日本囲碁史考5

 更新日/2017(平成29).5.5日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「日本囲碁史考5」を記しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝
 


本因坊4世道策時代

【「道策の天下睥睨」】
 1677(延宝5)年、8.21日、「(坊)道策-林门入(2子)」。不詳。「(坊)道策-林门入(2子)」。不詳。
 同年9.18日、3世本因坊道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、公儀で決めた碁所に異議を申し立てた責任をとって自分の跡目を道策に譲り、名人碁所に推薦した上で引退した。道策の技量はこのとき既に道悦を上回っていたとされ、争碁後半で道悦が大きく勝ち越したのには道策との共同研究によるところが大きかったと云われる。

 12.20日、3世本因坊道悦隠居願いが聞き届けられ、道策が4世本因坊となる。同時に名人の手合に進んだ。但し道悦も引続き出仕を命ぜられる。
これを機に、江戸幕府は碁所を創設した。12.23日、御城碁の手合割り及び手合組を呈出。12.24日の御城碁に将軍家網出座。

 名人碁所在任は1677~1702年。道策は既に2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲、安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であった。当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(ハンデの種類)以下にまで打ち込んでいた。この隔絶した実力により、四世本因坊・道策が碁所に任ぜられても異議を申し立てる者は誰もいなかった。道策の実力は13段と云われ、最強という評判通りの強さを見せていた。本因坊道策は名人の中でも特にすぐれていたので、後に「碁聖」といわれた(道策は前聖、秀策は後聖とたたえられ、二人とも碁聖といわれている)。本因坊家は、始祖算砂、棋聖道策と言う二人の不世出の棋士により名実共に四家の筆頭となった。弟子に五虎ないし六天王と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節 (後に井上家に入り名人井上因碩)、星合八碩熊谷本碩、吉和道玄などの優秀な高弟があり、段位制、家元制も彼の時代に確立された。世に碁聖、本因坊丈和の後聖に対し前聖と云われる。
 道策は、本性が山崎、幼名三次郎、法名日忠。道策を生んだ山崎家は、井上道砂因碩(道策の実弟)、井上因砂因碩も碁界に送り込んでいる。従来の古風な力碁に対して全局の調和を重視した合理的な打ち方としての「手割り」の棋理を生み出し、囲碁史を変革した。その打ち筋は辺を重視しており、隅を重視する古典的な碁から近代的な碁へのかけ橋となった。棋風は、相手を凝り形にする手法を好んで用い、またたとえ手割上は損でも大場に先鞭出来る場合は平気で石を捨てて打ち、石を外まわりに導き、石をいっぱいに働かせて打つのを得意としている。ここに囲碁史上の不朽の地位を得ており「近代囲碁の祖」と呼ばれる。丈和・秀策の後聖に対して前聖と称される。

 道策は、名人を9段、名人・上手間を8段、上手を7段とし、以下2段差を1子とする段位制を確立した。この段位制は1924年に日本棋院が設立されるまで使われた。段位制は剣道や柔道でも行われるが道策が始めた碁がはじまりと云われる。

 御城碁は1667年初出仕、安井知哲に白番5目勝ち。1696年まで勤めて14勝2敗(この2敗はいずれも二子局)。特に1683年の安井春知との二子局1目負けの碁は、自ら生涯の傑作と言った。


 「旧坐隠談叢」は次のように評している。
 「寛文延宝以前の碁にありては、その技の巧拙はさておき、区々として不規律なる力碁のみなりしが、道策出でて、斯道の波瀾、変化極まりなき中に、その意味を咀嚼し尽し、石立ての場合を見極め、初めて自ずから不磨の真理を発揮し、道策流なる一機軸を案出して、先人の遺漏をひ補せり。この道策流なるものは、今日のいわゆる定石にして、これよ我が国の碁技は飛躍的な進歩をなし、その面目を一新せり」。

 道策の碁技につき、「坐隠談叢」は次のように評している。
 「道悦隠居し、道策家を継で本因坊第4世となる。それ道策は後人の称して碁聖と為す者にして、その技の俊秀なる古今比類を見ず。しかも、千変不測の碁勢に対し、能く一定不動の妙所を発見して一流を案出す。ここに於いて、従来の碁技は、あたかも**に依りて淘汰精錬せられたるが如く、一変して道策流と称せらるるに至れり。今試みに、道悦退隠の願書中、道策を碁所に推挙したる文中の一節を見るに、一、算哲は定先置き6番半石直し打ち始め4度、24番勝ち越し只今算哲定先に御座候。一、知哲は定置き6番半石直し打ち始め5度、30番勝ち越しし候。二つにて碁数26番、道策一番負けに御座候。一、春知には先二置かせ6番勝ち二つにし候。而して6番負け又先二つに直し、先二つにて17番し候、道策2番勝つに御座候。右寛文年中より延宝中迄に御座候。とあり、而して、文中に於ける算哲、知哲、春知は当代の雄なる者にして、道策之に対し前期の如き成績を得たるは、真に聖所に達したる者と謂つべし」。

 酒井猛9段の道策の碁に関するコメントは次の通り。
 「 道策の碁には碁のあらゆるものがある。強烈無比の攻め、鮮やかな凌ぎ、雄大極まりない大作戦、そして時にはものすごい地のからさ、それが次の瞬間には全く別の方向に転換したりもする。必要な時に必要な手がおのずと湧いてくるという観があり、盤上に響き渡る一手一手は何度並べても感動を呼ぶのである。それはまさに天来の妙音でもあった」。

 林裕氏の「囲碁百科辞典」は次のように記している。
 「道策は棋聖と称され、その実力は古今無双と云われる。それまでの力碁から合理的な碁へと転換するために重要な役割を果たし、近代の碁の基礎を築いた。また段の制度も道策によって作られたと云う」。
  道策の碁所拝命につき、「坐隠談叢」は次のように評している。
 「延宝5年12月20日、月番寺社奉行太田摂津守は、先に届出たる道悦の隠居及び碁所詮議の為、一同の棋士を招集し、(算知は病気欠席)先ず道悦、道策二人を呼び出し、道策の家督相続聞届けの旨を云い渡し、次いで一同の棋士及び例により証人として呼び出したる将棋所大橋宗桂を列席せしめ、道策碁技秀逸を以って碁所に補せらるる旨を云い渡し、同時に道悦隠居するも道策未だ若年につき、相変らず御城碁に出勤すべき旨を命じたり。然るに同日病気欠席したる算知方より来る24日の御城碁手合いを伺出しに摂津守は今回本因坊碁所得仰せつけせれたる上は、その方入らざる儀なりと叱責し、別に本因坊に向かい手合組は23日まで゜に山城守役宅まで推参すべしと命じたり」。
 12.23日、御城碁の手合割り及び手合組を呈出する。同24日、御城碁に4代将軍・家網出座。稀有なことに家綱が「本因坊道策とはどの者であるか」と尋ね、師の道悦が頭をすりつけたまま道策を指したところ、「構わぬ道策、面(おもて)を上げい。そちの碁技、当代無双なりとのうわさ、余の耳にも入っている。今後も倦むことなく、努めて技を磨けよ」の声をいただいている。

 1677(延宝5)年の御城碁。対戦の結果は、「◯(坊)道策-安井知哲(先)」は道策の白番5目勝ち。「◯道砂因碩-林門入(先)」は因碩の白番13目勝ち。この年より算知、道悦が御城碁を事実上引退状態になっている。その後も算知、道悦ともに生存し、それなりの影響力は保持しているが、御城碁での対局はない。この後、道策の対戦相手として算哲と知哲が交互に登場してくる。

 1678(延宝6)年、。
 1.12日、「(坊)道策-井上因碩(山崎道砂)(2子)」、ジゴ。1.14日、「(坊)道策-井上因碩(山崎道砂)(先)」は道策の白番14目勝ち。「(坊)道策-山崎道砂(先)」。打ち掛け(白番中押し?)。1.17日、御城碁「(坊)道策-安井知哲(先)」。白番5目勝ち。1.20日、「(坊)道策-吉和道玄(2子)」。不詳。4.3日、「(坊)道策-福尾玄故 (2子)」。不詳。

 
5月、(坊)道策に名人碁所の証文が下付される。日付は徳川家康の忌日にちなみ4.17日付けとす。これが最初の碁所の証書となった。道策の碁所就任時に知哲が上手(七段)並との手合とされた。

 9.2日、「(坊)道策-福尾玄故 (2子)」。不詳。10.14日、「(坊)道策名人-井上因碩(道砂)(先)」。道策の白番14目勝ち。実弟の3世因碩との碁。10.19日、「本因坊道策-东山朝寻坊(先)」。不詳。12.24日、「(坊)道策名人-安井知哲(先)」。不詳。

 この年、御城碁対局なし。
 この年、二世林門入の長子、長大郎(後に三世林門人)が生まれる。

 1679(延宝7)年、。
 1.14日、「(坊)道策-福尾玄故 (2子)」。不詳。4.3日、「(坊)道策-福尾玄故 (2子)」。不詳。11.22日、「(坊)道策-福尾玄故(2子)」。

 10.24日(11.27日)、御城碁「◯(坊)道策名人-安井算哲2代(渋川春海)(先)」。道策の白番3目勝ち。途中、観戦者から「保井が勝つか」との囁きも出る好局で、終局後に将軍家綱から「双方、見事なり」の言葉を賜ったというエピソードが残されている。
$2000万人の囲碁
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 御城碁「安井春知-◯井上因碩2世(道砂)(先)」は道砂因碩の先番3目勝ち。

(坊)道策名人-安井算哲2代(渋川春海)の生涯の対局考】
 安井算哲2代(渋川春海)は、御城碁を17局打っており、成績は2勝13敗1ジゴ、勝敗不明1局。そのうち11局が道策との対局で全敗している。これは不名誉ではなく、全盛期の道策の好敵手として屹立していたことを証する。

渋川春海の「天球儀」考】
 2017.10.24日付朝日新聞デジタル「V6岡田さん主演映画で脚光 囲碁棋士がつくった天球儀」。
 本屋大賞に輝き、V6の岡田准一さん主演で映画化もされた冲方丁(うぶかたとう)さんの歴史小説「天地明察」。江戸時代の囲碁棋士で天文暦学者の渋川春海(はるみ)が、平安時代から使われてきた暦の誤りを指摘し、天体の運行に基づく日本独自の暦を作り出す物語だ。その春海が自作した「天球儀」が陰陽師ゆかりの大将軍八(だいしょうぐんはち)神社(京都市上京区)に保管されている。 © 朝日新聞 天の川や星座が描かれた天球儀=京都市上京区、佐藤慈子撮影

 宝物館(方徳殿)の2階に展示された地球儀のような球体がそれだ。春海が1673年につくった我が国最古の天球儀と同じ頃の作と見られ、和紙を張り子にした球面を天空に見立て、色分けした鋲(びょう)で星や星座などの位置が表されている。その数星座が377、星は1739個におよび、銀河は金砂子がまかれている。

 天球儀は、春海とともに改暦に尽力した土御門(つちみかど)家に仕えてきた皆川家に伝わり、他の天文関係の資料とともに1985年に神社へ寄進され、京都府の指定文化財となっている。この神社では、陰陽道の宇宙観を、星をつかさどる神像80体を並べて表現した「立体星曼荼羅(まんだら)」(国重要文化財)も公開され、天文ファンならずとも奥深い世界に誘われる。生嶌(いくしま)宏盛宮司(41)は「専門的な世界だが、その価値を知ってもらうきっかけになれば」と話す。(久保智祥)

 道策に太刀打ちできなかった春海は、その後を天文一途に向かい、1673(延宝元)年から1686(貞享3)年の14年間を二至二分の時刻の観測に向かい、貞享暦を結実させた。次のように評されている。
 「わが国において初めて独立した暦を製作したのは安井(渋川)春海をもって嚆矢とする。されば日本近代暦学の鼻祖は春海なりと言うも決して過言ではない」(荒木俊馬「日本暦学史概説」)。

 1680(延宝8)年、。
 5.5日、「(坊)道悦-(坊)道策名人(先)」。不詳。延宝年間(坊)道策名人安井知哲(先)」。不詳。「(坊)道策名人安井知哲(先)」。不詳。「(坊)道策名人-安井知哲(先)」。不詳。「(坊)道策名人-安井知哲(先)」。不詳。

 この年、お城碁の記録なし。

 1681(延宝9)年、9.29日、天和に改元。
 1681(天和元)年、9.29日、「(坊)道策名人-(坊)道悦(先)」、ジゴ。9.30日、「(坊)道策名人-(坊)道悦(先)」は道策が白番中押し。師・道悦との師弟戦で師の大石を葬る。11.9日、「(坊)道策名人-(坊)道悦(先)。ジゴ。

 12.22日、御城碁「◯(坊)道策-安井知哲(先)」は道策の白番19目勝ち(1.30日、御城碁「(坊)道策名人-安井知哲(先)」。白番19目勝ち)。御城碁「◯道砂因碩-林門入(先)」は道砂因碩の白番13目勝ち。

 1682(天和2)年、。
 1.14日、「(坊)道策名人-小川道的(2子)」、道的が2子黒番中押し勝ち。対局日不明 「(坊)道策名人-小川道的(先)」。黒番勝ち。

【俳聖・松尾芭蕉の囲碁の腕前】
 俳聖として知られる松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、1644(寛永21)年-1694(元禄7)年10.12日(陽暦11.28)の人。実は囲碁囲碁好きで、その実力も相当のものだった。芭蕉の千近い俳句(発句)には「碁」の字が入った句はない。付け句(連句)に二句ある。その一句は、俳諧七部集の一つである尾張の俳人たちと巻いた歌仙「冬の日」の中の連句(歌仙)の「道すがら 美濃で打ちける 碁を忘る」である。「野ざらし紀行」の一部の写本にある。「碁の工夫二日閉ぢたる目をあけて」。「碁譜を脳裏に焼きつけたり、棋譜を思い出すには相当の棋力がなければできない。紀行文「笈(おい)の小文」には、伊良湖崎を訪れる途中「碁石(白石になる貝)を拾ふ」と書いてある。また、芭蕉の俳諧(はいかい)観を伝えた「三冊子」(さんぞうし)に、芭蕉がある人の俳句を「碁ならば二、三目跡へ戻してすべし」と言ったことが載っている。藤沢秀行は棋士の勘で、"芭蕉の棋力は現在の県代表クラス〟と認定している。(「松尾芭蕉は、現在の県代表クラスの棋力があったという」その他参照)

【道策と琉球国第一の名手・親雪上浜比嘉(べいちん・はまひか)の4子局譚】
 1682(天和2)年、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は相当な囲碁好きであったと見え、日本国内外に威名の高い本因坊四世道策(どうさく)のことを耳にして、琉球国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちん・はまひか。親雲上は士族の称号)と手合わせさせてみたいと思いたった。

 日本と琉球の外交史は次の通り。1609(慶長14).3月、江戸幕府(日本)-島津家久(しまづいえひさ、薩摩藩初代藩主)が琉球(沖縄)に三千余の兵を出兵させ、4.1日、琉球が降伏。1611年(慶長16年)、島津家久は琉球仕置を行い、琉球国王・尚寧(しょうねい、1589年~1620年在位)に琉球が古くから薩摩の附庸国(属国)だったことを認めさせ、沖縄島ほかの諸島8万9000余石を与え、与論島以北の大島(奄美諸島)を直轄化した。1634年(寛永11年)、琉球の日中両属(外見は独立国の琉球王国、内実は薩摩藩、徳川幕府の強い規制を受ける)が確定、同年、島津家久は琉球の王位を琉球国司に任じ、また、琉球国王・尚豊(しょうほう、1621年~1640年在位)使節の江戸上がり(慶賀使、謝恩使、進貢、2年一貢)が始まった。

 ちなみに島津藩と琉球史は次の通りである。「琉球王国 日本の侵略と従属」を転載する。
 「1590年頃、豊臣秀吉は琉球王国に 朝鮮を征服する戦役に協力するよう要請した。成功すれば秀吉は中国に向かう意図があった。琉球王国は明の朝貢国であったため要求は拒否された。秀吉の陥落に伴い登場した徳川将軍は島津家-薩摩藩 (現在の鹿児島県)の封建君主-に琉球を征服するための遠征軍を送ることを許可した。これによる侵略は1609年に起きた。占領は非常に速く起き、武器による抵抗は最低限のものであり、 尚寧 (しょうねい) 王は捕虜として薩摩藩に移送され、 次いで江戸 (現在の東京)に移送された。2年後に釈放された時に琉球王国はある程度の自治を 再び獲得した。しかしながら、薩摩藩は琉球王国の領地-特に奄美大島-を手に入れ、薩摩藩に組み込まれ、現在も沖縄県の一部ではなく鹿児島県の一部となっている。

 琉球王国は日本と中国に二 重に従属することとなり、 琉球は徳川将軍と明の宮廷のいずれにも進貢することとなった。明は日本との貿易を禁止していたため、 薩摩藩は、徳川幕府の加護により、王国との貿易を使用して、王国が中国との貿易を継続するようにした。それ以前に日本がオランダ以外のヨーロッパの国と絶縁したため、 そのような貿易関係は徳川幕府と薩摩藩にとり極めて重要であった。薩摩藩はこのようにして手に入れた権力と影響力により、1860年代に幕府を転覆したのである。

 琉球王は薩摩藩の隷属者であるが、彼の土地は藩の一部とはみなされなかった。これは1879年に島々が公式に併合され、王政が廃止されるまで続き、琉球は日本の一部とみなされることもなく、琉球人は日本人ともみなされなかった。技術的には薩摩藩の統制下にあったが、琉球にはある程度の自治が与えられ、中国と貿易をすることにより、薩摩藩にも幕府にも利益を提供したのである。琉球は中国の朝貢国であり、日本は中国と正式な外交関係を持っていなかったので、琉球が日本によって統制されていることを北京に知られないことが重要であった。従って、皮肉にも、 薩摩藩- そして幕府-はすぐにわかるようにあるいは強制的に琉球を占拠したり、琉球における政策や法律を強制することなどに関しては、ほとんど干渉しなかったのである。状況は関連する3者-琉球王国政府、薩摩藩、幕府-にとって、出来る限り別の外国であると見える方が都合がよかったのである。日本人は将軍の許可なしには琉球を訪れることが禁止され、琉球人は日本人の名前、衣類や習慣を採択することが禁止されていたのである。琉球人は江戸を訪れる際に日本語が理解できることを表明することが禁止されていた、薩摩の大名である島津家は江戸への道中、あるいは江戸内部の通行で、琉球の王、役人や琉球の人々を見せまわすことにより威光を勝ち得たのである。国王あるいは全王国を隷属させている唯一つの藩として、薩摩藩は異国的な琉球から非常に多くのものを得ることとなり、 まったく別の王国であることを強調したのである」。


