時田氏の労作から学ぶ現代文革論諸氏の見解考その2、文革総括考
(「文革に纏わる百家争鳴」考)

 (最新見直し2005.5.27日)

【文革総括を廻る対立考その1、現中共党中央政権の文革論
 自由主義派と新左派の理論的対立を細部にまで見ていくと却って煩雑になる。結局のところ文革論に関わってくるので、文革評価を廻る両派の論争を検証することにする。劉国凱は、「文革をどう評価するかの問題は、単に歴史学の問題であるだけではなく、現実問題でもある」と述べている。

 つまり、文革問題は現代中国政治に直通しているという観点を披瀝している。れんだいこの観るところ確かにそうではなかろうか。文革時代の対立が隠然として続いていると看做すべきではなかろうか。日本の評論士がこの観点を喪失したまま現代中国政治論を述べているが詰まらない。
 その前提として、現中共党中央政権の文革論を見ておく。現中共党中央政権は、一言で述べれば、「文革十年の大災禍論による徹底否定」の立場に立っている。

 1981年、ケ小平系派は、11中総六中全会の「歴史決議」で次のような観点を打ち出した。

「文革はいかなる意義からも革命ではなく、社会的進歩でもなかった。それは何らの建設的な綱領も提起せず、ただ混乱と破壊、後退をもたらしただけであった」。

 「文化大革命は指導者が誤って発動し、反革命集団に利用されて、党と国家および各人民と民族に甚大な災害をもたらした内乱であった」。

 明らかに「勝てば官軍」式勝者の論理の押し付けであるが、以降「歴史決議の文革災禍論」が国是となり、現在この観点が更に深められ、「我々は永遠にいわゆる文化大革命を呪おう」(胡喬木)とまで述べる「文革徹底否定論」へ至っている。現中共党中央政権は、次のような歴史観を披瀝している。
 文革前の17年は正しかったのであり、「走資派」など存在しなかった。
 文革は、「三種類の者たち(「三種人」)」からなる造反派(「林彪派、江青グループ派、殴打・破壊・略奪分子派」)が仕掛け、すべては「四人組」と追随者たちの「内乱」の企てに過ぎなかった。
 文革期間中、中国は大いに混乱し、社会は悲惨であった。 
 概要「社会主義とは詰まるところ生産力の発達である。毛沢東式イデオロギーに執心することなく、生産力上昇をこそ目指すべし」。

 これが、現中共党中央政権つまり体制当局側の共通認識である。日本の「文革礼賛者」たちは沈黙してその総括を放棄したまま今日に至っている。このことは、現中共党中央政権のプロパガンダの一人歩きを許している。ちなみに、日共党中央不破は、この点で現中共党中央と見解を一致させている。

 同時に「10年文革」、「十年浩劫」(「10年の大災禍」)という言い方も定着していく。「文革は1966.5月の『五・一六通知』の採択を前後して始まり、10年後の1976.10月、江青・張春橋グループの失脚により終息した」との見立てである。これは、毛沢東派権力からケ小平派権力への移行過程に符号しており、現中共党中央政権の観点を如実に表わしていることになる。当局側の視点とは必ずしもいえない厳家棋、高?の文革史も端的に「中国文化大革命10年史」となっている(邦訳は「文化大革命十年史(上・下)」、岩波書店、1996)
 劉国凱は、現中共党中央政権つまり体制当局側の文革論に接した時の違和感を次のように述べている。
 「七六年、四人組が失脚したあと葉剣英、華国鋒が、文化革命は現在すでに一〇年やってきた、今その終わりを宣言すると述べたことを覚えている。当時、私はそれを聞いておかしく思った。文化革命は実際にはとっくに終わっていたのではなかったのか? まだこのようにまことしとやかに正式宣告を行なう必要があるとは。しかしその後の発展につれて『一〇年動乱』、『一〇年の災禍』がつぎつぎと登場し、私はあっと気がついた。まず中国共産党の元老たちは隙につけ込んだのだ。つまり毛沢東が文革の終息を正式に宣言していないので、彼らがそれを宣布することができたのである。こうして六六年から七六年、すなわち一〇年文革論の基礎がすえられた。文革一〇年論のでっち上げには中国共産党の元老たち、最高指導部たちの緻密で、精巧な考えがあったのである」(「略評文革造反派」)。

 劉国凱のこの違和感には根拠があるが、れんだいこが思うに、劉国凱の「文化革命は実際にはとっくに終わっていたのではなかったのか?」見解は却って皮相的であるように思える。文革を「毛沢東派権力からケ小平派権力への意向過程」と捉える権力闘争史観の眼があれば、「文革は1966.5月の『五・一六通知』の採択を前後して始まり、10年後の1976.10月、江青・張春橋グループの失脚により終息した」との見立てはその通りではなかろうか。最も闘う者が最も深く見えるということであろう。

 劉国凱は、文革の特質を、従来の「政治運動」と区別される中国共産党の統制から相対的に自立した大衆組織と運動の登場を重視する。その頂点は、1966.8月の「十六条」採択から1968年(ないし69年)ということになるのだが、「文革徹底否定」論がこの見方を「徹底的に」排除していることを批判している。

さらにもう一つ、「10年文革」論は文革の「被害者」たる中国共産党官僚たちの一つのイデオロギー的な命名であるという批判である。劉国凱は、「三年文革与両條綫索」の中で次のように述べている。

 「文革に対して中国共産党官僚たちは彼ら自身の感受の仕方がある。彼らの見るところ、文革は彼らの尊厳と権勢とが厳重に傷つけられた大災禍でしかなかった。文革一〇年説を最初に提出した葉剣英らは元来は毛沢東の粛清の対象ではなかったのだが、文革の大波のなかで彼らの権力と尊厳も攻撃された。社会の下層からの彼らの尊厳への攻撃が彼らに根本的な傷を与えることはできなかったとすれば、毛沢東が支持し厚く信頼している林彪と四人組から与えられた彼らの権勢への攻撃は何度も彼らを危うく深淵にたたき込むところだった。毛沢東が崩御し、四人組が覆滅させられてはじめて彼らの地位、権勢は安定したのである。だから彼らの感じ方は今回の悪夢は彼らを一〇年に渡って苦しめたということになる」。

しかもここには党官僚たちのメンタリティーが絡んでいたとして次のように述べている。

 「上述した直接の感受以外に、中国共産党の官僚たちが文革を一〇年と認定する上でさらに感情と現実上から二重の必要性があった。権勢並びなく、地位高貴な中国共産党の官僚たちは文革三年の間、倍増する恥辱を受け、自己批判を書き、批判に会い、誤りを認め、罪を認め、声は低く元気なく、畏れ入ってびくびくしていた、あの悪夢のような記憶は彼らの心にぬぐい難い陰影を残した。彼らの願いで最も望ましいのは彼らが羞恥してやまない光景を歴史から抹消することである。だがそれは結局不可能である。そこでやむを得ず次善を選んだのだ。少なくともあの現実を歴史上の独立した章節にしないことである。それをその後の七年間と混合し、大は小を呑み込み、溶かしてしまう、まことにいい案ではないか!」。

 王希哲も、「関于翻案文革史論述提綱」の中で次のように述べている。

 「葉剣英は文革を『一〇年の大災禍』という一語で定義した。この『大災禍』の内容は完全に造反派の彼等への造反と『殴打・破壊・略奪』のことであり、彼らおよび彼らの子弟が人民に対して犯した累累たる犯罪、すなわち工作組の暴政、紅八月のテロル、一九六七年の殺戮、一九六八年の大虐殺はまったく『大災禍』などとは見なされていないのだ。

造反派は今に至っても『懺悔』が必要とされるのだが、あれら本物の両手が鮮血にまみれている保党派の殺人犯たちは早くに『第何々世代(の指導層)』として育てられ、すでに大挙して権力を継承しているのだ。こうして歴史は彼らによって書かれるのであり、造反派の案件は彼らによって判決が下される。彼らは勝利者であり、中国の今日の権勢者なのである」。


【「文革史は書き換えられた」考】

文革は、その意義を「文革徹底否定論」で総括する現中共党中央政権つまり体制当局側によって相当に歪められている。「中国共産党の統治の仕方での悪魔的な知恵が働いている。あちこちめて手の込んだ歪曲、偽造が為されている」。

 時田氏は第二論文冒頭で、「文革終息後、勝者たちによってなされた文革史の書き換えほど大規模空前かつ圧倒的に成功を収めた例は世界でも数少ないものであろう。有名な話として華国鋒、葉剣英らによって伝えられた江青・張春橋グループ(「四人組」)に対する毛沢東の言葉がある」と述べ、次のような新史実を明らかにしている。

 「華国鋒、葉剣英らによって伝えられた江青・張春橋グループ(「四人組」)に対する毛沢東の言葉」は明らかに改竄されたとして、次のように述べている。

 意訳概要「華国鋒、葉剣英らは、毛沢東の『(四人組の問題は)今年前半に解決できなかったら後半に解決する。今年解決できなかったら来年に解決する。来年解決できなかったら再来年に解決する』との指示に基づき四人組逮捕に向ったとされているが、この『毛沢東指示』には言論操作が行われている。毛沢東は実際には続いて、『江青たちは劉少奇批判、林彪批判で功績がある。小さな問題を大げさに取り扱うことはない』と述べており、むしろ四人組を擁護する発言をしているのが真相である」。

つまり、華国鋒、葉剣英、裏で糸引くケ小平派は、毛沢東の言説とは反対の事を毛沢東の権威を利用して彼らの意思を貫徹させたということになる。それは、「毛沢東権威の逆手取り行為」であったということになる。

 1976.106日の「江青・張春橋グループの反革命的クーデターの動き一挙粉砕」をめぐる歴史改竄問題もある。范碩の「葉剣英在1976」(中共中央党校出版社、1995)が、葉剣英らの「四人組一挙打倒」へ向けた「特殊な戦闘形態」の動向を詳細に追い、次のような史実を明らかにしている。

 意訳概要「毛沢東死後の政治局会議での紛糾の一幕。晩年の毛沢東の連絡員として力を振るった甥の毛遠新を本来の任地である遼寧省に戻すかどうかで四人組と華国鋒派が対立した。華国鋒は、四人組が喋り疲れるまで我慢して発言しなかった。最後に、江青に『あなたはつまるところ何をしたいのか?』と尋ねた。江青は、『三中全会の政治報告の起草について討論しようということだ』と答えた。張春橋が引き続いて『毛遠新を行かせることはできない。彼は三中全会の報告を準備しなければならない』と述べた」。

 この遣り取りを通じて、江青と張春橋は、ある重要な機密を漏らしたとしている。それは、江青・張春橋グループが三中全会での決着を準備していることを告知したことになり、これは江青・張春橋グループの政治的脇の甘さを示していることになる、と云う。

 つまり、四人組は、華国鋒、葉剣英、裏で糸引くケ小平派を甘く見すぎていたということでもある。江青がこの頃頻りに「盛大な祝日を待て」、「身体を鍛錬しておけ」と指示している。王洪文が国家主席就任のための肖像写真を撮ったとかも漏洩している。つまり、江青・張春橋司令部は、「クーデター」を極秘裏にではなく、祝祭のように華やかに前宣伝をつけて進めようとしていたことが分かる。しかし、動きの刻々を敵方に筒抜けにさせるような戦闘がうまくいった試しは無い。

 
范碩の「葉剣英在1976」は次のように記している。
 「嵐吹きすさぶ一〇月、一触即発の一〇月! この月、中共中央政治局と『四人組』の間の闘争は決戦段階に入った。この局面に臨んで事態は明らかとなった。『四人組』は戦いの準備をすすめ、武装騒乱を実行する配置についた」。

 ということは当然、華国鋒、葉剣英、裏で糸引くケ小平派がそれを見据えていることになる。江青・張春橋司令部の甘さを物語る話である。

【文革総括を廻る対立考その2、「二つの文革論」の登場による官製文革論の否定】
 上記「文革史は書き換えられた」で判明するように、現下のケ小平系中共党中央の文革論はあまりにも勝てば官軍式の得手勝手なものでしかない。そういうこともあって、遂に「二つの文革論」が登場することになる。

 1980年になって、現中共党中央の「恐るべき文革史の書き換え」に対し、これに抗議する「二つの文革論」が生み出されてきた。それは、造反派紅衛兵世代による「官製文革徹底否定論のウソ」を告発する文革総括であった。仮に当局の云う様に毛沢東派の文革が徹頭徹尾謝ったものであったとしても、文革にはもう一つの流れがあった。このもう一つの文革の意義を抹殺することは許されない、と云う。これを仮に「二つの文革論派」とする。「二つの文革論派」は、その後に続く自由主義派の先駆けであり、新左派の産みの親となるものである。

 1990年代初め、湖南省無聯の楊曦光(改名して楊小凱)が、文革にはその社会的根拠があったのだとの主張をしたときそれは集中的な非難に遭ったという。それらが海外中国人社会から始まって、大陸でのインターネット論壇などで一定の共鳴者を見い出し、事態がやや改善されたのは1990年代中頃だというからごく最近の動きということになる。

 楊曦光の履歴は次の通り。1949年生まれの文革紅衛兵世代である。文革の最中を湖南省無聯のイデオローグとして登壇した。1967.1月闘争のあと、「二月逆流」のなかで逮捕され、10年間に及ぶ刑期を終えて出獄後、幼名の楊小凱を復活。北京に闘争経験の交流に赴くなかで「新思潮」にふれている。湖南大学で数学を学び、社会科学院研究員、武漢大学教員をへて、1983年アメリカに留学。プリンストン大学でエコノメトリックス(計量経済学)を専攻、その学問的業績は高く評価されているという。現在はオーストラリアのモナシュ大学の経済学部教授。その獄中記『牛鬼蛇神録』(牛津大学出版社、一九九四)は湖南省無聯の実態についての興味尽きない記述に満ちている。最近彼はカトリックに改宗したという。

 
楊曦光は、
「『中国向何処去?(中国はどこへ行く?)』大字報始末」)の中で次のように回想している。

 概要「私は一九六七年一月革命のなかで都市の市民が共産党当局に示した強烈な不満を思い返し、あらためて文革爆発の原因等を考え出した。文革前、市民が示した共産党幹部への尊敬はすべて偽りであり、大多数の市民は共産党の専横にすでに以前から恨みを抱いているのを知った。私はこの種の社会矛盾は毛沢東の『プロレタリア独裁下の継続革命』や『二つの路線の闘争』理論をもってしては決して解釈できないことに気づいたので、マルクス主義の原著のなかに答えを探し、系統的な社会調査を通して社会の真実の状況を知り、文革中に都市の市民と共産党幹部との間の激烈な衝突をもたらした真の原因を明らかにしようと決心した」。

 楊曦光のこの回想に拠れば、造反派紅衛兵たちの中には当初より毛沢東の文革理論及び路線とは異なる運動を視野に入れていたことになる。

 楊曦光の「中国はどこへ行く?」は、「二つの文革論派」に決定的な影響を与えた文章となった。その後の「再談『文革』」も含めて、文革を次のように総括している。

 概要文革は一貫した『十年文革』ではなく、おおよそ三段階に分けられる。第一段階は中国共産党が共産党組織を通じて政治を粛清した段階であり、おおよそ五・一六通知から一九六六年八月までである。この段階では非官製の大衆組織はすべて非合法あるいは反革命であり、あらゆる批判運動はみな共産党の厳密な統制下におかれていた。

 文化大革命の第二段階はおおよそ一九六六年八月から一九六八年二月の間である。この段階において、中国政治制度に重要な変化があった。その一つは『十六条』が学生は自発的に組織を作っていいと正式に規定したことである。この種の非官製組織は中共党史上ではすべて反革命であった。ある人は『紅衛兵、造反派のイデオロギーはすべて共産党の付属品であり、真の自由結社とは見なしがたい』という。しかし中共党史上、組織が非官製であり、イデオロギーが共産党に接近していた場合、この種の非官製的が蒙った迫害はより厳しいものだった。なぜならこの種の結社が一層危険と見なされたのは、いわゆるトロッキストだからである。

 フランス大革命同様、自由な結社と革命は一たび発生するや、それは急進的方向に不断に分化し、軍事的強者が暴力をもって秩序を回復するまで突き進んでしまうことになる。こうした点からいえば、一九六六年八月から一九六八年に至る文化革命は政治学でいうところの革命であった。その特徴はそれまでの社会秩序は完全に崩壊し、それまでの政府と共産党は潰され、社会は半ば無政府状態となった。政治は軍隊にあり、各政治党派の間で弄ばれた。共産党の政治統制は半ば崩壊し(軍隊を除き)自由な思想は自ずから自由な結社から発展した。

 楊曦光は、当局お仕着せの「十年文革論」に抗するかのように「文革三段階論」を述べ、「もう一つの文革」の流れに注目し、「文革コミューン革命論」的流れのものが初期の段階に萌芽的にあったとして、その意義見直しを提起した。同書は、この観点から、周恩来をも含めて根底的かつブリリアントな批判を展開している。但し、付言すれば、楊曦光はその後、「コミューン革命論の放棄」さらには「革命そのものの否定」へと思想転回させている。しかし、中国の民主化問題、中国共産党の「10年文革論のごまかし」については今日なお批判の発言を続けている。

 「二つの文革論派」は、楊曦光をはじめ、「李一哲大字報」の王希哲、広州「旗」派の劉国凱、紅衛兵組織発足の地、精華大学付属中学出身で作家の鄭義らが列なっている。いずれもかっての造反派紅衛兵の指導者たちであり、自らの経験に照らして官製文革史記述を批判し始めたことになる。

 
鄭義の履歴は次の通り。1947年生まれ。紅衛兵組織発祥の地、精華大学付属中学の「出身不好」の造反派紅衛兵。のちに作家。「二つの文革」論を提起した『歴史的一部分』、広西チワン自治区での武闘と「食人事件」を扱った『紅色記念碑』を書く。1989年の天安門事件後、難を避けて中国各地を流浪。一九九三年、妻北明と共に香港経由でアメリカに亡命。

