ら教育問題は解決しないし、前進もしない。
私が「精神の安楽家」と呼んでいるものに、「安楽な懐疑家」「安楽な多元主義者」「安楽な独善家」がある。今日は「安楽な独善家」について書いてみよう。
私たちの精神はともすると、あまり深く物事を考えずに、安易にひとつの結論にしがみつこうとする。たとえば円柱をみて、ある独善家はそれを四角だときめつける。それを別の角度から眺めたもう一人の独善家は丸だと主張する。そしてお互いに自説が正しいこと信じて疑わない。
「群盲象を撫でる」という諺があるが、これも同じような状況である。ある盲人は象の鼻を撫でて、それはホースのように長いといい、別の盲人は耳を撫でて、団扇のように平べったいといい、他の一人は脚を撫でて、丸太ん棒のようだという。いずれも象の全体像をわきまえずに、その部分を全体だと思って判断しているわけだ。
しかし、私たちもこうした盲人を笑うことはできない。多かれ少なかれ、私たちは独善家であり、同じようなまちがいを犯して、他人を一方的に拒み、非難することがあるからだ。これに対して、懐疑家の盲人は象など存在しないというかもしれないし、多元主義者の盲人は、丸くて平べったくて丸太のような何かが象だと言うかも知れない。
独善と懐疑はまるで反対のように考えられるが、その実、そうかけ離れたものではない。なぜなら、懐疑することに疲れた懐疑家は一夜にして独善家になることがあるし、独善家は自説が破られたとき、一気に懐疑家に変身することがあるからだ。
つまり、懐疑と独善はコインの表裏であり、「精神の安楽主義」のそれぞれの側面に過ぎない。これに安楽な多元主義をくわえれば、おおむね、怠惰な精神の立体像が完成する。もう少し本質を言えば、○○主義者はおおむね精神の安楽家の代名詞だと考えて間違いないようである。
日記らしいものを書き始めたのは高校生の頃からで、さかのぼってみると、もう30年以上も書いていることになる。なんのために書くのかといえば、書くことがたのしいからだ。世の中には、笛を吹くのが好きな人もいれば、テニスが好きな人、山登りが好きな人もいる。私の場合は、書くことが好きだった。
もう少し正確に言うと、「いろいろと考えること」が好きなのである。書きながら考える、読書しながら考える、人と話をしながら考える、散歩しながら考える、音楽を聴きながら考える、そうしているうちに、書くことや、読書や会話、散歩、音楽を聴くことも好きになった。
書いたものが溜まってくると、まとめて処分する。高校や大学時代の日記は、金沢から名古屋に来るときに処分した。冬の季節に、内灘の淋しい海にひとりで出かけて行って、長い時間をかけて波打ち際で燃やしたのを覚えている。
その後、大学院時代や新米教師の頃に書いていた日記は、結婚と同時にすべて処分した。これはビリビリに破って、可燃物として出したような気がする。したがって、現在手元にあるのは、結婚してから、この20年間の日記帳十数冊だ。これを早く処分しなければと思いながら、ぐずぐずしている。これだけのものを処分しようと思うと、なかなか大変だ。
最近の数年間は、インターネットに書くようになったので、数年後、これを消去することは簡単にできそうである。インターネット日記のよさは、こういう手軽さにあるのだろう。しかし、この手軽さが、精神の安楽主義を助長することもあるかもしれない。
死ぬときは我が身がひとつ青い空 裕
部屋でパソコンに向かって、むつかしい文章を考えていると、高校2年生の次女が入ってきて、「詩らしいきものを書いてみたけど、ちゃんとできているか読んでみて」と言う。おやおやと思いながら、彼女のノートを受け取って、読み始めた。
「夏、あなたから一枚の絵葉書が届いた。
そこには私が見たこともない、真っ青で、どこまでも澄み切った海が、優しく、大地を浄化させるかのように続いていた。
私はホッとため息を漏らし、ゆっくり絵はがきを回した。同じコバルトブルーで書かれた文字に、思わず目が和み、高鳴る鼓動を感じながら、一つ一つを丁寧にゆっくり読んでいく・・・。思わず私の顔から笑みが零れる。
ーー目を閉じてあなたの声を追懐する。それは頭の中に響き渡り、やがて心の奥底にあなたの優しさを感じさせた。ーーー」
一読後、「もう少し無駄な文字を削ったほうがいいね。そうすれば、少しは詩らしくなるよ」と私。首を傾げる次女に、「たとえば、こんな風に書いてはどうかな」と、傍らの紙に書き付けたのが、つぎの文章である。
一枚の絵葉書
夏、あなたから一枚の絵葉書が届いた
見たこともない真っ青で澄み切った空
大地を浄化させるような優しい海
ため息をもらし、絵葉書をゆっくり裏返すと・・・
コバルトブルーの文字に目が和み、鼓動が高まった
ーー目を閉じて、あなたの声を追懐する
あなたの声は私の頭の中に響き渡り
私の心の奥底に
あなたの優しさがしみとおる
思わず私の笑みがこぼれる・・・
次女は「ほんとうだね」と素直に感心して引き下がった。あとで居間に行き、妻の感想を聞くと、「あなたの書いた詩より、もとの文章の方がいい」という。その理由は、「なんだかきれいに整いすぎて、個性がなくて、面白くないから」だそうだ。「そうかなぁ」と少しがっかりした私。
絵葉書に君のいる海しのびつつ 裕
ニュートンは光は粒子だと考えた。そうしてこの立場から、光の直進性や屈折現象、スペクトルの問題を考えた。これに対して、オランダ人のホイヘンスは光は波だと考えた。そうすると光の回折や干渉が容易に説明できる。
光は粒子か波かという論争は、19世紀にイギリスのマクスウエルが「光は電磁波である」ことを示して、一応決着がついたかにみえたが、その後20世紀になって、アインシュタインが「光量子説」を唱えて、ふたたび、再燃した。
金属に光を当てると、金属の表面から電子が飛び出してくる。これを「光電効果」と呼んでいるが、その様子を実験でくわしく調べてみると、光があたかもとびとびのエネルギーをもつ「粒子」のような振る舞いをしていることがわかる。こうした光の粒をアインシュタインは「光量子」と呼んだわけだ。
アインシュタインと言えば「相対論」が有名だが、実は彼がノーベル賞を受けたのはこの「光量子説」に対してであった。彼は26歳のとき、「特殊相対論」を発表したが、その同じ年に、この「光量子説」も発表している。両者とも、まさにこれまでの科学の定説を覆すような画期的な発見だった。
さて、このアインシュタインの論文によって、ふたたび光の粒子説が息を吹き返したわけだが、一方には光が「電磁波」であるという厳然とした「波動説」も存在するわけで、物理学者の頭は大変混乱してしまった。
光は波動であると同時に粒子でもあると主張すればいいわけだが、実はこの主張の中には矛盾が潜んでいる。「波であること」と「粒子であること」は全く違った現象だと考えられていたからだ。ところが、光は同時にこの二つの属性をもっている。
これは一見矛盾するようだが、物理学者はやがてこの矛盾止揚することに成功した。それは簡単に言えば、「光はそれを観測する方法によって、波の性質を表したり、粒子の性質を見せたりする」と考えるのである。光という実体のなかに、この二つの側面が含まれていると考えればいいことに気付いたわけだ。
