| 10、囲碁の歴史 |

(最新見直し2007.3.7日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 「囲碁の歴史」なるサイトがある。どうやら日本棋院の作成らしい。これを転載しておき、次第にれんだいこ風に書き改める予定である。(日本棋院様、堪忍やで) 基礎中の基礎知識として知っておきたい。 2005.4.28日 れんだいこ拝 |
| 【「囲碁の呼称」と表記】 |
| 囲碁は別名「爛柯」(らんか)とも云われる。柯は斧の柄のことで、「斧の柄がくさり果てる」という意味である。中国の晋の時代の伝説で、王質という木こりが山中で四人の童子たちが碁を打っているのをみているうち、時のたつのをすっかり忘れていた。気が付くと持っていた斧の柄が腐りはてており、驚いて家に帰ってみれば昔の人はみんな死んで一人もいなかったという故事(「述異記上」)から生まれた雅称である。 又、「忘優」(ぼうゆう)とも云われる。晋書の中に「我亦忘優耳」(われまた憂いを忘るるのみ) とあり、これが史上初の登場といわれる。「坐隠」(ざいん)、「手談」(しゅだん)とも云う。「世説新語」(巧芸編・劉義慶)の中で、「王中郎((担之)は囲棊を以て是れ坐隠なりとし、支遁(支道林)は囲棊を以て手談と為す」とある。「顔氏家訓」(雑芸)にも、 「囲棋は手談・坐隠の目にあり、頗る雅戯となす」とある。この言葉は日本にも比較的早く移入されており、 「日本紀」(875年)や菅原道真(845〜903)の囲碁のうたった漢詩の中に出てくる。 囲碁はその昔、「棊・奕・棋」とも書かれている。記録に表れたもっとも古い文字は、甲骨文の「棊」。中国呉の時代(222〜280)に書かれた「博奕論」(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、同時に三百個が1セットだったことも示されている。古代中国では元来、日本とは異なって碁石に適した自然石が少なく、身近な潅木などから手作りしたものと思われる。日本の寛永年間(1624〜1644)に編さんされた「玄玄棊經俚諺鈔」という版本に、「碁石は元と木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。「棊」は「棋」と同様、古代は「碁石」を意味していたことになる。 いわゆる「囲碁」のことを意味する古い言葉として「奕」がある。「『春秋左氏伝」(左丘明)という書物の襄公25年(紀元前548年)の条に、 「君を視ること奕棋に如かず」と書かれているのが初見である。「奕棋」の 二文字が連結して使われている。 時として「奕」も使われるが、これは俗字で「重なる」「大きい」 「美しい」という意味で、「博奕」と書いて「ばくち」と読ませる。 紀元1世紀末にできた最古の辞書「説文解字」には、「奕は圍棊也」とあり、 「圍棊」は文字どおり「棊(碁石)を圍む」ことを意味している。 「碁」の文字は、古今を通じて書聖と謳われている王義之(307〜365?)によって書かれている。 なお、「圍碁」については唐代の顔眞卿(709〜785)が「圍碁百事忘」と書 いている(『竹山連句』)。 |
| 【「孔子と孟子の囲碁観」】 | ||
| 「オープニング宇宙(うちゅう)」を転載、参照する。 | ||
| 古代中国の易や天文の摂理をつかさどる王侯貴族の"聖技"(ないし閑 技?)といってもよい囲碁は、次第に戦争における用兵や兵法の研究
用具である"戦技"として尊ばれ、さらに僧侶や知識階級へと波及して いった。この頃には、いわゆる勝負を争う"遊技"へと変貌を遂げ
ていたと思われる。 春秋時代の代表的な思想家で、儒家の祖といわれる孔子(前551 〜前479)は、「論語」(陽貨第十七)の中で次のように述べている。
孔子の囲碁効用論である。 孔子より179年あとに生まれた孟子(前272〜前289)は、「孟子」 (告子章句上)の中でこう述べている。
別の章では、博奕=囲碁そのものを悪とみなしているほどでもないが、「酒を飲みながら碁を打ち、父母の孝養を顧みないのは不幸である」といっている。当時、すでに囲碁の熱中弊害が問題になっていたことが分かる。 |
