時田氏の労作から学ぶ現代文革論諸氏の見解考その4、走資派論考

 (れんだいこのショートメッセージ)
 文革をどう見るかの重要な判断指標の一つに「走資派論」がある。文革の期間中、毛沢東系文革派は「走資派論」を掲げ、劉少奇らを「ブルジョア階級の立場に立つ者」と規定し奪権闘争を挑んでいった。ポスト文革後、ケ小平派は、そんなものは存在しなかったとして最も厳しく批判しているのが「走資派論」である。いわば、「走資派論」はポスト文革政権のアキレス腱となっている観が有る。本サイトでこの問題を考察する。


【「走資派」規定の問題考】

 毛沢東が「走資派論」に至るには前段階があった。当初は、官僚主義者階級」という表現を使っており、社会主義社会での官僚制というトロッキー、ジラス以来の難題に取り組んだかに見える。次に、「官僚層」等の言い方をへて、最終的に「走資派」という表現を選んでいる。

 文革綱領「十六条」が「今回の運動の主要な対象は、資本主義の道を歩む党内の実権派である」と謳い上げ、1967.5月の紅旗、人民日報の共同社説が次のように問いかけている。

 概要「社会主義社会において、とくに生産手段所有制にたいする社会主義的改造が基本的に完成されたのちに、階級と階級闘争がなお存在するかどうか。プロレタリア階級独裁の条件のもとでも革命を行なう必要があるかどうか。誰に対して革命を行なうのか。どのように革命を行なうべきか」。

 造反派は、毛沢東の走資派打倒指令に歓喜した。劉少奇、ケ小平が批判され、周恩来まで槍玉に挙げられた。楊曦光は、周恩来=「赤色ブルジョアジーの代表者」論を述べ、打倒を主張した。

 だが毛沢東による造反派弾圧や、「上山下郷」先で「走資派」に接したりするなかで、彼らの「走資派」認識は次第に変化する。楊曦光も自分の周恩来評価がその後何度かブレたことを認めている。そして「李一哲グループ」はもはや「「赤色ブルジョアジー」論や周恩来打倒を主張しなくなった。


 王希哲は、概要「自分が次第に劉少奇、ケ小平ら『走資派』を『ブルジョアジーの代表』としてではなく、中国社会主義の民主化にとって、毛沢東勢力と比べて『よりまし』な政治勢力と考えるに至った」と述べている。それは「走資派」にも十分責任ある中国社会主義の抑圧性の容認ではなく、それを実際にどう変えるか考えたとき、毛沢東の道はそれに繋がっていないと考えたからであり、すでに「中国コミューン」は掲げられず、「社会主義の民主と法制」を主張し始めることになった。

「李一哲グループ」のメンバーであった?小夏は今日、「毛沢東のいう走資派とは、異論派、自由主義的指導者であった」として次のように述べている。

「毛沢東は従来トロッキーやジラスのように彼ら共産党内の官僚集団を人民を搾取、圧迫する新階級と見なしてはいなかった。彼の『走資派』あるいは『党内ブルジョアジー』に関する指摘は、まず自由化傾向あるいはその嫌疑をかけられた共産党の指導的幹部を標的にしており、そこには彼の政敵および党内で彼に不満を抱く人々が含まれていた」。(「文革及毛沢東的偽激進主義意識形態」)

今日、「新左派」も「走資派」論について自らの見方を提出している。

 「本来、毛沢東の文革の対象は『党内走資派』であった。しかし、『党内走資派』、『党内ブルジョア階級』の類の言い方は正統マルクス・レーニン主義の『言語構造』にその合法的位置がなかった。そこで『党内走資派』は往々やむを得ず社会上のブルジョア階級、小ブルジョアジーの『党内の代理人』と言いならされてきた。すると真の文革対象――党内官僚集団はしばしば『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与えるやり方に闘争の大方向を転移することになる。

 王紹光の研究によれば、文革最初の五〇日のとき、各級の指導者は往々にして文革を『第二の反右派闘争』として行なっている。湖北省の省長張体学の一つの話は湖北省の秘密にふれている。『われわれすでに三家村を放り出したが、再び何人かを自発的に放り出せば、省委員会に問題はなくなる』。こうして見ると、『旧言語構造』が文革の誤まった指導の一端だったのである」(崔之元「毛沢東文革理論的得失与『現代性』的再建」)