 鄭義は明確に、「文革には第一の文革(毛沢東の文革)と第二の文革(人民の文革)があった。第二の文革は人民の血の海の中から胎動した」と述べている。更に、概要「『血の海』はむしろ、文革初期を支配した劉少奇、ケ小平らの『工作組』と、その後の高級幹部子弟の『老紅衛兵』たちによって生み出されたものであった」と述べている。

 鄭義は、「工作組」と「老紅衛兵」の支配を打ち砕いた毛沢東と中央文革による「ブルジョア反動路線批判」の提起を支持している。この時の「解放感」を最大限の言葉で語っている。一方、鄭義の「毛沢東の文革」評価はほぼ全否定である。これらはどういう関係になっているのか? 鄭義は「二つの文革」に連携があったとすれば、それは「相互利用」の関係だったからだという。

 鄭義は、「両个文化大革命??」の中で次のように述べている。
 「現在、中国内外の学術界では、毛沢東が文革を発動したのは人民を利用して政敵を粛清したものだという点についてはすでに共通認識となっている。毛沢東は崇高な革命的理想の解釈に酔っていたのだと考えることは明らかに浅薄であり無邪気にすぎよう。しかし文革の民主的要素、すなわち第二の文革についてはなお認識不足である。このことはきわめて重要である。文革において打撃を受けたあとまた官職に復活した人々はみな非常な悪意をもって第一の文革を攻撃しており、文革を朱元璋が功臣を殺した狂気のように描いている。以来、彼らは自覚的に無自覚的にか、文革のなかで民衆が彼らに対して示した正義に満ちた憤怒、彼らが作り出し、維持している制度に対する民主の追求を覆い隠し、自分は不正義な暴君による無辜の被害者のように扮している。彼らの口に上る『文革徹底否定』の『徹底』はおおむねはまさしくあの人民の文革を指しているのである」
 「八〇年代後期、月刊『作家』に発表した一つの文章のなかで私は明確に『二つの文革』についての分析を提起した。第一の文革は毛沢東の文革であり、これは大衆運動が共産党の権力構造を押し潰すのを利用して、政敵を打倒し奪われた権力を奪回する上層部の権力闘争であった。第二の文革は人民の文革であり、皇帝を利用して腐敗した役人を打倒するものであり、自覚的ではないにせよ民主的色彩を帯びた人民蜂起であった」。

 
劉国凱の履歴は次の通り。1945年生まれ。革期、親族に国民党上層部関係者がいたので「出身不好」の、広州「旗」派の活動家。文革渦中の1971年、今日なお高く評価される「文化革命簡析」を執筆。劉国凱がその執筆を考えたのは1968年の毛沢東による造反派大鎮圧の後だったという。「私はあの時、この政権は完全に人民を鎮圧する権力であり、あらゆる活動空間はすべて扼殺されたと思い、心の中で理論的にこの政権を徹底的に分析しようと考え、資料の収集を始め、1971年ひそかに『文化革命簡析』を執筆した」と述べている。1989年、アメリカに移住。

 
劉国凱は、「楊曦光の「中国はどこへ行く?」の精神をまともに引継ぎ、自らの経験をふまえた文革研究のなかに最も生かしており、文革についての該博な知識、その筆致、論旨の明快さが「二つの文革論」文献として必読のものとさせている。

 劉国凱は、「文革には『人民の道筋』と『当局側の道筋』があった」として次のように述べている。
 「中国共産党が中国大陸を統治して四〇数年、それがある程度成功したなどとするとすれば、それは文革造反派を邪悪なものに描き出したことが最も得意な傑作の一つと数えられるだろう」(「略評文革造反派」)。
 「文化大革命というこの政治運動はその独特な、これまでの各運動と区別される特徴を持っていた。この特徴の存在と消失がすなわちその始まりと終わりを明らかにする。四九年に大陸で権力を握って以降、中共は多くの政治運動を行なってきた。三反、五反、鎮反、粛反、反右、四清、一打三反、清除精神汚染、反自由化等々である。文化大革命とこれらの政治運動を比較したとき、その特徴が明らかで分かり易くなる。

 その特徴の一つは他の政治運動は矛先が下に向けられ、民衆を苦しめるものであった。反右派闘争では党員幹部が災難に遭ったが、その数は少なく、主流の現象ではなかった。四清では幹部が痛めつけられたとはいえそれは末端の幹部たちだった。だが文化大革命では矛先は下に向けられると共に上にも向けられ、それは省・市の指導的ないし中央の上層幹部を対象にした。

 特徴の第二は他の政治運動では、中共上層では認識を統一し、歩調を共にしていたが、文化大革命の間、中共の上層は深刻な分岐ないし分裂を起こしていた。

 特徴の第三は他の政治運動では中共の各級の党組織はきわめて効率よく回転し、運動の指導権をしっかりと握っていた。だが文革期間、中共の地方の各級および各単位の党組織は等しく麻痺ないし半麻痺状態となっていた。

 特徴の第四は文革期間、民衆は空前絶後、多くの組織を成立させている。これらの組織は自主的に集会、デモ、言論、出版等の民主的権利を行使した。中共政権は最後の関門を除いてこれらの組織を制御する力を失っていた。

 これら四つの特徴は六六年初夏から続々と出現し、最も典型的には六七年から六八年早春まで示された。そして六八年初夏から始まり、六九年の中共『第九回大会』に至って終わりを告げたのである。

 文化大革命の四つの特徴に注意し、またその基本的史実を全面的に了解するならば、文化大革命には二つの道筋、すなわち当局側の道筋と人民の道筋があったことを容易に見て取ることができる」(「三年文革与両條綫索」)。

 以上の把握の上に立って、劉国凱は、王希哲、鄭義ら他の論者たちの見解への自分の意見を述べている。

 「私の主要な観点は文革中には人民の道筋があったということである。この道筋は最初の三年間に出現し、その後は存在しなかった。李一哲は文革一〇年説を堅持している。彼らの一九七四年の闘争もまた文革のなかの『人民の闘争』だったとしている。しかしこれは適切ではない。なぜならそれは全国に影響を与えたとはいえ局部的な活動だったからである」(亜衣「草根階層的社会民主主義者――訪『紐約華人譴責印尼虐華暴行連合総会』事務組召集人劉国凱」)。
 「私は『人民の文革』という言い方には賛同しない。この言い方は私の考えに接近しているかも知れないが、しかし『二つの文革』という提起の仕方は厳密ではない。私がいうところの『人民の道筋』と『当局側の道筋』は、ある時には分かれ、ある時には接近し、ある時には混合するのだが、仔細に見ると赤と黒に分けられるのである」。
 「中央文革メンバーがパリ・コミューンの原則を称揚したのは僅かに一九六七年初めの短い期間であり、まして中央文革の少壮グループ――王力、関鋒、戚本禹は文革中期、すでに粛清されたのである」。

 つまり、劉国凱は、鄭義の云うが如く文革を「人民の文革」と「毛沢東の文革」という風にはっきり分けることに疑問を提起している。相互の関係はもっと複雑だという。

 時田氏は、次のように述べている。

 「だが、文革の頂点の時期を『新思潮』と同一視する見方、すなわち『二年(ないし三年)文革』期の毛沢東、中央文革と造反派の思想と活動における同質性という把握は拒否している。のちに見る粛喜東の政治連盟論を受け入れていないわけである」。

 王希哲の履歴は次の通り。1948年生まれ。「李一哲大字報」執筆者。文革終息後、北京の春(民主の壁)で活動し、1981.4月、「反革命罪」で逮捕、懲役14年。1995年に満期釈放。天安門事件七周年を控えた1996.5.31日、身柄拘束、6.15日、釈放。1996.10月、香港経由でアメリカに亡命、民主化運動に参加。

 王希哲は、「人民の文革には潜在的な発生過程があった」として次のように述べている。

 「『二つの文革』の観点は私が一九八〇年に正式に提出したものであり、一九七四年の民主と法制に関する文章〔「李一哲大字報」〕のなかにこの種の視点の萌芽はあった。私が出獄した後、最初に『開放』誌上で劉賓雁先生が鄭義が『二つの文革』理論を提起したと述べているのを見たとき私はきわめて怪訝に思った。昨日、鄭義先生に会ったとき尋ねたら、われわれは『期せずして同じ』だったのですねと言っていた。彼もまた楊曦光に啓発されて一九八八年にこの観点を提起したのだが、それは私に遅れること八年であった」(亜衣「為了国家和民族的尊厳――訪中国民運的先駆者王希哲」。
 「しかし私と楊曦光の同じでない点は、彼は官僚階級の体系を打ち砕くにはパリ・コミューン原則をさらに左に実行すべきであり、だから周恩来を打倒しなければならないというのである。われわれは官僚体制に反対し、現代西欧の民主と法制を実行しなければならず、『右』に向かい、民主を拡大する方向へ向かったのである」。
 「人民の文革には潜在的な発生過程があった。一九六九年の中共『九回大会』の前では『人民の文革』と『毛沢東の文革』とを分けることはきわめて難しいことであった。『九回大会』以後次第に区分できるようになったのである。『九回大会』の後、中国共産党は民衆を全面的に圧迫しこうして『人民の文革』が始まったのであり、初めは純経済的な性質のものであった。当然このような言い方は実際的にはあまり正確ではない。というのは文革そのものはやはり共産党のものであり、人民はただこのスローガンを借りたのである。一つ正確にいえるのはこれが文革の中での人民自身の政治的反抗だったということである。問題は共産党がこれらすべてを文革だといい、一旦文革を否定するや人民自身の反抗をも道ずれに否定し去ったことである」。
 「上山下郷への反対を含め、復員・退役軍人の経済的利益をかち取る運動、労働運動等々は、もはや毛沢東の利益のためのものではなく、人民自身の利益から出発した政治運動だった。当然その表現の仕方は毛沢東を擁護するというものであり、共産党的なものだった。これは胎児が母親の懐で育つように、一つの過程なのであり、さもなければのちの七九年、八九年の民主化運動がその元、源がないままなされたということになる」。

 劉国凱は当初、王希哲の「李一哲大字報」に接したとき、「右派」的に感じたという。なにしろそこでは「コミューン革命」は語られず、「赤色ブルジョアジー」批判もなく、副題は「社会主義の民主と法制」だったのである。王希哲自身、自分は楊曦光と異なり、当時の文革に「右」として対したと述べている。しかし「李一哲大字報」には紅衛兵世代の明らかな政治思想の成熟があった。

 これら「二つの文革論派」の特徴は、概要「
文革には二つの文革、すなわち『毛沢東の文革』と『人民の文革』があったのであり、『相互利用関係にあった』。これは同一のものではなく、前者の誤りをもって後者まで否定するのは誤りだ。人民の文革は1966.6月〜68年秋の2年間(ないし〜69年春の3年間)だったに過ぎない。しかし、自分らの活動こそ今日の民主化運動の先駆だった」と立論したことに認められる。

 れんだいこ史観から見てこの立論には深い意味があると思われるが、当局の「文革徹底否観点からの10年文革論は誤り」とする見解には首肯し難い。れんだいこは、「人民の文革は1966年〜68年の2年間(ないし〜69年の2年間)だったに過ぎない」の視点を踏まえつつ、権力闘争史観から見れば「10年文革論」は実にその通りと思う。


【補足、「二つの文革論派」のもう一つ功績、「文革初期の紅衛兵たちの蛮行批判の批判」】

 「二つの文革論派」の重要な功績に、「伝聞されている文革初期になされた紅衛兵たちの蛮行」の見直しが挙げられる。現下のケ小平系中共党中央文革論のウソとして告発している。文革経過への歪曲、とりわけ文革のすべての「悪」を造反派紅衛兵の仕業とし、その活動を全否定した当局の総括の仕方は容認できることではない、と立論している。

 宋永毅の「文革中的暴力与大屠殺」は、次のように述べている。

 意訳概要「たとえば文革初期になされた紅衛兵たちの蛮行として名高い『紅八月』の赤色テロルや『破四旧』、家宅捜索、等は実は高幹子弟の『老紅衛兵』たち、今日、中国の権力中枢と社会の要所を占めている太子党の前身たちの仕業だった。

 文革記録には多くの『家破人亡』(一家が悲惨な目に遭う)、『含冤而死』(冤罪で死ぬ)、『含恨而去』(恨みを抱いて死ぬ)光景が描かれている。世に伝えられたそれらの哀切な記録は、ふと考えればそのほとんどが走資派たち、高級幹部や高級知識人たちのものだった。実際に文革のなかで真に弾圧に晒されたのは造反派だった。

 取り上げるに値する史実は、全国的に有名な大虐殺事件で殺されたのは、いわゆる『黒五類』(「地、富、反、壊、右」すなわち「地主、富農、反革命分子、悪人、右派分子」のこと)を除けば、大多数は文革のなかでの造反派だった。たとえば広西チワン自治区で一九六八年に殺された十一万人の無実の者たちはほとんど造反派だった。湖南省道縣で殺されたのは、その一部は『黒五類』とその家族だったが、その他の大部分は大衆組織『湘江風雷』に参加した造反派だった」。

 劉国凱の「致YQY先生的信」も次のように述べている。
 「当然それらは公認文革史には記されることもない。たとえば広西の場合などは「広西の大虐殺はあのように酷かったのだがのちに北京人の鄭義が書いた以外に、広西人自身が書いていない。なぜか? 広西造反派は抹殺され尽したからである、という有様だったのである」。

 楊小凱の「再談『文革』」も次のように述べている。
 「中共の歴史についていえば、老紅衛兵の殴打・破壊・略奪、道縣の大虐殺、広西大虐殺はみな共産党の土地改革での大虐殺と一脈相通じるものである。文革中、造反派にも暴力行為があった。だがこの暴力行為は一つには分散的、かつ非組織的なものであり、二つにはその多くは恨みごとへの仕返し、冤罪に対して冤罪で報いるというものであり、三つ目としてそれは共産党的のあのように非人道的極まる系統的な暴力ではなかった。そして今日、当局の宣伝の中では文革での暴力はみな造反派の罪業となり、保守派の個々人は出世し、正しい路線の代表者となったのである」。

【時田氏の「二つの文革論派」考】
 時田氏は次のように述べている。
 さて、以上の「二つの文革」論の提起は「文革徹底否定」論の支配をくつがえし、文革を新たにとらえ返す上で大きな意義を持ったといえよう。だが「二つの文革」論の主張は主張者たちに新たな困難さを課すことになった。「毛沢東の文革」への批判を深化させるとき、それは「人民の文革」そのものの内実を問うものとなるからである。

それは「人民の文革」もただちに激烈な内部対立に陥ち込んだというにとどまらず、「毛沢東の文革」を「政敵粛清」、「権力闘争」などという一面的把握を越えて真に批判しようとしたとき立ち現れる問題である。

 「二つの文革」論者たちは「毛沢東の文革」は権力闘争だったが、「人民の文革」は社会的矛盾を受けた変革運動だったとする。

 文革がそういう「二つの文革」的要素を持っていたのは確かだが、難しいのはそれら相互の関係をどうつかむかということである。双方がまったく同質ならそもそもこの課題は生じないわけであり、また双方がまったく異質ならその関係の評価に難しいことはない。

実際には「毛沢東の文革」もまた中国社会主義がはらんだ社会的矛盾に突き動かされていたのであり、だからこそ造反派もそれに鼓舞され、それは「人民の文革」を生み出す母胎、媒介たりえたのであった。双方の関係はまったく異質なものの外的関係(「相互利用」等の)ということではなかった。

劉国凱が「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」(「略評文革造反派」)というとき、それはその時期での毛沢東、中央文革の路線と切り離すことはできないものだからである。しかしそこには相互に反発し合う要素も濃厚にはらまれており、とりわけ「毛沢東の文革」には「人民の文革」的なものへの本能的な警戒と抑圧への衝動が当初からあった。

両者は「二年(ないし三年)文革」の一時期、すなわち文革期での毛沢東、中央文革の活動の内容的な頂点で一瞬融合したと見るべきなのだろう。しかし総体としての文革はそれがはらんでいた諸問題とそれが生み出した反動によって失敗し、「ケ小平の反文革」路線の制圧を許したのである。

 こう立てると問題はただちに「人民の文革」論にはね返ることになる。すなわちそれは「毛沢東の文革」が失敗した問題をどう認識し、どう克服しえたのか、と。

 そしてここでさらに困難な問題が生じる。それは「毛沢東の文革」の失敗は毛沢東と江青・張春橋グループの誤りの結果というだけでなく、革命そのものの問題性に由来するものでもあるという認識の登場である。「人民の文革」論がこの「告別革命」論にどう立ち向かうかが問われることになる。


【補足、「二つの文革論」批判の潮流考】
 「二つの文革論派の文革論」は、自由主義派と新左派から乗り越えられていくことになる。自由主義派は、二つの文革論派の云うような「二つの文革論」という形での文革評価を認めず、一方、新左派は、二つの文革論派の「毛沢東の文革批判」に疑義を提起した。

 ここでは四人の代表的論者を取り上げる。まず中共中央党校の金春明、つぎに社会科学院の徐友漁、そして在米「新左派」粛喜東、最後に在米中国人インターネット論壇の芦笛である。
「文革徹底否定論」、「二つの文革論」、「文革二年(ないし三年)説」を批判した個所だけ取り上げる。

 金春明の履歴は次の通り1932年生まれ。中国共産党中央党校マルクス主義研究所副所長、教授。文革初期の1966年、金春明は「学術権威」として批判され、1969年「五七幹校」に下放。「文革徹底否定」の代表的なイデオローグであり、「文化大革命論析」(上海人民出版社、1985)、「文化大革命史稿」(四川人民出版社、1995)、席宣との共著「文化大革命小史」(邦訳、中央公論社、1998)等で知られる。

 金春明は、「共産党に反抗した造反派組織は一つたりともなかった」として、「二つの文革論」について二つの点から批判している。
(「訪金春明:「文革起因十説」、「両个文革説与文化大革命的定性研究」)。

