毛沢東の文革理念

 (最新見直し2006.1.7日)

 「文化大革命」解析中)

 「毛沢東は全世界の百余の自称共産党がこの課題を忘れたとする認識に基づいて、純正な共産主義者たらんとしてこの課題に応えようとした。結果は大失敗であった。それは風車に立ち向かうドン・キホーテであったのか。それとも太陽に向かって火を盗もうとするプロメテウスの冒険であったのか。毛沢東自身は自らを孫悟空になぞらえて、孫悟空が天を騒がしたように『無法無天』に旧世界を破壊し、新世界を樹立しようとした。しかし、彼は旧世界の破壊には成功したが、新世界の樹立には失敗した」。


 毛沢東の考えた文化大革命とは、いったい何であったのか。「文革」の綱領的文件とされているものはいくつかある。たとえば「五・七指示」、「五・一六通知」、「一六カ条の決定」、「継続革命の理論」などである。これらのうち毛沢東の発想の原点が明確に現れているものと、毛沢東の発想を踏まえて文革派の理論家たちが理論化したものと二つの系列に分けられる。ここで「五・七指示」は毛沢東の発想の原点が色濃く現れており、「文革」における「建設の綱領であった」とみなされている(王禄林論文『党史研究』1987.2期)。後三者は中共中央の決定あるいは『人民日報』の社説として書かれているため、内容がより整理されている反面、毛沢東の発想は輪郭が曖昧になっている。ちなみに、「五・一六通知」は「文革」における「破壊の綱領」であると評されている。

 「五・七指示」は、毛沢東の共産主義モデルを明らかにしそのイメージを語った最も重要な文献の一つであり、解放軍総後勤部の農業副業生産についての報告に対するコメント(原文=批示)として、毛沢東が林彪宛て書簡の形で書いたものである。これはむろん単なる私信ではない。私信の形をとって毛沢東の政治的抱負を示したものであり、林彪はいわば側近として、この私信の公表を命じられたに等しい。1966.5.15日に全党に「通知」されたが、その際に歴史的意義をもつ文献であり、マルクス・レーニン主義を画期的に発展させたものと説明されていた。

 1966.8.1日付『人民日報』社説「全国は毛沢東思想の大きな学校になるべきである」の中で、その基本的精神が説明された。社説はいう。「毛沢東同志はわが国社会主義革命と建設の各種の経験を総括し、十月革命以来の国際プロレタリア階級とプロレタリア独裁の各種の経験を研究し、とりわけソ連フルシチョフ修正主義集団が資本主義復活を実行した重大な教訓を吸収し、資本主義の復活をいかに防ぎ、プロレタリア独裁を強固にし、逐次共産主義に移行するのを保証するかの問題に、科学的な答案を創造的に作り出した」、「毛沢東同志の提起した各業各界が工業も農業もやり、文も武もやる革命化した大きな学校とする思想こそがわれわれの綱領である」。 

 この社説から当時の「五・七指示」の意義付けが知られる。原文は簡潔明解な短文であるので、これを全文分析してみる。

 1、社会の有機的構成に関する社会主義化の指示

 社会主義社会では、その社会構成をまず社会主義的な有機的構成へと変革せねばならない。但し、この変革の方向は突飛な、「なんらかの新しい意見だとか、創造発明だとかではなく、多くの人間がすでにやってきたことである。ただ、まだ普及されていないだけなのである。軍隊に至ってはすでに数十年やってきたが、いまもっと発展しただけのことである」。

 概要「まず、軍隊の任務が改造される。軍隊は、世界大戦の有無にかかわりなく共産主義への移行形態としての『大きな学校』足らねばならない。軍隊は、戦争に備えるだけでなく日常的な各種の工作任務がある。第二次世界大戦の八年間、各抗日根拠地でわれわれはそのようにやってきたではないか」。

 この「大きな学校」は、政治を学び、軍事を学び、文化を学ぶ。さらに農業副業生産に従事することができる。若干の中小工場を設立して、自己の必要とする若干の製品、および国家と等価交換する製品を生産することができる。この「大きな学校」は大衆工作に従事し、工場農村の社会主義教育運動に参加し、社会主義教育運動が終わったら、随時大衆工作をやって、軍と民が永遠に一つになることができる。また随時ブルジョア階級を批判する文化革命の闘争に参加する。こうして軍と学、軍と農、軍と工、軍と民などいくつかを兼ねることができる。むろん配合は適当でなければならず、主従が必要である。農、工、民の三者のうち、ある部隊は一つあるいは二つを兼ねうるが、同時にすべてを兼ねることはできない。こうすれば、数百万の軍隊の役割はたいへん大きくなる。

 労働者、農民、学生にも又社会主義的任務がある。のやるべきこと。労働者は工業を主とし、兼ねて軍事、政治、文化を学ぶ。社会主義教育運動をやり、ブルジョア階級を批判しなければならない。条件のあるところではたとえば大慶油田のように、農業副業生産に従事する必要がある。農民は人民公社の農民は農業を主とし(林業、牧畜、漁業を含む)、兼ねて軍事、政治、文化を学ぶ。条件のあるときには集団で小工場を経営し、ブルジョア階級も批判する。学生は学を主とし、兼ねて別のものを学ぶ。文を学ぶばかりでなく、工を学び、農を学び、軍を学び、ブルジョア階級を批判する。学制は短縮し、教育は革命する必要がある。ブルジョア知識人がわれわれの学校を統治する現象をこれ以上続けさせてはならない。第三次産業(商業、サービス業、党政機関工作人員)従事者も条件のある場合にはやはりこのようにしなければならない。

 2、分業廃棄、商品経済廃絶

 分業の廃棄、商品経済廃絶に向かうべしであるとした。分業が廃絶されれば、分業に伴う労働生産物の交換すなわち商品経済は不要になる。この意味で分業の廃棄と商品経済の廃絶とはメダルの両面であった。これは、マルクスの『ゴータ綱領批判』のなかで指針されている「分業から解放され、個人が全面的に発展する社会」へ向けての能動的な取り組みであったと考えられる。それは、「商品経済の廃棄こそが共産主義への道であるとする認識」に基づくマルクス主義理論の生硬な適用であった。

 問題は、マルクスは資本主義社会の到達した高度の生産力を前提として分業の廃棄を考えたが、毛沢東の場合は中国の後れた経済、自然経済を多分に残した段階でそれを提起した点に大きな違いがある。この点につき、毛沢東自身は生産力の発展を追求しなかったわけではない。生産関係の変革を通じてこそ生産力を飛躍的に発展させうるのだというのが毛沢東の信念であった。

 ちなみに、毛沢東の商品経済観点は二転三転してきている。1958.11月には賃金制度の廃止、供給制度の復活、すなわち月給による消費財の購買ではなく、消費財の貨幣によらざる分配を主張している(『万歳』二五〇頁)。しかしまもなく、経済困難に直面して商品生産は多すぎるのではなく、少なすぎるとも述べている(『万歳』丙本一二一頁)。その後、60年代初期の思索と研究を経て、共産主義への移行を早めるためには、商品生産と貨幣交換制度を逐次廃止しなければならないと考えるに至った。ここで登場したのが自給自足(あるいは半自給自足)による「大きな学校」構想であった。1966年に「五・七指示」によってこの構想にたどりついて以後、毛沢東はもはや動揺することなく、断固として商品経済の廃絶の道を彼なりの歩き方で歩み始めた。それから10年後の1975.2月、毛沢東は有名な理論問題についての指示を発表した。「八級賃金制、労働に応じた分配、貨幣交換、これらは旧社会といくらも違いがない」(『人民日報』1975.2.9日)。この問題について毛沢東がいかに一貫していたかを端的に示す重要証拠である。

 ところで、今日の中共はこの理論を毛沢東のドグマであったとして否定している。「商品経済の十分な発展は、飛び越えることのできない発展段階であると認識し、それを党中央の公認見解としたのは、1984.10月「経済体制改革についての決定」においてである。この間20年近くにわたって中共は、「分業の廃棄、商品経済廃絶に向かうべし」であるとしていたことになる。

 3、平等主義

 毛沢東は、社会的分業を廃棄し、商品経済を廃絶しようとした。根本的目標は、「労働者と農民、都市と農村、肉体労働と精神労働の差異を逐次縮小していく」(『人民日報』1966.8.1日社説)ことにあった。これらの「三大差異の消滅した平等主義(原文=平均主義)の社会こそが共産主義社会である」と理解されていた。

 正統的なマルクス主義は、三大差異の根拠を生産力の発展段階と結びつけているから、三大差異の廃絶をただちに提起することはしなかった。しかし、毛沢東はそうした考えを日和見主義として排斥し、政府政策の極めて主意的能動的な発動により三大差異の廃絶が可能であると考えた。現実よりも理念の力の方を重視したことになる。

 ここに毛沢東主義の特徴がある。「中国革命の成功の経験に眩惑されたことが挙げられよう。ここから客観的法則を軽視する主観主義が生まれた。主観能動性の哲学は、毛沢東の真骨頂だが、これが空想論に飛躍し、空想的社会主義に陥った」とみなされている。 

 毛沢東は、当時の劉少奇ら党中央の第一線指導部のやり方は我慢のならないものであった。1966.8.4日の政治局常務委員会拡大会議でこう語って出席者を驚かせた。「北洋軍閥や国民党が学生運動を弾圧しただけでなく、いまやわが党内に学生運動を鎮圧する者がいる。これは路線の誤りだ」(『万歳』650頁)。続いて
8.5日毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報を書いて、ブルジョア司令部の批判を呼びかけた。但し、「私の意見は(8期11中全会で)過半数をわずかに上回る支持を得たにすぎなかった」と、後(1967.5月)に毛沢東自身がに語っている(『万歳』674頁)。8期11中全会から1966年末まで文革の中心内容は、ブルジョア反動路線の批判であった。

 この時、毛沢東個人崇拝が極限まで高められ、事実上党中央の集団指導体制に代替した。ただし、11中全会の時点では、ブルジョア反動路線の批判およびその路線の執行者としての劉少奇批判が決定されたわけではない。毛沢東個人崇拝の高まりのなかで、紅衛兵運動が現れ、個人崇拝がいやますという構造であった。


 次に、「五・一六通知」から毛沢東の文革構想をとらえて見る。「五・一六通知」は、1966.5.4〜26日の政治局拡大会議の途中の5.16日、毛沢東が主宰して制定した「中国共産党中央委員会通知」だが、毛沢東自身はこの会議には出席していない。彼は舞台裏でこの会議を動かした。まず4月中旬に康生、陳伯達が主持して起草し、毛沢東が幾度か修正したのち、4.24日の政治局常務委員会拡大会議で基本的に採択され、5月政治局拡大会議に提起されたものであった。