「文革中の『ブルジョア階級』という言葉は三つの意味で使われた。第一は解放前のブルジョア階級の残余であり、第二にそれは人の政治的態度、行為、あるいは『階級的立場』を指すこともできた。第三に最も厄介でもあるのだが、それは党内官僚集団を指すことも可能だった。第三の意味での『ブルジョア階級』こそ毛沢東の真の文革対象だった。しかし毛沢東はいまだ正統マルクス・レーニン主義の『言語構造』を徹底的に切り離していない結果、各派の勢力に自分らの利益によって『走資派』という言葉の意味を操作する十分な余地を残し、最後には各派の闘争の結果が彼の発動した文革の本意に反することになったのである」。

「毛沢東が正統マルクス・レーニン主義をいまだ徹底的に乗り越えていないことを示すもう一つのことは、彼の文革理論が過分に『ブルジョア的権利』の概念に依拠し、それを『党内ブルジョア階級』の社会経済的基礎と見なしていたことである。〔……〕しかし単に『ブルジョア的権利』の角度から『党内走資派』を見るのはきわめて狭隘である。この見方はただ収入、分配上の差別に注意するだけであり、根本的問題、すなわち『党内走資派』あるいは官僚集団の生産過程と生産手段への支配に注意していないのである。さらに大事なことはただ分配上から『ブルジョア的権利』に着目する理論は『後ろを見る』理論であり、それは経済制度の建設的な創造を計画する上で文革を大きく妨げた。その結果、『打ち破るを掲げて、建設がなかった』という結果になったのである」。

なかなか興味ある文革総括の一視点である。文革が「経済制度上での大民主」を創出できなかったというのは毛沢東文革理論の核心、文革総括の核心にふれる問題であるからだ。その上でよく分からないのだが、「走資派」論の曖昧さによって「『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与える」やり方を許したということによって、崔之元は本来の文革対象である「党内官僚集団」との闘いはどうあるべきだったといっているのだろうか?それは「敵」ではなく、本来「人民内部の矛盾」として対応すべきことだったというのだろうか? 

この問題に関連して粛喜東はこう述べていた。

 「「文革の意義をさらに全面的に総括するに当たって、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という範例に立ち戻り、文革を人民内部の矛盾を処理する方式を見つけ出す大胆な試みと理解しよう。……文革を人民内部の大民主を行なう大胆な試みと見るか、あるいは人民大衆が『官僚主義者階級』を打ち倒す政治大革命と見るかがキーポイントなのである」。(「一九六六年的五十天:記憶与遺忘的政治」)

つまり文革での「官僚集団」との闘争は「人民内部の矛盾」として処理すべきことだったと言っているようにも思われるのだが、しかしここにはかなり厄介な問題がある。毛沢東の「走資派」批判は、異論派としての劉少奇、ケ小平への誤った批判だったのか、それとも彼らは打倒されるべき抑圧的官僚層だったのかという問題は今日なお明快な回答はなされているわけではないからである。

 ところで、?小夏は崔之元の主張についてそんなことではないのだという。

「文革中、大量の決して『走資派』ではない普通の人民が残酷な政治的迫害を蒙ったのは、崔之元が〔いうようなことではなく〕、毛沢東は根本的にいかなる独立した政治思想と政治批判にも存在する権利を与えず、多年わたる政治実践においていわゆる「階級の敵」――とりわけ思想上の異論派――に対して不断に迫害を加えてきたのである。まさにこの種の政治的迫害をスターリン主義的政権下で合法化することによって、はじめて毛沢東は政治的対抗者を『ブルジョア階級』の範疇に投げ入れ、以来それによって彼らに迫害を加えたのである」。

「走資派」といわれた層が?小夏がいうように異論派、自由主義的指導者だったとすれば、それを「敵」として批判し、打倒した文革は最悪のものとなる。そうではなく新たな抑圧的官僚層だったとすれば、それを「敵」として打倒したのは必ずしも間違いではないということになる。

これに関連して興味あるのは、「ブルジョアジーの代表者」と規定された劉少奇が、奇妙なことに党員としての倫理性を問われて弾劾され、自己批判を要求されたことである。彼は文革中三度にわたって「自己批判書」を書かされている。

ここには異論派と「敵」とを概念的に区別できない中国共産党の理論的欠陥が露呈しているのだが、同時にそこには異論派とも官僚層とも截然とは分けられない「社会主義的官僚層」の特質把握の困難さも示されていた。

