補足  「イエスの教義考、山上の垂訓考」

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).8.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
  釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝その他の記述を参照する。福音書のうちヨハネ伝には該当記述がなく、他の三伝ともこれを採り上げているが、それぞれ異なった記述をしている。これをそれぞれ検証した上で、れんだいこが意訳しつつ概要次のように宣べられたのではなかろうかと推定し「れんだいこ文/山上の垂訓」を纏めることにする。

 「山上の垂訓」は、ヨハネの教えを更に磨いて練っており、時のユダヤ教の支配的仕組み、思想、論調を徹底的に批判している。信仰の内面性を重視し、教義に対する忠実さを求めており、一種の宗教革命を呼びかけている。非常に多岐にわたって論を展開しており、巧みに例えを使って諭しており、名言にちりばめられている。

 「山上の垂訓」の論旨を要点整理すると、総論として、1・体制派の信仰批判、2・真の信仰の義の称揚、3・「愛の哲学」を諸事作法とせよの三観点を説いていることが判明する。それらは、パリサイ派の虚礼挙式、教義上の虚偽詐術、欲張り、蓄財主義、残忍、報復主義等々に対する自ずと手厳しい批判になっている。同じ神信仰でありながら、その昔よりパリサイ派系とイエス系のそれは相容れぬ真反対のそれであることが判明する。この二股分岐は現代にも続いているように思われる。ここに「山上の垂訓」考察の意義がある。イエスの御言葉とパリサイ派教説との軋轢と云う緊張感抜きにイエスの御言葉を拝するのは詰まらない。味で例えれば「気のぬけたビール」になってしまう。

 ここでは、「山上の垂訓」説話、イエスのそれ以前に宣べられた御教え、以後に宣べられたイエス教義の三者を総合し、一括してイエス教義として検証考察することにする。「山上の垂訓」をイエス教の教義篇とすると、「イエスの12使徒に対する指導考」は実践篇であり、「イエス派のイスラエル神殿乗り込み時の論争」は論駁篇となる。「山上の垂訓」にはこういう位置づけもある。

 2006.11.2日再編集、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝


【「山上の垂訓」の論理考】
 イエスの教義を総論と各論に仕分けして整理してみる。まず、イスラエルの律法学者及びパリサイ派、次にサドカイ派(これらを仮に神殿本部派と云うことにする)の信仰実態を次のように批判している。これを仮に「総論1、神殿本部派(律法学者、サドカイ派、パリサイ派)の信仰実態批判」とする。

 イエスは、ヨハネ教義を継承して次の御言葉から説き起こしている。
 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ伝5章1−3節)。
(私論.私見)
 通説の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」の「心の貧しい人々」の「心の貧しい」をどう拝察するべきか。「貧しい」を「貧乏」の意味で理解すべきだろうか。私には疑問がある。私訳は次の通り。「精神が未だ至っていないことを知る人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。

 この御言葉は元々ヨハネのものである。イエスは、ヨハネのこの言葉を語ることにより、ヨハネの信仰を受け継ぐ者であるとの立場を鮮明にしている。通常、単に「貧しき者は」と訳されているが意図的故意か未必かは別にして誤訳であろう。「貧しき」を欠乏とか貧乏と受け取るようではイエス教義の真意に辿り着けない。正しくは、「未だ至らない未熟者」と解するべきであろう。この心構えは、神殿本部派特にパリサイ派の「真理に到達したとする自覚者」教義との鮮やかな対比になっている。「未だ至らない未熟者」認識は謙虚を生む。「真理に到達したとする自覚者」認識は傲慢を生む。そういう対局になっている。かく理解すべきだろう。

 2021.8.8日 れんだいこ拝

 以下、神殿本部派の説く教義を全面否定し、諄々と新しい道を説いた。イエス教義はここに歴史的意義が認められる。イエスは、神殿本部派に対して次のように批判した。
 意訳概要「彼らは宮殿で、しなやかな長い服、華やかな衣を着て歩き回りたがり、人目につくことを好み、広場で挨拶したがる。会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしながらぜいたくに暮らしている。彼らは義の人を自認して品行方正を嘯(うそぶ)き、他方で人を見下げている。こういう人たちは、『見ても見えず、聞いても理解できない』人たちである」。
 「イザヤの預言はかく述べている。『あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない』。彼らの行状はここに戒められている通りのものである」。
 「律法学者、パリサイ派の人たちは、イザヤの預言そのままを実現している。彼らは御言葉を聞くが、世俗的な思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで実らない人である。そういう者達が権勢を振るっている現在は神に背いた罪深い時代である。このような者たちは裁きの日には人一倍厳しい裁きを受けることになる」。
(私論.私見)
 キリスト教団は、次のように評している。
 概要「律法はモーセを通して与えられたが恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかって神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。

 これがキリスト教の一般的受け取りようであるが何と味気ないことだろう。イエスは、ここではっきりとヨハネ以来の信仰の内面性重視を踏襲する立場から、神殿本部派の制度主義、それによる聖なる信仰世界に於ける俗化の持込みを直截的に厳しく批判している。この指摘を拝さねばならない。ここは一般的に盲拝する箇所ではなかろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 次に、イエスは、神の御業を畏敬し、その偉業を信奉するよう宣べ、信仰に於ける真の信仰の意義を次のように称揚している。これを仮に「総論2、全知全能の神の御業(技)を知れ。真の信仰の義の称揚」とする。
 『神にできないことは何一つない』。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
(私論.私見)
 これも間接的な本部神殿派批判であり、神の御業を畏れぬ本部神殿派の信仰の在り方を衝いている。イエスの批判の鋭さをそのまま窺うべきであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

  次に、イエスは、「この世で一番大事なものは愛である。人は須らく愛で応接せよ」と宣べ、全てを癒す新しい思想として次のように「相互博愛主義」を諭している。これを仮に「総論3、愛の哲学を諸事作法とせよ」とする。
 私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

(私論.私見)