 当時、既に琉球は島津の藩属国になっていた。故に、島津家を通じて「教えを乞いたい」と道策との対局を懇望して来た。囲碁の国際試合として、1559年(永禄2年)~1623年(元和9年)の頃、本因坊初代算砂(さんさ、法名日海)が朝鮮(韓国)随一の打ち手と言われた李礿史(りやくし)と三子置き対局し見事に負かしている事績が残されている。この算砂と李礿史との三子碁以来、時の最高位者は、三子を置かせて外人と対局するのが恒例となっていたが、道策は四子で対局する旨(むね)を島津家に伝えた。  

 奉行が道策を呼び出し次のように意見を問うた。
 「薩摩77万石の申し出とあれば、むげに退けることもできぬ。だが道策、汝は官賜碁所である。万が一にも不覚をとれば申し開きが立つまい。ここは一番、適当な代人を立てるが無事ではないか」。

 道策は次のように返答している。
 「そのご懸念には及びませぬ。必ず打ち負かしてお目にかけます。手合い割のほどは4子と、さよう返答を願いあげます」。

 島津家では、「古来、外人は三子が恒例となっているが、今回の対局が四子というのは如何なる訳なのか。親雲上といえども相当の打ち手であり、万一本因坊において負けるとなると国恥ともなりかねないが」と言ったところ、道策は次のように返答している。
 「なるほど、初代は三子で対局されたが、本朝の囲碁は当時より少なくとも一子以上は進歩しています。異朝においてそれだけ進歩したとも思えないので、初代が三子ならば、私は四子で対局すべきと考えます」。

 これには次の事情があるようである。薩摩藩には道策の弟子である齋藤道暦と西俣因悦という二人がお抱え碁打ちとなっているため琉球の囲碁事情に明るかった。その情報により4子が妥当と判断したのではないかと云う。しかしながら、奉行の申し出を断り自ら対局に臨み、しかも手合いを4子で設定する道策の侠気をも見るべきだろう。万一負けたら命が飛ぶ事態までありえたことを思えば。
 4.17日、「(坊)道策名人-ペイチン・ハマヒカ(4子)」(「本因坊道策-亲云上滨比贺 (4子)」)が薩摩藩の島津邸で島津光久公臨席の上で打たれた。琉球第一の名手の親雲上は四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけても負ける訳にはいかない。という訳で力のこもった勝負が始まった。結果は、道策が随所に妙手を下し黒を翻弄(ほんろう)、14目の大差をもって浜比賀を破った。

 「坐隠談叢(ざいんだんそう)」の「四子 親雲浜比賀ー本因坊道策」の爛柯堂(らんかどう)評は次のように記している。
 「下手に対すといえども無理なく、敵器量を知りて、趣向妙なり」。
 
 次のような評もある。
 「この碁では、道策は少しも無理な手を打たず、巧みに黒の虚を突いて優勢に導いている。また一面、道策のハメ手と伝えられるような手を繰り返し試みている。例えば、白5、7及び白27、29のツケ、また、白11、13の手は、黒の形を重複させ、いわゆる凝り形にさせる手筋を使っている。「唐人(とうじん)の泣き手」と語り伝えられている手は白61のサガリである。黒60とオサエ込み、これで渡れるつもりが、白61と下(さ)がられて、泣くに泣けないことになった。道策は、浜比賀を下手と見て侮らず、打ち方を緩めず十分に打ち回している」。

 濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀が2目勝の一勝一敗となった。浜比嘉の願いにょり、4.26日付けで「上手(7段)に二子(3段相当)」の免状を与えた。棋所が外国人に免状を与えた初事例となった。浜比賀は帰国後、道策流の石立(いしだて)を取り入れ、琉球囲碁の発展に大きく貢献している。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られたという。5.24日、「本因坊道策-亲云上滨比贺 (4子)」。

 1682(天和2)年、。
 6.14日、「本因坊道策-自性坊(2子)」。不詳。

 12.20日、◯御城碁「(坊)道策名人-安井算哲(先)」は道策の白番15目勝ち。御城碁「道砂因碩-◯安井春知(先)」は、春知の先番7目勝ち。道策門の星合八碩6段(17歳)が御城碁に初出仕。御城碁「林門入-◯星合八碩(先)」は八碩の先番4目勝ち。以後、元禄2年までに7局を勤める。

 12.22日、「
(坊)道策名人-安井知哲(先) 」。不詳。12月、「(坊)道策名人-道的(先)」は道的の先番1目勝ち。「碁聖対神童(玄妙道策)」 。この年の某日、道策は小川道的と互先2局を試み、打ち分けとなる。道的は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。「道的-(坊)道策名人(先)」は道策の先番1目勝ち。16歳で本因坊跡目となった道的との黒番の碁。他にも対局日不明ながら次の棋譜が残されている。

 「青木愚碩-(坊)道策名人(先)」は道策の先番15目勝ち。「(坊)道策名人-正木主計(先)」は道策の白番中押し。「道砂因碩-春知(先)」は春知の先番勝ち。

 1683(天和3)年、。
 1.17日、御城碁「(坊)道策名人安井算哲(渋川春海)(先)」。白番18目勝ち。1.28日、「(坊)道策名人-井上因碩(道砂)(先)」は道策の白番13目勝ち。奇想天外の局(玄妙道策)。

 11.19日、御城碁「(坊)道策名人-◯安井春知(2子)」は277手まで、春知の黒番1目勝ち。道策は、この碁を自ら「道策一生の傑作」と評し次のように述べている。
 「春知は当代の逸物にして古人に恥じず、また後来も稀なるべし。しかしてこの対局において、春知の手段、毎着妙ならざるはなし。余もまた思いをきわめ、功を尽くしてこれに対抗し、いささかの遺憾もなく打ち終わらせ、ついに一目の負けにせしは、自ら大いに誇りとするところにして、一生中ふたたび得られざる対局なり」。

 本局は棋界で次のように評されている。察元「一生中の出来」、元丈「一生のできばえ」、秀哉「一代の傑作」、呉清源「生涯の名局」。
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 白27と相手の石につけて応手を問う手法は道策の定法。黒38手目に黒1と押したところ、白は当然と思える3でなく上辺白2へ向かった。黒3と打たせても上辺2、6と侵入する方が大きいと見たところに柔軟性がある。その後黒も黒A、白B、黒Cと攻め立てるが、白は手順を尽くしてサバキに成功した。黒70の手がぬるいと云われているが、これを緩着に導いた白71以下が道策の自慢の技であろう。


 春知は名人算知の弟いわれ、他に実子、門弟とする説もあり詳しいことは伝わっていない。延宝2年のお城碁に初登場している。道策は、安井春知との2子局1目負の碁につき、自ら「一生の傑作」と述べており名高い。道策自身が次のように評している。
 「春知は当代の逸物にして古人に恥じず。また後来も稀なるべし。しかしてこの対局において、春知の手段、毎着妙ならざるはなし。余も又思いを究め、巧みを尽してこれに対抗し、いささかの遺憾もなく打ち終わらせて遂に1目の負けにせしは、自ら大いに誇りとするところにして、一生中再び得られざる対局なり」。

 林家11世・林元美は本局をこう論評している。
 「黒70はぬるいと云う者もあるが、そうではない。後の120の強手を狙っていたのである。この手があっては白に勝ち目はないと道策も認めている。道策が真の碁聖であることに異議はない。しかしその道策でさえ、時に不十分な手が出るのはやむを得ないし、いわんや春知においてをや、だ。ところがこの碁には、双方ともに非難すべき手が一つもない。心から感服するばかりである」。

 御城碁「安井算哲-◯道砂因碩(先)」、道砂因碩の先番の16目勝ち。御城碁「◯星合八碩-林門入(先)」、八碩の白番3目勝ち。対局日不明「×算哲-◯道砂因碩(先)」。「(坊)道策名人-道的(先)」。黒番1目勝ち。対局日不明 「(坊)道策名人-井上因碩(道砂)(先)」は道策の白番13目勝ち。対局日不明「(坊)道策名人-桑原道節(2子)」は桑原の2子局中押し。後の名人因碩との2子局。

 1684(天和4)年、。

 1684(天和4、貞享元)年、2.21日、貞享に改元。
 同年4.23日、「(坊)道策名人-星合八碩(2子)」。不詳。

 10.15日、小川道的6段が道策の跡目となり、10.18日、御目見得した。この時、道策の筆頭弟子に位置していた桑原道節が「道的と争碁を打たせ、跡目を決めてほしい」と要求し、道策が拒否している。但し、弟の井上因碩3世道砂を引退させ、道節を井上因碩4世に仕立てる裁きで決着させている。跡目になってからの道的の棋技は、道策の力でも先の手合いを抑えることはできなくなった。19歳の時、既に師の道策と互角の力量であったとされ、囲碁史最大の神童といわれる。道策門下には優秀な弟子だけでも30人を余した。その中で特に優秀だったのは道的、道節、策元、八硯、本硯、それに吉田道玄を加えて六天王と云われ、当時の斯道の華と称せられた。

 12.16日(翌1.20日)、天文方へ転出した算哲の代わりに本因坊道的(16歳、7段)が御城碁に初出仕(16歳、7段)。以後、元禄2年まで5局を勤める。御城碁「道砂因碩-◯林門入(先)」、門入の先番3目勝ち。御城碁「安井春知-◯(坊)道的(先)」、道的の先番7目勝ち。完敗させられた春知は、一般に他家の棋士の昇段には目くじら立てて反対するのが普通のところ、「道的6段は手合いが違う。7段に上げてもらいたい」と申し入れている。道策は、「道的の碁、まだまだ7段の芸ではない」と拒絶したが、春知は直接に奉行に談判して道的を昇段させている。以後、元禄2年まで5局を勤める。御城碁「安井知哲-◯星合八碩(先)」、八碩の先番8目勝ち。
 この年11.28日、2代目安井算哲(渋川春海)が将軍綱吉に新暦を献上。これが採用され「貞享暦」と名づけられた。12.1日(朔日)、算哲が碁役を免じられ、江戸幕府で初めての天文方(禄百俵)を命ぜられる。

 1685(貞享2)年、。
 11.18日、「(坊)道策名人-星合八碩(2子)」、不詳。11月晦日、御城碁「◯(坊)道的-安井春知(先)」、道的が白番3目勝ち。御城碁「林門入-◯星合八碩(先)」は八碩の先番中押し勝ち。門入はこの年の御城碁を最終局として死去する。

 1686(貞享3)年、。
 3.11日、2世林門入没。林長大郎(入歳)後式となり、3世門入となる。
 同年12.19日、御城碁「(坊)道的-◯安井春知(先)」、春知の黒番5目勝ち。
 この年、本因坊道悦が退隠して京都に移り住んだ。
 春知はこの年の御城碁を最終局として死去する、とある。

 1687(貞享4)年、。
 11.8日、「道的-(坊)道策名人(先)」。黒番1目勝ち。「安井算知-牧野成貞(2子)」。牧野の2目勝ち。

 12.12日、御城碁「道砂因碩-◯星合八碩(先)」、八碩の先番3目勝ち。御城碁「安井知哲-(坊)道的(先)」、◯道的の先番13目勝ち。

 1688(貞享5)年、。
 9.23日、「(坊)道策名人-道的(先)」、道的の黒番勝ち。

 1688(貞享5)年、9.30日、元禄に改元。
 12.12日、御城碁「星合八碩-◯道砂因碩(先)」、道砂因碩の先番3目勝ち。御城碁「安井知哲-◯(坊)道的(先)」、道的の先番12目勝ち。

 この年、道策が京都寂光寺にて本因坊算砂追善碁会を開く。

 1689(元禄2)年、。
 12.19日、御城碁「道砂因碩-◯星合八碩(先)」、八碩の先番5目勝ち。「◯(坊)道的-安井知哲(先)」、道的の白番17目勝ち。八碩はこの年の御城碁を最終局として死去する。

【「碁好きの殿様」】
 「囲碁史物語」の「碁好きの殿様」を参照する。
 「囲碁を打つ大名は多かった。藩によっては御抱えの碁打ちがいる。道策の時代、碁が好きで強かったのが牧野成貞である。成貞は徳川五代将軍綱吉の側用人だった。綱吉の若いころ仕え、老中などとは比べものにならない権勢を誇った幕閣の中心人物である。後に柳沢吉保と対立し側用人の座を退くことになった。この成貞は道策や師の道悦と二子で打っている。ふつうのアマチュアが名人に二子というのはすごいことである。まあ、多少の手心は加えているだろうが。あるとき成貞は思った。自分が大名であるために手心を加えているのではないかと。そこで安井算知と打つことにした。成貞は本因坊門下となっている。争碁で道悦に負かされた算知が手心を加えるわけがないと思ったのである。二子で対局し成貞の二目勝ちとなった。この結果に成貞は満足したが、いくら争碁に負けた相手とはいっても、そこは恥をかかせるわけにはいかない。算知もそこはわかっています。これはこれで解決しましたが、この牧野成貞が活躍したことがあります。

 時は元禄年間の前半(一六九〇年代)です。
細川綱利(熊本藩主)が道策に相談をもちかけたところからはじまった。事情ははっきりしないが、綱利が家督相続に際して不手際があり、問題がおこった。細川家伝来の刀剣など家宝を公儀に没収されそうになった。へたをするとお家断絶になりかねなかった。そこで道策に相談をもちかけた。なぜ道策なのか。道策の生家山崎家は細川家との関係が深く、道策の母は綱利の乳母である。つまり道策と綱利は乳兄弟なのです。そういうわけで道策は動いた。とにかく金が必要。二世井上因碩(道策の弟)の家を抵当に三千二百両の金を借りた。これを細川家に貸した。三千二百両は現在のいくらぐらいになるかはくわしくはわからないが、少なく見積もっても三億ぐらいではないかと思われる。これは家の額だけではなく信用も含めての額であろう。なぜ本因坊家ではなく井上家の家だったのか。本因坊家は細川家との繋がりが深いため井上家の方も繋がりを強めておこうという道策の判断だった。これが後に井上家を救うことになるのだがそれは後述する。そしてここで牧野成貞が登場する。道策は成貞に事情をはなした。成貞はその金を幕閣にばらまき、細川家のことを穏便にとりはかるよう根回しをした。この運動が功を奏して細川家はおとがめなしとなった。牧野家はこの後も碁界と深い関係を持ちます。明治維新の大立者で碁好きで知られる大久保利通の次男が牧野家の養子なる牧野伸顕である。この人物は現在の囲碁の総本山日本棋院の初代総裁である」。

 1690(元禄3)年、。
 8.3日、桑原道節が道策の弟である2世井上因碩(道砂、系図書き変え後は3世)の養子となり、跡目を許される。同月15日、御目見得。12.8日、この年より道節が道砂因碩の後継の井上家跡目として御城碁に初出仕する(45歳)。元禄14年まで10局を勤める。

 
御城碁「安井知哲-◯井上道節(先)」、道節が先番6目勝ち。
 この年、「官子譜」が著わされる。これは、中国明の国手の(その時代の第一人者に与えられた称号)過百齢が集めた囲碁手筋を陶式玉によって編集・完成されたものである。石の死活、攻め合い、侵分(よせ)等の手筋を集大成している。
 この年、5.7日、本因坊・道的、没(享年22歳)。
 この年、神谷道知(後に5世本因坊)生まれる。父は江戸本郷元町に住み御小人目付小頭役を勤めた十郎衛門。8歳で囲碁を始め、10歳で道策の門下となる。林因長(5世門入)生まれる。

 1691(元禄4)年、。
 2.13日、「(坊)道策名人-大河内仪右卫门(4子)」。

 12.23日(翌1.6日)、御城碁「安井知哲-◯井上因碩(道節)(先)」。道節が先番中押し勝ち。

 1692(元禄5)年、。
 1月、星合八碩没(享年27歳)。
 2.9日、御城碁「安井知哲-井上因碩(道節)(先)」。黒番勝ち。

 
10月、佐山策元(18歳)が本因坊道策の再跡目、安井仙角(20歳)は算知家の跡目を許され、11.28日、御目見得。

 12.7日(1.12日)、御城碁「安井知哲-◯(坊)策元(先)」、策元の先番13目勝ち。御城碁「井上因碩(道砂)-◯安井仙角4世(古仙角)(先)」、仙角の先番2目勝ち。本因坊策元と安井仙角が御城碁に初出仕する。以後、策元は元禄11年まで7局、仙角は享保18年まで35局を勤める。

 1693(元禄6)年、。
 11.26日、御城碁「井上因碩(道節)-◯安井知哲(先)」、知哲が先番1目勝ち。御城碁「安井仙角4世(古仙角)-◯(坊)策元(先)」、黒番3目勝ち。

 1694(元禄7)年、。
 1月、「碁立手引鑑」(2冊)出版。版元は江戸日本橋南1丁日、須原屋茂兵徳。
 同年11.26日(1.11日)、御城碁「安井知哲-◯井上因碩(道節)(先)」、道節が先番5目勝ち。御城碁「(坊)策元-◯安井仙角4世(古仙角)(先)」、仙角の先番2目勝ち。

 1695(元禄8)年、。
 11.23、御城碁「井上因碩(道砂)-◯安井知哲(先)」。知哲の黒番9目勝ち。御城碁「安井仙角4世(古仙角)-◯策元(先)」。策元の黒番1目勝ち。御城碁「井上因碩(道節)-◯林門入(玄悦)(3子)」、門入の黒番5目勝ち。3世林玄悦門入初段(18歳)が初出仕している。以後、宝永元年まで7局を勤める。

 1696(元禄9)年、。
 6.9日、安井算知が隠居。安井仙角が算知家の家督を相続する。
 同年6月、道策の実弟で、2世井上因碩(道砂)没(享年推定45歳)。井上道節が3世因碩となる。
 11.29日、御城碁「(坊)道策名人-◯安井仙角(古仙角)(2子)」が打たれ、仙角の2子局1目勝ち。道知少年との争碁で有名な安井家4世仙角との対局 。御城碁「井上道節-◯(坊)策元(先)」、策元が先番5目勝ち。御城碁「安井知哲-◯林門入(玄悦)(3子)」、門入(玄悦)が3子局6目勝ち。