| 【 囲碁のはじまり】 | |
| 「1、囲碁のはじまり」を転載、参照する。 | |
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囲碁のはじまりは、四千年ぐらい前の中国と云われている。インドと云う説もありはっきりしたことは分からない。昔、中国の王様(=尭・舜帝)が、囲碁を創って子どものしつけのため、教えたという伝説がある。又、碁盤は宇宙、碁石は星を表しており、暦(カレンダー)や占いに使われていたという話もある。
中国の古書に囲碁が登場するのは、紀元前770〜前221年頃の春秋・戦国時代である。囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まっていた。古くから中国では、知識人の嗜みとして「琴棋書画」(きんきしょが)を習わせた。琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことを指す。 三国志の英雄たちも囲碁をしたんだ。呉(ご)の孫策(そんさく)と呂範(りょはん)の囲碁を打った記録(=棋譜)がある(忘憂清楽集)。戦いで怪我をした関羽は馬良と囲碁をしながら華陀という医者に毒矢の傷の手術をうけたという話もある(三国志演義)。 シルクロードの要衝として有名な敦煌は、490余の石窟群の存在やシルクロードの要衝として著名である。1899年頃、第16石窟からおびただしい経典や古文書が発見さ れ、いちやく世界中の注目を浴びた。一万点を超える文物の中に、ほぼ完全な「碁経」が一巻含まれていた。 巻物 は北周時代の写本といわれ、「世界最古の棋書」となる。長い間大英博物館に眠っていたが、1934年に中国の張萌麟(元清華大教授)が「碁経」を見出して「國聞週報」ではじめて紹介した。 現在最古の棋書(碁書)は、北宋徽宗(在位1100〜1125)の時代に 成立した「忘憂清楽集」と相場が決まっていた。 編者は不明だが、木こりの王質と仙人の対局譜から後漢の武将・孫 策と呂範の局、晋の武帝(司馬炎)と王済の局、唐の玄宗と鄭観音の局などが収録されている中国の棋書である。 かなり古い時代の碁を取り上げているが、碁譜の信憑性について は大いに疑問の残る本といわれている。 例えば、「坐隠談叢」の改補者であり、「中国古棋譜散歩」の編者でもある渡辺英夫プロは、次のように述べている。
孫策と呂範の棋譜は1700年以前であり、晋の武帝の棋譜も1690年前の話になる。20世紀に入ってから出土した古代の基盤を見る限りでは、この当時には19路盤を使用した形跡が少なく、第 一、これほど古い時代から棋譜を残す習慣があったのか、という疑問 が浮かぶ。 北宋期以降の棋譜は本書の成立時期と同時代で、登場人物も実在とみなされるので本物と見てもよくその他は"作り物"ないし"遊び心"の発露 と見るのが無難である。渡辺説を尊重して従来の「孫策・呂範局」を作り物と判定し、閻景実・顧師言局ないし賈玄・希燦局を便宜的に最古の棋譜とする。 |
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| 三国志の中に登場する英雄、賢者たちと囲碁は、かなり関わり を持っている。魏の太祖である曹操は、「古今稀にみる兵法家であり、一流の詩人であり、
書も上手、音楽、建築にも通じた多才多芸の人物で、特に囲碁を好み、その 技量は抜群だったと伝えられている」(「古代囲碁の世界」)。当時の囲碁の名手と対等の腕前だったという。 蜀の豪傑の関羽も囲碁好きで有名な武将で、特に三国志演義での次の場面はあまりにも有名である。
