「党派間ゲバルト」の論理とその虚妄について

 更新日/2016.12.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 まだまだ緒についたばかりであるが、とりあえず要点整理しておく。まだ漠然としているが、「党派間ゲバルト」に向かう際の理論づけはお粗末この上ないままにいきなり実践に突入したような気がしている。その後は、憎悪が憎悪を生む循環に入った。さすがに理論の革マル派と云われるだけあって、同派が逸早く「革命的暴力とは何か」を世に問うた記憶がある。但し、その中身たるや、「教育的措置」などと称する論理で、他派活動家の生命から身体機能の不具化にまで及ぶことを正当化する噴飯ものであったような記憶がある。

 これに対して、中核派、社青同解放派がどのような論を対置したのか記憶がない。相手が許しがたい党派であると云う理由づけだけでは、互いが互いをそう見なしあっている際には根拠不十分であろう。おっつけ後づけで理論化されたのであろうが、考えてみれば左翼党派の見識としてはオカシなことではなかろうか。とにかく、「やられたらやり返す」報復戦にいきなり突入して、のっぴきならぬところまで行き着いた史実が刻まれている、ようにれんだいこは了解している。しかして現在、そのジハードの理論的総括が為されているのだろうか。ほぼ終息過程に入っているように思われる現在、今更意味がないと云われればそれまでのことではあるが、歴史は繰り返すことを思えば少し違うと思う。

 久しぶりに「中核VS革マル」を読み直してみた。気づいたことは、「党派間ゲバルト」に至るには論理的水路があり、中核・革マルが組織分裂する以前の革共同全国委時代に影響を受けた「黒寛式党派組織論」によって仕掛けが作られ、その帰結として「敵対党派の絶滅戦争」が生み出されているのではなかろうか、という思いである。その下地故に、これを信奉する革共同両派が、偶然か必然かとにかく、歴史的に生起した事件を契機に一挙に「無限定無制限の党派闘争」へ突き進んでいくことになったのではなかろうか。それを思えば、「黒寛式党派組織論」の検討からこそ始めねばならないように思われる。「「内ゲバ」とは何だったのか」、「『電脳ブント』の蔵田計成論文」、「今井公雄の左翼考」その他を参照する。れんだいこ見解は「れんだいこの「党派間ゲバルト」理論について」に記す。

 2005.3.2日、2008.2.10日再編集 れんだいこ拝


【鎌田見解考】
 「諸階級、諸階層、諸団体の存在自体に基礎を置いたイデオロギー的反映の組織形態」の故かどうか、党派は綱領、戦略、戦術を廻って幾つもの潮流に分裂分断化されることになる。このような分断状態のなかで、新左翼諸党派は場所的・時間的同一空間のなかで、組織上の利害、政治路線、戦術を巡る対立抗争を深め、党派闘争を展開していくことになる。この党派闘争が切磋琢磨的競合へと向かった最後の闘争が全共闘運動であった。

 しかし、丁度この頃から革マル派のテロルが襲い掛かり始めた。それまでにも他党派鉄槌的なゲバルトが行使されていたが、情況が激化すればするほどより本質的な他党派解体論理による公然ゲバルトがお見舞いされる具合であった。このゲバルトは当初社青同解放派、次に中核派へと向かった。当然、両派もこれに反発し、こうして党派間ゲバルトは次第に激化の一途をたどり泥沼化していった。挙げ句の果ては、「敵か味方か」、「革命か反革命か」の二項対立へと煎じ詰まり、阿鼻叫喚の修羅を演じることになった。


 この経過に対して、鎌田氏は次のように云う。
 「いやしくも、権力を獲得する以前の政治党派たるものは、権力を独占的に専有している相手支配階級の思想水準よりも、二倍も三倍も高い水準において、支配階級を圧倒しなければいけない。たとえ己自身が階級関係に逆規定された存在であるとしても、否、逆規定されているが故に、この被規定的自己は止揚されなければいけないのである。歴史変革を誠実に目指す政治党派であれば、政治路線、思想性、作風の質においてのみ、互いに自己の党派性を競い合うべきである。その政治路線、思想性、作風の質の実現過程においては、如何なる意味でも、ゲバルトを随伴させるべきではない。権力獲得以前の政治党派のゲバルトによる『選択の強制』は、他者否定であり、革命への背理である。政治党派は、次のような運動の弁証法と運動法則が持つダイナミズムを想起すべきである」。
 「その党派性が妥当性を獲得して巨大な物質力へと転化するのは、それが人民への深い共感と普遍的一体性を獲得したときだけである。歴史変革におけるこのイデオロギーの質量転換の政治的社会的展開力こそが、変革への起動力であり、これが運動のダイナミズムである。だとするならば、政治党派自身が内ゲバに至る内部矛盾を不断に自己止揚すべきものとして自己措定している限り、自ら即自的な否定的行為をあたかも平然と演じることは、自己否定であり、許されるはずがない」。

(私論.私見)

 この鎌田見解は確かに一般的には正論であろう。だがしかし、史実の経過に照らしても正義的であるかどうか。れんだいこには「凡そ有益なることを何も語っていない」ように聞こえる。

 鎌田氏は次のようにも云う。
 「本来、党派闘争は組織と組織との間に生じた対立や矛盾を止揚し、より高い次元への相互発展と相互実現するための止揚手段に他ならない。ところが、止揚手段であるはずの党派闘争が対権力との闘争を媒介にして自己目的化され始めるや否や、たちまち凶器へと変貌する。党派闘争は自己主張、自己保存のための内ゲバの暴力行使となる。このような手段の目的化は全く無意味な自己倒錯であり、政治的転倒である。内ゲバは、この一点からも否定されるべきである。

 いずれにせよ、新左翼はやがて創成以来半世紀という長い歴史の転回点を通過しようとしている。その転回点が未来への栄光の階梯に通じるのか、それとも閉ざされた革命の蹉跌の道へつながるのか。それは、新左翼諸党派が連綿と繰り返してきた過去の歴史への背理を、政治路線や思想の根底において総括し、過去への高らかな訣別宣言を内外に向けて宣明にし得るか否か、その成否の如何にかかっている。『内ゲバ必然説』、『内ゲバ必然悪説』を止揚して、真の党派党争論を確立しない限り、新左翼に未来はない。フランス革命のギャコバンのテロルに始まり、マルクスとバクーニンの党派闘争、スターリンの大粛清とトロツキーの敗北を頂点にした党派闘争、それに我々自身が演じてきた党派闘争の苦闘と死闘の歴史的教訓を論理化し、それを定式化することが求められている」。
(私論.私見)
 この観点は概ね良い。後段の「『内ゲバ必然説』、『内ゲバ必然悪説』の止揚」のヶ所が問題である。『内ゲバ必然説』、『内ゲバ必然悪説』という表現は、その表現自体の中にあらかじめ否定されることが予定されている不公正な用語であろう。実際に唱えられているのは、『内ゲバ止むを得ない説』であろうからしてこれを表現するには『内ゲバ不可避説』とでも云うべきであろう。

【中核派の見解】

 中核派は、革マル派に対し、「K=K連合論」(革マル派と国家権力との間には有無通じた補完関係があるとする論)、「革マル反革命論」(権力と通じて革命的左翼に対する白色襲撃を行うテロ分子論)、「革マル=ファシスト論」で位置付け、「党派間ゲバルト」を「一個の戦争」として捉え、「非和解的な戦争・殲滅戦」を目指し、「絶対戦争」として認識する。この観点から「二重対峙・対カクマル戦論」を生み出し、「やるかやられるか絶対矛盾的殲滅戦」に突入していった。

 1971.12.4日の革マル派のテロによる辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)虐殺事件後の時点から、革マル派を「カクマル」と呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出しているとみなし、「K=K連合によるカクマル反革命」と認識し始めた。「K=K連合論」の中身について、「カクマルの襲撃が敵権力の『警察政治』の掌中でその手厚い庇護のもとに行われている点において、さらにカクマル自身もまたその庇護を前提に、時には自ら進んで権力に通謀する形で襲撃を企んでいる点において」と説明している。後に、「カクマル自身の弁明による『首根っこ急所論』」を引き合いに出して説明している。
 「党派闘争としての党派闘争」に対する見解は次の通り。
 「『党派闘争としての党派闘争』というのは、革命運動あるいは反政府闘争や反資本の闘いを闘っている党派間の闘争を指すものであり、理論的、組織的闘い、あるいは政治的・運動的闘いとして繰り広げられることが基本であって、そこにおいて暴力的行為が許されるのは、相手の党派が権力への投降・屈服や階級的裏切りなど明確な階級移行を為したことへの批判・糾弾を廻って理論外的な暴力的行為に訴えてきた場合においてのみであると言っていいのである」(「清水丈夫著作選第四巻」)。

 「内ゲバ」批判者に対しての弁明は次の通り。
 「カクマル反革命が武装襲撃をもってやってくるのに対し、カクマルの政治的=思想的批判をもって終われリとする見解は、日和見主義である。カクマルを完膚なきまでに批判し尽くすのみならず、軍事的に殲滅を貫徹することこそ、真のカクマル批判である」。