たとえば、ここにある図形Aがあって、ある人はそれを○だといい、ある人はそれを□だと主張したとしよう。Aが同時に○と□であることは一見矛盾のようだが、実はこの矛盾はAが平面上の図形だと考えるから起こってくるわけで、Aを円柱という立体として捉えることで解決される。
波であり同時に粒子であるという相反する属性も、このように光を立体化してイメージすることで解決される。大学に入って量子力学を学んで、まず感動するのは、こうした「立体的な思考」のすばらしさである。考えてみれば、科学の歴史はこうした「多元的な思考」の宝庫だといえる。
さて、付け加えておくと、その後、物理学者は光だけではなく、電子やその他のすべての物質が粒子性と波動性をともに持っていることに気付いた。こうしてアインシュタインの「光量子」から始まった物質についての新たな理論は、その後半世紀ほどかかって完成され、現代の物理学者はそれを「場の量子論」と呼んでいる。
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昨日の日記について、掲示板にスビンさんから、論理的であることは、真理が多元的、多様性を持つことを排除しない」というご指摘があった。たとえば、同じ幾何学でも、ユークリッド幾何学の他に非ユークリッド幾何学が複数存在している。論理性はむしろ多様性や多元性を支えているのではないか。
スピンさんのこの説に賛成である。私の文章の舌足らずの部分を補っていただいたと思っている。私は真理というのは多元的で多様なものの統一体であると考えている。そして論理というのは、この多様性に秩序を与え、すっきりと統一する働きがある。
まさに、論理があってはじめて、多元性や多様性が秩序として存在しうるのだろう。そのもっとも分かりやすい例は数学だろうが、今日は私が大学時代に学んで感激した現代物理学から、話題を拾ってみた。
人と議論をしていて、こちらの旗色が悪くなったり、面倒になったりすると、「それも一つの考え方だね」と鷹揚にいなして、相手に悔しい思いをさせることがよくある。十人十色という諺があるように、人それぞれに異なった考え方があるのは当然だが、見解の相違ということで片づけられてはたまらないだろう。
ある一つのことに対して、AとBの異なった見解が提出されたとき、そのいずれが正しいのか、徹底的に議論し、決着をつけるべきかもしれない。そうした妥協を排した厳しい論争や対話によって、ものごとの認識が弁証法的に深められ、私たちは真理へと一歩ずつ近づくことができるからだ。
しかし、私を含めて、日本人はどちらかというと、こうした論争や対話が苦手なのではないだろうか。そして、「見解の相違」ということで、結局うやむやのうちに終わらせてしまう。こうしたことは、人と人の論争の場合だけではなく、思考という、一人の人間の内部で営まれる対話の場合も同様である。
あるときはAだと言い、別の時はBだと考え、その両者の間に存在する矛盾について、つきつめて考えようとはしない。一人の人間がその時々に応じて、平気で矛盾することを主張するというのは、知的能力が劣っているか、人間的誠実さに欠落があるとしか考えられないのだが、おおむねこのようなことが何の疑問もなく行われている。
これに対して、あくまで筋を通して白黒を鮮明にすべしというのが、西洋流の徹底した合理主義にもとづく考え方だろう。「真理は一つ」という立場である。これに対して、私たちは真理は相対的なもので、多元的であり、そもそも人知の及ぶ範囲のものではないと考える習性が身に着いている。
真理に対するこうした考え方の違いは、それぞれのおかれた社会的風土や歴史によるところが大きいのだろう。いずれがいいのか、にわかには判定しがたいところだが、私たちの怠惰な精神はともすると懐疑主義の安楽椅子を求めがちだ。
そして、真理の絶対性を説く相手に対しては、「まあ、それも一つの考え方だね」と、呪文のようにこの言葉をつぶやく。そうして、私たちは厄介な苦役を逃れた子どものような、ひそかな満足と安堵を覚える。
私は川が好きで、昔からよく川のほとりを歩いた。福井にいた頃は、足羽川が私の散歩コースだったし、金沢に住んでいた頃は、犀川や浅野川を歩いた。名古屋では山崎川の近くに住んでいた。
そして現在は木曽川のほとりに住んでいる。先月号のHPの表紙は私の家から10分ほど歩いた木曽川の景色である。向こう岸は岐阜県で、岐阜城のそびえる金華山が見える。伊吹山や御嶽山もみえて、すこぶる気分が爽快になる。
ただ、気になるのは、木曽川にあまり生き物の姿が見えないことだ。川だけではなく、途中の田圃や小川にもそれらしい姿が少ない。今の子どもたちはこれが当たり前の景色なのだろうが、ドジョウやメダカ、カエル、トカゲ、亀やザリガニがわんさわんさといひしめいていた小川や田圃を知っている私たちの世代には淋しいことだ。
農薬や除草剤、有機洗剤を大量につかうようになったことや、護岸工事で生態系が破壊されたことが大きいのだろう。おかげで農業生産性は飛躍的に向上したが、ほんとうにこれで大丈夫なのだろうかという不安を拭いきれない。
木曽川に比べて、長良川はまだ生き物が豊かな印象を受けた。最近は知らないが、10年ほど前に家族で水浴びに行ったときには、水も澄んでいて、生き物も活発に活動していた。美しい清流は微生物をはじめたくさんの生物が棲み続けることで保たれる。生き物と川が共生することで、ほんとうにゆたかな清らかさが生まれるのである。
こんなことを考えているうちに、私たちの体内を流れる川の存在に思い至った。人間の体内を流れる血液はたくさんの支流を持つ大河の流れと似ている。このかけがいのない流れを、これ以上薬物などで汚染させてはいけない。この体内の川が清らかであるということが、すなわち私たちが健康であるということだからだ。
そしてそのために大切なことは、私たちの外にある自然をもういちど美しく甦らせることだろう。土壌や空気、水の汚染が、私たちの内部の川を汚染している。目先だけの生産性や効率を優先する文明のあり方を、根本的に変えていく必要がある。水俣病やイタイイタイ病の悲劇は終わってはいない。それは姿を変えて、しずかに今地球の生命を蝕みつつある。
20世紀後半になって、フロンガスなどの人工的に作られた化学物質によって、大気圏が急速に汚染され、オゾン層の破壊が進んだ。オゾン層が希薄になると、強力な紫外線が地上にふりそそいでくる。そうすると、皮膚癌や白内障が増加し、免疫力が急速に低下する。
被害は人間だけではなく、あらゆる生物に及ぶ。稲や大豆はまっさきに影響を受けるし、海中のプランクトンも大量死する。そうすると、これを餌にしている海の生き物も激減するだろう。人類にも食糧危機が襲いかかり、種の滅亡も考えられないことではない。
前世紀後半になって、こうした恐るべきシナリオが科学者によって明らかにされたため、オゾン層の破壊から地球を守ろうという国際環境会議が開かれ、ウイーン条約やモントリオール議定書が結ばれ、交際協調が実現した。この結果フロンガスの使用や製造は規制された。現在もオゾン層の破壊は進んでいるから楽観はできないが、人類は何とか危ういところで破滅を免れることができそうである。
