「第2次5か年計画(大躍進政策)」

【「第2次5か年計画(大躍進政策)」】

 毛沢東は、第1次5カ年計画(1953〜57年)に不満を覚え、「社会主義への中国の道」の模索に本格的に取り組んで行くことになった。毛沢東はマルクス主義者として、社会主義経済の内容を生産関係と生産力の両面から考えていた。生産関係の面では、私有制を廃絶し、集団所有制という過渡的段階をへて全人民所有制へ向かうことを目標としていた。生産力の面では、イギリスをおいこし、アメリカにおいつくことが具体的目標であった。

 マルクス主義では、生産力の発展の桎梏となったときに、生産関係の変革、スローガン革命がおこなわれると説く。スターリンはこの命題をロシアに適用したとき、トラクターという生産力に適応した生産関係がコルホーズ(農業協同組合)であると説明して農業集団化を強行し、失敗に帰した。この時数百万の餓死者を出している。

 毛沢東はこの現実を横目でながめながら考えた。中国ではトラクターを生産する工場がないから、トラクターの生産を待つことはできない。話はむしろ逆ではないか。農業集団化をおこない、生産の規模を拡大してこそあとでトラクターを導入できるのだ。個別農家を農業合作社あるいは人民公社に組織することも生産関係の変革であり、中国ではむしろこの方法によってこそ生産力を発展できるのだ、と。

 この考え方にたって、毛沢東は所有制変革の道をひたすら追求した。まず数個の農家からなる互助組(隣組の協力)、ついで数十個の初級農業合作社(部落単位の組合)に拡大させ、さらに高級農業合作社(自然村単位の組合)をつくるよう呼びかけた。最後にはこれを人民公社(行政村単位の組合)に発展させた。

 冒進反対から右翼偏向反対(反冒進反対)へと風向きが一変したのは、1957.6.8日、中共中央が右派への反撃を指示したときである。今日、中国社会主義の転落の第一歩といわれる反右派闘争が始まった。風向きに敏感な周恩来は全人代で行った政府活動報告のなかで、みずからのスタンスを変えて、毛沢東のそれに近づいた。
毛沢東はのちに1958.5.17日の講話で、この周恩来報告をほめあげ、「たいへん素晴らしい。プロレタリア階級の戦士の姿で、ブルジョア階級に宣戦したもの」と激賞した。周恩来は毛沢東に追随する道を歩みはじめたのである。

 1957.9月にひらかれた8期3中全会以来毛沢東はきわめて精力的に行動した。毛沢東が奮闘しはじめた契機の一つは、彼や共産党が「功利を急ぐもの、将来を迷信するもの」という批判をうけたためである。

 毛沢東はソ連のスターリン批判に際して、中国では民衆の不満に耳をかたむけ政策に反映させることによってスターリンの誤りをくりかえすことを避けたいとの考えから、「百花斉放、百家争鳴」の方針を提起して、共産党や政府に対する不満を率直に述べることを呼びかけていた。ところがそこで出てきた不満は毛沢東の予想をはるかに超えたきびしいものであり、なかには共産党が権力の座から下りることを要求するものさえあった。

 きびしい批判に驚いた毛沢東は、これらの批判は同志的な意見ではなく、敵側の批判であるとして、批判者たちを批判者を「ブルジョア右派」と断定し、弾圧の対象にふくめた。もう一つ、毛沢東は経済の実績を楽観した。57年建設の実績は財政収支でも、工農業総生産額で見ても満足すべきものと毛沢東はうけとめた。実は周恩来らから見れば、これはまさに56年の冒進の欠点を補ったことによって得られた成果にほかならない。現状から、毛沢東は冒進論の根拠を、周恩来らは反冒進の論拠を、それぞれ引き出していたのである。

 1958.1月の南寧会議で、毛沢東は再び56年の反冒進を批判した。「反冒進と右派は五十歩、百歩だ。こんごは反冒進という言葉は使わないようにしよう。これは六億人民の士気をくじく」「(56.6月の反冒進の社論をさして)読まぬ、と批語を書いた。私の悪口を書いたものを読めるものか」。毛沢東の鼻息は荒い。まもなく南寧会議の精神が伝達され、以後反冒進という言葉はタブーとなった。この結果、歯止めが失われ、暴走がくりかえされることになった。

