中ソ対立・論争

 中ソ関係は、共産中国の建国以来、世にいわれる一枚岩の同盟関係にあった。しかし、この同盟関係は50年代から60年代にかけて次第に揺らぎ始める。この揺らぎのきっかけをつくったのはフルシチョフの「平和共存」路線であった。彼は1956年、ソ連共産党第20回大会において、いわゆるスターリン批判を行った。帝国主義体制との戦争不可避というテーゼを打ち立てていたスターリン主義に対して、緊張緩和、デタントを模索する「平和共存」路線を提起した。

 フルシチョフのスターリン批判、平和共存路線の提起に対して、中共の毛沢東指導部派が激しく抵抗し対立することになる。いわゆる「中ソ論争」が始まり、この段階から中ソの対立はだんだん激化していくことになった。当初は単なるイデオロギー論争であるとみなされたが、次第に国家的な中ソ対立という段階へ進んでいくことになった。

 理論論争が始まるが、ことごとく対立を見せることになる。体制論としても、毛沢東はソ連に対して修正主義、あるいは修正社会主義と非難する。口では相変らず社会主義といっているけれども、実は非スターリン化という名の修正主義である、と批判した。一方、ソ連の方は、毛沢東中国こそ社会帝国主義である、と非難する。このような、ソ連の中国に対する社会帝国主義呼ばわりと、中国のソ連に対する修正主義呼ばわりという激しい論争が、やがて国益対国益の対立となっていく。この時の論争が未決着のまま歴史は流れていく。

 
1959年、ソ連のフルシチョフ第一書記が北京を訪れ、毛沢東と7時間会談したが、共同コミュニケを出せないほど、中ソ関係は冷えていた。60年夏、ソ連は中国援助を一方的に打ち切った。

 中国農村の指導権の二分の一が修正主義の手に奪われたとする実態認識は穏やかなものではない。社会主義体制のもとで平和的な資本主義復活がなしくずしに進行しているとする事実認識はどのような経緯で生まれたのであろうか。ここで見落とすことのできないのは中ソ論争、中ソ対決である。

 毛沢東の「修正主義」認識はまずソ連社会論から出発した。すなわち盟友の中国社会主義を裏切り、アメリカ帝国主義に屈伏するソ連は修正主義によって、指導権を奪われたからだと毛沢東は認識したのであった。こうして観点から社会主義教育運動下の中国の現実を見直すと、「内なる修正主義」現象があふれていた。毛沢東曰く、全国の約三分の一はすでに修正主義に変質している、指導者も中央レベルから基層レベルまで約三分の一が修正主義に堕落した、と。

 毛沢東が人民公社のアイディアを自負しつつ、ソ連のコルホーズ、ソフホーズの不徹底さを批判し、翻って中国の幹部たちをゴリゴリの官僚主義者(原文=死官僚主義者)と難詰したのは、一九六〇年後半から六一年にかけてである。

 1963.9.6日、中ソ論争の第一評「ソ連共産党指導部とわれわれの分岐の由来と発展」の発表に前後して北京では中央工作会議が開かれていた。毛沢東はこう述べた。「農村の社会主義教育運動と都市の五反運動は、国内の反修正主義の基礎を固めるものであり、国際的な反修正主義、国内の階級闘争拡大と結合しなければならない」。 

 これ以後、社会主義教育運動を通じて、修正主義発生の社会的基礎をなくすという言い方が党内文件にしばしば登場するようになった。このとき毛沢東は、階級闘争をカナメとするスローガンを提起している。ユーゴが官僚ブルジョア階級によって支配されるに至ったと非難したのは「ユーゴは社会主義国家か」(三評、1963.9.26日)においてである。「フルシチョフのエセ共産主義とその世界史的教訓」(九評、1964.7月)では特権階層なる概念を提起している。


 1960年代の初頭の中ソ論争の中でソ連のフルシチョフが、 ソ連の国家を 「全人民の国家」 というふうに表現をし、 それに対して中国が、 「ソ連は遂にプロレタリアート独裁を放棄して、 全人民の国家というような修正主義を行うようになった」 といって痛烈に批判した。

 1969年中ソ国境紛争が発生する。ウスリー江の中の島、ソ連でいうダマンスキー島、中国流にいえば珍宝島、この武力衝突で双方に相当数の戦死者が出る。中ソ関係は対立の度をますます深め、これが伏線となり歴史的な米中和解へと繋がることになる。





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