 この「通知」の直接的狙いは、「二月提綱」の破棄にあった。すなわち彭真を組長とする「文化革命五人小組」が会議を開き、「当面の学術討論についての匯報提綱」(略称「二月提綱」)を作成したのは1966.2.3日である。翌々日2.5日に劉少奇が在北京の政治局常務委員を招集してこれを討論した。彭真がこれに手を加え、2.7日に武漢滞在中の毛沢東に電報で知らせた。翌8日、彭真、陸定一、康生は武漢へ行き、毛沢東に内容を報告した。2.11日、彭真は武漢で中央に代わって「文化革命五人小組の当面の学術討論についての匯報提綱を批転する中央の批語」を書いて、12日朝、北京に電報で伝えた。在北京の政治局常務委員間で回り持ち承認したのち、中共中央文件として発出したものであった(『注釈本』八九頁)。

 「五・一六通知」はこの「二月提綱」を攻撃の対象として、こう難詰した。「二月提綱」は実際には彭真同志一人のものであり、彭真同志が康生とその他の同志に背いて自分の意見によりデッチあげたものだ。彭真はきわめて不正当な手段で武断的専横的に職権を乱用し中央の名義を盗んであわてて全党に発表したものに過ぎない。

 「五・一六通知」は、「二月提綱」を批判した後、次のように「文革」の大きな旗を高く掲げた。@・反党反社会主義のいわゆる学術権威のブルジョア的反動的立場の徹底的な暴露、A・学術界、教育界、新聞界、文芸界、出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判し、これらの文化領域における指導権の奪取、B・これをやり遂げる為に、党、政府、軍隊、文化領域に紛れ込んだブルジョア階級の代表を批判し、洗い清め、一部は職務を変える必要があるとしていた。というのは、反革命社会主義分子は一度機会が成熟するや、政権を奪取し、プロレタリア独裁をブルジョア独裁に変えようとするからである。要するに、ブルジョア知識人批判、党、政府、軍隊、文化領域のブルジョア階級の代表の粛清である。ここには中国共産党の指導部がすでに修正主義によって汚染されているとする事実認識があった。「われわれの身辺に眠るフルシチョフ」という不気味な表現も、この時登場した。

 こうして「文革」の初期に「旧世界をたたきつぶせ」、「新世界を建設せよ」というスローガンが声高に叫ばれた。同じ趣旨は「破旧立新」の四字で表現され、後には「破私立公」の四字でも表現された。毛沢東が文革を発動した目的は、単なる権力闘争をはるかに越えており、旧世界(中国)をたたきつぶし、中国に新世界を建設するという気宇壮大なものであった。しかも「中国は世界革命の兵器工場たれ」(『万歳』679頁)というアピールと連動していたことから分かるように、毛沢東のいう新世界とはさしあたりは中国における新世界ではあるが、それは世界革命の基地としての中国なのであり、この意味では毛沢東の文革構想は地球レベルの新世界を対象としていたことになる。 

 次に、「十六カ条の決定」が為された。これは8期11中全会(8.1日〜12日)さなかの8.8日に採択された。1966.7.8日毛沢東は「江青への手紙」の中で、「文革」について、「修正主義反対、修正主義防止(原文=反修防修)の演習だ」と語っている。「十六カ条の決定」はいわばこの演習のためのプログラムであった。冒頭で、「文革は人々の魂に触れる大革命である」と指摘し、次いで「我々の目的は資本主義の道を歩む実権派を打倒し、ブルジョア的反動的学術権威を批判し、ブルジョア階級と一切の搾取階級のイデオロギーを批判し、教育を改革し、文芸を改革し、社会主義の経済的基礎に合わないすべての上部構造を改革し、これによって社会主義制度を鞏固にし、発展させることである」としている。要約すれば、実権派の打倒と上部構造の改革である。

 この目的をどのようにして達成しようとしたのか。党の指導部が思い切って大衆を立ち上がらせるか否かが文化大革命の運命を決するとして、党の各級組織の状況をつぎのように分析している。@・運動の最前線に立つ指導部、A・闘争を理解できない軟弱無能な指導部、B・常日頃あれやこれやの誤りを犯しており、大衆を恐れている指導部、C・資本主義の道を歩む実権派の握っている指導部、の四種類に分け、Aの状態を改め、Bの誤りを改めるよう激励し、Cの実権派を解任することである、としている。ここでは党中央は正しいが、各級党委員会にはさまざまの問題があると認識されている。

 大衆を立ち上がらせる方法として、「大鳴、大放、大字報、大弁論」の「四大」(これは「大民主」とも呼ばれた)が打ち出された。「文革」の主力軍は、広範な労働者、農民、兵士、革命的知識人、革命的幹部であるとされた。大衆に対してはプロレタリア文化大革命において、大衆が自分で自分を解放することを求め、大衆の解放を誰かに委ねることはできないと強調していた。大衆を信頼し、大衆に依拠すること、革命運動のなかで自分で自分を教育することが呼びかけられ、最終的には95%以上の幹部、95%以上の大衆と団結することが党の指導部に求められていた。

 「文革」の推進機関としては、党の指導のもとに大衆が自分で自分を教育する組織形態として「文化革命小組、文化革命委員会、文化革命代表大会」を設けるものとし、これは党と大衆を結びつける最良のかけ橋であり、「文革」の権力機構であるとしていた。しかもこれらの組織は長期の常設の大衆組織として、学校、機関、工鉱企業、街道、農村に設けるものとし、そのメンバーの選出においてはパリ・コミューンのような全面的選挙制を実行するものとされていた。


 「十六カ条の決定」は、毛沢東の強いリーダーシップのもとに執筆されたものであるが、このとき毛沢東は党の指導と大衆運動との関係、党の上級と下級との関係をどう考えていたのであろうか。党中央と各級党委員会との関係については、上からの指導として処理できるであろうが、そうなると大衆の自己解放との関係はどうなるのか。党中央内部に実権派がいるとすれば、党中央の改組あるいは奪権を党中央の指導のもとで行うという自己矛盾に逢着してしまう。また、文革の推進機関はパリ・コミューンのような選挙制によるというが、その場合党の指導をいかにして確保するのか。党の指導とパリ・コミューン理念(たとえば全面選挙制)はそもそも矛盾しているのではないか……。

 このように、「十六カ条の決定」に描かれた文革の理念は大きな矛盾をはらんでいた。なかでも資本主義の道を歩む実権派の概念の曖昧性は最大の欠陥であった。しかし、これらの矛盾、欠陥にもかかわらず、この理念は大衆の琴線に触れるものを含んでいた。党の指導が命令主義、奴隷主義に転化するなかで窒息しそうになっていた中国の大衆、なかでも感受性の豊かな学生たちは、大衆の自己解放というアピールに大きな魅力を感じたようである。


 1966.11.3日、林彪は天安門楼上から毛沢東の校閲を得た講話をこう読みあげた。「毛主席の路線は大衆をして、自分で自分を教育し、自分で自分を解放する路線である。大衆を信頼し、大衆に依拠し、思い切って大衆を立ち上がらせる路線である。これは党の大衆路線の文化大革命における運用であり、新発展である」。

 これらを貫く原理は、「プロレタリア独裁下の継続革命」論であった。但し、この理論が極めて権力闘争を帯びて発動されたところに「文革」の特徴がある。当時の「プロレタリア独裁下の継続革命」論の一つの核心は、党内の実権派がブルジョア司令部を形成したとする認識であり、もう一つはこの司令部を覆すための政治革命が必要だとする考え方と密着していた。

 1966.12.31日、毛沢東は、「翌1967年は全国で全面的に階級闘争が展開される一年となろう」という見通しを明らかにした。まもなく上海の造反派が奪権闘争に着手するや、これは一つの階級が一つの階級を覆したもので、一場の大革命であると断定し、全国的に全面的に奪権闘争に取り組むよう呼びかけた。こうしてプロレタリア独裁下の継続革命論がほぼ骨格を整えた。いまや文革の対象は、劉少奇の修正主義政治路線と組織路線であり、劉少奇の各省レベル、中央各部門における代理人と目標が定められた。

 1967.11.6日、『人民日報』『解放軍報』『紅旗』の共同論文「十月社会主義革命の切り開いた道に沿って前進しよう」は、継続革命論の核心を6カ条にまとめた。これは陳伯達、姚文元が主持して起草したものだが、毛沢東自身が校閲している。

@ マルクス・レーニン主義の対立統一の法則を用いて社会主義社会を観察しなければならない。
A 社会主義社会は相当に長い歴史段階であり、階級・階級闘争・階級矛盾が存在し、社会主義と資本主義の二つの道が存在し、資本主義復活の危険性が存在している。平和的変質を防ぐために、政治戦線、思想戦線における社会主義革命を最後まで行わなければならない。
B プロレタリア独裁下の階級闘争は、依然政権の問題すなわちブルジョア階級がプロレタリア階級を覆す問題である。プロレタリア階級はプロレタリア独裁を強固にしなければならない。プロレタリア階級は各文化領域を含む上部構造においてブルジョア階級に対して全面的独裁を行わなければならない。
C 党内の資本主義の道を歩む実権派とは、ブルジョア階級の党内における代表である。彼らに奪われた権力をプロレタリア階級の手中に奪回しなければならない。
D 継続革命にとって最も重要なことは、プロレタリア文化大革命を展開することである。
E 文革の思想領域における根本的綱領は、私と闘争し、修正主義を批判すること(原文=闘私、批修)である。 

 その他ソ共との徹底的な対立を煽ったのも文革命の特徴として挙げることが出来る。この時期、ベトナム戦争がエスカレートし、中米戦争に拡大するという危機感のなかで、毛沢東の指導する中共指導部は社会主義を守るための体制を強化しなければならないと考えていた。1968年のチェコ事件(プラハの春の武力鎮圧)以後、中国はソ連を「社会帝国主義」と断罪するようになり、中ソ関係は極度に悪化し、1969年には国境衝突さえ頻発した。いまや敵国はアメリカ帝国主義だけではなく、ソ連社会帝国主義がこれに加わった、と毛沢東は判断した。

 古来、遠交近攻という格言があるように、中国はこの頃から遠いアメリカとの友好関係の構築に向かっていった。近くのソ連の方が危険な敵だと判断したのかもしれないし、ソ連の修正主義者と中国の修正主義者(文革の標的とされた実権派たち)の結託を恐れたのかもしれない。いずれにせよ、毛沢東はここで昨日の敵アメリカと手を結び、より危険な敵ソ連と対決することを決めた。毛沢東と周恩来が対米接近の秘密接触をはじめたとき、毛沢東とその親密な戦友林彪との間に対立が発生している。その因果関係は不明であるが、奇奇怪怪な動きでもあるように見える。



