紅衛兵と文革時の狂気について

「文化大革命」解析中)

 「文革」中、紅衛兵が徹底的に利用された。しかし、「文革」が破産せしめられて以降紅衛兵はどこに消えたのか、「文革」の全過程において紅衛兵の運命はどのように弄ばれたのか、これは誰しも思う疑問であろう。どうなったのだろうか。紅衛兵は、「文革」の初期、実権派打倒に決起した。この時、社会主義の内実を根底から懐疑する造反有理精神を植えつけられた筈であるが、マルクスの座右の銘でもあった「すべてを疑え」精神が一朝一夕に消せるものでは無かろう。深く地下に潜っているのであろうか。それとも本当に雲散霧消したのであろうか。国家総動員によってつくり上げられた「政治的覚醒」は、国家総動員による逆風批判合唱によって容易に解体されるということであろうか。

 「毛沢東は帝国主義を反面教師として革命家になった。中国の若者たちは、いま毛沢東型社会主義を反面教師として21世紀の中国社会のあり方を模索している」とあるが、そういうことなのかとも思う。
 



 紅衛兵たちは、修正主義路線打倒を目指して決起した。紅衛兵はなぜ造反に立ち上がったのであろうか。ある紅衛兵は「父母への公開状」のなかで、こう書いている。「十数年来、あなたたちは優遇されて、長いこと事務室から出ませんでした。あなたたちの“もとで”はとっくに使いきっているのです。あなたたちの革命的英気は、とっくに磨滅しているのです。労働人民から隔たることあまりにも遠いのです。事務室を出て、大衆運動の大風浪のなかに来て、あなたたちの頭を入れ替え、体の汚れを洗い落とし、新しい血液を注ぎ、徹底的にこのような精神状態を改めるべきです。そうでないと、この大革命のなかで淘汰されることになるでしょう(1966.8.26日付け『人民日報』)」。

 これは中央直属機関に勤める父母をもつ紅衛兵の手紙である。恵まれた高級幹部の子弟であろうと推測される。彼らは社会主義の理想、文化大革命の理念を文字通りに素直に理解し、この理想に照らして、現実の中国に存在する負の現実を厳しく批判したのであった。



【「狂気の紅衛兵の嵐」】

 文革時代を包んでいた一種異様な雰囲気について、「宗教的色彩を帯びた現代迷信」、「封建的フアシズム」などと形容されることが多い。いくつかの例を挙げよう。

 ある老人は毛沢東塑像のホコリを払おうとして首に手をかけたところ「謀殺を図ったもの」と解釈され、現行反革命として何年も拘留された。五歳の幼児がいたずらして毛沢東バッジを小猫の首に掛けたところ、母親もろとも闘争にかけられた。毛沢東の写真が印刷してある新聞や雑誌を捨てたために「階級の敵」とされた者はすくなくない。印刷労働者が不注意のミスプリを犯して、「階級の敵」とされた例もある。

 なかでも極め付きは林昭という女性の場合である。彼女は上海の監獄に投獄されていたが、自己批判を拒み、1968.4.29日銃殺された。そして5.1日早朝、老いた母親のもとに処刑の請求書が届いた。「反革命分子のために銃弾を一発用いたので、家族は一発分0.05元を支払うべし」(『沈思』2巻、331頁)。ここには文革の狂気が凝縮されているように思われる。

 ある中国人はエンゲルスのルネサンス礼讃をもじって、こう書いている。「(文革という時代は)犯罪者を必要とするがゆえに犯罪者を作り出した時代、残酷野蛮、愚昧、無知の面で、獣性のみあるもヒューマニズムなき犯罪者の時代であった」(同書338頁)。著名な作家巴金が文革発動20年(1986年)に当たり「文革博物館」の設立を提唱したことがある。「われわれは皆子々孫々に10年の痛ましい教訓をしっかりと記憶させる責任がある。歴史の再演を許さないために」(8.26日付け上海『新民晩報』)。

 この提案を受けて、わが学生時代の中国人老師黎波はこう書いた。「文革は、中国の暗部の最たるものに違いない。人目に触れさせたくないという気持ちは理解できるが、二度と文革のような悲劇を繰り返させないために、隠蔽ではなく、反対に掘り起こして歴史に刻むべきではないだろうか。文革が終結すると、われもわれもとばかり被害者を名乗り出た。すべてうそ偽りだとはいわないが、文革の被害者のほとんどは被害者になる前に加害者であったり、そのあとに加害者側に組み入れられたはずだ。こういう人たちは、文革を語る巴金、陳白塵、陳若曦、白樺、劉賓雁などをこころよく思わないのも当然至極である」(季刊『烏其山』1986年秋号)。