 このような論理において党派間戦争を担ったのは、「人民革命軍・武装遊撃隊」であった。この組織が中軸となって、組織的計画的にゲバルトを敢行している。
 立花隆と本多書記長の対談は次の通り。「内ゲバで死者が出ること。その際の誤爆問題」について次のようなやり取りをしている(「中核対革マル」より)。
立花  一連の闘いの中で何人かの死者が出ているわけだが、人を殺すという点についてはどう考えるか。
本多  二つの社会的な集団が物理的手段を使って闘争しあう中では、死者が出るのは当然ではないか。闘争しあっていることと、死者が出ることを形式的に切り離すのは無意味じゃないか。
立花  つまりこの闘争は死者が出るのが必然的な結果になる性質の闘いであると。
本多  そう、戦争に戦死者はつきものじゃないか。
立花  その点で、中核派はこの闘いを戦争だと考えているが、革マル派のほうは、これは党派闘争で、いたずら小僧のお尻を叩くのと同じで、お目玉をくれてやる意味だというが。
本多  それは革マル派特有の尊大ないい方で、もしそうなら、彼らは闘争の中で死者を出さないということで自らの論理の正しさを示すべきであって、今日となっては、そういう彼らのいい方は泣き言にすぎないんじゃないか。実践の上では、人の頭部にパイプを乱打して生命を奪うことをしておきながら、口ではそのようなふざけたことをいう。これはやはり人間として一番許せないことじゃないか。われわれはもっと正直で素直でなくちゃいけないと思う。
立花 絶対戦争≠ニはいいながら、現実に一月二十四日までは、植物人間的犠牲者は出しても死者は出さなかった。この段階までは、ルールとはいわないまでも、なるべくなら死者は出さないという方針があったような気がするが。
本多  くり返しいうが、二つの社会的な集団が激しい敵意をもって、しかも物理的な手段をもって衝突しあっている中では、死者が出ることは避けられない。われわれはもちろん、単純に死を追求するわけではなくして、あくまで彼らの白色主義政党を解体し、カクマルを完全打倒する闘い、その大目的に沿うものとして、種々の闘争形態、種々の闘争手段を駆使して闘うということだ。そのためには何をすることも許されていると。
立花  では、この戦争の巻き添えで死んだ人についてはどうか。
本多  そんな人がいるか。
立花  二月八日の琉球大学の比嘉君は?
本多  そんなことはない。
立花  警察でも誤爆であると……。
本多  いや、そんなことはないだろう。あれはあくまで琉大の反革命分子に対する闘いとそれに対する彼らの絶望的な反抗を粉砕する過程で起こったということだ。
立花  死ぬまでいかないにしても、殴られたり、骨を折られたりという人はかなり巻き添え的に出ていますね。
本多  それは、どういうことか。
立花  革マル派じゃない人間が……。
本多  ぼくらとしては、自分たちの闘争をできるだけ自分たちの目標に添ったものにしていくということだ。それ相応の努力はすすめているつもりだ。いまいえるのはそういうことだ。闘争において彼らを打倒するだけではなしに、その闘争の過程における問題についても、われわれは実践を通して解決していきたけいと思っている。
立花  問題があったということか。
本多  いや、あるとかないとかの問題ではなしに、そういうふうに今われわれは考えているということだ。(革マル派の誤爆がいかに多いかを実例をあげて説明してから)そういう人(革マル派に中核派に見たてられてテロられた人)に対するわれわれの償いとしても、一日も早くカクマルを打倒しなきゃいけない。カクマルを打倒することこそ、そういう人たちに対するわれわれの本当の意味での償いじゃないかと思っている。

【中核派の見解と思われる見解】
 以下は「内ゲバ批判論の批判」の貴重な論考であり、これを確認しておく。
Re:「左翼は頭が良いのか悪いのか。こういう設問は愚問なのか」 今は名を秘す 2003/02/02
 『新左翼運動40年の光と影』とか、あるいは『検証内ゲバ』を読んでみると、執筆者は誰一人として「なぜ、『内ゲバ』などという表現をするのか?」という、もっとも重要な問題には全く触れていないんですね。「内ゲバ」というような言葉を用いる限り、なぜカクマルが左翼の一員なのか、という説明が絶対に必要となるわけです。そこのところを執筆者たちは残念ながら、全く避けてしまっている。これは私はとても卑怯な態度ではないかと思う。

 それは、「左翼」の形態をとったカルト的ファシスト的な利権集団による敵対と、それに対する当時の状況のなかではそれ以外にいかなる手段も考えられないがゆえに行なわれたであろう反撃とをすべて同一視するものです。どのような意見の違いがあっても、目的が一致するのなら、大衆運動に敵対しない限りにおいて、大衆運動を通した共同行動は絶対に必要なものとなります。たとえ、相手が左翼とはいえない、リベラル的な潮流に属する人達であっても。

 が、たとえば三里塚闘争や国鉄分割民営化反対運動のような大衆運動に示されるように、暴力的敵対をこととする集団をはねのけない限り、大衆運動の前進はかちとれないという、そんな局面においてすら「内ゲバ反対」を唱えるのは間違いであろう。まして、小西誠氏のように、そのへんの事情をすべて熟知している人(その意味でこの人のことは決して、元第四インター、元日向派、元ノンセクトが多数を占める共産趣味者出身のネット左翼や、「問答有用」板常連やその周辺のネットワーカーとは同一視できない)がそういうことをいうのは、人間として卑劣な行為ではないかとさえ思う。

 小西氏は「中核派は『自衛』のみを徹底して呼びかけるべきであった」、「それは今以上の膨大な犠牲を生じたであろう」、「しかし、それを遥かに超える民衆の支持をつくりだしたであろう」、「そうなれば革マル派は、民衆の包囲によって影響力をなくし、機能しなくなって解体した」という。

 この間違いはカクマルを「大衆運動主義の党派」ででもあるかのように扱っていることであり、それはカクマルを「日本型スターリン主義」と規定することによって、カルト性・ファシスト性を無視したことによって生じるものである。「スターリン主義」という言葉で、カクマルは議会主義の日本共産党と同列にされるのである。

(私論.私見)

 ここまでの見解につき同意する。
 当然のことではあるが、もしヨーロッパの民衆がナチスに対して「自衛」以上の行動をしなかったならば、ユダヤ人・シンティロマ・同性愛者・「障害者」はガス室その他において絶滅させられ、ポーランド人やロシア人などのスラブ民族は3分の1が絶滅され、3分の1がシベリアなどに強制移住させられ、3分の1が奴隷的境遇においこまれていただろう。これは、誰が考えてみても理解できることである。

 第四インターの人達がかつて出版した『革命的暴力と内部ゲバルト』では、スターリン主義勢力によるトロツキー派などの反対派へのテロを「内ゲバ」と表現し、「トロツキーは同じ手段では対抗しなかった。トロツキーは正しかったか。百度もしかりだ」とし、「正しい敗北」という表現がされている。

 なぜトロツキーがスターリンに敗北したのかに関しては、そんな単純な分析はできるものではないし、トロツキーを単なる非暴力主義のように考えるのはトロツキーに対する冒涜ではないかと思うが、「正しい敗北」などという表現は、その後に引き起こされる凄まじい犯罪行為を思うと、驚くべき無責任な表現ではないかと思う。
(私論.私見)
 ここの下りは、ナチス論が通俗過ぎるので同意し難い。

【革マル派の見解】

 革マル派の暴力論としてはその見解は次の通り。

 概要「暴力は党派闘争に位置付けられるものであり、戦略上・戦術上・組織戦術上の諸対立を解決するための、特別な政治力学のもとでの特殊な組織的闘いとして認められる」。
 概要「革命的暴力の行使には一切の組織的判断と党的な目的意識性が必要で、我が反スターリン主義革命的左翼に敵対する反階級的で反党的分子に対しては、マルクス・レーニン主義の基準に則り、この原則を貫くためにのみ組織的に断固たる鉄槌を下す」。
 概要「革命を目指す陣営内部の黙過できないような誤りや堕落に対して、革命的暴力による他党派への暴力的解体・変革を目指すのは正義である」。
 概要「革マル派の暴力は、ひとしく革命を目指している陣営内部に対して、組織性と目的意識性に基づく教育的措置として革命的暴力が行使され、向自的党派闘争であり、論理的に緻密化されている」。
 「他党派解体を直接に目指しているという意味で、直接的党派闘争、あるいは向自的党派闘争と規定されている」。
 概要「大衆運動の革命的前進のただなかでの他党派とのイデオロギー的=組織的闘い、この大衆運動に従属した党派的なイデオロギー的=組織的闘いを、はじめの直接的党派闘争との関係では媒介的党派闘争、あるいは、向自的党派闘争の前提をつくりだすものとして即時的党派闘争と位置付けられる」(「組織創造論」こぶし書房)。

 つまり、革マル派は、自らの内ゲバ論を、「向自的党派闘争論」による「イデオロギー的=組織的闘い」の一貫であると規定し、実際に「他党派解体路線」を志向するなどまさに「向自的」に取り組んできた。「倫理的に一点の曇りもない」と豪語し、その過程での「ゲバルト行使」を「教育的措置的お仕置き論」で正当化してきた。その「教育的措置的お仕置き論」とは、「まぁ、平たく言えば、一週間なり一ヶ月なり己の肉体的痛みを噛み締めながら己の犯した誤りを、悪業を、ベッドの中で反省する機会を与えてやるということですよ」(前川委員長のNET・TVインタビュー「中核VS革マル」より)と云い為されている。「この暴力の行使はあくまでも、暴力を補助手段とした、駄々っ子に対する母親のお仕置きに過ぎない」(解放374号「お仕置き党派闘争論」)とも説明されている。

