文革史(外交)米中、日中外交史

 

[第 4 期]

 しかし,文革はなお終息せず,文革推進グループ内部の権力闘争が続き, 71 年 9 月には,林彪が毛沢東暗殺に失敗して国外逃亡を図り,モンゴルに墜死したとの発表が,世界を驚かせた。こうした間隙をついて,周恩来 (国務院総理) を中心とする実務派官僚による脱文革=正常化の動きも, 71 年以降活発になり,教育改革の見直しや出版事業の再開などがなされた。いっぽう,林彪なきあと文革派の名実ともにリーダーとなった江青,張春橋ら〈上海グループ〉は,毛沢東の権威をバックに,ことごとに実務派官僚に対立し,ここに文革派と脱文革のせめぎ合いの局面が出現した。 73 年に始まった〈反潮流〉の動きは,やがて翌 74 年の批林批孔運動へとひき継がれるが,その矛先は周恩来に向けられていた。 75 年には,文革のもたらした内政危機を乗り切るため,指導力のある小平が奇跡の復活をとげ,重病の周恩来にかわって脱文革正常化をすすめるが, 76 年に入ると再度のまき返しにあい, 小平はふたたび打倒される。こうしたなかで,76 年 4 月には天安門事件が起こり,極〈左〉的言辞を弄することで能事終われりとしている江青など文革派に対する民衆の怒りが爆発する。その年 9 月の毛沢東の死をきっかけに, 10 月 6 日,江青,張春橋,王洪文,姚文元四人組が逮捕され,文革は実質的に終りを告げた。

 中共中央は,1981 年 6 月の中央委員会総会で決定された〈建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議〉において,文革を,〈指導者が間違ってひき起こし,それを反革命集団に利用されて,党と国家と各民族に大きな災難をもたらした内乱であった〉と全面的にこれを否定し,こうした〈階級闘争の拡大化という誤り〉に対して, 〈毛沢東同志におもな責任がある〉とした。しかし,これの全面的評価には,なお長い時間が必要である。

1970年代の初頭、ソ連の対外膨張がますます激しくなる中で、アメリカの対中政策に変化が起こり、中米関係と中日関係が改善された。その結果、中国と先進国との交流が深まり、資本主義の戦後の変化、現代資本主義の実態をより客観的に見る姿勢が、限られた政府上層部の一部において形成されていった。


 いわゆる米中間のピンポン外交が発端で、1971年周恩来・キッシンジャー間の秘密外交が為される。キッシンジャーの忍者外交といわれているが、極秘に北京を訪れ、周恩来との間に米中の和解について話をまとめた。 

 そういう下準備をへて、1972.2.21日、アメリカ大統領リチャード・ニクソンは北京を訪問し、毛沢東、周恩来と会見した。ニクソン、キッシンジャーは、まだ健在であった毛沢東、周恩来と握手をし、上海コミュニケとなる。

 米中間の国交が正常化されるのは、もう少し先の1978年。1972年のこの時米中国交正常化が為された訳ではない。まだこの段階では、米中の間は和解であり、米台の関係が正式に解消される78年までの間は、正常化というより和解というのが正しい。

 米中双方が台湾問題をどう解決したかというと、中国側は、台湾は中国固有の領土であって、中国と台湾は一体であると主張し、二つの中国、あるいは一つの中国と一つの台湾という考え方は一切認めないという立場を貫いた。それに対してアメリカは、台湾問題は台湾海峡の両側の問題であり、当事者が解決するのは理に叶っている。但し、台湾問題解決のために武力が行使されるということになるとアメリカとして見過ごすわけには参らない、こういう立場をとった。

 アメリカ、中国双方が、相手の立場に対して、イエスといったわけでもノーといったわけでもない。先のワルシャワでの米中大使級会談と同じで、相互に主張を認めたともいわないし、認めることができないともいわない。互いの主張をセレモニーさせるという手法を採った。当然微妙なズレはある、そういうズレを含みつつ、朝鮮戦争以来20年にわたる米中の関係に大きな風穴をあけることに成功した、ということになる。



 ニクソンが毛沢東の書斎に入室したとき、彼は秘書に助けてもらって立ちあがるほど健康が衰えていた。毛沢東は「もううまく話せない」と弁解する。傍らの周恩来は後で気管支炎のためと説明したが、ニクソンには中風ではないかと思われた。当初は15分間の予定だったが、毛沢東が議論に熱中し、ついに1時間に及んだ。

 キッシンジャーがハーバード大学で教鞭をとったとき、学生に毛沢東の著作を読ませたことに言及すると、毛沢東は「私の書いたものはどうということはない。学ぶべきものなどない」と謙遜した。ニクソンが「主席の著作は一つの民族を突き動かし、世界全体を変えた」と言ったところ、「私には世界は変えられない。北京郊外のいくつかのところを変えられるだけだ」と答えた。

 ただ、毛沢東の頭脳は明晰であった。「われわれ共通の老朋友蒋介石委員長はこれが嫌いだ」といい、手を動かした。そのジェスチャーは米中会談を指したのかもしれないし、大陸を指したのかもしれない。「彼(蒋介石)はわれわれを共匪と呼んでいる。最近彼がしゃべった講話を読んだかね」「蒋介石が毛主席を匪と呼ぶとき、主席は彼をどう呼ぶのですか」とニクソンがたずねたところ、毛沢東は笑い出した。

 周恩来が答える。「一般的にいえば、われわれは“蒋幇”と呼ぶ。われわれが彼を匪と呼ぶと、彼は逆にわれわれを匪と呼ぶ。要するに、われわれはたがいに罵倒しあっている」。ここで、毛沢東がすかさず釘を刺す。「実はわれわれと彼(蒋介石)の交際はあなた方と彼の交際よりもはるかに長いのだ」と。毛沢東はここで後に「上海コミュニケ」に盛り込まれた「中国は一つ」という考え方を表明していた、とニクソンは解釈した。

 ブッシュ大統領は、かつて中国駐在連絡事務所(大使館の前身)代表を務めたことがある。毛沢東との会見に二回同席している。一回目はキッシンジャーの訪中時(七五年一〇月二一日)、もう一回はフォード大統領の訪中時(七五年一二月二日)である。

 キッシンジャー一行が毛沢東の書斎にはいると、81歳の毛沢東はソファに腰掛けていたが、王海容、唐聞生に助けられて立ちあがった。キッシンジャーが健康状態を聞くと、毛沢東は頭を指さして「この働きは正常で、食べることも寝ることもできる」といい、今度は太ももをたたいて「これは使いにくい。歩くときに立てない。肺にも病気がある」と説明した。「要するに私は訪中者のために準備された陳列品にすぎない」と冗談をいった。

 部屋を見渡すと、机上にはたくさん本がおいてあり、部屋の対面の机上には注射針や小型の酸素マスクなどが置いてあった。毛沢東いわく、「もうすぐ神に会いに行く。神の招待状をうけとっている」。キッシンジャーが笑いながら「うけとってはなりませぬぞ」という。毛沢東が紙切れに苦労して数文字書いた。王、唐が立ちあがって読むと「DOCTORの命令を聞く」と書いてあった。DOCTORの命令と書いたのは、キッシンジャー博士と嫌いな主治医の双方をさしていた。

 毛沢東は話題をかえて片手で拳骨をつくり「あなた方はこれだ」といった。ついで別の手から小指一本を突きだし「われわれはこれだ」といい、「あなた方には原爆があるが、われわれにはない」といった。中国には10年も前から原爆はあるのだが、彼はアメリカの軍事力の強大さを強調したつもりなのだろう。

 キッシンジャーが「中国側は軍事力がすべてを決定するわけではないという。米中双方は共通の相手(ソ連)をもっている」と指摘したところ、毛沢東はまた紙に向かって「YES」とかいた。

