補足 | 「イエスの教義考、山上の垂訓考」 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).8.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝その他の記述を参照する。福音書のうちヨハネ伝には該当記述がなく、他の三伝ともこれを採り上げているが、それぞれ異なった記述をしている。これをそれぞれ検証した上で、れんだいこが意訳しつつ概要次のように宣べられたのではなかろうかと推定し「れんだいこ文/山上の垂訓」を纏めることにする。 「山上の垂訓」は、ヨハネの教えを更に磨いて練っており、時のユダヤ教の支配的仕組み、思想、論調を徹底的に批判している。信仰の内面性を重視し、教義に対する忠実さを求めており、一種の宗教革命を呼びかけている。非常に多岐にわたって論を展開しており、巧みに例えを使って諭しており、名言にちりばめられている。 「山上の垂訓」の論旨を要点整理すると、総論として、1・体制派の信仰批判、2・真の信仰の義の称揚、3・「愛の哲学」を諸事作法とせよの三観点を説いていることが判明する。それらは、パリサイ派の虚礼挙式、教義上の虚偽詐術、欲張り、蓄財主義、残忍、報復主義等々に対する自ずと手厳しい批判になっている。同じ神信仰でありながら、その昔よりパリサイ派系とイエス系のそれは相容れぬ真反対のそれであることが判明する。この二股分岐は現代にも続いているように思われる。ここに「山上の垂訓」考察の意義がある。イエスの御言葉とパリサイ派教説との軋轢と云う緊張感抜きにイエスの御言葉を拝するのは詰まらない。味で例えれば「気のぬけたビール」になってしまう。 ここでは、「山上の垂訓」説話、イエスのそれ以前に宣べられた御教え、以後に宣べられたイエス教義の三者を総合し、一括してイエス教義として検証考察することにする。「山上の垂訓」をイエス教の教義篇とすると、「イエスの12使徒に対する指導考」は実践篇であり、「イエス派のイスラエル神殿乗り込み時の論争」は論駁篇となる。「山上の垂訓」にはこういう位置づけもある。 2006.11.2日再編集、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝 |
【「山上の垂訓」の論理考】 | |||||||||||||||
イエスの教義を総論と各論に仕分けして整理してみる。まず、イスラエルの律法学者及びパリサイ派、次にサドカイ派(これらを仮に神殿本部派と云うことにする)の信仰実態を次のように批判している。これを仮に「総論1、神殿本部派(律法学者、サドカイ派、パリサイ派)の信仰実態批判」とする。 イエスは、ヨハネ教義を継承して次の御言葉から説き起こしている。
以下、神殿本部派の説く教義を全面否定し、諄々と新しい道を説いた。イエス教義はここに歴史的意義が認められる。イエスは、神殿本部派に対して次のように批判した。
次に、イエスは、神の御業を畏敬し、その偉業を信奉するよう宣べ、信仰に於ける真の信仰の意義を次のように称揚している。これを仮に「総論2、全知全能の神の御業(技)を知れ。真の信仰の義の称揚」とする。
次に、イエスは、「この世で一番大事なものは愛である。人は須らく愛で応接せよ」と宣べ、全てを癒す新しい思想として次のように「相互博愛主義」を諭している。これを仮に「総論3、愛の哲学を諸事作法とせよ」とする。
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【「山上の垂訓」各論概括】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以上を総論として、各論的に次のように宣べている。
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【「山上の垂訓」の論法考】 | ||||||||||||||||||||||
「山上の垂訓」は非常に多岐にわたっている。これを整理し運動論で見れば次のような論法になっているのではなかろうか。
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【「マタイによる福音書」の山上の垂訓】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「マタイによる福音書第5章による山上の垂訓」は次の通りである。れんだいこがこれを意訳する。原文から当りたいが今は叶わぬ。
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以下、マルコ伝、ルカ伝の「山上の垂訓」を確認することにするが、別の機会に譲る。 |
【「山上の垂訓」前置き】 |
釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書四書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のうち、ヨハネ伝を除く三書がそれぞれの「垂訓」を記している。ヨハネ伝に無いと云うことは、ヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。れんだいこは、他の三書がキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを理解せんとしている違いと見立てたい。ここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。 それはともかく、マルコ伝の場合は、「湖畔の垂訓」となっている。ルカ伝の場合には「山上の垂訓」であるが、マタイ伝の場合、12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっているという違いが有る。そういう違いは有るが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。 問題は次のことに有る。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差も有り却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。れんだいこは、福音書による山上の垂訓」が、イエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「山上の垂訓」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。 例えば、次のような言葉は云うはずかない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事は無かろうに。 この種の捏造文がこの後続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として、本当は次のように述べたのではなかろうかとれんだいこが概要推定して御言葉にしてみることにする。 |
【「山上の垂訓」れんだいこ推定訳】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
ここで、「れんだいこ推定訳/山上の垂訓」を記しておく。
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Re:れんだいこのカンテラ時評407 | れんだいこ | 2008/06/04 |
