時田氏の労作から学ぶ現代文革論諸氏の見解考その3、毛沢東文革論考

 毛沢東発動期の初期の文革をどう歴史的に総括すべきか、これを廻っての混乱が未だ続いているように思われる。時田氏の論考から学んでもなお疑問に思うのは、林彪派の文革の動きが捨象されていることである。れんだいこに云わせれば、それは歴史の偽造に近い。その上での文革論を縷々綴っているのでなかなか真意が掴めない。それはともかく整理してみる。今はまだ雲を掴むような状態である。

 2005.6.9日 れんだいこ拝

新左派の毛沢東革命理論検証考】
 文革論は当然毛沢東理論の評価考に繋がる。「新左派」はこれをどう評しているのだろうか。典型的には、「毛沢東理論は反資本主義的モダニティーのモダニティー理論」(汪暉)として押さえられている。彼らによってとらえ返された文革理論はつぎのようなものであった。

 崔之元は次のように述べている。
 「『文化大革命』は悲劇をもって終わった。だがこのことは毛沢東の『文革』理論が正統マルクス・レーニン主義の重大な乗り越えを意味していなかったことを意味せず、さらには『大民主』――広大な労働人民の経済民主と政治民主――は望むべくして及び得ないものであったことを意味しない」。
 「われわれは西欧主流のモダニティーの中での正統マルクス・レーニン主義の位置について深刻な認識をしっかり持たなければならない。毛沢東と正統マルクス・レーニン主義との関係はすなわち中国での実践と西欧主流のモダニティーとの関係なのである。この関係の深刻な認識があってはじめてわれわれは新たな『言語』を創出できるのであり、中国の現在と未来を描き把握できるのである」。
 概要「毛沢東は、正統マルクス・レーニン主義も超えることができなかった『西欧主流のモダニティー』が抱えていた『深刻な内在的矛盾』を突破した。解放と規律がそれである。毛沢東の新たな思想の核心は『人民大衆が歴史を創造する』ということであった」。
 「毛沢東は『人民大衆が歴史を創造する』という理論をもってヨーロッパの主流であるモダニティーがはらむ矛盾の突破を試みた。彼が文革の中で唱導した『大民主』こそ『人民大衆が歴史を創造する』ということの大実践であった。この実践は悲劇をもって終わりを告げた(その部分的な原因は毛沢東の文革理論それ自身が正統マルクス・レーニン主義の教条性を超越するのに不徹底だったことにあった)とはいえ、その経験の教訓はわれわれが二一世紀の中国の政治、経済体制を建立するための豊富な参考を提起している」。

 李憲源は次のように述べている。
 「指摘しなければならないのは、文革後期、毛沢東は大局の安定、官僚階層との妥協の必要性によって造反派への大規模な打撃・迫害を黙認さらには放任したとはいえ、文革運動は結局のところスターリン主義的な社会主義の方式の伝統と決まりを創造的に突破したということである」。

 新左派の毛沢東論につき、時田氏は次のように述べている。
 二つの点にふれておこう。 第一にマルクス主義がこの「内在的矛盾」を超えられなかったという点について。崔之元の場合「正統マルクス・レーニン主義」、「教条化したマルクス主義」という表現が区別されないまま用いられているのだが、本来のマルクス主義においては彼の言う「内在的矛盾」は自覚されており、従ってそれを超える端緒はつかまれていた。

 「この共産主義は人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、自由と必然との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である」。(『経済学・哲学草稿』)

 マルクスはその鍵を「プロレタリアートの社会的結合」としてとらえていた。(この問題については別の角度から斉藤論文(「解放派におけるマルクス主義の深化再生の道は何か」、本誌創刊号に抄録)が詳述している。関心ある人はそちらを参照していただこう)

 もっともマルクス主義がこの「矛盾」を解決したと言ってもそれはあくまで端緒としてであり、その実現は困難な実践的・歴史的課題であった。「プロレタリアートの社会的結合」は資本主義そのものが生み出すのだが、それはあくまで萌芽であり、その実現をめぐってすべての困難さが現れる。なぜ困難なのか。それは「内在的矛盾」の解決、「プロレタリアートの社会的結合」の実現は予定調和的なものではなく実践を通して形成される課題であり、その過程はこれで終わりということではない永続的なものだからである。