 毛沢東は台湾問題について「時期が来れば解決できる。おそらく百年あるいは数百年必要だろう」と述べた。ブッシュはこのとき、中国人がこのような表現を用いるのは外国人に深い印象をあたえようとしてのことである。彼らは時間と忍耐心という武器を用いて性急な西洋人に対処しようとしている、と判断した。毛沢東は話しているうちにますます興に乗った。頭を動かし、ジェスチャーを示していう。「神はあなた方を助けてくれるが、われわれを助けてくれない。われわれが戦いを好む者であり、共産主義者であるからだ」。

 国務院総理としての周恩来の活動はさまざまな分野にわたる。とりわけきわだっているのは外交活動である。新中国の外交を周恩来をぬきにして考えることはできないほどである。これは『周恩来外交文選』におさめられた八〇篇の講話や談話がよくしめしている。

 『研究周恩来──外交思想と実践』と題する研究書もある。これらの本から、五四年のジュネーブ会議、平和共存五原則の提起、日中関係正常化、台湾問題と米中関係改善、国連の議席回復問題、など新中国の外交的課題のほとんどすべてにおいて、周恩来が大活躍したことがわかる。では周恩来外交の核心はなにか。

 王文博は中仏国交回復の例から、つぎの四カ条にまとめている。1)各国を区別してあつかうこと、働きかけをたくさんおこなうこと。2)相違点を棚あげしつつ、共通点をさがすこと。3)平等な態度で協議をすすめ、相手側の選択を尊重すること。4)原則を堅持しつつ、たくみに妥協すること。

 1)ではフランスの立場がアメリカやイギリスとは異なることに着目し、フォール首相の訪中のためにさまざまな働きかけをおこなったことをさしている。周恩来は国内において統一戦線づくりにたくみであったが、外交は中国からみた国際的統一戦線づくりであり、逆にいえば敵陣営に対する各個撃破である。

 周恩来の才能と知性に感服した外国人はすくなくない。キンシンジャーは、いままでに会った人物のなかでもっとも深い感銘をうけた二、三人のうちの一人にかぞえ、「上品で、とてつもなく忍耐つよく、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。ハマーショルド(元国連事務総長)は「外交畑でいままで私が出あった人物のなかで、もっとも優れた頭脳の持主」と断言している。

 これらの証言を引用しつつ、『周恩来伝』を書いたジャーナリスト、D・ウイルソンはケネディやネルーと周恩来をくらべ、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最高級のほめ方をしている。周恩来にほれこんだ日本人もすくなくないが、代表的な一人をあげるとすれば、故岡崎嘉平太(元日中経済協会顧問)がいる。私はいくどか岡崎老の周恩来への傾倒ぶりに接する機会があった。

 周恩来の才能が外交面でとくに目立つのは、周恩来の個性とかかわっているようにおもわれる。周恩来の才能はあたえられた戦略のなかでどのように戦術を駆使して目的をたっするか、という仕事のすすめ方のなかで最もよく発揮され、その過程と結果はだれをも感服させるようなたくみさであった。米中接近への思惑は、脱文革の意図を秘める周恩来と継続革命をねらいつつ方向転換を模索する毛沢東の間に矛盾があるし、また米中間には台湾問題という実にやっかいな争点がひかえていた。これら錯綜した糸のもつれを一刀両断ではなく、根気よく解きほぐしていくような仕事を、周恩来は用意周到にすすめて成功させたのである。



45229 日中友好条約、国交回復交渉

  この「文革」の真っ只中の時期、日本の頭越しの米中外交に刺激され、日中国交回復が政治課題として急浮上してきた。但し、日本外交は台湾政権の方を正統と認めてきていたこととか、戦前の日中戦争時の賠償問題等々頗る困難な諸問題が待ち受けていた。田中政権がこれを如何に処理していったのか、これが「日中友好条約、国交回復」の裏舞台でもあった。以下、これを検証する。


1970(昭和45)年12.9日「日中貿易促進議員連盟」を発展的に解消させて「日中国交回復促進議員連盟」が発足した。会長は藤山愛一郎氏で、共産党まで含む超党派379名の大所帯となった。自民党から共産党まで含めた政治目標の下への結集は、戦後政治史に他には例を見ない。


 1971(昭和46)年3月、名古屋で開かれた世界卓球選手権大会に中国代表団が初参加し、大会終了後アメリカチームを北京に招待するという「ピンポン外交」を演じた。


 1971(昭和46)年7.15日駐米大使牛場信彦はロジャーズ米国務長官から、「ニクソン大統領は間もなく全米に向け、重大発表を行う。大統領はこの中で来年5月までに中国を訪問することを表明する」との通報を受けた。いわゆるニクソン・ショックの始まりであった。


 日中復交は焦眉の急となったが、岸・佐藤などの領袖は親台派で、「アヒルの水掻き」以上のことにはならなかった。


 9月末に藤山団長以下の「日中国交回復促進議員連盟」議員団が訪中、後に「復交3原則」と云われる共同声明を10.2日発表した。


 12.26日の国連総会で、中国の国連復帰が決まった。日米は「逆重要事項指定」、「二重代表制」を共同提案していたが否決された。


 1972.2月、アメリカのニクソン大統領が北京を訪問、2.27日米中共同声明を発表して世間を驚かせた。歴史的な米中和解が実現した。角栄は、ニクソン大統領と周恩来首相の二人が握手を交わす歴史的な場面をテレビで見ながら、「ニクソンもやるもんだなぁ。中国は10億もの人間がいる隣国なのだから、いずれ日本も国交回復を考えなくてはならん」と呟いた(佐藤昭伝)。もしやるとするなら、岸、佐藤、福田などは台湾との関係が深く、「田中しかいなかった」。


 角栄は、初閣議の席で「外交については、中華人民共和国との国交正常化を急ぎ---」と言明し、その夜大平外務大臣と共に、赤坂の料亭で外務省の橋本怒中国課長と懇親した。「ご苦労だが、直ちに交渉を進める作業に入ってください」。当時の外務省には新台湾派官僚も多く、交渉の進展が漏れないように種々打ち合わせもした。


 1972.4.13日「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」は次のような「復興三原則」を声明した。「一日もはやく両国間の戦争状態を終結させ、平和条約を締結し、国交を回復するためには、まずつぎの基本的原則を認めなければならない」として、
(1) 世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」など荒唐無稽な主張にだんこ反対する。
(2) 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。「台湾地位未定」論と「台湾独立」を画策する陰謀にだんこ反対する。
(3) 「日台条約」は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。

 双方は、上記の諸原則は中日国交回復の前提であり、断固として貫徹しなければばらないと認めた。


 7.9日田中内閣誕生を見て、周恩来中国総理が、人民大会堂でのイエメン人民民主主義共和国代表団歓迎夕食会の演説で、「日本においては長い間、中国を敵視していた佐藤政権がついに任期前に退陣せざるをえなくなった。田中内閣が7日に成立した後外交面において日中国交正常化の実現を促進すると発表したことは、これは歓迎するに値することである」とエールを送り、「田中内閣成立は日中国交正常化の早期実現を目指すもので、歓迎する」と演説した。


 日中国交回復交渉の前途には、越えねばならないハードルが幾つもあった。中国の復交3原則は、@・中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府、A・台湾は中国領土の不可分の一部、B・日華平和条約の破棄を要件としていた。これまでの台湾との国家間交渉の積み立てをご破算にせねばならないということであり、台湾ロビー派は断じてこれを受け入れぬよう活動を強めていた。台湾派の主張には、「日本敗戦に臨んで、蒋介石が『暴ら報いるのに恩をもってする』といい、日本の軍隊、在留邦人の引き揚げに、全面的に協力し、且つ一切の賠償請求権も放棄した」蒋介石の恩義に対して、「この友誼、義理は裏切れない」というメンタリズムが多分に影響していた。これに対して、復交派の主張は、長い眼で文明史的観点から日中は提携すべきであり、早く友好が為されるべきであり、世界の趨勢に遅れをとってはならぬというものであった。