 「第一は文革は『革命』でも何でもなく、あくまで中国共産党が一九四九年以降くり返してきた『政治運動』の特殊形態であること、第二に思想的、組織的、実践的にこの枠を越え出た造反派組織は一つたりとも存在しなかったのであり、『二つの文革』論者の主張は捏造である」。
 「『文革』の結果からいえば〔『歴史決議』の〕この結論は正確である。ただし学術問題としてはやはり掘り下げることができよう。なぜなら『内乱』という言葉は中性詞であり、革命も内乱だし、反革命も内乱であって、内乱そのものは文革の特徴点を示すものではない。私個人は文革をこう定義している、すなわちそれは特定の歴史的条件のもとで発生した特殊で大規模な政治運動である」。

このように金春明は文革に格別な要素など一切認めず、中国共産党の歴代の「政治運動」の一特殊形態としてとらえ返すべきだという。

それでは「建国以来これまで毎回の政治運動」とはどのような性格のものだったのか。金春明はそれをつぎのように規定している。

 概要「すべて権力を握っている共産党がアッピールを出し、発動したものであり、運動の方針と目標はすべて上で決めたものである。大衆は一般に党の呼びかけに応じ、組織的に運動に参加し、ある程度の自主性があるにせよ、一般に指導部が決めた範囲を越えることはできないものであった」。
 概要「共産党の行なう政治運動の特質は上から下への結合であり、広大な大衆を動員して参加させるものであった」。
 「百万、千万の人々が参加する一つの政治運動はそれが同一のスローガン、語録を掲げていたとしても、それに参加した者たちの動機や要求、運動スタイルは千差万別だが、しかしそれらのことによって『運動の性質を決定したり、改変することはすべて不可能であった」。

要するに、文革は、毛沢東派の政治主義的文革運動でしかなく、紅衛兵運動はその枠内に組み敷かれていたと云う。そこには次のような7点の「特殊性」があったという。

 「@、それは党の最高指導者が自ら発動したものである。A、それはプロレタリア独裁下の継続革命理論を指導方針としていること。B、それは特殊で神聖な使命、たとえば『反帝反修』をスローガンとしていたこと。C、それは特殊な革命対象――『走資派』および『反動学術権威』を持っていたこと。D、それは特殊な内容――党の政財文の大権を奪うこと。Eそれは特殊な方式――四大(大鳴、大放、大字報、大弁論)を用いたこと。F、歴史に例のない規模となったこと、このような七点が造り出したのがすなわち内乱であった。多くの人が私の観点に賛成している」。

金春明の主張は、「二つの文革」論者たちが強調する「大衆運動」の独自性なるものは存在しなかったのだということの論証に費やされている。

 「だが私が個人的に接触し了解した状況からいえば、『文革』期間に公開で発表された各造反組織の成立宣言あるいは綱領のなかで『共産党の暴政に反抗する』ことを目的とした大衆組織を確実にまだ発見できていない」。
 「『文化大革命』中の大衆組織は各派が林立し、その数は数え切れない程多かったといえる。しかし毛主席を支持せず、文化大革命に不賛成で、共産党と社会主義制度を打ち倒すとする公開声明やそういう綱領、要求を探しても、一つとしてなかったと言えるだろう」。
 「彼らは『旧世界を粉々に粉砕する』、『真紅の新世界を建設する』と叫びもしたが、造反の対象は中国共産党、そして社会主義制度でもなく、いわゆる『党内走資派』と『反革命的修正主義路線』であった。造反の目的は政権の交代でもなく、国家権力の転覆と共産党の打倒でもなく、『プロレタリア独裁の強化』、『赤い祖国が永遠に変わらないよう守る』というものであった」。
 「以上のことが、『文化大革命』中の造反派が、論調がきわめて高く、規模が広大であり、口調が猛々しく、代償がいかに大きかったとしても、その到達目標は極めて限られたものでしかないことを決定づけた。『文化大革命』中の名が知れ渡り、きわめて活動的な『赫々たる左派組織』も、偉大な指導者が決めた範囲内の活動が許されるだけで、それを一歩も越えることはできなかったのである」。
 「共産党の指導を打ち倒し、社会主義制度を変えることを目標とした造反派組織が一つもなかったというのか? 中国の広大なること、当時の大衆組織の名目の雑多さ、形式の雑然さ、今に至るも十分緻密な調査と系統的な深い研究が欠けていることの故に、私は絶対的な結論を出そうとは思わない。だが私が個人的に接触し調査した状況からいえば、『文革』期間に公開で発表された各造反派組織の成立宣言あるいは綱領の中で『共産党の暴政に反抗する』ことを目標とした大衆組織は確実に見つからなかった。この基本的事実を無視して、『文革』時期に発生したある個別的事例を主観に任せて誇大化し、さらには個々の『史実』を捏造し、すでに共通認識となっている『文化大革命』の性質についての正しい結論を変えようとすることは、億万の『文革』を自ら経験した人々に受け入れられることは不可能であり、徒労なだけである」。

金春明の結論はこうである。

 「『文化大革命』はただ一つであり、それは中国共産党の最高指導者である毛沢東が自ら発動し指導し、億万の大衆が参加した、一〇年の長きにわたる特殊な大衆運動である。これが第一。

 『文化大革命』に参加した億万の大衆は、その動機は異なり行動は千差万別であったが、総体的に見れば毛沢東が策定した枠を超え出るものではなく、毛沢東の理論、方針以外のどんな独立した政治的綱領と異なる目標をも公開で明確に提出した人はいなかった。これが第二。

 広大な幹部と大衆のなかに『文化大革命』への不満、反抗と闘争が終始存在したことは争えない事実である。これらの反抗と闘争は『四人組』の粉砕、『文化大革命』の終息、その後の『文化大革命』の徹底否定にとって広汎かつ深い大衆的基礎と思想的基礎を築いた。これらの抗争は効果が顕著だったのであり、その功を否定できず、認めなければならない。だがこの抗争といわゆる『暴政』への反抗とは性格が別のものである。この反抗と闘争は本質からいえば、党内の正しい路線と誤った路線との闘争であり、マルクス主義を堅持して『左』傾の誤りに反対する闘争である。闘争の目的はまさに共産党の指導を堅持し、社会主義制度を強固にすることであった」。

 つまり、ケ小平路線賛美の立場からの毛沢東式文革路線否定理論であることが判明する。

徐友漁の履歴は次の通り。1947年生まれ。四川省造反派の指導的メンバーの一人であり、大武闘をくぐっている。現在は中国社科院哲学所研究?であり、「新左派」と論争中の「自由主義」の代表的イデオローグの一人。かっての造反派活動家百余人からの聞き取り含む『形形色色的造反――紅衛兵精神素質的形成及演変』(中文大学出版社、1999)等の著書がある。

 徐友漁は、「人民の覚醒は文革の結果だった」として次のように述べている。

概要「ある意味ではわれわれは『文革』に感謝すべきだろう。それはわれわれを幻想の中から目覚めさせたのだ。『文革』は一切を変えたのであり、私は真の人間となった。だからといって私は『文革』を決して褒め称えたりしない。失敗と痛苦は人に教訓をあたえるが、だからといって失敗と痛苦そのものは称賛に値しないのだから」。(「総括和反思)

徐友漁は、かっての造反派世代のなかで毛沢東と文革の評価に最も厳しい。「異端派」の文章にも遇羅克らごく少数を除いて採るべきものは何もない、と言ってのけ、唯一の「成果」は文革と毛沢東思想を対象化し、批判できる自由な諸個人を生み出したことだという。彼にとって「新左派」たちの文革ノスタルジーなど児戯に等しいものでしかない。

「二つの文革」論を認めない徐友漁も、その前提となる「社会的衝突」論については高く評価しており、彼の紅衛兵運動分析もそれを基礎としている。「様々な造反――紅衛兵精神素質の形成と変遷」(中文大学出版社、1999)の中で次のように述べている。

「私の見るところ社会的衝突論には以下の明らかな優位点がある。第一、それは当局の文革についての神話を打ち砕き、文革の真相を追求した。その神話とは文革中に文革派が作り出したものであれ、文革後に反文革派が生み出したものであれ、政治に服務するというイデオロギーであった。

第二、それは文革中の紅衛兵とその他の大衆の行為を説明することに力を注いでいる。大衆が異なる派閥に分裂した事実を正視し、運動に身を投じた大衆を各自の利益を持った主体と見なし、文革中の億万の人々の情熱、相互の争い、および人々の思想が文革の発展につれて変化し、そのことが文革発動者の予期しない結果をもたらしたこと、等々である。

第三、それは文革爆発前の社会状態と社会構造を示すことに力を注いだが、それは文革中ないし今日の中国の多くの重大な社会問題の理解にとって重要なことである。

 これらの理論は種々の長所があるにもかかわらず、しかしそれは文革の説明にとって依然として多くの誤りないし不正確さがあると私は考えている。そのことを以下簡単に分析してみよう」。

 徐友漁は、陳佩華、楊曦光という代表的な論者の見解を取り上げて反論している。彼らはこう主張していた。

 「六六年から六八年の文革は反官僚運動だった」。「文革が始まったばかりの頃、造反派は圧迫から解放されて自分のスローガンで立ち上がった。最初一年間は中央文革小組に操作された後、彼らはすぐさま発展して自己の政治計画を持った独立勢力となった」。(陳佩華)
 「文革中に積極的に造反した人は皆市民の中で共産党に不満を持っている人だった」。(楊曦光)

 徐友漁はここでいわれている造反派勢力の「独立」性、「反共産党」性に異議を唱えている。徐友漁にとってそれらのことは文革をへて、文革をくぐることによって、事後的に初めて可能となったのであり、文革を美化することなくそれをはっきり否定しなければならないのである。

 「王希哲の『人民の文革』の理解はこうであった。『毛沢東は国民経済体系の中に独立した利益を持たない多くの青年学生を騙し、煽動して造反に立ち上がらせ、「紅衛兵」ファッシスト運動を発動した。しかし運動の発展につれて、人民は毛沢東の追求する目標と中国人民の根本的利益は相容れないことを認識するに到り、ついに毛沢東の政策を否定しそれに反抗した』。だが厳格にいえば、王希哲の主張は社会的衝突論とは一致しないのであり、それはある意味では『一つの文革』論である。なぜなら人民の覚醒と抗争は毛沢東のあの文革への反応なのであって、それら二つは並存関係ではなく因果関係だったからである。私は王希哲の青年学生は独立した利益を持たないという見方には同意しない。また文革のなかで遇羅克、楊曦光などごく少数の先知先覚者がきわめて早くに人民の利益はどこにあり、官僚の利益は何なのかを見抜いていたことを認める。そうではあるがしかし私は『二つの文革』論の観点を無条件に受け入れようとは思わない。なぜなら文革に巻き込まれた大多数の大衆(とりわけ紅衛兵)についていえば、自分らの正当な利益を意識するに到ったのは騙され利用された後だったのであり、彼らが目覚め悟ったときすでに『人民の文革』に従事するどんな機会もなかったのである」。

  粛喜東の履歴は次の通り。「社会学者(香港)」、「中国人留学生」、「在米中国人左派」等の断片的な経歴が出てくるが、詳細な経歴は分からず。1960年代〜70年代の世界的な運動の高揚と後退のなかに文革の運命を位置づけ、日本のベトナム反戦闘争、三里塚闘争にも言及しているところをみると、香港で育った若い世代なのだろうか。民族主義的毛沢東主義者のようだが、その論旨展開は現代的水準を示しており、示唆される諸点がある。

 粛喜東は、粛喜東は「二つの文革」論について人の意表をつく指摘をしている。それは「二つの文革」論は当局の「文革徹底否定」論と時を同じくして形成されたものであり、それへの妥協、譲歩であるという。「造反派と毛沢東、中央文革小組とは『政治連盟』の関係にあった」として次のように述べている。

「『二つの文革』の観点は現在、文革に自ら参加した、とりわけ造反派左派の人たちの間で流行している。しかしこの観点が文革の清算、保守復旧の風潮の影響と圧力のもとで、造反経歴を持つ人が心理上当局の『徹底否定』の観点に譲歩、妥協した結果であった」。(「『両个文革』、或一个文革?」
 「しかしそれは主流の観点の影響を深く受けており、ある意味では主流の観点との妥協であった。実際上、主流の観点の形成過程は『二つの文革』論の形成過程であった」。

つまり「人民の文革」の抽出により文革を救出しようとしたそれは、「毛沢東の文革」の否定を代償にしており、その点で「文革徹底否定」論への追従になっているというのである。 その上で粛喜東は「二つの文革」論の意義から出発する。

 粛喜東は、もう一つの文革には「大衆造反運動の意義」が認められるとして、次のように述べている。

「『二つの文革』論での、文革中の大衆運動が備えた民主を争い、迫害に抗する性質への評価はこの文章で基本的に正確だと認めている。この分野でなされた『二つの文革』論による一元化された『徹底否定』という主流の観点への妥当な批判と訂正は優れたものである。実際、きわめて遺憾なことに現存の歴史的著作であれ文学作品であれ、文革大衆運動のこの重大な内容にふれ、それについて語ることは極めて少ないのだ。この『二つの文革』論と『徹底否定』という当局の一元化された観点を比較したとき、エリート以外の大衆と大衆の政治に着目したことは肯定に値するものと見なすべきである」。

粛喜東も文革は「一〇年文革」ではなく、「本物の史上前例のない事件としての文革運動は一九六六年八月から一九六八年八月の二年間」と見るべきだという。

「その根本的理由は、政治行動の方式がただ六六年八月から六八年八月の時期に文革固有の性質と特徴点、すなわち社会主義制度下での大民主の実験の全面的展開が行なわれ、人民大衆が結社、集会、出版、言論と四大自由を十分に持ち、左翼急進的な革命イデオロギーが人民大衆の手中の武器となり、もはや空っぽの教条、官僚の手中の道具となることはなかったのである。六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」。

粛喜東が文革の起点を一九六六年八月としているのは、その月、「十六条」が公布されたのであり、世に「文革綱領」といわれる「五・一六通知」は文革固有の政治行動の特質にまだ合致していないとする見方からである。

「二つの文革」論者たちがその「二年(あるいは三年)文革」説を、その時期での大衆運動と組織の自立性にその根拠を置いているのに比べ、粛喜東の特徴はその時期での毛沢東、中央文革の指導方式、「政治運動の操作方式」の新しさに着目してことである。

粛喜東は、以上の評価の上に立って、しかしここから「二つの文革」論への批判が始まっていく。毛沢東文革論と大衆造反運動の切断」に目を向ける。

「だがそれは毛沢東の『造反有理』の思想と文革での大衆の造反運動を引き裂いてしまい、また中央での二つの司令部の闘争と社会のなかでの造反派と保皇派の闘争との間にはその脈絡がはっきりした連盟と対立の関係があることを認めようとしない」。

 「『二つの文革』の観点から見るとき、中央の闘争と大衆運動の発展はただ時間的に重なっただけであって、イデオロギー上の一致はなく、ただ利用、被利用の関係があり、政治連盟的関係を認めない」。

 「『二つの文革』論は文革のその他の側面について、とりわけエリートの闘争およびエリートと大衆との関係の問題では主流の観点とその程度は異なっても一致している」。

その結果、「二つの文革」論は文革期の幾つかの顕著な現実を説明できないという。それは文革後期(原語「後文革時期」)をどう見るかに関連する問題である。

 「『二つの文革』論の最も主要な根拠は、毛沢東の文革理論と文革期間に大衆のなかに自発的に生み出された官僚に造反する思想理念とは性質がまったく別だという認識である。多くの人々の思考パターンのなかでは毛沢東は『極左』思想を集めて大成した人であって、真の民主的思想を持ちえていないのである。他方、一時期、大衆の手中の強大な武器となった大民主、集会・結社・言論の自由等も『極左』の『社会主義新段階』といかなる必然的連繋も不可能だとされる。この二つの仮定を根拠に毛沢東は文革中の大衆運動を利用したのであり、その目的はただ上層グループ内の政敵を打倒するためであったと推論している。しかしこの種の推論は文革の経過および文革後期での一系列の事実の発展には符合していない」。

「『二つの文革』論が説明しようがないもう一つの歴史的事実は文革後期での毛沢東はそれによって文革を発動し、文革中に造反派を支持したあれらの理論を決して取り下げていないことである。この時期、毛沢東はさらに確信を深めて修正主義に反対しなければならないことを強調し、当時の中国が多くの分野で『解放前と変わらない』と認識しており、反官僚、反特権を強調している。毛沢東が文革後期に提唱した『反潮流』の精神は『造反有理』の再版であることは歴然としていた。

 仮に『権力闘争』的言い方で、単に『文革の成果を擁護』し、打倒された『政敵』の復活を防止するという角度から出発するなら、社会主義になお存在する『暗黒面』、『修正主義に変色する危険性』をくり返し強調する必要はなく、さらに『反潮流』である必要はないからである。唯一の合理的解釈は、文革中はもちろん文革後期でも、毛沢東は『継続革命、不断革命』の高度な理論次元で問題を考察していたのであり、政敵を打倒し、自分の名誉を維持するという低次元からではなかったということである」。

ここで注目すべき粛喜東の「政治連盟」論が登場する。

「六六年六月から八月のあいだ、〔……〕中央文革がすでに全国の学園に広がった反工作組の学生運動をくり返し支持したあと、造反した学生たちは精神的、理念的に中央文革を認め、支持したのである。そして各地の造反派の中央文革への賛同は今度は中央文革の地位を強化した。この連携は政治的取引、あるいは政治操作によって作られたのではなく、政治的観点の基本的一致の上に築かれたものであり、一種の典型的な政治連盟であった」。

しかしこの「政治連盟」は破綻する。

 「文革後期(六七年八月意以後)、左派連盟に重大な亀裂が発生し、中央の急進派内部に分解が生じ、中央文革と地方の造反派との関係にも緊張が生まれた。そこには三つの要因があった。一つは大衆造反派内部に宗派主義的紛糾が発生したこと、もう一つは左派の小部分が理論上先行して発展する一方、幾つかの省での造反派の運動が深刻に停滞し、全国の運動が不均衡に発展して、各省の状況を相互に支持し合うことが不可能となったことだった。さらに最も重要だったのは、以上の二つのことの原因でもあったのだが、まだ強大な実力と資源を持った保守派官僚が左派陣営の効果的な瓦解、分裂と挑発工作を推し進めたことである。このことはあらゆる文革著作がふれないことなのだが」。