【毛沢東の実権派批判の視角】
 毛沢東は、建国以来の「5ヵ年計画」、「大躍進政策」、「人民公社運動」の失敗にどう対処しようとしたか。恐らく、「理論は正しいが、力関係のゆえに一時的に失敗したにすぎぬとうけとめた」。もっと社会主義精神を発揚させ、これに敵対する修正主義者との闘いが必要であると総括した。毛沢東のいう修正主義者とは、最初はフルシチョフを初めとするソ連指導部を指していたが、60年代前半の調整期に現実的な政策を推進した中国の党官僚、行政官僚たちを指すようにしだいにエスカレートしていった。特に農村でおこなわれた社会主義教育運動の過程で、一部の幹部は「資本主義の道を歩む実権派」になったと毛沢東は断定し、これが革命の最大の妨害物であると位置付けていくようになった。

 この認識が文化大革命へと繋がっていくことになる。今日、概要「毛沢東はこうして文化大革命において、大躍進の失敗を拡大再生産することになる」、「失敗から正しく教訓をひきだし総括することができなかった」と総括されている。


【「文革」とソ連の大粛清の比較】

 文化大革命とソ連の大粛清の比較を論じた興味ふかい論文がある。「大粛清と文化大革命の悲劇には、共通の歴史的原因、社会的原因がある。両者ともに集権体制、個人崇拝、経済的後進性、思想認識の一面性、封建独裁制の残滓などの要素がかさなって作用した結果である」(銭澄、孟咸美「“大粛清”と“文化大革命”」『揚州師院学報』八九年一期)。

 この論文は、両者に共通する要素として、1)政治体制の面では個人崇拝、集権体制、官僚主義などの矛盾が激化していたこと、2)社会主義建設の過程で、経済的後進性という条件のもとで農業集団化、工業化を加速しようとして矛盾が激化したこと、3)イデオロギー面では、その理論に欠陥があったことを指摘している。

 くわえて、ソ連におけるツァーリズムの遺制、中国における封建遺制がそれぞれの社会心理の基礎として存在したと分析している。

 筆者の問題意識は次の一句に示されている。「歴史は改革を要求している。時代は改革をよびかけている。社会主義国は経済体制改革を行うだけでなく、政治体制改革とイデオロギー領域での改革を行わなければならない。そうして初めて大粛清と文化大革命のような悲劇の再演を避けることができよう」。

 この論文の基調は、天安門事件直前の中国知識人界の風潮を反映しているように思われる。しかし天安門事件以後、政治体制改革に関わる議論は途絶えた。



【李沢厚氏の「文革」分析】

 中国社会科学院哲学研究所研究員であり、美学研究で知られている李沢厚氏の「1949〜1976:中国イデオロギーの反省」は、興味深い毛沢東思想論の研究となっている。

 李沢厚はまず1949年の建国革命までの毛沢東の努力が極左路線批判であったにもかかわらず、49年以後の毛沢東の努力は右傾路線批判に重点が置かれていたと分析している。概要「革命前の極左批判は、『革命の現実から出発したもの』であるのに対して、革命後の右傾批判は『主観的な願望、理想に基づくもの』にすぎなかった。つまり、極左批判の毛沢東は唯物論者だが、右傾批判の毛沢東は観念論者である。革命後の毛沢東の基本的立場は革命前の毛沢東が批判してやまなかった極左的観点そのものであった」と批判している。

 概要「毛沢東思想の源泉は、建国に至るまでの戦争経験にほかならない。毛沢東は解放区で政治教育を通じて紅軍兵士に階級意識を植付け、苦しい闘争のなかでも恨み言を言わずに黙々と戦う戦士を養成した。つまり毛沢東は政治工作によって敵との決戦に勝利したが、この勝利体験が革命後に絶対化された。こうして、『両軍対戦モデル』が思考パターン化した。たとえば唯物論と観念論の『両軍対戦』、地主階級と農民階級の『両軍対戦』、文芸上の現実主義と反現実主義の『両軍対戦』などである。彼の論文に『戦役、戦略、制高点、突撃、突破口』など軍事用語が多用されたことは、この間の事情を物語っている」とも分析している。

 李沢厚はここで毛沢東の文化大革命の論理を挙げていないが、資本主義の道を歩む実権派という考え方なども、恰好の事例であろう。この観念が毛沢東の頭脳にひらめいたとき、昨日の同志劉少奇は、悪い同志ではなく、憎むべき仇敵に化したのではないか。さらに、中ソ対立が激化したとき、毛沢東はソ連をきっぱりと社会帝国主義と断定して、アメリカとの関係改善をはかったのであった。

 李沢厚は、概要「1949年以後の毛沢東戦略は唯物史観にそむいている。たとえば農業集団化においては、集団化により生産関係を変革してこそ、トラクターを利用し、生産力を発展させられるとした。政治という上部構造を突出させてこそ経済という下部構造を統帥できるとした。また思想改造によって共産主義の新人を育成できるとしたのも、唯物史観にそむいている。スターリンは唯物論の著作を書いたあと、唯物史観の著作を書いたが、毛沢東が書いた『実践論』、『矛盾論』、『人民内部の矛盾』などはいずれも唯物史観の著作とはいえないし、また唯物論の直接的援用にすぎない」とも云う。

 毛沢東は生産関係とイデオロギーの変革を強調したが、現代的生産力、生産方式に求められる科学・法制・経営管理の合理化・大量の知識人の養成に向かうのではなく、逆の方向に向かった。毛沢東は自分で習熟している農業小生産と軍事闘争の経験、理想にもとづいて、大衆運動、犠牲精神を強調し、世界を変革しようとしていた。毛沢東は革命の対象をブルジョア階級、資本主義としていたが、その概念は終始曖昧なままに残された。

 「両軍対戦モデル」においては、悪いもの、悪い現象はすべて資本主義範疇に、逆に良いもの、良い現象はすべて社会主義範疇に含めるという単純化が行われ、労働と搾取、公と私、善と悪の対立と闘争に矮小化された。特定の歴史的内容をもつはずの唯物史観は超時代的道徳倫理に変質させられた。「政治は道徳に、道徳は政治に」変質した。

 くわえて高度に中央集権的な計画経済と各方面の一元化領導体制のゆえに、生産、分配、消費から就職、転居、恋愛、結婚などのプライベートな事柄に至るまで政治に属することになった。現実の生活のなかで人々は、社会の動力は経済ではなく政治なのだと錯覚するようになった。共産主義社会も経済発展の産物というよりは政治的、道徳的発展の結果だと錯覚するに至った。これはもはやマルクスの唯物史観とはひどく違ったものであり、小生産を保護する封建政治と封建道徳が新装をまとってあらわれたに等しかった。

 毛沢東にとって文化大革命の目的は複雑であった。一方で新たな世界を追求する理想主義の一面があるかと思えば、他方で権力再分配のための政治闘争の側面がある。一方で官僚機構粉砕の夢があるかと思えば、他方で大権を誰か実権派に簒奪されたとする欲求不満がある。天の理を説くかと思えば、人の欲に妥協している。階級闘争をカナメとする闘争哲学、「闘私批修」の道徳主義、貧農下層中農に学ぶナロードニキ主義──これらが毛沢東晩年の思想の基本的特徴を構成している。

 文革は理性を失った狂気のような革命運動とみられがちだが、その主体は普通の理知を基礎としていたのであり、公と私、義と利、集団と個人、共産主義の理想と二つの階級の闘争、など「普通の理性がうけいれた理性信仰、道徳信仰」である。

 文革は理知の主宰下で理知を通じて行われたゆえに、精神的に絶大な苦痛、拷問をあたえたのだ。かくて人格の分裂、精神的傷跡、この世の惨劇が行われた。いいかえれば、マルクスの名において、理性の支配のもとで、自らが積極的に参加して行われたところにこそ、文化大革命の真の悲劇性がある。

 建国後の毛沢東思想に対する内在的分析として、李沢厚の分析から教えられるところはたいへん多い。49年までの奪権闘争においては唯物論者である毛沢東が全国的権力の奪取後は、自らは唯物論者であろうと志しつつも観念論の世界を徘徊するに至る契機が、49年革命の勝利そのものにあることを論じて、あますところがない。



【スチュアート・シュラム氏の「文革」分析】

 ロンドン大学の毛沢東研究の大家スチュアート・シュラムは、毛沢東思想を三つのレベルに分けている。第一は毛沢東自身が長い人生の中で実際に考えたことである。これは各時期の著作にあらわされている。第二は1950年代から毛沢東の死に至るまでの、正統的教理としての毛沢東思想、つまり国家的イデオロギーとしての毛沢東思想である。これは『毛沢東選集』や『毛主席語録』『最高指示』などに示されている。第三は毛沢東著作のうち、晩年の誤りを除いた部分である。

 毛沢東の49年革命に至るまでの大きな貢献を否定する人はほとんどあるまい。その貢献とは農村でのゲリラ戦を基礎とする闘争形態を編み出して、最終的には内戦を勝利に導き、国民党を打倒したこと、土地を農民に分配したこと、中国の独立と主権を回復したことである。

 これに対して、49年以降の仕事については毀誉褒貶が激しい。この点についてシュラムは、権力奪取への闘争において、毛沢東を偉大な指導者たらしめた特色のために、社会主義中国をつくり出す毛沢東の能力が制約されたと分析している。すなわちある意味で「皇帝」、ある意味で「農民の反乱者」、ある意味で「革命の指導者」と三つの顔をもった毛沢東は、「権力をめざす闘争」で人々を動員するうえでは非常に有効な象徴であった。しかし、中国が49年以後に必要としたのは、「経済上、文化上、技術上の革命」を推進する指導者であり、毛沢東はそれにはむいていなかった、とシュラムは分析している。

 農民の子・毛沢東の農民への愛着は、ゲリラ闘争時代の「農村革命」には有効であったが、愛着にひきずられて毛沢東は、農民に内在する理念と価値感から離脱できなくなってしまった。毛沢東はいわば、20世紀前半の中国にどっぷりつかっていたために、20世紀後半の問題を解決することができなかった、というのがシュラムの見方である。これらの点に毛沢東の歴史的限界を認めつつも、世界における中国の地位の復活は晩年の毛沢東の貢献だとして、シュラムは特にニクソン訪中の例を挙げている。