 7.10日田中首相、大平外相、二階堂官房長官、外務省当局が協議し、二階堂官房長官が「政府としては、今や、日中政府間接触の機が熟しつつあると考える、今後は、政府の責任において、日中国交正常化のため具体策を進めていく」との談話を発表。


 この日成田社会党委員長が、「日中問題で、田中内閣が復交三原則を認めるならば田中内閣を支持する」と記者団に語る。社会党の成田知己委員長が「復交3原則を認めるなら、支援する」、民社党も「議題を明らかにして取り組めば、協力する」、公明党も「田中首相が日中打開への決断さえ持てば、強力は惜しまない」とそれぞれ歓迎の辞を述べている。


 7.18日田中首相が竹入公明委員長、春日民社両党委員長と個別に会談と会談。


 7.20日台湾の沈外相が声明を発表した。「田中内閣は、共産中国と国交樹立の交渉を行おうとするならば、それが世界における日本の評判と、国府、日本との間の友好、協力関係に、どういう影響を与えるか、真剣に考慮すべきである」、「日本側が、日中国交回復を目差している今日の動向は、国際的な真偽と、条約尊重の義務に反するものである」。 


 7.21日田中首相、成田社会党委員長と会談。


 7.22日北京を訪問して周恩来と会って来た佐々木更三社会党元委員長が首相官邸を訪ね、田中首相と会談し、「周総理は田中首相と大平外相の訪中を歓迎する」との伝言を伝える。「訪中するなら早いほうがええ」コメントを述べている。


 7.24日田中首相、自由民主党日中国交正常化協議会の初会合に出席して決意を表明、党内での合意を強調。


 7.25日竹入委員長が二度目の訪中で北京入り。周恩来首相と延べ10時間に及ぶ会談。この時の打ち合わせが「竹入メモ」となる。


 8.3日竹入委員長が帰国。


 8.3日、日本政府が、日中国交正常化に臨む基本見解を発表。


 8.4日帰国した竹入公明党委員長が、田中首相と大平外相を訪ね、周首相との会談について説明、中国側の考え方をまとめた「竹入メモ」を手渡す(中日新聞の本田晃一氏より「竹入メモ」を聞かされたともある)。この頃、右翼の街宣車が「国賊・田中角栄」を連呼しながら、あるいはビラを街中に貼られていった。


 8.7日共産党が、日中問題についての見解を明らかにした。野坂中央委員会議長談話の形式で、「日中国交回復は、日台条約の破棄を含む日中復交三原則を、前提として進めるべきだ。日中間にある根本問題を解決しないで、性急に、日中国交回復を進めるやり方では納得できない」。それは、日中国交正常化に向かって、ひたすら走っている他党に、水を浴びせるような慎重論であった。


 8.9日自民党の「中国問題調査会」から発展・改組した「日中国交正常化協議会」(会長・小坂善太郎)の総会で、田中首相の訪中と国交正常化が決議された。


 8.15日帝国ホテルで、田中首相と孫平化中国バレー団団長、肖向前弁事処首席代表が会見。日本の総理大臣が中国政府の要人とあうのは、これが戦後初めてとなった。首相訪中の意思が正式に伝達された。会談後の田中首相と大平外相の間に次のような会話が交わされたと伝えられている。大平「中国側の真意は、ほぼ分かった。あとは、やるだけだ。ここはお互い腹を括ってやろうじゃないか」。田中「わかった。どうせ、人は一生一度しか生きられないんだ。それじゃ、行くか」、田中は付け加えた。「具体的な交渉は、君に任せる。党内のことは、俺が責任を持ってやる」。


 8.22日自民党総務会で、日中国交正常化の促進と田中首相の訪中を党議決定した。党内台湾派の根強い抵抗があったが押し切っている。自民党副総裁に椎名悦三郎氏が就任している。


 8.31日ハワイのホノルル・クイリマホテルで日米首脳会談(田中.ニクソン会談)。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。この席で、中国問題、特に日中交渉、国際収支問題、日米貿易不均衡問題等が包括的に話し合われている。こうして。田中は、米国への根回しを終えた。


 9.5日、日中国交正常化協議会で「日中国交正常化基本方針」を決定。


 9.8日自由民主党は、日中国交正常化協議会に引き続き総務会を開き、日中国交正常化の基本方針を党議決定、反対を続けていた台湾派を説得。

9.14日小坂代表団が訪中。9.18、19両日周恩来首相と会談。


 9.18日椎名自由民主党副総裁が、特使として台湾を訪問し、沈外相らに日中国交正常化についての日本側の事情を説明。


 9.21日二階堂官房長官が、田中首相の訪中について公式発表。


 9.21日田中派の7日会が正式発足(衆院41名、参院42名)。


 この頃の角栄の日中問題に対する態度が次のように伝えられている。

 「日中問題は明治維新の後、歴代政権で最大の内政課題だった。これを片付ける。日本がいくら金持ちになっても、ひどい仕打ちをした隣の家が貧乏に苦しみ、これと没交渉でいては平安が得られない。共存共栄だ」。
 「日中を一気にやる。俺は今が一番、力の強いときだ。党内は台湾派が多い。党議決定が難しければ政府声明でケリをつける。力が弱くなればできない。殺されるのは覚悟のうえだ」。
 「俺は毛沢東、周恩来を信用している。彼等は叩き上げの創業者、オーナーだ。死線を越え、修羅場をくぐり、広大な中国大陸を取りまとめた連中だ。命がけで交渉すれば話はつく。だから、毛・周の目の玉が黒いうちに電光石火、事を運ぶ」。
 この頃田中は、佐藤昭子に「日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁丁発止やる。決裂するかも知れないが、全ての責任は俺がかぶる」と述べている。
 「あのなぁ、中国はなぁ、8億いるんだ。手ぬぐい一本一人一人に渡しても8億本売れる。今は共産主義だから、働かないが、働き出したら、そりゃ、日本の輸出はうんと増える」

 この頃の角栄の日中問題に対する態度が次のように伝えられている。

 大平もまた決死の覚悟であった。真鍋賢ニ秘書に「万が一、この交渉が不調に終わった場合には、自分としては日本に二度と帰る事が出来ないかも知れない。また、この交渉によって、どんな危険があるかも知れない。留守中のことはよろしく頼む」と言い残している。
 「田中首相と私とは一心同体です。外交の全権を任せてくれています。日本政府首脳が訪中し、国交回復正常化を解決する機は完全に熟していると考えます」

 訪中直前の角栄の様子について次のように伝えられている。観念や面子にこだわることは無い、実利を取ればいい、というのが田中のスタンス。「中国には命を賭けていく。俺は命は惜しくない。深夜、目を覚まして思うのは、常に国家国民のことだけだ。岸さんもいっていたが、この気持ちは総理経験者でなければわからないものだ」。

 エリザベス女王との会談に真紀子を連れて行ったが、このときは同行を許していない。「確かにお父さんは、真紀子に世界中を見せてあげようと約束し、今までもその通り実行してきた。しかし、今回の訪中だけは別ものだ。中共という国が赤いカーテンの向こう側で何をしているのか、何をしようとしているのか、何一つとして正確な情報は無い。しかも、日本国内においては台湾派、親米派による猛烈な反対がある。前門に虎を担ぎ、後門に狼を進む覚悟で出発するまだ。いつ撃たれるか、毒を盛られるか分からぬ状況で出発する。我が家のたった一人の跡取であるお前は、どんなことが起こっても取り乱すことなく、毅然として正しい判断をしてくれたまえ。お父さんが今、真紀子に望むのはその一点のみだ! いつか日中両国の人々が、笑顔で自由に往来できる日が必ずやってくる。その日を実現するために、お父さんは一命を賭する覚悟で北京へ旅立つ」。つまり「命がけの交渉」だったことが分かる。