 つまりそこには「相対的な正しさ」や「妥当な真理性」はあっても「これが客観的真理」と誰かが言明しるものはないのであり、こうして課題はその実現のための過程、条件、過渡的課題の解明という領域に転移する。「情勢分析」や「戦略・戦術」が課題となる。政治と政治言語がその真価を問われるのはこの領域においてである。

 そして政治的異論、政治的他者が立ち現れるのはこの領域においてである。「客観的真理」が不在ないし未実現のもとで、複数の選択肢がいわば「相対的な同等性」を持って登場するのは避けられない。こうして争われるべきは相互の消し合い、政治言語の死滅を意味する「絶対的、客観的」真理ではなく、「相対的、妥当な」正しさ、真理性なのであり、だからこそ対立と共同、論争は政治と政治言語の本来的な属性なのである。

 第二に崔之元の主張に反して毛沢東理論はそれを超えていないという点について。なぜなら毛沢東理論に欠けていたのはまさにこの「プロレタリアートの社会的結合」論だったからである。「大民主」を意味するとされる「人民大衆が歴史を創造する」という言葉が実際に人民大衆の自立を含んでいたのなら崔之元が「問題は解決された」と言うことはできよう。そしてこの人民大衆の自立には複数の選択肢を前にして自らの見解を持ちうること、言い換えれば毛沢東をはじめとする党中央の意見に対しても異論を持ちうることを意味する。

 だが「大民主」はそういう意味での自立を容認するものではなかった。そこでは指導的な意見以外は容認されないというより、人々はそれに自己解体的に一体化することを求められたのである。

新左派の毛沢東生産力理論検証考】
 毛沢東は、文革の最中、「鞍鋼憲法」を鼓吹し、生産力を高めようとしていた。「鞍鋼憲法」とは、「両参一改三結合」を唱えていた。「岩波現代中国事典」(1999年)は、「両参一改三結合」を次のように説明している。
 「1950年代末の大躍進期に提唱された企業の大衆的管理と技術革新活動の方式。『両参』とは労働者が管理活動、たとえば生産労働のほか、コスト、技術措置などの計画編成、製品の品質分析、設備の検査維持、新製品の研究開発、技術規定の編成などに参加する一方、指導幹部が毎年一定の時間、労働者と一緒に現場労働に参加し、現場労働者の要求と生産上の問題を適時に解決することを指す。『一改』とは生産技術の発展に適応しない規則制度を『両参』に適合したものに改革することを指す。『三結合』とは指導幹部、技術者、労働者の三者の協力による技術革新運動を指す。この方式はのちに鞍鋼憲法に継承され、文化大革命期に強調された」。

 崔之元は、「鞍鋼憲法」を「経済民主」へ引き継ぐべきものとして注目し次のように述べている。
 「今日の『ポスト・フォード主義』の世界的潮流の中で毛沢東が高く評価した『鞍鋼憲法』は最も早くかつ鮮明にフォード式分業体制の骨化に挑戦したものとして、とりわけ人々の注目を引いたのである」。
 「それはフォード式の骨化した、垂直的命令を核心とする企業内分業理論への挑戦であった。『両参一改三結合』は今日流行の用語でいえばチームワークのことである」と言う。 「遺憾なことに、『鞍鋼憲法』の発祥の地で、今日人々がそれを再び提起することはほとんどない。その原因は複雑だが、一つはっきりしている原因は、『大躍進』と『文化大革命』の中で出現した混乱が『鞍鋼憲法』の執行においてその元々の意図との違いを極端に大きなものにしてしまったことであった。現在の問題は、われわれが盥の水と一緒に赤子を流してしまうべきか否かということである。『改革開放』の今日にあって、世界的な『ポスト・フォード主義』の潮流のなかで、『鞍鋼憲法』はわが民族の工業振興にとって精神的、組織的資源の一つとすることができるのかできないのか?」