 シュラムはまたいう。1935年の遵義会議から文化大革命直前の65年までに毛沢東が発展させた思想、すなわち毛沢東思想とは、西欧に起源をもつ革命思想、西欧化を実現するための媒体であった。しかし、毛沢東が数十年にわたって努力してきた統合体系は特に文革の10年間に、その大部分が瓦解してしまった。

 毛沢東は1958年、孫悟空を論じて「孫悟空は無法無天である。どうして皆は彼に学ばないのか。孫悟空は教条主義反対を断固としてやった」とほめあげたことがある。毛沢東自身、エドガー・スノウとの対話で「無法無天」を自任したのは有名なエピソードである。毛沢東=孫悟空のイメージにふれてシュラムはいう。孫悟空のイメージは、いかなる譬喩よりも、毛沢東の政治的役割の神髄とその深い二面性をあらわしている。毛沢東は永遠の反逆者であり、神の法であれ人の法であれ、自然法であれマルクス主義法であれ、いかなる法にも縛られることを拒絶しつつ、人民を30年間にわたって、一つのビジョンの追求にみちびいた。このビジョンは最初は雄大で、しだいに妄想となり、ついには悪夢となった。まさに竜頭蛇尾であり、無残な結末である。

 シュラムが毛沢東思想を「西欧に起源をもつ革命思想」ととらえたのと対照的に、中国の論者には、毛沢東思想全体に中国の封建的文化の伝統が色濃く投影されているとする見方が多い。

 毛沢東思想についてシュラムのように「西欧に起源をもつ革命思想であり、西欧化を実現するための媒体であった」というばあい、問題は「起源」からの乖離であり、「西欧化」の内実であろう。

 パン先知によれば、毛沢東が中国語訳『共産党宣言』を読んだのは1920年のことである。1926年には間接的な引用を通じて、中国語に訳されたレーニン『国家と革命』の内容を部分的に知った。1932.4月、紅軍が福建省第二の都市ショウ州を攻略したときに「一群の軍事、政治、科学の書物」が没収され総政治部に届けられた。彭徳懐と呉黎平の回想によれば、そのなかにはエンゲルスの『反デューリング論』、レーニン『二つの戦略』『左翼小児病』などの中国語訳が含まれていた。

 延安時代に毛沢東の図書を管理していた史敬棠の回想によれば、毛沢東は延安でよく『二つの戦略』『左翼小児病』の中国語訳を読んでおり、これは中央ソビエト区から運んできたもので、ボロボロになっていた。これら二冊は少なくとも三回は読んでいた。

 延安に着いて以後、毛沢東はマルクス・レーニン主義の書籍を広く集めるようになった。『資本論』(マルクス)、『空想から科学へ』(エンゲルス)、『レーニン選集』(ソ連で出版された中国語版)、『国家と革命』(レーニン)、『レーニン主義の基礎について』『レーニン主義の諸問題』(ともにスターリン。ソ連出版の中国語訳)、『マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン芸術を論ず』などであった。

 解放戦争期に毛沢東がよく読んだのは『国家と革命』、『左翼小児病』であり、48.6月に中央宣伝部は毛沢東の指示にもとづいて、全党的に『左翼小児病』の第二章を学習せよと命じている。54年に毛沢東は再度『資本論』を読んだ。その後『経済学批判』をいくども読んだ。58年の大躍進で商品生産を否定する極左的観点があらわれた際、毛沢東はスターリン『ソ連における社会主義の経済的諸問題』を研究している。

 この経緯からわかるように、毛沢東が比較的落ちついてマルクス・レーニン主義を学んだのは延安時代である。毛沢東が何を学びとったのかを『毛沢東選集』第1〜4巻について調べると、レーニンを三三箇所引用している。その大部分は、『実践論』『矛盾論』のなかで『哲学ノート』『弁証法の問題について』からの引用である。

 毛沢東がくりかえして引用している言葉が二つある。一つは「革命の理論なくして革命の運動なし」という『何をなすべきか?』の名文句で、これを三回引用している。もう一つは、「理論は具体的状況を踏まえた具体的分析」たるべきであり、これこそ「マルクス主義の生きた魂」だという箴言であり、これも三回引用されている。

 スターリンの引用箇所を数えると、二一箇所であり、レーニンよりも三割方少ない。1)理論と実践の結合を主張した「レーニン主義の基礎について」の一句を三回引用している。2)「中国では武装した革命が武装した反革命と戦っている」を三回引用している。3)幹部問題について「幹部がすべてを決定する」という言葉を四回引用している。

 スターリンからの引用は21箇所のうち8カ所、すなわち半分近くがスターリンの言葉を引用したものではない。スターリン独自の見解というよりは、レーニンの思想をスターリンが祖述したものを孫引きした形である。

 ここからわかるように、毛沢東の学んだマルクス・レーニン主義の核心は、中国語訳のレーニン『哲学ノート』およびスターリンの祖述したレーニン主義である。毛沢東はマルクスやエンゲルスのものを読む機会はきわめて少なかった。毛沢東はまた49年と57年にソ連を訪問したのを除けば、外国を訪問したことがなく、むろん欧米の資本主義社会の生活を体験することは全くなかった。したがって毛沢東の理解する資本主義とは、植民地側の現実から帝国主義の一面を認識したものにとどまり、帝国主義の心臓部に対する理解は欠いていた(この点で、周恩来やケ小平は青年時代にヨーロッパ生活を体験しており、その見識ははるかに広い)。外国語も英語を晩年にちかくなってから少しかじっただけである。毛沢東の教養は基本的に中国の古典から得られた。

 ここで翻訳の問題もあろう。馬克思=マルクス、恩格斯=エンゲルスと訳すとき、中国の人々は姓は馬、恩であり、名が克思、格斯と中国流の観念で理解している。カール・マルクスからカールの名が蒸発し、マルクスという姓だけがあたかも姓と名であるかのごとくうけとられる中華世界において、毛沢東の観念における「階級闘争」とマルクス主義のClass Struggle、毛沢東の「革命」とマルクス主義のRevolutionは、相当にニュアンスをことにするのではないか。

 シュラムが想定しているように、起源や方向性で説明しきれるかという疑問が残る。中国における「易姓革命」観念とレボルーション概念が奇妙に交錯したまま中国マルクス主義が形成され、国家イデオロギー化していった。毛沢東思想を「中国化されたマルクス主義」というとき、「マルクス主義」を強調するシュラムとは逆に、「中国化」を強調する見方もそれなりに説得的であろう。

 中国の人民民主主義と欧米デモクラシーとの距離も大きい。四九年六月、全国的権力奪取の直前に書かれた「人民民主主義独裁について」のなかで、「反動派の発言権を奪い、人民にのみ発言権をもたせる」のが「人民民主主義独裁」だとしているが、ここで反動派と人民の区別が曖昧になるならば、民主主義は行方不明になり、独裁だけが残る。同じ論文で毛沢東は、人民は民主主義的方法で自己を改造するとしているが、ここでは民主主義はすでに「改造の方法」に矮小化されている。

 57.2月の「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」では、「民主主義というものは、一見して目的のようだが、実際には手段にすぎない」と断定している。文革期には「大鳴、大放、大弁論、大字報」のいわゆに「四大民主」が喧伝された。これは壁新聞をどこにでも貼りだして実権派の悪事を暴露しようとする運動であったが、民主主義の発揚というよりは、すでに党内闘争の手段に転落していた。むしろファシズム的なやり方だとのちに批判されている。

 このような「訓政主義的」民主主義観は、ヨーロッパの市民社会を前提としつつ、その止揚としてマルクスらの考えたものとは相当にへだたったものである。これはもはや西欧起源のデモクラシーというよりは、むしろ中国古代の「君主主義」の「君」を「民」で置き換えただけ、すなわち君主主義の亜流にすぎないのではないか。もっともこれまたスターリン流の「民主集中制」に対する毛沢東なりの敷衍にすぎないと見ることもできる。

 では毛沢東の党内的地位、軍内的地位を保証したものはなにか。第一は民主集中制である。トロツキーがスターリン独裁を批判して「代行主義」と名付けた現象がある。大衆の意思を前衛党が代行し、前衛党の意思を中央委員会が代行し、中央委員会の意思を書記長個人が代行する。したがって、スターリン独裁こそが人民大衆の意思だという飛躍した論理がまかり通ることになる。

 この点では、毛沢東の独裁も同じである。中国共産党が中国人民の意思を代行し、中国共産党の意思を毛沢東が代行することになる。前衛党に対する批判は、ただちに現行反革命になる。

 第二は教義解釈権である。これは延安の思想改造運動(整風運動)以来のことであり、第七回党大会規約では毛沢東思想が中国共産党の指導思想に格上げされた。かくて毛沢東思想とは何かの解釈権が毛沢東個人に帰属してしまった。毛沢東思想の名において人民の意志を結集する試みが神格化をもたらし、人民は逆に自らの神によって呪縛されてしまった。

 毛沢東が神のような権威をもつに至る根拠は、長征以来の指導の正しさによるものである。毛沢東は遵義会議以前は右翼日和見主義と批判されてきた。たとえば、根拠地における再生産重視から出発した彼の土地政策は富農路線と批判され、正規戦を避けたゲリラ戦略は逃亡主義とされ、イデオロギー面では経験主義のそしりを受けた。しかし、これは批判者の側が基本的に間違っており、毛沢東は彼らの極左路線によってもたらされた敗北の事実をつきつけて党内権力を奪取したのであった。

 問題は権威が確立されたあとの毛沢東の具体的指導の成否である。党のナンバーワンとして、党の重要会議の召集権と軍の指揮権をもつこと、イデオロギー問題の解釈権をもつこと、この二つの魔法を駆使して毛沢東は党を操縦したが、毛沢東が共産主義への移行をあせればあせるほど、目標は遠のいた。毛沢東は当初、スターリン流の個人崇拝に対して批判的な態度を表明していたが、大躍進の失敗を通じて、自らの指導権が揺らぐや、むしろ意識的に個人崇拝を利用するようになり、文化大革命においてそれは極点に達したのである。



【「文革」サイト著者の「文革」分析】

 特に1956年の冒進反対論を堅持できず、59年の廬山会議で彭徳懐解任を許してしまったことは、後の文化大革命に直結する政治的失敗となった。むろん周恩来一人の責任ではなく、毛沢東の暴走を止められなかったすべてのトップ・リーダーたちの責任でり、暴走を許した政治システムの欠陥にこそより大きな責任がある。