 革マル派の「首根っこ・急所論」は注目される。次のように述べている。

 「プロレタリア的道徳性の片鱗すらとどめないこの反労働者的徒党を、我々はプロレタリア階級の名において絶滅し尽くさねばならない。権力による攻撃にすくみあがっているブクロ派にとってそれ以上の恐怖は、我が革マル派の党派闘争に他ならない。権力は首根っこを押さえているに過ぎないけれども、我が革マル派は下の急所を握っているからなのだ。彼ら自身『権力は我々の組織を潰せない。権力が出来ないことを革マル派がやろうとしている』と正当にも認識している。あらゆる意味においてマルクス主義的、左翼的範疇に数え得ない今日のブクロ派、武装蜂起主義の十三階段をのぼりつめ、首にくいいる縄にもがき苦しんでいるこの政治的動物の速やかな埋葬を我々は急がなければならない。我々の闘いによって一切の退路を断たれたブクロ派を、我々労学全ての戦線において完全に包囲し絶滅し尽くさねばならない」(革マル派機関紙「解放」72年新年号)。

 革マル派は、海老原事件の7ケ月後、400ページを超す「革命的暴力とは何か」を著し、「海老原事件は、前代未聞の無原則的な集団リンチ、政治組織としての目的意識性を欠如した非組織的殺人」(「革命的暴力とは何か」)として海老原事件を引き起こした中核派に対して次のように批判している。その論理構成を確認する。

 「我々は中核派による海老原虐殺をその残虐性において指弾してきたのではない。殺人やテロル一般が倫理悪だからといって糾弾してきたのでもない。我々は小ブル的で道徳主義的な、ヒューマンな立場≠ニは無縁である」(p78)。
 「我が同盟は、革命組織である以上、反革命分子に対して革命のために鉄槌をくだすことについては、いささかも逡巡しない。ブクロ派にとって我々は「反革命集団」なのだそうである。そうであるなら、『反革命分子は革命の名において抹殺されねばならない』とでも傲然と言い放ってみるがよいのだ」(p84)。
 「梅本(梅本克己氏のこと)は、海老原殺しはいわば『偶然の事故』であって、それゆえに中核派の意図ではなかったのだから……といっているけれども、実のところ、問題はまさにそこにあるのである。もともと一つの手段としての政治的暴力は、前衛党としての階級的な責任に基づくものでなければならず、そこには常に明確な意図と、意図によって規制される限界が存しなければならない」(p167)。
 「海老原殺しは偶発であり、意図的な殺人ではない。だから『許してもよい』とほとんど梅本の咽喉元まできている『内語』をここに引きだしてしまうことにしていえば、だからこそ、海老原殺しは許しがたいのである。こういえば梅本は、逆に偶然ではなく、意図的な殺人ならばよいとお前はいうのか、と反問するであろう。そして、私は、しかり、と答えるのだ。〔中核派が革マル派を意図的に殺してもよいと容認するのではもちろんない。〕〔けれども、〕それを政治的暴力一般として語るならば、そこに明確な政治目的があり、そこに特殊な暴力手段が設定されたとして、そこに例外的な殺人が遂行されたとしても、それ自身は確然たるものである。私たちは、その政治目的や、その遂行手段について、存分に批判も称讃もできるはずであり、事実私たちは、歴史的なものとしてなら、これまでにも、政治暗殺や、ネチャーエフのイワノフ殺しや、宮顕(官本顕治氏のこと)らの小畑殺しについてそのように語ってきたのである。ところが、中核派の海老原殺しは、「意図せざる」「偶発」の殺人として、政治暴力一般のなかにその類例をみないものなのであり、海老原俊夫の死は、まったくの犬死なのである。いやしくも政治的党派としての行為においては、そのような衝動性こそが最大の犯罪となるのである」。(p167−168)
 「意図せざる殺人」という偶然性の強調によってこの事件を語る梅本らは、視角が完全に転倒しているのだ。このような論理が通用するのは、もつれた男女関係の悲しい末路の弁護だけであって、いやしくも政治的党派としての行為においては、そのような衝動性こそが最大の犯罪となるのである。(p198)
 「彼らははじめ殺す意図をもたなかったであろう。政治的目的に規制される暴力とは、殺すつもりもなく殺すなどという衝動性を許さない。暴力の衝動性を排除してはじめて革命的暴力は組織されるといいかえてもよい。はじめは街頭での偶然的なリンチ、次には密室での執拗な拷問、生かして帰すことが恐ろしい結果をもたらすと恐怖しなければならないほどのテロとそれへの彼ら自身の恐怖、そのための殺人、しかしこのような「偶然の連続」のための無計画的な死体遺棄、さらに「事後処理」のデタラメさもつけくわえようか――これらの全事態のなかに、ある場合には人を殺さなければならないかもしれないという重い緊張した使命を負う前衛組織としての階級的な責任があるといえるだろうか」。(p197−198)
 「政治目的を欠如した暴力、それゆえに政治目的からの規制を欠いた無限界的暴力の劇発のうちに殺されたことは明らかである。政治暴力として最低の『直接的報復理由をも欠いたリンチ』と私がいうのはこの点である。そしてここでこそ、事件の本質は鮮明になる。それはつづめていえば、中核派の党派的暴力路線が解き放たれて無目的な殺しを行うまでに拡散していること、そして、中核派学生集団の犯行が明白であるにもかかわらず、この事件を批判も称賛も規制できずにいる上部政治組織の思想的・組織的退廃の露呈である」(p198)。
 「我々は、マルクス・レーニン主義者足らんとして絶えず自己研鑽を重ねている。我々の反スターリン主義的マルクス主義者としての基準に照らして、反撃的・復讐的な、あるいは攻撃的な暴力を、等しく革命を目指している陣営の内部においてさえも行使することを余儀なくされる場合があることを、我々は否定しようとは思わない。こうした特殊な暴力を敢えて行使する時には、対国家権力との緊張関係において、明確な理論的基礎付けの元に、しかも組織の特殊指導部の責任と統制のもとに、まさに組織的に遂行されなければならない、と確信している」(p261)。
 「いわゆる『内ゲバ』一般、暴力一般が問題なのではない。行使された、あるいは行使されるであろう暴力そのものの質が、暴力を行使する主体が、まずもって問われなければならないのだ。いかなる組織(あるいは組織構成員)が、いかなるもの(対象)に対して、何のために(目的)どのように(手段及び形態)、いかなる条件のもとで、暴力を行使するか、というように問題を立て、且つ実現すること。これが問題の核心なのである」(p261−262)。
 「目的と手段とは、『誰が、どこで、何を』の問題から切り離すことは決して出来ない。『目的-手段』の体系が、我々の内部に構成され、且つこれに規定されながら我々の実践は展開されるのであるからして、我々の実践の前提・過程・結果の全てに、我々の意識性と組織性とが貫徹されるのである。だから、そこには、暴力行使の荒廃の入り込む余地など全く無いのである。このことは、組織の場合についても個人の場合についても居得ることである―もちろん、その革命性・思想性が真のマルクス・レーニン主義で貫かれている限りにおいて」(p262−263)。

 このような論理において党派間戦争を担ったのは、「特別行動隊(特行)」であった。この組織が中軸となって、組織的、計画的にゲバルトを敢行している。

(私論.私見) 「革命的暴力とは何か」考

 革マル派の「革命的暴力とは何か論」に対する「中核vs革マル」著者の立花見解は、概要「革命性・思想性が真のマルクス・レーニン主義でつらぬかれているのは革マル派のみであり、革マル派の暴力行使は倫理的に一点のくもりもない$ウ義であり、その他の暴力行使は不正義なものであるとする内ゲバ理論である」として独善的宗派性を解析している。補足すれば、問題は「革命的暴力とは何か」が、海老原事件を「好機」として党派間ゲバルトを礼賛し、その後の水路を造ったことに意味があり、これを書き上げたものは誰か、その意図は奈辺にあるのかを推測する必要があると云うことである。これが解析されていない。
 その後、中核派の「KK連合論」、「革マル反革命論」に対置される論として「権力の謀略論」を編み出した。革マル派はその新しい事態に対応するために、仕掛けられた内ゲバは全て権力による謀略であるという「謀略論」を展開した。この「謀略論」に対しては、厳しい批判が加えられている。或る推論と分析によると、「内ゲバ一方的停止宣言は中核派壊滅・勝利宣言」のつもりであった。ところが、その後反撃の体制を建て直した中核派による逆襲の前に、その勝利宣言は破綻した。謀略論はこの破綻の彌縫策として考え出された理屈に過ぎない。そして「一度出した謀略論を撤回するわけにもいかず、証拠はないが、自作自演と思しき謀略論まで登場し、謀略論にしがみついている」という説までまで流布されて、現在に至っている。
 立花氏は、「中核対革マル」の文中で、「自分の殺人(あるいは暴力)は倫理的だが、自分が殺されること(あるいは暴力をふるわれること)は倫理的でないと叫ぶ人間は、いかなる意味においても倫理的では無い」と指摘している。
 革マル派の特徴は、「唯一前衛党を目指す党派闘争」と「他党派の暴力的解体路線」にあり、「革マル派の場合、『権力に向けない暴力を他派に向ける』、つまり、党派闘争のみに暴力を行使するのであるから、心ある大衆から嫌悪されるのは必然である」(「検証内ゲバ」)というところにある。