呉でも囲碁が盛んだったようで、「朝廷、群臣のあいだに碁が盛んで、政務を怠りがちなものもあったようだ。これを訓戒する文章なども出ている」(『古代囲碁の世界』)ほどだったという。当時の書物『葦曜傳』に、「一面の碁盤と国の政治とどちらをとるか。三百の碁石と万人の将兵とどちらをとるか」とある。 呉の国は孫権が建国したが、孫権の兄の孫策が囲碁の愛好家で、同じ愛好家である臣下の呂範と打ったとされる棋譜が残っている。 ただ、孫策と呂範が囲碁愛好家であったことは種々の書物に載っているが、 この頃に「19路盤の対局譜」が存在したことについては、後世において疑問視されている。 武将ではなく、文人、墨客、詩人らの知識人らも、乱世を憂いつつ、詩を吟 じ、文学を論じ、そして囲碁に興じていた。 建安年中(196−220年)に輩出した孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮う (王偏に禹)・応とう(王偏に昜)・劉?驍轤?「建安七子」といい、特に王粲は博覧強記、囲碁の名手として後世に知られている。自分の打った碁に 限らず、人の碁を見ていて、始めから終わりまでの手順を復元することは朝飯前だったという。 西晋時代に入ると、戦塵を逃れて奥深い竹林で清談に明け暮れたのが、よく 屏風に囲碁を打っているさまを描かれている、有名な「竹林七賢」である。 阮うの子の阮籍はその中の一人で、たまたま碁を囲んでいるときに母親の死を知らされたが、阮籍は対局を止めようとせず、そのまま打ち続けて勝ちを収めたというエピソードの持ち主である。「親の死に目に会えない」という 日本の諺の"元祖"のような人物となっている。 玄宗皇帝の囲碁外交。中国唐代は囲碁の世界においても隆盛をきわめていた。特に玄宗の囲碁好きは抜きんでており、当時、周辺諸国にも大きな影響をあたえている。 玄宗(在位712〜756)は唐の第六代目の皇帝。壮年期は「開元の治」と呼ばれ、英主の名をほしいままにしていた。太平の治世にあって学芸、 文化、仏教などを大いに栄えさせ、その勢威は東アジア全域にとどろいたという。 晩年にいたり政治を顧みることを放棄して楊貴妃を溺愛、ついに安史の乱によって長安を追われ、乱が収まり長安に帰って悲運のうちに生涯を終えた。 玄宗の時代は特に日本からの遣唐使は四回あり、養老一年(717)には阿部 仲麻呂、吉備真備らが入唐している。玄宗が帝位につく前の名を李隆基といい、日本の留学僧・弁正とよく対局していたことが、日本側の書物によって記録されている。 「弁正法師・・・大宝中唐国に遣学す。時に李隆基竜潜の日(世に出てい ない時)に遭う。囲棊を善くするを以て、屡賞遇せらる」(『懐風藻』より。 後年の『本朝高僧伝』にも同様の記事があります。) 玄宗の時代には特に、囲碁の波は周辺諸国にも広がっていた。新羅の聖徳王が亡くなられた時、特使節として??を派遣し、碁に堪能な楊季 膺を副使として随行させていたことが、朝鮮の現存最古の歴史書『三国 史記』(新羅本紀)に載っている。 新羅の皇太子も囲碁を好んでいたので、副使に相手をさせるためだった という。 チベット、古代ベトナムでも囲碁が打たれていたという。 |
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| 碁盤、碁石→碁盤・碁石のひみつ |
| 【2、日本への伝来】 |
| 囲碁が日本に渡ってきたのはいつごろか、これもはっきり分かっていない。607年、推古天皇の時代に遣隋使の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた手紙を持たせた。その手紙を見た隋の皇帝は怒って「無礼な手紙だ。日本(=倭)がまた何を言ってきても二度と私の耳に入れるな」と怒ったが、翌年、文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を隋の使いとして日本に送ってきた。 608年、隋の裴世清は、日本に来ていろいろなことを調べ、体験したことを記録した(隋書・倭国伝)。その中で、日本人が囲碁を好むことを記している。奈良時代に吉備真備が遣唐使として唐から持ち帰ったという説があるが、それ以前から日本に囲碁が打たれていたことになる。記録は残っていないが、5世紀ころ朝鮮を通してほかのいろいろなものと一緒に渡ってきたという説が有力とされている。 『出雲風土記』(七三三頃成立)に「玉結浜」の伝説があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。してみれば、日本に相当古くから囲碁が存在していたことになる。 |
| 【3、囲碁の拡がり】 |
