文革史(予備知識)

 (最新見直し2007.3.7日)

 (「文化大革命」解析中)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 10年に亘った「文革史」の歴史区分をせねばならない。次のように識別できるように思われる。

第一期 966〜69年  実権派打倒に決起した「文革」の発動期から、それが成功裏に導かれた第9回党大会までの時期。
第二期 1969〜73年  第9回党大会でbQの地位にまで上った林彪将軍の絶頂期から「林彪事件」で失脚するまでの時期。
第三期 1973〜76年  「批林批孔運動」から始まる四人組のヘゲモニーの確立から、周恩来、毛沢東の死を経て四人組が粉砕されるまでの時期。
第四期 1976.10.6日以降  四人組は1976.10.6日逮捕された。3年天下となった華国鋒時代を経てケ小平が実権を掌握するまでの時期

 この区分が適正かどうか分からないが、取りあえずこの観点から通史を纏めてみることにする。市井の文革論の「勝てば官軍」論理に則った走資派論法では真相が見えてこない。そこで、以下、れんだいこ流で考察することにする。しかしこれがなかなか手に負えない。

 2004.9.12日再編集 れんだいこ拝



【予備知識その1、当時の中共の司令部について】

 北京の中心部の天安門前を西長安街路に少し目を移すと、向かって左隣に高い壁でかこまれた一角があり、中南海とよばれる。これは中海と南海という池を合わせた呼称である。南海の入口が新華門である。「人民に服務せよ」と書いた毛沢東の大きな文字が掲げられている。天安門が中華人民共和国の象徴であるのに対して、新華門は共産党中央と政府の象徴である。

 ここには中共中央と政府の国務院の弁公室がある。ここに中共中央主席毛沢東と国務院総理周恩来ら党政軍の幹部たちが居住し、かつ党務、国務を処理していた。中共中央主席毛沢東はまず清朝時代からの由緒ある建物・豊沢園(菊香書屋)にすみ、66年夏から新居に移ったがそこにはプールが付設されていたので、周辺の人々は毛沢東の住まいをプールと俗称していた。自宅の書斎がすなわち毛沢東の執務室である。いわば自宅が党主席弁公室であり、個人事務所のようなものである。劉少奇もむろんここに住んでいたから、劉少奇に対するつるし上げ大会(原文=批闘会)はここで行われた。ここが文革期に最も重要も役割を果たした建物である。

 周恩来のばあいも同じである。中南海西花庁─これが周恩来の住まいであり、執務室である。付近には鬱蒼とした松柏がしげり、清い香りをはなつ海棠などの樹木にかこまれていた。周恩来はここに25年間すんだ。朝、衛士がおこすと寝室のうしろの手洗い室にいく(私は毛家湾の林彪旧居をたずねたことがあるが、手洗い室といっても20平米以上あったとおもう)。これを秘書たちは「第一事務室」と俗称した。自宅が総理弁公室であり、決裁をあおぐ書類はメッセンジャー・ボーイが回りもちした。ここで決裁された書類が党務なら中共中央弁公室、政務なら国務院弁公室をつうじて、全国に発出された。

 また周恩来は内外の重要ニュースや秘書が赤丸をつけた重要資料をよんだが、これが彼の長年の習慣だった。 執務室と文件の保管箱のカギを、周恩来は四六時中、身につけていた。通常はポケットにいれ、寝るときは枕の下においた。外国へ行くときだけ、二つのカギをトウ穎超夫人にわたした。日本の主婦権の象徴はしゃもじだが、中国ではカギである。「カギをもつ人」(原文=帯鑰匙的)とは主婦のことである。二つのカギを手放すことのなかった周恩来はまさに中華人民共和国の「主婦」のイメージそのものである。 

 文革期に重要も役割を果たした建物があと二つある。一つは西城区西四大街にある毛家湾、ここには林彪と妻の葉群が住み、軍事委員会弁公室と代替した軍事委員会弁事組がおかれていた。