 両巨星は傑出した指導者とはいえ、彼らの個人的限界は明らかだ。ただ彼らの失敗に深くかかわっているのは、彼らが導きの糸としたマルクス主義、そして社会主義理論の欠陥であることに注目すべきであろう。

 本書の冒頭でソ連のヤコブレフが「ソ連社会主義の完全な敗北」をみとめたこと、「不幸の原因はマルクス主義(レーニン主義)の教義にある」としたことを紹介した。ここでマルクス主義の教義の中身と考えられているのは、政治面では前衛政党論、民主集中制論、プロレタリア独裁論であり、経済面では私有制廃絶論、計画経済論であり、イデオロギー面では思想改造を通じての社会主義的人間の養成などであろう。

 中国に即してこれらの議論を検討してみると、まず第一に、権力の奪取以後、人民という大海原で泳いでいたはずの共産党員が、いつのまにか人民の頭上に君臨するものに変質していた。中国共産党がレーニン主義からまなんだ前衛政党論は、党員が「指導」の名において、人民大衆を支配し、君臨することを正当化した。

 第二に、共産党すなわち前衛政党の内部においても、民主主義が欠如していた。民主集中制論のもとで、集中が強調されすぎて、民主は圧殺されてしまった。共産党の組織は、大会で中央委員がえらばれ、中央委員のなかから政治局委員がえらばれ、政治局委員のリーダーが党主席をつとめるヒエラルキーになっている。ところが民主集中制のもとで、下から上への民主主義ではなく、上級が下級を代行し、支配する構造に逆転した。つまり、党大会を中央委員会が、中央委員会を政治局が、政治局を党主席が代行することになり、共産党内部に専制主義的、一元的支配構造が成立した。

 第三は人民民主主義論の欠陥である。これは元来、人民に対しては民主主義を、革命の敵や反動派に対しては独裁をおこなうものである。しかし文革期の「全面的独裁」がしめすように、地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子・叛徒・特務・実権派・反動的学術権威なる九つのレッテルが用意され、人民はいつでも独裁の対象になりかねなかった。こうして「人民による独裁」を想定した人民民主主義論は、「人民に対する独裁」に転落し、封建社会よりもはなはだしいといわれるほどの専制主義体制がつくりあげられた。

 第四は私有制廃絶論である。エンゲルスは『空想から科学へ』のなかで資本主義の基本矛盾を「生産手段所有制の私的性格と生産の社会的性格」の矛盾にもとめた。ここから生産手段所有制の社会化、公有化によって労働力の搾取を廃絶する構想がうまれた。中国はこの考え方にもとづいて農業集団化や工商業の社会主義的改造をすすめたが、農民は生産への意欲を喪失し、労働者もまた生産への意欲をうしなった。こうして生産関係の変革によって搾取を廃絶し、生産力を拡大しようとする試みは失敗におわった。

 第五は計画経済論である。資本主義経済では、生産物の需要と供給は市場をつうじて事後的に調節される。そこでは一定のムダがさけられない。計画経済によって需給を事前に調節するならば、浪費がさけられるだけでなく、より合理的な経済発展が可能であると考えられていた。

 しかし、生産手段の公有化を基礎とした計画経済こそが資源の最適分配を可能にし、人民のための富を豊かにするとの教義は、国営企業の非効率と赤字をもたらした。計画経済のもとで企業は独立した経営体であることをやめ、生き生きとした組織体であることをやめた。親方日の丸的な企業管理が横行し、技術革新の動機を喪失した。このため生産力発展の競争において先進国との格差が拡大しただけでなく、より深刻な衝撃をあたえたのは中国周辺のアジア・ニーズとの競争において決定的に敗北した。



 「文革」とその理念に伴う中国マルクス主義について、現代インテリゲンチュアは通常次のように総括している。

 毛沢東思想とは、「マルクス・レーニン主義の普遍的真理」と「中国の革命と建設の具体的実践」とを結合して生まれたものと定義されている(『毛沢東思想辞典』中共中央党校出版社)。

 経済体制にも政治体制にも欠陥の多いことに気づいた中国の人々は、中国社会主義を支えてきた柱である毛沢東思想に懐疑の目をむけるようになった。


 ところで、普遍的真理とされてきたマルクス・レーニン主義そのものに対して疑惑が生まれているのが今日の状況だ。ソ連の代表的な改革派指導者ヤコブレフ前ソ連大統領首席顧問は、タス通信のインタビューに対して次のようにコメントしている。「社会主義は完全に敗北した」、「われわれの不幸の原因はマルクス主義の教義にあった」。氏は、「階級闘争による階級の消滅」という考え方が圧政に通じたとして、活動の指導理念としてのマルクス主義を否定すると言明している。詳しくいえば、ヤコブレフのいう「マルクス主義」は、「マルクス主義プラス十月革命」から生まれたボルシェビキ主義(=レーニン主義)としての「マルクス・レーニン主義」であり、マルクスの「マルクス主義」まで否定しているのかどうかは不明であるが。

 中国が受容したマルクス主義とはボルシェビキ主義(=レーニン主義)であり、スターリン時代にコミンテルン(共産国際、第三国際)から輸入された。中国共産党はもともと世界革命をめざすコミンテルンの一支部として生まれたからである。コミンテルンの解散にともなって、中国共産党は名実ともに独立した組織となったが、そのイデオロギーも組織形態もほとんどすべてをコミンテルンから学んだものであり、いわば親子か兄弟である。血は水よりも濃い。中国共産党の身内であるソ連が「マルクス・レーニン主義の敗北」を宣言しているのであるから、ことは深刻だ。西側世界や東欧においてはヤコブレフのような考え方はかねて存在していたものの、それが公然と語られるようになり、左派のクーデタを流産させる民衆の力となった。勢いのおもむくところ、ゴルバチョフ大統領はついにソ連共産党の活動停止を提案するにいたった。

 実は中国でもこの潮流を観察できる。天安門事件の直前にハンストに突入した劉暁波(前北京師範大学講師)は、事件直前に香港の雑誌によせた論文にこう書いた。「人々のマルクス主義に対する熱狂的信仰は、絶対的権力に対する崇拝か屈伏にすぎない」、「東方マルクス主義はもはや思想や信念ではなくなり、専制権力の一部分に変質し専制者が独裁統治を行う道具に堕落している」、「中国とソ連では、専制者はマルクス主義を看板とする思想独裁を一日たりとも放棄できないのであるから、真の覚醒者たるもの、一日たりともマルクス主義に対する批判を放棄することはゆるされない」。






(私論.私見)

郭沫若自己批判の懸案

武 継平

(掲載誌九州大学言語文化研究院『言語文化論究』No.20 平成17年1月発行)

 

はじめに

 

 郭沫若という人物は五四新文化運動以後創造社の領袖としてよく知られており、特に1936年魯迅が逝去した後「統一戦線」で新たに整合された中国知識層の旗手の役割を果たした存在であった。社会主義中国誕生後、もともと国統区(国民党統治地区)の無党派民主人士出身だった彼は共産党政権下の知識人の代表として世界的に注目されていたのである。そういう意味で、1966年の文化大革命が発動される直前に発表された彼の自己批判は、社会主義中国の成長に多大な関心を持つ人、とくに現代中国の政治、経済、歴史、文学芸術などを研究の視野に入れる人々にとって、衝撃的な大事件だと言っても過言ではない。
 このような郭沫若の自己批判に対して、日本では、「古い時代の社会構造で形成された知識層に対する弾圧が重大な決定的段階に入った」と見なし、旧社会から脱皮してきた知識層に対する共産党政権の「決定的勝利を約束するものになる」と受け止められていたのである1。一方、世界を震撼させた自己批判文を公表し、始皇帝の「書をき、儒者を坑める」という史実を思わせる「焚書」発言をしてしまった郭沫若に対しては、不可解を示す人もいたが、大半の人々はそれを知識人としての道徳の堕落と良心の喪失と見なして彼に絶望した。ショックが大きい余りに、彼はその後「堕落文人」として多くの人々から鼻つまみ者とされるようになったのも否めない事実であろう。
 郭沫若の自己批判が本人の意思のよるものだったかどうかということは今まで様々な憶測があったものの、事実関係は明らかにされたことはない。彼自身は逝去するまであれは嘘だと明言したこともなかったし、文革中共産党上層部が絡んだ事柄に関する情報は長い間封印が解けていないので、真相を突き止めようとしてもできるものではなかった。
 ところが、90年代以後状況は変わり始めた。特に最近文革研究が盛んとなり、共産党上層部にも文革を全面的に見直す強い傾向が現れ、重要な事件に関わった毛沢東の発言や重要会議の備忘録などを文革期の党史に加えていく動向が見られるようになった。おかげで1957年反右派闘争以来ずっと謎に包まれた多くの事件の真相が徐々に明るみに出はじめた。
 たとえば、郭沫若が1966127日付で科学院党組に「一切の職務をやめる」ための辞表を出したことがある、ということに最初に言及したのは19824期『新文学史料』に発表された陳明遠氏の回想記「追念郭老師」であった。1992年出版された『郭沫若書信集』にもその辞表が収録されている。しかし出所を辿ると、やはり陳明遠氏の回想記だった。当事者と称する人の証言によるものではあるが、裏付けが取れないので、立論をする際大事な論拠として使いにくい。ところが、最近文革初期の『二月提綱』をめぐる研究で例の辞表が嘗て七つの添付資料の一つとして『二月提綱』の原案と一緒に「文革五人組」の彭真らによって毛沢東に見せられた、ということが明らかになり、それで陳明遠氏が1982年に触れた「辞表」の存在がはじめて異なる角度から裏付けられたのである。
 もう一つ新たに分かったことは郭沫若署名の自己批判文が彼自身の意思によって発表されたのではないという驚くべき事実である。これらの、われわれの常識を遥かに越え、今まで想像すらできなかったものが、今日のわれわれの研究に貴重な判断材料を提供してくれた。

(一)

 文革が始まる19661月末、郭沫若は中国科学院党組書記張夫を通して中共中央に次のような辞表を正式に提出した。

 

夫同志:

 本日、書面の形でわたくしの長い間持っていた個人的な願いを申し上げたいと思います。

 わたくしは耳が難聴です。最近視力も大変衰えました。科学院の仕事に対してずっと職責を果たしていません。わたくし自身は大変つらいです。悔しいあまりに、いつも居ても立っても居られません。

 わたくしは科学院の一切の職務(院長、哲学社会科学部主任、歴史研究所所長、科学技術大学学長等)を辞退する考えを前から持っています。どうかご検討のうえそれを上申していただき、そして上層部の批准を心から願ってやみません。