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701年、大宝律令が定められた。これは隋や唐のような強大な国づくりをめざし、政治、学校、土地、身分などを取り決めた法律であるが、その中の僧尼令(そうにりょう)にスゴロクやバクチは禁止するが、碁琴(ごきん)は禁止しないという法律が定められている。奈良の東大寺大仏殿の北西にある正倉院に、聖武天皇(701ー756)の遺品や当時の記録・品物が多くおさめられているが、中に碁盤や碁石も保存されている。
碁盤は3面、碁石は4種類が保存されていて、碁石の一部は百済国の王である義慈王が日本の大藤原鎌足(614ー669)に贈ったものと記されている(東大寺献物帳)。碁盤は3面のうち、「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)が有名である。 平安時代、醍醐天皇が囲碁が好きで、当時の一番の名手(めいしゅ)であった寛蓮上人(かんれんしょうにん)とよく囲碁をしたとある。金の枕を賭けた話が伝えられている。囲碁に夢中になりすぎて挨拶にきた来客を無視したため戦争の原因となったことも伝えられている(後三年の役)。 当時の文学として、紀貫之らがまとめた「古今和歌集」、紫式部の「源氏物語」、清少納言の随筆「枕草子」などに囲碁が登場する。宮廷を中心にした貴族社会では囲碁を非常に好んだことがわかる。囲碁は僧侶や、貴族、宮廷の女性たちだけでなく、さらには、武士たちにも広まっていった。 |
| 【補足、紫式部の「源氏物語」の囲碁場面】 | |
「源氏物語」の中の囲碁描写。平安時代に紫式部が書いた、世界に誇る長編恋愛小説「源氏物語」54四帖の中に、「囲碁」の話が随所に登場してくる。かの貴族社会に於いて、女性の間に囲碁が盛んになって流行し、小説の中に囲碁術語や囲碁用語がふんだんに登場している。囲碁の対局風景の描写から、紫式部が囲碁の手段に通暁しており、また、その造詣の深さと的確な表現からしても、今日でいう有段者、それ以上の実力を有していたと思われる。
その囲碁描写で、もっとも有名なくだりは「空蝉(うつせみ)」の 中の次の条文である。
これは空蝉と軒端の二人が対局している場面で、現代訳で大意を表現すると、 「碁が大方終わって、ヨセの段階に入ったとき、緊張が解けて(周囲の女房たちが)騒がしいのを、奥の人(空蝉)が静かに押しとどめ、『待ってください。そこはセキ(持)ではありませんか。こちらのコウ(劫)のところを打つべきですよ』などと言うと、 (軒端は)『そうですね、この度は負けました。隅のあちらこちらの地を数えましょう』と指を折り、『とう、はた、みそ、よそ』な どと数える様子は、伊予の国(道後温泉)の湯槽を数えるようにたどたどしく見える」 となる。 この表現から、紫式部は相当の棋力を持っていたことが窺われる。注目すべきは「十、二十、三十、四十」と地を勘定するくだりで、これだけでは、「中国ルール」か「日本ルール」なのか判然としないが、前段の「隅のところどころをいでいで(数えん)」とあることから、 "隅の地を10目ずつ区切って、数えやすく作っている"ことが分かる。こうした表現から類推すれば、当時の日本において、既に古代の中国や百済の碁法を採用せず、変わってきていることがうかがわれる。 また、「宿木」の帖だけに、帝と薫の君による男性同士の対局場面 が描写されている。 帝が、皇女二宮の婿にと望んでいた中納言である薫の君と三番勝負 を打つが、薫の君が二番勝ち越せば姫君を嫁に差し出すとい う設定で、帝がわざと勝負に負けるという筋書きの物語である。 これと別の帖では、「打ちさして(打ち掛けて)」 「手直し(手直り)」「先指させ(先番で打たせる)」など、かな りの対局経験がないと使えない囲碁用語が出てくる。 これらのきわめて具体的な描写から察して、紫式部の確かな棋力を 読みとることができる。 |
| 【4、鎌倉・室町時代】 |
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宮廷、貴族に広まった囲碁は、武士、僧侶などの知識階級へ、さらに農業、商業の人々の間にも広まっていった。