 イエスは、パリサイ派教義のように人の罪を裁くのではなく、「あなたの罪は赦された。悔い改めよ」と宣べ、今後の生き方、心の持ち方を重視した。逆に言えば、神殿本部教義派の「今後の生き方、心の持ち方を問わない非信仰的政治的懲罰主義」を批判したことになる。その上で、その対案として相互博愛主義を諭した。この理を単に受け取るのではなく、本部神殿派の教理に濃厚なユダヤ教式報復主義教理に対する鋭い批判であり、それに代わる新テーゼの提起であったとして拝さねばならないであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

【「山上の垂訓」各論概括】
 以上を総論として、各論的に次のように宣べている。
 各論1、御教えの原義に立ち戻れ。
  イエスは、「御教えの原義に立ち戻れ」として次のように宣べられている。
 「私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全う(まっとう)されるのである」。
(私論.私見)
 イエスはここで興味深い立場を明らかにしている。律法や預言の否定の立場からの神殿本部派批判ではなく、律法や預言の成就の為に神殿本部派批判している。これによれば、イエスは、律法や預言の正しき実践を求道する側にいることが判明する。この御言葉がイエスのそのままの言であるかどうかは分からない。れんだいこは、イエスの御言葉の実際はやや違う表現であったと窺うが確かめようがない。例えば、次のように云ったのではなかろうか。「私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、本当の信仰の義を成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、本当の信仰の義の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全う(まっとう)されるのである」。

 2006.11.2日、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝

 各論2、「神の義信仰」に忠実なれ。
 イエスは、「御教えの原義に立ち戻れ」の次に、当時のイスラエルの神殿本部教義派により「神の義信仰」が形骸化されており、その活動が御教えの反対物に転化していることを批判し、「神の義信仰に忠実なれ。神の御心に適うその義を求める生き方をせよ」と宣べている。この限りで、イエスは「神の義思想原理派」の立場に立っていることが判明する。

 イエスは、「神の義の信仰に忠実なれ」として次のように宣べられている。
 「肉体の罪は良くない。しかし心の罪はもっと良くない。故に、神の義に忠実な信仰でなければならない」。
(私論.私見)
 イエスは、神殿本部派特にパリサイ派の1・フェチ的独善主義、2・自己宣伝癖、3・無慈悲な律法主義、4・護符の権威化と商売的利用、5・信仰の表裏性と卑劣性、6・小事に拘り大事を免責にする得手勝手性、7.世の日陰者や生活困窮に起因する下層民の行状に対する容赦ない侮蔑、8、報復主義、9・メシア再臨信仰の捻じ曲げ等々を痛烈に批判している。通説は「神の国信仰」と訳しているが、「神の義信仰」とすべきであろう。

 2006.11.2日、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝

 各論3、「財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢」を排せ。
 イエスは、「神の御心に適う基準」として、「財物拝跪、蓄財拝金、権力的威勢主義」こそ最も神の御心に適わない」と宣べ、次のように諭している。
 「富を貪るな。富は地上に積むのではなく天に積め。人は神と富との両方に仕えることは両立しない」。
 概要「明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
(私論.私見)
 これもまた神殿本部派特にパリサイ派の信仰俗化ぶりに対する痛烈な批判となっており、「今後の生き方、心の持ち方」を問わない非信仰的世俗的拝金主義からの転換を指針させたことになる。特に、パリサイ派教義に濃厚な蓄財主義を強く批判していることになる。パリサイ派の蓄財主義はその後も続き、今日的には国際金融資本帝国主義と規定される巨富を形成している。その頭目がロスチャイルド財閥とすれば、これに対する批判にもなろう。つまり、イエスの憂いの御言葉は今も生きていることになる。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論4、暮らしの中に神の義を求めよ。
 イエスは、「暮らしの中に神の義を求めよ」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要「人は誰しも生きるためにパンを求めざるを得ない。しかしながら、オマンマ稼業に勤しむとしてもこれを自己目的としてはいけない。オマンマ稼業の生業(なりわい)の内に神の国と神の義を求める生活に向わねばならない。御教えに反するような生業、生業の為の生業は異邦人のそれであって、我々の求める生活ではない」(生活の糧をバンという言葉で表現している。ここではパンの延長の意味するものを仮に「オマンマ稼業」とする)。
 意訳概要「人はパンのみにて生きるにあらず。御教えに従ってパンを食べ、御教えを血とする者は永遠に生きる。その人は神の元に居り、神もまたその人の中に居る。私の教えは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。このことを信じない者も居る。しかし、これが真理であり、世を生かす道である」。
(私論.私見)
 これもまた神殿本部派特にパリサイ派の生活と信仰が背反している信仰ぶりに対する痛烈な批判であった、と拝するべきであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論5、心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない。
 イエスは、「人の心の持ち方」について「心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない」と宣べ、次のように諭している。
 概要「素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのためにある」。
 「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。
 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。
(私論.私見)
 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。そう拝すべきだろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝
 このことに関連して、イエスは、パリサイ派の信仰に対して次のように批判している。
 「あなたがたパリサイ人は杯や盆の外側を清めるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで一杯である。盲目なるパリサイ人よ、まづ杯の内側を清めなさい。そうすれば外側も清くなるだろう」。
(私論.私見)
 神殿本部派特にパリサイ派の信仰にある偽善を見つめるイエスの眼にはかく鋭いものがあった。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論6、因果応報の理を知れ。
 イエスは、「因果応報の理を知れ」として次のように宣べている。
 悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かれる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は心からあふれ出ることを語るのである」。

 イエスは、「一粒万倍の理」を次のように宣べている。(マタイ伝4・18−20)
 「ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」。
(私論.私見)
 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論7、報復の論理を捨て愛の思想を打ちたてよ。
 イエスは、「報復に代わるに愛の思想を打ちたてよ」として次のように宣べている。
 汝の敵を愛し、憎む者に親切で報いよ。悪口を言う者、侮辱する者に祈りで応ぜよ。『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも差し出しなさい』。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。
(私論.私見)
 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論8、人を裁くな。「許せ」
 イエスは、「人を裁くな、むしろ許せ」として次のように宣べている。
 「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。
 人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。裁けば裁かれる。好んで人に罪を被せることは止めなさい。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。
(私論.私見)
 これを解するのに、「うわべだけで裁くのをやめ、神の道に適う正しい裁きをしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論9、「祈り」が信仰生活の第一歩である。
 イエスは、「祈りが信仰生活の第一歩である」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要「我々の為すべきは祈りである。但し、祈りは、異邦人の信仰の如く現世利益的であってはならない。彼らのまねをしてはならない。ひたむきに全知全能の神の御心に他力本願信仰で添い合わせなさい。それは眼を見れば分かる。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ」。

