建国及びその後の歩み

 今日中国は次のような国家として概括される。面積は日本の26倍(約960万平方キロメートル)。民族は中国全体で56民族が生活している。その92.5%が漢民族で、残り7%強がモンゴル民族・チベット民族・朝鮮民族等55の少数民族です。国語は、いわゆる中国語の標準語と言われる北京語をベースにした言語。この国家が如何なる苦しみの中から生まれたのかは別章で扱うとして、この国家がその後如何なる変遷を経てきたのかをここで考察することにする。

 先ず、中国の政治社会の変化を歴史的に考察するために、毛沢東の新民主主義政治論を振り返ってみたい。抗日戦争の時期に「新民主主義論」や「連合政府論」を著して、新民主主義政治の青写真を示した。それはソ連の「プロレタリア独裁」ではなく、「人民民主独裁」だと述べた。それは人民による民主主義政治を行い、階級敵には「独裁」を行うというものであった。人民の中には民族資本家や開明地主も含まれ、階級敵は極めて限られた。そして当時の現実闘争においては、前衛党である共産党の指導の下に、大衆路線と統一戦線政策がうまく貫かれ、広範な大衆の支持を得ることに成功した。また共産党内部は、民主集中制の組織原則が遵守され、党内民主が確保されていた。


 1949.3.25日、中共中央機関が北平(のち北京と改称)に入った。かれらは凱旋将軍のように、西郊飛行場で各民主党派代表の歓迎をうけたが、この盛大な歓迎式を演出したのは周恩来である。歓迎式の場所、時間、参加者名簿など細々した実務はすべて周恩来が決定した。周恩来はこのような仕事を、精緻なコンピューターのように処理するのを得意とした。

 共産党は抗日戦争期から民主諸党派に対して、共産党の独裁政府ではなく、他党との連合政府の樹立を約束していた。そこで5.24日、周恩来は北平の民主人士をまねいて政治協商会議をひらき、連合政府を樹立する問題について協議した。

 6月中旬、新政治協商会議準備会一次会議がひらかれた。新しい中国政府はこの会議を通じてつくられることになっていた。周恩来はこの準備会常務委員、副主任になり、かつ共同綱領起草小組の組長として、中華人民共和国政府の方案づくり、共同綱領づくりをおこなった。

 こうした準備をへて、中国人民政治協商会議第一次全体会議(九月二一〜三〇日)がひらかれた。開幕の辞のなかで毛沢東は「人類の総数の四分の一を占める中国人がここに立ちあがった」と有名な宣言をおこなった。周恩来は共同綱領の起草経過を報告し、「独立、民主、平和、統一、富強の新中国を建設しよう」とよびかけた。

 日本の内閣にあたる政務院(国務院の前身)および日本の各省にあたる各部、委員会などの主な責任者のリストは大部分周恩来がリストをつくり、毛沢東と協議をかさねたのち、正式に任命された。極言すれば、周恩来と毛沢東が二人で新政府をつくったようなものである。

 ここで周恩来が特に気配りを見せたのは、共産党員ではないが、そのシンパである民主人士にたいする扱いであった。たとえば傅作義水利部長がそれである。程潜、張治中、龍雲、傅作義など国民党の著名な将軍は少なくなかったが、北京平和解放の功績を高く評価して傅作義を抜擢する反面、副部長には中共党員の李葆華を配することによって実務への障害をさけた(非共産党の著名人をおもてにたて、裏で共産党員が糸をひくやり方は、周恩来流の統一戦線の典型的スタイルであり、民主諸党派との協力としてもてはやされたが、のちには共産党独裁の隠れ蓑に堕落した)。

 こうして四名の副総理は中共党員二対非党員二、二一名の政務委員(閣僚)のうち中共党員一〇名、非党員一一名、政務院管轄の三〇機関の責任者九三名のうち中共党員五一名、非党員四二名となり、共産党をリーダーとする四九年革命に協力した他の党派、あるいは著名人たちの労にむくいた。(しかし、五七年の反右派闘争のさいに、これらの非党員閣僚たちのほとんどが右派分子とされ、その地位からはずされた。共産党と他の党派の蜜月はあまりにも短く、共産党は単に民主諸党派を権力獲得のさいに利用しただけとする批判も少なくなかった。)