ここで粛喜東は「政治連盟」の内的関連を分析している。

「最後に指摘すべきは、『二つの文革』論のなかで毛沢東と文革大衆運動とを切り裂こうとする企図は成功しないということである。毛沢東の反修防修、継続革命理論は抽象であり、広い観点で大衆造反運動を呼びかけるものであった。造反派大衆運動のなかに自生的に生まれた反血統論思想は具体的なものであり、それは微視的な観点から反修防修に生き生きした社会学的内容を与えたのである。毛沢東が六〇年代以来、反修防修と継続革命の問題において発展させてきた各種の特異な思想と言論は、大衆組織の非官製的な出版物を通して民間と社会に伝わった。それは当時、理想主義に満ち造反精神を持って運動に入った青年たちにとってきわめて大きな新鮮さと吸引力を持った。同時に造反派大衆のなかに自力で育った反血統論思想は具体的、微視的な次元で反修防修の巨視的な抽象的理論に生き生きした社会学的内容を与えたのである」。

ここで粛喜東は「二年(ないし三年)文革」期の毛沢東路線と造反派とは同質の「思想体系」にあったと述べている。

 「文革運動のなかで生み出された一種独特な左翼思想と闘争言語は、反修防修、継続革命理論と反血統論、『大衆が自分で自分を解放する』等の内容を結合したということができる。文革中の一系列の上から下への闘争、資本主義を引き入れるに熱心な党内官僚への闘争を含めて、これら官僚階層の子弟家族が形成する特権集団への闘争、当時の社会にあった新旧の不平等な関係に対する闘争がすべてこの統一的な闘争言語に統一された。われわれもまた『思想体系』という言い方を使うとすれば、毛沢東晩年の思想はその思索が切り拓いた理論(ブルジョア的権利の批判等)、さらに省無聯『中国はどこへ行く?』を代表とする民間左派理論(今日われわれがそれをどう評価するかはともあれ)を含めて、堅強な核を持った毛沢東晩年の思想体系、すなわち『継続革命』の思想体系が形成されたのである。六六年から六八年に到る大衆運動はすなわちこの思想体系の最初の具体的実践であった。『中国はどこへ行く?』のなかの思想と『五・一六通知』、『五・七指示』は同一の体系に属していることは否定しがたく、フルシチョフの秘密報告、あるいは〔……〕ゴルバチョフの思想体系とは天地の差があった」。

「二つの文革」論者たちの毛沢東「大民主」論批判についても粛喜東は反論する。

 「一九六〇年代末以降の世界的規模での反体制的左翼運動の衰退以来、人々は習慣的に社会主義社会内部の反体制運動を『自由化』と関連づけている。〔……〕ソ連体制の批判の上で、現存する社会主義制度は徹底的な改善を必要としているという認識の上で、毛沢東と彼らの見方はある程度接近している。しかし社会主義制度がはらむ弊害の根源に対して毛沢東は彼らと異なる診断と処方を編み出している。〔……〕一言でいえば毛沢東は別の道を通って左翼的な方向から社会主義の改革、社会主義的民主の実行を試みたのである。まさしくこの意義において中国文革と六〇年代のおおよそ同時期のヨーロッパ新左翼運動とは図らずして一致したのである。……この『新左翼』と『旧左翼』の重大な差を無視してはじめて『毛沢東は骨化した社会主義を堅持している』との結論を出しうるのだ」。

 さて、粛喜東は「二つの文革」論者たちと共に「社会的衝突」論、「二年(ないし三年)文革」説をもって「文革徹底否定」を批判するわけだが、「二つの文革」論は取っておらず、また「毛沢東の文革」批判も受け入れていない。つまり「一つの文革」の立場なのだ。そうすると粛喜東にとって「二年(ないし三年)文革」期以外の時期は何なのか? 文革なのか文革でないのか?

 「『二年文革』説の最も重要な根拠はやはりこの二年間のかつてなかった政治操作方式であった。毛沢東はこう述べていた。『過去われわれは農村での闘争、工場での闘争、文化界での闘争を行ない、社会主義教育運動を進めてきたが、しかし問題を解決できなかった。なぜなら、大衆を下から上へと立ち上がらせることによって、われわれの暗黒面を公然と、全面的に暴露する一つの形式、一つの方式を見つけ出すに至らなかったからである』。この種の形式と方式は文革のなかで探し出され、二年間のあいだ全面的に運用されるに至った」。
 「これと比べると六八年九月から始まった一系列の、後に続く運動と事件、すなわち階級隊列の純潔化、一打三反、精査五・一六、批陳〔陳伯達〕整風、批林〔林彪〕整風、批林批孔〔孔子〕、評法〔法家〕批儒〔儒家〕、批判ブルジョア的権利、評水滸伝、経済整頓、教育整頓から、反撃右傾翻案風、批ケ〔ケ小平〕に至るまで、それが上層の急進派あるいは実務派が起こしたものであれ、程度の違いはあってもすべて上から下へ、形は『左』だが実質は『右』の『大衆を運動させる』形式を回復させたのである。そして毛沢東が呼びかけた『造反有理』の新たな提唱――『反潮流』――は文革のなかでの大衆の自発的な造反運動に類似したものの形成を促進することはできなかった」。
 「六六年から七六年に至るこの時期は新中国の歴史の上で勿論その特殊性を持っていた。この文章と他の文章で筆者は六八年末から七六年末までの時期を『文革後期』と呼んでいる。この時期、文革前後に誕生した党内『極左』綱領は部分的に実践あるいは実験に付された。文芸革命、教育革命、衛生革命、五七道路、大寨・大慶、鞍鋼憲法等々である。同じくこの時期、整風、四つの現代化、整頓等、党内実務派の政策綱領の実施もあり、一九七五年の反撃右傾翻案風、階級隊列の純潔化、精査五・一六等の文革造反派を清算する運動もあった」。

 「六六年から七六年に至るこの時期は新中国の歴史の上で勿論その特殊性を持っていた。この文章と他の文章で筆者は六八年末から七六年末までの時期を『文革後期』と呼んでいる。この時期、文革前後に誕生した党内『極左』綱領は部分的に実践あるいは実験に付された。文芸革命、教育革命、衛生革命、五七道路、大寨・大慶、鞍鋼憲法等々である。同じくこの時期、整風、四つの現代化、整頓等、党内実務派の政策綱領の実施もあり、一九七五年の反撃右傾翻案風、階級隊列の純潔化、精査五・一六等の文革造反派を清算する運動もあった」。

粛喜東によれば「ここでいう『文革後期』は文革の後期〔原語「文革之後的時期」〕という意味であり、一部の文革を『文革以前』〔原語「前文革」〕と『』〔原語「後文革〕とに分ける観点がいうところの「ポスト文革」ではない」という。つまり粛喜東は「六八年末から七六年末までの時期」も文革に含めていると見てよいのか?

しかしこの点は微妙であり、はっきりしない。それが中国語の多義性による解釈の幅なのか、あるいは当方の初歩的読解力の故なのか、それとも粛喜東自身がはっきりしていないのか、よく分からない。「二年(ないし三年)文革」以降は文革期なのかそうでないのか明言すればよいことであり、また「後文革時期」、「文革之後的時期」等の紛らわしい言葉を使うべきでないだろう。

いずれにせよ、それは文革を文革たらしめた「政治操作方式」はすでに失われている時期だという。
「六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」。

● 芦笛――「異端思想と毛沢東の政治的理想の思考パターンは同じである」

【在米民主化運動従事者。インターネット論壇著名人。詳しい経歴は分からず。ただ芦笛は遇羅克「出身論」についてこう述べている。「当時あの文章がわれわれ黒い犬の子の心中に引き起こした震動はまさに言葉で表現できないものだった。何の誇張もなく言って、あの文章は私の暗黒の心に開けられた一つの明るい窓であり、毛沢東思想の他に世の中にまだこのように生き生きした別の思惟方式があることを初めて知らされたのである」。「黒い犬の子」、すなわち「出身不好」の紅衛兵世代である。現在、民主化運動の一部の指導者と悶着を起こしているようである】

だが今日、遇羅克の文章を読み返した芦笛はそれを「裏がえしの血統論」だと感じる。それまでは「出身好」が革命的とされていたのに、今度は「出身不好」が革命的、「出身好」はダメとされただけで思考のパターンは同じではないかというのである。

芦笛がこのように考えるに至るには献身的な造反派としての生き方から「真性の反革命」へと至る経過があったという。遇羅克、楊曦光、王希哲から最も大きな影響をうけたという芦笛はその後、これら「異端思想」こそ民衆にとって、「走資派」、さらには毛沢東以上に危険であって、もしその「パリ・コミューン式の」社会が実現したら悲惨極まることになったろうと考えるに至っている。

「文革一〇年での、見つけられた限りの毛沢東の一切の内部講話を私は仔細に読んでみて心底思ったのだが、毛沢東の内心深くにあった政治的理想はこれら『異端』の思索者たちが提起したものとまったくそっくりなものだったのである」。(「先知先覚者的悲劇――兼論『両个文革』」)

ところがこの思索者たちは毛沢東の二面性を理解しておらず、毛沢東の現実的側面に頭をぶつけて「毛沢東の文革」と異なるものとして「人民の文革、われらの文革」を言い出したのだが、実はその「人民の文革」は毛沢東の理想的側面がはらんでいたものだったのである。

「毛沢東と同様、彼らも民主を鼓吹した。だが不幸なことに彼らはこの重大な問題で毛沢東の教義を黙認した。すなわち民主は階級とイデオロギーを超越したものではなく、ただ人民にだけ与えられるのであり、『反動派』には与えないのである」。

「これらの『異端』思想家は毛沢東の心を深くつかんだが、しかし彼らにとって不幸なことに毛沢東は矛盾に満ちた人物であり、根深く『葉公龍を好む』気質を有していた。一面では彼は紛れもなく共産党の高級幹部のなかでただ独り比較的『抽象的な』思考を好み、明らかに理想主義的傾向と『ロマンチズム』気質を持った革命家だった。他方、彼はまた老謀深算〔細心に計画し深遠に見通すことのできる〕、無比の精妙さを持った政客、謀略家であった」。

毛沢東はコミューンを語りながら、実際に上海が「上海コミューン」を名乗ったら怖くなって逃げ出した「葉公」だといえるが、他方、一つの政治思想が諸関係を通してどのような実践的帰結をもたらすかを測定できる卓越した、かつ謀略に富む政治家でもあったというのである。(なお、中国語の「謀略」は「謀に長けた」という意味でそこに「陰謀」的語感は希薄なようである)。

「不幸なことに、『異端』思想家たちは毛沢東の『二面性』を見抜いていず、毛沢東のユートピア的な断片的な言葉に酔い、インスピレーションを得、マルクス・レーニン主義の用語をもってあれらの言葉の断片から比較的整った思想をつむぎ出し、『中国はどこへ行く?』、『社会主義の民主と法制を論ず』を書き上げたのであった。想像に難くないことだが、これらの文章が現政権の存在を脅かしたが故にただちに当局によって厳しく弾圧されたのだが、毛沢東は当然にもこれら民間思想家たちの生死を気にかけることはなかった。冷酷にいえば『異端』思想家たちは毛沢東に騙された忠臣たちだったのである」。

「遺憾なことに、『われらの文革』は真に『人民の文革』だったかも知れず、社会的に圧迫され、差別された『出身不好』の者たち、『落ちこぼれ分子』たちが立ち上がり、『走資派』、党員・青年同盟員、積極分子と真に闘ったのかも知れないのだが、不幸だったのはこのように主張する人たちが二つの基本的事実を見落とすか粗略に扱ったことであった」。

「第一に、『われらの文革』が仕えていたのは依然として『われわれの思想を指導する理論的基礎はマルクス・レーニン主義である』ということだった。のみならず、その革命精神が徹底的であり、その政治理想が現実的な弾力性に欠ける故に、その実践は必然的に中国に劉少奇、ケ小平ら平凡な管理より、更に大きな、更に深刻な災難をもたらし、だから更に反動的なものとなったろう。〔……〕これら『人民の文革』は、毛沢東が『徹底的な革命精神を』を欠いていたがゆえに、いまだ全国に広められなかったのは、人民にとってまさにいかに大きな幸運だったことか」。

「第二に、『われわれの文革』、あるいは真の『人民の文革』は、その人民の半分のものに過ぎず、少なくとも保守派という半分を含んでいないものだった。『人民の文革』が勝利した幾つかの地区では、それら半分の人民が受けた迫害は毛沢東の共産党が統治した以来の最高水準を越えていた。それと同時に伝統的な『階級の敵』の災難はまったく終わっておらず、『階級隊列の純潔化』、『一打三反』という民衆を踏みにじる運動のなかで再び残酷に蹂躙されたのである」。

芦笛はどの地区のことを言っているのだろうか? それに「階級隊列の純潔化」、「一打三反」はそれこそ毛沢東による陰惨な造反派掃滅の運動だったのに。

しかし「人民の文革」はその政治思想の質からすれば「イラン・シーア派の原理主義的イスラム革命的なもの」になるという芦笛の「異端思想」、「コミューン型革命」論批判の論理は強力であり、「二つの文革」論者たち、そしてわれわれもまたそれに答えなければならない性格のものではある。


【文革総括を廻る対立考その3、新左派の文革論
 民主派的「二つの文革論派」による文革再評検証が、「新左派」の文革再評価を生むことになる。「新左派」は、官許文革論、「二つの文革論派」の文革論が「毛沢東と中央文革の文革」を否定的に取り扱っていたのに対し、「合理的な要素があった」としての見直しに向っている。「二つの文革論派」は、文革時の「毛沢東の文革」と「人民の文革」の関係を「相互利用関係」と看做していたが、新左派は、「毛沢東の文革」と「造反派の文革」の関係を「政治的同盟」であった、と云う。

 これにつき、時田氏は次のように補足している。
 なお、この「相互利用」だったのか、あるいは「政治的同盟」だったのかは文革を見ていく上で重要な論点だと思われるが「新左派」はそれをめぐって元造反派イデオローグたちと意見を異にしている。さらに「新左派」の主張には造反派たちのそれとは明らかに異なるトーンがあった。それはインターナショナルな立場に立っての革命の復権というのではなく中国ナショナリズムに繋がる文脈のなかでの文革再評価であるということである。

 「新左派」の観点は、「二つの文革論派」の体制当局側の文革徹底否定論批判に比してより明快である。体制当局側の文革徹底否定論を次のように批判している。
 「文革徹底否定」論が文革の真剣な批判的総括であったかといえばそうではなく、それは勝者たちの政治的見解であるに過ぎない。
 「文革徹底否定論」は弊害の方が多く、よって、文革終焉以降今日に至る中国共産党の「文革徹底否定」論は退けられなければならない。

 かく述べて、文革再検証論の立場に立っている。れんだいこ風に述べれば、体制当局側の文革徹底否定論は、歴史観としても非弁証法的過ぎるとする批判であり、文革を全否定するのではなくその経験から有益な何かを汲みださねばならない、「傷痕文学的総括から脱しなければならない」と主張していることになる。

 文革の意義を見直すべきだという大胆な発言を最初におこなったのは崔之元だといわれている。1963年生まれで中国社会科学院に入った崔之元はその後アメリカに留学し、シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学で教鞭をとっている。その論文「鞍鋼憲法とポスト・フォード主義」で鞍鋼憲法こそポスト・フォード主義の先駆だったと述べて論議を呼んだ崔之元はさらに文革についてこう述べたのである。
 「『文革』大衆運動の中にもある合理的要素を含んでいたことを見るべきである」。「それは大衆の政治生活への参加である」。
 「ニーチェは、記憶は一民族を殺すことができると述べたが」、文革の傷痕を反芻するだけでは駄目である。「盥(たらい)の水と一緒に赤ん坊を流してしまってはならない」。 
 「毛沢東が述べた七、八年たったらもう一度文革をやるという言葉は定期的な全国的直接普通選挙ととらえるべきであり、これこそが人民民主独裁あるいはプロレタリア独裁の本質なのである」。

 官許的「文革徹底否定論」に真っ向から対立する見解を述べていることが判明する。文革から三〇年余をへた今日、こういう主張が登場したのである。当然これらは中国国内で強い反発を受けると共に共鳴も生み出している。現在の中国でこの程度のことを言うことは許されているのか、それとも「新左派」がその内部に多分に中国ナショナリズムに繋がる要素を含んでいることもあって当局が容認しているのか、それは分からない。

 但し、「新左派」の内部は必ずしも一様ではない。というか明確な見方の差がある。崔之元のそれが西欧の現代理論によってとらえ返された文革再評価だとすれば、青年期に文革後期の「批林批孔」運動などを体験している李憲源(常仁)は心情的にも毛派であり、民衆の立場の名において「経済文革」の必要性を唱える実践派である。彼は「新左派」と呼ばれることを必ずしも歓迎しない崔之元らを皮肉ってこう述べている。
 「私は西欧理論の大作を学ぶことにものぐさであるという欠点を持っており、それにかって地球の裏表の地で肉体労働者として働いてきたので、西欧の深遠な左翼理論を売り出すことに長けているという『新左派』としてもふさわしくない者である」。

 もっとも、李憲源のこの批判を「『新左派』の分岐を示すもの」と見る「自由主義」の論評に対して「左派、民族主義陣営内部の意見の分岐を無限に誇張している」と反論しているところを見ると、これらはイデオロギー的にいまだ生成過程にある「新左派」の内部論議なのかも知れない。