 具体的な祈り方として次のように宣べられている。
 祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください』。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。
(私論.私見)
 これを解するのに、「うわべだけ祈るのをやめ、神の道に適う正しい信仰をしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論10、信仰基盤を確固としたところに確立せよ。
 イエスは、「信仰基盤を確固としたところに確立せよ」と宣べ、次のように諭している。
 私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどい」。
(私論.私見)
 これは、「何事も基礎が大事であり、見せ掛けは良くない」と一般化できる御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論11、主体的に生きよ。
 イエスは、「主体的に生きよ」と宣べ、次のように諭している。
 概要「求めよ。そうすれば、与えられん。探せよ。そうすれば、見つかられよう。門をたたけ。そうすれば、開かれよう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ本来の律法と預言者の御教えである。狭き門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない」。
(私論.私見)
 これは批評的な御教えであろう。文句が秀逸である。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論12、種蒔く人になれ。
 イエスは、「種蒔く人になれ」と宣べ、次のように諭している。
 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くことに例えられる。悪い土地に蒔かれた種はなかなか育たない。困難に打ち勝てない。サタンに誘惑され邪魔される。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結ぶ
」。

 この意味が釈然としない弟子たちに次のように諭している。
 このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。

 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、よく悟り、忍耐して実を結ぶ人たちである。ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる
」。
(私論.私見)
 これは運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論13、信仰は修行の道である。
 イエスは、「信仰は修行の道である」と宣べ、次のように諭している。
 概要「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。耳のある者は聞きなさい。信仰もまた同じである。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。
 「知恵の正しさは、その働きによって、それに従うすべての人によって証明される」。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論14、悪魔思想の誘惑に負けるな、闘え。
 イエスは、「悪魔思想の誘惑に負けるな、闘え」と宣べ、次のように諭している。
 不法を働く者ども、私から離れ去れ」云々。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論15、陰謀に与するな。
 イエスは、「陰謀に与するな。悪事は露見する」として、次のように宣べられている。(マタイ伝4・19−23)
 「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠されているものは何でも、露(あら)わにならないものはなく、秘密にされていることは必ずや明らかにされる。聞く耳のある者は聞くが良い。For whatever is hidden is meant to be disclosed, and whatever is concealed is meant to be brought out into the open. If anyone has ears to hear, let him hear."聞く耳のある者は聞きなさい」。

 各論16、偽預言者を警戒せよ。
 イエスは、「偽預言者を警戒せよ」と宣べ、次のように諭している。
 「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論17、背教の言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし。
 イエスは、「律法学者やパリサイ派の教えは背教である。彼らの言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要「律法学者やパリサイ派は、神の御心に適わない財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢を正当化するイデオローグである。彼らの言に屈してはならない。この問題では、我々は、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。イエスの教えを採るのか、律法学者やパリサイ派の論法に屈するのか、はっきりせよ。盲人が盲人の道案内をすれば二人とも穴に落ち込むであろう。律法学者やパリサイ派の論法は盲人の道であるこれに付き従ってはならない」。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論18、願うらくは、論理、思想、理論において律法学者やパリサイ派に打ち勝て。
 イエスは、「願うらくは、信仰者としてのその義は、論理、思想、理論において、律法学者やパリサイ派に勝らねばならない」と宣べ、次のように諭している。
 概要「彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。律法学者やパリサイ派は、人の目にあるオガ屑は見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるオガ屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるオガ屑を取り除くことができる。そういう類の彼らの義に対して、我々の義がまさらなければならない」。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論19、私が雛形を示す。
 イエスは、「私が雛形を示す」と宣べ、次のように諭している。
 概要「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人として私の弟子ではありえない」。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論20、迫害に屈するな。
 イエスは、「迫害に屈するな」と宣べ、次のように諭している。
 概要「神の国思想原理派として歩むことは、ヨハネにせよ私の教義にせよ、イスラエル神殿派の権力、時代的風潮の利益に反することになるから迫害される。しかし、怯むな、悲しむな、むしろ喜べ」。
 概要「地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る」。
(私論.私見)
 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。かく叱咤激励している。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論21、「世の終わりの日の裁き」について。
 イエスは、「世の終わりの日の裁き」について、信仰の例え話として「種まき論」、「真珠論」を披露しつつ次のように宣べ諭している。
 良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子である。毒麦の背後には悪魔が潜む。刈り入れの時、それは信仰上世の終わりの時に例えられるが、天使達が刈り入れする。天使達は、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを燃え盛る炉の中に投げ込み識別する。

 真珠も同様で網の中に入れられる。良いものは器に入れられ、悪いものは投げ捨てられる。世の終わりにもそうなる。天使達が、正しい者と悪い者どもをより分け識別する。天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている
」。
(私論.私見)
 これはイエス教義の内容に関わっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論22、「救済」について。
 イエスは、「救済」について次のように宣べている。
 詩編にはこう書いてある。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』主の名を呼び求める者は皆、救われる』」(使徒言行録)。
(私論.私見)
 これもイエス教義の内容に関わっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

【「山上の垂訓」の論法考】
 「山上の垂訓」は非常に多岐にわたっている。これを整理し運動論で見れば次のような論法になっているのではなかろうか。
 「神の国」思想に添い、神の御心に適うその義を求める生き方をせよ。現世的な貪欲な権勢者こそ最も神の御心に適わない。彼らの生き方は排斥されるべきである。それに比して、生活苦にあえいでいる人のほうが生き方としては神の御心に適っている。人は、素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのためにある。
 信仰者として迫害されても怯むな。神の御心に適う生き方をした為に迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられたとしても悲しむな、むしろ喜べ。地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る。
 律法学者やファリサイ派に屈してはならない。願うらくは、信仰者としてのその義は、律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければならない。彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。
 祈れ。異邦人の信仰は現世利益的である。彼らのまねをしてはならない。二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
 他力信仰で神の御心に添い合わせ。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ。寿命をわずかでも延ばすことができない。
 富を貪るな。富は、地上に積むのではなく天に積め。神と富との両方に仕えることは両立しない。オマンマ稼業を貪るよりは何よりもまず、神の国と神の義を求めよ。明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
 主体的に生きよ。「求めよ。そうすれば、与えられる。探せよ。そうすれば、見つかる。門をたたけ。そうすれば、開かれる。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。狭い門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない」。
 偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
 因果応報の理を知れ。
10  信仰基盤を確固としたところに確立せよ。
11  不法を働く者ども、私から離れ去れ。