 老師はさらにこう続けた。「文革の真相のかなりの部分を闇の中に閉じ込めることができたのは、受益者の力によるものと見てよかろう。日本の南京大虐殺隠しとドイツのポーランド人迫害隠しには、それぞれ有力な共犯者と後継者が多く存在していた。文化大革命を太陽の下にさらせば、二度とあのような惨事は起こらない、という歴史観からではなく、中国人とはなにか、この問を解く鍵が文革の中にあるのではないかという考えから、文革学の成立を期待するのである。

 そのため先ず手始めに、正確な文革史、文革写真集、文革百科事典、文革用語辞典を刊行してほしい。そして大字報、通信、思想報告、身上調書、批判闘争の記録、映画フィルム、録画・録音テープ、被害者の名簿、遺品、遺書、加害者の供述書、加害現場、刑具などの保管や展示をする資料館、博物館、図書館をつくること、それが中国人の、人間としての証しであろう」(季刊『烏其山』八七年春号)。

 王若望(1987.1月、方励之とともに党から除名された)は、『文化大革命大辞典』編集の意図をこう語ったことがある。「文革の10年に現れた怪名詞、新政治用語を集めておくことは、わが国の現代小説を外国語に翻訳する上で訳にたつ。原稿募集の呼びかけはまだしていない。編集の仕事量はたいへんだが、完成すれば面白いものとなるはずだ」(香港『九十年代』1986年8期のインタビュー)。

 まことにわが老師の喝破したごとく、「有力な共犯者と後継者」が存在しているために、「文革博物館」は日の目を見ず、『文化大革命大辞典』も出版されるに至らない。そこで文革の亡霊は浮かばれることがなく、中国の大地を徘徊し続けることになる。

 紅衛兵に襲撃され、北京市内の各教会が破壊され、外国藉の尼僧は国外へ追放された。カラフルなスカートや旗袍を身につけた女性は鋏で切り裂かれただけでなく、時には陰陽頭(頭髪を半分だけ剃り落とすもの)にされた。粤劇の女優紅線女もこの辱めを受けた。

 紅衛兵はまたソ連大使館のある通りを反修路、東交民巷を反帝路と改称し、北京の銀座といわれる王府井大街はまず革命路、ついで人民路と改められた。ついには赤は良い色であるから、赤信号で前進すべきであり、青信号で停止すべきだとする主張さえ登場した。しかもこれらは各紅衛兵組織が勝手にやるものであるから、混乱は必至であった。

 ロックフェラー資金で建設された協和病院は反帝病院、ついで首都病院と改称された。ペキン・ダックの全聚徳は北京(火考)鴨店となった。

 紅衛兵はまた反革命修正主義分子の家を勝手に捜索し(原文=抄家)、胸にプラカードを下げさせ、頭に三角帽子をかぶせて、街頭を引き回した。なかでも彭真(北京市長、政治局委員)の引回し姿を写した写真は外国の新聞にも報道され、衝撃を与えた。

 ケ拓(1912年〜1966.5.18日)は自殺した。呉han (1909年〜1969.10.11日)は獄死した。呉ヨの妻袁震は病弱であったが、反革命の家族として労働改造隊に送られ、1969.3.18日日死去した。長女呉小彦は1976.9.23日自殺した。結局四人家族のうち長男呉彰だけが生き残った。この種の悲惨な例は少なくなかった。党内では、延安時代に毛沢東秘書を務め、彭徳懐事件に連座した周小舟が自殺し、さらに文革直前まで毛沢東秘書を務めていた田家英も自殺している。



  その後の紅衛兵運動は一筋縄では行かなかった。紅衛兵運動内に対立が発生し、まもなくある者は武闘に倒れ、ある者は辺境開拓に追いやられ、総じて、権力闘争に利用される結果に終わった。この意味では、1960年代後半に10代、20代であった紅衛兵世代は失われた世代である。