 毛沢東の反冒進批判は1958.3月の成都会議、4月の漢口会議と続き、5月の中共8全2次会議でピークに達した。大躍進路線を正式決定したこの会議で、周恩来、陳雲、薄一波、李先念らは自己批判を迫られ、周恩来はこう自己批判した。

 「私は、五六年の成果と躍進のなかであらわれた若干の欠点と困難について、誤った評価を行い、小さな欠点を誇張した。五六年の年度計画を冒進だといい、五七年の建設規模を圧縮せよと述べた」、「反冒進の誤りは重大である。幸いにも党中央と毛主席の正しい領導と是正によって、また党内外の幹部と大衆の抵抗によって、あらためることができた」。まさに全面降服である。

 今日の時点で回顧すれば、周恩来側が正しく、毛沢東が誤っていた。周恩来がこの発言を行った背景について、発言稿の起草を助けた周恩来の理論秘書范若愚は当時を回顧して、周恩来の自己批判は迫られたからだけではなく「誠心から行ったもの」と証言している。もしこの証言が真実だとすれば、周恩来の予見能力の限界をしめすものといえよう。

 延安時代以来、毛沢東の判断の正しさを全党的にうけいれる慣行ができていたこと、毛沢東と異なる意見に遭遇したとき、皆は習慣的に毛沢東の側に傾いたこと、当時の周恩来は大躍進が災難をもたらすとは予想していなかったこと、などのためだと叢進『曲折発展的歳月』は分析している。

 周恩来らが毛沢東に追随することになったことについてほかの理由をあげる論者もある。一つは、党中央が1943.3月「重大問題に対しては毛沢東が最終的決定を下す」ことを決めており、この決定は建国後も有効であったこと、もう一つは、帝国主義の軍事的威嚇、経済上での封じ込め政策により「新中国が扼殺される」という危機意識があったことである。

 周恩来は当初、現実主義的な立場から、毛沢東の理想追求にはじまった大躍進に懐疑的であったが、毛沢東からその動揺性をきびしく批判されたあと、毛沢東の急進路線に追随した。大躍進の失敗を率直に批判した彭徳懐が、その見解を受けいれられるどころか解任されたとき、周恩来らは彭徳懐を支持することをしなかった。

 1958年第二次5カ年計画(1958〜62年)が開始された。この計画は工業、農業などのあらゆる面での高度成長を目指すもので「大躍進政策」と称されている。具体的には67年までに食糧生産量を5億トンにするなどの政策が策定されていた。この当時の人民公社の基本的理念は、農業、工業、商業、学校、民兵を包括した「行政と経営の一体化」であった。これにより、従来74万あった農業合作社は2万6千の人民公社に変わった。共産党幹部は、人民公社がもたらす利益として「大衆の生産意欲を増幅させ生産の大躍進をもたらす」と見通ししていた。また製鉄に関しては労働者に体力の限界を超える重労働を課せ1000万トンもの鉄を作り出した…がその鉄はほとんどくず鉄であったが…。

 この「大躍進」により極端に集団化された農民は労働意欲が激減、さらに製鉄による無理な動員で農業労働力の不足に加え、追い討ちをかけるように発生した天災の影響などもあって、農業生産は極端に落ちこみ、深刻な飢饉が発生した。中国各地で、米、食用油、大豆製品がきびしい割当製になり、肉、卵、小麦粉そして砂糖は徐徐に市場から消え始めた。新鮮野菜は法外的値段になり、食堂でかう饅頭は、いい小麦粉がなくなったため、ざらざらで黒くなった。あらゆる人民公社で餓死者が現われるほどであった。


 又もや失敗の憂き目に遭い、毛沢東はその責任を問われて、1959年その地位を劉少奇に譲った(党主席は留任)。