【社青同解放派の見解】

 今日インターネットで「社青同解放派の党派闘争論」を知ることができるので、これを解析する。まず、1968年12月「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」で民青と革マル派批判を、次に、1972年1月「プロレタリア革命運動における党派闘争の論理と倫理」で革マル派と中核派の両革共同批判を、1972年5月「七〇年代ソヴィエト運動と党派闘争―革マル派との闘いを軸として―」で革マル派批判を、1974年から75年にかけて発表された「革命期におけるプロレタリア革命(派)の戦略問題――解体戦はいかに展開されるべきか」で革マル派との死闘戦の確認、その際の中核派との差異について述べる、という格好になっている。 次第に論理化され、テーマが絞られていっているのが分かる。

 革労協派の内ゲバの論理は、革マル派は「白色武装襲撃を最大の存在理由」としており、「武装せる社民化した反スターリニスト」であり、この「反革命的黒田教思想集団」との党派闘争は「革マル解体・絶滅戦である」と規定している。

 2003.9.2日 れんだいこ拝

【社青同解放派の党派闘争論第一論文】
 最初の論考に1968年12月、機関誌「革命」(23号)「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」がある。この時はまだ漠然と、「一方では民青と闘い、同時に、他方では革マルと闘っている。何のためにか? 何故こうした連中と闘わなければならぬのか? この闘争は一体何を意味し、この闘争は現在の時代的意味をいかなるものとして指し示しているのか?」と問い掛け、更に「民青の法政大における戒厳令と、革マル派の現になしている戒厳令と、何と完全に一致してしまっていることか!」ともあり、「右からの民青、左からの革マルによる左派運動の絞殺運動」を凝視していることである。つまり、原初的認識において、「民青と革マルを併置」して問いを為していることが分かる。

 特に、革マル派に対して次のように不退転の決意を示している。
 「革マルの白色テロによる大衆闘争・大衆組織の乗取り策動をプロレタリアートの名において粉砕しなければならない!彼らの宗派的性格は、ここに極まって示されている。『宗派運動は、階級運動と区別されたところにのみ自己の存在意義を見出すことができる』(マルクス)という宗派の本質を、いま、われわれはこの目で確かめている」と述べ、「これを、このわれわれが見ているものを、全ての大衆組織に伝え、厳重な警戒をよびかけることは、われわれ自身の階級的責務である。そして七〇年安保=アジア・太平洋圏安保を粉砕してゆくことができるプロレタリア的戦闘は、その核心的性格は、同時に、まぎれもない反ファシズム闘争として発展せしめなければならないのだ! 何故なら、闘いがプロレタリア的なものに革命的に転化すればするほど、ファシズムの形成は実際問題となるのだから! 反革マル闘争は、七〇年安保を闘いぬくプロレタリア的闘争が、決して避けてとおることのできない闘争である!」。

 しかし、この時点では、「厳重な警戒をよびかけることは、われわれ自身の階級的責務である」とあるように防御的な立場を表明している。その延長線上で、「我々にとって泣き言などはあり得ない。それどころか、歴史と人民の与えたすばらしい機会としてただ闘いぬくのみである」と宣言している。そのように読み取れる。

【社青同解放派の党派闘争論第二論文】
 次に、1972年1月、機関紙・解放(87号)、機関誌・解放(第3号)「プロレタリア革命運動における党派闘争の論理と倫理」が発表されている。党派闘争について次のような認識を披瀝している。
 「革命的激動期は同時に強烈な党派闘争の時代である。プロレタリア革命は帝国主義者と闘うかぎり、一切の部分と共同闘争を組むが、それが反プロレタリア的原則の下で敵対してくるのに対しては粉砕しつくさねばならない。この闘いに敗北するということはプロレタリア革命派の敗北を意味する。七〇年代階級闘争は、日本の左翼運動にこういう課題を突きつけている」。 

 「先の「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」に比べて向自的なスタンスへの転換が読み取れる。但し、今度は、「革共同革マル・中核派両派を横並びで批判」しているところに特徴がある。「社・共を批判しつつ、実は『ソヴィエト運動の否定』という点で革共同革マル・中核派は共通のものを持っている」と指摘し、順次革マル派、中核派への批判に向っている。

 革マル派に対しては次のように批判している。
 概要「革マル派の『のりこえ』運動の内実は空洞化している。66年以来革マル派の闘争方針は独自のものを打ち出すよりは『他党派の批判をもって情勢分析に代えるような傾向』が続いている。抽象的『主体性』以外に出てこず、いっこうに革命化しない大衆運動と『主体形成主義―個人的自己否定』の二元論の中でアガイている」。

 この後急遽、日共批判に入り、次のように見立てている。
 「日共は、闘いの圧殺者として登場する。それは、闘いの質が市民主義をこえて革命化する時、必ず『ブルジョア民主主義の防衛者』としての敵対を開始する。『黒を白といいくるめ』、『原因と結果』を逆にする。こうして、小ブル民主主義は、プロレタリア革命派に対してはデマゴギーをもった敵対者としてあらわれる」。

 続いて、「中核派と革マル派はともに『小プル個人的自己否定』を自らのエネルギーの起源としている」と見立て、中核派批判に入っている。
 「かれらの運動は、現実のプロレタリア人民の諸矛盾、諸闘争を結びつけ、その中から自らの限界をも突破していくエネルギーを作っていくというプロレタリア革命のエネルギーと逆なのだ。かれらは、合理化にしてもファシズムにしても、戦争にしても、教育問題にしても、部落問題にしても、それとして問題にしきりそれを闘いぬくということはない。かれらにとって、これらの諸矛盾、諸闘争は、自分の個人的自己否定のエネルギーの『物理力』でしかない。まさに、政治的利用主義なのだ。この点は、日共と同じであり、異なるのは日共が市民主義の穏和派として出て来るのに対して急進派として出てくるということにすぎない」。
 「かれらにとって階級性とは、現実の矛盾のあり方ではなく、かれらの頭にうかぶイデオロギーだということなのだ。しかも、現実の矛盾をつかみとりそれへの『闘い―団結』を通して自らの小ブル性を止揚するということではなく、自己の小ブル性の個人的自己否定をエネルギーとしているので、『自己否定』ということは『他者の否定』であり、したがって、内部矛盾の外在的転化なのだ。そういうものとして、セクト的対応は、かれらの体質になっている」。
 「日共と酷似しているのは、闘いが自分たちの手におえなくなると、それへ戒厳令をはり大衆や他党派をつぶしにかかるという点である。これは、他の党派の人間への対応にあらわれてくる。現実の矛盾の隠蔽、圧殺という論理は、他人の肉体の抹殺(階級的打倒ではなく、闇から闇へとほうむるとか、知らん顔して逃げまわるとか)の『倫理』となっていく。闘いが死をふくむ時代にはいっているということは言いうるが、それが『抹殺の思想』に貫かれているか否かは決定的に異なる」。

【「革マル派の『革命的暴力とは何か』論」批判】
 終章で、革マル派の「革命的暴力とは何か」の論理を解析し、次のように述べている。「ほとんど中核派と同じ思想構造を、革マル派はもっている。ただ、革マル派は、それを思想的という外観をもって行なう」と、革マル派の理論性を認め、その上でその理論内容を次のようには批判している。これが興味深い。

 革マル派の「革命的暴力とは何か」で、梅本克己、高橋和巳氏が「革マル派の左派圏内への『革命的暴力論』」に対する危惧を表明したのに触れて次のように反論している。梅本氏が、「革マルの中核への復讐に対して、党派闘争が単なる復讐の論理をこえてそれを止揚するものをもっていなくてはならないのではないか」、と提起したのに対して、革マル派は、「キリストになることはできない」、「政治を止揚するにはやはり政治が必要なのだ」、「中核派は非組織的にやっているので悪い。われわれは思想闘争を行ない組織的にやる」と答えている。高橋氏が、「内ゲバは内部矛盾の転化である。それを越えていくためには、プロレタリアを前にして党派闘争をやらねばならぬ」、と提起したのに対して、革マル派の解答は、「党派闘争を正しく判断できるプロレタリア大衆などどこにもいない、そういう労働者は自分たちが創造していくしかない」と答えている。

 革マル派のこの対応に対して次のように見立てている。
 「ここに革マル派の本質が暴露されている。われわれは60年いらい革マル派とは激烈な党派闘争を闘いぬきつつあるが、われわれが見てきた『現実の矛盾の隠蔽』(デマゴギー)、『闘いへの敵対』という反スタ・スターリニストのあり方(正確に言えば、イデオロギー的には革マルの方が本家である)は、革マル・中核に共通であるが、それを自らの口で思想的に告白しているのがこの対応である。つまりかれらは中核を批判しつつも、中核派の止揚については一言もいっていない(それは、自分の方が本家なのであたりまえだが――)。つまりブルジョア的また小ブルジョア的な政治の論理を越えるものが一つもなく、ただただ組織的であったか否か、思想闘争をやったか否かということしかない。この革マル思想の核心を表わしているのは、高橋和巳への批判である。『内ゲバの善悪を判断できる大衆など一人もいない。自分がつくるしかない』――これこそ革マル・イデオロギーの核心である。ここには、思想闘争の外観をもち組織的であればまったく無原則的なことを平気でやれるというかれらの『論理と倫理』の基礎がある」。