 1949.9.21日、中国人民政治協商会議が開かれ、中国共産党を始め、蒋介石と決別した国民党革命委員会、共産党との協力関係にあった民族資本家達の中国民主同盟、労働組合、農民組織、青年・婦人代表などの代表約600名と、特別招請人75名が参集した。会議は9.30日まで続けられ、暫定憲法の役割を持つ「政策共同綱領」が採択された。新国家名を「中華人民共和国」とし、首都を北京、国旗を「五星紅旗」、国歌を「義勇軍行進曲」とすること等々が定められた。

 「各少数民族の豪居地区では、民族の区域自治を実行し、民族聚居の人口の多少と区域の大小におうじて各種の民族自治機関をそれぞれ樹立する」とされていた。

 この時「中央人民政府組織法」と共に、新政府の指導者が選出された。中央人民政府委員会の主席に中国共産党主席毛沢東、同副主席に、人民解放軍司令朱徳、中国共産党政治局員・劉少奇、国父孫文の未亡人宋慶齢ら6名。政務院総理に外相兼務の周恩来、副総理に中国共産党政治局員*必武、科学院院長兼歴史学者郭沫若ら4名。その他政府委員56名。その順位は、1位陣、2位賀竜、5位葉剣英、7位に林彪と続く。


 1949.10.1日午前6時、周恩来はすでに三度も衛士当直室に電話をかけてよこし「主席は寝られたかね」と確認していた。そのたびに「まだです」の答えが返ってきた。「君たちが催促して早く休んでもらいなさい。午後二時に開会し、三時には天安門に登楼しなければならない。手立てを考えて早く休んでもらわなければ」と周恩来。李銀橋が催促すると、毛沢東は文書を書きおえ、ようやく立ちあがり、中庭に散歩に出た。一〇分ほど散歩したのち、用便を済ませ、衛士(ボディガード)に体をふかせ、床についた。その日は按摩はやらなかった。「午後一時に起こしてくれ」。

 衛士の当直班は毛沢東づきの正班、江青づきの副班各二名ずつからなっていた。枕元のベルが当直室につながっており、副班は寝てよかったが、正班は不寝番と決まっていた。午後一時、ベルは鳴らなかったが、李銀橋は寝室へ入り、毛沢東を起こした。ぬれタオルを手渡し、例のごとく李銀橋が湿布摩擦を始めると、ようやく目がさめた。毛沢東は、目ざめてから一時間前後はベッドで茶を飲んだり、読書したりするのが常で、その日もこの習慣を変えなかった。

 毛沢東がその日にきる「礼服」は中山服(いわゆる人民服)であり、生地は生活秘書の葉子龍が届けてくれたカーキ色の米軍将校用のもので、李銀橋が王府井の仕立屋王子清に頼んでつくってもらった。毛沢東は朝飯をす早く食べたあと、二時に勤政殿へ歩いて行った。そこには朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時、張瀾、李済深、宋慶齢、高崗などの指導者があつまっており、中央人民政府委員会第一次会議をひらくことになっていた。会議後の二時五〇分、彼らは勤政殿から自動車にのり、中南海東門をぬけて、中山公園から天安門城楼の後ろまで南下した。当時、天安門の地下道はまだつくられておらず、李銀橋は毛沢東をささえて城楼西側の階段をのぼり、三時きっかりに天安門楼上に姿をあらわした。

 式典が開始されると毛沢東はマイクの前にすすんで広場を眺めわたしたたあと、「中華人民共和国中央人民政府は成立した!」と宣言した。その瞬間、広場には嵐のような歓声が巻きおこった。毛沢東が電気のスイッチをおすと、五星紅旗がするするとあがり、五四門の大砲から礼砲がとどろいた。毛沢東が第一声を発するとき、傍らにいた周恩来がマイクの向きを毛沢東のために調節している映像が印象的であった。ここに以後の毛沢東と周恩来の上下関係が凝縮されていたように私には思われてならない。