劉少奇、ケ小平ら「走資派」とはそういう層だったわけであり、単なる「思想闘争」としての批判では、文革前に毛沢東が、北京は「針も通さず、水も通さぬ独立王国」だと愚痴ったように、封じ込められ、無力化されてしまう可能性があるし、また文革初期の「工作組」の対応が典型的に示したように、あらゆる内部的批判の動きに対しては党組織は強力な抑圧機関として登場するのであり、批判は大衆運動の動員をもってしなければ有効性を持ちえない。

だから毛沢東の「走資派」論、造反派の「赤色ブルジョアジー」論や大衆運動をもってする批判の展開がただ誤りだったかといえば、そこでは「社会主義的官僚制」の問題が感受されていたわけである。

しかしそれらの官僚制批判が有効性を持つには、それが「走資派」の社会的基盤を解体しうる「社会革命」的要素を持っていなければならなかったのだが、江青・張春橋グループの「新生事物」はそういうものたりえていない。理論次元では崔之元がいうように、その「ブルジョア的権利の制限」論(毛沢東、張春橋)ではそこをほり下げることはできなかった。

そして中国共産党と毛沢東に当初から根深くある異論を異論として見るのではなく、すぐさま旧支配層の残滓、反共勢力と見る傾向が全面化している。これらのことは文革後期、「走資派」層の道義性を回復させる要因となっている。

 この問題につき、「新左派」もそこに問題があったことを認めている。

 崔之元は次のように述べている。
 「毛沢東文革理論の積極面は毛沢東が正統マルクス・レーニン主義を突破し、『大民主』と結びついていない生産手段の共有は人民が主人となった社会主義の方向を決して保障するものではないと断定したことにあった。しかし毛沢東の文革理論には重大な誤り〔原文「失誤」〕があった。その核心はやはり彼がマルクス・レーニン主義の教条主義的な制約を脱することができていないことにあり、『大民主』制度の建設に適合した新たな『言語構造』を創造できなかったことにあった。彼の『党内走資派』、『共産党内のブルジョア階級』という言い方はマルクス・レーニン主義の教条的な『旧言語構造』から十分に脱することができていないことに由来しており、それは実際の運動のなかで常に誤って用いられ、毛沢東の最初の意思と異なる結果を生み出したのである」。

 粛喜東は次のように述べている。
 「文革の意義をさらに全面的に総括するに当たって、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という範例に立ち戻り、文革を人民内部の矛盾を処理する方式を見つけ出す大胆な試みと理解しよう。・・・文革を人民内部の大民主をおこなう大胆な試みと見るか、あるいは人民大衆が『官僚主義者階級』を打ち倒す政治大革命と見るかがキーポイントなのである」。

 これにつき、時田氏は次のように述べている。
 崔之元はここで毛沢東が「官僚主義者階級」という新たな認識を示しながら再び「走資派」という古い言葉に戻ったことを言っているのだろう。だが毛沢東の「官僚主義」批判、共産主義建設論には大衆の自立という意味での民主の復権は含まれていなかった。「文革綱領」(「十六条」)が「群集自己解放自己」、「群集自己教育自己」と言う魅惑的な言葉を含んでいたにしてもである。

 それに毛沢東思想が新たな「言語構造」を作り出すに至らなかったと言うが、文革は「文革言語」さらには「大批判」言語という独自な「言語構造」を新たに生み出したとも言えるのであり、そこには文革のはらんだ「解放性」とその転化形態、堕落形態としての邪悪な抑圧性が十二分に示されたのである。

 崔之元、粛喜東らにとって「走資派」規定は古い認識(「階級闘争理論」)の残滓であって、彼らはそれを中国共産党マルクス主義のスターリン主義的性格、その政治的他者の見方における根本的な問題性とは見なしてはいない。

 彼らが毛沢東や文革での「誤り」について「失誤」という表現を使っていることに注目しよう。普通「誤り」の中国語は「錯誤」という字を用い、それが政治的誤りあるいは路線的誤りを意味する場合には厳しい批判と自己批判の対象となり、ときには政治生命に関わるものとなる。だが「失誤」は基本的には正しい立場に立った上での部分的誤りというニュアンスのものであり、「新左派」にとって毛沢東の「誤り」はそういうものと見なされているわけである。