 この考えはずいぶん前から十分に考慮を重ねたものです。他の不純な意図は決してございません。どうかご明察願います。

  敬礼

                           郭沫若

                           1966127

*原文は『郭沫若書信集』(下)による。
*
夫は当時中国科学院党組書記兼副院長を務めていた。

 

夫書記は嘗て毛沢東に異議申し立てをして多くの有名科学者を57年の反右派闘争から守り抜いた人物で、今回の著名知識人批判も長くは続かないだろうと高を括って、おどおどする郭沫若を宥めた。辞任の件は上層部の中共中央宣伝部科学処の于光遠処長に、そしてさらに于光遠から中央政治局委員の彭真に報告されたあと、却下された形で一件落着だったが、郭沫若の不安は募るばかりだった。北京大学に「郭沫若批判」の大字報特集欄に毎日のように郭沫若打倒を叫ぶ批判文が張り出されている。新聞や一部の文芸雑誌にも読むに耐えない名指し攻撃文章が掲載された。郭本人の自己批判の言葉を借りて言えば、「文学と歴史の面において、近ごろ新聞では踏み込んだ批判が行われている。……どの文章、どの批判も私自身に対して‘革命’を起こそうとするようなものだった」21月から親友呉ヨ(北京市副市長、明史大家海瑞罷官ケ拓(『人民日報』新聞社社長)、廖沫沙(北京市委員会統戦部部長)の『三家村』、部下田漢『謝瑶環』、夏衍の『賽金花』翦伯3北京大学副学長、歴史研究の大家)の『中国史綱』などが次々と大毒草として全国公開批判の槍玉に挙げられたのである。
 「歴史人物を借りて今日を風刺しようとする」と批判された田漢の『謝瑶環』といい、「30年代国防戯劇の代表作」として否定された夏衍の『賽金花』といい、そして翦伯賛の『中国史綱要』や、とくに「反マルクス主義の史学綱領」とされた60年代初期の「若干歴史問題の処理に対する初歩的な意見」と「現在歴史研究にある幾つかの問題」といい、郭沫若は嘗てすべて極力賞賛していた。海瑞罷官』について何も書かなかったが、61年の春海南島に行った時海瑞の墓を参詣した後、「民ニ違ワザル者ハ民ノ悦ブ所,史ニ存ス直言諫疎を敢センヤ」4と賛辞を送ったことも鮮明に覚えている。次にやられるのは間違いなく自分だろうと危惧し、激しく動揺しはじめた矢先に、郭沫若は3月に杭州で開かれた中共中央政治局常務委員会拡大会議での毛沢東主席の重要発言を「大参考(高級幹部しか読めない新華社内部刊行物)」で知ることになった。毛沢東が指摘するには、「解放後の知識分子政策には良い所もあれば悪いところもある。現在の学術界ではブルジョアジーが権力を握っている。……ヨ、翦伯賛のような人は共産党員だが、共産党に反対なので実際は国民党だ!われわれは自分の若い学術権威を養成しなければならない5。」
 毛沢東の発言はこれまで『二月提綱』で注意を呼びかけられたような、「〜同志」で呼びあう学術論争の範疇内に押さえるべき批判を一挙に敵味方の生きるか死ぬかの階級闘争にエスカレートさせたのである。19662月に「文革五人組」の彭真、陸定一、康生、周揚、?冷西(『人民日報』編集総長)の執筆によって生まれた『五人組報告綱要』(即ち『二月提綱の原案』)は嘗て中共中央政治局北京常務委員会議で可決され、しかも彭真、陸定一、許立群(中共中央宣伝部副部長)によって武昌滞在中の毛沢東に報告された。その時、毛に見せた『二月提綱』に添付された七つの資料の一つとして中国科学院党組から提出された郭沫若の辞表があった6姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」発表以来、全国的にエスカレートする一方の著名文化人名指し批判を学術論争の軌道から外れないようにコントロールするのが彭真ら現有秩序維持派の狙いだった。毛沢東に郭沫若の辞表を見せたのは、ほら、郭先生のような味方の文化人権威も批判風潮のせいですっかりやる気がなくなったよ、このまま事態の発展を放任すると人心を失いかねないよ、と警鐘を鳴らすためであった。しかし、毛沢東は彭真ら「文革五人組」の報告を聞いた後、彼らが思いもつかぬ「三点の意見」を述べた。第一、共産党北京市委員会と中央宣伝部は左派を支持しないばかりか、悪人を庇っているので、解散しなければならない。中宣部は伏魔殿だ。「閻魔王」を打倒し、「小鬼」を解放しなければならない。第二、呉ヨと翦伯賛は学閥だ。第三、ヨの『海瑞罷官』、ケ拓の『燕山夜話』と廖沫沙の『三家村札記』は反共産党反社会主義的なものだ7。 
 郭沫若、ヨ、翦伯賛の3人は、いずれも国統区出身の旧知識人だった。ヨは1957年「民主同盟」の指導者だった羅隆基の「政権のたらい回しを狙う反革命反社会主義の罪状」を検挙し、郭沫若、翦伯賛らと共に反右派闘争の中で「推進派」の役を演じていた。翦伯1958年に再度入党した郭沫若と異なって、1937年入党の古参共産党員であるにもかかわらず、「統一戦線」のためにずっと党員の身分を隠していた。19591月から2月の間、彼ら三人は「曹操に与えられてきた歴史的評価を覆す」歴史問題の大論争の中で『光明日報』に署名文章を発表し、毛沢東の歴史観を支持する発言を発表したことで、ある程度毛の信頼を得た。恐らく毛沢東の頭の中では3人は「思想改造が可能な旧知識人」リストの上位にランクインされた人物であったろう。ところが、2年も経たぬうちに彼らは運命のいたずらで人生の大ピンチに直面させられた。社会主義新中国に夢を抱き、「国統区出身」という烙印を一日も早く洗い落とそうとする一心で、彼らは毛主席の指示に従いさえすれば間違いないと確信していた。最初に火をつけたのはヨだった。1960年彼は毛沢東が皇帝に直訴する勇気のある明代の清廉な官僚だった海瑞を賛えているのを見て、翌年『海瑞罷官』を書いて発表した。郭沫若はその後海南島で海瑞を絶賛する詩を発表した。歴史学者の翦伯賛はヨの『海瑞罷官』を高く評価しただけでなく、1965年の暮れに発表され、のちに文化大革命の導火線となった姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が「乱暴なこじつけにすぎず、呉ヨを陥れるための中傷」だと『文匯報』記者に言った8そこから3人の運命が大きく変わったのである。翦伯賛の2人は反共産党反革命の彭徳懐のために不平を鳴らす「疑惑」を持たされ、たちまち同罪にされてしまった。郭沫若に関しては、毛沢東は「郭老は保護すべきで、批判すべきではない」と57年反右派闘争の時と同じように異例な寛大さを示した一方、「しかるべき自己批判があったほうがよい」と新たな注文をつけた9
 こうした突如豹変する毛沢東の意見が49日から4日間開催された中共中央書記処会議の二大決議に直ちに反映されたのである。その一つは「『二月提綱』を取り消す決議」即ち後の「五・一六通知」で、もう一つは解散された最初の「文革五人組」に代わって中共中央政治局常務委員会に直属させる「文化革命文件起草小組」(即ち後の「中央文革小組」)を立ち上げる決議であった。『二月提綱』が白紙に戻されたことで「学術論争の範疇における批判と自己批判」という知識人保護のバリアが破壊された。名指し批判を受けた人はどんなに自己批判をしても「自己弁解だ」、「トカゲの尻尾切りだ」または「反攻だ」と一方的に決め付けられ、元々人民内部の矛盾のはずだった著名知識人批判は一気に学術論争のフェンスを越え、反革命分子の摘発、そしてそれをやっつける階級闘争に変わったのである。
 410、『林彪同志委托江青同志召開的部隊文芸工作座談会紀要』(以下『紀要』と略す)が共産党内部で伝達された。郭沫若は1958年に再度入党したのでこの日に『紀要』を知ったのは何の不思議もない。
 「全党はプロレタリア文化大革命の大旗を高く揚げ、反共産党、反社会主義のいわゆる学術権威たちの反動的なブルジョア立場を徹底的に暴露し、学術界、教育界、マスコミ、文芸界および出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判せねばならない。そしてそれらの文化領域の指導権を奪還しなければならない。それを達成するには、まず共産党内部、政府、軍もしくは文化領域に紛れ込んだブルジョアジーの代表人物を批判し、粛清せねばならない。」10
 
上記の内容が『紀要』の前書きに書かれた毛沢東の指示である。この時点で郭沫若は徹底的に幻滅の悲哀を味わわされたと言ってもよかろう。毛主席の指示で全党に伝達された『紀要』は五四以来の文芸の発展をほぼ全面的に否定してしまった。自分のような「学術界」と「文芸界」にまたがる「権威」は正に「粛清」の対象だ。現に鄭拓、廖沫沙、翦伯賛、田漢らはすでに職を追われた(四月の時点ではまだ逮捕されていない)。もはやこれ以上過去に固執してもしかたがない。このような幻滅感が終に彼を自暴自棄に陥れたのである。
 414日、第3回全人大常務委員会5番目の副委員長である郭沫若は全人大常務委員会第30回会議で即席発言の形で内外を震撼させた自己批判を行った。
 「数十年来、ずっとペンを持ってものを書き、そしていくらか翻訳もしました。字数から言えば、恐らく数百万字があったかもしれません。しかし、今日の基準を持って判断するなら、以前書いたものは、厳格にいうなら、全て焼き尽くすべきで、まったく価値がありません……。わたくしは今労農兵に学ぶべきです。そして彼らを師として仰がなければなりません。わたくしはすでに七十いくつになりましたが、志なら大きなものがあります。つまり全身泥まみれ、油汚れまみれ、そして血まみれになりたい。もしもアメリカ帝国主義が攻撃してくるなら、彼らに向かって手榴弾でも投げたいものです……。」11
 2ヵ月前に「骸骨を乞う」意思を伝えても許可を得られなかった郭沫若は自分の過去をすべて否定してしまう発言をしたあと、4月中旬から仕事を放り出して妻于立群を連れて四川に帰っていった。通常全人大常務委員会での即席発言といい、全国文学芸術会連合会での発言といい、会議記録が形式的に残るものの、発言本人の了承がないかぎり、外部に公表されることはまずあり得ない。郭沫若の自己批判文は見て分かるように、その歯切れの悪さや冗長さこそ事前に準備しておいた原稿ではないということの何よりの証である。彼は自分の自己批判の発言記録が同じ全人大常務委員会の副委員長である康生(4番目の副委員長で、地位は郭沫若より高い)の手によって毛沢東に渡されたあと、毛の指示で428日付『光明日報』に掲載されることを知る由もなかった12。彼は成都で自分の自己批判の発言を元民主党派系の『光明日報』で見たとき晴天霹靂のようなショックを受けたに違いないが、メーデーの夜旅先で54日から開催される「中共中央政治局拡大会議」のための緊急召還の電話を受けて北京に戻った後、自分の同意無しで『光明日報』に載せさせたのが外の誰でもなく毛沢東主席だったことを告知され、そしてその虚偽の署名文章が最大の「党報」である『人民日報』(55日付)に全文転載され、全党と全国人民に周知される現実を受け入れざるを得なかった。
 毛沢東にとって、郭沫若の自己批判はプロレタリア独裁下で行われる旧文化人に対する思想改造の成功例としてこれ以上都合のいいものはなかった。それまでには呉ヨや翦伯賛らの自己批判がなかったわけではないが、いずれも隔靴掻痒の感があるし、旧知識人全般の共産党支配に対する不満を鎮静する効果は期待できそうにない。一方、郭沫若は事実上30年代から国内知識人のリーダーだし、思想改造の良いモデルになるにちがいない。だから屈服した郭沫若に対して文革中でも「郭老の地位を守り、決して「批闘」(「批闘」は対象の肉体をも痛めつけることも意味する)してはならない」といい、(その後郭沫若本人は自分が「全人大の(外国賓客)接待係りだ」と自嘲していた13)、屈服しない翦伯賛らに対しては「反面教師として生かしておく」14と言った。調べれば分かるのだが、その後老舎や翦伯賛のような、屈辱に耐えきれず、信念のために敢えて自決を選んだ優秀な知識人は大勢いた。