 これにつき、時田氏は次のように述べている。
 「新左派」たちによる過去の経験のこういう再評価の仕方には心惹かれるものがないわけではない。文革そのものがはらんだ深刻な問題性と、とりわけ「文革徹底否定」論によって今日では塵あくたとされている実践のなかからその初源の意図と経験を救出し、それを今日の実践に繋げるということは意義あることであり、人を元気づけるものだからである。

 だが「新左派」たちの文革総括の仕方、毛沢東の文革理論の評価の仕方には、その多くが文革をわが身で経験していないことをさておいても、やはり理論的未熟さ、皮相さがあると言わなければならない。

 ここでの問題でいえばそれは毛沢東の「鞍鋼憲法」論そのものがはらんでいた問題に無自覚なことである。それは文革の混乱によってその「元々の意図」が捻じ曲げられたというものではなかった。その「元々の意図」そのものに「新左派」がイメージする「経済民主」は含まれていなかったのである。

 そしてこれこそが文革をその根底において失敗づけた重要な一因だったのであり、毛沢東の本来の文革目的であった「闘・批・改」を通しての「新生事物」の実現、「真紅の新世界の創出」は文革後期、江青グループの主導のもとで戯画的なものとなり、ケ小平による絨毯爆撃的な「整頓」によって掘り崩される脆さを持っていた。

 そのことに気づいた毛沢東がおこなったのは以前からの持論であった「ブルジョア的権利の制限」の前面化であり、張春橋、姚文元にその文章化を命じている。だがそれは「ブルジョア的権利」を死滅させていく社会的諸関係の形成へ向けての方策の具体的提起ではなく、現今の生産関係のなかから「走資派」を放逐すれば「ブルジョア的権利の制限」が可能となるといった理論的にも誤った把握に基づくものであり、長年の「大批判」に倦んだ労働者大衆を奮起させることはすでにできなかった。

 だがこの問題は文革の限界をこのように見るわれわれ自身が実践的にはもとより理論的にも未完の課題なのであり、人のことを言えた義理ではない。「アソシエーション革命」論もいまだその遙か手前にとどまっているというのが実情なのだから。


新左派の文革批判の構図考】
 「新左派」たちも「文革の失敗」について語っている。李憲源は次のように述べている。
 「毛沢東は文化大革命の実践の過程で、急進的かつ強烈な平民主義的色彩を持った『毛沢東主義』と権力の集中と官僚的秩序を強調する『スターリン主義』との間で常に態度を決めかね、揺れ動いていた。私が思うには、この政治的決断と価値判断における動揺、ジレンマが文革を失敗に導いた重要な原因の一つとなったのみならず、中国の資本主義勢力に再び巻き返しを許したことで毛沢東が歴史的責任を負うべきことだったかも知れないのである」。(「協同を選ぶのか、対抗に向かうのか」)
 
 粛喜東は次のように述べている。
 「言語表現においてまた実践上でも、伝統的な『階級闘争』と大衆の大民主とが衝突する矛盾が存在した。この期間、『革命は客を招いてごちそうすることではない、・・・』という言葉と『武闘はただ皮膚に触れることができるだけだが、文闘によってはじめてたましいに触れることができる』という言葉が両方ともしばしば引用された。前者は伝統的な意味での階級闘争を指していた。後者は特殊な意味での階級闘争、すなわち思想闘争を指していた。そして思想闘争は本来なら人民内部の矛盾の解決形態、すなわち民主的弁論を用いるべきものであった。しかし文革の全過程を通じて両種類の言語、両種類の区別はいまだ明確にされてはいず、それらの間の矛盾、衝突もまた解決に至っていなかったことが、大民主の実践の失敗の伏線となったのである」。(「文革の中の指導者と大衆:言語、衝突と集団行動」)

 「新左派」たちは、文革をその発端から、「綱領」次元においても「二面性」を抱え込んでいたと見立てる。即ち、「走資派」体制の「全面打倒」か「部分改善」かの問題である。「上海一月革命」の当初は「階級と階級の闘い」と述べていた毛沢東は「上海コミューン」への動きに直面して張春橋に「部分改善」だと明言し、以後一部の造反派の「すべてを打倒する」は誤りだとされていく。