 
道策の御城碁はこの年の1696(元禄9)年までであり、相手が片寄っているとはいえ14勝2敗で、2敗はいずれも二子局で1目負けという圧倒的な成績を残した。

 1697(元禄10)年、。
 6.2日、「(坊)道策名人-高桥友碩(2子)」。不詳。6.6日、道策、道知の門下の道喜との2子局 。「(坊)道策名人-小倉道喜(2子)」。道策の2子局白番中押し。「(坊)道策名人-小倉道喜(2子)」。不詳。6.10日、「(坊)道策名人-小倉道喜(2子)」は小倉の2子局5目勝ち。 道喜の雪辱戦、黒20から手を変えた。6.21日、「(坊)道策名人-熊谷本碩(先)」。不詳。6.24日、「(坊)道策名人-熊谷本碩(先)」。不詳。6.26日、 「(坊)道策名人-熊谷本碩(先)」は道策の白番中押し。道策門下五虎の1人本碩との対局 。6.28日、「(坊)道策名人-小倉道喜(先)」。不詳。7.20日、「(坊)道策名人-镜道哲(先)」。不詳。7.22日、「(坊)道策名人-镜道哲(先)」。不詳。7.25日、「(坊)道策名人-镜道哲(先)」。不詳。7.26日、「(坊)道策名人-镜道哲(2子)」。不詳。8.10日、「(坊)道策名人-熊谷本碩(先)」。不詳。8.12日、御城碁「(坊)道策名人-井上因碩(策雲因節)(先)」。不詳。「(坊)道策名人-熊谷本碩(先)」は道策の白番1目勝ち。滋味あふれる名局(玄妙道策)。「(坊)道策名人-熊谷本碩(先)」。「(坊)道策名人-小倉道喜 (先)」、。

 11.20日(翌1.1日)、御城碁「◯道節因碩-安井知哲(先)」、道節が白番中押し勝ち。「◯策元-安井仙角(古仙角)(先)」、策元が白番11目勝ち。この年、安井算知が正式に退隠し知哲が安井家当主となる。

 道策の碁として他にも次の棋譜が遺されている。

  「(坊)道策名人-雛屋立甫(5子)」、白番中押し勝ち。類見ない大技の決まった碁 。
 参考文献:中山典之 囲碁の世界(1986)他

               (黒52:11;五、黒80:12;五)


 対局日不明「(坊)道策名人-境道哲(2子)」、白番中押し勝ち。門下の上手格道哲との2子局。

 1698(元禄11)年、。
 11.20(12.21日)、御城碁「安井知哲-◯(坊)策元(先)」、策元が先番8目勝ち。御城碁「△井上因碩(道節)-△安井仙角(古仙角)(先)」、ジゴ。策元がこの年の御城碁を最終局として死去する。

 1699(元禄12)年、。
 9.12日、安井算知2世と道悦争碁第4局「安井算知2世名人-(坊)道悦(先)」、和棋。

 11.20日(1.9日)、御城碁「安井知哲-◯井上因碩(道節)(先)」、道節が先番中押し勝ち。御城碁「安井仙角(古仙角)-◯林門入(玄悦)(二子?)」、ジゴ。
 この年、知哲がこの年の御城碁を最終局として死去する。本因坊策元没(享年25歳)。
 この年、本因坊跡目が道的に続いて策元も早世した。八碩も本碩も死に後事を託すにたる弟子はまだ育たず、50歳を過ぎた道策は読経にふけることが多くなった。

 1700(元禄13)年、。
 5.11日、安井知哲が没(享年57歳)。京都寂光寺に葬られ、法名は理心院知哲居士。1692(元禄5)年に跡目としていた安井仙角が安井家四世となった。
 同年11.20日(12.29日)、御城碁「◯安井仙角(古仙角)-林門入(玄悦)(2子)」。仙角の白番1目勝ち。元禄年間「(坊)道策名人-桑原道節(2子)」。白番中押し勝ち。
 この年、 本郷元町に住み、御小人目付小頭役を勤めた十郎衛門の息子の神谷正之助が10歳の時、道策の下へ入門してきた。門弟と打たせてみると、天賦の才がうかがわれた。道策はただちに大才なりと見抜いた。この子以外に本因坊家を背負う者はいない。名も自分の一字を与え、道知と名乗らせた。道知は期待に応え、2年余で道策に二子で打てるまでになる。

 1701(元禄14)年、
 3.26日、4世本因坊道策没。その直前、3世井上因碩(道節、系図書き変え後は4世)を準名人(八段)に進め、道知の育成を依頼、「碁所を望まぬ」との誓書を書かせる。6.23日、神谷道知が後式御目見得。

本因坊5世道知時代

 1701(元禄14)年、7.1日、神谷道知が許されて5世本因坊となる(4段格、13歳)。

 10.1日、三崎策雲が3世因碩の養子となり、井上因節と改名。同15日、御目見得。

 11.24日、御城碁「◯井上因碩(道節)-安井仙角(古仙角)(先)」。白番11目勝ち。本因坊道知、井上因節が御城碁に初出仕。以後、道知は享保5年まで7局、因節(4世因碩)は享保17年まで26局を勤める。

 1702(元禄15)年、。

【道策死去後の棋界の動き】
 1702(元禄15).3.26(4.22)日、4世本因坊道策没(享年57歳)。その直前、枕辺に安井家、林家の当主と、将棋所の大橋宗桂までも立会人として招き、数十人の門弟がずらりと並ぶ中、道知に手伝わせて半身を起し、「我、死したる後も、生前通り少しも稽古怠りなく勉励すべし」と遺言した。

 続いて、「道的、策元と二人の跡目が夭逝した後に道知の才能を見て跡目に擬し」、ゆっくりと次のように語った。
 「私の命はもうあまり永くはない。これからの一語一句は私の遺言である。そのつもりで聞いてもらいたい。名人碁所として、又本因坊家の当主として、私は十分に使命を果たしたと思う。この囲碁の盛んな時代を目のあたりにし、いつ死のうと悔いはない。ここにただ一つ心残りなのは、道的、策元の後、わが跡目が定まっていないことである。今、死を目前にし、諸氏の立会いの下に、はっきり跡目を定めることにする。道策亡き後の本因坊家の跡目は、神谷道知とする。道知はまだ13歳であり、私に二つの碁である。意外に思う者も、不満に感ずる者も、ご一同の中にはあるやも知れぬ。しかし、この道策の見るところ、本因坊家を襲うに足る者は道知をおいて他にない。将来、当家を背負って立つ逸材に間違いない。みんな協力して道知を盛り立て、坊門を隆昌ならしめるように。そこで道節、いや4世井上因硯殿にお願いする。今後はどうか跡目道知の後見人として、その大成に力を貸していただきたい。貴殿のお力添えがあれば、必ず道知は名人碁所たり得る器である」。

 こうして、3世井上因碩(道節、系図書き変え後は4世)を準名人(8段)に進め、道知の育成を依頼、「碁所を望まぬ」との誓書を書かせる。

 道策の棋譜は全部で153局が残されており、うち安井知哲との対戦が48局で最も多い。残された棋譜に黒番での負けは一局もない。道策は、歌聖人麻呂、画聖雪舟と並び、石見三聖の一人とされる。大天才の道策は、安井流と呼ばれた当時の古いタイプの手法に変革を加え、合理的な碁を創り上げた。合理的な手割、全局的な布石の観点によるその手法は後に、道策流と称されるほど画期的なもので、日本の碁は道策が創作したともいわれている。桑原道節(後の名人因碩)は次のように評している。
 意訳概要「自分が師(道策)に先の手合で打てば、不肖なりといえども道節、盤上の理はほとんど知り尽くしているので恐らくは百戦百勝しよう。しかしながら、これは十九道三百六十一路と云う限られた盤上だから云えることであり、だがもし仮にこの碁盤を四面つなぎ、38道千四百四十四路の盤で打ったらどうなるだろうか。自分はどこに打ってよいか見当もつかず難渋するであろうが、師はさらさらと打ち進め、自分などはたちまち三子ほどに打ち込まれてしまうに違いない。これが師の強さであると私は思っている」。

 道策と並び「棋聖」と称される本因坊丈和(江戸後期の名人)は、人に「道策先生と十番碁を打ったらどうなりますか」と問われ、次のように述べている。
 「この百数十年の間に定石や布石の考え方が進歩したので、最初の十番は打ち分け(5勝5敗)程度には持ち込めるだろう。しかしその十番でこちらの手の内は全て読まれてしまうから、もしもう十番打ったら果たして打ち分けに漕ぎ着けられるものかどうか」。

 小林光一は道策に私淑しており、息子が生まれたら「道策」と名付けるか真剣に考えたことがあるという。また棋譜はほぼ暗譜している。

 時の最強者本因坊道策の下には天下の才能が集まった。道策には五虎と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩、星合八碩、吉和道玄などの優秀な弟子がいた。世人は、これを道策門下の「六天王」と称えた。道策はまず道的を跡目に指名した。本因坊道的は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。これに桑原道節が反発、自分と勝負の上で跡目を決定してもらいたいと申し出た。しかし道策はこれを拒み、実弟の3世井上因碩(道砂)を説得して引退させ、道節を井上4世に据えて納得させた。しかしこれほどの期待をかけた道的はわずか21歳で夭逝し、代わりに再跡目とした佐山策元もまた25歳で世を去った。そして策元の死後は跡目を立てなかった。これは2人の死のショックからというよりは、道策は道的に劣らぬ才能本因坊道知を見出し、道知の成長に期待をかけたためといわれている。道知は道節の後見を得つつ成長し、無事本因坊家五世を継いで後に名人碁所になった。なお道知は道策の実子という説もある。

 道策が亡くなった後も争碁は続き、江戸時代に6回行われた。碁所をめざし御城碁や、家元四家で真剣にお互いの技量を磨いたことが進歩発展につながった。雪の碁盤は、東京市ヶ谷の日本棋院1階に展示されている。同じ一本榧(かや)の木から雪・月・花の三面の名盤が作られ、徳川幕府の碁所で、打ち初(ぞ)めなどに使用された。

 道知以後は本因坊家の家元も三代にわたって6段止まりとなり、囲碁界自体も沈滞の時代を迎える。しかしここで現れた9世本因坊察元は他家を力でねじ伏せて久々の名人となり、本因坊家に中興をもたらした。また安井家7世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し、後世に大きな影響を与えた。
 この頃の浮世絵絵師の歌川豊国、国芳、葛飾北斎、喜多川歌麿など数多くが囲碁の場面を描いている。その一つは源氏物語の「空蝉(うつせみ)の巻」にでてくるもので、空蝉と軒端荻(のきばのおぎ)親子の対局場面を光源氏がのぞき見る場面を情感豊かに描いている。二つ目は、武者絵で最も多く登場する佐藤忠信が碁盤を武器に戦う雄姿を描いた歌川国芳の作品で、歌舞伎では、市川家の代表的な演目のひとつになっている。三つ目は、同じく国芳画「誠忠義士伝」で忠臣蔵の義士たちを描いている。そのうちの一つが「小野寺幸右衛門秀富」の浮世絵で、抜きはなった刀を碁盤に立てかけ、良邸に討ち入った直後の緊迫した場面で、傍らに散乱して碁笥(ごけ)からこぼれおちた黒石が、切迫した武士の表情と共になにやらただならぬ事態を想像させる。幸右衛門は、真っ先に吉良邸に突入して、奥の床の間に並べてあった半弓の弦をすべて切り払ったと伝えられている。史実によれば、討ち入り後、四家に分けて預けられた義士たちは、切腹までの二か月近くの間、よく碁を打っていたという逸話が残されている。(「藁科満治、3)三つの浮世絵に映える囲碁」参照)
 11.24日(翌1.11日)、御城碁「林門入(玄悦)-(坊)道知(先)」、道知が御城碁に初出仕し、林玄悦門入に先で7目勝ちとする。御城碁「安井仙角(古仙角)-井上因碩(策雲因節)(先)」、仙角の白番1目勝ち。

【江戸時代中期】
 1800年代に入ると、囲碁界は黄金期を迎える。江戸後期には商業経済の発達によって新しい町人階級から豪商が生まれ、農業でも豪農がでてくる。豪商・豪農はしばしば中央の碁打ちを招待したり、地方在住の碁打ちを優遇した。そのため碁打ちはよく、全国を旅回りした。 落語の「碁打盗人」で有名なように市井でも盛んに打たれていた。一方で地方によっては双六などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった。次のような囲碁史となる。
 09年02月27日「◆国技・3 ◆カムイ◆」。
 三世井上因碩(名人因碩)はもとは坊門であった。道策は弟子の中で一・二の実力をもつこの人を跡目にする気がなかった。意に添わぬものがあったのであろう。また、この人を恐れていたところもみえる。井上家の養子とし、家督を継がせたのも、不服を恐れてのことであった。因碩の心の中はわからない。師の扱いに感謝していたとは思えない。師弟の間も親密なものとは限らないのである。道策が期待していた跡目道的は、二十一歳で夭折した。道策の失望は喩えんようなかりしという。ついで跡目に選んだ策元、八碩、本碩、皆夭折して、年少の道知を跡目とした。死期がせまった時、因碩(道節)に道知の後見を託し、八段へ昇段を許した。気持ちの歩みよりを得たかったのだが、因碩自身が名人碁所を望まないように遺言した。筋の通らない遺言など、死後に守られないことは、秀吉が家康に遺言した例を見てもわかること。道策の伝記で、このことだけが汚点である。でも、因碩は遺命を守っていた。世評もあるから。島津家が伴ってきた琉球の棋士屋良里子に免状を授与するのに、碁所が欠所ではできない。道知はまだ若年、因碩が名人碁所に任じられた。師命にそむく悪名を受けずに、因碩は望みを果たした。だが、その後も長く碁所を続けたのは、師に不満をもっていた表れであろうか。後年、道知が名人碁所になった時、因碩のため、自分の名人碁所が十年遅れたと恨み事を述べている。育ててくれた因碩なのに。人の付き合いは、表面だけではわからない確執があるのである。因碩、道知は、力戦型の棋風で、道策とは質が違うものを感じる。道知の後、碁所はまた欠所となった。

 本因坊家は、道知の後、知伯、秀伯、伯元の三代は、ともに三十有余歳で病死し、棋力も六・七段どまりであった。この間、他の三家も優れた人材はなく、低調な時代であった。九世本因坊察元は家督を継いだ六段の頃から、他に懸絶した技量をもち、名人碁所を志した。当時悪い慣習があった。将軍上覧のお城碁は、あらかじめ下打ちして、将軍の前で、それを打っているように並べるのである。下打ちの時、話し合いで、勝負の均衡がとれるようにしていた。すなわち八百長である。察元は、自分の昇段に異議を唱える井上因碩、林門入に、話し合いの勝負に応ぜず、真の実力でお相手すると宣言する。安井仙角の助力もあり、疾風の如くに、準名人(八段)まで駈け上がった。さらに、宿願の名人碁所を願いでた。拒まんとする六世井上因碩と争い碁となる。因碩は、高齢であり、察元の敵でなかった。五勝一敗と連破し、名人碁所となった。察元の遺憾とするところは、同時代に好敵手がいなかったことである。碁界もまた低調な時代であった。察元は、蓄財の才もあった。明和九年、飢饉、大火、疾病に、民百姓は苦しめられた。明和九(めいわく)と読み方が通じると、安永と改元した。こんな時世に、察元は、京寂光寺への参拝に、大名行列にも劣らぬ共揃えを構えて、東海道を下ったという。不謹慎な行動ともとれるが、碁界のありかたに満たされぬ心を、貯えた富を派手に散財することで晴らしたのであろうか。察元が碁界に投じた一石は、二・三代後に開花するのである。

 1703(元禄16)年、。
 11.20日(12.28日)、御城碁「安井仙角-(坊)道知(先)」、本因坊道知、御城碁で初めて安井仙角と定先で対局。道知が黒番5目勝ち。御城碁「井上因碩(策雲因節)-林門入(玄悦)(先)」。白番4目勝ち。

 元禄年間に「碁経晴鑑」3巻、「碁伝集・碁立指南抄・碁立秘伝抄」5巻、「碁立指南大全」1巻が出版される。
 道節因硯は道策の遺言を忠実に守り、道知少年の育成に全力をあげた。自らは井上家の当主でありながら住まいを本因坊家に移し、道知と起居を共にした。道知もこれに応え、道節を真の師のように慕い、礼を尽して仕えた。

 1704(元禄17)年、3.13日、宝永に改元。

【「宝永の争碁」】
 1705(宝永2)年、道策の跡目となった本因坊道知、15歳の時、御城碁で6段格の安井仙角との対戦が望まれることになった。両者は、2年前、御城碁でも対戦し4段格の道知が先で5目勝っている。道知は、あの頃からさらに強くなっている。10.2日、井上因碩(8段半名人)が道知に「先」(6段格)を許したとして、安井仙角6段に11月の御城碁で互先で打つことを申入れる。仙角は、「定先から先相先を飛び越えて互先とは、とんでもない。前例のないことだ」と突っぱねた。道策亡き後、自分が碁界の第一人者と自負している道節は激怒し、強硬に仙角に談判した。10.23日、。仙角も意地になって、寺社奉行・三宅備前守康雄に対し、因碩指定の御城碁手合割りの不服状を提出した。11.1日、因碩は月番寺社奉行・本多弾正少弼忠晴に道知・仙角の互先手合直し願嘗を提出。弾正、前月番の備前守に願うよう指示を与える。結局、折衷案を採り、「先相先の手合割りに20番争碁」を裁可した。
 11.20日、「宝永の争碁」と云われる「安井仙角7段(32歳)-本因坊道知5段 (先相先の先番、15歳)」が11.24日に行われる御城碁の下打ちとして将棋方・大橋宗桂宅で行わる。争碁第1局は型通りのもので、第2局安井仙角7段-(坊)道知5段 (先相先の先番)が真剣碁になった。御城で朝の五つ(8時)から開始された。本因坊家と安井家は、算悦、算知、道悦の争碁以来、陰にこもったものが流れており、両者とも負けられない面目を賭けていた。ところがこの時、道知は体調不良で対局できる状態ではなかった。序盤から冴えがなく、そこを仙角につかれて劣勢に陥ってしまう。後見の因碩は途中で見ていられなくなって席を立ち、本因坊家まで重い足を引きずって帰った。道節の形勢判断では道知の勝ちは見出せなかった。夕刻になっても深夜になっても終局の知らせは来なかった。実際には、終盤戦に入るや道知が好手筋を連発し、鬼気迫る追い込みを見せ碁がもつれにもつれていた。特に黒125、127が後世に有名な妙手となった。「道知のヨセの妙手の局」と云われる。そして遂に1目抜き去った。勝ちと思い込んでいた仙角は三度まで作り直したと云われる。悪条件の第1局でも負けなかったことは道知の地力の証明であり、争碁の行く末を示したものだった。