1199年、玄尊(げんそん)が囲碁の戦術や礼儀作法、取り決めなどを書いた「囲碁式(いごしき)」を定めた(群書類従)。 1253年、僧侶の日蓮と弟子の日朗が打った碁の記録(棋譜)が残されている。現存するもっとも古い棋譜といわれている、本物かどうかは不明。ただ自筆の教本にも碁の記事がみえるところから、日蓮が囲碁を打ったことは間違いない。また、同じ年に僧侶同士(法探坊と刑部坊)の打った碁でルール問題(両コウ問題)が起きている。 当時の文学として歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」、「太平記」、吉田兼好の随筆「徒然草」などにも囲碁に関わる記述がある。 1530年頃、中国の明の林応竜が囲碁の本を作成した(「適情録」20巻)。その中に、虚中(きょちゅう)という日本の僧侶がつくった碁の図が384余り入っている。虚中という人物は誰なのかわかっていないが、日本の碁が中国と同じくらいのレベルまでに達していたと推定される。 |
| 【5、安土桃山から江戸へ】 |
| 安土桃山時代から江戸時代はじめは、大名、大商人が中心として活躍した時代、囲碁が隆盛している。 1578年、織田信長は日蓮宗僧侶の日海と会う。信長は囲碁の上手な日海の対局をみて「名人」と称えた。これが名人という名前の始まりとされている。日海は後に本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)となる。日海(幼名を加納與三郎という)は1559年生まれ、京都寂光寺の門に入る。日海は寺の塔頭(たっちゅう)「本因坊」で暮らしていたので、後に本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)とその名でよばれるようになる。 1582年、日海は本能寺の変の前夜、信長の御前で日蓮宗僧侶の利玄と対局したと伝えられている。ところが、三コウという珍しい囲碁の形ができ、無勝負となったと伝えられている。三コウ(さんこう)を不吉の前兆とするのはこの時からである。 豊臣秀吉は本能寺で信長を攻めた明智光秀を討ち、1585年、関白となり治安の回復を待って日海をよびよせた。1585年、1588年に、今でいう全国大会を催し、御前試を行い、日海が優勝した。 1587年、日海は駿河(するが)に入り徳川家康と碁を連日連夜打った記録が残されている。1588年、秀吉は日海に碁の役職(官賜碁所)を与えた。これが碁所(ごどころ)のはじまりといわれている。活動力のある日海は信長、秀吉、家康の碁好きに仕えた。信長、秀吉、家康ともに日海に五子の手合だったといわれています。 |
| 【6、名人碁所の誕生】 |
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1603年、徳川家康が征夷大将軍となったとき、日海がお祝いに参上して、家康と五子で対局をしている。その後、家康の指示で日海は寂光寺を弟の日栄に譲り、隠居して本因坊算砂」と名のり、「名人碁所」に任ぜられた。日海は幕府公認のプロ棋士となった。
1626年、御城碁が始まる。それ以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになる。御城碁は毎年1回江戸城で打たれ、徳川吉宗の時代には(1716年から)家康の命日にちなんで、毎月11.17日と対局日も決められた。1861年までに全部で530局ほど対局された。 碁所の仕事は天覧碁の組織、将軍の指南、免状の発行、全国棋士の統一などで、名人でなければ碁所にはなれなかった。やがて本因坊につづいて、井上、安井、林の家元四家で碁所を争うようになる。(歴代名人就位一覧、 歴代家元四家一覧) 四家の家元制が確立し碁界が組織的に安定してくると、碁所をめぐって勢力争いが起こった。三代将軍家光のとき、碁所をめぐって話し合いがつかなくなり、幕府の命によって囲碁で決着をつけること(争碁)になった。幕府は二世本因坊算悦と二世安井算知の二人に二十番の争碁を命じた。1645年の御城碁(おしろご)を第1局として、その後9年間にわたって6番まで争ったが、お互いに黒番を勝ち引分けた。死闘の戦いもここまでとし、碁所は一時預かりとなった。