 だが文革において起こった政治と言語の堕落の重要な原因の一つはまさにこの異なる意見や異論の持ち主を敵階級のものと見ることにあった。この見方は本来のマルクス主義さらにはレーニン主義にもなかったものであり、それはレーニン死後の厳しい党内闘争の中で形づくられ、三〇年代の大粛清のなかで完成した姿を取るに至ったスターリン主義政治思想の特性の一つであった。中国共産党は当初からこのスターリン主義の特徴的な政治他者観を引き継いでおり、毛沢東もまたそれを強烈に引き継いでいる。

 そしてそれが中国共産党の誇る「整風」、「思想改造」と結びついたとき、その打撃力は恐るべきものとなった。つまりそこでは「誤り」や異論は政治的なものにとどまらず、倫理的、人格的なものと見なされ、したがって「自己批判」もまた政治的な次元のものではなく、批判者への自己解体的一体化以外は容認されることはなかった。 

【「走資派」論を廻る両派の論争】中国民主化、民主革命、の名のもとでの西洋化の完成である。○ケ小平(トウショウヘイ)の改革開放政策以来、中共の公式イデオロギーは、拝金主義=資本主義=弱肉強食主義、である。
 「大民主」の問題性を「走資派」論との関係で分析したのが?小夏「文革と毛沢東の偽の急進主義イデオロギー」である。かって「李一哲」グループに属していた彼女は、天安門事件以後「海外民運派」としてアメリカからの帰国を認められていない。今回「自由主義」としてこの論争に加わっているわけではないが崔之元の文革論文は読んでおり、この文章もその所論の検討から入っている。

 彼女はまず崔之元の「毛沢東は正統マルクス主義を超えた」という主張には初歩的な誤りがあると言う。普通、西欧の論者たちが毛沢東の文革思想の新しさと言うとき基準としているのは正統マルクス主義ではなくスターリン主義なのだが、崔之元はその前提的なことを分っていない。


 「だから毛沢東の文革思想の評価に当たって問題はこう提起されるべきなのだ。すなわち毛沢東の思想とその文革における実践はスターリン式社会主義の教条性をどれだけ突破したのか? いわゆる毛沢東的な急進的理想主義はスターリン主義からどの程度に急進的理想主義――それがどう理解されたものであれ――の方向へ改良あるいは革新したのか?」。

 彼女の結論はこうである。
 「1、毛沢東はこれまでトロッキーやジラスのように共産党官僚集団を人民を搾取、圧迫する新階級と見なしたことはない。彼の『党内走資派』あるいは『党内ブルジョアジー』についての告発は自由化傾向を持つか、そう嫌疑をかけられた共産党の指導的幹部に対してのものであり、そこには彼の政敵および党内の彼に不満を持つ者たちが含まれていた。

2、毛沢東が文革の中で提唱した『大民主』は政治上の極度の高圧性を前提にしていた。『大民主』のもとで公民としての人身の権利を保護する正規の法制は跡形もなかった。毛沢東および共産党統治に不満を抱いている、あるいは破壊しようとしているとして告発された人は党員であれ非党員であれ大衆組織の容赦ない打撃に晒された。

3、毛沢東の社会改造方案は人民の生活方式と職業上の選択権を根本から剥奪し、軍事化手段をもって社会を組織し、まさに人民全体を党政合一式の国家の全面的支配のもとに置くものであった。

 ・・・私の見るところ、毛沢東式の文革思想は急進主義的な外観を持っていたとはいえ、本質的にはスターリン主義の復刻版でしかなく、スターリン式の政治的、社会的専制主義のさらに厳しい表現形態とすら言えるものであった」。

 このように*小夏は毛沢東の文革と「大民主」についてほぼ全否定している。ここで興味あるのは「走資派」とは毛沢東への異論、その政敵に対しての規定だったとされていることである。ここには「走資派」規定に対するかっての造反派たちによる見方の変化、反省がある。王希哲はその文革総括(「毛沢東と文化大革命」『中国研究』123,124、日中出版)で、毛沢東への幻想が砕かれるにつれて「走資派」なる層への見方が変わったと述べていたが、*小夏も同じ見方をしているのかも知れない。

 文革終焉後、その代表的な被害者として劉少奇には多くの同情が寄せられてきた。だが少々意外なことに造反派たちの劉少奇への批判は当時のみならず今日なお厳しいものである。