(二)

話は変わるが、このような郭沫若の自己批判に対して、日本でいち早く反応を示したのは政治に特に敏感な文芸評論家や現代中国文学の研究や翻訳に携わっている学者たちだった。私の知っている限りでは、郭沫若の自己批判がまだ『人民日報』に転載される前に、428日の『光明日報』を見て文芸評論家の福田恒在氏は4日後の『朝日新聞』の夕刊に「郭沫若氏の心中をおもう―真実の言なのか、絶望の声なのか」と題して知識層に対する中国政府の弾圧を厳しく糾弾した。福田恒存(1912〜1994)は小林秀雄と同時代に生き、戦後日本の名ばかりの民主主義に対して辛辣な文明批判を行ってきた著名な文芸評論家であり、内外に知られるシェイクスピア全集の邦訳者でもある。まず郭沫若の「現在の基準では私の著作は絶対的に無価値であり、焼きつくさるべきものである」という「焚書」発言に対して、福田氏は「著作を抹殺する権利は他の誰よりも著者に最も禁じられているものと言えよう。自作の焼却を命じるのは、儒家を坑(あな)に埋め焚書(焚書)を命じた秦の始皇帝以上の暴挙であり、思いあがりの極と言うべきである」と容赦なく非難した。
 しかし、「それにしても郭氏の言葉はまことに激烈凄惨なもので、拷問の鬼と思われていたかつての日本の特高も、共産主義転換者からこれほど感激的な誓約書を手に入れることができなかった」という、極端に厳しい福田氏の批判の言葉を見て分かるように、文芸評論、文明批判を自らの責務とする彼の矛先は郭沫若個人というよりも、郭をあのような「転向」声明を出さざるを得ないところまで追い込んだ共産党政権の「恐怖政治」に向いている。一歩、郭の自己批判が本音かどうかということに関しては、福田氏は「私は郭氏の言葉を氏の真実とは受け取らない」、「たとえそれが本人の真実であるにしても、かくのごときあり得べからざる心理的変化が実際に起こったと本人にまで錯覚させる恐怖政治と特有の洗脳を無視するわけには行かない」と主張しつつも、「郭氏は自分が影響を与え、自分を支持してきた「味方」を冷酷にも裏切った」、「始皇帝の恐怖政治も恐ろしいが、郭氏の無責任にうかがえる道徳退廃の方が一層恐ろしい」と中国の知識層を君臨する存在である郭沫若の節操の無さを厳しく追及したのである。
 今から見れば、郭沫若の自己批判発言が新聞に出た僅か4日後、文化大革命が発動される1966年前半の政治情勢や郭沫若の身の回りに何が起きているのかなどの判断材料をほとんど掴んでいない状況の下で書かれた福田氏の文章は、引用された郭の言葉には誤訳による間違いがあり、そして著者が郭氏の自己批判を1930年代日本のプロレタリア文学者の共産主義からの離脱行為と重ね、「転向」という言葉を使った観点には賛同しかねるが、基本的な見解が正しいと言わざるを得ない。当時日本で発表された関連文章の中で最も指摘が鋭いものだと私は思う。
 一方、中国文学関係者からの反応として、郭沫若の文学作品を数多く訳出した須田禎一氏の「郭沫若の作品は焼かねばならぬか」15はおそらくその最初の一編であったろう。その後、竹内実氏の「郭沫若の自己批判と文化革命―包囲される中国歴史学」16、荒正人氏の「郭沫若の自己批判」17、山内悠氏の「頌歌の時代―文化革命と郭沫若」18と影山三郎氏の「<魂にふれる>とはなにか?―郭沫若氏にきく文化大革命」19などが発表された。そうした中で、1967228日に発表された川端康成、石川淳、安部公房、三島由紀夫4人の連名による日本側の抗議声明が出されたエピソードもある。三島由紀夫が執筆したこの抗議文は発表当時よく知られたものの、今はその存在すら知られていないようで、ここで紹介しておく。
 以下はその抗議声明文である。
 「昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、時々刻々に変貌する政治権力の恣意によって学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあって文筆に携はる者として、座視するには忍ばざるものがある。
 この政治革命の現象にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に保留するが如きは、われわれのとるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである。
 われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。」――「文化大革命に関する声明」20
 郭沫若の自己批判が上記の抗議声明が出された直接なきっかけかどうか定かではないが、否定はできない要因だと思う。呉ヨ、翦伯賛はともかく、日本でもよく知られる著名な文学者の老舎、田漢、夏衍なども次々と批判を受けて打倒されていくのを隣邦の日本にいる文化人たちは見ていたのである(ただ彼らが自殺に追い込まれた情報は完全に封殺されていたので国外ではそれを知る由もなかった)。川端、三島らは素直にそれが文化大革命の中で知識人が迫害を受けていた証拠だと認識していた。彼らが最も「座視するには忍ばざるもの」は「政治権力の恣意によって学問芸術の自律性が犯された」ことであった。科学院長で、「全国文学芸術会連合会主席」の座にいる郭沫若の自己批判を「学問芸術の自由の圧殺」と見なしていただろう。
 一方、完全に引退するという本人の意思とは裏腹に、郭沫若は否応無しに政治の舞台に押し出された以上、こうした内外の世論の対処に追われてしまうはめになった。彼は74日に北京で開かれたアジア・アフリカ作家緊急会議に中国作家代表団団長の身分で出席し、「資本主義国家と現代修正主義国家の新聞や雑誌ではかなり大規模な反中風潮が巻き起こされている。それらのものはわが国の文化大革命に反対するために私の発言を故意に歪曲した」と国外の批判的世論を撥ね返す一方、「私は自分自身を批判した。……それは私の責任感の昇華であり、私の心の奥底から出た本音だ……。人民に対して責任感のある革命的作家は絶えず自己改造をし、厳しい自己批判を行わねばならない。我々のところでは、これはごく当たり前のことだ」と開き直った21
 郭沫若が指摘した外国マスコミの「歪曲」が74日のアジア・アフリカ作家緊急会議以前のものを指すから川端、三島ら4人の抗議声明とは何の関係もないことは明らかだが、「おもしろいことに、私の自己批判が強制されたものだと放言し、自分の本を焚こうというのは、2千年前に「焚書坑儒」した始皇帝よりも横暴かつ傲慢ではないかと言う日本人批評家がいる」とも非難したことは注目に値する22。その日本人の名前を明らかにしなかったが、発言の内容から見て、その文章が前記福田恒存の「郭沫若の心中をおもう―真実の言なのか、絶望の声なのか」と見てほぼ間違いなかろう。
 以上のような公の場における郭沫若の釈明に対して、本人が「本音」と言っているからにはもはや嘘はあるまいと日本側はそのまま納得したようである。そうでなければ、あれだけ盛り上がった郭沫若研究が文革中突然挫折してしまったはずがなかったし、あれ以来日本では郭沫若嫌いの空気が充満している現象もの説明がつかないのである。

(三)