その後、算悦は48歳で病死したため、算知が1668年、碁所に任ぜられた。 これを不服としたのが算悦跡目である本因坊道悦で、道悦は将軍の意に反して争碁を申込み、負けたら遠島(えんとう)も覚悟の上で打った。1676年、道悦が12勝4敗4ジゴで勝ち、算知は引退した。が、道悦も公儀で決めた碁所に異議を申し立てた責任をとって自分の跡目を道策にゆずって引退した。 1677年、四世本因坊道策が碁所に任ぜられても、異議を申し立てる者はだれもいなかった。最強という評判どおり、道策の実力は十三段といわれ、誰も勝てなかったからであった。本因坊道策は名人の中でも特にすぐれていたので、後に「碁聖」といわれた。(道策は前聖、秀策は後聖とたたえられ、二人とも碁聖といわれている。) 大天才の道策は、安井流とよばれた当時の古いタイプの手法に変革を加え、合理的な碁を創り上げた。合理的な手割、全局的な布石の観点によるその手法は後に、道策流と称されるほど画期的なもので、日本の碁は道策が創作したともいわれている。 道策が亡くなった後も争碁は続き、江戸時代に6回行われた。碁所をめざし御城碁や、家元四家で真剣にお互いの技量を磨いたことが進歩発展につながった。雪の碁盤は、東京市ヶ谷の日本棋院1階に展示されています。同じ一本榧(かや)の木から雪・月・花の三面の名盤が作られ、徳川幕府の碁所で、打ち初(ぞ)めなどに使用された。 |
| 【7、江戸時代】 |
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1800年代に入ると、囲碁界は黄金期を迎える。江戸後期には商業経済の発達によって新しい町人階級から豪商が生まれ、農業でも豪農がでてくる。豪商・豪農はしばしば中央の碁打ちを招待したり、地方在住の碁打ちを優遇した。そのため碁打ちはよく、全国を旅回りした。(文化文政時代には十一世本因坊元丈、八世安井仙知、十二世本因坊丈和、十一世井上因碩、十一世林元美等が、また天保・弘化・嘉永時代には、本因坊秀和、本因坊秀策があり、その他天保四傑と呼ばれる伊藤松和、安井算知、太田雄蔵、坂口仙得らがとりまき、まさに黄金時代となった)
十一世本因坊元丈(1775年生)と八世安井仙知(幼少名は知得、1776年生)は良きライバル同士で、年も近く少年時代からの大親友でもあった。この二人はともに全力をあげて戦い、碁所になってもおかしくはない実力をもっていながら、譲り合って二人とも碁所にならなかった話が残されている。元丈も仙知も、碁一筋で盤上以外での争いごとを嫌った。 その後、丈和(じょうわ)・因碩(いんせき)の代になると一変して、碁所をねらって盤上以外での策略を双方が行い、スキャンダルをひきおこすことになる。 1831年、十二世本因坊丈和が名人碁所となるが、1835年、老中松平周防守碁会で丈和と赤星因徹の対局を因碩が企てた。因徹は因碩(いんせき)の弟子、もし因徹が勝って丈和が負けることになれば、名人の資格はないものと引退させることを考えていた。壮絶な戦いの末、因碩の思惑ははずれて丈和が中押しで勝ってしまった。胸の病をわずらっていた因徹は試合に負けた直後、吐血して亡くなるという悲劇的な結末となった。これが有名な因徹吐血(いんてつとけつ)の局である。 1839年、結局丈和もわずか在位8年で幕府から引退を命じられてしまう。丈和が引退したあと1840年、因碩は自ら秀和との争碁にのぞみ、三連敗し因碩は碁所を断念する。 1837年、10歳の秀策は丈和の門に入る。彼の抜き出た碁の才能に師の丈和は「150年以来の棋豪(きごう)である」といって、とても喜んだと伝えられている。本因坊秀策は、道策とともに碁聖とたたえられている。 1846年、因碩と秀策の対局で形勢の良かった碁を秀策の打った妙手で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった。この碁は結局秀策の3目勝ちとなった。これが有名な「耳赤(みみあか)の妙手」といわれている。 1848年、秀策は秀和の跡目となり、1861年御城碁が中止されるまでの13年間、19局全勝の大記録をつくった。秀策があみだした布石法は後に「秀策流」といわれ、明治後半から大正にかけてのコミなし碁時代の先手必勝法として、大いに研究され現在にまで伝わっている。 1862年、秀策は流行したコレラのため、残念なことに34歳の若さで病死した。 |