 この時、野坂参三は、アメリカの軍服を着てアメリカの銃を持ち、アメリカの戦車に乗っていたと伝えられている。野坂がОSSのエージェント活動していたとすれば辻褄が合う。


 1949年に中華人民共和国が成立するが、新中国の国造りはこの青写真によって行われ、ソ連とは違う新しい社会主義政治が形成されると期待された。人民代表大会と政治協商会議の二本立て議会制度は、共産党の指導の下に人民の意見や要求を反映させるという役割が一応うまく機能した。そのため1950年代前半は、社会は活気に満ち、経済も順調な発展を見せ、世界の注目を浴びた。 

 新中国が生まれる契機となった四九年革命は新民主主義革命とよばれる。革命前の中国は、帝国主義列強による半植民地であり、その社会構造は「半封建的」社会とよばれた。前者はインドのような完全な植民地ではないこと、後者は封建社会が半ばくずれ、資本主義経済が一部でしか発展していないことを指している。前者から、革命の目的は対外的にはまず列強からの独立と統一であった。後者から、国内的には反封建を内容とするブルジョア民主主義革命であった。中国では弱体なブルジョア階級にかわって、プロレタリア階級、半プロレタリア階級を基盤とする共産党が指導したので、旧民主主義革命と区別して、新民主主義革命とよばれた。ただ、中国革命においては、工業労働者が主役を演ずることはなく、農民を立ち上がらせて土地革命を推進することが中心になった。

 革命家たちにとって権力の奪取は始まりにすぎない。彼らは獲得した権力をもちいて旧社会を変革し、豊かな平等な新社会を建設することを夢みた。新社会へむかって人民を動員するためには、なによりもまず新たな統治体制を再建しなければならない。ところがこの統治体制が人民の自由を抑圧する体制に変質し、意図とはまるで逆に、人民から新社会建設への意欲を奪うことになった。

 建国後まもなく、劉少奇、楊尚昆が中共中央や中央軍事委員会の名で通達をだして、毛沢東のきびしい叱責をうけたことがある。当人にしてみれば、別に毛沢東に隠れてやろうとしたのではなく、会議で決定済みのものを通達したにすぎないが、毛沢東はこう叱責した。「およそ中央の名で発出する文件、電報は私が決裁したものでなければ無効である。注意されたい」「過去に数回、中央の会議決議を私が決裁するまえに勝手に発出したのは誤りであり、紀律破壊である」。劉少奇らがどう受けとめたかわからないが、毛沢東は党主席であり、しかも党の最終意志決定に責任をもつという四三年政治局決議は有効であったから、彼らは毛沢東の指示にしたがうほかなかった。毛沢東の決裁権はこのようにして確立されていった。

 建国後間もなく、朝鮮戦争が起こり、中国の国際環境は厳しさを増した。


毛沢東の「批語政治」

 毛沢東はどのように政府や人民に指示をあたえたのか。その一端は『建国以来毛沢東文稿』から知ることがでる。この資料集には毛沢東の講話や電報、書簡などが収められており、事実上の『毛沢東全集』である。ただ、いまのところ四九〜五四年分を収めた四冊しか出ていない。これをもとに毛沢東の活動スタイルを分析してみよう。

 これら四冊には計一七一三篇の文件が収録されている。これらの文件数を見ると、毛沢東が四九年から五二年まで全精力を傾けて建国の体制作りに取り組んだ過程が分かる。毛沢東が一息ついたのは、朝鮮戦争が終わった五三年のことである。

 各年ごとに文件の種類を見ると、四九年は電報類が六割を超えている。全国解放戦争の指揮をとるために、電報を多用したことが分かる。電報による指令は五〇年も続いた。

しかし、五一年以後は「批語」の形による指示が多くなる。「批語」とは下級組織から上げられた稟議書に、指示を書きこんだものである。たとえば「そのとおりおこなえ」といった単なる決裁から、具体的な注意事項にいたるまで細かく指示したものなどさまざまである。