 1968〜78年にかけて「知識青年下放運動」が展開されている。この10年間に全国で下放した知識青年は約1623万人とされている。1968.12.25日付け『人民日報』は、「下放を望むか否か、労農兵と結合する道を歩むか否かは、毛主席の革命路線に忠実であるか否かの大問題である。修正主義教育路線と徹底的に決裂し、ブルジョア階級の“私”の字と徹底的に決裂する具体的な現れである」と述べている。これに拠れば、ある青年が革命的であるか、非革命的であるか、反革命であるかの唯一の基準は、下放に対する態度であるとされており、下放運動がいかに絶対化されていたかが分かる。

 しかし、下放地点の選択においても現実にそぐわない例がしばしば見られた。一部ではより困難な地域ならば、ますますそこへ行かなければならない、と絶対化された。都市近郊で多角経営に成功した青年農場は、下放しても都市を離れないもの、下放したが農業に努めない、大方向に違反している、などと批判された。一部の地域では、下放青年の生活に必要な食料や石炭などをわざわざ都市から運んだ。国家、青年の所属単位、家長などは、下放青年一人当たり年間1000元もの費用をかけるケースもあった。

 ****.*月この年に全国知識青年下放工作会議が開かれ、長期計画が検討されたが、この計画は実現されるに至らず、政策は依然混乱していた。ある年は工場で募集したかと思えば、次の年は下放させる。下放した者のなかから、工場で募集するなどという具合に、地方当局によってマチマチの政策(原文=土政策)が行われた。

 1976.2月、毛沢東はふたたび知識青年の問題についての手紙にコメントを書いて、知識青年の問題は専門的に研究する必要があるようだ。まず準備し、会議を開き、解決すべきであると指摘した。しかし、毛沢東の死まで彼らの問題は解決されなかった。

 1978年の全国知識青年下放工作会議紀要はこう指摘している。知識青年下放運動は、全体的計画を欠いており、知識青年の工作はますます困難になった。下放青年の実際的問題は長らく解決されていない。これこそが鳴物入りで大々的に展開された下放運動の総括なのであった。

 下放運動はいかなる帰結をもたらしたのであろうか。第一は人材の欠落である。文革期に養成を怠った大学生は約100万人余り、高校生は200万人以上に上る。このために人材の欠落がもたらされた。一部の地域では中学卒業生はすべて下放し、高校は開かなかった。一部の地方では中学高校の一、二年生も、卒業生とともに農村へ下放した(『教育年鑑』470頁)。一部の青年はのちに学習して学力を取り戻したが、大部分は中学かそれ以下の学力しかない。下放運動は三大差異の縮小に役立たなかっただけでなく、中国と世界の教育水準の格差を拡大し、近代化にとっての困難をますます増やすことになった。

 下放運動は経済的にもマイナスであった。文革期に国家や企業は下放青年の配置のために約100億元あまり支出した。これらの一部は開墾事業に貢献したが、経済効率ははなはだ悪かった。また1979年大量の下放青年が都市へ帰るに際して、すでに結婚した者も含めて、就業問題は経済建設への大きな重圧となった。下放青年を受け入れたことによって、農民も損失をこうむり、また青年の家長たちも仕送りのために経済的負担を余儀なくされた。

 青年が農村の現実を知ったことにはプラスの面もあるが、人生の黄金時代に正規の教育を受ける機会を失した損失は取り戻すことができない。紅衛兵──下放青年の体験をもつ世代はまさに現代中国の失われた世代である。この世代の空白は彼ら自身にとっての損失であるばかりでなく、中国の近代化にとっても人材の面での大きな痛手となって、その後遺症は長く続いている。



 しかし、文化大革命という苦い果実を味わった若者たちのなかから、思考する世代が生まれることになった。その嚆矢は「中国はどこへ行くのか?」(別名「極左派コミューン成立宣言」1968.1.6日付)を書いた湖南省プロレタリア階級革命派連合指揮部(略称=省無連)のリーダー楊曦光(本名=楊小凱)らであろう。当時彼は反革命罪で逮捕され、生命が危ぶまれたが、17歳という若さのゆえに、懲役10年の刑で済んだ。彼はその後“監獄大学”でエコノメトリックスを学び、出獄後アメリカに留学した。いまはオーストラリアのある大学で講師をしている。「虎に食われ損なって生き延びた」この若者は、暴力革命を断固として否定し、広い視野から社会主義を再考するよう呼びかけている。





(私論.私見)