 結論として次のように述べている。
 「われわれの前に次の問題が厳然とつきつけられている。プロレタリア革命を目指していかなる困難があろうとも闘いへの圧殺者を実力で粉砕しきり党派闘争に勝利しなくてはならぬ。しかし、同時にそれはブルジョア、小ブルジョアの政治の『論理と倫理』を止揚するものをふくんでいなくてはならない。これへのわれわれの解答は、次のように立てられる。現実の矛盾から目をそらした上で成立している『闘いの圧殺と分断』のためのセクト主義的党派闘争か、『現実の矛盾をみつめきり、闘いの結合と発展』のための党派闘争か、と。ここに、一切の問題が凝縮している」。
 「したがって、党派闘争は全大衆の前にそれが帝国主義へのいかなる闘いをめぐってのものなのかを明らかにし、全大衆自身の問題の発展として闘うことを明らかにする(まさにわれわれは東大闘争の最中に革マル派とこうして闘った)。これは、宣伝上も組織的にもである。このことにおいて、党派闘争の展開は、大衆自身の検証をくぐることになる。したがって一つ一つの合理化、沖縄等の問題をつき出しつつ闘わねばならない(もちろん権力に対しでは充分な、また必要な配慮をせねばならぬが――)。そしてその上で組織的にも全大衆に呼びかけつつ、戒厳令に対しては非妥協的に闘う。暴力的戒厳令に恐怖することによっては、人間の解放はありえない」。

【社青同解放派のこの頃の「革命的テロ」見解】
 以上を踏まえて、「革命的テロ」について次のように自制した見解を披瀝している。
 「いうまでもなく、マルクス主義はテロを原則的に、否定をしはしない。また、反革命的な敵対者を実力で粉砕せねばならぬ状況もある。だが、それは、何でもかんでもメチャメチャなことをやってもいいということではない。捕虜の無原則的なテロや、無原則的テロ一般は許されるものではたい」。
 「われわれが、1968年の全学連運動の、中核派による分裂策動でみたように、かれらはまったく無原則的に殺せなどということを指導都が平気で口にする。しかも、それは、自分たちが闘いの中で追いつめられ、拠点大学から放り出されそうになるとデマゴギーをデッチ上げて、われわれに対してテロ・リンチを行なっている時にである。かれらにとっては、一人ひとりの活動家はその時々の中核派という党派の浮き沈みのための物理力でしかなく、したがって、一人ひとりの活動家や大衆の生命もそういうものとして扱われていく。それは、かれらが、革マル派と同じように、一人の人間を『イデオロギーを背負って歩いている人形』としてしか扱わないからなのだ。別の形で言えば、一人ひとりの人民の矛盾を、社会の根本的矛盾の中にしっかりと位置付けきっていないからなのだ。要するに、血と肉をもった一人ひとりのかけがえのない人間としてみていないからなのだ。この間のかれらの闘いにおける思想の荒廃ぶりは、この構造に輪をかけている」。
 「法政の有力な活動家Tは、『われわれは何でもかんでも、ブルジョア的なことでも、必要ならばやる』という『有名な』言葉を吐いている。あきれはてた『レーニン主義者』がいたものだ。ナロードニキのテロリストは、権力と闘う時でさえ、かれらなりのきびしい倫理をもっていたし、また、それだからこそ、人々の心をうったのだ。また、これを批判して登場したレーニンは、あらゆる状況において、一つひとつマルクス主義的原則をつらぬこうとして苦闘した。レーニンの活動をその革命的リアリズムを、『勝利のためには手段を選ばない』というふうに理解するのは、まったく馬鹿げたことだ。レーニンほど当時のマルクス主義の中で、一つ一つの問題に原則を貫こうとして苦闘した人間はいない。革マル派との現在の過程は、中核派のこうした荒廃の一つの表現である。もちろんわれわれは党派闘争の威しさ、それ自体を否定しているのではない。そのあり方を問題にする。たしかに、現在の闘いのきびしさば、あらゆる問題が突発する可能性を常にもっている。そのことを避けて通ることはできない。だが、中核派のこの間の状況は、かれら全体の破産と、思想の荒廃がいかにかれらの活動家に現われているかを示している」。

 つまり、中核派の対革マル絶対戦争化に対して、それを「かれら全体の破産と、思想の荒廃」という見地を披瀝している。

 そして、次のように結ぶ。
 「一方の革マル派は、結局、中核派的な構造を、イデオロギーのオブラートをかぶせ『組織的』にやっているにすぎない(それは先程見てきた)。同じ内容を『非組織的』にやることと『組織的』にやることとに、本質的な差異があるわけではない。われわれは、かれらとの闘いの中で、まさに『白を黒といいくるめ』、『原因と結果を逆に宣伝』する反スタ・スターリニストの醜悪な本質をみてきた。それは、単なる偶然ではない。かれらにおいては、すでにみてきたように、現実のプロレタリア人民の矛盾の隠蔽と、闘いの切断に自らの党派性があるからに外ならない」。
 「われわれの党派闘争は、中核派のように中味をゴマカし、自分のやったことをほおかむりして勝手なことをやるのでもなく、革マル派のように階級的真実を自分の主観的イデオロギーにスリカエてしまうのでもない。まさに階級的真実と、階級闘争を明らかにし、推進する形で、したがって自らの一切の活動は、そのプロレタリア大衆の目に検証される形を促進しつつ(つまり、プロレタリアの団結を推進する形で)行なう。われわれは革マル派との闘いも六月の中核派との闘いもそのように実現してきた。われわれは、ソヴィエト運動を目指してプロレタリア運動の団結の発展・防衛のために闘うであろう。われわれは、階級闘争の推進をくもらせ、自らの破産を隠蔽し、階級闘争に敵対するものと闘う。如何なる戒厳令をも突破して!」。

 つまり、社青同の党派的特色を出そうとして種々考察していることになる。

【社青同解放派の党派闘争論第三論文】
 次に、1972年5月、機関紙・解放(94号)、機関誌・解放(第3号)「七〇年代ソヴィエト運動と党派闘争―革マル派との闘いを軸として―」が発表されている。この段階で、革マル派との本格的な暴力的党派闘争に踏み込む上での理論的位置付け、次に革マル派の本質規定に入っている。この論考で、「新たな質への転換」が為されていることになる。

 
社青同解放派の暴力的党派闘争論について次のように述べている。れんだいこなりに要約し論を組み立ててみる。
 曰くその一、概要「元々マルクス主義における党派闘争の基本方針は、マルクスが言ったように『反ブルジョアジーの闘いを組むかぎり小ブルとも共同闘争を行ない、それが自分の利害のためにプロレタリアを物理力にせんとして立ち向ってくるならばそれを粉砕せよ!』というものである」。
 曰くその二、概要「真性マルクス主義者は、その党派闘争の基本軸を『現実のプロレタリア人民の闘いの結合のために!』置く。これに対し、小ブル派の党派闘争は、『小ブル・セクト主義のために運動を分断する』ということである。相互に共同闘争するのか抗争するのかのリトマス試験紙は、『生きたプロレタリアの共通利害の形成』に照らして組める党派かそうでない相手かということになる」。
 曰くその三、概要「革マル派とは組めない。組める相手では無い」(但し、実際にはこの部分が欠落している。他の個所で縷縷述べているという意味であろうが)。曰くその三、概要「今や革マル派との党派闘争は武装を不可欠としており、死の危険性もあるが、団結と突撃力、階級的な勇気をもって立ち向い突破せねばならぬところへ来ている」。

 ここの論理は興味深いのでそのまま記す。
 「このことを軸として、ブルジョア的または小ブルジョア的政治の『生と死』をこえて行くということが重大である。ブルジョア的または小ブルジョア的な生と死は次のようになっている。分業(私的所有)の中に、とらわれて生きかつ死ぬ、ブルジョアや小ブルジョアは、現実的利害としては相互に反発し競争している。したがって『共同性』『普遍性』は、個々の生きた諸個人の外に定立され(疎外され)、そして諸個人は、その疎外された宗教的(イデオロギー的)利害のために物理力として抑圧され、抹殺される。これに対してプロレタリアの闘いは、生きた諸個人が、階級的利害(要求)により、現実的に結びつき、その団結を通して諸個人も全面的に発展せんとするものである」。
 「ここにおいては『個人と共同性』は統一されつつあり、その意味において、その発展をおしとどめ、絶望と摩滅と抹殺の中にたたき込まんとする敵対物に対しては、それを突破するために自らの全存在をかけて(死をもかけて)、闘わねばならぬ。何故ならば、ここにおいては、自らの類的共同体的(人間的)目的と、現実的な個人の『生』は統一の道を生みつつあり、ブルジョア的、小ブルジョア的(宗教的)な死の如く個人の肉体と普遍的目的が分断され、その分断の故に個別的な意味での死が自己目的化されるものとは、全く異なるからである。プロレタリア革命運動における『死』は、現実的な生きた団結の中の『不滅の大目的』の中に、結びつき『生き』つづけるのだ。こうして、プロレタリアの『生きんがための闘い』は、同時に、『不滅の大目的』のために全生存在をかけて闘う(死をかけて闘う)ことをも意味するのである」。
 「すでにみて来たように、現代の階級闘争は現段階的武装を不可欠としている。それは、プロレタリア革命の暴力性の現段階的表現である。その現段階的武装は、ささやかなものであり、『必殺の武器』ではない。しかし、たとえわずかであっても何パーセントかの死の可能性もふくんでいるものとしてある。したがって、闘うプロレタリア人民は、この『危険性』に団結と突撃力、階級的な勇気をもって立ち向い突破せねばならぬところへ来ている」。