 もう一つは釣魚台である。これは西城区にある旧清朝の園林だが、解放後は修理して迎賓館としていた。文革が始まると、中央文革小組がここを占領し、彼らの司令部として使った。釣魚台11号楼の女主人が江青(毛沢東夫人)、15号楼の主人が陳伯達(中央文革小組組長、九期政治局常務委員)、8号楼の主人が康生(中央文革小組顧問、八期九期政治局常務委員)、16号楼に中央文革小組の事務所が置かれていた。

 つまり、文革のドラマは中南海(毛沢東の中共中央、周恩来の国務院)、毛家湾(林彪の軍事委員会弁事組)、釣魚台(江青の中央文革小組)の三カ所四機関から出る指令によって展開されたわけである。


【予備知識その2、毛沢東夫人江青について】
 「文革」は、毛沢東の権威を前面に押し立てて発動されていったが、その旗手として江青が位置していた。江青は、「文革」が開始された1966年時点では51歳であった。江青のこの時点までの履歴を略述すれば次の通りである。「1915年生まれ。山東省諸城県の人、18歳の時の1933年青島で中国共産党に入党した。山東実験戯曲学校の実験京劇団で学び、青島大学図書館で働いたことがある。その後上海に移り、業余(業務の余暇のこと)で劇社などの劇団、映画界に入り女優となる。上海で逮捕され、脱党したことがある。抗日戦争以後延安へ行って、魯迅芸術学院で教えた。その後毛沢東と恋仲に入り結婚する。建国初期に文化部映画事業指導委員会委員を務めた。この間1930年代に自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったとされている」。

 江青はかねてから政治的野心をもっていたといわれるが、具体的な政治活動を始めたのは1963.12月、毛沢東が文芸問題についての指示を出して以来である。江青は当初北京で活動しようとしたが、彭真以下の北京市委員会の妨害に遇って果たせなかった。まもなく上海市委員会第一書記柯慶施の支持を得た。柯慶施は部下の張春橋を江青の助手につけ、さらに姚文元もこのグループに加えた。こうして姚文元によって、呉「海瑞罷官」批判論文が執筆されることになった。この活動はむろん毛沢東の支持のもとで行われた。

 江青は第二の仕事として、「部隊文芸工作座談会紀要」をまとめたが、この作成過程で、毛沢東は三度にわたって朱筆を入れている。この文書は「林彪の委託によって、江青がとりまとめた」とされている。ここに文革推進の両輪、すなわち林彪の軍事力と江青の口を通じて下達される毛沢東の文革イデオロギーとの結合という構図の原点が見られる。1964年3期全国人民代表大会の代表となる」。

【予備知識その3、林彪将軍について】
 「文革」の推進派の頭目として江青を一方の旗手とすれば、他方に林彪(1907〜1971.9日)が位置していた。林彪は、1959年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、その後を後継してより党内で一段と頭角を現すようになった。1960年から64年にかけて、内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究している。1960年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。
 
 毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった1962.1月の7千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が政治責任を取らされようとしていた折、果敢に毛沢東支持を打ち出し毛沢東の一層の信頼を固めた。

 林彪は次第に林彪グループを形成していった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかって属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。

 林彪はこの過程で異分子の排除に容赦しなかった。1959年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。元総政治部主任羅栄恒(1902〜1963.12月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。国防部長になった1959年以来、5〜6年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、1962年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。1965年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。

 このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。延安時代に林彪が紅軍大学、抗日軍政大学で校長を務めた際には、羅瑞卿は教育長、副校長を務めている。1959年の廬山会議の際には、羅瑞卿を総参謀長に提案したのは林彪自身であった。林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。

 1965.11月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。1965.12.8〜15日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。

 1966.3.4〜8日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれ、「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草された。羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。

 羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。

 第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。

 羅瑞卿は3.18日に飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。1966.5月、政治局拡大会議で承認された。

 羅瑞卿のその後であるが、林彪事件以後、1972に治療のために出獄を許され、1973.1月に正式釈放された。1973.12.21日、毛沢東はある会議で自己批判し、「林彪の一面的な話を信じて、羅瑞卿を誤って粛清した。彼を名誉回復しなければならない」と述べた。羅瑞卿は1977年11期中央委員に選ばれ、軍事委員会秘書長に任命された。1978.8.3日病逝したが、1980.5月に名誉回復された。





(私論.私見)