 「新左派」はこの「二面性」を「平民主義的な毛沢東主義」と「官僚主義的なスターリン主義」、「大民主言語」と「階級闘争言語」との関係と理解している。だが実際にはこの「二面性」は先に「大民主」の個所でふれたように「平民主義的な毛沢東主義」、「大民主言語」それ自体がはらんでいるものと押えるべきなのである。

 つまり「新左派」にとって文革の失敗とは、毛沢東の文革理論がはらんでいた新しい要素が同時に並在した古い要素に妨げられて十分その力を発揮できなかったということなのだが、問題の所在はそこにではなく、まさにその新しい側面そのものに「大民主」は構造的に含まれていなかったのである。


 鄭義は次のように述べている。
 「今日、中国内外の学術界では、毛沢東の発動した文革は人民を利用した政敵の粛清であったということはすでに共通認識となっている」。

「共通認識」であるかどうかはさておき、「二つの文革」論者たちもまたほぼ「毛沢東の文革」の全否定に近い考えに達しているのは事実のようである。だがそういう認識に今日到達したにしても、それに至る変化過程の分析が重要である。造反派にしても当初は圧倒的な毛沢東の影響下にあり、その言葉から彼らの文革論を組み立てている。

しかしその後彼らは、自分らは毛沢東の「権力闘争」に利用されたのであり、その文革理論はそのための手段だったとして、そこに「人民の文革」の存在理由を立てている。ここには当初の幻想からすれば彼らの認識の深まりがあるわけだが、同時にそこには対象分析力の後退もある。というのはそこでは毛沢東文革論への共鳴とそこからの離脱の思想的経過が捨象されてしまっており、「毛沢東の文革」はその当初からダメだったというように一面化されているからである。

毛沢東が一九六七年以降、造反派の抑圧に向かい、ついにそれを鎮圧したのは事実である。問題はここに毛沢東の当初からの本質を見るのか、あるいは毛沢東の退化、堕落としておさえるかということである。

毛沢東は人民大衆の運動を利用したのだが、人民大衆もまた「毛沢東の文革」を利用して自分らの利害を貫こうとしたのだと鄭義はいう。

この整理はスッキリしているが、下層民衆の場合にそういう要素もあったとしても、造反派運動の過程はそういうことではなかったろう。その社会的要因はあったわけだが、直接には彼らは毛沢東の呼びかけのもとに立ち上がったのであり、毛沢東と中央文革が劉少奇、ケ小平の「工作組」、高級幹部子弟たちの「血統論」を厳しく批判して造反派を擁護したとき、一瞬、相互の利害は一致し、その関係を粛喜東が「政治連盟」的な性格を帯びたというのは荒唐無稽なことではない。

ただ毛沢東のこれら「四大」(「大鳴〔大いに意見を出す〕・大放〔大いに討論する〕・大字報〔大字報を貼る〕・大弁論〔大弁論をする〕」)は毛沢東の政治路線にもとづき「走資派」を批判するかぎりで容認されたものであり、真の意味での「大民主」でなかったというのが「二つの文革」論者、そしてその批判者である徐友漁らの主張である。

このことは事実であり、「四大」は粛喜東ら「新左派」が評価するほど解放的なものではなかった。これをどう見るのか。

たしかに毛沢東の造反派に対する態度をただ「利用」と見ない場合でも、その「社会主義」観、「民主主義」観はマルクス主義的、あるいはレーニン主義的ですらないスターリン主義的な性格を持っており、「新思潮」派のコンミューン路線とは異なるものである。さらには一九六八年以降の過酷な造反派弾圧の記憶は、「毛沢東の文革」をそれもまた一つの変革運動だったと見なすことはできないとする見方を当然生み出す。

だがそれをもって「毛沢東の文革」を「政敵粛清」を専らとしたものと見なすことは、事実の経過として、また総括の仕方、批判の仕方として誤りを含んでしまうことにならないか。