以上はよく知られたオゾン層バリア崩壊の話だが、私たちはこの他にもさまざまなバリアによって生命や安全を守られている。国や社会、家庭も私たちが安全に生きていく上で必要な社会的バリアだといえる。知識や言語、法や道徳といった精神的バリアもある。こうしたものによって私たちは幾重にも守られて存在している。
今日はもうひとつ、私たちのごく身近にあって、私たちの健康を守ってくれている共生菌バリアについて書いてみよう。オゾン層バリアの崩壊に続いて、共生菌バリアの崩壊が、いま人類をもう一つの危機に導こうとしているからだ。
人間の皮膚にはブドウ球菌など雑多な細菌が何十兆と棲みついている。もしこの共生菌が失われたら、皮膚はバリアーを失って、外部からの病原体にさらされる。
皮膚はそこで「顆粒菌」という防衛担当の細胞を繰り出して、病原菌の排除にとりかかる。そのとき排出される「活性酸素」が病原体もろとも皮膚の細胞を破壊し、皮膚を化膿させることになる。さらに、ダニなどの抗体が体内に入りやすくなって、アトピー性皮膚炎を生じるようになる。
共生菌は皮膚以外にも棲んでいる。たとえばヒトの腸には乳酸菌や大腸菌など約100種類の細菌が100兆個ほど棲みついている。これらの細菌が食物の消化を助けたり、ビタミンを合成したりしている。さらには外部からの細菌感染にたいしてこれを予防する。
ところが抗生物質や消毒剤が乱用され、清潔志向がすすんで、抗菌グッズのような商品が出回るようになった。共生菌の生活環境が悪化し、バリアが消失しようとしている。そしてその結果、私たちはアトピー性皮膚炎や花粉症といった厄介な病気を次々と背負い込むことになった。
東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授は現代の過度な清潔志向に警鐘を鳴らして、「ヒトは無菌の国では生きられない。寄生虫、細菌、ウイルスを含めた、すべての生物と共生することで、本当の健康は得られるのではないだろうか」(共生の意味論)と書いている。
作家の五木寛之さんは頭や手を洗わないそうである。石鹸や消毒液のない生活はさぞかし不潔で健康上問題があると思うかもしれないが、彼は健康そのもので、いままでに医者にかかったことがないという。健康の秘訣は、あまり清潔志向に走らずに、いろいろな黴菌と仲良く共生することらしい。
オゾン層の破壊については、私たちは随分認識が進み、国際協調も進んでいるが、もっと身近な皮膚や粘膜の共生菌バリアの消失については、その恐るべき弊害について、ほとんど無知なのではないだろうか。化学物質や薬物の規制についても、国際的取り組みが必要なときではないかと思う。
花粉症の原因ついて、昨日書いたことを、もう少し補足しておこう。先日、北さんの掲示板に書き込んだ内容の再録が中心である。
藤田紘一郎さんの「共生の意味論」によると、日本で初めて杉花粉症を見つけたのは、1963年で、藤田さんとおなじ東京医科歯科大学教授の斎藤洋三博士だそうだ。
日光にすむ成年男子だったが、日光に延長37キロメートル、約1万3千本の杉が植えられたのは17世紀前半だという。昔の日本人は別に杉花粉症にはならなかった。それでは発症の原因は何かということだが、たとえばつぎのような要因が考えられる。
@大気汚染のなかの免疫増強因子の増加
A都市化による住宅環境の変化
B杉の花粉飛散量の増加
しかし、藤田さんはこうした環境変化だけではなく、
C寄生虫の消滅などの体内環境の変化
が大きいのではないかという。
日本人は太古の昔から、体内でたくさんの虫やバクテリアと共生してきた。それを薬物によって駆除したために、この30年間ですっかり体内環境が変化してしまった。このことと花粉症の発症が密接に関係していることを、藤田さんはニホンザルの花粉症と比較することで論証している。
花粉症という文明病の根底に、「共生の破壊」をとらえていて、なかなか奥が深い。藤田さんはNHKの「人生読本・こころの時代」のなかで、こんなことを語りかけたそうだ。
「ヒトが病気からまぬがれるための免疫から、いま、異物を認識し排除しする免疫に考えが変化してきた。しかし、僕たちがヒトと寄生虫や微生物とのやりとりを研究していると、免疫とは異物を排除するための機構ではなく、共生をいかにスムーズにするか、そのための機構であるように思われてくる」
「寄生虫や体内細菌など汚いものを排除する、この清潔運動が社会を突き動かすと危険である。・・・うわべのきれいさの裏に汚物が積もっていく。神戸の痛ましい少年事件の背後にも、免疫機能を失った社会で、この清潔運動が見え隠れしている」
昨日の日記でも触れたが、現在の日本人のスギ特異的lgE保有率は5割で、この30年で5倍になっている。中国人の場合は3割。中国で最初の花粉症は、1998年に南京医科大学で32歳の女性だそうだ。
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なお、花粉症について書かれたHPはたくさんある。いずれも対症療法について述べたものが多く、その原因を深く追求しているものはそう多くはないが、まるでないわけではない。たとえば「生活環境協会(NPO)」のHPがそうである。ドイツの花粉症の現状について、私はこのHPから学ぶことができた。以下に引用しておこう。
<ドイツにはアレルギーを持つ人が3000万人も存在するといわれる。花粉症も非常に広がっている。日本では杉花粉が多いが、ドイツではシラカバ花粉が中心である。そして、花粉症の患者は田舎よりも都会に多い。電子顕微鏡で見ると、たとえばバード・エムスタール付近の花粉は非常に綺麗なのに対して、ベルリンやミュンヘンの花粉にはスモッグの微粒子が付着している。つまり環境公害が花粉とコンビネーションを組んで、アレルギーを起こすと考えられる。人間の肺の面積は80平方メートルもあり、一番花粉が飛ぶときは、1日に8グラムも花粉を吸い込んでいる。杉やシラカバ花粉の対策プログラムを作ったとしても、その他にいろいろなアレルギーが付いてくることを知らなければいけない。
そして、花粉症のうち多くの人は食料品(食物)アレルギーを持っている。このように複合したアレルギーのことを「クロス・アレルギー」と呼ぶ。1999年の統計では、ドイツで人口の3%、約200万人が食料品によるアレルギーに苦しんでいるという結果が出ている(ドイツの総人口は約8220万人)。私自身(ルノー博士)はもっと多いと思っているが、200万人としても非常に大きな数字といえる。食料品によるアレルギーは、ドイツでは国民病になっているのである>
(参考サイト)「生活環境協会」 http://www.seikatsukankyo.or.jp/index.htm
花粉は太古の昔からあったが、花粉症などいう厄介な病気は現代人特有のものである。福井の田舎で杉木立に囲まれて暮らしていた私も、そして私の周囲の大人たちも、くしゃみ、鼻水、目のかゆみとは無縁だった。このことからしても、花粉が「花粉症」の主原因だとは考えにくい。それでは、本当の原因は何か。