【「マタイによる福音書」の山上の垂訓】
 「マタイによる福音書第5章による山上の垂訓」は次の通りである。れんだいこがこれを意訳する。原文から当りたいが今は叶わぬ。
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 貧しい人々は幸いである。天(神)の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。
 柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は幸いである。天の御国はその人たちのものである。
 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなたがたには天において大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置きなさい。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはならない。廃棄するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。天地が消えうせない限り、律法の文字から一点一画も決してすたれることはない。全部が成就される。
 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の御国で大いなる者と呼ばれる。
 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やパリサイ(ファリサイ)派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入ることができない。
 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。
 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとしている時、兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置いたままにして、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになる。はっきり言っておく。最後の一クァドランス(コドラント)を返すまで、決してそこから出ることはできない。
 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部を失っても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
 『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。
 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天をさして誓ってはならない。そこは神の玉座である。
 地をさして誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムをさして誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭をさして誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
 あなたがたは、『然り』は『然り』、『否』は『否』とだけ言いなさい。それ以上のことは、悪しき事になる。
 あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
 誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
 誰かが、一ミリオン(マイル)行くように強いるなら、一緒に二ミリオン(マイル)行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者には、背を向けてはならない(断わらないようにしなさい)。
 あなたがたも聞いているとおり、『汝の隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天に居られるあなたがたの父の子となれる。
 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。
 自分を愛してくれる人を愛したところで、報われるほどのものではない。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 人に見せるために人前で善行をするようなことはしないように気をつけなさい。そうでないと、あなたがたの天の父の報いをいただけないことになる。
 だから、あなたは施しをするときには、人からほめられようとして偽善者たちが会堂や街角でするような、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。
 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。
 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富の両方に仕えることはできない。
 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。けれども、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもすぐれたものではないか。
 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
 信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太(梁)があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からもおが屑を取り除くことができる。
 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。子供が魚を欲しがるのに、誰が蛇を与えようか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。とすればなおのこと、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
 だから、何事でも、人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄である。
 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道は細く狭い。それを見いだす者は稀である。
 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分けることができよう。
 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』。
 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。
 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
 以下、マルコ伝、ルカ伝の「山上の垂訓」を確認することにするが、別の機会に譲る。

【「山上の垂訓」前置き】
  釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書四書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のうち、ヨハネ伝を除く三書がそれぞれの「垂訓」を記している。ヨハネ伝に無いと云うことは、ヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。れんだいこは、他の三書がキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを理解せんとしている違いと見立てたい。ここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。

 それはともかく、マルコ伝の場合は、「湖畔の垂訓」となっている。ルカ伝の場合には「山上の垂訓」であるが、マタイ伝の場合、12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっているという違いが有る。そういう違いは有るが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。

 問題は次のことに有る。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差も有り却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。れんだいこは、福音書による山上の垂訓」が、イエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「山上の垂訓」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。

 例えば、次のような言葉は云うはずかない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事は無かろうに。

 この種の捏造文がこの後続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として、本当は次のように述べたのではなかろうかとれんだいこが概要推定して御言葉にしてみることにする。

【「山上の垂訓」れんだいこ推定訳】
 ここで、「れんだいこ推定訳/山上の垂訓」を記しておく。
 イエスは付き従う人々と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。既に、大勢の弟子とおびただしい数の民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、又ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、あるいは病気を癒していただくために来ていた。イエスは、御技で汚れた霊に悩まされていた人々を癒した。群衆は皆なイエスの霊気の裾分けを得んとして競ってイエスに触れようとした。