| 【8、明治・大正期】 |
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1867年、大政奉還となり、明治天皇が即位した。江戸幕府に守られてきた囲碁界は、明治維新とともに基盤を失い、それぞれ家元は拝領屋敷を返上し、1869年には家禄も奉還することになった。西洋文化を多く取り入れる文明開化の時で、碁は困窮にありながらも、本因坊秀和は「三の日会」という研究会を設け、次の時代への希望をつないだ。
1877年、征韓論に敗れて政府を去った西郷隆盛が不平士族におされて兵をあげた(西南戦争)が、政府軍によって鎮圧された。田原坂(たはるざか)での激しい戦いの後、西郷らは一時洞穴に逃れ、囲碁を打ちながら時を過ごしたと伝えられている。その後、西郷は移動中、銃弾に当たり倒れた。 1878年、新聞(郵便報知)に初めて碁譜が掲載された。 1879(明治12)年、本因坊家とは別に、村瀬秀甫は「方円社」を結成し、毎月の手合を収録して雑誌(囲碁新報)を発行したり、碁の普及のため古い段位制にかわる級位制を取り入れるなど、次々と新しい試みを打ち出した。また秀甫は西洋人とも接し碁を教え、ドイツ人コルセルト氏が弟子となっている。 本因坊秀栄は、1892(明治25)年、方円社に対抗して「囲碁奨励会」を発足させた(後の「四象会」)。 明治中頃になると、政財界の中枢もようやく碁に目を向けはじめ、積極的に援助するようになる。方円社側では井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一らが、秀栄側には大久保利通、犬養毅、頭山満らが有形無形の援助した。それぞれ新聞も囲碁欄が設けられ、これ以後の碁界は新聞囲碁を中心に展開した。 秀栄の死後、本因坊家の分裂や新組織が出来ては合同し、また分裂するという繰り返しで、本因坊家(中央棋院)、方円社の旧勢力に加えて新しい会(六華会、裨聖会など)が旗をあげ、互いにしのぎをけずった。そして、1923(大正12)年、死者9万人といわれる関東大震災では囲碁界も打撃を受け、碁界大合同の機運がめばえた。 1924(大正13).7.17日、日本棋院が創立された。総裁・牧野伸顕(しんけん)、副総裁大倉喜七郎が就任し、大倉の経済的援助で東京麹町永田町に会館が1926年、建設された。ほとんどの棋士が参加し、その規模と事業はかつてない大がかりなものとなった。 ところが日本棋院創立直後、1924(大正13).10月、5人の棋士が脱退し、「棋正社」を結成した。1926年、読売新聞の正力松太郎社長のおぜんだてで院社(日本棋院・棋正社)対抗戦が企画され、結果は日本棋院の圧勝に終わった。この対抗戦の第一戦は、秀哉名人と雁金準一七段戦で大正の争碁の名にふさわしく、大変な注目を集め、新聞の発売部数が一挙三倍になったともいわれている。 |
| 【9、昭和のはじめ】 |
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昭和2年から昇段を決める試合として、大手合(おおてあい)が開始された。昭和3年には中国から天才、呉清源が来日し、手合に参加する。呉は1914(大正3)年、福建省生まれで、5歳年上の木谷実を兄のように慕い、昭和7年ごろからはお互いにライバル視するようになる。昭和8年の大手合で木谷実、呉清源は毎局「新布石」を試みた。
木谷は勢力と位を重視するのに対し、呉は一手で隅を打ち切るスピードに比重をおいた。翌昭和9年には「新布石法」が刊行され、プロだけでなくアマの間にも大流行となった。この新布石の利点と旧布石の長所を総合したのが、戦後の布石となっている。 昭和12年、本因坊秀哉名人は引退を表明し、翌昭和13年に木谷実との引退碁を打ち終え、15年、病死した。引退碁は途中、秀哉の衰弱が激しくなり、入院のため対局は一時中止となることもあり6月〜12月まで半年かけて打たれ、結果は木谷の先で5目勝ちとなった。この時、はじめて「封じ手」制が採用され、川端康成が観戦記を担当した。のちに川端はこの引退碁をもとに小説「名人」を発表した。 本因坊の名跡は日本棋院にゆずり渡され、昭和14年、毎日新聞社の協力で「本因坊戦」がスタートした。また読売新聞社では日本棋院と契約を結んで、呉清源を軸に「十番碁」を開始した。朝日新聞社では昇段争いの大手合の棋譜を掲載してファンの人気を集めた。 |