 「新左派」の李憲源は、「文革徹底否定論」がもたらした諸結果をつぎのように列挙している。
 「人民大衆の民主的監督の権利と参政意識を弱め、官僚の特権と腐敗の風潮を助長した」。
 「『大民主』の有益な試みとその改善を放棄し、社会矛盾を激化させ、国際的な敵対勢力が機に乗ずるのを許した」。
 「『法制を軌道に乗せる』を一面的に強調することにより、司法の腐敗を中国の法治の建設にとって巨大な障害となさしめた」。
 「労働人民の政治的、経済的地位を弱め、貧富の両極分化を改革と社会進歩の代償とした」。

 「新左派」は、
総論として次のように述べている。
崔之元  「王紹光が『文革研究の視野を広く開拓しよう』でまさしく指摘したように、当局が今日おこなっている文革研究への制限は『安定団結』を追及するという妥当な願望によるにしても、実際にはわが民族が文革の深刻な教訓を全面的に汲み取る上で不利なものとなっている。文革の複雑な社会的原因についての公開的な自由な学問的検討をおこなうことによってはじめてわが国が『安定団結』の民主的な法制への道を歩む上で真に有利となるのである」(「毛沢東の文革理論の得失と『モダニティー』の再建」)。
李憲源  「あらゆる『一〇年の動乱』、『一〇年の悪夢』の類の言い方は感情的な共感を広汎に引き起こすことが容易だとしても、文革中の異なる人々の『受難』の異なる性格、異なる社会的根源を分析することに役に立たない。文革に対する社会科学的な研究は『傷痕文学』的な視野を越え出ることがどうしても必要なのである」。(「造反派と五七年の右派との共通点から見た文革」)
粛喜東  「遺憾なことに今日流行の文革歴史記録の文献の中で、その大多数は『劫後余世(大災難を幸せにも生き延びた)者の回想録文学』という類型のものであり、この類の文献は文学化、エピソード化ということの他にはそれらの大半は事後の回想者、夢から醒めた者、懺悔者としての視角、言語、価値観から書かれたものであり、文革参加者が当時関心を持ったテーマを反映したもの、参加者の当時の思想性格と言語のスタイルを反映したものは今日ではきわめて見つけがたく、関連文献の系統的整理が欠けていた」(「文化大革命文献館 前書き」)。「文化大革命文献館」というのは粛喜東が主宰する貴重な文革資料を集めたサイトであり、彼は香港の社会学者だということだが細かい経歴は分らない。

 興味深いことに、次のような観点も披瀝している。
 概要「1976.10.6日の「四人組」打倒は、『四人組の反革命クーデターを粉砕した』と認定されているが、形態的に見れば実は『反文革派のクーデター』であった。葉剣英ら軍人を中心に秘密裏に準備された『特殊な戦闘計画』に対して政治闘争による権力掌握を意図していた江青グループはひとたまりも無かったのである」。

 これによれば、政権正統派は四人組の方であり、その四人組を打倒した葉剣英ー華国鋒ーケ小平派の行為はクーデターであった、と看做していることになる。

 かく正確に事態を見据えた上で、更に歴史観を問うというのが新左派の真骨頂となっている。次のように述べている。
 現中共党中央政権の鼓吹する「文革徹底否定」論は、文革に立ち上がった億万の造反派大衆の存在と彼らが感受していた中国社会主義の抑圧性の問題をスッポリ抜け落としている。文革は毛沢東なりにこの「官僚主義」の問題に取り組もうとしたものであり、その打破を「公然かつ全面的に広大な大衆を下から上へと立ち上がらせ、われわれの暗黒面を暴き出す形式、方式」をもっておこなおうとしたものであった。

 だが劉少奇らの異論を「党内ブルジョアジー」と規定したことに示されるスターリン主義的な他者批判の仕方の全面化、それら「走資派」への「革命的大批判」の激烈な展開にもかかわらずそれは「免官革命」、「人を捉まえる革命」――のちに造反派の鋭敏な部分が揶揄してそう名づけ批判したのだが――でしかなく、根本的な社会的・政治的変革への道は閉ざされていたこと、その理論的根拠となった毛沢東、張春橋の「ブルジョア的権利の制限」論の理論的・実践的誤り、等々によって、文革は仮にそれが勝利したとしてもその「共産主義」の中身は「コミューン」ならぬマルクスの言う「粗野な共産主義」を越え出るものにはなりえなかったろう。

 劉少奇、ケ小平の路線に文革前の中国社会主義の抑圧性が含まれていたのは事実だとしても、それでは毛沢東の文革とケ小平の「改革開放」のどちらが中国の民衆にとって望むべきものだったかと問題を立てたとき、「改革開放」をただブルジョア階級の復活への道だと割り切れないところに文革総括の難しさがある。それはちょうどソ連・東欧の社会主義の崩壊をどう見るのか通ずる問題でもある。かって毛沢東の文革を越えた「中国コミューン」を唱えた造反派の指導者たちも今日それを唱えることはしていない。

 これらの問題に納得いく総括を深めるためにこそ「文革徹底否定」論は突き崩されなければならない。

 新左派側は第二に次のように認識している。
 文革が確かにはらんだ「誤り」、否定的な問題性をどう押さえるべきなのかという問題である。それは毛沢東の文革理論の誤りとそれを利用した「四人組」の「反革命的内乱」の結果だったというのが「文革徹底否定」論の主張である。

 この主張を退けたとしても、そこには「文革徹底否定」論が言う意味とは異なる意味での「毛沢東の文革理論の誤り」があり、中央文革と造反派、林彪勢力、「四人組」によるその実践があった。そしてそれは反文革派の凄まじい抵抗に遭遇する中で多くの悲惨な出来事が起こった。そして文革を文革たらしめた造反派の運動が毛沢東の指導の枠をはみ出たとき「今は紅衛兵少将たちが誤りを犯すときである」(毛沢東の不可思議な言葉)として解体され、以後文革は枯渇へと向かっている。

 しかしそれらの諸事態を一つ一つ吟味していくとき後知恵的に見えてくる毛沢東理論の個々の誤りという次元を越えて浮かび上がってくる一つの事柄がある。それは文革が課題としたことの困難さ、さらには「革命」そのものの困難さが突きつける問題である。どういうことか。

 現実がある課題をのっぴきならぬものとして突きつけ、人は手持ちの認識と実践力をもってそれに取り組み解決しようとする。その「解決」の仕方そのものが一歩間違えれば単なる「誤り」を越えて「悪」を構成してしまうことが起こる。毛沢東と文革派は彼らがのっぴきならぬものと考えた課題と取り組み解決しようとした。

 「誤り」はこの困難な課題との格闘の中から生じている。これが基本である。つまり「誤った路線」だったから誤った結果が出たのではなく、ある現実が突きつける課題との格闘がまずあり、もし「誤り」が生じるとすればそれはその格闘の仕方、解決の仕方の中からなのだととらえるべきなのである。理論的に未熟な者が「誤り」を犯した、当初からの悪人が「悪」をなしたというようなことは政治の世界では問題になりえないのである。そもそも「誤った路線」そのものが何かとの格闘の敗北形態、堕落形態なのである。

 このように言うことは文革の救出のためではない。そうではなく問題をこう立てることによってはじめて文革の「革命的批判」が可能となるのである。

 新左派側は第三に次のように認識している。
 文革はそれが単なる「野心家たちの反革命的内乱」などでなかったからこそ問題は深刻なものとなった。それは億万の大衆を立ち上がらせる力を持ったのだが、直面した課題との格闘、その解決の仕方そのものが「誤り」を生み出し、「悪」を構成し、そこでは政治と政治言語の邪悪さはその極限的な姿を現している。

 しかし注目すべきはそれら文革の邪悪さ、抑圧性の只中から、それを対象化しつつ毛沢東の理論、政治、言語から自立していく動きが始まっていることである。「新思潮」、「極左派」の形成である。湖南省無聯の「中国はどこへ行く?」や「李一哲大字報」はその流れの中から生み出されている。

 だがそれらの動きは一つの運動としての文革の敗北を意味していた。こうして文革派から人心が離反した分だけ、それは反文革派に集まり文革は打倒されたのである。

 今われわれがあらためて文革について考えるということは他でもなく、東欧・ソ連の崩壊を「スターリン主義の崩壊であり、真のマルクス主義は無傷である」とする欺瞞に留まることなく、かつ勝ち誇る資本主義世界からの「マルクス主義は崩壊した」という大合唱に抗して歴史と現実を再点検し、針路を再設定するという困難な課題の一環としてである。そしてこの問題の総括はいまなおなされていないのであり、それはソ連・東欧社会主義のみならず日本のわれわれ自身の運動の衰退・凋落の総括に直接に関わる問題でもある。

 時田氏は次のように述べている。
 もっともここが微妙なところなのだが、「新左派」の文革再評価は当局の「文革徹底否定」を直接批判の対象とすることなく、専ら「自由主義」の文革総括への批判としてなされている。ここにはただ戦術というにとどまらない「新左派」の思想性格が現れている感もある。

 新左派」たちによる文革再評価の特徴は、それが単なる「文革ノスタルジー」(「文革情結」)によるのではなく今日の世界と中国の新たな情勢に突き動かされていることにあった。その一つはその主張が欧米諸国での新たな資本主義批判の理論的摂取に媒介されていることである。フォード・システムの克服を唱えるレギュラシオン理論から、アミン、サイード、ウォーラーステイン、「ポスト・モダン」理論などを学んだ彼らの目に毛沢東理論の幾つかはすでにそれを先取りしていたものとして映り、こうして文革の意義が再発見されたわけである。

 もう一つは「改革開放」がもたらした状況への危機感である。「改革開放」は一方で大きな社会的境遇の差を生み出しており、流れから取り残された層のなかに一方で「毛沢東ノスタルジー」(「毛沢東情結」)が生まれ、他方「法輪功」の社会的基盤となっている現実があった。

 その深刻さは批判派の何清漣とは言わず今日の体制下で一定の位置を占めている一部の「新左派」たちによっても「目下、中国は再び社会的不安定の時期に入りつつある」との警告が発せられているほどのものとなっている。(王紹光、胡鞍鋼「最も厳重な警告:経済的繁栄の背後での社会的不安定」)

 「新左派」の張広天、黄紀蘇らによる演劇「チェ・ゲバラ」が二〇〇〇年四月の北京公演を皮切りに、河南、上海、成都、香港、広州等の中国各地を巡回して多くの観衆を動員して強い感銘を呼び起こし、著名人による劇評が幾つも書かれたというのも時代の雰囲気を示していた。

 そして「改革開放」によって中国が乗り出した世界はアメリカが圧倒的な支配力を握っており、そこの秩序に飲み込まれるのではないかという危機感もあった。旧ユーゴ中国大使館「誤爆」事件は中国ナショナリズムを一気に高めている。

「大民主」の意義考】
 1966.8月、「十六条」(「中国共産党のプロレタリア文化大革命に関する決定」)が呼びかけた「大民主」(「大鳴・大放・大弁論・大字報」)は当時の造反派の運動を一気に解き放ったものであった。「新左派」たちの文革再評価はニュアンスの差を含んでいるが、彼らが一様に強調しているのは「大民主」の意義である。

 崔之元は次のように述べている。
 「毛沢東の『大民主』は毛沢東の未完の事業であり、彼の政治的遺産の中でわれわれが最も重視するに値する部分である。毛沢東の文革理論を弁証法的に止揚することは二一世紀中国の高度な民主的政治体制を建設するための必要条件なのである」。

 李憲源は次のように述べている。
 「社会主義的民主の進め方という角度から見れば、そのなかで最も重要な一つは文革が大衆に『四大』の形式をもって『プロレタリア階級の司令部』を除いて上は中央副主席から下は生産現場の支部書記に至るすべての党組織の指導部を暴露し批判することを許したことにあった。・・・もし広大な民衆の中に辛亥革命も一九四九年の建国も完成できなかったこのような思想革命が完成していなかったなら、のちの思想解放も改革開放も考えられなかったろう。だからこの種の文革の積極的要素を改革開放と対立するものと見なすことはまったく道理がないことなのである」。

 粛喜東は次のように述べている。
 「文革の意義をさらに全面的に総括する上で、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という方式を元に文革を人民内部の矛盾を処理する方式を探求する大胆な試みと理解することである」。「『十六条』の中の第七条は、革命的大衆を『反革命』と見なす者を警戒せよと述べているが、これは時代を画する意義を持つ社会主義の『権利法案』に相当するものである。文革のこういう意義での試みは痛ましくも失敗した。だがつぎのことは否認されるべきではない。すなわち文革運動は一時期に亘って、膨大な数の参加者がパリ・コミューンと言う理想の旗印を掲げて社会主義が本来含んでいた中心的内容――人民大衆が国家の上層建築を管理すると言う権利、今日の言葉で言えば政治生活における民主――をまさに実践したのである」。

 このようにこれら「文革の積極的要素」の見直しは単に文革の再評価ということにとどまらず、今日の「改革開放」の推進に利するものであり、さらにはヨーロッパ民主主義を超えた「高度な民主主義」建設の中に生かされるべきものと位置づけられている。

 そしてこの主張の背後にはソ連・東欧の崩壊に対する次のような総括があった。韓毓海は次のように述べている。
 「社会主義のスターリン主義版は生産手段の所有制の真の改造をおこなったわけではなく、市場の廃止後の空白は国家官僚によって補填されたのであり、国家官僚が実際に演じたのは資本家の役割であった。人民にはただ名義上の政治と経済への参加の権利があったのであり、実際にはこの権力の操縦は少数の官僚の手に握られていた。

 この合法性の危機の解決には二種類の方案があった。その一種は民主的参加の方式と道筋を拡大することによって政治領域をますます公共的なものとすることである。もう一つは実際上はコントロールされた上から下への市場化と私有化であり、少数の者に生産手段を掌握させ、匿名のものを公開のもの、合法的なものとすることであった」。(「『自由主義』のジェスチャーの背後で」)

 そして「自由主義」への批判は彼らが後者の道を歩もうとしているということにあるのだが、その正否はさておき「新左派」のこれらの「大民主」の評価にはいかにも甘さがあった。 中国共産党言語(毛沢東言語)には人を戦慄させる威嚇の言葉と共に魅惑的な解放的言語が数多くある。「思想改造」(「翻身」)、「生き生きした政治的局面」、「人民内部の矛盾」等々である。文革初期の「群衆自己解放自己」、「群衆自己教育自己」などはその最たるものだろう。

 だがそれらが政治的に開かれた空間、自由な空間とは、まったく異質なものへと展開する契機を含んでいたことを「新左派」は理解していない。たとえば「思想改造」は人を旧来の諸関係、価値観からの解放であると共に「思想改造」の組織主体への思想的、政治的従属を意味した。また「人民内部の矛盾の処理」はそこで相対立する矛盾相互の相対的同等性の原理的承認を意味せず、常に「正しいもの」、「進んだもの」への「間違ったもの」、「遅れたもの」の包摂、吸収を意味した。

 「生き生きした政治的局面」も同じである。この言葉は造反派紅衛兵たちに開かれた政治空間のことと理解されて彼らを魅了した。だがそれは複数の選択肢のもとでの異なる意見間の対立と共同の政治空間を意味せず、あくまで「正しい思想」に統一され、一体化されることを前提とした上での、「積極分子」たちの活発な活動世界なのである。「新左派」たちは総じて毛沢東の「解放性」がはらむこの側面には気づいているのかいないのか無批判的なままである。

文革をどう総括してはならないか考】
 だが「新左派」たちも文革がはらんだ深刻な問題に無自覚なわけではなかった。だが文革はどう総括されてはならないかという点に彼らの関心はおかれている。

 汪暉は次のように述べている。
 「現代の中国の革命についての反思における基本的な傾向は革命の〔良くない〕結果(新たな不平等と社会的専制)への批判が革命の歴史的条件の分析に取って替わってしまっていることである。ここで根本的なことは、革命の歴史の中での悲劇をどう弁護するかということでは決してなく、この悲劇をどう理解するか、この悲劇と植民地主義、資本主義の市場拡張と中国社会の歴史的条件との関連をどう理解するかということである。・・・だから真の問題は平等という価値とそのための社会的実践を簡単に否定することではなく、なぜ平等を目標とした社会運動自身がその内部に新たな等級性を生み出したのか、その歴史的メカニズムは何なのかということである」。(「一九八九社会運動と『新自由主義』の歴史的根源」)

 海外派の崔之元と共に「新左派」の理論的イデオローグである大陸在住の汪暉は崔之元や李憲源のようには文革の意義について語ることは少ないのだが、以上のように文革の問題性を「悲劇」と見ることのなかにその文革観は示されている。そして彼らは「文革徹底否定」論を突き崩し、文革の真の姿を復元した後はじめて文革がはらんだ問題の総括も有益なものとなると言う。

 李憲源は次のように述べている。
 「新たに生まれたいかなる民主制度もある種の欠陥を避けられないように『四大』もまたその実際の運用の中で必然的に幾つかの問題を生み出した。しかし非常に成熟した西欧の普通選挙制度もまたヒトラーに権力を握る条件を与えたことを考えるとき、『四大』が野心家や陰謀家に操縦されて利用されたことをもってこの制度を廃棄する理由とするのは妥当ではない。この豊かな中国社会主義の特色ある民主制度を改善し完全なものとしていく立場から出発するのではなく、『盥から赤子を流す』軽率なやり方は権力を私有化し、権力で私腹を肥やすことがますます頻繁となり止め難くなるにつれて、そのマイナスの影響はますます はっきりし不断に暴露され明らかになるだろう」。

 粛喜東は次のように述べている。
 「このような意義から文革を評価するとき、自ずから文革の是非功罪、とりわけその誤謬を然るべく分析することが可能となる。たとえば階級闘争理論の混入によって作り出された誤り〔原文「失誤」〕、文革初期での陰謀論の横行が作り出した悪い結果、大衆が大民主を実践する上での失敗、等々である。当然これら一切の分析は、転倒され、ごちゃごちゃにされ、隠蔽された歴史を明らかにした後ではじめて議事日程に上がるものである」。(「一九六六年の五〇日:記憶と忘却された政治」)