 イエスは、求める人々に一通りの癒しの御技を施した後、目を上げ、弟子たちを見てこう宣べられた。
 「未だ至らない者として自覚している謙虚な人たちはは幸いです。天(神)の国はあなた方の為に開かれているのです。悲しむ人々は幸いです。あなた方は慰められます。柔和な人々は幸いです。あなた方は地の肥やしです。義に飢え渇く人々は幸いです。あなた方は満たされます。憐れみ深い人々は幸いです。あなた方は憐れみを受けます。心の清い人々は幸いです。あなた方は神を見ます。平和の為に尽す人々は幸いです。あなた方は神の子と呼ばれます。義のために迫害される人々は幸いです。天の御国はあなた方を癒します。
 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなた方には天において大きな報いがあります。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害され、天の国で癒されました。
 あなた方は地の塩です。地に塩気がなくなれば、何によって塩味が付けられましょう。あなた方は世の光です。山の上にある町は四方に光りを灯します。灯火(ともし火)を升の下に置く者はいません。燭台の上に置きなさい。そうすれば、家の中のものすべてを照らします。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々は、あなた方の行いを見て、あなた方に続きます。
 私の教えが律法や預言を破棄せんとしていると思ってはいけません。私は、破棄するのではなく、律法や預言者の御言葉が指し示していることを成就しようとしているのです。はっきり言っておきます。天地が消えうせない限り、律法や御言葉の文字が一点一画もすたれることはありません。
 律法学者やパリサイ派の人々は、これらを捻じ曲げています。このことに気づくべきです。本当の信仰の義が、私と律法学者やパリサイ派のどちらにあるのかをはっきりさせねばなりません。言っておきますが、あなた方の信仰の義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさらなければなりません。これが叶わない限り本当の信仰が生まれず、邪(よこしま)な信仰の下ではあなた方は決して天の御国に入ることができません。
 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださります。この愛を学びなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで報われるほどのものではありません。嫌われ者の徴税人でも同じことをしています。自分の兄弟にだけ挨拶したところで優れたことをしたことにはなりません。異邦人でさえ同じことをしています。あなた方は、あなた方の天の父が為されているように全ての人に慈愛を注ぎなさい。これが私達の信仰の基本になるべきです。
 人に見せる為に人前で善行をするようなことをしないように気をつけなさい。天の父はそういう善行を受け取りません。天の父の報いをいただけないことになります。あなたが施しをするときには、偽善者たちが会堂や街角でするような、注目を得る為のラッパを吹き鳴らしてはなりません。あなた方に言っておきます。彼らは既に地上で報いを受けており、それ以上の報いを受取ることはできません。
 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはなりません。あなたの施しを人目につかせないためです。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が働き、あなたに報いてくださります。祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはなりません。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがります。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。
 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、あなたの父に祈りなさい。隠れたことを見ておられるあなたの父が働いてくださります。そこでこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。
 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはなりません。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうとして顔を見苦しくします。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。
 あなた方は地上に富を積んではなりません。そこでは虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりします。富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、又盗人が忍び込むことも盗み出すこともありません。あなたの心に富を積みなさい。
 体のともし火は目に表われます。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るく、濁っていれば暗くなります。あなたの中にある光が消えれるに応じて暗くなります。体のともし火を輝かしなさい。
 神を取るか富を取るか。誰も二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかです。あなた方は、神と富の両方に仕えることはできません。
 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩まないようにしなさい。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切です。パリサイ派は、これを逆にしています。パリサイ派の信仰に染まってはなりません。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。それでも、あなた方の天の父は鳥を養ってくださります。あなた方は、鳥よりも優れたものではないですか。
 思い悩んだからといって、あなた方の寿命をわずかでも延ばすことを誰ができましょう。なぜ衣服のことで思い悩むのでしょう。野の花がどのように育つのか、注意して御覧なさい。働きもせず、紡ぎもしません。言っておきますが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも美しく着飾ってはいませんでした。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださります。まして、あなた方にはなおさらのことではないですか。
 何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩む必要が有りません。それらは皆な神の義の信仰に疎い者達が切に求めているものです。あなた方の天の父は、これらのものが皆なあなた方に必要なことをご存じです。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな与えられます。だから、明日のことまで思い悩む必要はありません。明日のことは明日自らが思い悩みます。その日の苦労は、その日だけで十分です。
 私の言葉を聞いているあなたがたに言っておきます。あなた方を苦しめる者を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう片方の頬をも向けなさい。求める者には与えなさい。無用の争いを避ける為です。
 人の過ちを過度に懲らしめてはなりません。もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになります。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。人を罰するよりも、あなた方が人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。神の御心に叶います。
 あなた方の敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となることができます。パリサイ派がけしかける仕返し、報復の道を好んではなりません。それは無限連鎖を招きます。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い人になりなさい。
 安易に人を裁いてはなりません。あなた方も裁かれないようにするためです。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られることになります。
 あなたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのでしょう。自分の目に丸太(梁)を付けたまま、兄弟に向かって、『あなたの目からオガ屑を取らせてください』と、どうして言えましょう。我が身を弁えず人の粗を捜す人たちは偽善者です。云っておきますが、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からもオガ屑を取り除くことができるでしょう。
 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれます。何事でも、してもらいたいと思うことを人に施しなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄です。
 あなた方に云っておきます。この狭き門から入りなさい。広き門、広々とした道は滅びの道です。命に通じる門は狭く、道は細く狭い。この道を見いだす者は稀です。
 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところにやって来ます。その人たちの心の内側は貪欲な狼です。正しいか正しくないかは、口先ではなく実を見れば分かります。実を結ぶ事があっても、茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。口先を見分けるのではなく実を見分けなさい。万事良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出します。人の口は、心通りのものをあふれ出し語ります。
 口先の偽善の信仰は受取られません。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではありません。天の父の御心を行う者だけが入ることができるのです。かの日には、大勢の者が、『主よ、主よ、私たちは御名を唱え、預言を守り、神の御業の奇跡を信仰の杖にして参りました』と篤信家ぶります。私はきっぱりとこう告げておきます。『神の御名を唱えながら神を汚し、不法を働いてきた似非信心者どもよ、あなた方は天の国に入ることはできません。早々に立ち去りなさい』。
 ここまで分かったなら、あなた方は種蒔く人になりなさい。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行きました。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出しました。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。ほかの種は茨の中に落ちました。すると茨が伸びて覆いふさいだので実を結びませんでした。ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。
 信仰とはそういうものです。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。道端の信仰は、御言葉が蒔かれ、それを聞いても、サタンが来るや、蒔かれた御言葉を奪い去られてしまいます。石だらけの所に蒔かれる信仰は、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れますが、しばらくは続いても根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。茨の中に蒔かれる信仰は、御言葉を聞けども、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいでしまい実りません。良い土地に蒔かれた信仰は、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです。
 私のこれらの言葉を聞いてそのままに行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。岩を土台としてしっかりとした基礎を立てているからです。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどい」。
 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、律法学者たちの教えと違って、イエスの教えこそ本当の神の教えであることに感銘したからである。

Re:れんだいこのカンテラ時評407 れんだいこ 2008/06/04
 【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】

  釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書四書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のうち、ヨハネ伝を除く三書がそれぞれの「垂訓」を記している。イエスを語るうえで最も重要な箇所となる「山上の垂訓」に対する言及がヨハネ伝に無いと云うことは、ヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。れんだいこは、他の三書がキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを「理解」せんとしている違いと見立てたい。ここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。

 それはともかく、マルコ伝の場合は「湖畔の垂訓」となっている。ルカ伝の場合には「山上の垂訓」であるが、マタイ伝の場合は12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっているという違いがある。そういう違いはあるが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。

 問題は次のことにある。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差もあり却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。れんだいこは、「福音書による山上の垂訓」が、イエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「山上の垂訓」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。

 例えば、次のような言葉は云うはずがない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。ちょっと待て!イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事はなかろうに。