| 【10、昭和の囲碁】 |
| 昭和16年、真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまると、棋士達は全国各地へ慰問の巡業に回ったが、空襲を受ける頃には碁を打つどころの状況にはなく、囲碁雑誌は休刊になった。 昭和20.5.25日、日本棋院会館が戦災で焼失し、棋具や記録など失った。そのような状況下でも第3期本因坊戦は続けらた。橋本昭宇(宇太郎)と岩本薫の試合は、昭和20.7月、第1局を広島市内で、第2局は8月広島市郊外(五日市)で行われた。ところが8.6日朝、第2局の対局中、原爆の爆風に遭遇した。 昭和20.8.15日、終戦をむかえた。日本中がすさんだ時期、すぐに瀬越憲作と岩本薫らが中心となって、日本棋院の再建をめざした。翌昭和21年には、4月から大手合を再開し、雑誌「棋道」が復刊された。 昭和23年、日本棋院会館(港区芝高輪)が開館した。 昭和24年、大手合制度開始以来初めて、藤沢庫之助(朋斎)が九段になり、日本棋院囲碁規約も制定された。昭和24年に藤沢は九段になり、翌年、呉も日本棋院から九段が贈られた。昔から「名人」は同時代に一人しか許されなかったが、トップの座に二人いることで、いずれかは戦うことになった。ファン待望の二人の十番碁は昭和27年、28年に実現しますが、呉は圧倒的な強さで藤沢を打ち込んだ。 昭和25年、大阪で日本棋院から関西独立の声が高まり、さらに関西の中でも独立派と協調派に分かれた。独立派の橋本宇太郎は数名の仲間といっしょに「関西棋院」を独立して、協調派の「日本棋院関西総本部」の二つに分裂、そして今日に及んでいる。 昭和26年、第6期本因坊戦で、橋本昭宇(宇太郎)本因坊に坂田栄男七段が挑戦した。昭和の大争碁ともいわれる試合で、坂田は3勝1敗まで追い込んだが、その後3連敗の大逆転で敗れた。 翌年、高川格(秀格)七段が挑戦し、4勝1敗で橋本から本因坊位を奪取し、以後九連勝の大記録をたてた。また同年、女流本因坊戦も開始された。 昭和30年以降になると各新聞社によるプロアマ棋戦が充実し、テレビ囲碁番組、国際アマ大会などが始まった。韓国では韓国棋院が設立された。 昭和31年には中国では囲碁が奨励され、韓国では第1期国手戦がスタートした。 昭和32年、第1回ヨーロッパゴコングレス(欧州囲碁大会)がはじまるなど、海外の囲碁も着実に広まっていった。 |
| 【11、昭和から平成へ】 |
| 【アマチュア棋史】 |
| アマチュアの碁では昭和30年にアマ本因坊戦、昭和34年に全日本女流アマ戦、昭和36年にはアマ十傑戦が開始され、平田博則、菊池康郎、故村上文祥、原田実、三浦浩、中園清三らが活躍している。 昭和32年に全日本学生本因坊戦、昭和39年には全日本学生十傑戦もスタートし、学生囲碁界も盛んになった。 昭和48年、学習指導要領の改訂にともなって必修クラブが導入され、囲碁が小中高校生に広まった。 昭和40年から12年続いた旧高校選手権を発展解消し、昭和52年に第1回高校選手権をスタートし、昭和55年には中学生以下の少年少女大会も始まった。 平成8年、スペースシャトルエンデバー船内で宇宙飛行士ダニエルバリーと若田光一が宇宙で初めての試みとして囲碁を楽しんだ。宇宙では無重力のため、加工された紙製の碁盤にペタペタ貼るシール碁石が使われた。 昭和54年、第1回世界アマチュア囲碁選手権が開かれ、中国の聶衛平(じょえいへい)が優勝した。 昭和56年、中国でプロシステムが確立され、中国囲棋協会(ちゅうごくいききょうかい)が設立された。 現在、世界アマチュア囲碁選手権は約60ヶ国・地域から代表選手が出場する大規模な大会となっている。 |
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(私論.私見)