 
第3局「安井仙角7段-(坊)道知5段(先相先の先番)」も道知白番3目勝ち。道知3連勝となり、仙角は名人の願い出を取り下げることとなった。
 同年10.12日、片岡因的(36歳、7段)が林門入(3世、後に玄悦)の養子となり、因竹と改名・跡目を許され、10.15日、御目見得。

 11.20日、御城碁「本因坊道知-林門入3世(玄悦)(先)」。道知が白番2目勝ち。御城碁「井上因節-安井仙角(先)」、仙角が先番14目勝ち。御城碁「安井仙角-(坊)道知(先)」、道知の先番1目勝ち。道知・仙角対局を閲覧に供す。11.24日、「井上因節-林因竹(先)」、因竹の先番3目勝ち。林因竹(後に4世門入)御城碁に初出仕。爾後、享保10年まで18局を勤める。11.25日、本因坊道知、寺社奉行に芸道修業のため仙角と番数(番碁)を打つことを願い出る。幕府、十番碁を命ず。12.16日、御城碁「井上因碩(策雲因節)-安井仙角(古仙角)(先)」。黒番14目勝ち。

 1706(宝永3)年、。
 正月 、「桑原道節-(坊)道知(先)」、和棋。1.8日、「井上因碩(策雲因節)-林門入(朴入)(先)」。黒番3目勝ち。
 2月上旬、道知、因碩のかねて高橋友碩、掘部因入に委嘱していた古記録「伝信録」成る。
 近松門左衛門が「碁盤太平記」を著し、大坂竹本座で上演される。これが忠臣蔵の源流となる。吉良邸の案内を、由良之助が碁盤に石を並べて会得するシーンが登場している。
 2.17日、「道知-仙角争碁」が本多邸で開始される。第1局は道知先番で15目勝ち。仙角が「15目負け候に相違これなく候」と念書を取られる。5.28日、「安井仙角-(坊)道知(先)」。黒番15目勝ち。6.2日、寺社奉行・鳥居伊賀守忠救邸で争碁第2局。道知白番で3目勝つ。6.3日、完敗した仙角は互先手合直りを認め、争碁中止出願を余儀なくされた。因碩は寺社奉行になお十番碁の継続を乞うたが、仙角は手をつくしてこれを回避し、奉行も因碩に争碁願を取り下げさせる。打倒仙角を果たした道知は「上手」に進んだ。
 道知は、仙角との争碁の直後、因硯(道節)と十番碁を打っている。2月~3.15日、道知「先」で3勝6敗1ジゴ。第1局「道知-因碩」(「井上因碩道節-(坊)道知(先)」)、道知の黒番3目勝ち。第2局「道知-因硯」、ジゴ。第3局「道知-因硯」、因硯(道節)の2目勝ち。第4局「道知-因硯」、因硯(道節)の3目勝ち。3.27日、第5局「道知-因硯」(「井上因硯道節-(坊)道知(先))、道知の黒番8目勝ち。3.28日、第6局「道知-因硯」(「井上因硯道節-(坊)道知(先))、因硯(道節)3目勝ち。4.6日、第7局「井上因硯(道節)-(坊)道知(先)」、因硯(道節)中押し勝ち。(2.23日、第7局「井上因硯(道節)-(坊)道知(先)」、因硯(道節)の中押し勝ち) 4.18日、第8局「道知-因硯」(「井上因硯(道節)-(坊)道知 (先))、道知の4目勝ち。4.25日、第9局「道知-因硯」(「井上因硯(道節)-(坊)道知(先)」)、因硯(道節)の2目勝ち。4.27日、第10局「道知-因硯」(井上因硯(道節)-(坊)道知(先)」)、因硯(道節)の7目勝ち。因硯(道節)は道知を7段に進めた。

 7.11日、「(坊)道知-安井仙角(先)」。白番3目勝ち。
 7月、林門入隠居、玄悦と号す。7.29日、林因竹が家督相続を許され4世門入となる。

 12.2日(翌1.5日)、御城碁「(坊)道知-安井仙角(古仙角)(先)」、仙角の先番5目勝ち。御城碁御城碁「林門入(朴入)-井上因碩(策雲因節)(先)」、因節の先番4目勝ち。
 この年、伊藤春碩(5世井上因碩、世系書き挽え後は6世)生まれる。
 この年、近松門左衛門の「碁盤太平記」が大坂の竹本座で上演されている。1702(元禄15).12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(「忠臣蔵」)の源流となるもので、次のような場面が書かれている。寺岡平右衛門が吉良邸の案内を苦しい息の下から語り、これを大星由良之助が碁盤に石を並べて会得する様子が語られている。
 「白石は塀、黒は館(やかた)と心得よ。ここは東表門、1目を十間づもり、並べし石数14目、百十間これ皆な塀か。折回しに平長屋、西の裏手は長屋か塀、さてはこれも折回しの長屋門。馬屋は西か武具の蔵。さてはここらぞ遠侍、広間はこれよりこれまでな、奥の寝所はここか、かしこか。さればこの間長廊下、この間が泉水広庭ならん。北は空地か碁盤の目」。

 1707(宝永4)年、。
 因碩が一門を集めて道知と再度十番碁を打ち、その結果によって後見を解くことを発表。7番で打止め、結果と碁譜は秘す。因碩は、前年の十番碁(7番)の結果により道知の後見を解き、本因坊家から別居、井上家の邸に戻る。

 12.25日(12.2日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-(坊)道知(先)」、道知の黒番6目勝ち。御城碁「安井仙角-林門入(先)」、門入の先番5目勝ち。

 1708(宝永5)年、。
 正月、本因坊家恒例の打ち初め式の後、一門揃っての屠蘇(とそ)を酌み交わそうとした時、道節が次のように述べている。
 「亡き師道策先生の遺命により、今日まで6年間、私は道知殿の後見に当って来た。しかしご一同も承知の通り、道知殿は格段の進境を示され、由緒ある坊門の棟梁として恥ずかしからぬ力量を備えられるに至った。新年を迎えたこの機会に私は後見を解こうと思う。どうかご一同、今後も若き当主を盛り立て、いっそう家名を高めていただきたい」。

 道知は、道節を名人にするべく要所に運動して奏功させている。道知は、「道策先生の遺言は碁所を望むなであって、名人になるなとは言っていません」と述べ、道節に恩を返した。

 3.3日、寂光寺(京都、寺町通竹島町下東側)焼失。本因坊隠居道悦、庭前に焼け残った白檀で11組の碁笥を製作させる。
 10月、井上因碩、63歳の時、名人(9段)に昇格する。
 11.22日(翌1.2日)、御城碁「(坊)道知-井上因碩(策雲因節)(先)」、因節の先番2目勝ち。御城碁「林門入ー安井仙角(先)」、仙角の先番4目勝ち。

 1709(宝永6)年、。
 相原可碩、坪田翫碩、召出されて御家人となる。
 
11.23日(10.22日)、御城碁安井仙角(古仙角))-(坊)道知(先)(「安井仙角-(坊)道知(先)」)、道知の先番5目勝ち。御城碁「林門入(朴入)-井上因碩(策雲因節)(先)」、因節の黒番4目勝ち。

 1710(宝永7)年、

【本因坊・道知が琉球碁士・屋良里之子(やらさとのし)を3子でこなす】
 1710(宝永7)年、1.1日、御城碁「11月、琉球の中山王が朝貢に際し、貢使随員の碁士・屋良里之子(やらさとのし、15歳)を随行させ、島津家を通じて本因坊家に対局を乞う。同時に月番寺社奉行にも許可を得る。

 12.1日、島津邸(芝)で、「(坊)道知-屋良里之子(琉球棋手) (3子)」、道知が3子局中押し勝ちした。

【因碩(道節)名人の碁所就任事変】
 屋良は、親雪上浜比嘉(べいちん・はまひか)の先例(本因坊道策が許可を与えた)により免状を懇請した。しかし、碁所は空位のままで免状が発行できなかった。名人だが碁所ではなかった因碩(道節)は、先師道策との誓約を破って碁所就位を決意し、林門入に相談した。
 「かって道策の時に、親雲上浜比賀の望みで免状を与えた。我が囲碁史上、外国の者に免状を与えたのはそれが初めてで、斯道の光栄であった。その時の免状の写しを見ると、日本大国手官賜棋所となっている。屋良にも望み通り免状を与えたいが、今、棋所はいない。道知はまだ年少である上に、格7段である。格7段では棋所たるを得ず、自分の地位も准名人である。准名人や格7段の免状を、屋良にやる訳にはいかない。どうしたものだろう」。
 「相談とはそこだ。自分は先師道策の死に際に、棋所の望みは絶対に起きないと誓った。その誓いを破る気はない。が、ここは日本碁界の体面の問題である。一時的に自分が棋所となって、免状を出すのはどうだろう。それなら島津家も喜ぶし、屋良も喜ぶだろう。断っておくが、これは一時的なことだ。免状を出したら、自分は退隠して棋所の地位を返す。そうしなければ先師に対して申し訳ないから」。

 「免状の件が済んだら碁所はお返しする」と公約して林、安井両家にはかって合意を取りつけ、かたがた道知の説得を要請した。道知も同意し、因碩(道節)は直ちに碁所就位を願い出、12.5日、幕府が因碩(道節)名人(65歳)の碁所就位を認可した。因碩(道節)は「日本国大国手」の肩書きで、里之子に「上手(七段)に対して二子」の免状を与えた。


 ところが、「免状の件が済んだら碁所はお返しする」と公約して碁所に就位した因碩(道節)は一向に碁所を返上しなかった。一説に、琉球人帰国の後は、道節を退位させ、道知を碁所に就かせるという密約が四家元でなされていた。これに道知が燻り続けることになる。

【相原可碩が、琉球碁士・屋良里之子(やらさとのし)と対局(向先)、2目勝つ】
 1710(宝永7)年、12.9日、相原可碩が、琉球碁士・屋良里之子(やらさとのし、15歳)と島津邸で対局(向先)、2目勝つ。12.14日、井上因節、高橋友碩、井家道蔵(因長)ら使者となり、「上手(7段)に対して2子」の免状(12.3日付)を島津邸に届ける。この件につき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「屋良里之子はその後、今一度本因坊と対局せんことを切望し、使者を以ってこの由を本因坊家に申し込みたるに、本因坊道知は勇気勃々之に応ぜんとするも、老練にして世故に経験ある因硯(4世井上因碩)は深く慮るところありて、今回は道知病気と称し、相原可硯をして代理たらしむべしと言いしかば、道知を始め多くの門人皆な不審に堪えざりしが、一同之に従いその旨を島津家に通知せり。島津家に於いては道知病気を本意なき事に思いしが、可硯代理を勤むると聞き、12月9日を対局の期と定む。時に可硯年甫(はじ)めて13歳。当日、可硯は因硯及び二、三人の門人に伴われ、島津邸にて白番2目の勝ちを得たり。よりて前日の手合いと同じくこの由書面に認め、奉行右京進に届け出、右京進は之を将軍家の上聞に達したるに、殊のほか御喜悦の由にて、真部越前守は13歳の可硯能く屋良に先を打たせて之に勝つ。誠にこれ和国囲碁の誉れなりと寿きを申し上げたりと云う。

 これより前、屋良里之子の薩摩邸に在るや、常に島津家召抱えの碁士斎藤道麿、西俣因悦に就いて道策流の石立てを学び、今や両人に対し二子を置くときは容易に敗を取ることなきに至れり。故に今回江戸に上り本因坊に対するも三子を置けば必勝なるべしと期し居たりしに、事実は予想に反し、中押し負けをとりて一度その非凡に驚きたるに、重ねて13童可硯に先番を取られ、実に遺憾の極みなりと嘆声を発するに至れり。

 碁終えて通弁江田親雲上因硯に語りて曰く、『我かって清国にも往来して彼の国の碁士を見たるに、その業は世襲に非ずしてその人限りとせり。叉碁品は日本に対し先の位なるべし。されば日本は万国に於いて斯道の一位たるべく、彼の可硯君の幼を以ってするもなおかくの如し』と。因硯帰邸後之を語り且つ曰く、『吾の先に本因坊を止めて可硯に代らしめたるは世上本因坊は囲碁の長者にして何人と対局するも必ず勝つものと信ぜり。故に本因坊にして克ち難き碁を勝ちたりとて、左まで賞讃せられざるも、可硯の如き少年をして対局せしめば、譬え負けたればとて別に恥辱と云うべきにも非ず。もし叉勝ちを得んか一層の名誉なりと信じ、かくは為したるに、事果たして予の希望の如かり』と
」。

 1710(宝永7)年、12.22日(11.3日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-林門入(朴入)(先)」。門入の黒番3目勝ち。御城碁「安井仙角(古仙角)-(坊)道知(先)」、仙角の黒番2目勝ち。
 この年、春、隠士三徳「囲碁四角妙」2巻出版。
 この年、井口知伯(後に6世本因坊)生まれる。

 1711(宝永8)年、4.25日、正徳に改元。
 同年12月、渋川春海(2代目安井算哲)、天文方より引退。12.30日(11.21日)、御城碁「安井仙角(古仙角)-井上因碩(策雲因節)(先)」、因硯の黒番3目勝ち。御城碁「林門入(朴入)-(坊)道知(先)」、道知の黒番5目勝ち。

 1712(正徳2)年、。
 「碁立指南大成」6巻出版。
 12.16日(1.12日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-安井仙角(古仙角)(先)」、仙角の黒番3目勝ち。「(坊)道知-林門入(朴入)(先)」。門入の先番2目勝ち。

 1713(正徳3)年、。
 11.16日(翌1.2日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-(坊)道知(先)」、道知の先番5目勝ち。御城碁「安井仙角-林門入(先)」、門入の先番3目勝ち。
 この年、「道策本因坊百番碁立」(別名さざれ石、道策の遺著)出版。

囲碁発陽論が出版される
 1713(正徳3)年、井上因碩3世著「囲碁発陽論」が出版される。因碩68歳のときに完成したものので、詰碁の本で不断桜(桜を絶やさないほどの名品の意味)とも呼ばれる。玄々碁経、官子譜のものも入っているが、殆どが因碩や当時の棋士たちのオリジナルな名品である。難解のものが多いことで知られている。著者の井上因碩いんせきは囲碁の家元である井上家の4代目である。井上家では、2代目から代々井上因碩を名乗るようになったことから、本因坊秀哉による緒言には「第三世井上因碩」と記されている。「第三世井上因碩」は、1697(元禄10)年に51歳で井上因碩を襲名し、1719(享保4)年に亡くなるまで家元の地位にあった。

 昭和の囲碁棋士である長谷川章は「囲碁の友」誌上に1951.6月から12月にかけて「発陽論について」という連載をし、連載第1回の記事冒頭には、「その規模の雄大な事、着想の非凡にして深遠なことは、只々驚く計りであり」と記している。死活の問題(詰碁)、攻め合いの問題、シチョウ問題、盤中詰碁などで構成され、原本では183題とされるが異本を含めると202題ともされる。生図の部全30題、盤図の部全11題、勝図の部 全32題、夾図の部全8題、点図の部 全14題、追落図の部 全16題 、劫図の部 全27題、飛門図の部 全14題、責合図の部 全17題、門沖図の部 全14題からなる。 

 井上因碩は本書完成後も、井上家門外不出の書とし、門下の者でも容易に見ることはできなかった。因碩死後もその内容は秘されていたが、井上家の火災にあって原本は焼失した。しかし本因坊烈元門下の伊藤子元が入手していたものが人づてに伝わり、1906年に安藤如意が伊藤松和の門人からその存在を聞き、山崎外三郎の未亡人より筆写の許しを得た。これを入手した本因坊秀哉が、15世井上因碩所蔵のものと合わせ、時事新報に掲載し、1904年に秀哉、因碩による解説とともに「囲碁珍朧発陽論」として出版した。写本で現在まで古書として残っているものもある。現在も解説本が出版されており、もっとも難解な詰碁集としてプロ棋士を目指す者にとってのバイブル的な存在となっている。
 「石立ての位は囲碁の陰なり。見分ける手段は陽なり。陰陽協和なき時は全備なりがたし。ここによって手段の筋囲碁に顕るる所の形を考え作すにその数無量にして尽されず。されども一通の手筋を論じて、一千五百余件の中、十が一を摘く一百八十余件を撰述せり。如斯をよく修練せば、手陽発すべし。勿論、石立位陰の修行猶専要なるべし。手段は限りなけれども、これらのよく形を図して有る時は畢竟見へずと云う事なし。手段抜群の人は、形顕れずといへども胸中に形を催して悪を去り好を用ゆ。この如き輩は希にして尤も大功、庸人に踰ゆ。これを真に見ゆる名人と謂ふべし。且つこれらの形に厚薄あり、近き手筋なれども庸手の不附心所を導かむために記せり。又云う、往昔伝わりし囲碁の書に改善をして手筋を人にしらしむる類多し。考うるに作者の書きたるにはあらず。もし筋の改書をあやまらば、誠に本意なかるべし。故にこの書に評を加へん人、必ずその名を記して後世に伝べし。正徳三癸巳年八月十四日 官賜碁所 三世井上因碩」。

 1714(正徳4)年、。
 12.20日(11.14日)、御城碁「(坊)道知-井上因碩(策雲因節)(先)」、因硯の黒番3目勝ち。御城碁「林門入(朴入)-安井仙角(古仙角)(先)」。黒番4目勝ち。

 1715(正徳5)年、。
 10.6日、渋川春海没(享年77歳)。12.9日(11.14日)、御城碁「林門入(朴入)-井上因碩(策雲因節)(先)」、因硯の黒番3目勝ち。御城碁「安井仙角-(坊)道知(先)」。道知の黒番5目勝ち。

 1716(正徳6)年、。
 4.11日、「服部因??-中野知得(先)」。黒番中押し勝ち。4.14日、「中野知得-服部因??」。黒番中押し勝ち。

 1716(正徳6)年、6.22日、享保に改元。
 10.15日、「中野知得-宮重元丈(先)」。不詳。11.17日(12.30日)、御城碁「(坊)道知-安井仙角(古仙角)(先)」、仙角の黒番2目勝ち。「井上因碩(策雲因節)-林門入(朴入)(先)」、門入の黒番3目勝ち。
 この年、徳川吉宗の御代、家康の命日にちなんで(大阪冬の陣の吉例により)御城碁を毎年11.17日と定める。