 この種の捏造文がこの後続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として、本当は次のように述べたのではなかろうかとれんだいこが概要推定して御言葉にしてみることにする。
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 イエスは付き従う人々と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。既に、大勢の弟子とおびただしい数の民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、あるいは病気を癒していただくために来ていた。イエスは、御技で、汚れた霊に悩まされていた人々を癒した。群衆は皆なイエスの霊気の裾分けを得ようとして何とかしてイエスに触れようとした。一通りの手当をした後、イエスは目を上げ弟子たちを見てこう宣べられた。

 「未だ至らない者として自覚している謙虚な人たちは幸いです。天(神)の国はあなた方の為に開かれています。悲しむ人々は幸いです。あなた方は慰められます。柔和な人々は幸いです。あなた方は神にも好かれます。義に飢え渇く人々は幸いです。あなた方は満たされます。憐れみ深い人々は幸いです。あなた方は恵みを受けます。心の清い人々は幸いです。あなた方は神を見ます。平和の為に尽す人々は幸いです。あなた方は神の子と呼ばれます。義のために迫害される人々は幸いです。天の御国はあなた方を癒します。

 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなた方には天において大きな報いがあります。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害され、天の国で癒されました。

 あなた方は地の塩です。地に塩気がなくなれば、何によって塩味がつけられましょう。あなた方は世の光です。山の上にある町は四方の印になります。灯し火を下に置く者はいません。燭台の上に置きなさい。そうすれば、家の中のものすべてを照らします。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父を崇(あが)めるようになるでせう。

 私が来たのは律法や預言者を破棄する為ではありません。私は、破壊する為ではなく、律法や預言者の御言葉を成就しようとしています。はっきり言っておきます。天地が消えうせない限り、律法の文字が一点一画もすたれることはありません。

 律法学者やパリサイ派の人々は、これらを捻じ曲げています。このことに気づかねばなりません。言っておきますが、あなた方の信仰の義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさらなければなりません。これが叶わない限り本当の信仰が生まれず、あなた方は決して天の御国に入ることができません。

 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださります。この愛を学びなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、報われるほどのものではありません。嫌われ者の徴税人でも同じことをしています。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、優れたことをしたことにはなりません。天の父を見ない人でさえ同じことをしています。あなた方は、あなた方の天の父が為されているように全ての人に慈愛を注ぎなさい。これが、私達の信仰の基本になるべきです。

 人に見せる為に人前で善行をするようなことをしないように気をつけなさい。天の父は、そういう善行を受け取りません。天の父の報いをいただけないことになります。あなたが施しをするときには、偽善者たちが会堂や街角でするような、注目を得る為のラッパを吹き鳴らしてはなりません。あなた方に言っておきます。彼らは既に地上で報いを受けており、それ以上の報いを受取る事はできません。それ以上の報いを受取る事はできません。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはなりません。あなたの施しを人目につかせないためです。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が働き、あなたに報いてくださります。祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはなりません。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがります。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。

 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が働いてくださります。そこでこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。

 断食するときには、あなた方は偽善者のように沈んだ顔つきをしてはなりません。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうとして顔を見苦しくします。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。

 あなた方は地上に富を積んではなりません。そこでは虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりします。富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さびつくこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともありません。あなたの心に富を積みなさい。

 体のともし火は目に表われます。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るく、濁っていれば暗くなります。あなたの中にある光が消えれるに応じて暗くなります。体のともし火を輝かしなさい。

 神を取るか富を取るか。誰も、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかです。あなた方は神と富の両方に仕えることはできません。

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩まないようにしなさい。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切です。これを逆にする者たちの信仰に染まってはなりません。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。それでも、あなた方の天の父は鳥を養ってくださります。あなた方は、鳥よりも優れたものではないですか。

 あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができましょう。なぜ衣服のことで思い悩むのでしょう。野の花がどのように育つのか、注意して御覧なさい。働きもせず、紡ぎもしません。言っておきますが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも美しく着飾ってはいませんでした。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださります。まして、あなた方にはなおさらのことではないですか。

 だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩む必要がありません。それらは皆、神の義の信仰に疎い者達が切に求めているものです。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じです。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます。だから、明日のことまで思い悩む必要はありません。明日のことは明日自らが思い悩みます。その日の苦労は、その日だけで十分です。

 私の言葉を聞いているあなた方に言っておきます。あなた方を苦しめる者を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。求める者には与えなさい。

 あなた方の敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となることができます。神の御名を唱えながら仕返し、報復を好む人たちがいます。これを互いにやれば果てしのない連鎖を招きます。それは神の御心に叶いません。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い人になりなさい。

 神の御名を唱えながら人の過ちを過度に懲らしめ人たちがいます。神の御心に叶いません。もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになります。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 神の御名を唱えながら安易に人を裁く人たちがいます。これに従ってはなりません。神の御心に叶いません。あなた方も裁かれないようにするためです。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られることになります。

 あなたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのでしょう。自分の目に丸太(梁)を付けたまま、兄弟に向かって、『あなたの目からオガ屑を取らせてください』と、どうして言えましょう。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からもオガ屑を取り除くことができるでしょう。

 求めなさい。そうすれば、与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかります。門をたたきなさい。そうすれば、開かれます。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれます。何事でも、してもらいたいと思うことを人に施しなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄です。

 この狭い門から入りなさい。多くの人は、広い門、広々とした道を入りますが、滅びの道です。命に通じる門は狭く、道は細く狭い。この道を見いだす者は稀です。

 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところにやって来ます。その人たちの心の内側は貪欲な狼です。正しいか正しくないかは、口先ではなく実を見れば分かります。実を結ぶ事があっても、茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。口先を見分けるのではなく実を見分けなさい。万事良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出します。

 口先の偽善の信仰は受取られません。私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではありません。天の父の御心を行う者だけが入ることができるのです。かの日には、大勢の者が私に迫り、『主よ、主よ、私たちも御名を唱え、預言を守り、御名によって悪霊を追い出し、奇跡を信仰の杖にして参りました』と言います。そのとき、私はきっぱりとこう告げます。『あなたたちのことは全然知りません。信仰を汚し不法を働く者どもよ、私から離れ去りなさい』。

 ここまで私が説いたことに得心がいったなら、あなた方は種蒔く人になりなさい。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行きました。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、すぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいました。ほかの種は茨の中に落ちました。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結びませんでした。ある種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。