 次に、「労働組合のソヴィエト運動としての発展を目指すべき七〇年代階級闘争にとって、革マル派との闘いは、とりわけ重要な意味をもって来ている。そういう中で三月三〇日以降、我々と革共同革マル派との間に生まれている党派闘争の事実経過とその背景の本質を明らかにしなくてならない」として、次のように述べている。社青同解放派の暴力的党派闘争論について次のように述べている。(以下、略)
(私論.私見) 社青同解放派の聖戦イデオロギーについて
 党派間戦争という事態を迎え、その実践を是認する聖戦論を如何に生み出すのか、これに社青同解放派的に応えたのが第三論文である。ここで、「生と死」を、ブルジョア的なるものとプロレタリア革命運動とi識別し、「類的共同性に依拠する大目的の為に殉ずる論」として言いきかせようとしている。しかし、この構図は、戦前の八紘一宇論、靖国御霊論と通底しているようにも見える。つまり、理論として何ら目新しいものはない、というか陳腐でさえあるように思われる。しかし、この感性こそよきにせよ悪しきにせよ土着左派的な面を持つ社青同解放派的なところかも知れない。ちなみに、聖戦論のメンタリティー面の論理は今日でも未消化であるので、これでもって社青同解放派の論理を貶めようとは思わない。

【社青同解放派の革マル派批判の構図】
 「革マル派の路線の本質について」次のように述べている。
 概要「革共同革マル派の本質は、『民同的大衆運動』プラス『左派系小ブルイデオロギー運動』である。ここでは大衆運動と革命運動が切断・分離されており、大衆運動は永遠に大衆運動であり、革命運動はこの大衆運動の中からは一滴も生み出されず、それは『教祖のイデオロギー』の中にある。この構図が革マル派の運動の全てに通じている。彼らは、一見『チミツ』に小市民的に行なうが、それが如何なる意味で革命運動へ発展するのかが全く不明である。例えば、彼らは『革命的反戦闘争』なるものを語るが、大衆運動をいざ革命化するという時、単にとってつけたように『のりこえ』と語るのであって、『のりこえ』の中味が全くない」。
 「革マル運動の歴史的ジレンマ」の項では次のように述べている。概要「革マル派の『主体形成主義的組織建設路線』とは、理論主義の体裁を装った主体性論の直接的もちこみとその外在的戦略の適用による自己目的な組織建設主義であり、『大衆運動と革命運動、主体性の分離と断絶』は、革マル派である限り決してこえることが出来ない。『のりこえ』は空語である」。
 「こうして、現実の大衆運動とその中からの革命化に敵対し、その外にイデオロギー的な支配を貫徹する宗派路線が生まれてくるのである。これはまさにソヴィエト――階級独裁に無縁なばかりか、現実の労働運動や学生運動の発展に無縁にますます孤立し、小ブル自我・自己意識の自己増殖以外になしえないのである。だが、我々は、彼らのエネルギーが、ますますこういう孤立の中で『機関のっとり』と『イデオロギー支配』に熱中して行くことに対し、ハッキリと対決し、七〇年代階級闘争の使命として、この敵対を粉砕しつくさねばならない」。
 「我々の革マル派との党派闘争は単にセクトとセクトの争いなどというものではなく、日本プロレタリア運動が、ファシズムを粉砕し、革命へ発展しうるソヴィエト運動へ前進しうるか否かの鍵にもなっているのだ。彼らは、闘う組合と反戦・学生の共闘を心底から恐怖しているのだ。それはこの間の彼らの一運の攻撃の構造をみれば明らかである。◎革マル主義を全戦線で暴露せよ!、◎革マル派は四・二二〜四・二八等の闘う共闘への敵対を自己批判せよ!、◎闘う労組と反戦・全学連の階級的連帯を更に深めソヴィエト運動の発展を!」。

【社青同解放派の党派闘争論第四論文】
 次に、1974年から75年にかけて発表された「革命期におけるプロレタリア革命(派)の戦略問題――解体戦はいかに展開されるべきか」(全文はこちら)について。非常に多角的にして長大饒舌な論文となっている。このうちより「党派闘争に関する部分」を抜粋し、吟味する。この段階で、革マル派と如何に闘うのかの究明に入っているが、「七〇年代ソヴィエト運動と党派闘争―革マル派との闘いを軸として―」を継承して中核派との論理の差異を弁明している、という格好になっている。

 「革マルとの戦略的対峙下における死闘への突入」について次のように述べている。
 「反革命的宗派革マルとの死闘の展開である。我々は七五年夏以後、戦略的対峙段階への突入を決定した」。 
 「6・24報復を当面の主軸とする死闘へ突入していった。死闘とは、アジテーションの為の修飾語ではない。敵への階級的テロルを含む暴力的鉄槌の貫徹、及び6・24石井同志に加えられた虐殺攻撃を、我々すべてにかけられたものとして思想的現実的にうけとめ死をも恐れず闘い抜くことを意味する。そして、10月8日、6・24虐殺の当事者Aに対する階級的テロは爆発した。我々はまさに死闘に突入したのである」。

 しかし、これを「重大な任務」と為しつつも、「我々の戦線の中にも現下の党派闘争に対する批判的見解が出ていることは、決して軽視してはならないものである。出されている問題を正面からみつめ、プロレタリア革命の戦略戦術を全組織的に強化しなくてはならない」ともあり、「現下の党派闘争に対する批判的見解」の存在を窺うことができる。こうしたことから「組織的討論を!」要請している。
 