 これらの総括の仕方は首肯できるものである。当初の「良き意図」がいかなる脈絡のなかで「悪」を生み出したかということの解明こそが意味を持つからである。それでは「新左派」たちは何を解明しえたか。

【「世界的な革命情勢の後退――文革敗退のもう一つの原因」考】
 文革の盛衰を当時の国際的な階級闘争の中で捉える必要があると強調しているのが粛喜東である。次のように述べている。
 「一度は『中国コミューン』という最高の理想へと突撃した文革大衆運動がなぜ急進的な高潮から後退したのかを理解しようとすれば、第二次大戦後の東西の社会主義と資本主義との抗争の中での新中国の特殊な位置、六〇年代に入ってからの全世界的な反体制運動の高潮、および全世界的な革命運動の交錯と不均衡な発展を理解しなければならない」(「文革を取りまく世界と歴史的時期――文革大衆運動の発展、終結の別の原因」)。
 「パリ五月」を始めとするヨーロッパ諸国、東欧、アメリカ、東南アジア、日本、等々でのこの時期の運動を列挙している。 「文革中のパリ・コミューン式の斬新な新社会を建立しようとする社会的思潮と大衆運動の波の高まり、そして欧米での反体制運動の激動と高まりは、一九六七年から一九六八年にかけて同時にその頂点に達していた」。
 「欧米諸国での反体制運動が資本主義内部に震動を生み出し、堡塁の内部から資本主義の核心部分が瓦解する可能性がある状況は、文革の大民主にきわめて大きな活動空間を提供した。六〇年代の末になって欧米の反体制運動の退潮が始まり、中国の文革のこの空間は次第に閉ざされた」。

 つまり、粛喜東は一九六〇年代後半の一時期をいわば「戦後第二の革命期」と見なしており、そのうねりの世界的終息が中国の文革を孤立させた、そういう面での失敗要因を見ねばならない、と述べていることになる。

 1968.7月の中国共産党が公布した「広西問題に関する布告」(「七・三布告」)を廻る見解も重要であるように思われる。粛喜東は次のように述べている。
 そこでは中央の命令に反して「武闘」を続ける者は「反革命」として鎮圧すると明言されており、これによって文革造反派運動が事実上解体に追い込まれた重要な文書であり、文革の画期となったものである。

 毛沢東がなぜこの布告を出したかについては、従来、毛沢東の文革路線から左にはみ出した部分への弾圧と理解されてきた。その側面は否定できないと思われるのだが、粛喜東の文章の功績はそれを「戦争が革命を阻止」した例として取り上げ論証した点にあった。つまりベトナム戦争の激化が文革大民主を後退させたと言うのである。粛喜東の「戦後第二の革命期」の把握がどの程度の深みがあったかはさておき、文革の崩壊は「四人組」がでたらめな事をやって人望を失ったのだという「文革徹底否定」論の大キャンペーンにわれわれにしても多かれ少なかれ影響されてきた経過を経てきた今日、その主張はあらためてわれわれの文革の見方を啓発する意義を持つと言えよう。

文革再評価と中国ナショナリズム
 「新左派」たちによる文革再評価は、多分に中国ナショナリズムに傾斜する傾向を帯びている。ナショナリズムを通じての国際主義という視野に立っている。「社会的平等と社会的公正は国内的平等を含みもすれば国際的平等をも含む」(汪暉)という観点による。

 もう一つは彼らの「自由主義」批判の重要な柱の一つとして、「自由主義」が依拠する西欧民主主義そのものの評価の問題があり、 「新左派」はそれに対抗しうるものとして文革での「大民主」を高く評価し、多党制を批判している。

 つまり「新左派」による文革再評価は西欧民主主義に対する「中国の特色ある」政治的、経済的制度の見直しという文脈の中で主張され、それによって当局に黙認されているという側面を持っていると見るべきなのか。彼らが中国共産党政権を直接批判することなく、また「経済文革」の主張にとどまることもその結果である。
 
 それではこの文革評価をめぐって「新左派」、「自由主義」は何を争っているのか。

【自由主義派の新左派文革論批判】
 時田氏は次のように述べている。

 さて以上のような「新左派」の文革の見方は中国社会の公的世論を形成している「文革被害者」たちの驚きと憤激を呼び起こすと共に、長きに亘って「文革徹底否定」論とケ小平の「不争論」(論争をするな)のもとに封じ込められてきた文革への種々の思いを解禁することにもなった。

 だがそれは「自由主義」にとっては容認できることではなかった。その主要なイデオローグたちの多くが元造反派紅衛兵であり、一九六八年以降の毛沢東による弾圧のもとで、多くの模索を通してついに毛沢東の思想と言語を対象化しつつその圏域から脱してきた彼らにとって、今になっての「新左派」たちの文革再評価はそれでは自分らの苦闘は何だったのかということになるからである。

 そしてそれは文革の総括の仕方にとどまらず、「自由主義」にとって「新左派」の「政治民主」、「経済民主」の主張は、中国の将来展望にとって有害なものであった。現在の市場化の先に、今日の中国共産党の専制ではない政治的自由の道を、文革や天安門事件のような「急進主義」的方式ではない形で実現しようというのが「自由主義」の展望だったからである。当然彼らは厳しい批判をおこなっている。

 徐友漁は、「中国九〇年代の新左派を評す」の中で次のように述べている。
 「新左派の致命的な欠陥は実際から離れ、自分が先に設定した結論に達するため、自分が学んだばかりのヨーロッパの最新の学説を披瀝するため、中国の歴史と現実を歪曲し、ばらばらにして自らの理論的枠組みに無理に取り込んでいることである。甘陽と崔之元は九〇年代の初め、中国知識界の主流がヨーロッパの経験を妄信する制度フェティシズムに陥っていると非難した。彼らはヨーロッパの最新の学問と大躍進、人民公社、文化大革命から発掘した制度創新的要素を大いに発揚すればすぐさまヨーロッパのモダニティーを超越できると考えた。だが彼らの高論を中国の現実と比較するとき、それは人に泣くに泣けず笑うに笑えぬ思いを抱かせるだけだった」。

 徐友漁は、「九〇年代の社会思潮」の中で、「新左派」の文革再評価と真っ向から対立する見解を対置している。「自由主義」的立場からまず事実認識においてまるで話にならないとして次のように述べている。
 「〔「新左派」の〕高論は理論的に反駁されたが、さらに簡単かつ基本的なことは事実面にあり、肝心なことは彼らが称賛する極左路線の産物は、その性質と作用において彼らが美化したようなものではまったくなかった。たとえば政社合一〔政治行政機構と管理機構が一体〕の人民公社とは人々を、『一平二調』〔均等に分配し資材や人を無償で徴用する方式に隷属させること〕を可能にしたものであった。だが人々が生産手段と土地を支配した後、初めて民主選挙と自治の前提が生まれるのである。『「鞍鋼憲法」』の最大の弊害の一つは、工場の中の規則制度を打ち壊したことであり、技術者の生産管理における有効な機能を取り消したことであった。そして毛沢東の『七、八年たったら文革をまたやる』という言葉は、人がそれを聞いただけで顔色の変わる『階級闘争を大いにやる』、『一切の牛鬼蛇神を一掃せよ』ということである。これらすべてのものはそれが大々的に打ち出されたとき『新生事物』、『偉大な創挙』と称揚されたのである。新左派は決して新たなものを創り出したのではなく、死者の霊魂を呼び覚ましたのであり、こうして民族の傷の痛みに乱暴に触れたのである」

 「自由主義」的立場からすれば、「新左派」の路線性格は、ヨーロッパの「新左翼」がスターリン主義批判をくぐり社会民主主義に接近しているのに比べ、フランクフルト学派的なヨーロッパ・マルクス主義の影響下にスターリン的「左翼性」を評価するようなものとなってはいないかという見方になる。

  秦暉は、「現代中国の『主義』と『問題』」の中で次のように述べている。
 「中国の言葉の文脈における『新左派』の思想は、スターリン的体制と社会民主主義の間にではなく、スターリン的体制と『ヨーロッパマルクス主義』の間に位置するものであり、当然、自由主義的色彩の社会民主主義からの距離はさらに遠いものである。中国『新左派』の一部の人々は改革開放前の旧体制から資源を吸収することを極めて強調し、『人民公社』は経済的民主の模範であり、『文革』は政治的民主の模範である、等々と考えた」。

 朱学勤 は、「一九九八年自由主義学理の言説」の中で、文革をくぐってきた者たちの切実な総括として次のように述べている。
 「ここでわれわれはあの時代をくぐってきた者が身に沁みて感じている反省について述べてみたい。自由主義派の世代のなかには文革中・後期での反逆思潮を経てきた者たちが沢山いる。その思潮の基本的特徴はまさに今日の新左派の主張のごときものだったのであり、だからこそ当時の毛沢東のユートピアの熱狂に陥ったのである。

 スターリン体制の失敗をいかに免れるかについては、韓毓海〔「新左派」の指導的イデオローグの一人〕の文章が披瀝した知的系譜から見れば、まずトロッキーがスターリンを弾劾した『裏切られた革命』とその『永久革命論』、つぎにジラス『新しい階級』、最後に毛沢東晩年の『プロレタリア独裁下の継続革命という偉大な学説』が挙げられている。そしてこれらこそはまさに当時の青年反逆者の世代すべてが探し求めて徹底的に究めた知的系譜であった。この知的系譜上で生きていた者たちには一つの共有点があった。彼らはスターリンの『左翼性』に反対するのではなく、その『右翼性』に反対すること、経済的にはソ連体制よりさらに左翼的に『生産手段の所有制を改造』し、政治的にはソ連体制よりさらに『広汎』かつ『直接的な』大民主をおこない、それによって社会主義の名誉を挽回することを主張したのである」。
 「一九七八年以前には、われわれは閉ざされた環境の中で模索していたので、当時の官僚体制への批判を、これら知的系譜の枠内をぐるぐる巡りながら、曲がりくねった形で表明できただけだった。一九七八年以後、世界的規模での学術思想の情報に接することが可能となり、われわれは国際共産主義運動の内部で左派としての思想材料を探すという狭い範囲から抜け出すことができて、・・・ようやく今日のこのような認識に達したのである。・・・この認識は学校の図書館で学び取ったものではなく、血の通う身体を切り刻む痛みのなかから煮つめられたものでもあった」。

 「自由主義派」の主張は、新左派に劣らぬ文革をわが身でくぐってきた者たちの迫力がある。毛沢東が造反派への弾圧に踏み切った一九六七年後半以降、彼らは必死になって自分らの立場を思想的、政治的に再確認しようとして多くの文献を研究し思索している。湖南省無聯に関する優れた本(『北京と新左翼』時事通信社、1970)を書いたクラウス・メーネルトは楊曦光「中国はどこへ行く?」について、彼らがジラスの『新しい階級』を読んだとは思えないが、分析の仕方は瓜二つだと述べていた。

 だが彼らは読んでいた。それどころかそれは彼らに最も大きな影響を与えた本だったという。さらにはマルクス「フランス三部作」、トロッキー『裏切られた革命』、『スターリン』までもが読み込まれている。

【新左派の自由主義派文革論批判】
 これに対して「新左派」はこう反論する。
 「このような解釈はたちまち相手を攻めきれず自分で破産した。なぜなら九七年以降、長く大陸に住んで中国の国情を知り尽くしている多くの人たちが新左派となったからである」。(甘陽「中国自由左派の由来」)

 だが「自由主義」が「新左派」の提起に対して十分に反批判できているわけではない。それは「新左派」の文革論議が「自由主義」から見るといかに皮相なものに見えても、それが汪暉に代表される「モダニティーの超克」というダイナミックな構図の中に位置づけられ、そのとらえ返しが主張されるとき、それは一つの展望であるかの如き喚起力を持ってしまうからである。

 文芸評論家の李揚はこう書いている。
 「『新左派』は九〇年代の市場経済の進行のなかで出現した問題に対抗して、『鞍鋼憲法』あるいは『文革』を参考にした建議を提起したのだが、これを自由主義者は心底から憎悪した。だが注意すべきは、彼らは往々にして感情的な記憶の角度から『新左派』の建議を排斥したのであり、決して具体的な学問的な回答ではなかった」。(「『悪魔化』された学術論争」)
 

 「新左派」は、「自由主義派」の文革の見方は当局の「文革徹底否定」と同じではないかと皮肉っている。李憲源は次のように述べている。
 「文革の打撃に深い怨恨を抱くあれら中国の威風地を払う権力エリートたちと、同様に文革の打撃に深い恨みを抱く中国の自由主義の思想エリートたちとは天然の政治的同盟関係にあるのだ」。(李憲源「女やもめ、情人、『取り持ちや』および無能者、烏合の衆」)

 だが「新左派」による文革再評価の登場には二つの要因があった。その一つは「文革徹底否定」論の問題であった。それについては朱学勤自身も「今日の新左派思潮の出現は文革を簡単に否定したことの報いであり、懲罰でさえあるのだ」と認めている。

 もう一つは「自由主義」が「改革開放」が生み出した社会的現実に有効な対応をイデオロギー的に提起できていないことにあった。徐友漁が現在の中国は汪暉の言う「モダニティーの超克」が課題となっているどころか、資本主義と市場の積極的意義の汲みつくしの先に政治の民主化をふくむ中国の展望が切り開かれるのだと言っても、その資本主義と市場の権力による展開の中から深刻な社会的差別が顕在化してきている今日、それは説得力を欠くからである。

【「鞍鋼憲法」の評価を廻る両派の論争】
 崔之元の「鞍鋼憲法」の評価について徐友漁は「中国の現実を知る人々をあいた口がふさがらなかった」と述べていたが、その歴史的推移を記したものに高華「鞍鋼憲法の歴史的真実と『政治的正確性』」がある。彼もまた「これらの論述を読んだとき、私はきわめて怪訝に思った。これらの研究者が提起したそういう判断の事実的な基礎が確かであるか否かについて私は大いに疑問を持っている」と言う。

 高華は「鞍鋼憲法」提起の歴史的経過をたどりながら、その実態についてこう述べている。「問題は鞍鋼が採用したこの改革はつまるところ労働者が自発的に望んだものなのか、それとも指導者が強力に引っ張ったものなのかということである・・・事実が証明していることだが、それは毛沢東の主観的理念が強力に導き、促した産物であった」。

 職場では「大弁論」がおこなわれ、労働者たちは合理化に向けての何万件もの提案をおこなっている。そして熱気の中で各種手当ての取り消しまで決議されている。「だが一九五九年に入ってから鞍鋼の生産状況は危機を示し始めた。原材料と電力の供給が厳重に緊張し、鞍鋼の生産は断続的にストップした」。そして栄養不足による病気が広がり、労働者たちの不平不満話が広がっていく。ここではその原因について深く立ち入ることはできないが、要するに「大躍進」時に中国産業を襲った現象が鞍鋼にも現れたのである。

 興味あるのはそのとき鞍鋼の党支部が取った措置である。彼らは「階級分析」をおこない、「大批判」によって労働者の生産意欲を向上させようとしたわけである。生産の後退、職場の労働意欲の衰えを政治的不満分子の陰謀と見て、「積極分子」を動員してそれを暴露し吊るし上げるお決まりのやり方である。「歴史がわれわれに告げているように、当時の鞍鋼憲法はただ一つのユートピアの未来図でしかなく生活の現実ではなかった。現実の企業制度は当委員会の指導の下にあって、書記が指揮していた」のであり、そこでの「大民主」の崔之元の評価の仕方は「曲解されたユートピアの未来図」でしかなかった。(何家棟「ポスト・モダン派はいかに現代用語を流用しているか――『経済民主』と『文化民主』を評す」)

【「大民主」の評価を廻る両派の論争】
 自らの造反派としての経験とかっての造反派の指導的メンバ―百余人からの聞き取りによって『様々な造反――紅衛兵の精神的素質の形成と変遷』(中文大学出版社、1999)という優れた文革総括を書いた徐友漁は、歴訪の先々で「大民主」がいかに自分らにとって解放であったかという元造反派たちの証言に接している。

 だが今日、徐友漁はそれに否定的である。 「私も文革のなかでおこなわれた大民主がある人々に以前彼らを圧迫していた官僚たちに反抗することができる一種の形式と手段を獲得したと思わせたことを認める。だがこの種のものは真の民主とはまったく共通するものはなく、益するものより弊害の方が大きかったと考えている」。(「総括と反思」)

 「まことに文革のなかで大衆が実権派に大字報を貼って彼らを暴露し批判することができたということは文革以前にはできなかったことである。だがこれは大量の『党内走資派』を攻撃し打倒するという文革の戦略の一環でしかなかった。『文革』中の大民主とはどんなものだったか? たしかに大衆には指導的幹部を暴露し批判する言論の自由があった。だがそれは『文革』中に定められた基準に照らしてある幹部が「走資派」であるか否かを争論する自由でしかなかった。一般的に言って、この範囲を越えた言論の自由はなかった。『文革』中に公布されたいわゆる『公安六条』がその最も良い例である」。

 徐友漁の文革と毛沢東への批判は厳しく、ほぼ全否定である。これらは文革以降彼が積み上げてきた総括作業の今日的到達点である。 「大多数の中国人にとって『文革』はすでに思い出すに忍びない往事となった。だが私と同年齢の多くの者にとって、『文革』はただ痛苦、恐怖、大災禍ではなく、彼らが『文革』について語るとき、彼らが『文革』のときどの党派に属していたかに関わりなく、総じて一種の懐旧の念と喪失感を伴っていた。彼らにとって『文革』は一つの砕かれた夢であり、彼らはこの夢に自らの理想、情熱、追求を託していた。彼らにとって『文革』は失われたきわめて心地よい栄光の歳月だったのだ」。

 「私にしても当然これら一世代の若き日の理想と情熱を抹殺したいとは思ってはおらず、自分自身その中の十分積極的な一員だった者として、彼らを理解し愛惜している。だが私は彼らが主観的なものと客観的なものを区別することを希望する」。

