文革前の様子

「文化大革命」解析中)

 1964.5.15〜6.17日第9評発表の1カ月前に開かれた中央工作会議)では劉少奇が現代修正主義反対の報告を行い、「すべての社会主義国家において修正主義あるいは資本主義の復活がありうる」とする考え方を提起しているが、皮肉なことに劉少奇自身がまもなく現代修正主義者扱いされることになる。

 1964.8月ベトナムのトンキン湾においてトンキン湾事件が発生している。アメリカがベトナムに軍事介入した事件であり、アメリカは以降本格的にベトナムへの軍事介入に向かうことになる。このことは中国にも大きな影響を及ぼし、結果、中国は三方において軍事衝突の可能性が生まれ、以後急速に軍備の拡張を始めることにもなった。

 1964.12月、陳正人の蹲点報告へのコメントのなかで、毛沢東は官僚主義者階級という言葉を提起している。「官僚主義者階級と労働者階級および貧農下層中農とは、鋭く対立する二つの階級である。資本主義の道を歩むこれらの指導者たちは、労働者の血を吸うブルジョア分子に変わり果てたか、あるいは変わりつつある。これらは闘争対象であり、革命対象である」。

 1965.1月、中央政治局は全国工作会議を開いて「農村の社会主義教育運動のなかで、いま提起されている若干の問題」(23カ条)を採択したが、こう述べている。「今回の運動の重点は、党内のあの資本主義の道を歩む実権派である。党内の資本主義の道を歩む実権派は四清運動の打撃の重点対象である。ある者は下におり、ある者は上にいる。地方にいるだけでなく、中央にもいる。党の各級組織のどこにもいる」。     

 こうして階級闘争の矛先は党中央の幹部にまで向けられた。Deng Xiaoping が文革後に証言したところによれば、毛沢東は北京には二つの独立王国すなわち劉少奇の政治局とDeng Xiaoping の中央書記処があると批判し始めた(『Deng Xiaoping 文選』260頁)。以上から分かるように、毛沢東は中ソ論争におけるソ連修正主義を見る眼で、中国国内の階級闘争を見ていたことになる。さらに「レーニン主義か、社会帝国主義か」(『人民日報』1970.4.22日)では官僚独占ブルジョア階級という用語を用いている。1975年にはこれを中国国内に適用して、「ブルジョア階級は(共産)党内にいる」と断定した。

 毛沢東が修正主義者による権力の簒奪という危機感を深めていた、まさにこのときに、中国は「四面楚歌」の状況に直面していた。中ソ対決に伴う中ソ国境の緊張はいうまでもない。中国インドの国境では、1962.10月、中印国境紛争は双方の武力衝突にまで発展した。台湾当局による武装特務の派遣も頻繁になった。台湾の国民党当局は経済困難と中ソ関係断絶の機に乗じて、1962年初めからしばしば「武装特務」を大陸に派遣し、ゲリラ活動を行い、台湾海峡が緊張した。

 こうしたなかで、トンキン湾事件が発生した。1964.8.2日、米国防総省は北ベトナム沿岸で米駆逐艦が攻撃を受けたと発表し、アメリカによる北ベトナム攻撃が始まった。中国は「唇亡べば歯寒し」と危機感を強めた。ベトナム戦争における北爆が中国にまで拡大される危機が懸念された。

 中国は国防対策を再検討して、国防三線建設の構想を固めた。国防を第一線(沿海地区およびソ連国境)、第二線(第一線に対する兵站地域)、第三線(第一線、第二線が破壊された場合の最後の抵抗ライン。四川省を中心とする内陸部に設けられた。大三線ともいう)に分ける計画が具体化した。

 1964.8.17日および20日に、毛沢東は中央書記処会議を開き、内地建設問題についてこう指摘した。「帝国主義が侵略戦争を発動する可能性があるので、準備しなければならない。現在、工場は大都市と沿海地区に集中しているのは戦争に備えるうえで不利である。工場は急いで内地に移す必要がある。各省とも引越しし、自らの戦略的後方を建設する必要がある。工業交通部門が引越しするばかりでなく、学校、科学院、設計院、北京大学も引越しする必要がある。成昆(成都・昆明)、湘黔(四川・貴州)、テン黔(雲南・貴州)、これら三本の鉄道建設を急ぐべきである。レールが足りないならば、他の路線から外したらよい(『経済大事記』三七九頁)」。