2.「政治連盟」か「相互利用」か

「二年(ないし三年)文革」の時期、造反派と毛沢東、中央文革とは一種の「政治連盟」の関係にあったと指摘したのは粛喜東であった。考えてみればこの指摘は文革総括にとってきわめて重要な問題領域である。というのは文革終息後、造反派は「三種人」として貶められ、摘発の対象となり、中央文革に至っては「怪物」(葉永烈)であり、何の積極性もないものとして、真剣な総括の対象となっていないからである。そしてそれらの見方は「文革徹底否定」論の不可欠の属性だった。

だが「二つの文革」論者にとって中央文革は一九六六年八月以降の「革命」の時期の記憶と結びついていた。今日、「毛沢東の文革」には厳しい彼らだが、造反派の運動と中央文革の活動とがある時期重なり、連携したことを認めている。そして中央文革の盛衰は文革のそれと結びついていたのである。

楊小凱

 「ある人は文革のなかで造反派は人に利用されたのだという。しかし政治は従来も相互利用なのであり、毛沢東は造反派を利用し、ケ小平に言わせれば造反派のなかの『悪人』は毛沢東を利用したのである。私は『中国の春』に連載した回想録〔のちの『牛鬼蛇神録』〕のなかで実際の人物と出来事によって説明したが、当時たしかに頭の優れた右派が自覚的に造反派を利用していた。彼らは現在自分が頭がいいと思っている一部の人々の比ではなく、彼らはずっと造反派を利用して共産党に反対した。彼らが失敗したのは覚悟がなかったからではなく、毛沢東が造反派を支持して実権派に反対し、造反派が自分の利益から出発して毛沢東と手を組んで劉少奇、ケ小平を代表とする共産党の打倒を願ったからであった」。(「再談『文革』」)

劉国凱

「これら二つの筋道はそれぞれ独立した内容を持つと共に相互に交錯する要素もあった。

六七年早春の鎮圧反革命〔「二月逆流」〕、六八年の夏季大鎮圧、これらは当局側の道筋そのものであった。『反経済主義、『文革新思潮』、これは人民の道筋独自のものだった。『ブルジョア反動路線批判』、『一月革命』、六七年暮春の『名誉回復』〔「二月逆流」による弾圧からの〕等は二つの道筋が交叉した産物だった。文化大革命の四つの特徴はその外在的表現であり、二つの道筋はその内容だった」。(「三年文革与両條綫索」)

王希哲

「人民の文革には潜在的な発生過程があった。一九六九年の中共『九回大会』の前では『人民の文革』と『毛沢東の文革』とを分けることはきわめて難しいことであった」。(「訪中国民運の先駆者王希哲」)

鄭義

 「軍隊の上層部は一方では中南海で毛沢東と争い〔「二月逆流」〕、他方で全国的規模での血なまぐさい造反派鎮圧を開始し、四川省だけで数万人の多くが逮捕されている。この生死にかかわる重大な時期、毛沢東と民衆は困難を共に切り抜け、運命を共にする関係を客観的に取り結んでいた」。(「両个文化大革命??

このように彼らは「相互利用」論の鄭義を含めて「人民の文革」と「毛沢東の文革」との関係をただ相互に外的なものの「相互利用」であったとは見なしていない。だがそれではその関係は何だったのかという問題をほり下げることはしていない。「毛沢東の文革」の文革を「政敵粛清」と見るかぎり、双方を関連づけられないのである。

だから決して解放的なものではなかった「毛沢東の文革」を「人民の文革」に関連づけるためには、双方が同質であったということ以外の条件を見つけ出し、設定することが必要となる。

 われわれの考えでは「毛沢東の文革」もまたその全過程が均質なわけではなく、対抗勢力との関係、文革派の主体的条件の変化、等によって、一つの頂点に達したり、沈滞したり、混迷したりという帰趨をたどると見ることによってそれは可能となるのではないのか。運動の質的変化という概念を導入するということである。

「二年(ないし三年)文革」期、その運動は一つの頂点に登りつめ、そこで「人民の文革」的要素と交叉し、交錯したと見ることもできよう。劉国凱のいう「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」の時期である。自分と同質でないから「悪」だとすることは、異質なものとの協同と対立が政治の世界であることを見失っているだけであろう。

しかし「上海一月革命」をへて、とりわけ一九六七年二月の「二月逆流」以降、それはまた次第に乖離していく。





(私論.私見)