 9.23日、彼岸の中日、田中は、吉田茂、池田隼人、鳩山一郎各氏の墓参りし、佐藤に挨拶、病床の石橋にも見舞いをかねて報告に行っている。



【日中首脳会談(田中.周恩来)】 

 9.25日田中首相一行が北京に向かった。数次の会談が積み重ねられ、二階堂官房長官は、「驚くべき率直な意見の交換が交わされた」とスポークスコメントした。以降、秘術を尽くしての外交が積み重ねられていくことになった。9.29日田中角栄首相と周恩来首相が日中国交正常化共同声明に調印。「日中国交回復」。日中共同声明を発表。 台湾が国交断交を発表。

 この経過は次の通り。9.25日羽田発の日航特別機で出発。戦後初めて東京−北京間3千キロの空路を直行。空港では、周恩来首相、葉剣英軍事委副主席、姫鵬飛外相、郭沫若中日友好協会名誉会長、りょう承志中日友好協会長ら政府首脳多数に出迎えられ、歓迎式典が行われた。この時中国側は、「佐渡おけさ」、「金毘羅船船」、「鹿児島小原節」を演奏し、熱烈歓迎振りと気配りを見せている。

 その後午後3時から、田中・大平−周・姫の第一回首脳会談日本側の出席者は、田中・大平・二階堂の他吉田アジア局長、高島条約局長、橋本中国課長らの面々であった。中国側が賠償権の放棄を申し出、日本側が日米安保条約を堅持した上での日中交渉であるという原則を主張し、周恩来はあっさり、「それは結構です」と受け入れた。しかし、台湾問題については譲ろうとせず暗礁に乗り上げた。この経過に対して、二階堂官房長官は、「驚くべき率直な意見の交換が交わされた」とスポークスコメントした。以降、秘術を尽くしての外交が積み重ねられていくことになった。

 午後6.30分より、晩餐会が人民会堂で開かれた。周恩来の挨拶に答えて田中が挨拶を答礼したが、この時「中国国民に対する多大のご迷惑をおかけした」と表明した「迷惑」という表現を廻って悶着が発生していくことになった。

 9.26日午前、大平・姫鵬飛外相会談。この時高島益郎条約局長が、復興3原則に対して、第一原則(中国を代表する唯一合法政府は中華人民共和国である)ことに合意するが、第二・第三原則の台湾との関係破棄には早急に対応できないとの立場を表明したところ、周恩来から法匪呼ばわりされ、交渉が決裂寸前となる。周恩来の関与しないところで国外退去令が出された。

 午後第2回首脳会談。
 
 午後第2回首脳会談。この時、周首相は高島条約局長を法匪呼ばわりし、「あの人のいる限り、まとのる話もまとまらない」と難色を示した。

 9.27日万里の長城、明の13陵の案内を受けた後、午後第3回首脳会談。この時、高島条約局長の退去令を取り下げさせている。

 夜、田中・大平・二階堂、毛沢東と会見、会談、約1時間にわたった。「周恩来との喧嘩はすみましたか。喧嘩をしてこそ仲良くなれるものです」、「ええ、いいたいことは、一つ残さずに話したつもりです」、「そう、それで結構、本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。会談は1時間に渡った。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。

 9.28日午後、第4回首脳会談。
結局、復興3原則のうち、第2原則は日本の主張を1分取り入れ、第三原則については、共同声明発表後、別途、大平外相が談話を出すことで処理することになった。「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に。

 この時、竹下副幹事長、金丸国会対策委員長、亀岡経理局長等20数人が同行している。その中の大物議員の一人が「ニクソンがロッキード、ロッキードと言うので困ったよ」とオフレコで語っている、と伝えられている。


 9.29日田中角栄首相と周恩来首相が日中国交正常化共同声明に調印。「日中国交回復」。日中共同声明を発表。 台湾が国交断交を発表。

 午前11時過ぎ、北京の人民大会堂の「西大庁の間」で共同声明の調印式が執り行われる。日本側は田中と大平、中国側は周と姫がサインをした。かくて日中間の国交が回復した。田中と周は何度も力強い握手を繰り返す。取り決められた内容は、@・両国の不正常な関係の終了、A・中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることの承認、B・台湾は中国の不可分の領土であるとする中国の主張を日本が十分理解する、C・外交関係を樹立し、大使を速やかに交換する、D・中国は対日戦争賠償の請求権を放棄する、E・両国の平和関係の維持、F・両国がアジア・太平洋地域で覇権を求めない、G・両国は平和友好条約を早期に締結する、H・貿易・海運・航空・漁業などの締結交渉に合意。


 日華平和条約は破棄され、台湾とは国交断絶となった。これによって、中華民国政府は台湾にあった日本企業の在外資産を凍結した。総額120億ドルにのぼった。各企業への補償は、日本政府によって為された。この時凍結された日本企業の資産は、中華民国政府の「秘密資金」となり、中曽根がこれに目を付けることになる。



日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)

1972.9.29日 北京で署名

 日本国内閣総理大臣田中角榮は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、1972年9月25日から9月30日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
 毛沢東主席は、9月27日に田中角榮総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行つた。
 田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終止、友好的な雰囲気の中で真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな1ページを開くこととなろう。
 日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立つて国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務の遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
 中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業などの事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

 1972年9月29日に北京で 日本国内閣総理大臣 田中角榮(署名) 日本国外務大臣 大平正芳(署名) 中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名) 中華人民共和国外交部長 姫鵬飛(署名)



  この後、田中は、羽田孜に中国から電話を入れ、帰国したら直ちに党本部に行く、自民党議員を集めておけと指示している。帰国後の雰囲気は「党が大変」だった。田中一行は、皇居での帰国の記帳とテレビ記者会見を済ますと、そのまま真っ直ぐに党本部の9階講堂の両院議員総会に向かった。演壇に立った田中は、「日中国交回復を成し遂げて今私は帰国しました。党の中にはいろいろ議論のあることは承知しております。相手との間には隔たりもありました。途中で帰ろうと思ったこともありました」、「しかし、中国は動かすことのできぬ隣国であります。いかに体制が違っていても、日本との関係がどうであっても、隣の大国です。そまことは永遠に変わらないのです。中国が嫌だからといって引っ越すわけにはいかない。しかるに、そのような国といさかいがあっても、政府間で話し合えるルートがない。一部の党とか赤十字を通じてしか話し合えないのではどうにもならないではありませんか。中国は大変な人口を抱える大国であります。毛沢東や周恩来が権力を握っている今がチャンスなのです。中国とは良いことでも悪いことでも話し合えるようにする。何でもものをいえるようにする。私は決断して国交正常化に踏み切ったのです」。

 9.30日帰国。田中首相は、羽田空港に帰国した際のステートメントで、「(日中国交正常化という)課題は、今日の国際情勢ひいては大きな歴史の中で捉え、またいつか、誰かが果たさねばならない仕事であったと信ずる」と述べている。皇居で帰国報告の記帳の後、自民党執行部に報告、臨時閣議で説明、合同記者会見、自民党両院議員総会で訪中結果を報告。この時、「毛沢東、周恩来と議論して、あるときは席をけって帰ろうとしたこともあった。しかし、中国には10億を超える民がいる。この国とはいいことも悪いことも素直に話し合える関係をつくらないといかん。中国は永遠に我が隣国である。それを考えたとき、私は国交正常化を決断した」と述べている。





(私論.私見)


