第1次5カ年計画

 49年の建国革命までは毛沢東、周恩来らは中国の旧社会を変革することに成功した。が、建国以後は失敗に次ぐ失敗を重ねていくことになる。「階級闘争の理論は、革命を勝利に導く原動力となったが、スターリン流社会主義経済の理論の限界を超えられなかった中国的社会主義経済の理論は、経済発展を順調に進める上で大きな欠陥をもっていた」と評せるように思われる。以下、検証していくこととする。


 建国時代の当初は、新民主主義経済体制と云われる一種の混合経済であった。新民主主義経済体制は、公的部門と私的部門の結合、計画性と市場性の結合を特徴としていた。

 が、建国後中共指導部は、社会主義計画経済の構築を目標とするという思想の下に、私有制を廃絶し、集団所有制という過渡的段階をへて全人民所有制を目指していった。この主義で生産力においてイギリスをおいこし、アメリカにおいつくことを目標としていた。農業方面でも農業集団化をおこない、生産の規模を拡大しようとした。個別農家を農業合作社あるいは人民公社に組織することにより、生産関係を変革しようとした。

 毛沢東は、
中国にではむしろこの方法によってこそ生産力を発展できるのだと信じていた。この考え方にたって、所有制変革の道をひたすら追求した。まず数個の農家からなる互助組(隣組の協力)、ついで数十個の初級農業合作社(部落単位の組合)に拡大させ、さらに高級農業合作社(自然村単位の組合)をつくるよう呼びかけた。最後にはこれを人民公社(行政村単位の組合)に発展させていくことになる。


 こうしてソ連の手法を真似て第一次五カ年計画(1953〜57年)を策定していった。この政策の基本精神は「重工業分野での生産力、技術力の向上」であった。すべての分野でソ連式モデルが導入されていった。その結果急速に中央集権的計画経済に移行していった。とりわけ1956年の社会主義改造運動は決定的役割を果たした。経済のこのような変革と相俟って、政治面でも大きな変化が起こった。「人民民主独裁」とは実質的に「プロレタリア独裁」と定義づけられるようになり、新民主主義政治は「専制的社会主義」へと変わっていった。


 毛沢東は、第一次5カ年計画に対して概要「あれは必要であった。しかし、どうしてもしっくりしなかった。心がはればれしなかった」と証言している」(『毛沢東思想万歳』丁本)。

 革命期の毛沢東は土地を約束することによって農民を味方にひきつけた。その約束を実行して全国的権力を奪取したあと、土地改革をおこない、地主や富農の土地を没収して、土地のない貧農にあたえた。農民革命、農村革命のなかで権力をえた毛沢東にとって、農民を貧しさから解放することこそが目標であり、その道筋は農業集団化(合作化)の道以外にはありえなかった。毛沢東の強いよびかけもあって、1955年夏に農業集団化は急速に発展したが、これに鼓舞された毛沢東は1955.11月に「農業17カ条」をつくった。

 そこには、1967年までに食糧生産量を五億トンにしようと書かれていた。ちなみに1955年の食糧生産量は1.8億トンであり、近年の実績が4億トンであることを見ただけでも、1967年に5億トンにするという目標が現実離れしたものであることはよくわかる。

 中共中央が1956年に予定している第8回党大会の基調を「右翼偏向反対、保守主義反対」に置く方針を決定した時、周恩来はこれを間接的に批判して「実際に合わないことをやってはならない。われわれの計画は実行可能なものたるべきであり、デタラメ冒進の計画であってはならない」と強調していた。冒進とは、猪突猛進というほどの意味である。

 ここで周恩来はおもてむきは毛沢東の方針を尊重しつつも、「実行可能」かどうかを重視している。こうした考え方にもとづいて周恩来は2.10日、56年計画の指標を押さえる方針を提起した。たとえば設備投資にあたる基本建設投資を減らした。しかしそれでも、周恩来の見るところ、1956年計画はいぜん目標が高すぎる。そこで5.11日、周恩来は予算報告を説明するなかで「あせり冒進の偏向にも反対」せよ、と強調した。

 第一次五カ年計画に対して、周恩来は、「第一次五カ年計画(五三〜五七年)の成果はたいへん大きいが、誤りも少なくなかった」と総括している。周恩来は第一次五ヵ年計画を誉める一方、基本的評価として「五三年は小冒進、五六年は大冒進をやってしまった」とも述べている。

 1956年後半から周恩来は李富春(国家計画委員会主任)、李先念(財政部長)、陳雲(副総理)らとともに、経済工作における「あせり冒進反対」に精力的にとり組んだ。周恩来らの意見は6月の全人代三次会議で採用され、『人民日報』社説「保守主義に反対するとともに、あせりムードにも反対せよ」が発表された。

 1956.7月、周恩来は第二次五カ年計画建議の作成に着手した。11月にひらかれた8期2中全会で、第一次五カ年計画(53〜57年)の成果について「成果はたいへん大きいが、誤りも少なくなかった」と周恩来は総括した。「53年は小冒進、56年は大冒進をやってしまった」というのが周恩来の基本的評価であった。

 こうした観点から、長期計画の見直しと、1957年の基本建設投資額の2割削減を提起した。長期目標としては三つの五カ年計画の最終年たる1967年(第一次=53〜57年、第二次=58〜62年、第三次=63〜67年)の鉄鋼の生産目標を、3000万トンから2000〜2500万トンに引き下げる案を提起した。

 しかし、毛沢東は、周恩来に代表される現実主義的な実務家たちの動きをにがにがしい気持ちでながめていた。経済の実務担当者たち多数派の意見であるから、理想に燃える毛沢東も一応は、周恩来の提案を了承した。しかし、こう釘を刺すことを忘れなかった。「不均衡、矛盾、闘争、発展は絶対的であり、均衡、静止は相対的である」。

 現場の幹部や大衆に冷水を浴びせるような態度はやめよと毛沢東は強調したが、彼はこのころ農業集団化をつうじて農村社会を根本的に変革することを夢想していた。

 こうして毛沢東の右翼偏向反対と、周恩来の冒進反対とは鋭く対立していく。とはいえ、五七年の前半を通じて周恩来らの「反冒進」のムードが優勢であった。