研究によると、花粉がディーゼルの排気ガスと融合して化学変化を起すことによって、症状を誘発するアレルゲンとなるという。きれいな花粉は症状を引き起こさない。症状を引き起こすのは、大気汚染で汚れた花粉であり、もうすこし正確に言えば、花粉に着いた「汚れ」の方である。
「花粉症」という名前は間違いで、「ディーゼル汚染症」と呼ぶべきだったのだ。事実、世界で一番花粉症患者が多いのはドイツで次が日本だが、この順位はまさに全車両数に対してジーゼル車が占める比率の順位でもある。
しかし、多くの人はいまだに花粉症は花粉による自然災害だと思っている。そしていつでも産業界の利益を最優先する政府は、今もこの研究を無視して、「花粉症」の犯人を花粉に転嫁し続けている。そのことで利益を上げているのは誰だろう。自動車業界や運輸業界ばかりではない。膨大な患者を抱える医療機関もそうだ。政治献金をうけている政治家もそうだろう。「花粉症」の本当の犯人は実は彼らなのだ。「政府無策国民虐待症」と呼ぶべきである。
「花粉症」で苦しんでいる日本の1300万人の同胞たちに訴えたい。これ以上犠牲を堪え忍んでばかりいないで、今こそ真実に目覚めて、ディーゼル車を放置している政府の無策に、怒りの声を上げようではではないか。
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実は上の文章は、そっくり一年前の日記の引用である。花粉症について書こうとして、まてよ、昔もかいたことがあるなと思い、日記を読み返してみたら、ちゃんとかいてあった。とくに、不都合な間違いもないようなので、そのまま再録することにした。
たしかに花粉症は、ものの本にも書いてあるとおり、「アレルギー体質に、花粉、大気汚染、かぜや寒さ、遇労やストレスが加わって起る一つの文明病」といえるもので、環境汚染だけが原因ではない。根本にあるのはアレルギー体質だろうが、このことに関連して、私はこのところ「共生」ということを重大に考えるようになった。花粉症を理解するときも、この観点は大切なのではないかと思っている。
日本医科歯科大学の藤田紘一郎教授は、「共生の意味論」(ブルーバックス)の中に、寄生虫や細菌を薬物で体内から駆除して体内環境を破壊したことが花粉症を誘発したと書いている。これからは、大気汚染一辺倒ではなく、こういう視点も大切にしたい。
ところで、病院へ行くと血液検査をして、「杉花粉のアレルギー反応が陽性ですね」などと告げられる。するとやはり原因は「杉花粉」と思ってしまうが、実は日本人の5割が陽性だそうである。おなじ検査をすると、中国人の3割が陽性らしい。(週刊朝日3/15日号)
しかし、もちろんそんなに多くの人が花粉症を発症しているわけではない。有病率は昨年3月の日本アレルギー協会調査によると19.2パーセントで、とくに都会に住む人に多い(北海道や沖縄は5パーセント以内)。最近では中国でもぼちぼち患者が出始めたというが、経済開発にともなう大気汚染の進行と無縁ではないように思われるが、くわえて、藤田博士の主張する薬物汚染による体内環境の破壊も充分考えられる。
大気汚染と花粉症の関係をはじめてはっきり口に出した日本の政治家は石原都知事だったと思うが、その後ようやく国がディーゼル排ガス規制に向けて重い腰を上げ始めた。遅きに失したとはいえ、今後のとりくみに期待したい。うわさによると小泉首相も花粉症だそうだ。国民と痛みを分かち合うチャンスである。花粉症対策で人気挽回をはかってはどうだろうか。
今年は正月に大雪で帰省できなかったので、この連休に3カ月遅れで福井に帰省するつもりだった。さいわい、大学生の長女も三重から帰ってきたので、一家四人でそろって、母や弟の一家に会いに行こうと楽しみにしていた。
ところが、直前になって、福井の母から電話で、弟の息子が二人もインフルエンザでダウンしたという情報が入った。これでは出かける訳にはいかない。こっちが伝染してもいけないし、第一向こうも大変である。
母は弟一家と暮らしているが、弟夫婦は共稼ぎ。弟は建設関係でいつも夜が遅い。嫁さんは病院の薬剤師をしていて、夜勤や宿直がある。4人の男の子がいるが、この腕白坊主たちを、母がこの十年以上面倒を見て育ててきた。こんどインフルエンザにかかったのは中学生の長男と小学生の3男らしい。
母は現在70歳を超えている。この歳で男の子ばかり4人の面倒を見るのは大変である。事実去年の暮れには肝臓を患って入院したが、これも過労による体力の低下が原因らしい。しかし、一番下の子はまだ保育園なので、長く入院している訳にもいかない。
福井に帰れなくなって、残念だった。「あんまりむりをしないで」と電話で言っておいたが、「でも、私ががんばらなくてはね」と母。たしかに、福井の弟の一家は、母ががんばらなくてはしかたがない状況にある。長男の私は母にらくをさせてやりたいと思いながら、どうにもならない。あいかわらず、親不孝を決め込むしかない。
心配なのは、母がインフルエンザにかかることだ。老齢に加えて、疲労が重なれば抵抗力が落ちて、ひとたまりもないだろう。そうすると、また肝臓症状が悪化するかも知れない。状況をそこまで悪化させない手だてがないものだろうか。そんなことを考えているうちに、昨日は一日が暮れてしまった。
荒海に水仙の花しづまれり 裕
エラスムスとならぶルネサンス最大のモラリスト(人間論者)、モンテーニュ(1533〜1592)は、フランスのボルドーに地主の子として生まれた。彼の生きた16世紀フランスは、ユグノー戦争の「聖バルテルミーの大虐殺」をはじめとして、人間同士が利害と狂信のために殺し合う時代だった。彼はこうした多くの惨劇がおこった狂気の時代を、高等法院の評議員やボルドー市長として生きた。
彼はこうした嵐の時代を生きた人生経験から、争いをなくすためには「寛容」と「対話」が大切であると考えた。彼のこうした主張は、彼の死後、異教徒に対して信教の自由を認める「ナントの勅令」として結実している。
また、こうした彼の人生哲学は「エセー(随想録)」の中に見事に書き残されていて、後代の知識人に大きな影響を与えることになった。今日はその中から、私の好きな言葉をいくつか紹介しよう。
「孤独の目的はただ一つ。すなわち、もっと悠々と安楽に生きることである」
「私の書くものには、正義や理想や使命感に類する言葉が極端に少ない。使ってあったとしても、反語的に使われているに過ぎない。それも私が、絶対的な何ものかを持っていない証拠である」
「私は自分を凡庸な人間だと思っている。しかし、ただ、そう思っている点だけが、他の人と違うところである。私は、最も低劣で平凡で欠点だらけの人間であるが、私はそれを隠しもしないし、弁解もしない」
「私はただ、自分の値打ちを自分で知っている点だけが、自分の値打ちだと思っている」
「健全な精神を作るには、学問はあまり必要ではない」
「ある者は鼻をたらし、目やにを出し、垢だらけで、夜中過ぎに書斎から出てくるのだが、はたしてたくさんの書物の中に、立派な人間になり、より幸福になり、より賢明になる方法を求めているのだろうか」
「事物を解釈するよりも、解釈を解釈する仕事の方が多く、どんな主題に関するよりも書物に関する書物の方が多い。われわれはたがいに注釈しあうことばかりしている」