デタントとは何だったのか  米中関係を中心に

神谷不二

 米中間は、一九五三年に朝鮮戦争がとにもかくにも休戦ラッパを吹き鳴らして以来、すでに十数年にわたって完全な絶交状態が続いておりました。この絶交状態を解消するのは容易なことではない。しかし、アメリカにしてみれば、ではあるけれども中国との間に和解をしなければ、ベトナム戦争の終結ということはこれまた得難い。そこで、アメリカもいろいろな努力をするわけです。

 一つは文化大革命というものに、いうなれば付け込む。もう一つ、アメリカが中国との和解のために最大限に利用したのは、中ソの対立ということでした。中ソの関係というのは、共産中国の成立以来、世にいわれる一枚岩の同盟関係にあったわけですが、しかしこの同盟関係は五〇年代から六〇年代にかけてだんだん揺らいでまいります。

 この揺らぎのきっかけをつくったのはフルシチョフでした。彼は一九五六年、ソ連共産党第二十回大会において、いわゆるスターリン批判を行った。帝国主義戦争は不可避というテーゼをたてたスターリンの考え方に対して、そうではない、核という新しい兵器が出現した世界においては、核戦争の回避のために、帝国主義国家との間の戦争の不可避性というものを否定する考え方をもたなければならない。これがフルシチョフの言葉でいえば「平和共存」という考え方であり、この平和共存がのちの緊張緩和、デタントへとつながってゆくわけです。

 しかし、フルシチョフのスターリン批判、平和共存の主張に対して激しく抵抗し対立したのが毛沢東の中国共産主義です。つまり、この段階から中ソの対立はだんだん激化するようになる。

 日本では最初、「中ソ論争」といわれました。ソ連と中国の対立というのは、根っこは同じ共産主義イデオロギーなのだから、根本的な国と国の対立関係ということにはならないだろう。単なるイデオロギー論争であると、これは主に左翼、あるいはいわゆる進歩的文化人と呼ばれた人がそういうことをいった。

 それに対し、中ソといえどもイデオロギーを第一に考えて行動しているのではなく、それぞれの国益を第一に考えているのであり、中国・ソ連の二つの国益の正面衝突であるというのがわれわれの見方でした。いまや中ソの対立は単なるイデオロギー論争ではなく、国家的な中ソ対立という段階に進みつつある、と主張したわけです。われわれのその考え方が間違っていなかったということは、まもなく証明されます。

 いずれにしろ、発端はイデオロギー論争で、中ソの対立が進行します。毛沢東はソ連に対して修正主義、あるいは修正社会主義と非難する。ソ連は口では相変らず社会主義といっているけれども、実は非スターリン化、スターリン主義の否定にみられるように、れっきとした修正主義である、と。要するに、毛沢東の路線はスターリン主義の中国版ですから、毛沢東としてはスターリン批判を認めることはできないということです。

 一方、ソ連のほうは何といったかと申しますと、毛沢東中国こそは社会帝国主義である、と。社会主義というけれど、それは事実上、帝国主義的な中国を中心とした社会主義圏の統合ということを考えているだけではないか。このような、ソ連の中国に対する社会帝国主義呼ばわりと、中国のソ連に対する修正主義呼ばわりという激しい論争が、やがて国益対国益の対立となるのです。

 その一つの具体化した顕著な例が六九年の中ソ国境紛争でした。ウスリー江の中の島、ソ連でいうダマンスキー島、中国流にいえば珍宝島、この武力衝突で双方に相当数の戦死者が出る。こういったところまで中ソの関係は対立の度を深めるわけです。

 ワルシャワでの米中大使級会談

 そうなりますと、ソ連も中国も、ある意味ではアメリカとの関係を緩和することによって、相手、つまりソ連からいえば中国、中国からいえばソ連に対する政策的な選択の幅を広げようと、そういう考え方に当然変ってゆきます。そこで、中国とアメリカ、あるいはソ連とアメリカの間に、微妙な綱引きが展開される。 微妙な綱引きの例としては、たとえば六〇年代の終りまでずっと一貫して米中大使級会談というのが行われていたのです。場所はポーランドのワルシャワです。つまり、朝鮮戦争以後、米中は絶交状態だと先にいいましたけれど、厳密にいえば、必ずしも全面絶交ではなかった。米中双方の大使が何か月かに一回会談をするという、ごく細い糸は両国間につながれていたわけです。

 ワルシャワで何を話し合っているのだろうか。アメリカの友人、知人にずいぶん尋ねましたところ、こういうような話を聞いたことがあります。アメリカの大使は、ベトナム戦争あるいはアジア情勢、世界情勢その他について、アメリカの考え方を述べる。それに対して、中国の大使はただ一言、“I understand."判りましたと。understandというのは、あなたのいうことに賛成だという意味ではなくて、あなたのいうことを理解しましたという、それだけの話です。

 それでは今度、中国の大使は、中国では文化大革命その他いろんなことが起きている、あるいはソ連との間に激しい対立関係が起きている、それについての中国の基本的な立場はこういう考え方であると話す。また中国とベトナム戦争との関係について、現状はこうだと話す。それに対して、アメリカ大使は一言、“I understand."つまり、双方が一方的に話し、返事としては双方がただ一言「判りました」。それだけいっただけで、さよならと別れる。毎回それが続いていたというのです。

 これは外形的に見れば、米中の間に何の対話も行われていないかのごとくに見えるけれど、相手方に対して、自らの立場を一方的であれ何であれ、とにかく限られた時間をフルに使って説明する。他方も同じように同じ時間を使って、相手に対しできる限りの説明をする。そして、互いに相手の言い分を賛否はいっさいいわず、とにかく承っておく。こういう関係が何年にもわたって続いたということの意味は、やはり非常に大きかったのではないだろうか。

 このあたりは、たとえば当時の日本の、一言でいえば、左翼とか進歩的文化人といった人々の考え方というのは非常に狭かったと思います。彼らは、米中の関係については決定的な対立以外なにもないと考える。一方、中ソの対立については、ある時期までは国益の対立ではなくてイデオロギー論争にすぎないというような態度をとる。そしてある時期からは、今度は中ソの対立を大きく受け取って、うっかり日米安保体制を維持していれば、戦争に巻き込まれるとする、いわゆる「巻き込まれ論」です。これは戦後の誤った考え方ですが、彼らは依然としてそれに固執している。

 ともかくそういうことで四つの要素、つまりアメリカのベトナム戦争、ソ連のブレジネフ・ドクトリン、中国の文化大革命、そして中ソ対立。この四つの要素の微妙なあやのなかから、一九七二年という画期的な年が出てくることになります。

 アメリカ外交の一九七二年

 七二年はどういう点で画期的だったかといえば、まずデタントがはっきりした形で、その第一歩を歴史の上に示します。アメリカ外交のたいへん大きな成果であったと思いますが、発端においてはベトナム戦争以来のアメリカの難局を脱却しようと、対ソ交渉、対中交渉を発足させる。それでも、対ソ、対中、両方を一挙にということは、そうは問屋が卸さないだろうと、厳しい見方が多かったわけですけれど、キッシンジャー外交は、対ソ緊張緩和、対中和解、双方を実現して、いうなれば「両手に花」という輝かしい実績を残したわけです。

 今回、キッシンジャー外交については深く触れることはできません。毀誉褒貶のあるところと思いますが、とにかく七二年の対ソ・対中交渉を推進させ、この大きなことを同時に実現させた。それが数年後のベトナム戦争の終結ということに導かれるわけで、キッシンジャーがニクソンと一緒になって実現したアメリカ外交の成果というものはやはりたいへん大きなものだったといえます。単にアメリカ、ソ連、中国、この三国にとってだけではなく、戦後世界というものにとって大きな成果であったということは認められてよいと思うのです。