 一例をあげよう。新華社は四九年一〇月二四日、新疆に進駐した解放軍が旧国民党軍隊の一部を逮捕したというニュース原稿をかいた。それを人民政府新聞総署署長の胡喬木が毛沢東にとどけて指示をあおぐ。毛沢東の「批語」にいわく、「この種のニュースは全国発表すべきでない。西安、蘭州の放送局から放送すべきでもない。ハミなど地方紙に発表すればよい。この件を彭徳懐(当時第一野戦軍司令)、甘泗淇(同政治部主任)に電報でつたえよ。毛沢東」。

 このような形で実に細かな点にいたるまで指示をあたえているが、この「批語」類は五一年五割、五二年七割弱、五三年五割、五四年四割弱を占め、五年余を通じて三分の一を占めている。ここから毛沢東流の政治は「批語政治」であることが分かる。

 電報数と書簡数を比較すると、五二年までは電報が多いが、五三年からは書簡数が電報数を上回ってくる。各年ごとの電報類の比重を見ると、四九年の六割五分から五三年の一割まで急速に減少し、国家体制が整ってきたことを示している。

 行政機構、国家機構がととのったあとは、それぞれの機関から出る令や布告などが重要になるが、建国初期はその形成過程であり、毛沢東の批語が大きな役割をはたしたのである。

 ここで問題が二つある。一つは、「決定」や「決議」と、法体系の関係である。共産党は革命政党として、法治国家を指向しつつもそれに徹しきれない。レーニンのいうように革命とは、決定しつつ行動する過程であり、立法過程をまつことなく、共産党の決定に依拠して政治をおこなうことになる。

 これが共産党独裁の一つの側面である。独走をチェックするものがなく、多くのばあい、速戦即決であるから共産党は朝三暮四をくりかえした。毛沢東の政策の誤りを根本的に改めるためには、毛沢東の死を待つほかなかった。法治によって人治の欠陥を補完することに失敗したのである。

 もう一つは、ひとたび形成されはじめた行政機構、官僚機構の動きと毛沢東の理念が衝突する例がしばしばおこったことである。革命の時期から日常の時期に入り、官僚体制がととのってくると、毛沢東は強い違和感をおぼえた。彼は革命の理念が消えようとしていると危機感を抱いた。そのたびに毛沢東は官僚機構、行政機構を破壊しようとした。

 毛沢東のこころみた大躍進運動(一九五八〜五九年)、文化大革命(一九六六〜七六年)は、整いはじめた機構を破壊し、「革命化」しようとした典型的事例にほかならない。



五四年憲法

 54年の憲法では「各少数民族の豪唐する地方では区域自治を実行する」 という総方針のほかに,「民族自治地方とは自治区,自治州,自治県である。民族自治地方の自治機関は同級の一般の地方国家機関の職権を行使するとともに,自治権を行使することが明確に定められていた。史(タケカンムリ均)「中華人民共和国民族区域自治法について」によると,75年の「四人組」憲法は,54年憲法の「各少数民族の豪居する地方では区域自治を実行する」という総方針が削除され,「民族区域自治を実行する地方では」の文字だけが残された。その3年後,78年憲法では54年憲法の精神が一部復活し,82年憲法では54年精神が全面的に復活した(『民族問題理論論文集』青海人民出版社, 1987年, 42〜43頁)。


【第8回党大会】

  第8回党大会の第一回会議は、1956年9月15日から27日まで北京で開催された。正式代表は1026人、全国の1073万人の党員を代表していた。

  会議は主に以下の数点を確定した。

    (1)  国内の主要な矛盾に関する新しい結論を提起し、党と国家の任務の重点を社会主義建設に移すという重大な戦略的政策転換を決定した。
    (2)  総合的でバランスのとれた、着実に前進する経済方針を堅持する。
    (3)  思想、文化の建設の重要性を強調する。
    (4)  重点的に執政党の建設問題を提起し、党が特定の個人やその人の功績をきわだたせたり、個人の功績をむやみに誉め称えたりすることに重ねて反対する。