 正しき信仰の御技はそういうものです。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。道端の信仰は、御言葉を聞いても、すぐにサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い去られます。石だらけの信仰は、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れますが、根がないのでしばらくは続いても、難渋が起こるとすぐにつまずいてしまいます。茨の信仰は、御言葉を聞けどもこの世の煩いや富の誘惑その他いろいろな欲望に御言葉を覆がれ実りません。良い土地に蒔かれた信仰は、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです。

 私のこれらの言葉を聞いてそのままに行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。岩を土台としてしっかりとした基礎を立てているからです。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどい」。

 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、同じ神の御名を口にしながら、これまで聞かされてきた律法学者たちの教えと違って、イエスの教えこそ本当の神の教えであることに感銘したからである。
 れんだいこ人生学院2
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 イエス伝
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 2008.6.4日 れんだいこ拝

【仏陀の博愛思想考】
 イエスの御教えと仏陀(釈尊)の御教えは多くの面で重なっている。仏陀は次のように述べている。(出典不明)
 「そしられてそしり返す者は敗れ、そしられてさしらぬ者は二重の勝利を制す。その人は相互の幸福を求む。我らを憎む者は憎まねば実に幸福に暮らし、我らを憎む者の中にありて憎しみより離れて生きる。よしや、凶賊が汝の四肢を断つともつとめて平静自若の心を抱け。ゆめにも悪口するなかれ。常に慈愛と善悪分別を旨とし、心に憎しみを抱くなかれ」。

【天理教教祖の助け合い思想考】
 イエスの御教えと天理教教祖中山みきの御教えは多くの面で重なっている。中山みきの御教えは「中山みきの教議考」に記す。これを比較検討することも面白かろう。

【「第一エノク書」考】
 「『第一エノク書』とその概要」が、「第一エノク書」について書き記している。「山上の垂訓」と似た訓示があるので、興味深い下りを抜粋しておく。

 「第一エノク書」とは、「エチオピア語エノク書」のことで、「1 Enoch」とも呼ばれている。他に、クムランの洞窟から発見されたヘブライ語の断片やアラム語の断片、またギリシア語やラテン語の断片があり、さらに、エチオピア語訳よりも短くまとまったスラブ語訳のもある。「エチオピア語エノク書」は、その大部分がアラム語で書かれ、これがギリシア語訳を通してエチオピア語へと訳されたと考えられている(村岡崇光訳『エチオピア語エノク書』)、とある。
92章  時勢に心を悩ませないがよい、聖なる方は、すべてのことに日を定められた。義人は眠りから覚めて義の道を歩むであろう。罪は永久に暗闇に葬られ、この日から永遠に現われることはない。
94章  知恵をあしざまに言い、知恵の場が見あたらないようにする者たちがいなくなることはない。わざわいなるかな暴虐と不法を築き、欺瞞を土台として家を建てる者、わざわいなるかな、富める者、あなたたちはその富を失う。あなたたちは涜神と暴虐を行ない、暗闇の日、裁きの日にふさわしい。あなたたちの創造者があなたたちを覆す。あなたたちの創造者はあなたたちの滅亡を喜ばれる。
95章  義人たちよ、罪人を恐れるな。わざわいなるかな、隣人に悪をもって報いるあなたたち。わざわいなるかな、偽りの証人となるあなたたち。わざわいなるかな、義人を迫害するあなたたち。あなたたちは滅ぼされ、迫害される。
96章  義人たちよ、希望を持つがよい。罪人の艱難の日に、あなたたちの子らは鷲のように高く登る。あなたたちは、暴虐が来ると兎のように大地の裂け目や岩の割れ目に入り込む。癒しはあなたたちのもの。光があなたたちを照らす。あなたたちは、天の安らぎの声を聞く。わざわいなるかな、富のゆえに義人のように見える者、あなたたちの良心が、あなたたちを告発する。わざわいなるかな、良質の麦を食い、下層の者を踏みつける者。わざわいなるかな、暴虐と欺瞞を行なうあなたたち。あなたたちの滅亡が来る。あなたたちの裁きの日に、義人たちには幸いな日が続く。
97章  義人たちよ、信ぜよ。罪人は恥をかかされ、暴虐の日にあなたたちは滅びる。義人たちの祈りが聞かれる裁きの日に、あなたたちはどうするつもりか。聖なる方の前で、あなたたちの暴虐の記録が読み上げられる。わざわいなるかな、銀と金を不正に手に入れて、富む者たち。「銀は集めたし、藏は満ち、家には宝がどっさり」と言うが、あなたたちは騙された。富はあなたたちの手には残らない。
98章  わたしは賢者と愚者に誓う。あなたたちは男なのに女のように化粧し、若い娘のように長袖をまとい、豪華、絢爛、権勢、金銀、威厳に浸り、ごちそうを食べる。彼らは、その財産と栄華と共に滅びる。彼らの魂は殺戮と赤貧のうちに火に投げ込まれる。罪は地上に送られたものではなく、人間が自分で生み出したもの。全てが天の至高者の前に記録されている。わざわいなるかな、あなたたち愚者は、その愚かさのゆえに滅びる。罪人に助かる見込みはない。贖いもなく、この世を去り、死に赴く。わざわいなるかな、心のかたくなな者、あなたたちに平安はない。わざわいなるかな、暴虐を行なう者。あなたたちは義人の手にわたされ、首を切られ、殺される。わざわいなるかな、義人たちの艱難を喜ぶ者、あなたたちの墓は掘られない。わざわいなるかな、義人の言葉をないがしろする者、あなたたちに救いはない。
99章  わざわいなるかな、偽りの言葉を褒めそやすあなたたち、あなたたちは滅び、救いも幸せも来ない。わざわいなるかな、真理の言葉を曲げるあなたたち、あなたたちは永遠の掟にもとり、自分は無罪だと思うが、あなたたちは地上で踏みにじられる。義人たちよ、その祈りを通して、天使たちの前に、彼らの罪を提出して、至高者に訴えてもらうがよい。その時もろもろの民は動揺し、その時、親は乳飲み子を放り出し、憐れみをかけない。罪は、流血の日に向けて備えられている。石を拝む者、木石粘土の像を拝む者、汚れた霊、悪霊、偶像を知識によらず拝む者、彼らは理性の愚かさのゆえに不敬虔になり、恐怖の夢と幻のゆえに目がかすむ。その時、知恵のことばを受け容れ、これを悟り、至高者の道を行ない、不敬虔な者と交わらない者は、さいわいである。わざわいなるかな、悪を隣人に広めるあなたたち、あなたたちは黄泉で殺される。わざわいなるかな、他人の労苦で家を建てる者、それは罪の煉瓦と石ではないか。義人と聖者たちは、あなたたちの罪を思い起こす。
100章  その時、父は子と共に殺され、兄弟は隣人と共に倒れる。血は河となり、人はわが子わが孫を殺す。罪人は自分の兄弟を殺し、明け方から日暮れまで殺し合う。馬は胸まで罪人らの血に浸って歩む。その日、至高者は、全ての罪人に大なる裁きを行なう。また聖なるみ使いによって、全ての義人を護る。その時、賢者たちは見て、この書の全ての言葉を悟る。わざわいなるかな、義人たちを苦しめ、彼らを火で焼く罪人たち、あなたたちはその行ないに対して報復を受ける。み使いは、天上で、太陽から、月から、また星から、あなたたちの行状と罪を調べ上げる。
101章  あなたたち天の子らよ(堕落天使たちへの呼びかけか)、天と至高者の業を観察せよ。彼があなたたちに怒りを発したらどうするつもりか。あなたたちは、彼の義について不遜なことをまくしたてたから、あなたたちに平和はない。海と水とその運動は、至高者の業である。彼がいさめると海は畏れるが、地上のあなたたち罪人は彼を畏れない。
102章  彼があなたたちに火の苦しみを投げつける時、あなたたちはどこへ逃れるつもりか。全ての光は大いなる恐れのゆえに揺らぎ、全地は振動して大混乱になる。み使いたちは命ぜられたことを成し遂げ、大いなる方から身を隠そうとする。地の子らはふるえおののき、罪人は永遠に呪われ、彼らに平安はない。義人よ、義のうちに死ぬその日を望むがよい。あなたたちの魂が黄泉に下っても嘆くことはない。あなたたちの肉体は、この世でふさわしい報いを受けなかった。罪人は「見よ、義人たちも俺たちと同じに悲嘆と暗黒のうちに死んだ」と言う。人の衣類をはぎ取り、略奪し、罪を犯し、人生を楽しむ者、義人たちの安らかな最後を見たか。だがあなたたちは言う。「彼らは滅び、この世にいなかったようだ。その魂は苦しみのうちに黄泉に下った」と。
104章
 さて義人たちよ、わたしは奥義を知っている。わたしは天の書板を見、聖者たちの書(「聖なる書」という読み方もある)を見た。義のうちに死んだ義人たちは、その霊魂が救われて喜ぶ。彼らの霊魂は滅びることなく、大いなるお方によって、世々代々まで覚えられる。わざわいなるかな、あなたたち罪人よ、あなたたちの同類はこう言う。「幸いなるかな、罪人は、彼らは天寿を全うし、幸福と富のうちに死に、悲惨や殺戮に逢わなかった。栄誉のうちに死に、罰を被ることもなかった。」彼らの魂は黄泉に引き下ろされ、悲惨な目に遭う。あなたたちの霊は、燃えさかる炎の中に入り、永遠の裁きが続く。