 1964.12.7日、毛沢東の許可を得て国家計画委員会が関係部門に下達した「長期計画編制案」は第3次5カ年計画(1966〜70年)の当初計画変更についてこう指摘した。
1)攀枝花(四川省渡口市)、酒泉、重慶を中心とする建設(いわゆる「大三線建設」)を速めるために投資を38億元増やす。
2)成昆鉄道など戦略的鉄道建設の投資を42億元増やす。
3)省レベルの「後方建設」(大三線に対して「小三線建設」という)のために、30億元増やす。
このほか関連産業の建設のために200億元投資を増やし、結局総投資規模を5カ年で約1200億元とする。そして基本建設投資において旧来のノルマで計算するのではなく、設計革命、技術革命を重んずること、農業は大寨精神に、工業は大慶精神に学ぶよう呼びかけたのであった(『経済大事記』385頁)。

 1965.2.26日、中共中央、国務院は三線基地たる西南建設の体制問題について、こう決定した。1)地域建設にかかわる総合プロジェクトは大慶油田式の集中指導を行い、中央の国務院主管部が責任をもって統一指揮をとり、各省レベルと国務院の多部門が協力して行う。2)攀枝花特区党委員会、工地指揮部は冶金工業部が統一指導を行う。3)重慶地区を中心とする部品建設指揮部は主管の機械工業部が統一指導する。4)西南建設の指導を強化するために、西南建設委員会を成立させる。西南建設委員会の主任は李井泉、副主任は程子華、閻秀峰であった。

 1965.8.21日、国家建設委員会は北京で全国移転(原文=搬遷)工作会議を開き、第三次五カ年計画期の移転問題を討議した。大戦に備え、早戦に備える(原文=準備大打、早打)、分散、隠蔽などの原則が決定された。

 1965.9.18〜10.12日、北京で中共中央工作会議が開かれ、三線建設の加速が決定された(『経済大事記』三八九頁、『党史大事年表』338、340頁)。

 1965.10.13日〜11.15日、全国計画会議が開かれ六六年の国民経済計画が討論された。鉄鋼業は、攀枝花、酒泉、武漢、包頭、太原の五大鉄鋼コンビナートを重点的に建設すること、国防工業に服務する10箇所の移転および継続建設プロジェクトが決定された。炭鉱建設の重点は六枝、水城、盤県(いずれも貴州)など12鉱区に置かれること、水力発電所、火力発電所九九箇所(容量は153万キロワット)の建設が決定された。重点は四川の映秀湾、咀、甘粛の劉家峡などの水力発電所、四川の夾江、湖北の青山などの火力発電所である。さらに四川の天然ガス、華北油田?と大慶油田の建設に力が入れられた。機械工業の重点は四川の徳陽重機械工場、東風電機工場、貴州ベアリング工場および通常兵器の部品工場である。化学工場も国防関連が優先された。

 1965.11.13〜19日、毛沢東は山東、安徽、江蘇、上海などを視察し、戦備工作を強調した。戦争が始まったら、中央に頼ることはできない。地方の自力更生に頼らなければならない。早急に後方を建設しなければならず、三、五年内にこれをやる。食糧と綿布を準備し、自分で粗鋼を作り、武器を作る。塹壕を作り、防御し、防空壕を掘らなければならない。 

 軍隊は過去の三大伝統を回復すべきであり、戦闘、生産のほかに大衆工作もやらなければならない。非軍事工作担当者〔原文=地方工作的〕も軍事をやり、軍隊工作者も非軍事工作〔原文=地方工作〕をやらなければならない。食糧生産に力を入れなければならない。さもないと戦争が起こったらどうするのか? 豚はやはり増やさなければならない。一頭の豚は一つの化学肥料工場に匹敵する。

 こうして拍車のかかった三線建設のピークは二つある。第一次ピークは1965〜66年である。文革の前夜と重なる。第二次ピークは1959〜71年である。珍宝島での中ソ武力衝突が危機感を高め、林彪事件、ニクソン訪中が建設熱をさますまでの時期である(閻放鳴「三線建設述評」)。