 1717(享保2)年、。
 11.17日、御城碁「井上因節-(坊)道知(先)」、道知の先番5目勝ち。御城碁「林門入ー安井仙角(先)」、仙角の先番4目勝ち。

 1718(享保3)年、。
 11.17日(翌*)、御城碁「(坊)道知-林門入(朴入)(先)」、門入の先番3目勝ち。

 1719(享保4)年、。
 11.17日、林家隠居玄悦(3世門入)没(享年45歳)。

 12.27日(12.2日)、御城碁「林門入(玄悦)-(坊)道知(先)」。黒番5目勝ち。「井上因節-安井仙角(先)」、仙角の先番3目勝ち。

 この年、12.7日、3世井上因碩(名人碁所、系図書き換え後は4世)生没(享年74歳)。12.27日、井上因節が家督して4世因碩(系図書き替え後は5世)となる。因碩没後、道知が他の三家に対し、碁所就任の弁を開陳した書面を送りつけている。次のように述べている。
 「琉球人帰国の後は道節を退位せしめ、自分を碁所に就かせるというのが神明に誓っての約束であった。そこで問う。第一、道節を碁所のままにしておいたのは違約である。なぜ放置したのか。第二、道節死去し、碁所が空位になったにも拘らず何の沙汰もない。なぜか。第三、もし三家でこのままに過ごすならば、今後の御城碁においては道知一人、一切手加減をせず、力のあらん限り対局する。さよう御了承願いたい」。

 宝永3年から享保4年まで、14年間の道知の御城碁の成績は先番勝ち、白番負けと判で押したように決まっていた。そればかりか、先番なら5目勝ち、白番なら2~3目負けと目数まで揃っていた。既に、三家元の誰も道知に立ち向かえる技量を持った碁打ちはいない。道知が八百長でなく、本気で打ってきたら三家元は惨敗して面目を失うことは明らかだった。三家が鳩首会議を開き次のように回答している。
 「第一の点については過ぎ去ったことで、いまさら仕方がござらぬ。第二点については、道節が死んで日も浅いせいである。我々は明日にも運動を起し、貴殿を碁所に推挙するであろう。しかし御城碁の期日も迫っていて、時間的に無理であるから、今年のところはとりあえず8段準名人に進んでいただき、その後改めて碁所に推したいと考える。ついては第三の点、本年の井上因硯(5世策雲)との御城碁は、かねての手はず通りジゴに打ってくださるようお願いしたい」。
 
 道知は、この回答を受け入れたが、ジゴに打つのに道策とその弟子熊谷本碩との稽古碁を用いるという条件を付けた。

 1720(享保5)年、。
 2月、道策の門人であった秋山仙朴(小倉道喜)が大阪で「新撰碁経大全」及び「古今当流新碁経」を出版(田原量)。京都に隠居している道悦から道知に宛てて、書簡と共に2冊の本が届けられた。手紙には次のように認められていた。
 「みだりにかかる書物の出版を許さざるは、そのかみよりの御定め。宗家おいて処置あってしかるべし」。
 10月、本因坊道知、三家に対し「名人碁所」の承認を迫り、無関心を装う態度を難詰。三家、とりあえず「名人上手間の手合」(入段、準名人)に推薦し、明年「名人碁所」に堆挙することで合意をみる。

 11.17日、御城碁「(坊)道知-井上五世因碩(先)」。ジゴ。この碁は146手までは「道策-本碩」の対局そのままである。有名な碁を下敷きにすることで、「この碁は八百長である」と後世に知らせていることになる。

 11.18日、高橋友碩、4世因碩(因節)の跡目となり、井上友碩を名のる(同28日御目見得)。同日、井家道蔵、林門入(因竹)の跡目となり因長と改名(御目見得は友項と同日)。
 この年、

 1721(享保6)年、。
 4.10日、安井仙角、井上因硯(因節)、林門入(朴入)ら、月番寺社奉行に本因坊道知の「名人碁所」就位を出願。6.8日夜、寺社奉行、本因坊道知に明九日の登城を命ず。同9日、本因坊道知に「名人」の允許状を下附。道知、時に32歳。7月、安井仙角、井上因碩(因節)、林門人(朴入)、「名人上手問の手合」(8段)に進む。11月初旬、寺社奉行、道知に「碁所」任命を申し渡す。道知は名人・碁所となった。祝いの言葉をかける門人たちに、「10年、遅れた」と苦笑いしている。道知亡き後、本因坊家の家元は三代「知伯、秀伯、伯元」にわたり六段止まりで、他の家元にも傑出した棋士は現れず、囲碁界自体も沈滞の時代となった。

 
11.17日(翌1.4日)、井上友碩、林因長(5世門人)が御城碁に初出仕。爾後、友碩は享保10年まで5局、因長は寛保2年まで16局を勤む。御城碁「林門入-井上友硯(先)」、友硯の先番4目勝ち。御城碁「井上因碩(策雲因節)-林門入(因長)(先)」、因長の先番3目勝ち。

 12.18日、「(坊)道知(先)-TsubotaGanseki 」。黒番勝ち。

 1722(享保7)年、。
 6.10日、本因坊道知の甥に当る井口知伯(13歳、後に6世本因坊)が本因坊道知の跡目となる。7.28日、御目見得。

 11.17日(12.24日)、御城碁「林門入ー安井仙角(先)」、仙角の先番4目勝ち。御城碁「井上因碩(策雲因節)-(坊)知伯(3子)」、知伯の3子局6目勝ち。御城碁「井上友硯-林因長(先)」、因長の先番3目勝ち。

 1723(享保8)年、。
 11.17日(12.14日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-林門入(因長)(先)」、ジゴ。御城碁「安井仙角(古仙角)-井上友碩(先)」、友硯の黒番2目勝ち。御城碁「林門入ー(坊)知伯(2子)」、ジゴ。12.28日、長谷川知仙、上野東叡山崇保院宮のロ添により、星合八碩の前例に則り、40年ぶりに外家として上手(7段)の地位に進む。

 1724(享保9)年、。
 4.5日?、「井上春碩-永野快山(先)」。92手まで三劫無勝負の珍譜。「三劫」として知られる。11.24日(1.8日)、御城碁「安井仙角(古仙角)-井上因碩(策雲因節)(先)」、因硯の黒番3目勝ち。御城碁「井上友硯-林門入(先)」、門入の先番5目勝ち。

 1725(享保10)年、。
 この頃、先に「古今当流新碁経」、「当流碁経大全」を出版していた秋山仙朴(小倉道喜)が「新撰碁経大全」三冊を発行した。「新撰棋経」の序は次の通り。
 「囲棋はその来る久しく、古賢之をもてあそぶ者多し。本朝本家深く秘して、その図を出すことを許さず。世に囲碁の書多しといえども取るに足らず。一日門人来たりて懇(ねんごろ)にその図を求む。予、辞するを得ず。策元直伝を以ってこの書を著す。妙術至極に至りては口授にあらざれば喩(たと)ゆべからず。その器によりて更に相伝うべし。この図、本家の直伝なれば、みだりに他見あるべからざるものなり。享保十乙巳年盆夏吉旦」。

 冒頭第一葉の欄外は次のように記していた。
 「右八所角、外打手無之可知、是本因坊道策家伝也。今、道策流を学ぶ者は自分の他にない。後世のため、このことを書きおくことにする」。

 「坐隠談叢」は次のように評している。
 「当時、碁道の隆盛なるにつれ、動(ややと)もすれば各家元の衝突を生じ易く、従って各家元に於いては些些(ささ)たることをも相秘し、その技芸に対しても彼の専売特許の如く秘伝口授と称し、たとえ同門の者と雖も他見他言せしめざるの風あり。これが為、地方に於いては師とすべき著作もなく、遠隔の者は空しく偉材を抱きて草莽に埋没せらるるの幣兆を生じ、志ある者をして妄りに遺憾の念に堪えざらしむ。秋山仙朴これを嘆き、ここに当流新碁経2巻を著して之を公にし、今又新撰碁経を公にす。けだし仙朴は道策の門人にして小倉道喜と称し、当時既に高段の技を有したるも、性磊落不羈にして細節を省みず。道策死し、道知継いで後幾ばくならず破門せられて、帰参を願わず。江湖に漂遊して一生をたく仙に擬する者、この著の如き敢えて自己の利名を貪るの挙に非ざるが如し」。

 10月、本因坊道知が、林門入、道策の遺弟などを集めて協議のうえ、寺社奉行・小出信濃守英貞に「新撰碁経大全の自己宣伝のために不要な言辞を弄し、家元側を傷つける個所あり」と訴え出、秋山仙朴(小倉道喜)を告訴した。翌11年に至り幕府は道知の主張を認め、同書及び「当流碁経大全」の出版を禁止し、仙朴に10日間の戸閉めの判決を下す。戸閉めとは、閉門、逼塞、遠慮、押込と共に自宅に籠居させる自由刑の一つで、入り口の戸に釘付けにされる重い方の刑だった。これより約30年間、碁書出版は家元の特権となる。これを「新撰碁経訴訟」と云う。新「談叢」は次のように記している。
 「当時、幕府の棋道における格別なる保護は、漸く範囲を脱出せんとするものの如く、その奨励保護の結果は、単に家元の保護奨励をなすのみとなりて、即ち家元の権利を極端に保護せんが為に棋道に忠であつた仙朴は却ってその犠牲となった」。

 これより少し前、伊藤宗印の弟子・原喜左衛門が本を出版し、伊藤家の出訴によって絶版されており、この流れが継承されたのかもしれない。
 11.20日(12.24日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-林門入(朴入)(先)」。黒番4目勝ち。御城碁「林門入(因長)-安井仙角(古仙角)(先)」、仙角の黒番5目勝ち。「井上友硯-(坊)知伯(先)」、友硯の白番1目勝ち。

 1726(享保11)年、。
 幕府、囲碁、将棋事績調査のため、まず各家元の住所、年齢等を届けさせる。12.10日、御城碁「井上因碩(策雲因節)-(坊)知伯(先)」、ジゴ。御城碁「安井仙角(古仙角)-林門入(因長)(先)」、門入の黒番3目勝ち。12.29日、林門入4世が隠居して朴入と号す。林因長、家督を継五世門人となる。

 この年、井上友碩7段没(享年46歳)。

 1727(享保12)年、。
 1.29日、寺社奉行より碁将棋事蹟調査。本因坊道知、林朴入と計って答申する。5.28日、長谷川知仙(享年45歳)、安井仙角(4世)の跡目となる。但し早世する。
 この年、2.4日(3.26日)、本因坊隠居(3世)道悦が京都で没する(享年92歳)。歴代家元中最長命だった。本姓は丹羽、伊勢あるいは石見国出身、本因坊算悦門下、準名人。碁所の地位を巡って安井算知と二十番碁を打った。法名は日勝。

本因坊6世知伯時代

 1727(享保12)年、。
 7.28日(6.10日)、五世本因坊道知が急逝した(享年38歳)。本妙寺に葬られた。生国は江戸。本姓は神谷。本因坊道策門下、名人碁所。法名は日深。道知は道策の実子であったという説もある。将棋も強く、6段と言われ、7段の因理という者に香落ちで勝った際には、その場にいた大橋宗桂、安井仙角らから「盤上の聖」と讃えられたと云う。

 6.11日、安井知仙、代理で道知死亡届を出す。同時に知伯を相続させたいとの道知の遺書を提出。7.28日、伊藤春碩、井上因碩(因節、4世)の再跡目となる。9.4日、跡目本因坊知伯、家督を許され6世本因坊となる。

 11.17日(12.29日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-安井知仙(先)」、知仙の黒番3目勝ち。御城碁「林門入(因長)-井上因碩(春碩)(先)」、因硯の黒番1目勝ち。御城碁「安井仙角(古仙角)-(坊)知伯(先)」、ジゴ。

 1728(享保13)年、。
 11.17日(12.27日)、御城碁「安井仙角(古仙角)-井上因碩(春碩)(先)」、ジゴ。御城碁「林門入ー(坊)知伯(先)」、知伯の先番2目勝ち。
 この年、安井知仙、没(享年46歳)。豊前国小倉の生まれ。井上道節因碩門人となって五段に進んだ後、本因坊道知の門下となって6段まで進み、小倉藩領主の小笠原右近将監に召し抱えられる。上野宮祟宝院宮の碁の相手を務めて寵愛され、宮は知仙を上手(7段)に進めることを道知ら家元衆に思し召したが、当時は外家に上手を認めることはなかった。1723(享保8)年、外家としては吉和道玄以来の上手が認められた。また安井仙角に跡目候補がなかったため1727年に上野宮に乞い家元安井家の四世安井仙角の跡目・安井知仙に就任した。7段となり同年の御城碁に出仕し御城碁1局を務め「井上策雲因碩-安井知仙」戦に先番3目勝ちした。互先から五子局までの置碁の布石に関する二巻本を著し上野宮に奉じている。1753(宝暦3)年、「碁立絹篩宝暦本」として売本された。一時期道知との共作と誤認された。

 1729(享保14)年、
 11.17日、御城碁「林門入(因長)-井上因碩(策雲因節)(先)」、因硯の黒番5目勝ち。御城碁「(坊)知伯 -井上因碩(春碩)(先)」、因硯の黒番4目勝ち。

 1730(享保15)年、。
 11.17日(12.26日)、御城碁「井上因碩(策雲因節)-安井仙角(古仙角)(先)」、仙角の黒番4目勝ち。御城碁「林門入(因長)-井上因碩(春碩)(先)」、ジゴ。

 1731(享保16)年、。
 11.17日(12.15日)、御城碁「安井仙角(古仙角)-林門入(因長)(先)」、ジゴ。御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)知伯(先)」、知伯の黒番3目勝ち。

 1732(享保17)年、。
 11.17日(1.2日)、御城碁「(坊)知伯-井上因碩(春碩)(先)」、春硯の先番4目勝ち。御城碁「井上因碩(策雲因節)-林門入(因長)(先)」、門入の先番3目勝ち。

 1733(享保18)年、
 8.3日、佐藤秀伯、生国奥州に帰省。

本因坊7世秀伯時代

 1733(享保18)年
 8.20日、本因坊知伯急逝(享年24歳、法名、日了)。同日、家元会議により佐藤秀伯を後式と定め、井上因碩より寺社奉行・松平玄蕃頭忠暁に出願。玄蕃頭、知伯の死因に疑惑を抱き、役人・依田清左衛門を判元見届けとして派達し、また医師・正因より病症書きを徽す。8.23日、奥州の秀伯に知伯急逝の急使を出す。9.8日、秀伯、江戸に帰着。

 
11.6日、老中・松平伊豆守信祝、秀伯と因碩を呼出し、秀伯の本因坊家家督相続の件、聞き届ける旨を達す。秀伯5段(18歳)が7世本因坊となる。11.15日、本因坊秀伯、御目見得を許され、回礼。

 11.17日、秀伯、御城碁に初出仕。爾後、元文4年まで7局を勤める。11.17日(12.22日)、御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(因長)(先)」、門入の黒番4目勝ち。御城碁「安井仙角(古仙角)-(坊)秀伯(2子)」、秀伯の2子局5目勝ち。
 この年、後の本因坊・察元が武蔵野国(現在の幸手市平須賀)に生まれている。本姓は間宮、父は又左衛門。

 1734(享保19)年
 11.17日(12.11日)、御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)秀伯(先)」、秀伯の黒番2目勝ち。12.23日、4世井上因碩(因節、世糸書換え後は5世)の隠居と井上春碩の家督相続聞き届けられ、春碩、5世因碩(世系書換え後は6世)となる。

 1735(享保20)年、。
 3月、先代(隠居)因碩(因節)没(享年64歳)。4世安井仙角(古仙角)、田中春哲(後に仙角5世)を再跡目に願い出て許される。井上因碩、相原可碩は7段、本因坊秀伯は6段に進む。11.17日(12.30日)、安井春哲、御城碁に初出仕。爾後、明和8年まで32局を勤める。御城碁「(坊)秀伯-安井仙角(春哲)(先)」、春哲の黒番2目勝ち。御城碁「林門入(因長)-井上因碩(春碩)(先)」、春硯の黒番3目勝ち。

 1736(享保21)年、4.28日(グレゴリオ暦6.7日)、桜町天皇即位のため元文に改元。
 1736(元文元)年、 岡田門利、五世林門入(因長)の跡目となる。11.17日(12.18日)、林門利、御城碁に初出仕。爾後、延享元年まで6局を勤める。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙角(春哲)(先)」、ジゴ。 「(坊)秀伯-林門利(2子)」、門利の2子局6目勝ち。

 1737(元文2)年、。
 安井春哲、家督相続を許され、5世仙角となる。11.17日(12.8日)、御城碁「(坊)秀伯-安井仙角(春哲)(先)」、仙角の黒番1目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(門利)(2子)」、門利の2子局7目勝ち。

 この年、正月4日、4世安井仙角(古仙角)没(享年65歳)。5月、碁将棋名順訴訟事件将棋方・伊藤宗看、慣習的な格式だった碁将棋名順の不当を寺社奉行・井上河内守正之(将棋五段)に出訴し、碁方不利となる。9.17日、井上河内守急逝し、碁将棋名順訴訟は大岡越前守忠相の係となる。10月、大岡は碁将棋名順は従来通りで差しつかえなしとし、以下の順位を確認。「一、本因坊。二、伊藤宗春(看)。三、林門入。四、井上因碩。五、安井仙角。六、大橋宗桂。七、大橋宗現。八、林門利。九、伊藤宗寿」。

 1738(元文3)年、
 8月、5世林門入(因長)名人碁所を望む。井上因碩5世(春碩)を通じて本因坊秀伯に碁所就位につき協力を要請するも秀伯はこれを拒絶。11.17日(12.8日)、御城碁「井上因硯-(坊)秀伯(先)」、秀伯の先番4目勝ち。御城碁「安井仙角(春哲)-林門入5世(因長)(先)」、仙角の白番3目勝ち。

 1739(元文4)年、。
本因坊7世秀伯、7段昇級を志し、安井仙角5世をして林門入5世と井上因碩5世を説かしめたが、両人は承知せず。秀伯は仙角を添願人として門入と一年二十番の争碁を出願。門入(50歳)は病気を理由にこれを忌避し、代打ちとして因碩(春硯、32歳)が秀伯(24歳)と争碁を打つこととなる。11.17日(12.17日)、御城碁「井上因碩(春硯)-(坊)秀伯(先相先)」争碁第一局を打つ(春硯因碩、生涯二度の争碁・その一)。「(坊)秀伯-井上因碩(春硯)」、因碩の先番2目勝ち。御城碁「安井仙角(春哲)-林門入(門利)(先)」、門入の黒番5目勝ち。