 「肝心なことはわれわれの世代は騙されたのだということを承認しなければならないということである。・・・われわれの理想と情熱は弄ばれたのだ」。

 「私は『文革』の中で多くの若い学生たちが真心をもって真理を追求したことを承認する。だが多年来の極左イデオロギーの作用によって各種の紅衛兵理論はただ偽りの前提から演繹したものでしかなく、遇羅克らの文章を例外とするのみであった。中国の現代化、民主化の進行過程との関係でいえば、『文革』中の文章と理論は、そこに紅衛兵たちのどんなに多くの思考と探求が凝集されていたにせよ、すべて無価値である。たとえ〔文革〕後期に到って一群の紅衛兵たちが新たな認識を持ったとしても、それもまた『文革』が強いたもの、『文革』への教訓と反思の産物であり、それらの思想の成果を『文革』それ自身に帰すことはできないのである。悪事がときには良い結果を(高い代償を払ってだが)引出すからといって、われわれは良い結果のために悪事を働くことはできないようなものである」。 「自分は弁証法を捨てた」と徐友漁は言う。

 以上のような徐友漁の「総括と反思」は「新左派」たちの問題の所在に気づかぬままの文革再評価へ冷水をかけるものとなっている。だがここには微妙な問題があるように思われる。それは過去の経験の問題点の理論的根拠の認識の仕方なのだが、今日になって見えてきてことから過去を裁断するとき、その過去の清算の仕方が一歩間違えると人がこの現実に関わる実践的・理論的契機、回路の喪失となるという問題である。

 たとえば徐友漁は「中国は大きな災禍を代償に毛沢東主義と毛沢東式社会主義への別れを告げる機会を得た」、「文化大革命の災難は人々に毛沢東的社会主義の徹底的な破産を認識させた」と言う。(「社会の変動と政治文化」) ここには毛沢東の文革理論を部分的「誤り」とか部分的「悪」としてではなく、「誤り」そのもの、「悪」そのものとしてとらえ切り否定し去る意志が示されている。だがここに登場する先にふれた一つの罠、過去を総括する際に陥りやすい陥穽に徐友漁は必ずしも自覚的でないように思われる。

 たとえば徐友漁は「全体主義の思想的根源」を解明する作業の一環として、ポパー『開かれた社会とその敵』を取り上げ高く評価している。この本は読み物としてはきわめて面白いものだが、問題はそこでの「理論的根拠」の掘り下げの仕方である。 ポパーはそこでマルクス主義の問題性をヘーゲルからさらにプラトンの弁証法に遡ってその理論構成の中に抑圧的社会の「根拠」を解明しようとしている。だがこういう「思想的根源」の掘り下げの仕方は根本的であるかに見えてどこかに錯誤がある。たとえば思想の型として見れば同一に見える理論も、それが現実化するに際して置かれる諸媒介によって別の性格、機能を帯びる。

 たとえばマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東からその思想の抑圧的性格、型を抽出してそれを現実的抑圧の「思想的根源」とすることのどこに錯誤がはらまれるかといえば、抽出すれば一見同質のものとなってしまうそれらも、実際には各々のニュアンスやベクトルの差異を持ち、それはそれが置かれる諸条件、諸関係のもとでまったく別の働きをもつものとして現実化する(たとえばそれへの対抗思想や政治的対抗力の有無は大きな作用力を持つ、というように)ことが見落とされているからである。

 思想とその現実化の間にそれを媒介する以上のような諸条件、諸関係が果たす作用があるからこそ、人はある思想に対して否定か肯定かの二者択一ではない接し方、評価の仕方(「批判的継承」とか「弁証法的止揚」とか)が可能となるのである。それはそういうとらえ返しも可能ということではなく、どの思想もとらえ返しを可能とする側面を持っているということであろう。

 だからこそある局面である積極性を持っていた一つの思想が、何を契機にその堕落、退廃、敗北形態へと転化したかの見きわめが可能となる。ここでのテーマで言えば、当時の現実の中で「大民主」のはらんだ理論的・実践的な射程力、それが諸関係の中で造反派を鼓舞したことなど無意味とされて「走資派打倒の戦略の一環」に切りつめられ、それが本質だとされてしまうことである。ここからは「大民主」に批判的にであれ、肯定的にであれ総括的に関わる契機は失われ、ただ否定があるだけとなる。すなわち現実への理論的・実践的契機の喪失であり、その空隙はまったく別の新理論(種々の自由主義理論)によって埋められねばならないこととなる。たとえば徐友漁自身、文革のある局面での経験をつぎのように回想している。

 「差別、排斥され、打撃を受けてきた学生にとって、一九六六年、『毛主席を筆頭とする党中央』の名で公布された二つの文書は終生忘れがたいものとなった。・・・ほとんどの造反派積極分子がはっきり覚えていることだが、彼らがこの二つの文書の内容を知ったときどれほど感動し喜んだかは、あたかも死刑囚が釈放されたかのようであった。・・・彼らは当時の気持ちを期せずしてつぎのように表現した。『革命方知北京近、造反方覚主席親』(「革命してはじめて北京の近きを知り、造反したはじめて毛主席の親しきを感ず」)」。(『歴史に直面する』中国文聯出版社、2000)

 この「二つの文書」とは一九六六年一〇月、毛沢東と中央文革がそれまで曖昧だった文革の闘争対象を明確に「ブルジョア反動路線」に絞ったときの提起であり、それによってそれまで劉少奇、ケ小平主導下の工作組によって弾圧されていた「出身不好」の造反派の復権がなされたのである。この時期、毛沢東と中央文革の路線はそれが可能性としてはらんでいた「解放性」の頂点に達している。陳伯達のこの講話は劉少奇、ケ小平に連なる驕り高ぶった高幹子弟ら「老紅衛兵」の「血統論」を打ち砕き、江青もまた「血統高貴が何だと言うのだ」と叫んでいる。

 「この一時期、毛沢東と中央文革小組はこれら圧迫され、迫害された造反派の盟友であった」。(粛喜東「文革の中での指導者と大衆:言葉、衝突と集団行動」)それもまた徐友漁が言う「走資派」打倒の「戦略の一環」でしかなかったと見なすことは可能である。だがそれを「悪事がたまたま良い結果を引き出したもの」と見なすことはどこかに錯誤がある。

 良きこと(ここでは「解放性」)が純粋に確固として完成した姿で出現するということはないのであり、それは「すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境のもとで」(マルクス『ブリュメール十八日』)、限界を帯び、諸関係のなかで一歩まちがえればその退廃形態、敗北形態へと容易に転化しかねない脆さをもって登場する。

 徐友漁がなすべきだったのは、当時このように造反派を鼓舞した毛沢東と中央文革の路線がどのような問題点を持ち、いかなる文脈の中で否定的なものとなったかの解明であり、今日の到達点からそれを全否定することではなかった。

 徐友漁が数少ない例外とする遇羅克は紛れもなく文革のなかで現れた優れた資質を持つ思想家である。その文章には当時隆盛を極めつつあった姚文元らの「大批判」言語とは異質の論理と文体が示されている。「文化大革命はまさしく彼に文革前の一七年に造反する機会を与えたのであり、文革がなければ彼の『出身論』もなかった。だが他方、遇羅克は紛れもなく文革において重刑を科せられ、のちに銃殺されたのである。このことは文革の両面性を典型的に示している。それは解放的な一面と抑圧的な一面を併せ持っていたのである」。(祝東力)
どこか詭弁のにおいもするこの言い方の中には、しかし文革を見ていくに当たってわれわれが熟思しなければならないある真実もある。

 徐友漁も編者の一人である『遇羅克 遺作と回想』(中国文聯出版公司、1999)を見るとき、遇羅克もまた当時のイデオロギー世界と無関係に登場した突然変異だったわけでなく、「出身論」以外の「聯動」(中央文革を公然と批判した老紅衛兵組織)を批判した文章はきわどく中央文革の「走資派」批判の文章に近づいている。

4.毛沢東の「大民主」について

「新左派」崔之元、粛喜東らが毛沢東の「大民主」を「パリ・コミューン型原則」として高く評価するのに対して、「自由主義」の徐友漁ら、そして?小夏は、それは毛沢東の路線への支持を大前提にしたものであり、真に自主的なものの承認ではなかったことを強調していた。

毛沢東の「生き生きした政治的局面」という有名な言葉も、決して異なる見解の対立と共同として自由な政治空間を意味しなかったように、それらの指摘は当たっている。王力によれば毛沢東は端的に「大民主はプロレタリア独裁を前提とする」と述べたという。そして中国共産党の「プロレタリア独裁」がいかなるものであったかを考えるとき、「新左派」たちの「大民主」賛歌はそのことの総括の上になされるべきであろう。

ただ注意すべきことは毛沢東の「大民主」はただ「民主主義の欠落」でなく、レーニン「プロレタリア民主主義」論にもとづく主張だったということである。今日、「民主主義の軽視」を非難されるレーニンだが、それはレーニンが反民主主義的思想の持ち主だったからではなく、その民主主義論は将来社会における「国家の死滅」、「政治の死滅」、従って「民主主義の死滅」という壮大な展望の中に位置づけられていたのである。そしてそこにこそ異なる意見の撲滅をはじめとする「民主主義の軽視」ないし否定の根拠がすえつけられていたのであり、それはつぎのような論理構造を備えていた。

「レーニンがここで言おうとしているのはつぎのようなころであろう。

そもそも『平等な権利』や『多数者への少数者の服従』、『少数者の保護』等の『民主主義』の根底にあるのは『共同生活の根本規則』のことなのだが、それが『民主主義』という制度形態をとるのは階級矛盾が存在しているからであり、『民主主義』というのは『共同生活の根本規則』の疎外形態なのだ。もちろんわれわれは『民主主義』を軽視しないし、汲みつくしていかなくてはならない。だが『民主主義』の実現が目的ではなく、階級の消滅する共産主義社会では『国家形態としての民主主義』は『死滅』し、『共同生活の根本規則』が社会を律することになるだろう。

ここでさきの引用個所の一つをふりかえってみよう。

『われわれは多数者に少数者が服従するという原則が守られない社会秩序の到来を期待しているのではない。しかし、われわれは社会主義をめざしながらも、社会主義は共産主義へと成長転化するということ、またそれにともなって人間にたいする暴力一般の、ある人間の他の人間にたいする服従の、一般住民の他の一般住民にたいする服従の必要はすべて消滅することを確信している。なぜなら、人間は暴力なしに、服従なしに社会生活の基礎的諸条件をまもる習慣がつくだろうからである』。

だがここにはある理論的飛躍ないし欠落があるのではないだろうか? そしてこの間隙から将来における『民主主義』の死滅の名による現在的な『民主主義』の軽視がしのび込むことになる」。(倉田洋『非抑圧的政治の再生へ』新世出版同人、一九九一)

スターリンはこの論理を援用して、「国家の死滅」のための「国家権力の最大限の強化」を主張した。

毛沢東の「民主主義は手段」という主張も同じ文脈でなされているものである。だからレーニン、そして毛沢東の「民主主義」論を真に批判するとしたら、その「プロレタリア民主主義」論、さらにはこれまでの共産主義論、その将来社会論そのものの点検が必要なのである。「政治の死滅」論的「国家の死滅」論を心情的、無批判的に保持したまま、「民主主義の軽視」を非難してもはじまらないのである。


【.「告別革命」論の問題】
 以上のように「自由主義」の文革総括は「新左派」の甘さを突き崩す迫力を持ちえている。彼らの文革と毛沢東批判は部分的な批判にとどまることなくその理論的、思想的根拠そのものを抉り出そうとしている。朱学勤はこの問題を中国近代史に中に探ろうとして、中国革命の原動力となった「民衆主義」(「民粋主義」)、「民族主義」の二つそのものが問題だったと言う。(「五四以来の二つの精神的『病巣』」)

 だがここには先にふれたように難しい問題、陥りやすい一つの罠があった。こうして「革命」そのものがこれまでの神聖さを剥ぎ取られ、問題的なものとなる。李沢厚、劉再復『告別革命――二〇世紀中国を振り返って』(天地図書、1995)はそうした雰囲気の中で出版されている。両派に属しているわけではない李沢厚はこう言う。

  「七〇年代末から、私は何度も述べてきたのだが、国内や国外での影響の大きかった革命について、フランス革命を含めてロシア革命、辛亥革命等々をあらためて再認識、研究、分析、評価をすべきであり、革命方式の弊害、それが社会にもたらす各種の破壊を理性的に分析し、諒解する必要がある」。

 「私自身は文革後の反革命的気分の代表である」という楊曦光もまた、長期投獄の中での研究と思索、中国の現実の分析の結論だとして「革命」についてつぎのように述べている。 「私には二つの基本的観点がある。その一つは革命という方法によって専制を打ち倒すことはできない。二つは革命は民主化の過程を繰り延べてしまう。さらに言えば、現代の条件下ではもし国と国との戦争がなければ、上層階級内部の大規模な衝突や代理人間の戦争的な局面がなければ、革命という手段によって一つの専制政体を打ち倒すことに成功する確率はほぼ零に等しい。言い換えれば私は革命を主張しない。なぜならまさに一九四九年の革命が中国民主化の過程を数世代にわたって遅らせてしまい、ロシア革命がソ連の民主化を挫折させたように、革命は民主化の過程にとって無益だからである。したがって革命を阻止することが今日の中国の改革にとって十分に重大な現実的意義を持っているのだ」。 (「革命と反革命およびその他」)

 これが一つの歴史的な革命のあとに必ず生み出される「反革命」の情緒、心性、イデオロギー、思想なのか、それとも「戦争と革命の時代二〇世紀」を経て成熟した政治的思惟、智慧なのかは「自由主義」、「新左派」双方の内部でも論議があるようである。そしてそれは他人事ではないわれわれ自身の考察課題でもある。

 一方、「自由主義」もまた「市場」万能派と必ずしもそうではなく「社会的公正」と政治改革に力点を置くもの等の差異があるのだが、共に「新左派」の主張には強い警戒心を抱いている。その多くは文革をくぐっており、その一人徐友漁は文革史上名高い四川省成都での大武闘を経験した「出身不好」の元造反派紅衛兵の指導的メンバーの一人である。この両派が文革をめぐって何を論争しているのか、これはきわめて興味あることである。

中国の「新左派」・「自由主義」論争 NO.2――「二つの文革」論をめぐって (時田 研一            

 5.「二年(ないし三年)文革」以外の時期は何だったのか

 一九六八年ないし六九年をもって文革は終わっているとしたとき、それではそれ以降七六年までの時期は何だったのか。そこでは文革前の中国共産党の統治の復活が行なわれたのか、あるいはその共産党による旧来の「政治運動」が展開された時期なのか。

 だが「二つの文革」論はこの問題について曖昧であり、そこにはその論としての未熟さがあるように思われる。

なぜこの問題をテーマとして成立するのか? 「二年(ないし三年)文革」期以降も「走資派」権力が復活したわけではなく、粛喜東がふれたように一連の運動が続いている。それはもはや「六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」としてもである。

とりわけ毛沢東が文革本来の課題としていた「闘・批・改」(「闘争・批判・改革」)段階での「教育革命」をはじめとする中国社会各領域での「改革」の試みが始まったのは一九六九年以降である。

江青・張春橋グループによって「社会主義的新生事物」して大宣伝されたそれは、真に大衆的な創造物というより、「新興勢力」と表現された彼らの党派系列の者たちがヘゲモニーを握れば「革命的」というようなもので、のちにケ小平の「整頓」によって鋤き返されてしまうような底の浅いものでしかなかったが、「二つの文革」論者たちが総括問題としてもほとんど関心を示していないのはやはり彼らの弱点だろう。

「新左派」は少なくとも「鞍鋼憲法」の再評価を語り、「経済制度上の民主的制度」の未達成が文革失敗の一つの要因となったとすることによって、彼らなりの文革「闘・批・改」と「新生事物」の総括を深めようとしているのである。

しかし以上のようなことはさておいても、造反派世代が毛沢東路線の対象化、相対化、そしてその圏域からの自立の歩みを始めるのは、彼らにとって重要な世代経験となった「上山下郷」、林彪事件(「五七一工程」文書での文革批判の衝撃を含む)などを含めて、「二年(ないし三年)文革」のあと、すなわち彼らが文革から除外した時期においてなのである。

この時期を文革本来の特質が失われた平凡な時期として考察の対象から除外するのはやはり貴重な苦難の経験の浪費だろう。

一九七六年一〇月、江青・張春橋グループの打倒とその後の全国的な文革派勢力の掃滅が行なわれ、さらに徹底した「三種人」の掃討がなされたということは、「二年(ないし三年)文革」が消滅して以降も文革あるいは何らかの変革が続いていたことを意味する。それは造反派内「極左派」や「新思潮」によるコミューン革命路線ではなかったが、「走資派」の復活、旧来の共産党統治への逆戻りとは明らかに異なるものであった。

「二つの文革」論はコミューン革命路線以外の「革命」路線を対象化する力量を、当時の渦中ではともあれ、現在の総括論議においても持ち合わせていなかったようであり、だから毛沢東と江青・張春橋グループによる「闘・批・改」と「新生事物」、「批林批孔」、「批ケ反撃右傾翻案風」運動等にはほとんど関心を示していない。

また意味は異なるが、歴史に同じような現象は起こっており、たとえば旧社会に対するスターリン時代の「革命性」、さらにはナチスの「革命性」というものはあったのである。(アレクサンドル・ジュノビエフ『余計者の告白 上・下』河出書房新社、一九九二、ヘルマン・ラウシュニング『ニヒリズムの革命』筑摩書房、一九七二、等を参照)

 

6.思想の継承での媒介性

 ここでの問題は毛沢東文革理論から造反派が相対的に自立していく過程についてである。なぜこのことが問題となるのか。それは「新左派」たちの毛沢東理論の見直し、「文革再評価」――それは「改革開放」のもとでの貧富の差などを基礎にしつつも、多分に西欧で摂取した新理論の応用、グローバリズムのもとで触発された民族主義、等を心情的な背景としているのだが――を文革の現実を知らない者たちの幼稚な論と批判しつつ、かっての造反派世代が軒並み、全否定に近い毛沢東批判を行なっていることに関連している。