 次のように述べている。
 「世界革命運動の歴史の中で、党派闘争が苛烈に闘われた例は沢山ある。ロシア革命の中におけるボルシェビキとエスエル、アナーキストとの闘争、スペイン内乱におけるスターリニストとアナーキスト、トロツキズム的傾向のPOUMとの党派闘争は、全面武装闘争=戦争によって決着がついている。だが、蜂起以前の段階で、このような苛烈な暴力闘争を含む党派闘争が闘われた例はほとんどない。ここに日本におけるプロレタリア革命の特殊性における困難性と複雑性がある」。
 「60年代一杯かけて、反帝闘争から逃亡しつつ、反革命的暴力的攻撃を戦闘的運動に加えてきた革マルは、70年代に入るや否や『小ブルバミダシ派の解体』―『暴力革命主義者の絶滅』を叫んで他党派破壊の党派闘争に突入した。この彼らとの党派闘争の全面化をプロレタリア革命路線の下に思想的、戦略的にいかにとらえかえし強化するのか。この問題が『戦略的対峙戦への突入』下において重大なことになって来ている」。
 「日本階級闘争の特殊性は革マルという疎外され切った反革命宗派を生み出した。革マルとの党派闘争の全歴史をふりかえれば明白なように、又、革マルの思想と戦略が自ら明白に語っているように、革マルのプロレタリア革命派や他の『戦闘的潮流』に対する破壊攻撃は、一時的な、又は戦術的なものではない。それは彼らの生命線なのだ。階級的反戦闘争と全国学園闘争の真只中で、背後から早大解放派に加えられた反革命的暴力攻撃、青年協の闘争の只中で水道青年部に加えられた攻撃、6・24反革命殺人攻撃云々」。
 「彼らは我々の反革命宗派に対する闘争の体制の弱さにつけこんで、その他党派解体戦略を貫徹してきた。国家権力の大弾圧を条件としてなされるこの破壊攻撃を戦略的につかみきり、粉砕し、彼らを解体に追いこむことなしに、革命運動の前進はありえない。プロレタリア革命の勝利は、革命的労働者党の存在によってのみ可能となるのであり、その党派への破壊攻撃を許すことは、革命運動の放棄以外の何ものでもない」。
 「宗派との党派闘争によって宗派を解体しつつ、同時にその闘いを通してプロレタリアートをおおっている小ブル的なものを解体し、プロレタリアートの階級性、革命性を深化発展させることが不可欠になる」。
 「我々は日本革命における解体すべき主要な宗派として、社民、スターリニズム、反スタ・スターリニズムをあげることができる。この他に「反スタ・スターリニズム+ブランキズム」としての中核、「スターリニズム+ブランキズム」としての赤軍派がある。ところで革命期の中で、すでに一定の大衆的基礎を背景にして社共と区別された潮流と党派の建設が現実化してきている。60年以降発生した新左翼といわれる諸潮流の分岐、再編も戦略的次元では一段落し、プロレタリア革命派としての我々以外、反帝・反スタの革マル、中核、第四インター、スターリニズムヘ屈服を開始したブンド諸派という状況になっている。この中でブンド諸派は(ほんの一部を除いて)ほとんどプロレタリア革命路線を放棄してしまっており、ゲリラ戦主義に埋没している。そして毛沢東主義、ベトナム労働党路線などのスターリニズムに屈服を深めている。しかし、革共同車マル、中核、インターの三派及び我々は、産業プロレタリアの組織化を、様々な闘争―組織方針上の差異はあるにしても、主軸にすえている。革マルは『イデオロギー主義+組合主義』として、中核は『大衆暴動主義+組合主義』、インターはあらゆる意味で本質的な中間派として――」。
 「この構造の中で69・70闘争から逃亡した革マルが、闘った部分に対し、国家権力の大弾圧を条件として、杜(共)の左に突き出した闘争―組織への破壊攻撃を全面化したのである。これが後にくわしくみるように69〜73年革マルが『オセオセ』スタイルで図にのって拡大した党派闘争の構造である。革マルは、我々や中核をつぶしてしまえば、日本プロレタリアートの主力を自分達が支配できると思ったのである。しかも革マルは反帝闘争を市民主義、組合主義として固定化した上で、他党派解体攻撃を唯一の『革命運動』としている宗派である。この疎外構造は、正に日本的小ブルジョアジーの特殊性をもっている」。
 「革マルという反革命的暴力を主要な手段として組織的な解体攻撃を加えてくる宗派との闘争は、日本プロレタリア革命の勝利にとっていかなる推進力となりえるのか?それは一切の小ブル性と区別されたプロレタリア階級の革命性を闘争―組織上、また思想上確立し、小ブル宗派を死闘を通して粉砕することにある。それがどのようなものであれ、プロレタリア永続革命の貫徹にとって、小ブル宗派との敵対と攻防は、いずれ必ずやってくる。ロシア、ドイツ、フランス、スペイン等において状況に応じて表われ方の相違はあるが」。
 「アジアにおける唯一の帝国主義日本における革命は、スターリン主義、反スタ・スターリニズム、社民との苛烈な党派闘争を不可避とする。日本革命は「後進国」階級闘争の影をひきずりつつ闘われる「先進国」革命として、独特の世界史的位置の中で闘われるのである。従ってここで闘われる宗派との闘いはおそらく世界にも例のない複雑さと苛烈さともって闘われてゆくだろう」。
 「従って蜂起―内乱以前に闘われているこの党派闘争は、たとえ革マルによって戦端が開かれたものであれ、それを目的意識的にとらえかえし、勝利的に推進することによってのみ、日本革命の推進になりうるのだ。その質において重要なことは反革命的宗派革マルの反革命的テロ攻撃との対抗、粉砕を含めて、プロレタリア革命派の思想上、組織上の深化が、もっとも深い思想を背景として展開されているという点である」。
 「これは革命期における戦略的環である〈党と統一戦線〉あるいは〈党の運動を含むソヴィエト運動〉が暴力的戦闘の死闘的展開を内包してのみ維持され発展しうるのだということを示している。こうして〈党ーソヴィニト〉の運動(闘争―組織)がそのプロレタリア革命性を深化、確立するためには、軍事的要素を不可欠なものとして推進、発展せねばならない」。
 「歴史的にみても党派そのものの解体戦に踏みこんできたのは革マルであるということによっても明らかである(大きなポイントとしては、68年の早大学館闘争への攻撃、72年木下間題直後の組織骨格への攻撃、73年神大夜襲、74年4.30指導部中枢への攻撃、75年石井同志への殺人攻撃 ―なお石井同志について彼らは、今まで数回名前をあげてきていた)。いうまでもなく、革マル解体戦については多くの不充分性があり、原則的な点での深化、戦略・戦術の整理が必要である」。
 「こういう意味で、革マルとの解体戦は、革命期における闘争―組織の階級的革命的試金石である。何故なら、反革命的宗派革マルと国家権力は次の点で相互協力的である。つまり一革命期においてプロレタリア大衆運動とプロレタリア的党派が小ブル派と区別された運動と党建設をやらない限り、それを放置し利用する。しかしそれが革命運動にふさわしいソヴィエト運動と党建設に向かう限り、粉砕し、職滅しようとする。従ってそもそも日本において反革命的宗派との解体戦は、党と統一戦線の任務である。逆にいえば、日本における党建設と統一戦線は、国家権力との死闘を通してのみ革命期型に再編しうる」。
 「そして、この革マルとの解体線は、反帝闘争の階級化、革命化を条件としつつ、思想・組織・暴力的闘争の三位一体的展開によってのみ勝利しうる。これはいいかえれば、総体としてのソヴィエト運動の目的意識的推進の中で展開される革命的労働者党建設とゲリラ的暴力的戦闘として闘われるのである。この闘争の目的意識的展開によってのみ革命期型の闘争が建設されるのである」。

 以上の観点から、「蜂起―革命戦争に向かって、敵に打撃を与えつつ、いかに敵の本質的矛盾を拡大し、味方の闘争力・組織力を発達させるかという戦略の下における戦術」を提起しつつも、次のような自制を促そうとしている。つまり中核派のそれとは違うという観点を披瀝しようとしている。

 「戦略上重要なのは次の三点である。第一に、戦争を思想・組織的闘争の手段に使わないこと。これは、『戦争を観念化』させるか『誤った全減の方針』の原因となる。『戦争は戦争』で『敵の殺傷を主要な手段とする敵戦闘力の殲滅』=『無制限の暴力の行使』である。赤軍派にも若干、イデオロギー闘争の手段にする傾向があったが、中核は極端になっている。中核は思想的に革マルに屈服しており、それを戦術的面での算術的一総和で補っているからである。その根本には『革マル=ファシスト』という規定に表われる路線上の破産がある。第二に、プロレタリア革命戦争としての『武装蜂起=内乱』=『革命戦争』は、一時期に集中されるものであり、『内乱―内戦』の発展の中で蜂起があるのではない。第三に、党派闘争と権力闘争を厳格に区別すること」。

 興味深いことは、中核派の「革マル派=ファシスト」規定に対し、これを斥け、「革マル派=左派運動圏内の反革命的変種宗派」として位置付けているかの如くなところである。しかし、このような規定で何ゆえ、「革マルとの戦略的対峙下における死闘戦」を闘い抜けるのだろうか。論理的に折衷であるような気がしないでもない。


【「革マル=小ブル反革命規定について」】
 「革マル=小ブル反革命規定について」別章を立てて再度考察している。これが、中核派の「革マル派=ファシスト」規定に対応する社青同解放派の理論付けとなる。

 「我々は革マルについて『反革命的宗派』、『反スタ・スターリニスト』と規定してきた。『反スタ・スターリニスト』規定はスターーリニストに一面的、小ブル的に反発しつつも、根底においてスターリニストと同質のものを内包しているという意味である。革マルはスターリニストに対して近代小市民的『主体性論的』反発を行ないつつも、日本近代社会(ブルジョア社会)の独自の構造に規定された『旧い共同体』をその小ブル的自我の背後に『ゆ着』させている。『反スタ・スターリニスト』規定は勝手なレッテルではない。それは大衆運動面においては『宗教的右翼改良主義』として現出する。これが『のりこえの論理』の階級的規定である」。
 「革マルの反革命性の全面展開ということは、革マルと我々の全面戦争を意味する。現在の革マルの行動は、プロレタリア暴力革命派に対する反革命虐殺行動−−反革命テロルの開始と把握すべきであり、『反スタ・スターリニスト反革命の全面展開』とそれに対する『戦争としての闘争』段階ではない。現時点においては国家権力との関係をも含めてそうなのである。革マル解体闘争方針はその意味で先程規定した『階級的、革命的闘争』方針であろう」。
 「それでも次のごとき反論があるかも知れぬ。『反スタ・スターリニストと規定した上で、彼等は今、反革命行動にふみ切っている。そうした意味で小ブル反革命そのものなのだ』と。注意すべきは本質とその現実化の区別である。それは客観情勢の深化との関係で初めて問題になる。現在は議会制ブルジョア独裁期(その崩壊期)である。革マルがブルジョアジーに徹底的に利用されつくされたとしても、今の時点で革マルが我々に反革命戦争をしかけてくることはできない。できることは反革命テロルと思想闘争、組織戦であり、この政治的現段階における弾圧とその利用なのだ」。
 「『その様な判断は甘い』等の批判は間違っている。甘い、辛い等は何らの科学的分析ではない。現下の帝国主義ブルジョアジーの弾圧は、ファシストのそれと異なって、我々の思想性、組織性、暴力性の統一的強化により本質的に粉砕し得るのであり、対革マル闘争もそこを徹底的に重視せねばならぬ。中核のごとく無理矢理「戦争」をデッチあげることは戦略的破産、思想的破綻を構造化せしめ、「蜂起−革命戦争」の本格的準備とその貫徹−勝利とは無縁のものである。現象的左翼性、急進性に幻惑された左翼小児病、左翼スターリストが中核である」。
 「今、我々が革マルとの闘争を『戦争ではない』と規定する理由は、戦争規定することによっては、現在、最も集中的に強化されねばならぬ思想性、組織性、暴力性の統一的展開を放棄することになるからだ。万一、革マルの攻撃を『反スタ・スターリニスト反革命の全面化』と規定するとすれば、革マルとの現実的戦争にふみ切ると方針化すべきであろう。組合運動、自治会運動、思想闘争等は補足的なものとして、『戦争=殺傷を主要な手段とする敵戦闘力のせん滅』に全力を挙げねばならぬ。しかしこれは明らかに誤りである」。
 「我々のとるべき方針、戦略的対時段階の方針は〈暴力的闘争、思想闘争、組織的闘争の統一的展開をもって革マルの持っている本質的矛盾を拡大深化させ、その政治力の崩壊を決戦に向かって促進すること〉にある。この段階の革マルを我々は〈反スタ・スターリニスト(反革命的宗派)の、テロルを軸とする反革命行動の展開期〉とみるべきである」。
 「我々は革マルを宗派一般と区別し、特に『反革命的宗派』と規定し、それが反革命行動に踏み切っていると把握しているのである。こうした点を欠落させれば(「小ブル反革命」規定はそうである)対革マル闘争をめぐり、プロレタリアートとプロレタリア革命派が現時点で獲得し発展させてゆくべきものが押し流され、結局革マルに対する根本的破壊力を獲得できぬであろう」。
 「国家権力の完全な許容の下に革マルが全面戦争をしかけてくることは可能性として存在する。国家権力が数千の部隊の相互絶滅戦を許容するということは、それ自体国家権力の崩壊状況の中でなければ不可能である。こうした情勢分析と政治過程の正確な分析−方針は更に具体的に煮つめ確定せねばならぬが、我々はいつでも決戦に突入し得る体制と思想性を形成してゆかねばならぬ。それなくして戦略的対峙戦の勝利的展開、更には我々の有利な条件の下、我々の主導権による決戦への突入とその勝利はあり得ないのである」。