  この路線は正しいものだった。それは新しい時期の社会主義事業の発展と党建設ための方向を明示した。

  一中全会では、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、?ケ小平を政治局常務委員に選出した。総書記には?ケ小平を選んだ。

  第二回会議は1958年5月5日から23日まで北京で挙行された。この会議で通過した社会主義の総路線とその基本点は、広範な人民大衆の切迫した要求――わが国の経済、文化の立ち遅れた状況を改善したいという普遍的な願望を反映している正しい一面があるとともに、客観的な経済法則を軽視したという欠点もあった。

  五中全会は1958年5月25日、北京で行われ、中央委員会副主席、政治局常務委員に林彪を選んだ。

  八中全会(廬山会議)は、1959年7月2日から8月16日まで、江西省廬山で挙行された。彭徳懐を批判し、黄克誠の書記処書記の地位を取り消し、右翼日和見主義に反対するなどの決議を採択した。

  十一中全会は、1966年8月1日から12日まで北京で開催された。8月5日、毛沢東は『司令部を砲撃しよう――私の大字報』を書いた。8月8日、会議は『プロレタリア文化大革命に関する決定』を可決した。8月12日、毛沢東を主席に、林彪を副主席に選んだ。

  十二中全会は1968年10月13日から31日まで北京で開かれた。会議は江青、康生、謝富治などが偽証に基づいて書いた劉少奇の罪行審査報告を批准し、永遠に劉少奇を党から除名することを決定した。

  この間の10年にわたって、毛沢東同志の、社会主義社会における階級闘争に関する理論上、実践上の誤りはますます重大なものに発展した。彼個人の独断的なやり方は次々に党の民主集中制を損ない、個人崇拝の現象が次第に発展した。

       

            


十大関係論

 毛沢東は1956年4月,「十大関係論」と題する講演を行なった。(1)重工業, 軽工業と農業の関係,(2)沿海工業と内陸工業との関係,(3)経済建設と国防建設との関係,(4)中央と地方との関係,(5)漢民族と少数民族との関係,(6)中国と外国との関係、など「10個の関係」をとりあげて,矛盾の正しい処理の仕方を述べたものであった。毛沢東が特に強調したのは,ソ連の経験を戒めとして真剣に教訓を学ぶことであった。たとえばソ連は農民をひどくしぼりあげるやり方をとっているとして,農業重視を呼びかけ,平時には国防建設費を削減して経済建設を強化するよう訴えた。また中央と地方の関係においては,「ソ連のように,なにもかも中央に集中して,地方をがんじがらめに縛りつけ,少しの裁量権も持たせないといったやり方をとってはならない」と地方への権限下放を主張した。少数民族問題については「ソ連では,ロシア民族と少数民族とがきわめて不正常な関係にあるが,われわれはこの教訓を汲み取るべきである」など,ソ連の社会主義建設の弱点を鋭く剔抉し,それを「反面教師」として,中国の建設に活かすことを呼びかけたのであった(『毛沢東選集」第5巻,人民出版社,1977年,275頁)。

 毛沢東が中央集権の弊害を指摘し,「地方と協議してやる作風」を提唱したとき,その口調は「総建設」を否定し,「各省の分建設」を主張した「湖南共和国」構想と酷似している。

 毛沢東の分権化構想は大躍進期に,ゲリラ戦争の根拠地作りと連動して極端な形で強行され,中国経済を大混乱に陥れた。その結果,毛沢東の指導権は大いに揺らぎ,文化大革命の発動に繋がった。文化大革命に毛沢東は一時,コミューンの夢を語ったが,そのときに出たのが「虚君共和」の夢であった。