「われわれは他人の知識で物知りにはなれるが、少なくとも賢くなるには、我々自身の知恵によるしかない」
「なるほど書物は楽しいものである。けれども、もしそれと付き合うことで、しまいにわれわれのもっと大事な財産である陽気さと健康を失うことになるなら、そんなものとは手をきろう」
「私が孤独を愛し、これを説くのは、隷属と恩義に縛られることを死ぬほど嫌うからである。人の多いことをきらうのではなく、仕事の多くなることを嫌うからである」
「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うことである。それは人生の他のどの行為よりも楽しい」
「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思われないものはない」
「私と反対の意見は、私を憤慨も興奮もさせずに、私を目覚めさせ、鍛えるだけである。われわれは人から矯正されることをいやがるが、本当は自分からすすんでそれに立ち向かわねばなるまい」
「私は、真理をどんな人の手の中に見いだしても、これを喜び迎える。そして、遠くからでも真理の近づいてくるのを見れば快く降参して、私の負かされた武器を差し出す」
「竹馬に乗っても何にもならない。なぜなら竹馬に乗ってもしょせんは自分の足で歩かなければならないし、世の中でもっとも高い玉座に昇っても、やはり自分の尻の上に坐っているからである」
「死ぬのをいやがらないということは、生きるのをよろこぶ人にのみふさわしいことである」
「人は病気だから死ぬのではない。生きているから死ぬのだ」
モンテーニュは海外に出かけたキリスト教徒が、現地の非キリスト教的な土着民よりもはるかに残忍であり、倫理的にも劣る行為を犯していると批判している。彼のこの主張は、当時の心あるキリスト教徒に深い衝撃と内省の機会を与えた。まさに、現代に通用する叡智の人だと言えよう。
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パスカルはモンテーニュが嫌いだったようである。こんな悪口を言っていることからもわかる。
「私はモンテーニュを許すことができない。彼は人間の悲惨を言つたが、人間の偉大について言はなかつた。また、エピクテトスも許せない。かれは人間の偉大を知つているが、人間の悲惨を知らなかつた」(サシとの対話)
パスカルの「パンセ」も、モンテーニュの「エセー」も好きな私は少し困ってしまうわけだが、しかし私の嗜好は次第にパスカルからモンテーニュの方に変わりつつある。パスカルの「許すことができない」という発言よりも、モンテーニュの寛容と対話の世界により多くひかれるようになったせいだろう。
パスカルの文章は高校生でも分かるが、モンテーニュのいぶし銀のような滋味豊かな文章は、あるていど人生経験を積まないとわからない。パスカルが神を夢見る絶対主義者だとしたら、モンテーニュは神々の調和と人間の平和を願う相対主義者ということになろうか。彼の視線はあくまでも、神の栄光ではなく、人々の幸せの方に向いている。
北さんの雑記帳で、2Cギリシャの哲学者アリスティディス次のような「ローマ頌詞」を読んだ。塩野七生さんの「ローマ人の物語」第10巻「すべての道はローマに通ず」のなかに引用されている文章である
「かつて、ホメロスは謳った。大地はすべての人のものである、と。ローマは、詩人のこの夢を、現実にしたのである。あなた方ローマ人は、傘下に収めた土地のすべてを、測量し記録した。そしてその後で、河川には橋をかけ、平地はもちろんのこと山地にさえも街道を敷設し、帝国のどの地方に住まおうと、往き来が容易になるように整備したのである」
「しかもその上、帝国全域の安全のための防衛体制を確立し、人種がちがおうと民族が異なろうと、共に生きて行くに必要な法律を整備した。これらのことすべてによって、あなた方ローマ人は、ローマ市民でない人々にも、秩序ある安定した社会に生きることの重要さを教えたのであった」
アリスティディスの「ローマ頌詞」は、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」にも引用されていて、かなり有名な文章らしい。たとえばギボンは「過去を讃え、現在を貶すのが、人間の常であるとはいえ、帝国の繁栄と安泰は、ローマ市民ばかりでなく属州民たちも、強く感じており、正直にそれを告白している者もいる」と述べて、その一人としてアリスティディスのこの文章を引用している。
たしかにアリスティディスは、同時代人であり、属州民のギリシャ人でもあるが、しかし、ローマを評価するのにふさわしい証人かどうか問題である。なぜなら、彼は一般の属州民ではなく、やや特権的なギリシャの属州民であり、しかも「ローマ市民権」をもつ、特権階級の一人だからだ。
さらに、もう少しアリスティディスについて知り得たことを書いておこう。いずれもインターネットで検索した文章の引用である。
<2c前半のギリシャの哲学者。改宗してキリスト教護教家となる。140年頃、ロ−マ皇帝アントニウス・ピウスに『弁証論』(アポロギア:Apologia)を提出し、異教的生活とユダヤ教的生活の誤謬を指摘、神の概念を哲学的に規定してキリスト教の真理とキリスト教的な生活の意義深さを弁証した>
<「キリスト教大事典」で彼の項を見ると、彼の述べた四人種区分説は有名
であると言われている。
@野蛮人は火風土水などの4要素を崇拝するが、
これらは被造物であって神ではない。
Aギリシャ人は神々を崇拝するが、それらは背徳不倫の輩であって、
真の神ではない。
Bユダヤ人の神観は純粋であるが、外的祭儀にのみとらわれがちである。
Cキリスト者のみが《父・子・聖霊》の真の神、創造の神を礼拝する>
ちなみに属州民ではないが、生粋のローマ人でかつ元老院議員・執政官だった歴史家タキトゥスは、支配階級の最上に属していながら、もうすこし違ったローマの姿を伝えている。彼の著作から引用しておこう。
「全人類でローマ人だけが、自分の富と世界の貧窮を、同じ情熱で欲している。略奪し、殺戮し、強盗することを彼らは支配という偽りの名で呼び、人住まぬ荒野を作ると、そこを彼らは平和と名付ける。・・・われわれの最も愛する子どもや大切な肉親が、ローマが課した徴兵制度で奪われ、妻や姉妹は、彼らの情欲によって汚されている」(アグリコラ伝)
タキトゥスはローマによる平和について、「文明開化と呼ばれていたが、じつは奴隷化を示す一つの特色にしか過ぎなかった」となかなか自分の祖国に対して厳しい評価をしている。ほぼ同じ時代に生きたギリシャ人とローマ人が、ローマ帝国についてこのようなねじれた証言を残している。属州民であるギリシャ人がローマの偉大さをほめたたえ、ローマの知識人はむしろローマの繁栄に懐疑的なところが興味深い。
「ローマ市民たちよ。これまで外国人たちを統治するために我々が派遣した者たちの貪欲のゆえに、また彼らが加えた加害のゆえに、我々が外国人の間でいかに憎まれているか、言葉では言いあらわせない」