 中国内外の修正主義者による奪権、そうした状況のもとでの国防の危機こそが文化大革命発動の客観的情勢である。国際的に危機が存在するから国内的に団結すべきだとする見解を毛沢東は排する。国際的な敵が存在する状況のもとで、国内に隠れた敵が存在するならば、そのほうがもっと危険ではないかと考えたはずである。むしろ、国際的な危機が深まったときこそ、それと真に対決するのか否かをめぐって、革命家か修正主義者かが識別できると毛沢東は考えたごとくである。



 文革の直接的導火線となるのは、第二次五カ年計画期に行われた大躍進、人民公社政策とその挫折である。大躍進、人民公社の失敗を手直しするために行ったいわゆる「三カ年の調整期」に、人民公社は解体の危機に瀕した。毛沢東はこの現実に強い危機感を抱いて「修正主義の発生」と受け止め、修正主義反対を目指した一大政治運動を決意した。これが文化大革命にほかならない。

 ソ連や東欧諸国と同じく、中国にもノーメンクラツーラ(原文=幹部職務名単制)とよばれる高級幹部たちがいる。中国の党政軍幹部は、いずれも一〜七級からなる超高級幹部(大臣級以上の幹部、軍なら兵団級以上)、八〜一三級からなる高級幹部(局長級以上、軍なら師団級以上)、一四〜一七級の中級幹部(課長級以上、軍なら連隊大隊級)、一八〜二四級の一般幹部に分かれている。ここで問題は一三級以上の高級幹部である。幹部は約二〇〇〇万人(人口の約一・八%)いるが、このうち高級幹部は約一〇万人(人口の〇・〇一%)である。文革が打倒対象とした実権派とは、まさにこの階層にほかならない。しかし彼らは一時的に権力から外された(原文=靠辺站)ものの、現実の文革が破産した後、死者は別として文革後そっくり復活し、文革以前と同様に特権を行使している。この意味では、大衆路線を忘れた幹部を修正主義者として批判する文革は所期の目的を全く達成できなかったことで大失敗であったわけである。

 このような観点からの文革評価はほとんどなく、大部分は復活した実権派があたかも慰謝料請求の資料とするかのように、われもわれもと被害者の仲間入りすることにおおわらわである。実権派名誉回復路線のもとで、つぎのような被迫害者調べが広く行われている。



【毛沢東と劉少奇の対立の背景】

 毛沢東と劉少奇(1898.11.24日〜1969.11.12日)の対立は何をめぐって生じたのか。三面紅旗(すなわち、総路線、人民公社、大躍進の三つの方針)の評価問題であった。毛沢東が自信をもって打ち出した共産主義構想を劉少奇らが骨抜きにしようとしていると怒ったのである。むろん、対立の経過には段階がある。

 1958.5月に第8回党大会第2次会議が開かれたときに、党中央を代表して政治報告を行ったのは劉少奇である。毛沢東の意を受けて、社会主義建設の総路線を正式に提起したのは劉少奇であった。1958.8月の北戴河会議で人民公社設立と鉄鋼作りについての二つの決議を採択したときにも、劉少奇はこれに賛成している。1959年の廬山会議で彭徳懐が三面紅旗に異議を唱え、国防部長と政治局委員を解任されたときに、劉少奇は毛沢東の彭徳懐解任提案を積極的に支持している。つまりこの段階では、すなわち人民公社や大躍進の失敗が明らかになるまでは、毛沢東と劉少奇の間に三面紅旗問題において対立はなかったということになる。

 両者の間に重大な対立が生じたのは、1961年後半からである。1961.1月の八期九中全会で、毛沢東は調査研究を大いにやるよう呼びかけた。劉少奇は故郷の湖南省寧郷県炭子冲に帰り、人民公社設立以後の農村の状況を調べた。農村の実情をつぶさに知って、劉少奇は三面紅旗に対する評価を改めたのである。

