中ソ対立・論争 |
中ソ関係は、共産中国の建国以来、世にいわれる一枚岩の同盟関係にあった。しかし、この同盟関係は50年代から60年代にかけて次第に揺らぎ始める。この揺らぎのきっかけをつくったのはフルシチョフの「平和共存」路線であった。彼は1956年、ソ連共産党第20回大会において、いわゆるスターリン批判を行った。帝国主義体制との戦争不可避というテーゼを打ち立てていたスターリン主義に対して、緊張緩和、デタントを模索する「平和共存」路線を提起した。
毛沢東の「修正主義」認識はまずソ連社会論から出発した。すなわち盟友の中国社会主義を裏切り、アメリカ帝国主義に屈伏するソ連は修正主義によって、指導権を奪われたからだと毛沢東は認識したのであった。こうして観点から社会主義教育運動下の中国の現実を見直すと、「内なる修正主義」現象があふれていた。毛沢東曰く、全国の約三分の一はすでに修正主義に変質している、指導者も中央レベルから基層レベルまで約三分の一が修正主義に堕落した、と。 毛沢東が人民公社のアイディアを自負しつつ、ソ連のコルホーズ、ソフホーズの不徹底さを批判し、翻って中国の幹部たちをゴリゴリの官僚主義者(原文=死官僚主義者)と難詰したのは、一九六〇年後半から六一年にかけてである。 1963.9.6日、中ソ論争の第一評「ソ連共産党指導部とわれわれの分岐の由来と発展」の発表に前後して北京では中央工作会議が開かれていた。毛沢東はこう述べた。「農村の社会主義教育運動と都市の五反運動は、国内の反修正主義の基礎を固めるものであり、国際的な反修正主義、国内の階級闘争拡大と結合しなければならない」。 これ以後、社会主義教育運動を通じて、修正主義発生の社会的基礎をなくすという言い方が党内文件にしばしば登場するようになった。このとき毛沢東は、階級闘争をカナメとするスローガンを提起している。ユーゴが官僚ブルジョア階級によって支配されるに至ったと非難したのは「ユーゴは社会主義国家か」(三評、1963.9.26日)においてである。「フルシチョフのエセ共産主義とその世界史的教訓」(九評、1964.7月)では特権階層なる概念を提起している。 1960年代の初頭の中ソ論争の中でソ連のフルシチョフが、 ソ連の国家を 「全人民の国家」
というふうに表現をし、 それに対して中国が、 「ソ連は遂にプロレタリアート独裁を放棄して、
全人民の国家というような修正主義を行うようになった」 といって痛烈に批判した。 |