これはキケロが残した言葉である。こうした文章を読んでいると、歴史というものが、そう一筋縄でいかないものであることを実感させられる。残された歴史的文書を読む場合、どのような人物が、いつ、どこで、どのような目的で書いたものか、しっかり押さえておく必要がある。
ホッブスは人間相互の争いをなくすために、強大な権力の必要性をといた。そしてこの強大な力を持つ国家を聖書に出てくる怪獣リバイアサンにたとえた。 ところで「ヨハネの黙示録」によると、このリバイアサンたちは常に戦いをしていて、最後に一匹が残る。そして最後にのこった一匹も最後は解体して滅んでしまう。
ヨハネの黙示録がかかれた時代はローマ帝国の全盛期だった。だから聖書はローマ帝国の滅亡を予言していたといわれたりするが、考えてみればこの世に栄枯盛衰はつきものである。永遠につづく権力など存在しない。この予言はあたって当然なのである。
それはともかく、「万人の万人にたいする戦い」を終息させるために創られた権力が、そうして創られた権力どうして、こんどは食うか食われるかの戦いを始める。何のことはない、「人間と人間の戦い」が「国と国との戦い」にバージョンアップをしただけだ。
国どうしの戦いは人間どうしの個人的な争いとは比べものにならないほど悲惨である。このリバイアサンたちの間に平和と秩序をもたらすことができるのだろうか。ホッブス流に考えれば、ここでも強力な権力が必要だということになるだろう。つまりローマ帝国のような、特別に獰猛で強いリバイアサンがあらわれて、他のリバイアサンを征服・支配するのである。
もっともそうして勝ち残ったリバイアサンにも寿命がある。ローマ帝国がゲルマン民族によって滅ぼされたように、やがて新しいリバイアサンが台頭して、これが覇権を奪おうとする。
こういう弱肉強食のリバイアサンの時代を、人類はもう何千年も経験してきた。つい最近まで、世界には巨大な二匹のリバイアサンの王が対峙していて、ボタン一つで世界が滅びる恐怖が私たちを覆っていた。
一方のリバイアサンが倒れて、核戦争による地球滅亡の確立は少なくなったとはいえ、油断はできない。ポップス流の覇権主義が国の内部や、国際政治の世界で幅を利かせている間は、私たちは常にこの恐怖と不安の中に身を置いているしかない。
それでは私たちはどうしたらよいのか。身近なところから権力の民主化をすすめることである。さらに、この民主的な思想を国際政治の舞台に持ち込むことである。そうした中で、国と国の垣根が低くなり、文化の交流や相互理解が進んで、本当の意味でのグローバリゼーションが達成されるだろう。リバイアサンが生まれる土壌がある限り、今後も無数のリバイアサンが登場し、人類の悲惨は永遠になくならない。
「生きた学力とは何か」と問われたら、私は何よりもそれは「自分の頭で考える力」だと答えたい。これまで私は数学を勉強するのは「自分で考える力」を養成するためだと述べてきたが、これは何も数学に限ったことではない。すべての教科について言えることだ。
ほんの一握りの指導者が社会を動かしている非民主的な管理社会では、「考える力」が必要なのはそれらのエリートだけだ。社会の現実を見据えて社会のあり方や自己の生き方を論理的・実践的に掘り下げて考える能力など、管理される立場の民衆には必要ではないし、むしろ社会を統治するのに邪魔なだけである。
近代的な産業社会でも、事情は同じである。一般労働者に必要なのは、生産や型にはまった社会生活を営む上での限られた知識と技能であり、あとは与えられた仕事を長時間、能率よくなしとげる忍耐力や服従心である。
だから近代の学校はこうした労働者の資質を養うために、規律や時間にうるさく、個人的な自由をなるべく制限し、長時間にわたって精神や肉体を拘束するシステムになっている。そこで重視されるのは、知識力や計算力、忍耐力、組織の規律に対する従順な服従心や協調心である。
こうした規格にあった良質な労働力を大量生産する場として、近代的な学校が創設され、運営されてきた。とくに日本の学校はこうした「期待される人間像」の生産工場として有効に機能し、優秀な産業ロボット人間を作り出してきた。そしてひところは日本から輸出される工業生産物が世界を圧倒した。
しかし社会はいまや大きく変わろうとしている。情報化社会の到来で、あたらしい産業が生まれ、これまでのような反復練習や機械的暗記に重点をおいた画一的で没個性的な軍隊式教育では、このポストモダン的な状況に対応できなくなった。そこで、やおら「考える力」を重視する「あたらしい学力」が経済界からも求められるような状況になってきた。
しかし、学校は過去の遺産や社会の慣例を尊重する場所である。私たち教員もほとんど実社会での生活体験はない。自己の教科に対する知識や、自分の成功体験に固執しがちである。したがって、学校はなかなか容易なことでは変わらない。
とくに日本ではこうした社会とのギャップがいちじるしい。あいかわらず、知識偏重の没個性的で規律重視の価値観でかたまっている。学校が社会の発展に必要な創造力や個性豊かな人材を育成する場でないばかりか、その足かせにさえになっている。
生きていく上で必要とされる学力は時代とともに変わっていく。これまでの日本ではエリートでさえもが、知識力と理解力が優先されていた。すでに存在している世界の先進的な文化や技術を学ぶことに重点が置かれていたからだ。私にいわせればそのような学力は「死んだ学力」である。
これからの時代に必要なのは「過去から学ぶ力」だけではなく、あたらしいシステムや生き方を発見し、「未来を発想し、変える力」でなければならない。めまぐるしく変化する時代に生きている私たちは、過去の知識やしきたりに囚われずに、未来と世界を視野に収め、新たな状況に対応しなければ生きていけないのである。
こうした変化のなかに身を置きながら、自分の頭で考えて状況を判断し、自分の意志と力で工夫して生きていくというのは、大変なことかもしれない。しかし、それがほんとうに人間らしい、生き甲斐のある生き方だと考える個性的な人間が、これから世界で確実に増えて行くであろう。そして日本もこうした独立心のある個性的な人間が多数を占める社会にならなければ、この停滞から抜け出すことはできない。
以上に述べたことからあきらかなように、構造改革のかなめは、教育改革だということがわかる。現在わが国の教育は画一的な受験体制の呪縛状態に置かれている。そうした閉鎖的な学校を解体して、子供たちを人工的に管理された場所から、生きた教育の受けられる現実的な環境の中に置くことが必要ではないか。
「自らの頭で考える」という思考の自立こそ、生きた学力の核心だと思うが、そのような力は、生き生きとした現実と対峙し、その厳しさの中に身を置くことで鍛えられる。学校という秩序が重んじられる管理社会の中で、死んだ知識や死んだ知識を尊重する教師たちに囲まれていても、ほんとうにこの社会を生きていく上で必要な学力がつくわけではない。
学力を鍛えるには、ある種の厳しさが必要だが、それは何よりも人間らしくいきる力を養うための厳しさでなければならない。現在の学校教育の問題点は、そうした厳しさと無縁であることだろう。