 しからば具体的に、一九七二年にアメリカは何をしたか。クロノロジーの順序でいきますと、まず米中の和解です。これはいわゆる米中間のピンポン外交が発端で、七一年、キッシンジャーの忍者外交といわれましたが、極秘に北京を訪れ、周恩来との間に米中の和解について話をまとめた。

 これは、中国人というのは、たとえば華僑にみられるように、経済的な取引き、手練手管の妙を心得ている民族です。一方キッシンジャーはユダヤ人でして、これまた手練手管、権謀術数ということには飛び抜けた能力のある民族だといわれています。この中国民族の周恩来と、ユダヤ民族のキッシンジャーとが、極秘裏に世界をアッといわせるような一芝居を打とうという話がまとまったというのは、まことによく理解ができる。私は当時から、そういうようなことを感じ、かつまたいったことがあります。

 実際、キッシンジャーと周恩来とのやりとりというのは、戦後史のなかでも稀に見る、めくるめくばかりの大きなドラマではなかったかと思うのです。そして翌七二年二月、ニクソン、キッシンジャーは中国を訪れ、まだ健在であった毛沢東、周恩来と握手をし、上海コミュニケとなるわけです。

 ただ、米中間の国交が正常化されるのは、もう少し先、一九七八年になります。その点よく誤解されて、七二年に米中国交正常化という人がありますけれど、それは誤りです。まだこの段階では、米中の間は和解であり、これもフランス語で「ラプロシマン」といわれる。なぜならば、この段階ですと、まだアメリカは台湾政府の正当性を一挙に否定するということはできなかったので、米台の関係が正式に解消される七八年までの間は、正常化というより和解というのが正しいのです。

 やはり、ここでいちばん大きな問題になったのは、この台湾を巡る問題です。中国側は、台湾は中国固有の領土であって、中国と台湾は一体であると主張する。二つの中国、あるいは一つの中国と一つの台湾という考え方は一切認めないという立場です。それに対してアメリカは、台湾の問題、台湾海峡の両側の問題はそれぞれ、両側の人々が自主的に話し合って、どうぞご自由にお決めくださって結構です、と。ただし、この台湾問題解決のために武力が行使されるということはアメリカとして黙って見ているわけには参りません、こういう立場をとった。

 アメリカの立場に対して、もちろん中国はイエスといったわけでも、ノーといったわけでもない。先のワルシャワでの米中大使級会談と同じで、アメリカの主張を認めたともいわないし、認めることができないともいわない。ただ、中国の立場は、一つの中国ということを強調したわけです。

 そういうことで、微妙なズレはありましたが、とにかくそういったズレを含みつつ、朝鮮戦争以来二十年にわたる米中の関係に、大きな風穴があいたということになります。

 これからヨーロッパにおけるデタントを一瞥したあと、日本のことを中心に話したいと思いますけれど、日中の国交正常化が同じ七二年九月、これも戦後長らく日本と共産中国との間は公式的には絶縁状態が続いていたわけです。その長い、正常ならざる関係が解消されることになったのも、ニクソン、キッシンジャーの行った米中和解の系(コロラリー)として出てきたものといえる。さらに、沖縄返還も七二年です。私は日中正常化をいう前に沖縄のことをいわなくてはいけないと思いますが、これがちょうどベトナム撤退の時期であり、デタント進行の時期であり、米中和解の時期でもあったのです。

(談)

(かみや・ふじ 東洋英和女学院大学教授)



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新中国外交の五十年

 五十年前、生まれたばかりの新中国は封鎖、禁輸に直面していた。それから半世紀経った今日、中華人民共和国は百六十三カ国と外交関係を樹立し、二百二十カ国・地域と経済貿易、科学技術、文化などの分野における協力交流を保っている。国連安全保障理事会の常任理事国として、中国は国際問題の中でますます重要な役割を果たしている。

 中国外交の出発点は独立自主

 一八四〇年から一九四九年にかけての百余年間は中国の外交史上振り返るのもつらい一ページであった。西欧の列強は中国に対し何回も侵略戦争を起こし、中国は余儀なく主権を喪失し、国辱となる条約に次々と調印した。「中英南京条約」の調印以降の百余年間に、中国は余儀なく千百余りの不平等条約に調印し、賠償のため領土を割譲し、通商港を開放し、侵略されるままであった。パリ平和会議に参加した中国代表は「弱国には外交はない」と感嘆せざるを得なかった。

 新中国は主権国として世界の舞台に登場した。毛沢東主席は新中国の外交をもう一度初めからやり直し、その中核は独立自主の平和外交であった。

 新中国成立の初期の頃に、アメリカは中国敵視の姿勢を取って、政治、経済、軍事の面から中国を全方位において封鎖して中国の発展を阻止しようとした。新中国成立後のわずか三日後に、アメリカ政府は直ちに国民党政権を引き続き承認することを公表した。

 一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発した。アメリカなどの西側諸国は朝鮮に出兵し、戦火を鴨緑江の岸辺まで拡大させると同時に、アメリカの第七艦隊は台湾海峡に侵入し、中国の主権と国家の安全をひどく脅かした。当時、経済が極度に困難であった状況の下で、中国の指導者は米国に抵抗し、(北)朝鮮を援助し、自分たちの家と国を守るという決定を行った。中国の軍隊は朝鮮の戦場で世界軍事史上弱国が強国にうち勝つという奇跡を創り出した。朝鮮停戦協定の調印は、中国の外交交渉がこれまですべて国の権益を犠牲にして終わったという歴史を書き直すものであった。

 主権問題については相談の余地はないというのが、中国の独立自主の平和外交政策の顕著な特徴の一つである。一九五八年、前ソ連の指導者は中国に両国共有の長波無線電信局と合同艦隊を設置することを提案したが、毛沢東主席はこれを断固として拒否した。一九六三年、米、前ソ連、英の三カ国は大国の核独占地位の強固を目指す部分的核実験禁止条約に調印した。中国は核独占を非難するだけでなく、実際の行動でもって核独占を打破した。一九六四年十月十六日、原爆のキノコ雲が中国の西北地区の砂漠の空に昇った時、世界中の人たちを驚かせたのは中国の核技術の急速な進歩ばかりでなく、中国の主権と独立を守る意志と決意であった。

 新中国成立後、中国は国連における合法的議席を回復させるために不撓不屈の闘争を行った。一九七一年十月二十五日、第二十六回国連総会では圧倒的多数で提案が採択され、国連における中華人民共和国のすべての合法的権利を回復し、直ちに台湾当局を国連機構およびそれに属するすべての機構で不法に占有していた議席から追い出すという二七五八号決議に署名した。中国の代表は自信にみち笑みを浮かべて国連の建物に入った。

 中国の外交は一歩一歩アメリカが設けた障害を乗り越えるようになった。一九七一年の「ピンポン外交」から一九七二年のニクソン米国大統領(当時)の訪中まで、中米両国は二十二年にわたる膠着状態を終わらせ、両国関係の正常化の扉(とびら)を開いた。中米両国関係の正常化および国連における中国の合法的議席の回復は中国が封鎖を完全に打破したことを示している。

 その時から、中米関係はまたもさまざまな曲折をたどったが、中国政府は終始独立自主の方針を堅持しつつ、アメリカの利益を尊重すると同時に、中国人民がいかなる国家利益を損なうことと中国の内部事務、特に台湾問題に対する干渉を絶対に受け入れることはあり得ないと明確に表明した。

 中国外交の主旨は世界平和

 一九五四年、新中国は初めて国際舞台にデビューした。中国代表団はジュネーブに赴いて、米国、前ソ連、イギリス、フランスとともに朝鮮問題とインドシナ問題について話し合った。周恩来総理の提案でインドシナの停戦が実現した。

 ジュネーブ会議の休会期間に、周総理はインドとビルマ(現在のミャンマー)を訪問し、中国はそれぞれインド、ビルマ両国と新しいタイプの国家間の付き合いの基準を確定したという声明を発表した。これは主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存の五原則で、その後国際関係の基準となったものである。