 生きている義人たちと善人たちに向かってこう言え。「われわれはあらゆる難儀を体験した。精根尽き果て、気力も衰えた。われわれは滅びた。言葉と行ないをもってわれわれを助けてくれる者はいなかった。救われる望みもなく、頭になるつもりがしっぽになり、難儀して働いても苦労は報われず、罪人の食い物にされ、乱暴者はわれわれの軛を重くした。われわれは、自分を憎む者に頭を下げたが、彼らは情けをかけてくれなかった。彼らから逃れたいと思っても、逃れる先がなかった。悲惨の中から訴えても、訴えは無視され、われわれの声を聞いてくれる者はいなかった」。
104章  義人たちよ、わたしはあなたがたに誓う。あなたたちの名は、大いなる方の前で、覚えられている。あなたたちの名は、栄光のまえに書きとめられている。あなたたちは空の光のように輝き、みんなの前に姿を顕わし、天の門は、あなたたちのために開く。あなたたちの叫びを、裁きを求め続けよ。それはきっと実現する。希望を持て。希望を捨てるな。あなたたちはみ使いたちのような大きな喜びに浸る。義人たちよ、罪人が威勢をよくしても恐れるな。彼らの不法から遠ざかれ。天の軍勢にくみせよ。罪人たちの罪はすべて毎日記録されている。心の中で不義を犯すな。嘘をつくな。真理の言葉を変えるな。聖なる大いなるお方の言葉を虚偽だと言うな。義人たちと賢者たちには、書が与えられ、喜びと真理と豊かな知恵のもととなるであろう。
105章  その時、地の子らを呼び寄せて、知恵について教え聞かせてやるがよい。あなたたちは彼らの道案内ではないか。わたしとわたしの子らは、真理の道において、永久に彼らと一体となる。あなたたちには平安がある。喜べ、真理の子らよ。アーメン。
108章
 悪をなす者どもが消される日を待ち望むあなたがたに告げる。悪をなす者の名前は、聖者たちの書から削られる。彼らの霊魂は、赤々と燃える炎の中で叫び、泣き、激しく苦悩する。しかし、天にその名前が記されている者たちは、悪人に辱められた霊魂で、彼らは神を愛して、この世のよいものを愛さず、その体を拷問に委ね、自分を過ぎ去る風と見なした。主は彼らを様々な試練に逢わせたが、その霊魂の浄さは証明された。現世での命よりも天を愛する者であることが分かった。主は彼らを輝く光の中へ導き出し、一人一人を栄誉の座に坐らせる。彼らはいつまでも燦然と輝くであろう。義人たちが輝く一方で、闇の中に生まれた者が闇の中に投げ込まれるのを見るであろう。彼らは、その処罰の日と時とが書き記されている場所へ立ち去る(108章)。




(私論.私見)