 1966年3月20日,杭州で中共中央政治局拡大会議が開かれた。その席上,毛沢東はこう述べた。「中央はやはり虚君共和がよろしい。 イギリスの女王も, 日本の天皇も, いずれも虚君共和である。 中央はやはり虚君共和がよく,政治の大方針だけを扱う。大方針でさえも地方からの争鳴によって作るのがよい。中央は加工工場を設けて,〔地方からの原料で〕大方針を作るのである。省レベル,県レベルから意見が「放」されて初めて,中央は大方針を作れるのである。こういうのがよい。つまり中央は虚だけを管理し,実を管理しない。あるいは少ししか実を管理しないやり方だ。そうすれば中央の加工工場の収穫が増える。中央が受け取ったものはすべて地方へ出さなければならない。人も馬もすべて地方へ出さなければならない」(『毛沢東思想万歳』丁本,1969年8月,638頁)。

 この一句は『中華人民共和国経済大事記1949〜1980』(房維中主編,中国社会科学出版社,内部発行,1984年)に,次のように引用されている。「中央はやはり虚君共和がよい。中央は虚だけを管理し,政策方針だけを管理する。実は管理しないか,あるいは少しに減らす。中央部門が集めた工場生産物が増えたら,集めたものはすべて中央から地方へ出さなければならない。人も馬もすべて出す」 (410頁)。

 結びに代えて

 毛沢東が1920年(当時27歳)に夢想した「各省の分建設」 と1956年の「十大関係論」,そして1966年の「虚君共和」には,相通ずるものがある。敢えて違いを一つ挙げれば,1920年,1956年には少数民族問題が念頭にあったが,1966年の時点では,これに言及することを忘れていることである。

 追記。なお,この「虚君共和」 というキーワードに触れた新連邦論が金驥著『邦連制───中国的最佳出路』(香港百姓文化事業公司,1992年,56頁)で展開されていることを付加しておきたい。生誕百年に際しての毛沢東評価については,小著『毛沢東と周恩来』(講談社現代新書,1991年)を書いたつもりである。

 もっとも、1956年には毛沢東が「十大関係論」を著し、ソ連式モデルの欠陥を指摘し、中国独自の道を探ろうとした。当時中国のインテリは、民主的社会主義に進むのではと大いに希望を寄せた。しかし1957年の反右派闘争やそれに続く一連の政治闘争の中で、中国の「専制的社会主義」への傾斜は益々強くしていった。その最たるものは文化大革命である。

 中国が「専制的社会主義」に変質していった要因としては、次のようなことが考えられる。(1)毛沢東は階級闘争論に忠実で、それを更に拡大し「大過渡期論」(資本主義ら社会主義に至る期間だけでなく、社会主義建設期も過渡期で、階級闘争が主要課題であってプロレタリア独裁を必要とする)が形成されたこと。(2)人民公社、大躍進運動の失敗により、路線闘争が権力闘争に発展していったこと。(3)ベトナム戦争を巡る米中関係の緊張と中ソ論争による中ソ国家関係の悪化という厳しい国際環境の中で、全中国が準戦時体制下に入っていったこと。(4)数千年の長い歴史の中で形成された皇帝崇拝思想が中国社会に根強く残っていて、毛沢東への個人崇拝が形成され、民主集中制の民主が形骸化していったこと。



 毛沢東は五六年一二月にスターリンの反革命粛清のやり方を批判してこう述べたことがある。「われわれはソ連の経験を学ぶよう提起しているが、ソ連の遅れた経験を学べといったことはない。ソ連には遅れた経験はあるか? 然り、たとえば大粛清である。ソ連では公安部門が実行したが、中国では機関、学校が実行し、地方党委員会が指導した。公安部門が主な責任を負ったのではない」。

 毛沢東はここで建国直後に行われた反革命粛清工作がソ連のマイナスの経験を教訓としつつ、成功裡に行われたと総括している。しかし、問題はこれで終わらなかった。この一〇年後に文化大革命が行われたが、これは反革命粛清工作の継続の側面をもっていた。





(私論.私見)