 1740(元文5)年、
 井上因碩(春碩)と本因坊秀伯の争碁は6月までに8局まで進み、秀伯4勝3敗1持碁の成績で勝ちこすも吐血して病床に臥す。家元会議により〃中間扱〃として争碁を中止せしむ。この年、小崎伯元(後に8世本因坊)、本因坊秀伯の門に入る。11.17日(1.4日)、御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙角(春哲)(先)」、因硯の白番1目勝ち。  

本因坊8世伯元時代

 1741(元文6)年、。
 2.4日、本因坊秀伯、重病に陥り再起不能を自覚。各家元を枕辺に請じ、後継者を小崎伯元とすることの諒解を求め、後事を託す。安井仙角、本因坊秀伯の代理人となり、小崎伯元(16歳)の本因坊跡目を寺社奉行・山名因幡守豊就に出願、異議なく許可される。2.11日、7世本因坊秀伯、没(享年26歳)。法名は日吉。

 1741(元文6)年、2.27日、寛保に改元。
 1741(寛保元)年、5.3日、7世跡目・本因坊伯元、家督相続を許される。5.15日、8世本因坊伯元、16歳の時、御目見得。

 11.17日(12.24日)、御城碁「安井仙角(春哲)-(坊)伯元(先)」、ジゴ。御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(門利)(先)」、門利の黒番1目勝ち。

 1742(寛保2)年、
 11.17日(12.13日)、御城碁「林門入(因長)-安井仙角(春哲)(先)」、門入の白番13目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)伯元(2子)」、因硯の白番4目勝ち。 

 1743(寛保3)年、。
 10月、五世林門入(因長)、井上因碩(春碩)の賛同を得て碁所(名人)の出願をするも、本因坊伯元と五世安井仙角の反対により寺社奉行・大岡越前守忠相の係りで裁判の結果、争碁によるべしと裁決され、 願を取り下げる。11月、5世林門入、隠居を願い出る。12月、門入の隠居と跡目。門利の家督相続を聞き届けられる。林門利、六世門入となり7段に進む。11.17日(翌1.1日)、御城碁「安井仙角(春哲)-(坊)伯元(先)」、伯元の黒番2目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(門利)(先)」、ジゴ。

 1744(寛保4)年、2.21日(グレゴリオ暦4.3日)、讖緯説に基づく甲子革令に当たるため延享に改元。
 同年11.17日(*日)、御城碁「(坊)伯元-林門入(先)」、門入の先番1目勝ち。
 この年、井上因碩(因達)が吉益東洞広島にて誕生する(「玄人素人囲棋新撰」による)。1747年説もある。

 1745(延享2)年、。
 11.2日、隠居門入(因長)生没(享年56歳)。11.17日(12.9日)、御城碁「(坊)伯元-安井仙角(春哲)(先) 」、春哲の黒番4目勝ち。

 1746(延享3)年、。
 正月29日、6世林門入(門利)生没(享年推定38歳)。林転入(16歳)家督相続を許され、7世門入となる。11.17日(*日)、御城碁「安井仙角(春哲)-(坊)伯元(先) 」、伯元の先番3目勝ち。

 1747(延享4)年、。
 田原橘二(吉益姓ともいう、後の井上因達=7世因碩、世系書換え後は8世)生まれる(安芸国佐伯郡己斐村)。11.17日(*日)、御城碁「(坊)伯元-井上因硯(先) 」、因硯の先番16目勝ち。

 1748(延享5)、7.12日、寛延に改元。
 1748(寛延元)年、原仙哲初段(堆定15歳)、五世仙角の跡目となる。

 11.17日(1.1日)、安井仙哲(5世跡目)御城碁初出仕、爾後跡目時代に33局、家督相続後は6局(最終は安永7年)、計39局を勤める。「井上因碩(春碩)-安井仙哲(3子)」、仙哲の3子局3目勝ち。

【三度目の琉球棋士来日、初の白星を飾る】
 1748(寛延元)年、12.23日、琉球貢使随員として田頭親雲上(たがみぺいちん)及び与那覇里之子(よなわさとのし)の両棋士が、島津家を通じて井上家に指導対局を要請して来た。今回で三度目となるが、前の二回は道策、道知の黄金時代であった。今回は低迷不振の時代で指導碁を打てる棋士がいなかった。そこで井上因碩6世(春碩)7段が引き受けることになった。

 12.25日、井上因碩(春碩)が、島津家の薩摩藩邸で道策、名人因碩以来3回日の琉球棋士との国際手合を行う。田頭が3子、与那覇は因碩の弟子・岡田春達に4子で対局し、いずれも黒中押し勝ちとなった。田頭は「上手に定先」(5段)の格に進められんことを願ったが井上因碩(春碩)が拒絶し、寺社奉行及び碁方と謀って「上手に先二」(4段)を許すこととし、名人因碩の先例に倣い「日本国大国手」の肩書を用いて免状を与えた。琉球からの対局希望は、これを最後に途絶えた。与那覇は後に棋力大いに進み、中国に渡って名手と云われる人たちと碁を打ち歩いている。帰国後、「中国第一流の棋士は日本の名門道策にも劣るまい」との言を遺している。

 1749(寛延2)年、
 1.1日、御城碁「」。黒番3目勝ち。9月、「本因坊道知四十番碁諺解」(写本、井田道祐。標註)成書。11.17日(12.26日)、御城碁「(坊)伯元-安井仙哲(先)」、伯元が白番5目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙角(春哲)(先)」、ジゴ。

 1750(寛延3)年、。
 6月、岡田春達(23歳)、5世井上因碩の跡目となる。11.17日、林門入7世(転入)、井上春達(五世跡目)、御城碁に初出仕。門入は宝暦五年まで6局、春達は天明2年まで38局を勤める。

 11.17日(12.15日)、御城碁「安井仙角(春哲)-井上因碩(春達)(先)」。黒番4目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙哲(先)」。黒番2目勝ち。
 この年、山本烈元(十世本因坊、江戸)生まれる。

 1751(寛延4)年、10.27日、宝暦に改元。
 1751(寛延4、宝暦元)年、11.17日(1.3日)、御城碁「井上因碩(春達)-安井仙哲(先)」、ジゴ。御城碁「安井仙角(春哲)-林門入(転入)(2子)」、門入の黒番1目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)伯元(先)」、伯元の黒番3目勝ち。

 1752(宝暦2)年、。
 11.17日(12.22日)、御城碁「井上因碩(春達)-安井仙角(春哲)(先)」、仙角が黒番2目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(転入)(先)」、ジゴ。「(坊)伯元-安井仙哲(先)」、伯元が白番1目勝ち。

 1753(宝暦3)年、。
 8月、京都の安田嘉兵衛が「玄々碁経俚諺鈔」3巻(河北鳴平縮)を出版。11.17日(12.11日)、御城碁「井上因碩(春達)-(坊)伯元(先)」、伯元が黒番3目勝ち。「安井仙角(春哲)-井上因碩(春硯)(先)」、因硯が黒番5目勝ち。「安井仙哲-林門入(転入) (先)」、門入が黒番2目勝ち。

 1754(宝暦4)年、。
 4月、本因坊伯元が病に倒れ、井上春碩因碩が代理で間宮察元6段を跡目に願い出る。8.20日、間宮察元6段が老中松平左近將監より8世本因坊跡目を許される(22歳)。

本因坊9世察元時代

 1754(宝暦4)年、。
 9.26日、8世本因坊伯元、没(享年29歳)。12.3日、8世跡目本因坊察元(21歳)の家督相続を許され9世本因坊となった。6世知伯、7世秀伯、8世伯元の3人とも若死にし、本因坊家は上手(7段)すら出ないまま30年が過ぎていた。

 11.17日(12.30日)、御城碁「井上因碩(春達)-安井仙哲(先)」、仙哲の黒番4目勝ち。「安井仙角(春哲)-林門入(転入)(先)」、ジゴ。

 1755(宝暦5)年、。
11.17日(12.19日)、9世本因坊察元が御城碁に初出仕する。御城碁「安井仙角(春哲)-井上因碩(春達)(先)」、因硯の黒番3目勝ち。「林門入(転入)-安井仙哲(先)」、仙哲の黒番2目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)察元(先)」、察元の黒番4目勝ち。両者は爾後、天明4年まで26局を勤める。

 1756(宝暦6)年、。
 4月、察元は死に物狂いで修行し、古今の棋譜をすべて調べ尽し、誰にも負けぬ自信を持った。上手(7段)昇格運動を起こすも果さず。安井仙角5世春哲は了承したが、井上因碩6世春達7段と林門入7世転入6段が反対した。察元は同じ6段の門入に6局で5番勝ちであることを主張してまた争碁を迫り、因碩、門入の同意を得た。

 11.17日(12.8日)、御城碁「(坊)察元-安井仙角(春哲)(先)」は、春哲が黒番3目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙哲(先)」、因硯が白番2目勝ち。「(坊)察元-安井仙角(先)」、仙角が先番3目勝ち。

 1757(宝暦7)年、。
 4.7日、本因坊察元、争碁を振りかざして井上因碩(5世、春碩)と林門入を説き、上手(7段)昇格を承認させる。9.23日、7世林門入(転入)没(享年堆定27歳)。井田道祐の長子、祐元、後式相続を許され、林門入8世となる。御城碁「本因坊察元-井上春達(先)」は、井上が黒番3目勝ち。

 11.17日(12.27日)、御城碁「(坊)察元-井上因碩(春達)(先)」は、因硯が黒番3目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙哲(先)」、仙哲が黒番6目勝ち。

 1758(宝暦8)年、
 正月、寿玉堂が平井直興編「耶鄲亦寝夢」全5巻発行(版元は江戸、升屋忠兵衝。升屋忠兵衛と平井直興は同一人物)。11.17日、8世林門人、御城碁に初出仕。爾後、天明7年まで31局を勤める。御城碁「本因坊察元-安井仙哲(先)」は、察元が白番2目勝ち。

 11.17日(12.17日)、御城碁「井上因碩(春達)-安井仙角(春哲)(先)」、仙角が黒番4目勝ち。御城碁「(坊)察元-安井春哲仙角(先)」、察元が白番2目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(祐元)(2子)」、門入が2子局
5目勝ち。(坊)察元-安井仙哲(先)」。白番2目勝ち。

 囲碁人名録として「邯鄲亦寐夢」中の「囲碁人名録」(1758年出版)が遺されている。これの上位者を確認しておく。
九段 名人 [備中三田村]田嶋源五郎
八段 半名人 [大坂万喜平八事]斎藤治左衛門
七段 上手 [京都]小嶋登曽之進、[濃州北方]渡辺孫左衛門
上手並 [江戸]武井粂右衛門/ [高野、少弁事]密文坊/[備中三田村、三松事]難波源作/[加州今江戸]快全坊/[備中蔵敷]大熊源四郎/[江戸、駿河忠治事]小倉松山/[豆州、三島長五郎事]吉田清右衛門
六段之部 [備前]田中千之助/[肥前今江戸]鬼塚茂七/[大坂 ]斎藤忠次郎/[江戸、志田事]森田文治/[芸州広島]上宇年名/[伊与松山]伴千右衛門/[江戸]高原勘八/[備後三原]脇加藤次/[尾張名古屋]都筑伊助/[江戸]片山与吉/[大坂]備前屋新四郎/[薩州]林武右衛門/[大坂]桃井中書/[飛州]飛騨吉郎次/[播州]志原弥三右衛門/[備中口村]田中丹治/[尾州名古屋]伊部源四郎/[駿州蒲原]草谷留右衛門

 1759(宝暦9)年、。
11.17日(1.4日)、御城碁「本因坊察元-林門入(祐元)(先)」はジゴ。1.4日、「安井仙哲-井上因碩(春達)(先)」は、因硯が黒番5目勝ち。「井上因碩(春碩)-安井仙角(春哲)(先)」は、仙角が3目勝ち。

 1760(宝暦10)年、。
 11.17日(12.23日)、御城碁「本因坊察元-井上春碩因碩(先)」は、春碩が黒番5目勝ち。「安井仙角(春哲)-井上因碩(春達)(先)」は因硯が黒番4目勝ち。「林門入(転入)-安井仙哲(先)」は仙哲が黒番4目勝ち。

 1761(宝暦11)年、。
 11.17日(12.12日)、御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)察元(先)」は、察元が黒番5目勝ち。御城碁「井上因碩(春達)-安井仙哲(先)」は仙哲が黒番4目勝ち。「安井仙角(春哲)-林門入(祐元)(先)」は門入が黒番2目勝ち。
 この年、河野元虎が大坂で、服部因淑(後の「鬼因徹」)が美濃国に生まれる。

 1762(宝暦12)年、。
11.17日(12.31日)、御城碁「林門入(祐元)-井上因碩(春達)(先)」は、春達の黒番3目勝ち。「井上因碩(春碩)-安井仙哲(先)」、ジゴ。

 この年、5月、石井恕信「石心随筆=石井恕信見聞録」(写本)成書。鈴木知昌「因云棋話」。本因坊道知門下の著者が伝聞・実見からまとめた棋界エピソードと棋士列伝。原本(写本)の所在は不明で、さまざまな写本で今に伝わる。写本名として、石心随筆、名人碁伝(国立公文書館蔵)、本因坊伝書、碁家譜、碁家系譜(国立国会図書館蔵)、碁所由来聞書、碁所諸向記録、石井恕信見聞記、本因坊家略伝(古事類苑)など。現代の校訂版として増田無扇『囲碁 碁園』所収「名人碁伝」がある。

 1763(宝暦13)年、
山本源吉(道佐)が浜松に生まれる。11.17日(12.21日)、御城碁「井上因碩(春達)-安井仙哲(先) 」は仙哲の黒番1目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-林門入(祐元)(先)」はジゴ。御城碁「安井仙角(春哲)-林門入(祐元)(先)」は門入が黒番12目勝ち。「井上因硯-酒井石見守(4子)」は、酒井の4子局3目勝ち。

 1764(宝暦14)年、6.2日、明和に改元。
 1764(明和元)年、本因坊9世察元(32歳)が井上因碩5世(春硯)が共に准(半)名人(8段)に昇格した。察元の名人就位運動が始まる。
 11.17日(12.9日)、御城碁「(坊)察元-井上因碩(春達)(先)」はジゴ。御城碁「安井仙哲-林門入(祐元)(先)」は、門入が黒番4目勝ち。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙角(春哲)(先)」はジゴ。
 この年、浜口仙知(大仙知)が武蔵国に生まれる。

 1765(明和2)年、。
 11.17日(12.29日)、御城碁「井上因碩(春碩)-(坊)察元(先)」は、察元が黒番5目勝ち。御城碁「安井仙哲-井上因碩(春達)(先)」は、春達が先番3目勝ち。御城碁「林門入(祐元)-安井仙角(春哲)(先)」は仙角が黒番3目勝ち。

 1766(明和3)年、

【「明和の争碁」】
 明和の頃の碁界につき、「坐隠談叢」が次のように記している。
 「門入の碁所運動は遂にその効を奏するに至らず、碁所は依然中絶の姿なりしが、その碁所の空位は、各家元をして鋭意研鑽せしめ、何れも中原の鹿を追うの姿となりて、斯界漸く活躍を見るに至れり。殊に明和の初めにありては、本因坊察元既に8段の技を有し、且つ人となり卓落不羈にして、ほとんど一世を睥睨するの概あり。加えるに、将軍家治自ら碁を好みて之を能くし、将棋の如き8段の技を有したるを以って、年々の御城碁には一度も欠席せられたることなく、自然的に各棋士を奮発せしめたるを以って、往年の衰兆はこの時に至り、全然挽回せられて、一般に復興熾盛となれり」。

 5.17日、察元が名人碁所と欲する旨を林門入に説きて、添願人たらしめ、更に門入をして井上因硯に交渉させた。

 7.14日、本因坊察元が、本因坊道知門下であった林祐元門入を添願人として名人就位を願い出る。これに井上因碩と仙角が反対したため、因碩と二十番の争碁を打つことになる。10.8日、寺社奉行。久世出雲守広明より察元、因碩両人に碁所任命に関し二十番の勝負碁を命ずる。(春硯因碩、生涯二度の争碁・その二) 

 11.17日(12.18日)、御城碁で「(坊)察元-井上因碩5世(春硯)」の二十番碁(互先)が開始される。こうして春碩生涯二度目の争碁が始まった。「明和の争碁」として知られる。1局目はその年の御城碁で、「(坊)察元-井上因碩5世(春碩)(先)」はジゴ。但し、この碁は御城碁における恒例の儀礼的なものであった。2局目から6局目まで察元が5連勝する。内訳は次の通り。争碁第2局は「井上春硯-(坊)察元(先)」、察元が先番8目勝。同年、第3局、察元が白番2目勝。

 御城碁「井上因碩(春達)-安井仙哲(先)」は、仙哲が黒番8目勝ち。御城碁「安井仙角(春哲)-林門入(祐元)(先)」は、門入が黒番10目勝ち。

 1767(明和4)年、。
 第4局、察元が先番13目勝ち。同年、第5局、察元が白番2目勝ち。3.28日、第6局、察元が先番11目勝ちと5連勝した。どれも察元の完勝であった。察元は手合直りを申し入れたが春碩は拒否した。承諾すれば九段・名人を認めたことになる。春碩は、打ち込みは古来から六番手直りがしきたりだと云い、では一番打とうと言えば病気だと言って逃げた。察元は奉行に直談判することになる。

 5月、察元、「自分の手合を進めるよう」(名人に昇格させる意味)、寺社奉行に願い出る。9.12日、幕府、察元(35歳)に9段(名人)昇格を許す。但し、「碁所」には任命せず預かりとされた。察元の碁所就位は認められなかった。「再度の争碁をと願い出る井上家。その資格ある者なしとし、碁所をも併せ仰せ付けられたしと要請する察元。この両派から奉行に出された願書、口述書は、二十通にも及ぶ。紛糾の末、察元の碁所就位が叶った」。

 察元は、名人・碁所就位を開祖算砂に報告するため、派手な大行列で、江戸から京都の寂光寺まで、ねり歩いた。百人にも及ぶ大パレードは、莫大な費用を要し、本因坊家の蓄財を蕩尽したが、碁界に本因坊家ありと天下に示した。察元は、他家を力でねじ伏せて、久々の名人・碁所となり、本因坊家に中興をもたらした。

 11.17日(*日)、御城碁「(坊)察元-林門入(祐元)(2子)」は、祐元が2子局4目勝ち。御城碁お好み「井上因硯-酒井石見守(3子)」は、酒井が3子番2目勝ち。御城碁では将軍家治上覧があり、察元に対して将棋について尋ねられ、将棋2段と答えたという。