3月3日の朝日新聞の「私の視点・生きた学力の評価を」に、千葉大学の「飛び級」試験の小論文の問題が紹介されていた。「人間に見える光の波長の範囲が変わったとしたら、人間の生活様式や行動様式はどう変わるか」という問題である。ちなみにこの試験は辞書や参考書、パソコンが持ち込み可能だそうだ。
筆者の宗守優子さんには登校拒否の中2の息子さんがいる。彼にこの問題をぶつけてみたら、「どのくらい波長がずれるかで違うよ。たとえば赤なら、ポストが見えなくなって手紙が届けられなくなる。ボールに赤いペンキを塗れば、消える魔球になる。・・・・紫外線が見えると紫外線対策がしやすくなる」などと答えたという。
さて、私ならどんな答えを書くか。少し考えてみたが、あまり大したことは浮かばない。ただ「紫外線が見えると紫外線対策がしやすくなる」という答えにヒントを得て、たとえば紫外線が見える眼鏡があればいいな、いや、そのうちに人間自身が進化して、紫外線が見えるようになるかもしれない、などといろいろ考えた。
宗守さんの息子さんは小2のときに学校で心身ともに疲れるできごとがあって、集中力や記憶力などが極端に低下してしまい、読み書きや計算、単純な暗記などが苦手になってしまったという。しかし、この問題に対する答えなど、なかなかいい線だ。彼は国語のテストの点数は低いけれど、宗守さんが書いた投稿文の批評などはできるのだという。
「顕微鏡の各部の名称を正確に暗記した子どもより、顕微鏡の操作ができて顕微鏡を使って見たい物のある子どもの方が価値があるはず。なのに、学校では暗記力の高い子どもの方がよい評価をもらえる」
「地理なら、いろいろな国にさまざまな暮らし方があることを理解できれば十分なのに、イヌイット(エスキモー)の氷の家の名称を覚えなければ点数を稼げないのだ」
「生きた学力を必要とする時代なのに、学校の体質はあまりかわっていない」と訴える宗守さんの主張はもっともだ。「生きた学力の見える眼鏡」があればいいのだが、残念ながらそんな魔法の眼鏡はない。もし発明されたら、まっさきに学校の先生方にかけてもらってはどうだろう。
私たちが生徒の生きた学力を見抜けないのはなぜか。それは私たち自身が「生きた学力」を身につけていないからだ。だから大切なのは、大人がもうすこし本当の学力を身につけて、社会や人生に対して自分の主張や批評を持つことだ。そうすれば「生きた学力」がどういうものか、少しは理解できるようになるだろう。
民主主義にとって、中央政府の三権分立と並んで、あるいはそれ以上に大切なのが、「住民の、住民による、住民のための自治」という、地方自治、地方分権の確立である。
地方分権とは、地方にできることはすべて地方に任すということだ。住民自らが自らの地域のことを考え、自らの手で治めていくことであり、地方自治の権利は憲法にも保証された民主主義の原点である。
地方分権推進法の成立を機に、議論の段階から実行の段階へ入った地方分権の推進は、政府自らが、明治維新、戦後改革に次ぐ「第三の改革」として位置づけている。地方分権が確立されると、どんな利点があるか。総務省のホームページから引用しよう。
@身近な地方公共団体で、住民が自主的にまちづくりなどの仕事を決めることができるようになります。
A国、都道府県、市町村のそれぞれに役割と責任の範囲が明確となり、責任逃れができなくなります。
B国の画一的な基準や各省庁ごとの「たて割り行政」にしばられず、地域の実情やニーズに適った個性的で多様な行政を展開することができるようになります。
C国の地方自治体に対する手続き、関与等が必要最小限のものとなり、労力・経費等が節減されるとともに、住民にとっても事務処理手続きが簡素化されます。
中央集権型行政システムはすでに疲労している。そして政府自らが、HPで現在のシステムの弊害を次のように書いている。
@権限、財源、人間、情報を中央に過度に集中させ、地方の資源、活力を奪う。
A全国画一の統一性と公平性を重視するあまりに、地域的な諸条件の多様性を軽視する
国と地方の関係はこれまで、上下・主従だった。これを対等・協力の関係に変えていくことが大切だろう。しかしそのためにはそれを保証する財源的な裏付けがなければならない。現在のようにお上から下賜される地方交付税に頼っていては、上下関係から脱却できるわけがない。
私は住民税や所得税、法人税、相続税、贈与税などはすべて地方税にしてはどうかと思っている。中央政府にはいるのは、環境税や消費税くらいでよい。まずはこうした財政面での確立が、地方分権の前提ではないかと思う。
そうでないと、東京都のように自分でやっていけるところはよいが、他は中央政府の官僚に頭が上がらない。だから、知事クラスに官僚経験者ばかりがならぶことになる。これでは首長公選制の意味がない。
地方分権に消極的な人の論理が、地方に任せると何をするかわからない、という地方不信だろう。さらに地方格差が広がるのではないかという危機感もある。しかしこうした後ろ向きの議論からは何も生まれない。
たとえば、日本の九州の面積と人口はオランダと同等である。もし、地域に大幅な自治権をみとめれば、将来九州からオランダに匹敵する豊かな成果が生まれないとも限らない。そうすれば、日本のそれぞれの地域が、これを見習って活性化するだろう。そうした可能性の芽をつみとらず、拡大していくことが大切だと思う。
地方が自立しなければ、国の自立もできない。思い切って自治の権利を与え、そして責任もとらせる。そうすることで、すこしずつ本物の民主主義がこの国にも根付いていくのではないだろうか。「地方自治は民主主義の学校」だといわれるゆえんだ。
民主政治というのは、「人民の、人民による、人民のための政治」をいう。つまり市民が等しく政治に参加し、その意志が正しく政治に反映されるシステムである。したがって、民主国家において、「法」とは、人民にこうした政治権を保証し、行使させるものでなければならない。
政治や統治を行うための機関として、一般に議会と政府と裁判所がある。いわゆる立法、行政、司法の三権である。近代国家においては、権力の独裁化と腐敗を防ぐために、権力をこの三つに分割して相互に牽制する仕組みができている。
こうした三権分立の考え方を確立したのは、ジョン・ロックとモンテスキューである。彼らは君主権力の横暴な支配からいかに人民の利益(モンテスキューの場合は貴族の利益)を守るかを考えてこれを考案した。時代は変わったが、三権分立の必要性は今もかわらない。
日本のような議院内閣制度をとっている国では、立法権と行政権が癒着しやすい。行政権を担う首相には国会多数党の党首が選ばれる。国務大臣の過半数は国会議員でなければならないという規定があるが、実際には国会議員がほとんどだ。
こうなると、議会と政府は一体化せざるをえない。そして行政権と立法権の相互チェックが甘くなり、なれ合いや談合がおこる。くわえて、日本では自民党の長期政権が続いたために、この癒着がひどくなっている。
さらに、行政権が実質上官僚組織によって牛耳られていることから、国民には政策決定の現場がますます見えなくなっている。それをいいことに鈴木宗男のような族議員が跋扈し、行政に介入して政策決定をゆがめている。