 劉少奇は農民にこう謝罪した。
今回帰郷して、郷里の人々の生活が苦しいこと、われわれの工作がまずかったことが分かった。皆さんに申し訳ない。天候が悪い、去年は日照りだったという人がある。おそらく日照りの影響もあろうが、主要な原因ではない。主要な原因は工作のなかで、誤りを犯したことであり、工作がまずかったことである。

 1961.5月の中央工作会議で劉少奇はこう述べた。工作のなかの欠点・誤りが現在の困難をもたらした主要な原因である。劉少奇の見解ではこれらの誤りは三面紅旗自体の誤りではなく、路線の誤りではない。しかし、もし三面紅旗にこだわり誤りを訂正しないならば、路線の誤りに至るであろう。これらの誤りの主要な責任は中央にある。1958年に積極的に支持した三面紅旗がもたらした現実に対して、劉少奇はこう自己批判したのであった。

 これに対して毛沢東の三面紅旗理解はもっと断固たるものであった。毛沢東によれば3年の困難(59〜61年)をもたらした主要な原因は天災であり、三面紅旗自体の問題ではない。誤りは具体的工作のなかの小さな誤りにすぎず、しかもそれはすでに解決されたのであった。こうした毛沢東の確信からすれば、劉少奇の自己批判は右翼日和見主義への転落にほかならなかった。まさにこの評価をめぐって40年来の戦友はまもなく袂を分かつことになるが、しかし劉少奇はそれに気づかない。

 1962.1月の7千人大会以後、毛沢東は北京を離れて南方へ行き、党中央の日常工作は劉少奇が主宰することになった。深刻な経済危機に対処するために、一連の会議を開き、一連の措置を採った。財政赤字問題に対処するために、中央財経小組(組長・陳雲)を作り、政治面では三面紅旗がらみで批判された幹部を審査し、名誉回復した。1959年の反右翼日和見主義のなかで批判された者は、彭徳懐、黄克誠、張聞天、周小舟ら大物を除いて、他は基本的に名誉回復させた。こうした劉少奇の調整政策に対して、毛沢東はその時点では反対意見を述べなかった。毛沢東が強い不満を抱いていたことは後に劇的な形で明らかになる。毛沢東からすれば、二つの風、すなわち名誉回復風(原文=翻案風)と(集団農業から)戸別農家への解体の風(原文=単幹風)が吹いており、これらは資本主義復活につながるものであった。

 1962.9月の8期10中全会で毛沢東は改めて階級闘争を提起し、一部の同志を思想が混乱し、信念を喪失し、光明を見失ったものと批判した。ここで一部の同志のなかにはむろん劉少奇も含まれていたはずだが、当の劉少奇が毛沢東のこの間接的批判の対象に自らが含まれると自覚していたかどうか疑わしいところがある。

 1963年から四清運動が始められたが、64年末に社会主義教育運動の経験を総括するために全国工作会議が開かれた。劉少奇がこの会議を主宰した。12.15日に劉少奇が講話を行い、12.16日以後グループ討論が行われ、運動の性質、農村の主要矛盾をどう捉えるかが各地の責任者の運動の経験を紹介するなかで論議された。

 64.12月末に「中央政治局の招集した全国工作会議討論紀要」(17カ条)が印刷配付された。運動の性質については社会主義と資本主義の矛盾とされた。運動の名称は四清運動(政治、経済、組織、思想の四つを清くする意)とされた。運動は3年内に全国3分の1の地区で終え、7年内に全国の運動を終えるという見通しであった。

 ところが毛沢東は運動の進め方に極左偏向を感じた。社会主義教育運動は工作隊にばかり依拠して、神秘主義をやり、打撃面を広げすぎている、とクレームをつけた。こうして今度は毛沢東の主宰のもとに、会議紀要を訂正する会議が開かれ、1965.1.14日に「農村の社会主義教育運動でいま提起されている若干の問題」(23カ条)が制定された。しかもこの文件と抵触するものはすべて無効として、以後、「23カ条」を基準とすることが付け加えられた。これは党中央の日常工作を主宰する劉少奇に対して、毛沢東が公然と不信任を表明したに等しい。