 1768(明和5)年、。
 井上家、火災のため伝来什器の多くを失う。 御城碁「(坊)察元-井上春達(向二子)」は、春達が黒番2目勝ち。察元が向二子で2目負となったが、この碁は察元一生中の出来として有名である。御城碁「本因坊察元- 酒井石見守(向4子」は石見守が6目勝ち。1.6日、「(坊)察元-林門入(祐元)(先)」。黒番4目勝ち。

 10月、林門入より察元の碁所許可を願い、察元もまた11月、自ら願書を土屋能登守に持参し、之を願い、叉一面因硯、仙角に向かって道理と事誼とを説き、以ってその執拗を解かんことを試みたるも、何れも要領を得なかった。

 11.17日(12.25日)、御城碁「(坊)察元-井上因碩(春達)(2子)」は、春達が2子局2目勝ち。2目負とした碁は察元一生中の出来として有名である。御城碁「井上因碩(春碩)-安井仙角(春哲)(先)」はジゴ。御城碁「林門入(祐元)-安井仙哲(先)」は仙哲が黒番12目勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春碩)-井上因碩(春達)(先)」は、春碩が白番4目勝ち。御城碁(御好み)「安井仙角(春哲)-安井仙哲(先)」は仙哲が先番5目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-酒井石見守(2子)」は、酒井が4子局6目勝ち。御城碁(御好み)「林門入(祐元)-津軽良策(5子)」は、津軽が5子局中押し勝ち。

 1769(明和6)年
 本因坊察元、前年より碁所拝命をしばしば願い出る。因碩と跡目の春達、仙角と跡目の仙哲らは再度の争碁を求めて、それぞれ幾度も願書を提出して争う。御城碁「本因坊察元- 酒井石見守(向4子」は、察元が1目勝ち。

 11.17日(12.14日)、御城碁「安井仙哲-井上因碩(春達)(先)」は、春達が先番4目勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春達)-中坊金蔵(7子)」は、中坊が7子局中押し勝ち。御城碁(御好み)「安井仙哲-津軽良策(5子)」は、津軽が5子局4目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-酒井石見守(4子)」は、察元が白番1目勝ち。

 この年、本因坊察元(37歳)が名人昇段。山本烈元(21歳)が本因坊家跡目となる。
 この年、四宮米蔵(しのみや よねぞう)が、淡路国津名郡上畑村(現兵庫県淡路市木曽上畑)で誕生した。

 1770(明和7)年、。
 閏6.23日、幕府(老中列席の下で寺社奉行・土屋能登守)が本因坊察元名人(38歳)を「碁所」に任命した。本因坊道知以後は名人碁所は空位となっていた上に、本因坊家も三代続いて7段に達することがない碁道中衰の時代と言われたが、察元の名人碁所就位により棋道中興の祖と呼ばれる。また安井家7世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し後世に大きな影響を与えた。

 この経緯につき、「坐隠談叢」が次のように記している。
 「察元は実に明和3年、名人碁所の願書を出し、翌閏9月、名人となり、同7寅年6月に至り碁所を得たり。この間4年、種々の故障難題に遇い、言うべからざるの辛酸を嘗め、ようやくこの証書を得たるにありて、その喜び実に察するに余りあり。叉この時の争碁ほど紛擾を極めたるは、けだし古今その比を見ざるところなり」。

 6.27日、山本烈元(21歳)が本因坊9世跡目を許される。7.1日、烈元が御目見得。11.17日、本因坊烈元、御城碁に初出仕する。爾後、文化元年まで46局を勤める。御城碁「(坊)察元- 酒井石見守(向4子」は、石見守が7目勝ち。

 本因坊察元、法印(法眼)の格式で跡目烈元を従え、京都の寂光寺に墓参した。大々的な行列を組み、莫大な浪費にはなったが、本因坊家の威光を示すことになった。

 11.17日(翌1.2日)、御城碁「林門入(祐元)-(坊)烈元(先)」は、烈元が黒番4目勝ち。御城碁「井上因碩(春達)-安井仙哲(先)」は、仙哲が黒番3目勝ち。御城碁(お好み)「林門入(祐元)-井上因碩(春達)(先)」は、春達が黒番11目勝ち。御城碁(お好み)「(坊)察元-酒井石見守(4子)」は、酒井が4子局7目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-津軽良策(5子)」は、津軽が5子局4目勝ち。御城碁(御好み)「安井仙哲-中坊金蔵(7子)」は、中坊が7子局5目勝ち。

 1771(明和8)年、。
 10.27日、於田沼能登守殿。「本因坊烈元-坂口仙徳(先)」。黒番中押し勝ち。烈元21歳、仙徳33歳。外回りに石が向かい、大模様を築く。黒19、27のカケが仙徳流大模様の序奏。黒51、53と中を止めて、黒65から一気に押し切って迫力満点。模様一辺倒ならば黒73ではD-13だが、硬軟両用の仙徳流か。黒79のキリから89まで黒の気迫は横溢。黒101となって巨大な地模様が出現した。仙徳完勝の一局。「大位の新流」と呼ばれ、仙徳の棋風は実子大仙知により昇華され、元丈、丈和、幻庵へと受け継がれ、やがて木谷・呉の新布石革命へと向かった。
 11.17日(12.22日)、御城碁「井上因碩(春達)-安井仙角(春哲)(先)」は、春哲が黒番3目勝ち。御城碁「安井仙哲-烈元(先)」は、仙哲が白番7目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-安井仙角(春哲)(2子)」は、仙角が2子局中押し勝ち。御城碁(御好み)「安井仙哲-林門入(祐元)(先)」は、門入が黒番10目勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春達)-烈元(先)」は、烈元が黒番9目勝ち。「本因坊烈元-坂口仙徳」。古宇宙流、当時にあっては異色の位の高い大模様を展開。「大位の新流」として知られる。

 12月、5世井上因碩(春硯、65歳)隠居。井上春達(44歳)が同日付けで家督を許され井上家当主を継承する。

 1772(明和9)年、。

 1772(明和9)年、11.16日、安永に改元。
 「明和九年囲碁番付」(2011.5.29日付けブログ「『玄人素人囲棋新撰』について(ニ)~明和九年囲碁番付」参照)。

 「玄人素人囲棋新撰」の冒頭に「明和九年囲碁番付」が書かれている。本因坊察元が1766年に35歳で名人に、1770年に38歳で碁所に就任した時期に当たる。先行する囲碁人名録として「邯鄲亦寐夢」中の「囲碁人名録」(1758年出版)があるので14年の開きがあることになる。「囲碁語園」によると、五段以上62人、四段83人、三段169人、二段311人、初段362人、合計1177人となっている。1805年の「一話一言」の「文化二年囲碁名人名」がある。「玄人素人囲棋新撰」とは33年の開きがあることになる。「文化二年囲碁名人名」には、本因坊家33名、安井家14名、井上家15名、林家3名、無段5名の計70名が載せられている。これらは、その後各地で作られた囲碁番付の先駆となるものといえる。

 「明和九年囲碁番付」原文は次の通り。
明和九年囲碁番付 明和九年辰仲秋
東方 大関 [信州]折井勘五郎 西方 大関 [尾州]和泉屋太蔵
関脇 [越後]越前屋彦左エ門 関脇 [美濃]渡辺孫左衛門
小結 [賀州当時江戸]快全坊 小結 [紀州高野ノ]密門坊
前頭 [上州]庄田政五郎 前頭 [土佐]安岡周平
[豆州]三嶋清右衛門 [京都、道和養子十七才]小嶌大六
[江戸]□形恵二 [大坂]斎藤忠治
[上州]小名坂文平 [播州]□木伊兵衛、[同]表屋忠五郎
[江戸]鬼塚宗助 [備中]大熊源四郎
[江戸]大禾大記 [尾州]續源之烝、[同]同伊助
[駿州]芝田祐右衛門 [若州]藤田源四郎
[参州]吉田立朝 [雲州、当時江戸十兵衛事]芝田歸一
[越後]桂六郎左衛門 [阿波]孝麿
[信州]黒田九助 [伊予]伴仙右衛門
[信州]宝栄寺 [京都]三井三郎左衛門
[勢州]千賀嶌 [備前]通麿
[越後]神田理惣治
[津軽]浅利又市
東ノ中 [京都]山形八郎衛門 西ノ中 [播州明石]東光寺、[同 ]志賀宕信/[同]牛谷五郎九郎/林屋熊太郎
[越後]池祐蔵/岡文右エ門 [讃州]□碩
[濱松ノ]帯刀/枩前ノ九郎 [丹後]由良屋庄兵衛
[濃州 ]□喜理平/[同]佛心寺 [丹後]平太夫
[泉州]佐忠太 [防州]九郎兵衛
[京都]本田金蔵/直江屋六郎衛門/郡山ノ五助 [丹波ノ]文助
[仙臺]柳原瀬エ門 [薩摩]新兵衛
[上州]侭田又エ門 [藝州御家中]片嶌周助
[江戸]松前屋市エ門 [後入棋云]備前ノ元七
[尾州]小越与四郎 備中ノ理□太/肥後ノ和助
[大坂]□□郎、[当時大坂]嶌田六三郎、[大坂]□吉 [備後三原]和木志藤治
[紀州]三之烝 [石州]恒松和惣太
[京都]孫右衛門 備前ノ快道
[雲州]鍛治恵吉
因州ノ七郎
長崎ノ文郎
〆三十七人 頭取 小嶌道和 〆三十七人 頭取 備中源五郎

 掲載者は頭取も含めると76名となる。その内訳は、東西とも頭取1名、大関1名、関脇1名、小結1名、前頭14名、十両20名の計38名となっている。東西の振り分けについては同格者同士の出身地によって振り分けているようである。そのため、東方では越後、江戸、京都(頭取の小嶋道和も含む)各4名、信濃、上野、大坂各3名、美濃2名、加賀、伊豆、駿河、三河、伊勢、津軽、浜松、松前、和泉、郡山、仙台、尾張、紀伊各1名、不明2名という分布であり、西方では播磨5名、尾張、備中(頭取の田嶋源五郎も含む)、備前各3名、京都、出雲、丹後各2名、美濃、紀伊、土佐、大坂、若狭、阿波、伊予、讃岐、周防、丹波、薩摩、安芸、肥後、備後、石見、因幡、長崎各1名、不明1名という分布になっている。

 1772(安永元)年、。
 11.17日(12.11日)、阪口仙徳7段(5世安井仙角の弟子、推定35歳)御城碁に初出仕(外家なるも星合八碩の先例を以て)、爾後、天明元年まで16局を勤める。御城碁「井上因碩(春達)-坂口仙徳(先)」は、仙徳が黒番13目勝ち。御城碁「(坊)烈元-安井仙哲(先)」は仙哲が黒番6目勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春達)-林門入(祐元)(先)」は、門入が黒番5目勝ち。御城碁(お好み)「(坊)烈元-坂口仙徳(先)」は、仙徳が黒番中押し勝ち。
 12月、穏居井上春碩(5世因碩、世系書き換え後は6世、66歳、準名人)没。

 1773(安永2)年、。
 田原橘二(30歳)が、6世井上因碩(春達)6段(46歳)の跡目となり井上因達に改名(春達、27歳?)する。

 11.17日(12.30日)、御城碁「林門入(祐元)-安井仙哲(先)」はジゴ。御城碁「坂口仙徳-(坊)烈元(先)」は、烈元が黒番5目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-井上因碩(春達)(先) 」は、察元が白番中押勝ち。御城碁(御好み)「安井仙哲-(坊)烈元(先)」は烈元が黒番中押し勝ち。御城碁(御好み)「坂口仙徳-酒井石見守(2子)」は、仙徳が2子局白番8目勝ち。
 この年、斎藤正次「奔正通徴補」(明。ヨウ(くさかんむり+雍)燥如。原著の改編)を京都で出版。

 1774(安永3)年、。
 11.17日(12.19日)、井上因達、御城碁に初出仕、爾後、文化元年まで28局を勤める。御城碁「井上因碩(春達)-坂口仙徳(先)」は仙徳が黒番14目勝ち。御城碁「坂口仙徳-井上因碩(因達)(先)」。白番3目勝ち。御城碁「(坊)烈元-安井仙哲(先)」は、仙哲が黒番6目勝ち。御城碁(お好み)「(坊)察元-(坊)烈元(2子」は、烈元が2子局黒番6目勝ち。御城碁(お好み)「安井仙哲-井上因碩(因達)(先)」は、因達が黒番中押し勝ち。

 12.27日、本因坊(跡目)烈元に新規十人扶持下賜の申し渡し。この年、佐藤春策(幼名は知夫、父は三世佐藤久兵衛、後の8世井上因碩。世系書き換え後は9世。備後国深津郡市村)生まれる。

 1775(安永4)年
 正月20日、旧臘御扶持方の証文下附。同月、本因坊察元、跡目烈元の序列を碁将棋方跡目の筆頭とすることを願い出る(聞き届けられず)。

 11.17日(12.9日)、林門悦初段(推定19歳、後に9世)、実父8世門入(祐元)の跡目となり、御城碁に 初出仕、爾後、文化9年まで42局(うち寛政4年と同7年の寺社奉行役宅で行われた準御城碁二局を 含む)を勤める。御城碁「林門入(祐元)-坂口仙徳(先)」は、門入が白番1目勝ち。御城碁「安井仙哲-井上因碩(因達)(先)」は因達が黒番10目勝ち。御城碁「(坊)烈元-林門悦(3子)」は、門悦が3子局黒番9目勝ち。

 12.12日、5世安井仙角(春哲、65歳)が隠居する。安井仙哲が安井家当主を継承し安井6世となる。
 この年、宮重楽山(後の11世本因坊元丈)が清水徳川家物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれる。

 1776(安永5)年、。
 11.17日(12.27日)、御城碁「井上因碩(春達)-林門悦(3子)」は、門悦が3子局黒番中押し勝ち。御城碁「安井仙哲-(坊)烈元(先)」は、烈元が黒番3目勝ち。御城碁「井上因碩(因達)-坂口仙徳(先)」は、仙徳が黒番9目勝ち。御城碁(御好み)「林門入(祐元)-井上因碩(春達)(先)」は春達が黒番中押し勝ち。御城碁(御好み)「安井仙哲-林門悦(3子)」は、門悦が3子局黒番中押し勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-井上因碩(因達)(2子)」は、因達が2子局黒番中押し勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-坂口仙徳(先)」は仙徳が黒番3目勝ち。
 この年、中野知得(後の八世安井仙知)が駿河で生まれる。伊豆国三島の漁師中野弥七の子とされ、幼名は磯五郎と思われる。幼時に七世安井仙知に入門し、中野知得と名乗る。

 1777(安永6)年、。
 5.21日、十番棋第1局「烈元-小松快禅(先)」。黒番勝ち。6.11日、十番棋第2局「烈元-小松快禅(先)」。白番勝ち。6.22日、「烈元-小松快禅(先)」。 黒番9目勝ち。10.3日、十番棋第4局「烈元-小松快禅(先)」。黒番17目勝ち。10.21日、十番棋第5局「烈元-小松快禅(先)」。白番勝ち。11.2日、十番棋第7局「烈元-小松快禅(先)」。黒番勝ち。

 11.17日(12.16日)、御城碁「安井仙哲-井上因碩(春達)(先)」は春達が黒番3目勝ち。御城碁「(坊)烈元-井上因碩(因達)(先)」は烈元が白番4目勝ち。「(坊)察元-坂口仙徳(2子)」は、仙徳が2子局黒番中押し勝ち。御城碁「坂口仙徳-林門悦(2子)」は、仙徳が2子局白番11目勝ち。御城碁(御好み)「烈元-井上因碩(春達)(先)」は、烈元が白番8目勝ち。御城碁(御好)「井上因碩(因達)-安井仙哲(先)」は、仙哲が黒番18目勝ち。御城碁(御好み)「林門悦-酒井石見守(先)」はジゴ。碁所本因坊察元、御城で阪口仙徳と御好みを打つ。仙徳二子、中押勝ち。御城碁「(坊)察元- 坂口仙徳(向2子)」は、仙徳が黒番中押勝ち。

 11月、「烈元-小松快禅(先)」。白番勝ち。

 1778(安永7)年、。
 横関伊保(16歳=17歳という説もある)、女流初の入段。御城碁「(坊)察元- 津軽良策(向6子)」は、良策が黒番4目勝ち。対局月日不明、十番棋第8局「烈元-小松快禅(先)」。黒番3目勝ち。8.15日、十番棋第9局「烈元-小松快禅(先)」。白番勝ち。

 11.17日(12.12日、1.4日)、御城碁「林門入ー坂口仙徳 (先)」、仙徳が黒番中押し勝ち。御城碁「井上因碩(春達)-(坊)烈元(先)」派、烈元が黒番中押し勝ち。御城碁「林門入ー坂口仙徳 (先)」、仙徳が黒番中押し勝ち。御城碁「安井仙哲-林門悦(2子)」は、仙哲が2子局白番8目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-津軽良策(6子)」は、津軽が6子局黒番4目勝ち。御城碁(御好み)「安井仙哲-林門入(祐元)(先)」は、門入が黒番中押し勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春達)-林門悦(2子)」は、門悦が2子局黒番16目勝ち。御城碁(御好み)「坂口仙徳-(坊)烈元(先)」は、烈元が黒番17目勝ち。
 この年、舟橋源治(後の11世林元美、水戸)生まれる。

 1779(安永8)年、。
 山本源吉が出府し本因坊察元に入門、2段を許される。

 11.17日(12.24日)、御城碁「井上因碩(春達)-林門入(祐元)(先)」は門入が黒番12目勝ち。御城碁「(坊)烈元-井上因碩(因達)(先)」は、因達が黒番中押し勝ち。御城碁「坂口仙徳-林門悦(2子)」は、仙徳が2子局白番中押し勝ち。(御城碁「林門入(祐元)-坂口仙徳(先)」。黒番5目勝ち。)

 1780(安永9)年、。
 2.1日、「烈元-小松快禅(先)」。黒番11目勝ち。7.4日、安井仙哲6世7段が生没する(享年推定47歳)。阪口仙知2段(17歳)が後式相続を許され安井家当主を継承、安井仙知7世(大仙知)となる。