次は郭沫若の自己批判以後の言動を見てみよう。どれも今まで全く知られていない事実である。郭沫若の自ら言ったことに関しては、どれが嘘(ごまかし)で、どれが本音なのか、識者の判断に委ねたい。
 (1)「焚書」の意味
 自己批判の発言が『人民日報』に公表された10日後、郭沫若は日本自由民主党顧問の松村謙三氏一行と自宅で会見した。その際、なぜ焚書の発言をしたのかという質問が出た。郭沫若は何気なく書斎にずらりと並んでいる書棚を指して「ほら、私の本はちゃんとそこにあるではありませんか!……本を焼くべきだというのは私自身を否定することで、“鳳凰涅槃”という意味にすぎないですよ」と躱した、と20年も秘書を務めた王廷芳氏は証言をしている23
 (2)毛沢東の指示なら理解できなくても従うべきだという考え
 20年ほど個人的に交友し自ら郭沫若を師と仰ぐ陳明遠氏が書いた『私と郭沫若、田漢との忘年の交わり』によれば、1966年の暮れに開かれた呉玉章氏の追悼会で、郭沫若は「われわれが理解できないこともあるけど、毛主席には毛主席の考えがあろう」と陳氏に吐露したということである24。この国の舵取りは毛主席だから、自己批判した方がいいと言われたからには納得しなくても従わなければならない、と言わんばかりであった。
 (3)「焚書」は喩えにすぎない
 1年後、徐正之という青年教師から「焚書は何の問題解決にもならないし、科学的な方法でもない。真の共産党員は真理を堅持し、過ちを是正すべきだ」との指摘を受けた。郭沫若は返信の中で、「鳳凰は五百年ごとに自ら焼身し火の中から再生せねばならない。私が焚書を言ったのは正にその意味だ」と文学的な解釈で一蹴した25。私信のやりとりとはいえ、徐氏の手紙は『人民日報』編集部に送りつけられたもので、編集部の人がそれを読んだ後、郭沫若に転送したのだから、郭沫若の返信はむしろ一種の「公開状」と見るべきであろう。明らかなごまかしの背後には言いにくい本音が見れ隠れしている。
 (4)自作の海外出版への協力
 19729月、日中国交回復共同声明が調印された。翌10月、京都の雄渾社は郭沫若選集の出版企画をはじめた。著者の意思を確認すべく斡旋者の柘植秀臣氏が郭沫若に打診した後、郭は気を使って自宅で柘植氏と会った。会見時に同席した翻訳家の戈宝権氏の回想記によれば、日本側が持ち出した出版企画に郭沫若は非常に協力的だったという2672年というのは文革の真っ最中である。紅衛兵運動の中で最愛の息子を2人も亡くした後郭沫若はすっかり意気消沈した。あのとき周恩来に助けを求めたら息子たちは無駄死にせずにすんだと自分を責め続け、そして悲しいあまりに長いこと自宅に閉じこもって死んだ息子の日記をひたすら筆で写していた。林彪は71年の「九.一三」事件で死んだとはいえ、毛沢東は林彪の反革命罪状の思想的根源には「孔孟の道」があったと指摘し、林彪を儒教思想と結びつけて全国的な批判運動を展開させる考えだった。こうした毛沢東の意思が共産党と国の上層部に伝達されたあと、80歳を過ぎた郭沫若の境遇決してよくなかった。五四以後の知識人層の中で自分の尊孔史観はよく知られている27。しかも解放後もその史観を堅持して新たに『十批判書』を出版して歴史研究界で大論争を巻き起こした。まもなく始まる「批林批孔」運動の中で矛先が自分に向いてくるのが必至だと分かる。今までのように逃げようとすればできないわけではない。『十批判書』の出版は1962年だから、4年後の自己批判の中で「以前書いたものは、厳格にいうなら、全て焼き尽くすべきで、まったく価値がない」と認めたからにはそれまでの「尊孔」の史観も否定されたことになる。そんな彼は自分の「焚書」発言、そしてその後アジア・アフリカ作家緊急会議での「本音釈明」を忘れたはずはない。ここで雄渾社の『郭沫若選集』全17巻の出版企画に支持を表明したら、自己否定をしていないばかりか、その「毒素」を世界にばら撒きたいというふうに文革派に取られかねない。なのに、それでも敢えて「焚書」発言を覆すような行動に出たというのは、文革初期に恐れて屈した「もの」には80歳過ぎの郭沫若はこれ以上屈したくないという新しい意志の表明と見てよいと思われる。
 それを根拠に考えると、そもそも最初から「焚書」、つまり自分の過去を葬る意思はなかったのではないか。アジア・アフリカ作家緊急会議で自分の自己批判が「
責任感の昇華」であり、「心の奥底から出た本音だ」と言ったのも、またその場逃れの発言ではなかろうかという疑問が自然に生じる。そのような自己批判をしなければならないのは、言ってみれば一種の生き延びるための姑息の手段で、よくある政治家の保身術にすぎないと見るべきではないのだろうか。
 
1978年に他界するまで郭沫若は66年の自己批判が不本意なものだと公の場で明言したことがなかった。しかし、90年代以後に出版された『郭沫若書信集』(黄淳浩編,中国社会科学出版社1992)や近刊『忘年交私と郭沫若、田漢との交友』(陳明遠著,学林出版社1999)および『我們都経歴過的日子』(季羨林編,北京十月文芸出版社20001等では、文革中に自分の人格を犠牲にしてまで毛沢東に追従するように見えた彼にはわれわれの知らないもう一つの顔が窺える
 ここで、陳明遠氏の回想記「郭先生を偲ぶ」を引用する。それによると、郭沫若が自己批判の直前に知己の友だった葉以群1911―1966,上海文聯副主席,文芸理論家)に次のようなことを吐露した。葉氏は郭沫若が自己批判した4ヶ月後「批闘」に耐えきれず建物から飛び降り自殺をした。
 「わたしは生まれてこの方最も憎悪しているのは虚偽だ。しかし不幸なことに、われわれ自身は時としてこの悪習に染まることもある。「汚泥ヨリ出デ、而も染マラズ」というのはただの喩えに過ぎないのだ。われわれのような汚泥から這い上がってきた人間はだれでも汚泥に染まることを免れないから絶えず身につく汚物を洗い落としつづけないといけない。もちろん、どしゃぶりのような勢いで洗われたらひとたまりもなく、葉も落ち枝も折れてこっぱみじんになってしまうのだが……。もしみんな童心に返ることができたらどんなにいいだろうになあ。こんなに沢山の仮面なんか要らないよ、こんなに嘘偽りの演技は要らないよ!純真さと素朴さこそ詩の最高境地であり、人生の最高境地でもある」28
 
ここの「身につく汚物を洗い落としつづけないといけない」というのが旧知識人の思想改造を指していると思われるが、「仮面」と「嘘偽りの演技」は反右派闘争以降の、度重なる本意ならぬ自己批判のことを暗示しているのであろう。 

結び

郭沫若の自己批判がいったい本音かどうか。わたしは多くの人と同様に真剣に考え、そして悩んできた。時が38年も経った今、振り返って見ると、文化大革命の10年間は、ほんとうに真実は闇に封印され、嘘だけが蔓延していた時代だったと改めて痛感する。今にして思うのだが、毛沢東がプロレタリア独裁を強化する時に当たって、郭沫若のような元無党派民主人士出身の指導者は自らアイデンティティーを棄て強権政治の木偶の坊になるか、自ら心身を消滅させるか、選択肢は二つしかなかった。郭沫若が自己批判をした半年後に逮捕され、1年後に獄中で迫害を受けて亡くなった田漢、屈服を潔しとせず自ら命を絶った老舎、葉以群のような「硬骨漢」もいるが、ヨ、周揚、茅盾、巴金、何其芳などのように自分が徹底的に打倒されるまで不本意ながらも部下や仲間を傷つける批判文を書いたりした有名な知識人の例も枚挙に遑ない。
 思うに、郭沫若にとって、辞表を出すこと自体が協力拒否を意味するので権力に対する一種の抵抗といってもよかろう。しかしその抵抗はあまりにも無力だった。彼は政治の舞台から自ら退く自由すら持っていなかった。再び二者択一の決断を強いられた時、75才の彼は自己の全面否定を選んだ。ある意味では、このように極端に追い込まれた時に決断された郭沫若の自己批判がむしろ一種のカモフラージュに包まれた「精神自決」というべきかもしれない。『女神』創作期に彼は「鳳凰のように自らを焼き尽くす」ことで「斬新な自分として生まれ変わる」ために、「地獄で鬼になっていた」「過去の生活」に別れを告げ、「これからは光明の世界で人間になろう」と誓って新しい人生を始めたのである29。自己批判後彼はまた同じことを口にした。しかし今度は今まで自分がどこが悪かったのか、これからどんな新しい自分に生まれ変わりたいのかという極めて肝心なことについては一切触れなかった。66年までの彼があったからこそ、解放後の知識層の旗手である彼があるのだ。したがって以前の精神世界をすべて否定してしまった彼にはもはや何も残っていない。地位が守れたとしても、全人大常務委員会副委員長も中華全国文芸家連盟主席も科学院長も何の意味もないからくり人形にすぎないことは彼自身が一番よく分かっている。その後自分が「全人大の(外国賓客)接待係りだ」と自嘲していた彼の気持ちはああいう選択をした自分の悔しさを浮き彫りにしているように思われる。
 いままでずっと謎に包まれていた66年の有名知識人批判に関する事実がだいぶ明らかになった今日、われわれは当時郭沫若がした自己批判を、文革という極めて異常な時期における一人の知識人としての苦渋の選択だと言うことができないのだろうか。自己批判以後、文革中せめて加害者にはなるまいという姿勢、そして知識無用論が氾濫する風潮の中で科学研究の重要性を力説しつづけたこと、さらに病死する直前まで周恩来批判をめぐって毛沢東がご健在であるという状況下でも江青らへの協力を断固として拒否しつづけたことなどから、かつて自ら捨て切った一人の知識人の持つべき良心的な精神世界を必死に取り戻そうとしたようにも見受けられるのである。
 確かに50年代以降の郭沫若は意志薄弱だったかもしれない。そして彼にとって、『女神』時代の偶像破壊者から社会主義中国誕生後の偶像崇拝者へ変身してしまったことが人生の最大の悲劇だったかもしれない。しかし彼は彼なりに激動した時代を命賭けて生きぬいてきたのではないか。57年の反右派闘争から文革の終焉まで、彼の抵抗がどんなに無力であっても、彼は毛の強権政治の被害者であって加害者ではなかった。これは非常に大事なことである。われわれは忘れてはならない。福田恒存氏が前掲「郭沫若の心中を思う――真実の言なのか 絶望の声なのか」という文章の中で「始皇帝の恐怖政治も恐ろしいが、郭氏の無責任にうかがえる道徳的退廃の方が一層恐ろしい」と情け容赦なく叩き、「始皇帝は単に自分の思想に反する‘敵’を滅ぼそうとしただけのことだが、郭氏は自分が影響を与え、自分を支持してきた‘味方’を冷酷にも切った」と郭沫若の人格の堕落を嘆いたが、わたくしは福田氏の道徳退廃論には感心するが、「裏切った」という観点は同感できない。なぜなら、福田氏が指摘した郭沫若の「無責任」は知識人の旗手としての無責任にすぎない。その責任を果たすなら、1966年の郭沫若は彼が敬愛する屈原のように自ら命を絶つしか方法はなかった。もし今日を生きるわれわれは彼から影響を受け、そして彼を支持してきた「味方」だったら、善悪正邪のまったく分からぬ生存環境の中で自分たちのリーダーである彼に「潔く自決してくれ」と願っていたのだろうか。われわれが彼に死の選択を望んでいなかったなら、その「裏切」説の論理が成り立たないのである。今日安全地帯にいるわれわれが、常に死活の選択を迫られる時代にいる郭沫若に「硬骨漢」の生き方を強いること自体がどう考えても理不尽であろう。
 郭沫若が自己批判を行った1966年に、多くの有名知識人は迫害を受けて自ら命を絶った。当時の彼らのほとんどが自殺する前に「毛主席万歳!万々歳!」と遺書という最後の手段で毛への忠誠を誓っていたことを知っていたら、われわれはどんなに強いショックを受けるのだろう。小稿の結びに郭沫若が自己批判を行った直後に自殺した彼らの名前(筆者の把握している確実な資料による)を記して彼らの英霊を祭ると共に、郭沫若の自己批判をどう受け止めるべきか、改めて考えていくことにしたい。