【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】 釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書四書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のうち、ヨハネ伝を除く三書がそれぞれの「垂訓」を記している。イエスを語るうえで最も重要な箇所となる「山上の垂訓」に対する言及がヨハネ伝に無いと云うことは、ヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。れんだいこは、他の三書がキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを「理解」せんとしている違いと見立てたい。ここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。 それはともかく、マルコ伝の場合は「湖畔の垂訓」となっている。ルカ伝の場合には「山上の垂訓」であるが、マタイ伝の場合は12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっているという違いがある。そういう違いはあるが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。 問題は次のことにある。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差もあり却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。れんだいこは、「福音書による山上の垂訓」が、イエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「山上の垂訓」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。 例えば、次のような言葉は云うはずがない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。ちょっと待て!イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事はなかろうに。 この種の捏造文がこの後続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として、本当は次のように述べたのではなかろうかとれんだいこが概要推定して御言葉にしてみることにする。 ----------------------------------------------------- イエスは付き従う人々と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。既に、大勢の弟子とおびただしい数の民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、あるいは病気を癒していただくために来ていた。イエスは、御技で、汚れた霊に悩まされていた人々を癒した。群衆は皆なイエスの霊気の裾分けを得ようとして何とかしてイエスに触れようとした。一通りの手当をした後、イエスは目を上げ弟子たちを見てこう宣べられた。 「未だ至らない者として自覚している謙虚な人たちは幸いです。天(神)の国はあなた方の為に開かれています。悲しむ人々は幸いです。あなた方は慰められます。柔和な人々は幸いです。あなた方は神にも好かれます。義に飢え渇く人々は幸いです。あなた方は満たされます。憐れみ深い人々は幸いです。あなた方は恵みを受けます。心の清い人々は幸いです。あなた方は神を見ます。平和の為に尽す人々は幸いです。あなた方は神の子と呼ばれます。義のために迫害される人々は幸いです。天の御国はあなた方を癒します。 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなた方には天において大きな報いがあります。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害され、天の国で癒されました。 あなた方は地の塩です。地に塩気がなくなれば、何によって塩味がつけられましょう。あなた方は世の光です。山の上にある町は四方の印になります。灯し火を下に置く者はいません。燭台の上に置きなさい。そうすれば、家の中のものすべてを照らします。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父を崇(あが)めるようになるでせう。 私が来たのは律法や預言者を破棄する為ではありません。私は、破壊する為ではなく、律法や預言者の御言葉を成就しようとしています。はっきり言っておきます。天地が消えうせない限り、律法の文字が一点一画もすたれることはありません。 律法学者やパリサイ派の人々は、これらを捻じ曲げています。このことに気づかねばなりません。言っておきますが、あなた方の信仰の義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさらなければなりません。これが叶わない限り本当の信仰が生まれず、あなた方は決して天の御国に入ることができません。 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださります。この愛を学びなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、報われるほどのものではありません。嫌われ者の徴税人でも同じことをしています。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、優れたことをしたことにはなりません。天の父を見ない人でさえ同じことをしています。あなた方は、あなた方の天の父が為されているように全ての人に慈愛を注ぎなさい。これが、私達の信仰の基本になるべきです。 人に見せる為に人前で善行をするようなことをしないように気をつけなさい。天の父は、そういう善行を受け取りません。天の父の報いをいただけないことになります。あなたが施しをするときには、偽善者たちが会堂や街角でするような、注目を得る為のラッパを吹き鳴らしてはなりません。あなた方に言っておきます。彼らは既に地上で報いを受けており、それ以上の報いを受取る事はできません。それ以上の報いを受取る事はできません。 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはなりません。あなたの施しを人目につかせないためです。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が働き、あなたに報いてくださります。祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはなりません。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがります。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が働いてくださります。そこでこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。 断食するときには、あなた方は偽善者のように沈んだ顔つきをしてはなりません。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうとして顔を見苦しくします。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。 あなた方は地上に富を積んではなりません。そこでは虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりします。富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さびつくこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともありません。あなたの心に富を積みなさい。 体のともし火は目に表われます。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るく、濁っていれば暗くなります。あなたの中にある光が消えれるに応じて暗くなります。体のともし火を輝かしなさい。 神を取るか富を取るか。誰も、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかです。あなた方は神と富の両方に仕えることはできません。 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩まないようにしなさい。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切です。これを逆にする者たちの信仰に染まってはなりません。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。それでも、あなた方の天の父は鳥を養ってくださります。あなた方は、鳥よりも優れたものではないですか。 あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができましょう。なぜ衣服のことで思い悩むのでしょう。野の花がどのように育つのか、注意して御覧なさい。働きもせず、紡ぎもしません。言っておきますが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも美しく着飾ってはいませんでした。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださります。まして、あなた方にはなおさらのことではないですか。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩む必要がありません。それらは皆、神の義の信仰に疎い者達が切に求めているものです。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じです。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます。だから、明日のことまで思い悩む必要はありません。明日のことは明日自らが思い悩みます。その日の苦労は、その日だけで十分です。 私の言葉を聞いているあなた方に言っておきます。あなた方を苦しめる者を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。求める者には与えなさい。 あなた方の敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となることができます。神の御名を唱えながら仕返し、報復を好む人たちがいます。これを互いにやれば果てしのない連鎖を招きます。それは神の御心に叶いません。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い人になりなさい。 神の御名を唱えながら人の過ちを過度に懲らしめ人たちがいます。神の御心に叶いません。もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになります。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。 神の御名を唱えながら安易に人を裁く人たちがいます。これに従ってはなりません。神の御心に叶いません。あなた方も裁かれないようにするためです。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られることになります。 あなたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのでしょう。自分の目に丸太(梁)を付けたまま、兄弟に向かって、『あなたの目からオガ屑を取らせてください』と、どうして言えましょう。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からもオガ屑を取り除くことができるでしょう。 求めなさい。そうすれば、与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかります。門をたたきなさい。そうすれば、開かれます。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれます。何事でも、してもらいたいと思うことを人に施しなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄です。 この狭い門から入りなさい。多くの人は、広い門、広々とした道を入りますが、滅びの道です。命に通じる門は狭く、道は細く狭い。この道を見いだす者は稀です。 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところにやって来ます。その人たちの心の内側は貪欲な狼です。正しいか正しくないかは、口先ではなく実を見れば分かります。実を結ぶ事があっても、茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。口先を見分けるのではなく実を見分けなさい。万事良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出します。 口先の偽善の信仰は受取られません。私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではありません。天の父の御心を行う者だけが入ることができるのです。かの日には、大勢の者が私に迫り、『主よ、主よ、私たちも御名を唱え、預言を守り、御名によって悪霊を追い出し、奇跡を信仰の杖にして参りました』と言います。そのとき、私はきっぱりとこう告げます。『あなたたちのことは全然知りません。信仰を汚し不法を働く者どもよ、私から離れ去りなさい』。 ここまで私が説いたことに得心がいったなら、あなた方は種蒔く人になりなさい。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行きました。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、すぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいました。ほかの種は茨の中に落ちました。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結びませんでした。ある種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。 正しき信仰の御技はそういうものです。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。道端の信仰は、御言葉を聞いても、すぐにサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い去られます。石だらけの信仰は、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れますが、根がないのでしばらくは続いても、難渋が起こるとすぐにつまずいてしまいます。茨の信仰は、御言葉を聞けどもこの世の煩いや富の誘惑その他いろいろな欲望に御言葉を覆がれ実りません。良い土地に蒔かれた信仰は、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです。 私のこれらの言葉を聞いてそのままに行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。岩を土台としてしっかりとした基礎を立てているからです。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどい」。 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、同じ神の御名を口にしながら、これまで聞かされてきた律法学者たちの教えと違って、イエスの教えこそ本当の神の教えであることに感銘したからである。 |
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れんだいこ人生学院2 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/) れんだいこ人生学院1 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/) イエス伝 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/yesden/yesden.htm) 2008.6.4日 れんだいこ拝 |
【仏陀の博愛思想考】 | |
イエスの御教えと仏陀(釈尊)の御教えは多くの面で重なっている。仏陀は次のように述べている。(出典不明)
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【天理教教祖の助け合い思想考】 |
イエスの御教えと天理教教祖中山みきの御教えは多くの面で重なっている。中山みきの御教えは「中山みきの教議考」に記す。これを比較検討することも面白かろう。 |
【「第一エノク書」考】 | ||||||||||||||||||||||||||||
「『第一エノク書』とその概要」が、「第一エノク書」について書き記している。「山上の垂訓」と似た訓示があるので、興味深い下りを抜粋しておく。 「第一エノク書」とは、「エチオピア語エノク書」のことで、「1 Enoch」とも呼ばれている。他に、クムランの洞窟から発見されたヘブライ語の断片やアラム語の断片、またギリシア語やラテン語の断片があり、さらに、エチオピア語訳よりも短くまとまったスラブ語訳のもある。「エチオピア語エノク書」は、その大部分がアラム語で書かれ、これがギリシア語訳を通してエチオピア語へと訳されたと考えられている(村岡崇光訳『エチオピア語エノク書』)、とある。
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(私論.私見)