 中国は冷戦思考に反対し、対抗と武力による脅威を行わず、対話と協力を通じて世界の安全問題と国家間の紛争を解決することを主張している。国連安保理の常任理事国として、中国はイラン・イラク戦争問題とカンボジア問題などの重要な地域的衝突を公正かつ合理的に解決するうえで他のものが代わることのできない役割を果たした。インドとパキスタンの核実験、コソボ、朝鮮半島などの問題でも重要な建設的役割を果たしてきた。

 中国は国際的軍縮のプロセスに全面的に参与して、それを積極的に推し進めてきた。中国が一九八六年から五年連続して国連総会で打ち出した核軍縮と通常軍縮に関する提案はすべて一致採択された。一九八五年と一九九七年の二回にわたって、中国は一方的に大規模な軍縮行動をとり、百五十万の兵員削減を行って、国際社会から幅広い称賛を浴びた。それと同時に、中国は包括的核実験禁止条約(CTBT)と核拡散防止条約(NPT)を含む数十の国際条約に署名した。

 ケ小平氏が創造的に打ち出した「一国二制度」の偉大な構想は香港、澳門の祖国復帰を解決し、海峡両岸の平和的統一を実現するために唯一の正しい道を明示した。氏の打ち出した「主権は中国に属し、食い違いをタナあげにして、共同で開発する」という方針は、歴史上残されてきた釣魚島と南沙群島などの領土と海域の紛争問題の平和的解決のために新しい構想を提示した。

 江沢民主席を中核とする中国の第三世代の指導グループの効果的な外交活動によって、大国間の関係調整に突破的進展が見られている。九〇年代に入ってから、中国が提唱し確立した世紀にまたがるパートナーシップ関係は幅広く認められるようになった。中国はアメリカ、ロシア、日本、EUと異なった形のパートナーシップを確立し、双方関係の健全かつ安定した発展のための枠組みを構築した。

 人類の発展を目指す中国外交

 一九八五年、ケ小平氏は、平和と発展は当面の世界の二つの大きな主題であり、発展はその核心であると指摘した。早くも八〇年代の初めに、中国の改革・開放の総設計師であるケ小平氏は、扉を閉ざして建設を行っては成功を収めることができず、中国の発展は世界から切り離すことはできないと指摘した。

 建設と発展は安定した平和な外部環境を必要としている。しかし、五〇年代と八〇年代には、中国の周辺地域は安定していたとは言えず、戦争もしばしば発生し、その中には朝鮮戦争、ベトナム戦争、ベトナムのカンボジア侵入、前ソ連のアフガニスタン侵入もあれば、インド、前ソ連、ベトナムに対する中国の自衛反撃戦もあった。九〇年代に入ってから、中国と隣国との関係は大いに改善され、十五ある隣国のうち十カ国は中国と国境協定を締結した。中国の国際実務における確固不動の立場と柔軟的な対処方式は西側諸国による圧力と制裁を打破し、中国の経済建設のために良好な外部環境を作り上げた。

 過去の二十年間に、中国と外部の世界との交流はたえず増えており、国際的に著名な大手企業が次々と中国に投資し、中国が国外で設立した投資会社も百三十九カ国と地域において五千社以上にのぼっている。

 この期間に、中国は経済成長率が非常に速い国の一つとなり、総合的国力が大いに向上し、経済総量も一躍世界第七位に上がった。中国は八年連続して全世界で外資利用の最も多い発展途上国となり、外資利用額はわずかアメリカに次ぐものである。外貨準備高は世界第二位にランクされている。

 中国は日増しに富み栄え、強くなっている。しかし、まさに江沢民主席が何回も全世界に公約しているるように、中国の発展はいかなる国にも脅威となることはなく、将来強大になっても永遠に覇権を唱えるようなことはないのである。中国人民は長期にわたって列強の侵略、抑圧、辱めを受けたことがあるので、永遠にこうした苦痛を他人に押し付けることはあり得ないのである。


陳水扁台湾新総統と「一つの中国」原則

原題:「一個中国対陳水扁的考験」

『財訊』(台湾、2000年5月号)に掲載
(邦訳 2000/5/25)



目次

はじめに

陳水扁氏が犯した重大な失敗ふたつ

「一つの中国」など存在しない

チャーチルたらんと欲するか、はたニクソンたらんと欲するか



はじめに

 陳水扁新総統による5月20日の就任演説に中国が注目している。米国もそうであろう。誰よりもまず、台湾のひとびとがその日の来るのを待ち望んでいるのはいうまでもない。
 だが、これらすべての方面を満足させる演説は、魔法でも使わないかぎり不可能である。
 少なくとも、陳氏は中国を満足させることは絶対にできないであろう。なぜならば、中国が陳氏に求めているのは「一つの中国」原則の承認であり、これは陳氏にとってとうてい受け入れ不可能な要求であるからだ。

 そもそも、「一つの中国」とは何か。
 江沢民総書記の、1993年に米国シアトルにおける言葉がある。
「中国はただひとつであり、ひとつの中国とは、すなわち中華人民共和国にほかならない。そして、台湾はその中華人民共和国のひとつの省である」
 要するに、共産中国の唱える「一つの中国」、あるいは「一国二制度」とは、北京は中央政府であり、台北は地方政府にすぎないということである。
 さらに、中国が今年2月に発表した、いわゆる“台湾白書”では、次のような具体的な説明がある。
 *世界に中国はただひとつしか存在しない。
 *台湾は中国の一部である。
 *中華人民共和国政府が全中国を代表する唯一の合法的な政府である。
 これが中国の対台湾政策の根本である。陳新総統の就任演説がどんな内容であろうと、北京を満足させうるはずはない。


陳水扁氏が犯した重大な失敗ふたつ

 陳氏は、正式に総統の座に就くまでに、すでにふたつの重大な失敗を犯している。
 その第一は、選挙期間中に氏が台湾のニクソンとなりえると宣伝したことである。(正式には氏の陣営が、というべきだが。)
 信じがたい発想である。
 ニクソンたりえるとは、思想的に正反対の人間であるがゆえに、かえって中国に対して大きな譲歩をなしえるという意味である。
 今を去る30年前、当時のニクソン米国大統領が中国と国交回復を成し遂げた際、その見返りに行った“譲歩”とは、台湾の切り捨てと共産中国の国際連合入りおよび常任理事国のポストの提供だった。当時言われた「北京の門戸を開く」とは、つまりは「国連の門戸を開く」であり、西側世界が台湾を犠牲にし、膝を屈して自分たちの仲間として専制政府を招き入れたということである。
 陳氏はまさか本気でニクソンになりたいなどと考えているのであろうか。
 そもそも、陳氏には、ニクソン氏が中国へ携えていったのと同じほど大きな手みやげがあるか。それとも、今度は台湾が自分で自分を犠牲にするというのであろうか。
 この点はおくとしても、陳氏は、台湾の大衆が自分の行動を支持してくれると本気で考えているのか。
 1990年以後、台湾において行われた数度の調査において、被調査者の70パーセントが「一国二制度」に反対という結果が出ている。また、1999年4月の中華欧亜学会による調査では、台湾人の94パーセントが中華民国を一個の国家として考えており、また、90パーセント近くが「一国二制度」に反対である。
 台湾は民主主義国家である。陳氏は民意を無視することができない。民意を無視してでも強行するというのであれば、この意味においても危険である。
 そして、この宣伝のなによりも危険なところは、陳氏の(あるいは陳氏陣営の)ニクソン云々の宣伝は、中国に台湾新政権に対して誤った幻想を抱かせる点である。幻想が幻想にすぎなかったことを中国側が悟った時、中国と台湾の関係はさらに悪化するのは確実である。