日本では「議員立法」などという言葉がまかり通っている。そもそも立法は議員の本務であるはずだが、実際は役所に任せている。官僚が立法権さえも行使しているのが現状である。
さらに、違憲立法審査権に関して、裁判所の消極的な態度がしばしば問題になっている。裁判権の独立が犯され、肥大化した行政権に呑み込まれてしまったかのようである。
かくして、日本の現状は、三権分立の理想から遙か遠くなってしまった。そもそも権力がどこにあるのか、その正体が見えないのが現状である。権力の中枢が空白であるため、そこにさまざまな部外者が入り込み、政権を私物化している。また、直面する政治的、経済的課題に対して、一貫性のある政策を立案し、実行することができない。
かってモンテスキューは「権力は腐敗する。絶対権力は、絶対腐敗する」と主張した。日本のように三権が癒着した正体不明のぬえのような権力も同様に腐敗する。なぜならすべてが国民の見えないところで行われ、責任の所在がはっきりしないからだ。だれも責任をとらない体制ほど恐るべきものはない。
私はこの無責任体制を解消し、権力の癒着を断ち切るには、議院内閣制をやめてはどうかと考える。官僚と族議員から行政権を国民の手に取り戻すために、首相公選制を実現させるのだ。行政権を確立し、さらに立法権、司法権を確立すべきだと思う。分権というのは、権力を否定することではない。むしろこれをはっきりと確立し、相互に牽制させることである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 参考 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三権分立について、日本国憲法は次のように規定している。
「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条)
「行政権は、内閣に属する」(65条)
「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」(76条)
憲法は三権相互のかかわり方も具体的に定めている。たとえば、立法権から行政権、司法権への関与は次のように規定されている。
国会は国政調査権を有する(62条)
衆議院は内閣不信任案を可決できる(69条)
国会は罷免の訴追を受けた裁判官を裁判する弾劾裁判所を設置する(64条)。
また、行政権から立法権、裁判権への関与は、次のように規定されている。
内閣総理大臣は、衆議院を解散することができる(54条)
内閣は最高裁判所の裁判官を任命する(79条)
さらに、司法権から行政権、立法権への関与は
最高裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を有する(81条)
ドイツでは現在、117万ヘクタールもの菜の花畑があるという。そして菜種の7割が食用油、3割が乗用車などの燃料として使われているという。73年のオイルショックを契機に、化石燃料の代替として、菜種が注目されたのが始まりだという。
ドイツでは環境に負荷をかける化石燃料には環境税をかけている。反対に環境にやさしいバイオ燃料は非課税。こうした法的措置の後押しがあって、菜の花畑がどんどん広がったわけだ。
ドイツを見習って、日本でも1998年から「菜の花プロジェクト」が動き出した。昨年4月に滋賀県の愛東町で行われた「第1回菜の花サミット」には、自治体や民間非営利団体(NPO)関係者らが500人もあつまったという。運動を推進してきた滋賀県環境生協理事長の藤井絢子さんは、1月27日の朝日新聞で次のように述べている。
「菜の花プロジェクトは、循環型地域づくり運動です。休耕田を提供する、菜種をまく、菜種油を売る、廃食油を回収する,農機具などにリサイクル燃料として使う。地域の人が受け身ではなく、当事者となることで地域が動き出します。参加の仕方はその人の生き方。日常を豊かにする一種の文化運動といえます」
藤井さんが環境問題を考え始めたのは、琵琶湖の汚染だという。富栄養化が進み、赤潮が毎年発生した。そこで合成洗剤をやめよう。廃食油を回収し、石鹸にリサイクルしようという運動を70年代後半から始めた。こうした「せっけん運動」の延長に「菜の花プロジェクト」も動いている。
菜の花の明るいイメージが受けたのか、運動は3年間で全国に広がった。現在30前後の都道府県がプロジェクトにとりくんでいるという。日本の未来を明るくするこの運動を、政府も政策や税制で支援してほしいものだ。そうすれば日本の農村もまた生き生きとよみがえるだろう。
3月1日(金) メタフィジカル・モメント
幼い頃の思い出をひとつ。早起きして、家の外に出た。夏のことで夜明けは早い。しばらくすると、すっかり明るくなり、朝刊配達や牛乳配達の人が往来を通る。みると烏が数羽、道端で餌をついばんでいる。
何でもない街の光景だったが、私は何かいい知れぬ快さを感じていた。啓示のように深く静かに心にしみてきて、そこはかとなく詩的で美しいものを、その早朝の空気の中に感じた。
高校生の頃、哲学の解説書を読んでいて、メタフィジカル・モメント(形而上学的瞬間)という言葉がどうしてもわからなかった。それがこの幼い頃の至福体験を思い出した瞬間に納得できた。
その頃だと思うが、国語の教科書でスタインペックの「朝食」という短編を読んだ。一人の旅人が、荒野で野営する家族に出会い、焚き火を囲んでコーヒーとトーストの朝食をごちそうになるという、ただそれだけの話だったが、私はこの時もメタフィジカル・モメントを実感した。さっそく感想文を書いて、国語の先生の自宅を訪ねた。そしてこの感動を熱く語ったものだ。
昔ギリシャに、デオゲネスという風変わりな哲学者がいた。樽をねぐらとし、無一物の境涯にありながら、とても幸福そうにしている。評判を聞いたアレクサンダー大王がやってきて、「何か欲しいものはないか」と聞いたら、「横にどいて、私に日光をわけて下さい」と答えたという。
もうひとつ、こんな話。南海の国へ赴任した日本の商社マンが、怠惰な現地人を見て、「もうすこし勤勉に働いてはどうか」と忠告をした。そうすると、現地人は寝そべったまま、「あたなたどうしてそんなに忙しく働くのか」と訊いてきた。
「それはお金を稼ぐためだ」と日本人。「どうして、お金を稼ぐのか」と現地人。
「金持ちになったら引退して、妻と一緒にのんびりくらす」と日本人。
「そんなことなら、今からできるではないか。私たちのように」と現地人に言われて、返す言葉がなかったというのである。
こうした話は、私に幼い頃の「早朝の体験」を思い出させる。幸福はあくせく努力して手に入れるものではない。幼子のように心を澄ませれば、身近のなんでもない世界から、それはまるで恩寵のように訪れる。人生の福音は、この単純な真実の中に宿っている。
そんな風に人生を考えるようになって久しいのだが、現実の私は蜃気楼の幸福を求めてあくせくばかりしている。ときにはデオゲネスの心境になって、メタフィジカル・モメントの訪れを待ち、天上の至福の旋律に身を委ねたいものだ。
青空が創りし朴の花白し 橋本鶏二