彼らの世代が「二年(ないし三年)文革」期、毛沢東と中央文革の大きな影響のもとで運動に関わり、毛沢東文革理論を読み込み、読み替えるなかから「新思潮」への歩みを始めたにもかかわらずである。

そこには一九六八年以降の毛沢東による造反派弾圧がいかにも過酷だったことからくる幻滅がまずあった。そして運動の沈下したこの時期、彼等の間で「地下読書運動」が盛んとなり、そこでマルクスの原典をはじめとして毛沢東理論以外の世界の左翼思想を大量に摂取されている。それは毛沢東思想の対象化、相対化の始まりを意味していた。

宋永毅によれば、文革後期、青年世代のかなりの層に「異端思潮」の大衆的基礎が作られていたが、「毛沢東思想」から「異端思潮」へのこの転化を準備した一つはこの「地下読書運動」だったという。(「文化大革命和他的異端思潮」田園書屋、一九九七)

彼らはこうして文革、さらには中国革命そのものを新たな目で見直し始めている。王希哲の、毛沢東を「農民革命」の指導者として見れば傑出した指導者だったが、プロレタリアートの党、共産党の指導者として見るのなら、「毛沢東にこの領域での貢献はあったか? ない、一点といえなかった!」という言葉はその代表的な一つであった。

「ウラジミール・チトーがこの世を去るとき、彼はユーゴスラヴィア人民に繁栄の自治社会主義と労働者民主主義を残したが、毛沢東がこの世を去るとき、彼が中国人民に残したのは経済的崩壊と警察のテロルだった」。(「毛沢東与文化大革命」)

これらのことがほぼ全否定に近い毛沢東評価の底にあったのだろう。こういう思想は滅び去るべきだというのが、彼らの実感であり、それはわれわれにとっても分からぬことではない、しかしそのことと彼らの「毛沢東の文革」、さらには毛沢東思想は当初からダメだったという把握が正しいかどうかは別である。

この問題を考えるとき王希哲が「自分は毛沢東をその最高の可能性で理解しようとしていた」と述べていたことが印象的である。そして彼は「人民の文革には潜在的な発生過程があった」、「これは胎児が母親の懐で育つように、一つの過程なのであり」とも言っている。

つまりそういうことなのである。新たな思想がまったく自力で、純粋培養されるということはありえず、それは何らかの形で優れた先行思想を引き継いでいる。毛沢東のそれを読み込み、読み替えるなかから造反派の「新思潮」も形成されたのであり、現在の到達地平から古いものを全否定するのは事実として誤りというのみならず、自分らの思想の形成過程を対象化し、教訓化することを放棄することを意味する。

「毛沢東は正統と異端の二重性格を兼備していたが、その根源は一九四九年建国以降の社会主義社会での階級、階級闘争への二重の概念にあった。宋永毅の異端の分類に対してここで強調しておくべきことは、宋永毅の文章が列挙している文革三大極左思潮(『新生官僚特権階級の打倒』、『旧国家機関の粉砕』、『階級関係大変動論』)は実のところ均しく毛沢東およびその文革グループに直接源を発しているのである」。(雲林「文革異端的判別標準」)

同じことを粛喜東、芦笛も述べていることを先にふれたが、新たな思想はそれを組み替える(それは時にはその部分的廃棄も含むだろう)ことを通して可能となったのである。

 

7.「人民の文革」の総括

 文革終息後、「反思」という言葉が流行した。「反省」とややニュアンスの異なるこの表現は、「新語辞典」によれば元々は哲学用語だったが、今は「往事のことの得失是非をふり返り、そこでの教訓と経験を総括し、認識する」という意味で用いられている。

だが「二年(ないし三年)文革」を民衆が共産党の恐るべき秩序に抗した「革命」と見る彼らは、「革命」を反思しようがないではないかという。

「われわれが誠実な態度で革命を反省するのはいいことだが、しかし私はあのような中国共産党当局による造反派迫害を基礎にした文革への反思を受け入れることはできない。革命への反思といえば、私には身体で感じ取った重要な何点かがある。第一点は共産党の秩序は革命の中の無秩序より恐るべきものだということである。第二点は共産党による系統的な政治的迫害は、秩序が保持されているときは人々にわざと忘れたふりをさせることができたとしても、人々はもはや儒家の思いやり、弱者の保護という原則を信じてはいず、こぞって迫害者を侮っている。というのは共産党の秩序なるものは、迫害を蒙っていない者、迫害された者への傍観者までもを差別するものだからである。しかし人々はこれらの迫害を本当には忘れていないのであり、だから一旦政治的支配が緩むや迫害された者たちはすぐさま革命愉快症となって爆発するのである。「六・四」時の学生たちが自分たちは平和的、非暴力的なのだと述べたとき、彼らは革命が一旦真に爆発するや、その結果は誰にも止めようがなくなる可能性を決して分かっていなかったのだ」。(「再談『文革』」)

ここには「革命」を経験した者のリアルな権力観がある。同時にそこには彼ら「コミューン革命」派をもとらえていた「革命」を「改朝改代」(王朝の交代)、「階級関係の大変動」、「財産と権力の再分配」と見る中国左翼の「革命」観の面影も伝わってくる。その上でこの「革命」に関わった者としての反省、総括はなされているわけだが、興味あるのは彼らが「文革徹底否定」論が人々に広範に受け入れられたのは造反派の運動の欠陥の故でもあったと認識していることである。

 

 王希哲――「各派間の民主」の問題が提起された

 「プロレタリア文化大革命以来、階級闘争の反映である各派間の闘争の経験は、新しい問題の研究を望むマルクス主義者の面前に、各派間の民主を突出した形で提起した。なぜならこの双方はいずれも民主的権利を持つべきだからである。一つの派が別の派を圧迫したのではうまくいかない。この種の後遺症は今なお少なくなったといえるだろうか?

ここでわれわれは理解するのだが、革命の隊列内部における、現在ではいわゆる『潮流派』と『反潮流派』の間の、過去においてはあのような圧迫と被圧迫との間の、甚だしくは鎮圧と被鎮圧の関係を、団結にもとづく批判と反批判の関係に変えるのでなければ、階級的民主は存在しえないのである。人民民主独裁が各派間の独裁に変質するならば、その独裁的な党派がたとえ『正しく』とも、広大な人民大衆を団結させることはできないのであり、それが誤っているときはまさしく社会ファシズムの始まりとなる」。(「李一哲大字報」)

 日本での党派間対立を考えるとき重要なこういう認識が、一九七四年の時点ですでにあったわけである。

楊小凱――「文革徹底否定」には「民意の基礎」があった

「実際のところ、彼らは中国共産党が維持してきた一七年間の暴政、各級官僚による政治的迫害と経済的搾取に対して反抗し、報復したのである。それに迅速に出現した大衆組織のなかにはある社会集団の利益を鮮明に代表する労働組合に似た一部の組織があった。たとえば『全国紅色労働者造反総団』(簡称『全紅総』)は契約工、臨時工が闘い取った経済的利益を鮮明に代表する造反組織だった。〔……〕概していえば、造反派大衆組織の発生は萌芽的な人権意識の要素をはらんでおり、それは正義性を具備していたのである。

しかしそれではいかなる原因が理性を備えた組織を迅速に暴力へと向かわせ、自己と他人と社会に重大な災難をもたらしたのか? ケ小平復活後の中国共産党が『文革』を全面的に否定したのは、これらの組織と造反が発生した所以である正義性を覆い隠すためであった。彼らは各々自らの『十七年の暗黒』を持っていたのである。

だが否定できない事実は、『全面的否定』には相応の民意の基礎があったことである。その根本的原因は造反派の行為の社会的結果への民衆の幻滅と嫌悪であった。そしてこの感情は今に至るも共産党当局によって、真の民主政治、政党政治と自由に反対するのに利用されているのである」。(楊建利、楊小凱「身体自由脳袋不自由――『文革』中『結社自由』的性質、教訓及対未来民主憲政的啓示」)

「従って、われわれは『文革』中の『自由』の本質を正確に把握しなければならず、造反派の行為方式に対する詳細かつ徹底的な分析と自己批判をしなければならない。そしてこれらの分析と自己批判はかっての造反派の良心の呵責というより、自己自身が未来に向けて提出する戒めと期待なのだ」。

「造反派はその発端において正義性を備え、萌芽的人権意識を持っていたとはいえ、根本的には『毛沢東』の枠組みから超脱できていず、すべてのことの最終的決裁者は『毛沢東』であった。その発端が左であれ右であれ、人々は皆やむを得ず思想的には左に寄ったのであり、行動上左翼的であることを競い、完全に毛沢東の左の穴に落ち込み、さらには毛沢東より左翼的であろうとしたのである。だからそこでは共産党イデオロギーからの独立は生まれず、さらに明確な民主的憲政思想が育つこともなかった」。

「造反派が一定程度自由思想を持っていたとしても、それは消極的意味での自由思想ではなく、積極的意味でのそれが主導的地位を占めていた」。

楊小凱らはここで積極的自由の追求は独裁を招来し、消極的自由の追求こそ民主主義への道だというバーリン「自由論」(みすず書房、一九七一)を援用しているわけである。


鄭義――「第二の文革の敗北の歴史的必然性」

鄭義は「第二の文革の敗北もある種の歴史的必然性を持っていた」として、つぎの二点を上げている。一つは造反派運動がおおむね「毛沢東の呼びかけに応じて」、「奉旨造反」という形を取ったことの諸結果であり、もう一つはそれがたちまち激烈な「内戦」となったことである。

毛沢東の名を用いての「奉旨造反」は当座はきわめて大きな効果を発揮し、闘争の発展に有意義に見えるが、しかしそれは大きな危険をはらんでいるという。

「プロレタリア独裁の名で毛沢東を奉じることは、きわめて厳密に編成されている専制主義の虚言の網の目に絡め取られることになる。もし無自覚に利用したのであれば、それはわれわれの思想を束縛し、虚言を持って真実とし、偽りが本当のこととなり、虚言の欺瞞を強めることになる。たとえ自覚的に利用したとしても、それはわれわれを自縄自縛に追い込み、歴史的チャンスが真に到来したとき、すでに腐敗した政治的枠組みを乗り越え、真に民主的な要求を提出することを困難にしてしまうのだ」。(「両个文化大革命??」)

「民衆と『皇帝』との関係の他に、民衆内部の関係もまた研究に値する課題である。ここには避けてはならない問題がある。第二の文革(すなわち人民の文革)は人民と共産党の大小の貪官汚吏との闘争であるのに、どうして激烈で残酷な内戦が各派大衆組織のあいだに爆発したのか?

中国共産党の『十七年』の暗黒統治を弾劾し、官製組織と各級の共産党機構を攻撃していた時期では各派の造反派組織は大体のところ協同一致していた。不幸なことに、奪権が始まり、真空になった権力を補填し権力を再分配する局面に直面して、造反派の分裂は滅ぼすか滅ぼされるまで闘うことを誓った両大派の対立となり、長矛大刀から機関銃、戦車の各種の武器を用いた血戦が始まった」。

「第二の文革は疑いもなくある種の民主的色彩を備えていたが、しかしそれは現代的民主制度を建設することを試みるには程遠かった。打倒は制度の転換ではなく、造反は取って代わることを意味した。権力構造の問題を根本的に解決するのでなければ、権力の争奪はまずわれわれ自身を内部から打ち砕くことになる。恨みを晴らすではダメであり、造反打倒ではダメであり、王朝の交代的な取って代わるではダメなのである。それは自由への道ではなく、それにそれら無原則的な権力闘争は人民に多大な苦難をもたらしたのである。これがすなわち一般民衆にもまた『文革徹底否定』の傾向がある一つの原因なのである」。

 このように彼らは「人民の文革」に無批判的なわけではなく、その反省、総括を進めているわけだが、ここでは思いつく二点を指摘するにとどめよう。

 その一つは、楊小凱、鄭義の総括を見るとき、先にふれた中国左翼の通弊たる「改朝改代」、「財産と権力の再分配」という「革命」観への反省、総括がなされつつあると感じられることである。この「財産と権力の再分配」という言葉は毛沢東が『戦国策』について語った中にあったものを江青がその講話「人民のために新たな手柄を立てよう」で引用し、当時、造反派紅衛兵たちに甚大な影響を与えたものである。「コミューン革命」論はその種の「革命」観の転覆であったのにもかかわらずである。

 一方、にもかかわらずその「コミューン革命」論が「社会革命」論としてほり下げられていないことである。それはたとえば先に見たように「闘・批・改」期の「社会主義的新生事物」への無関心に示されている。

 しかし造反派紅衛兵世代や「新思潮」派にこの問題領域への関心がなかったわけではなく、彼らは自ら「社会調査」を行なったり、臨時工・契約工の運動に関わったりしてきた。

だがそれらは弾圧され、また江青・張春橋グループの「新生事物」への反発もあってそれを深めていないということなのか?

  五、今後の検討課題――「告別革命」論をどう見るか

 さて、「二つの文革」論者たちは「毛沢東の文革」を批判しつつ、そこから「人民の文革」を分化させ、そうすることによって自分ら造反派の運動を救済し、今日の「民主化」運動に繋げようとしている。そして「人民の文革」も無傷だったわけではなく、毛沢東崇拝からの脱却の過程、とりわけ悲惨な造反派間武闘について反省、総括しようとしている。

だが彼らの前に一つの強力な論点が持ち出されている。すなわち「告別革命」の主張である。

戊辰変法(一八九八年)のあと、二〇世紀に入っての中国は、辛亥革命(一九一一年)、国民革命、そして中国革命(一九四九年)と三度にわたる革命を行なってきた国である。とりわけ五・四運動(一九一九年)以降、革命、それもマルクス主義的な意味でのそれが体制批判者たちにとって追求すべき第一義の課題となり、そして当然一九四九年以降は、革命は疑いを許さない絶対的価値であり、くり返し想起すべき栄光の事跡となった。

 その中国でついに革命を否定する言説が登場したのである。民主派知識人たちの一部による「告別革命」論の提起である。李沢厚、劉再復の対話録(『告別革命――回望二十世紀中国』天地図書、一九九五)の表題に用いられたこの言葉は以後人口に膾炙し、それへの賛否両論がインターネット論壇を賑わしている。

その背後にあったのはいうまでもなく文革体験であった。ケ小平とそれ以降の中国共産党当局は建前としてはマルクス主義と革命を保持しつつ、「文革徹底否定」大キャンペーンによってそれを空洞化させていく。そして一八九八年の「六・四」運動(天安門事件)、それを前後するソ連・東欧の崩壊のなかで、国際的なマルクス主義と革命への否定の流れが中国にも波及したわけである。

「告別革命」論に先立って二〇世紀中国の革命経験をふり返る論議が始まったのは一九九〇年代の「急進主義」批判である。それはまた「六・四」運動の総括でもあった。だがそれらとは別に紅衛兵世代のもう一つの総括作業が進行していた。その代表的なものとして楊小凱の革命批判がある。

楊小凱が革命の否定的問題性にふれた「中国政治随想録」を書いたのは一九八七年であり、「六・四」の前である。つまりそれはソ連・東欧解体以降の全世界的な社会主義と革命の権威失墜の前であり、楊曦光にとってそれは文革総括の一端だったわけである。今日、楊小凱は自らの「反革命」としての立場を部分修正している。

「現在、私はこの観点を修正しようと考えている。というのは革命理論にもその合理性があるからだ。〔……〕革命は総じて統治者に対する一種の威嚇である。この威嚇がなければ政府の人民への奉仕の承認も信じがたい。威嚇があってはじめてその行為も物事の筋道から大きく外れることができなくなるからだ」。(向継東「革命与反革命及其他――奥州社科院院士、経済学講座教授楊小凱訪談録」)

楊小凱は「革命権」を再確認したわけである。

「二つの文革」論との関連でいえば、「告別革命」論の主張は、文革の失敗はそれが「毛沢東の文革」だったからだけでなく、「革命」そのものの問題性なのだということになる。ということは「人民の文革」もまたそれを免れないことになる。

「新左派」たちの一部はすぐさまこの「告別革命」論に噛みついている。

「一つの幽霊、革命よさらばという幽霊が中国を徘徊している。一つの声、革命よさらばという声が中国に木霊している。それらをちょっと聞いてみよう。

孫中山は二十世紀中国の乱臣賊子である。辛亥革命は巨大な歴史的悲劇であり、中国の憲政への道を閉ざしてしまった。

毛沢東は李自成と始皇帝を足したものであり、中国革命は根本的に一つの歴史的誤解であって、日本の侵略が中国革命の成功の機会を与えたのであった。

一九六八年五月、パリの街頭に流れたあの鮮血こそ革命の太陽が歴史の天空に投げかけた最後の残照だった。〔……〕

一九九〇年代の中国はもはや二〇余年前のあの中国ではない。すべてのものはただ形式上禁止されるが、個人的交流の場に持ち込まれることを誰も禁ずることはできない。こうしてこの何の論証も必要とせず自然に成立した命題が中国に流伝し、それが広まる速度は比べようのない伝染病そのものだった。

ここ数年、人々が皆喜んで受け入れた有名な言い方は『中国は絶対乱れてはならない』であった。

ここで教授先生たちはいう、革命よさらば、中国は混乱してはならない。民主人士たちはいう、革命よさらば、革命はただ専制をもたらすだけである。社会のエリートたちはいう、革命よさらば、革命はただ富を奪い、貧者を救うだけである。青年学者たちはいう、革命はただ流血の犠牲をもたらすだけである。官位に就いた貴人たちはいう、革命よさらば、安定が一切を圧倒する。……革命よさらば! 革命よさらば!」(粛武「革命死了、革命万歳!――為革命申弁」)

 それでは「二つの文革」論者たちはこの問題にどういう態度を取ろうとしているのか? それがつぎのテーマである。


追悼:この7月7日、楊曦光死去とのことです。55歳(あるいは56歳)。ネットに元造反派たちの追悼がたくさん流れ、劉国凱、王希哲らが弔辞を書いています。






(私論.私見)