 陳氏の第二の失敗とは、同氏が当選後に、「三不(二国論を憲法に明記しない、国号を変更しない、独立か統一かに関するレファレンダムを行わない)」政策を取ると繰り返し言明していることだ。
 妥協とは、交渉の当事者双方が譲歩する意志があってはじめて成り立つものである。中国側が妥協の用意があるという姿勢を見せてから、台湾が「三不」政策を打ち出しても決して遅くはなかった。それを、中国がまだなんらの譲歩もしていない先から、陳氏は“柔軟路線”を表明している。中国にとっては、自分が何もしないうちに、相手が勝手に譲歩してくれたわけである。圧力をかければもっと譲歩させることができると当然、考えるであろう。

「一つの中国」など存在しない

 もっとも、陳氏の真意は、あるいは「柔軟路線」によって中国の信頼を得、それによって関係の緊張緩和を実現するところにあるのかもしれない。
 だが、この推測がもし正しければ、今度は台湾新総統の共産主義観はあまりにナイーブすぎるといわざるをえない。
 李登輝前総統は国民党出身の総統である。その李氏に対してさえ、中国は「隠れ台湾独立主義者」という見方を変えようとはしなかった。いわんや、民進党出身であり、かつて「台湾独立万歳」と叫んだ経歴を有する陳新総統を、中国は「明白な台湾独立主義者」という観点からしか見ないであろう。つまり、陳氏が「一つの中国」原則を受け入れない限り、どのような「柔軟路線」を取ろうと、中国に信頼されることなどありえないのである。
 私は、共産中国は本質的に邪悪な存在であると思っている。そんな物に向かって信頼関係を持とうと考えること自体、どうかしているとしかいいようがない。政治の世界に生きる者としてはあまりに純真にすぎ、この純真さは、のちのち自分で自分の首を絞める結果を招くであろう。

 台湾が「一つの中国」原則を受け入れないかぎり、遅かれ早かれ中国との関係は悪化せざるをえない。
 悪化するに決まっているのであれば、「柔軟路線」など取ったり、一方的な譲歩など行う必要はないのである。
 それよりも、中国に対して主張するべきは主張し、台湾の譲れない一線を相手にはっきりと知らしめるべきである。
 譲れない一線とは、「二国論」である。
 「二国論」は、李登輝前総統の提唱にかかるものである。この主張は、台湾海峡を挟む中国・台湾の関係を、これまでのうやむやな虚実入り交じった霧の彼方から、現実の日の光のもとへ引き戻すものだった。
 中国側の唱える「一つの中国」などというものは、フィクションにすぎない。
 龍(ドラゴン)と同様、この世に「中国」などというものは存在しないのだ。現実に在るのは、「中華人民共和国」、「中華民国」という二つの国家である。

 中華人民共和国のいう「ひとつの中国」原則が、現実には何を意味しているか。
 台湾を圧迫し、国際社会での生存空間を狭め、さらに国際連合への加入の道を閉ざすことである。
 地球上の193か国で18番目に富裕とされ、世界第3番目の外貨保有量を誇る、台湾という国家に対する、このような不当な処遇に対して、真っ先に抗議の声を挙げなければならないのは、いうまでもなく台湾自身である。李氏による「二国論」の提起は、まさしくこの目的によってなされたものだった。
 そして、その目論見はみごとに成功した。この「二国論」によって、台湾は国際社会に一挙に注意を自分へ向けさせることができた。さらには目論見以上の効果をあげたといえよう。米国において、政府の現在取っているひとつの中国原則政策を放棄せよという声が主要ジャーナリズムはもとより、米国の主要な中国専門家の間で積極的に唱えられるようになったからである。
 しかるにである。その当事者たる台湾が、率先して「二国論」を取り下げて、どうして世界の同情と支持を集めることができるというのであろうか。とりわけ、台湾が熱望する国連再加盟には米国世論の支持が鍵となる。陳氏の政策は、それを失ってしまいかねない。
 陳新総統は台湾人である。民進党の一員でもある。民進党は、台湾の独立と台湾人の尊厳を求めて闘ってきた政党である。氏も、この趣旨のスローガンを掲げて総統選挙戦を戦い、そして勝利した。しかるに、その陳新総統が李前総統よりも後退し、台湾が一個の独立した主権国家であるという事実から目をひたすら背けようとしているのは歴史的な皮肉といっていい。
 

チャーチルたらんと欲するか、はたニクソンたらんと欲するか

 台湾が今、中華人民共和国に対して「柔軟路線」を取らなければ、相手の怒りを買って強硬手段を招くことになるという説を唱える人々がいる。
 しかし、中華人民共和国がどんな強硬手段を取れるというのであろう。軍事専門家の間では(共産中国を支持する立場を取る人間でさえ)、共産中国に台湾を軍事的に征服できる能力はないというのが一致した見解である。
 さらにいえば、この問題に関して軍事力以上に注意すべきは、中華人民共和国国内の危機的状況なのである。
 この国の指導者達にいま、台湾との戦争を始める余裕はない。中華人民共和国には対外的に攻勢に出るゆとりもその意志もないのである。江沢民総書記の脳中には、社会に山積する問題をなんとかして押さえ込み、自らの支配体制を存続させることしかない。今日、中華人民共和国のすべての政策は、この一点を中心として立案、実行されている。「安定がすべてに優先する(穏定圧倒一切)」というスローガンが、すべてを物語っているでないか。
 台湾が「二国論」を主張し続けたとしても、共産中国にできるのは恫喝だけである。
 そして、中華人民共和国が台湾に対して恫喝を繰り返せば繰り返すほど、国際社会は前者に対してますます反感を抱き、後者への同情と支持がますます高まってゆくという奇妙な循環に陥っている。いすれは国際世論が決定的な台湾支持に転じ、たとえば米国が最新鋭兵器を台湾に売却する事態に至るであろう。米国が台湾へ売却する武器の質量は、中華人民共和国の“脅威”の程度に左右される。
 いいかえれば、中華人民共和国の脅迫がエスカレートすればするほど、台湾は米国からより一層の援助を得、国際社会の人道的見地からの同情と支持を享受できるということである。

 台湾の出方にかかわらず、中華人民共和国は、台湾を完全に圧倒する水準に達するまで自国の軍事力拡充をやめることはない。
 台湾の譲歩は、中華人民共和国の威嚇のトーンを弱めることはできる。しかしその軍事力増強と台湾攻撃用の武器の開発や実戦配備を止めさせることまではできないのである。
 確かに、台湾の一方的な譲歩は、台湾にしばらくの安寧をもたらすであろう。だが、台湾は本当の利益をそれによって失うことになる。米国の最新兵器取得の機会を逸し、また国際社会で正式な一員として認められる可能性への門を自ら閉ざすからである。台湾は現在のような、国際社会の孤児であり続けなければならない。最近の大地震において、台湾が国際連合から援助を受けられなかった事実を思い起こしてみよ。
(ちなみに、あれほどの大災害でさえ、「台湾の地方政府」に対してわずか10万ドルの援助しかしなかった「中国」の「中央政府」に、将来いったい何が期待できるというのであろう。)

 陳氏は今、重大な選択の岐路に立っている。チャーチルのごとく、あるいはレーガンのごとく、確固たる信条と将来への展望を持つ偉大なる指導者として歴史に名を残す大政治家となるか、あるいはニクソンやクリントンのように小手先の政治テクニックに長けるだけの政治屋となって、政権の座から降りれば即座に忘却されるだけの存在になるか。
 この選択は、4年後の総統選で再選されるか否かという陳氏の個人的な運命の選択だけに止まらない。台湾一国の運命に大きく影響する選択である。もし氏が、苟且偸安を求めて「二国論」を放棄すれば、台湾を重大な危険の淵に追いやることになるからだ。