 11.17日(12.12日)、安井仙知7世(大仙知)が御城碁に初出仕する。爾後、文化7年まで28局を勤める。御城碁「(坊)烈元-坂口仙徳(先)」。白番3目勝ち。御城碁「井上因碩(因達)-林門悦(2子)」は、因達が2子局白番7目勝ち。御城碁(お好み)「(坊)烈元-坂口仙徳(先)」は、烈元が白番3目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)察元-酒井石見守(3子)」は、察元が3子局白番中押し勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-林門入(祐元)(先)」は、門入が黒番3目勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春達)-井上因碩(因達)(先)」はジゴ。御城碁(御好み)「安井仙角(仙知大仙知)-林門悦(先)」は、仙知の白番2目勝ち。(御城碁「林門入(祐元)-安井仙角(仙知大仙知)(2子)」は、仙知が2子局黒番中押し勝ち。御城碁「(坊)察元- 酒井石見守(向3子)」は、石見守が黒番中押勝ち)


 この年、4月、金子正玄編「碁道奥秘録」()出版。

 1781(安永10)年、4.2日、天明に改元。
 1781(天明元)年、。

 11.17日(12.12日、12.31日)、御城碁「林門入(祐元)-井上因碩(因達)」は、因硯が黒番中押し勝ち。御城碁「坂口仙徳-(坊)烈元(先)」は、烈元が黒番4目勝ち。(御城碁(御好み)「(坊)烈元-林門入(祐元)(先)」。黒番3目勝ち。御城碁「烈元-坂口仙徳(先)」。白番3目勝ち。12.31日、御城碁(御好み)「本因坊察元-林門入(祐元)(先)」。白番4目勝ち)

 1782(天明2)年、。
 この年、阪口仙徳7段没(享年45歳)。

 11.17日(12.21日)、御城碁「林門入(祐元)-井上因碩(春達)(先)」は、門入が白番中押し勝ち。御城碁「安井仙角(仙知大仙知)-林門悦(先)」は、仙知が白番中押し勝ち。御城碁「(坊)烈元-井上因碩(因達)(先)」は、烈元が白番1目勝ち。御城碁「(坊)察元- 林門悦(先)」は、察元が白番4目勝ち。御城碁(御好み)「井上因碩(春達)-林門悦(2子)」は、門悦が2子局黒番13目勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-安井仙知(2子)」は、仙知が2子局黒番中押し勝ち。(御城碁(御好み)「(坊)察元-林門入(祐元)(先)」。御城碁(御好み)「安井仙角(仙知大仙知)-林門悦(先)」。白番2目勝ち)

 1783(天明3)年、。
 4月、本因坊察元、古例(星合八碩と阪口仙徳=前者は当時5段、後者は7段上手)により外家の弟子、河野元虎(推定23歳)の新鋭召出しを願い出る。5.6日、元虎、5段にもかかわらず願いの通り新規召出され、御目見得を許される。10月(推定)、7世安井仙知が5段に進む。11.17日、河野元虎、御城碁に初出仕、爾後、寛政6年まで13局(ぅち寛政4年の1局は寺社奉行役宅・脇坂淡路守安董の邸で行われた準御城碁)を勤める。

 11.17日(12.10日)、御城碁「井上因碩(因達)-林門悦(先)」は、因達が白番中押し勝ち。
御城碁「河野元虎-安井仙知(先)」は、仙知が先番3目勝ち。   

 1784(天明4)年、。
 井上因達(42歳)が家督を許され、7世因碩(世系書き換え後は8世)となる。

 11.17日(12.28日)、御城碁「(坊)烈元-安井仙角(仙知大仙知)(先)」は、仙知の黒番12目勝ち。御城碁「林門悦-河野元虎(先)」はジゴ。御城碁「本因坊察元- 安井仙角仙知(2子)」は、仙角が2子局黒番中押し勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-林門悦(2子)」は、門悦の2子局黒番6目勝ち。。
 この年、12月、6世井上因碩(春達、世系書き換え後は7世)没(享年57歳)。
 この年、山崎因砂(後に9世井上因碩、石見国仁摩)生まれる。関山仙太夫(信州、松代)生まれる

 1785(天明5)年、。
 正月、鈴木順清が5段に進む。

 11.17日(12.18日)、御城碁「林門入(祐元)-河野元虎(先)」はジゴ。御城碁「井上因碩(因達)-安井仙知(先)」は、仙知の先番17目勝ち。御城碁「(坊)烈元-林門悦(2子)」は、門悦の2子局黒番3目勝ち。御城碁(お好み)「林門入(祐元)-(坊)烈元(先)」は、烈元の先番3目勝ち。御城碁(お好み)「安井仙角(仙知大仙知)-河野元虎(先)」は、仙知の白番中押し勝ち。御城碁「井上因碩(因達)-林門悦(先)」は、因硯の白番9目勝ち。

 井上因達(42歳)が家督相続し、井上因碩(因達)と改名する。
 この年、晩歓「古今菓経抜拳」4巻、「当流碁経類緊」3巻出版(育黎閣)。

 1786(天明6)年、。
 11.17日(1.6日)、御城碁「安井仙知-河野元虎(先)」は、元虎の先番中押し勝ち。御城碁「(坊)烈元-林門悦(2子)」はジゴ。
 10月、鈴木順清没。  
 この年、奥貫智策が武州幸手で生まれる。

 1787(天明7)年、。
 5.11日、「烈元-安井仙角(仙知大仙人角)(先)」、黒番13目勝ち。

 11.17日(1.6日)、御城碁「(坊)烈元-林門入(祐元)(先)」は、門入の先番2目勝ち。御城碁「安井仙角(仙知大仙知)-林門悦 (先)」は、仙知の白番中押し勝ち。御城碁「井上因碩(因達)-河野元虎(先)」は、元虎の先番14目勝ち。
 この年、「秦立網備」8巻出版(青黎閣)。
 この年、葛野松之助(後の12世本因坊丈和)が信州水内郡(伊豆国君沢郡気負村、現在の沼津市)に生まれる。本姓葛野、幼名は松之助。父は旅商人で江戸を往来し、本庄(埼玉県北部)で塩物類の仕入れをしていた。

本因坊10世烈元時代

 1788(天明8)年、。
 正月23日、碁所・本因坊9世察元が生没した(享年56歳)。4.8日、跡目本因坊烈元が家督を許され本因坊10世となる。

 10.3日、「元丈-中野知得(先)」。黒番中押し勝ち。

 11.17日(12.14日)、御城碁「井上因碩(因達)-(坊)烈元(先)」は、烈元の黒番9目勝ち。御城碁「河野元虎-林門悦(先)」は、門悦の先番9目勝ち。
 この年、舟橋源治(後の林元実)が父に伴われて出府し、本因坊烈元に入門する。
 この年、「秦経手談」出版。

 1789(天明9)年、。

 1789(天明9)年、正月25日、寛政に改元。
 11.17日(1.2日)、御城碁「(坊)烈元-河野元虎(先)」はジゴ。御城碁「井上因碩(因達)-林門悦(先)」は、門悦の先番3目勝ち。(御城碁(御好み)「(坊)烈元-井上因碩(因達)(先)」は因達の先番3目勝ち)
 12.16日、隠居安井仙角5世(春哲)没(享年79歳)。 
 寛政時代の碁運につき、「坐隠談叢」が次のように記している。
 「一般囲碁はこの(寛政)間にありて、幾多の文人墨客を吸収し、名人察元の死したるあるも、烈元8段を以って之が後継となり、漸進の気運に乗じて大いに之を鼓舞したり。されば、顕門高家にしてその技を能くする者少なからず。即ち、井上因硯の門に京極周防守を出し、安井仙角の門には仙石大和守、吉田土佐守等を出す。皆なこれ段以上の碁品にして、その他、松平、黒田、細川、戸田、堀田、牧野の諸侯は、従来の縁故を以って克くこれと追随し、酒井石見守、中坊河内守、小笠原若狭守、船越駿河守、駒井但馬守、本庄甲斐守、本多伊予守等また之に和し、各定日を設けて碁客を聘し、奨励切磋を怠らず、その他諸侯旗下にして斯道に出入りする者枚挙に遑(いとま)あらず。而してこれ等の諸侯旗下の牛耳を執るべき専門家にしては、先ず本因坊烈元あり、安井仙角あり、井上因硯、林門悦之に亜ぎ、伊藤周助、水谷琢元、同琢順は坊門の三傑を以って目せられ、鈴木順清、同知清、石原是山は安井家の三幅対と称せられる。而して林寒入、河野元虎、若山立寛、片山知的、服部因淑、青木元悦等は六龍の姿を為して散地に睥睨し、宮重楽山、中野知得、奥貫知策、林鉄元及び因硯跡目に春策等は将来の重鎮として各大器を擁し、虎視眈々として風雲を叱咤せんとするの概ありて、只管機会の到来を待つ者の如く、互いに励琢磨してあるいは自ら月桂冠を獲んとし、あるいは己の奉ずる家元を以って将来の碁所ならしめんと欲するが如し。むべなるかな、文化、文政の交更に囲碁の隆盛を来したるその原因は、全くこれ等の人材の益々頭角を現し、奮闘活躍したるにある而巳」。
 「嚢に、道策の碁勢を一変せしめて以来、世上道策流を称揚するに方り、一方古風の者に算知流の名称を附するに至り、各家元は猥りに秘伝口授と称して、之を門外の者に移さざるの風を生ず。彼の秋山仙朴の当流碁経大全を著すや、本因坊道知之を遮り、遂に公の沙汰としてその原版を没収し、且つ十日間戸締りの刑を課したる如き、唯単に家元の権利のみ尊重して、世上一般の便益を無視したる幕府の保護は、遂に門外の者にして全く碁経編纂の念を絶しむるに至れり。而して、当時これ等の著述頗る少なく、遠隔の有志は、空しく英器を擁して余師なきに苦しみ、例えば芝蘭空しく荊棘の裡に枯れ死するが如く、之を誘出扶植すべき方便なく、従って大いに地方に於ける発展の気勢を泪止せしめたり」。
 「京都聖護院の碩学畠中哲斎、之を憾とし、己れ林元美の門人として碁を好み、且つ文人として追随する者頗る多く、極めて便利なる地位と閑暇とを利用し、各世碁鑑を著し、対勢碁鏡を編して一般自修の便に供し、大いに地方の渇望を得たり。初め林元美の京に遊ぶや風流を以って哲斎と交わり、哲斎亦元美の尋常碁客の比に非ざるを嘉し、遂に門に入りて碁を学び、交情益々親善なりし。当時、元美は多年の工夫を以って碁の活字を発明し、之を木製して既に奥坊主役の間に頒ち、奥坊主は之を用いて御城碁を謄写し、以って特志の諸侯に配布しつつあり。更にその全部を仕上げて之を哲斎に示したるに、哲斎は頻りにその便利なるを称揚し、之を借りて当代諸家の打ち碁を印刷し、自ら当世棋譜と題し、知人旧故に配附せり。その自序の冒頭、『碁之為害也大牟』とあるを以って、安井仙知之を遮り、且つ各家元の打ち碁を無断にて掲載したるは容易の者に非ずとて、家元の集会を催し哲斎に対してその不都合を責め、謝罪状を出すの外当世碁譜全部を差し出すべしと厳談したるに、哲斎は之に答えて、序文の冒頭は文法の抑揚に出でたるものにして、結論に至りて之を慫慂し居るを知らざるは、各家元の無学文盲り致すところ、自分に於いては決して之に応ずべき理由なし、と抗拒したるを以って、各家元は遂に連署を以って寺社奉行松平右近将監に訴え出で、哲斎遂に揚屋入を申し付けられたり。当時幕府より設置したる碁所及び各家元に対し、訴訟抗拒するはその理否の如何に拘らず、総て曲事たるべしと定められたる傾あるを以って、哲斎も遂に斯厄を免がる々能わざりし。しかれども心中豪も怯避するところなく、各家元の愚昧専横と、幕府の措置を痛罵して止まず、折柄林元美はその親善の間柄なるを以って非常に憂慮し、且つこれ等の個とより延て各家元の内情を暴露せしめん事を憂い、種々奔走尽力し、三日間にして赦免せられ、漸く事なきを得たると同時に、幕府及び各家元に於いても多少反省するところあり。爾来数年間、これ等取締りの大いに緩うせられたるもの、全然哲斎著述の賜と云わざるべからず」。

 1790(寛政2)年、。
 4.25日、八世林門入(祐元)隠居。同日、跡目林門悦、家督を許され、林9世となる。8.13日、「元丈-中野知得(先)」。黒番中押し勝ち。8.21日、「元丈-中野知得(先)」。白番中押し勝ち。

 11.17日(12.22日)、御城碁「(坊)烈元-林門悦 (先)」は、烈元の白番1目勝ち。御城碁「安井仙知-河野元虎 (先)」は、元虎の先番5目勝ち。

 1791(寛政3)年、
 「素人名手。秦経遺集」3巻(青黎閣)出版。4.11日、「元丈-中野知得(先)」。黒番勝ち。6.15日、「元丈-中野知得(先)」。黒番勝ち。

 11.17日(12.12日)、御城碁「安井仙角(仙知大仙知)-井上因碩(因達)(先)」はジゴ。御城碁「河野元虎-林門悦(先)」は門悦の先番1目勝ち。

 1792(寛政4)年、。
 1.19日、「中野知得-元丈(先)」。白番勝ち。2.14日、「元丈-中野知得(先)」。黒番勝ち。3.9日、「元丈-中野知得(先)」。不詳。9.6日、「中野知得-元丈(先)」。黒番1目勝ち。両者は生涯のライバルであった。元丈は、厚く打って攻めを得意とし、知得は、堅実でシノギを得意とするヨセの名手であった。本因坊丈和は、「二人の対局は、全く名人の所作というべきもの、17局に及ぶ」と述べている。

 11.17日(12.21日、12.30日)、御城碁「安井仙角(仙知大仙知)-(坊)烈元(先)」は、仙知の白番中押し勝ち。御城碁「井上因碩(因達)-林門悦(先)」は門悦の先番1目勝ち。御城碁(御好)「安井仙角(仙知大仙知)-河野元虎(先)」は仙知の白番勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-林門悦(先)」は、門悦の先番10目勝ち。
 この年、「古今名人。養経選粋」4巻(青黎閣)出版。

 1793(寛政5)年、。
 4.8日、「安井仙知-(坊)烈元(先)」、ジゴ。

 11.17日(12.19日)、御城碁「(坊)烈元-井上因碩(因達)(先)」は、烈元の白番10目勝ち。御城碁「河野元虎-安井仙知(先)」は、仙知の先番15目勝ち。
 この年、春、「由秦定石集。石立局機」4巻(春黎閣)出版。「囲碁妙石」2巻(青黎閣)出版。

 1794(寛政6)年、。
 6.18日、「中野知得-元丈(先)」。黒番2目勝ち。
 8月、佐藤春策4段(21歳)が井上家跡目となり井上因碩7世(因達)と名乗る。山本源吉出府し、河野元虎、宮重楽山(後の本因坊元丈)、中野知得らと対戦し、それらの実績を認められて4段に進む。

 11.17日(12.9日)、井上春策、御城碁に初出仕する。爾後、文化6年まで16局(御城碁には異例として寛政8年5月、寺社奉行役宅。板倉周防辛勝政邸で打掛け、翌9年10月に井上因碩宅で打たれたものがくわえてある)を勤める。御城碁「(坊)烈元-林門悦(先)」は、門悦は先番1目勝ち。 御城碁「安井仙角(仙知大仙知)-井上因碩(春策)(2子)」は、仙知の2子局白番2目勝ち。御城碁「河野元虎-井上因碩(因達)(先)」は、因達の黒番3目勝ち。

 1795(寛政7)年、。
  11.17日(12.27日、1.3日)、御城碁「(坊)烈元-井上因碩(春策)(2子)」は、春策の2子局黒番11目勝ち。御城碁「安井仙角(仙知大仙知)-林門悦(先)」は、仙知の白番中押し勝ち。御城碁(御好み)「(坊)烈元-林門悦(先)」は、烈元の白番3目勝ち。
 この年、神沢杜口が死去(享年86歳)。8.26日、烈元が跡目に目していた河野元虎が郷里大阪で没(享年35歳)。

 1796(寛政8)年、
 服部因徹(その後「因淑」と改名する)が6段に進む。この頃には元丈、知得にも互角の戦績で、鬼因徹と呼ばれた。2.29日、「安井仙知-中野知得(先)」。ジゴ。4月、7世井上因碩、公儀に弟子服部因淑の新規召出し(御城碁出仕)を願い出る。このときは聞き届けられず、文政2年(1819年、7段)に至って召し出される。5.22日(6.27日)、「安井仙角(仙知大仙知)-井上因碩(春策)(先)」は、仙知が白番中押し勝ち。

 11.17日(12.15日)、「林門悦-井上因碩(春策)(先)」は、春策が先番7目勝ち。御城碁「井上因碩(因達)-(坊)烈元(先)」は烈元が先番3目勝ち
 この年、5月、「素人名手。秦経拾遺」(3巻)出版(青黎閣)。

 1797(寛政9)年、
 この年、関山仙太夫、出府し、坊門の水谷琢元に師事する。

 11.17日(1.3日)、「安井仙角(仙知大仙知)-井上因碩(春策)(2子)」は、春策が2子局黒番2目勝ち。御城碁第334局「井上因碩(因達)-林門悦(先)」は、門悦が先番1目勝ち。

 1798(寛政10)年、。
 この年、 関山仙太夫、水谷琴花の紹介により改めて(坊)烈元に入門する。

 3.22日、隠居門入(林家8世、祐元)没(享年推定65歳)。


 宮重楽山(24歳)が本因坊家跡目となり、本因坊元丈と改名する。

本因坊11世元丈時代

 1798(寛政10)年、。
 7月、(坊)烈元が宮重楽山5段(24歳)を跡目とすることを願い出る。本因坊烈元は河野元虎を跡目候補に目していたが1795(寛政7)年に没し、宮重楽山が跡目に就任することになった。8.27日、宮重楽山が烈元の跡目弟子たるを許される。9月、楽山が御目見得する。10月、楽山が本因坊元丈と改名する。

 11.17日(12.23日)、御城碁第335局「(坊)烈元-井上因碩(因達)(先)」は烈元の白番4目勝ち。元丈が御城碁に初出仕する。爾後、文政7年まで22局を勤める。「安井仙角(仙知大仙知)-(坊)元丈(先)」は、元丈の先番5目勝ち。( 「安井算知-(坊)元丈(先)」は、元丈の先番5目勝ち)御城碁第337局「林門悦-井上因碩(春策)(先)」は、春策の先番3目勝ち。

 1799(寛政11)年、。
 11.17日(*日)、御城碁第339局「(坊)元丈-井上因碩(春策)(先)」は、元丈の白番5目勝ち。御城碁「(坊)列元-安井仙知(先)」は、仙知の先番4目勝ち。




(私論.私見)