 「文革初期の劉少奇、ケ小平のこれらの悪行〔工作組による造反派大弾圧〕について、中国共産党とその御用文人たちは多年に亘ってひた隠しに隠してきた。それはまるで劉少奇、ケ小平が文革中に毛沢東によって粛清され、虐待されたことで、その悪行は都合良く抹消すべきであるかのようであった」。(劉国凱「六六年夏――民衆に向けられた災難」)
 「中国共産党系でない非官方人士たちの多くの文革著作においても、往々にして劉少奇の身に起こったことには甚だ多くの同情が寄せられるのに、数多くの第二次『反右』の犠牲者には関心を抱かず無視し一言も触れることがない。このような貴族と平民に対する二重の標準が今なお通用しているのは思っただけでも人の心を寒むからしむることである」。
 「劉少奇が責任を負うべきことは実は非常に多いのである」。

 劉少奇が国家主席という権力階層にあって人々の運命を左右できる立場にあったことを考えるとき、単に毛沢東への異論の持ち主だったと見るのは妥当か、毛沢東の劉少奇「走資派」規定はただ誤りだったかという問題はトロッキー以来のスターリン主義官僚規定の問題としてそれとしてあるわけだが、毛沢東のそれが階級分析に裏打ちされないスターリン主義的他者批判の一つの典型であったことは否定できない。

 ところで以上の「大民主」と「走資派」論の問題をわれわれ自身の運動経験との関係でとらえ返せば何が見えてくるのか。 「四大」が自由な日本のわれわれにとって「大民主」の意義を実感として感じ取るのは難しい。だがわれわれもまた一九六〇年代から七〇年代にかけて一たびは獲得した「大民主」をその意義をつかめないまま、粗略に扱い、乱費し、とどのつまりは失ったのだと認識すべきなのである。どういう意味か。

 「大民主」の意義をスターリン主義との関係でとらえ返せばわれわれにとっても分らないことではない。日本共産党のかってのイデオロギー支配の呪縛力は今ではピンとこないが、それを打ち破って以降、党派間対立の「内ゲバ」的堕落、退廃に至る一時期全体に亘って新左翼運動はいわば「大民主」を手中にしたわけである。

 だが当時その固有の意義は理解されていない。それはあくまで革命にとっての手段と見なされていたのであり、その限りにおいて党派的利害が優先されるのは不可避だった。だがこの言い方は正確ではない。運動が一たび発展するや党派的に避けがたく分岐し、その間の対立と共同が展開されていくのは、各派が党派利害に固執したからということではなく、それが現実的基礎を持つ大衆運動の場合不可避な過程なのである。

 警戒すべきなのはこの分岐なのではなく、むしろこの分岐が強いる緊張に耐え得ず、それは本来あるべきことではないとして理論的、物理的に抑圧する動きであり、それらこそ共産主義の名において開かれた政治空間を抹殺しようとするものである。

 と言うのも、将来の共産主義においては民主主義もまた死滅する、そこでは政治的異論などなくなる、すなわち政治的他者問題そのものが消え失せるのだというのがレーニン「プロレタリア民主主義」論の眼目なのであり、新左翼もそれに何の疑いを持つことなく、マルクス共産主義論もそう読み込まれてきたからである。つまりそれは党派的利害を優先したなどということよりもっと根は深いのであり、自分らの「将来の共産主義社会」論そのものによって日本のこの「大民主」の意義、その維持、防衛、発展など理解できなかったのである。

 「内ゲバ」――それは革命運動における政治的他者問題という避けがたく普遍的な問題の特殊形態、敗北形態、堕落形態なのだが――もまた「将来の共産主義社会」の名の下になされたものである以上、その総括は「異論や党派間対立、民主主義そのものが死滅する将来社会」論そのものに及ばなければならない筈である。

 「走資派」問題とはまさしくこの政治的異論、政治的他者の問題である。この問題が厄介なのは、政治の場では意見の違いがただ意見の違いとして向き合うのではなく、そこに階級間の問題、支配と被支配の問題が絡まることをめぐっていた。さらにそこには意見とその物質的基礎というマルクス主義のイデオロギー論が関与する。こうして異論=敵性のもの、そうでなくとも「主観的にはともあれ、客観的には」という論理が一つの鋭さであるかのように不可避に登場する。必要なことは将来社会においては意見の違いそのものが消滅する、そこは「物の管理」をめぐる「統制と計算の単純な作業」(レーニン)の世界だなどという認識は誤りなのだということをはっきりさせることであろう。




(私論.私見)