 毛沢東は64.6月講話(未公表)で提起した「社会主義教育運動の6カ条」の精神を書き込んだ。1)貧農下層中農が真に立ち上がっているのかどうか。2)幹部の「四の不清」が解決されたかどうか。3)幹部が肉体労働に参加しているかどうか。4)立派な指導的核心が成立しているかどうか。5)破壊活動をした地主などの問題を単に報告するだけか、それとも現場で大衆が改造しているのか。6)増産になったか、減産か。6カ条のポイントは貧農下層中農が階級闘争に立ち上がっているかどうかであった。そして階級闘争の焦点は、資本主義の道を歩む実権派であるとされた(『重要会議集』203頁)。

 四清運動の矛盾の性質について毛沢東は12.27日、社会主義と資本主義の矛盾だと強調したが、劉少奇が口を挟み、「各種の矛盾が交錯している。四清と四不清の矛盾、党内と党外の矛盾がそれぞれ交錯しているので、矛盾の性質に応じてその矛盾を解決すればよい」と発言した。これを聞いて毛沢東はたいへん不機嫌になった。

 翌12.28日毛沢東は再び講話を行った。「ここに二冊の本がある。一冊は憲法であり、ここには私が公民権をもつと書いてある。もう一冊は党規約だが、私には党員の権利があると書いてある。いま君たちの一人(ケ小平を指す)は、私を会議に出席させまいとし、もう一人は私に講話をさせまいとしている」。 

 毛沢東が癇癪玉を破裂させたことによって、矛盾が激化し、公然化したのであった。当時毛沢東は健康が優れず、会議には出席しないことが多かった。そこでケ小平は毛沢東の参加を求めなかったとしている。しかし毛沢東は敢えて出席し、紀要を訂正した。この件について毛沢東は、北京に二つの独立王国(劉少奇の政治局、ケ小平の中央書記処を指す)があると批判した(『ケ小平 文選』260頁)。

 この会議のあと、劉少奇に対して、毛沢東に対する尊重心が足らない、毛沢東の講話に口を挟むべきではなかったと忠告する者も幾人かあった。その後開かれた政治局生活会で、劉少奇は自己批判したが、毛沢東の怒りは消えなかった。毛沢東によれば、劉少奇の問題は主席を尊重する、しないの問題ではなくて、重大な原則問題なのであった。後に毛沢東がスノウに語った表現を用いるならば、それは修正主義と反修正主義の問題なのであった。

 このとき毛沢東は、修正主義問題に没頭していた。ここから分かるように、毛沢東と劉少奇の衝突の真相は、個人的な怨念や権力闘争であるとは言い難い。というのは、劉少奇は一貫して毛沢東を尊重しており、毛沢東に代わって工作を主持した際に、重要なことは必ず毛沢東の指示を求めていたからである(金春明『論析』66頁)。ここから浮かび上がる毛沢東・劉少奇関係は、まさにボス毛沢東に仕える部下劉少奇の関係である。劉少奇はかつての廬山会議における彭徳懐と同じく、毛沢東の権力に挑戦しようとするほどの意欲を示したわけではない。むしろ毛沢東の側が指導権の危機を感じ、先制攻撃に出たと解すべきであろう。毛沢東はこの点であくまでも積極的、攻撃的であった。

 ボス毛沢東の逆鱗に触れた劉少奇は悲劇的な運命をたどるが、それは文化大革命という擬似大衆運動の展開と密接に関連していた。劉少奇に対する紅衛兵たちの批判から、政治的打倒そして軟禁のなかでの惨死に至るまでの過程は四段階に分けられる。それは文化大革命の大きな流れのなかでの際立った渦の一つであった。



 これは歴史に対する仮定の話だが、周恩来がもし断固として毛沢東の文革発動に反対していたとすれば、文革は起こらなかった可能性がある。というのは、文革の直前、政治局常務委員会のメンバーは、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、ケ小平、林彪の7人であった。毛沢東派は林彪のみ、劉少奇派は陳雲、ケ小平 を含めて3名、周恩来、朱徳が中間派であった。文革開始を決定する際に、毛沢東は周恩来、朱徳を抱き込むことによってようやく4対3の多数派となりえたのである。もし周恩来が文革の帰結を予想し、毛沢東の文革発動に反対したとすれば、あの悲劇が避けられた可能性もあるわけだ。





(私論.私見)