【藤野武・氏の反革命革マル解体戦論】
 石井同志虐殺報復=反革命革マル解体戦の烈火に、対ファシスト戦――本格的権力闘争の着手と単一プロレタリア革命党建設を戦取せよ!(1975年11月 藤野武「赤砦」2号/1976年9月)」を転載しておく。
 1974.6.24日、伊東山中に於いて、革マル派により解放派の石井真作氏が虐殺された。解放派は「6.24反革命として血の完全報復戦」に踏み込むことになる。「10.8日遂に本格的な報復の狼火が敵戦闘カ=秋本の頭上に深深と打ち込まれた。革命的赤色テロルを我が英雄的同志が貫徹。この闘いこそは、白色テロには赤色テロをもって報復を貫徹するという革命的原則を、全プロレタリアート、人民に明示したという当然の意味にとどまるものではない」云々。

 この論文の意義は、遊撃戦論、ゲリラ戦に対するマルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーの言説による位置付けを為しているところにある。プロレタリア共産主義革命運動に占める党派闘争の位置と意義を論及し、「内乱的内戦的な(あるいは蜂起的な場合すら)戦闘」の不可避性に言及している。
 「中でも『左共』反革命に純化した党派の解体を通して実現すること」。「革マル解体戦が全体の中に占める位置・比重・意義を明確にし、総力戦への決意と体制を一層打ち固めねばならない」。
 「例えば四トロの如く、党派闘争それ自体を否定することは論外」、「従って、反帝(反権力)闘争を理由にした党派闘争へのネガティブな対応は、党派としては、四トロに端的に示される如く、単なる党派闘争からの召還の口実と卑屈な自己合理化にすぎない。しかもそれにとどまらず、当の反帝闘争そのものが革命期以前的水準にあることに他ならないのだ。いいかえれば、革マルの経済主義、組合主義と大同小異でしかなく、革マルが彼ら(の組鼓・団結)を暴力的に解体する必要を感じない地平にしかないことをも示しているのは明白である」。
 「プロレタリア革命派にとって、この反革命革マルとの闘いは、権力の非合法化弾圧及び、それと一体呼応した革マルの白色襲撃との対抗という二重の性格を有するが故に、組織の非公然・非合法体制への移行を本格化させていく。そしてその闘いは、政権カの殲滅を戦闘目的とした戦争の質を特珠に内包する軍事闘争として遂行する経験を蓄積させ、全党・全組織の恒常的武装と武装組織建設を不可避の課題とさせていくのである。対革マル戦の烈火を通し鍛え抜かれる闘争と組織の質は、更に飛躍した内容と形態においてであれ、権力闘争に転化しうるものとして積極的な意義を有していることをくり返し確認しておかねばならない」。
 概要「革マルは、今や満天下に反武装蜂起主義、反暴力革命主義を宜言し、反革命的徒党と化した。情勢を呪文によって『超越』し、社民・スターリニスト以上にプロレタリア人民の闘いの発展に規定されることのない永遠の主体形成主義に起因した従党の拡大に応じて情勢をみるという転倒の徹底性の分だけ、しかも革命的左翼を偽装しようとする分だけ、しかも革命的左翼にはかなく偽装しようとする分だけ、どこまでも決戦を彼岸化し得る最悪の日和見主義である。のみならず、階級情勢の革命的醸成に恐怖し、革命党と革命的プロレタリア人民への破壊・虐殺を唯一の存在理由とする反革命革マルは蜂起の系統的準備と闘いを否定するプロレタリア革命の敵対者である。(死の影におびえ、眠れぬ日々を送りながら、『革命は五〇〇年後ぐらいだよな』などと自分に言い聞かせ、その時点で『死復活』した『あみだ様』(黒田のこと)が『お告げをたれる』のを待ち続ける下部革マルは、将に労働者革マルは、その間転崩し切った唯一の『生動牲』と言い得るクロカン・イデー=教典の暗誦能力に応じた位階性の中で『出世』することすらできず、我々としても『もののあわれ』を感じずにはいられず、一刻も早く解放してやりたいと思うのである)」。
 エンゲルスにおける「遊撃戦論」をみていこう。エンゲルスは、1870−71年の普仏戦争を論評した『戦況時評』をロンドンの夕刊新聞「ザ・ベル・メル・ガゼット」紙に連載寄稿し、1870.11.11日付で次のように言う。「戦争の性格はいちじるしい変化をとげている。フランスの正規軍は消滅した。戦争をつづけているのは新徴集兵たちであり、かれらは、無経験のため、多かれ小なかれ不正規的な諸部隊をなしている。かれらは集団をなし開濶地で野戦を試みる場合には、つねにやすやすとうち破られる。しかし、新徴集兵たちがバリケードでまもられた村落や都市で、家屋内から射撃しつつたたかう場合、かれらはまともな抵抗をおこないうることが証明されている。かれらは、自分たちが行動している地域の住民をも指揮している政府の布告や命令によって、この戦闘方式に、夜襲その他の小戦闘の奇襲に奮起させられている。‥‥あらゆるドイツ軍陣地の周辺には、空隙地帯がひろがっており、まさにそこでこそ人民の抵抗が激烈をきわめている」(鹿砦社版『マルクス主義軍事論』「通則としての不正規戦」、大月版『マル・エン全集』十七巻「フランス国内の戦闘」参照)。

 このように、普仏戦争でのフランス正規軍の消滅と、その後に展開された遊撃戦の評価をしている。だがこの際、エンゲルスの国民主義・民族主義的限界については留意しておかねばならない。それは当時のマルクスも同様ではあったが、例えばこの普仏戦争について、最初はドイツの国民国家の統一は進歩であるから戦争には道義性があり、しかしフランス軍の敗北後ドイツがフランスに侵入すれば、今度はフランスに正義があるとしている点である。国民国家それ自体への本質的批判としてではなく、他の国を併合したり侵略するかどうかに正義・不正義をみるということがそれである。

 エンゲルスはこの枠内ではあるが、絶対主義時代の軍隊の原則=正規軍ではないあらゆる人間は即時殺害されるべし、を今や「適法」ではないと批判している。そして、人民の「不正規戦」的抵抗を「完全に適法な戦争行為」とする。「北アメリカのイギリス諸植民地の独立戦争(1775−82)では、植民者の義勇民兵は人民大衆のパルチザン運動にたすけられて、散兵隊形をもってイギリス軍の鈍重な横隊戦術を撃破した」(鹿砦社版、編者訳出)。人民の不正規的抵抗、あるいは反ナポレオン戦争としてのスペイン解放戦争(1808−14)についても、「正規軍の敗北後、全人民的なゲリラ形態をうみ出し、フランス軍を苦しめた」(同、訳注)こと、更に一八四八年のイタリア、ハンガリアの対オーストリア戦争についてもこの人民の抵抗戦が闘われていった。そしてこの戦闘形態は、敵にとって「彼ら自身の捕虜への報復を恐れたからではあるが、人民の抵抗を完全に適法な戦争行為としてあつかうことをただちによぎなくされた」と実例を出し定立している。

 そしてエンゲルスは、1813三年にプロイセン軍隊の組織者・シャルンホルストによって起草された「国民軍条令」に示された人民の抵抗組織=国民軍を評価し、ブルジョア国家・国民レベルでの全人民の全国民的武装に賛成するものとして、国民軍を位置づけている。しかしこの点について、全人民武装あるいはプロレタリア総武装として純化されている訳ではなく、フランツ・メーリングが「エンゲルスも民兵問題におけるブルジョア的観念に二、三譲歩している」(メーリング、『民兵と常備軍』参照)と批判しているのは当っている。

 エンゲルスは、この国民軍の任務と展開構造を次のように言う。「敵の背面および側面で蜂起し、敵の運動を撹乱し、敵の補給路と伝令網を切断すべきものがあった。そのさい国民軍は、みいだすことのできるあらゆる武器を利用し、侵入軍を悩ますものならどんな手段でもおかまいなしに駆使すべきであり−「この手段は効果的であればある程良い』−」、「『国民軍はいつでも非戦闘員の性格をとりもどし、敵に知られずにすますことができるために、どのような種類の制服をも着用しない』‥…いっさいの手段が正当であり、もっとも有効な手段が最良の手段であるこの非妥協的な国民的抵抗の精進において」貫ぬかれているとする。

 人民の抵抗の手段が、「効果的であればある程良い」ということを我々からとらえ返せば、これまで以前の支配階級間の戦争や小ブル的な戦争とは異なり、階級戦争がより絶滅戦争に極限的に接近していくものとしてある以上、我々にとって重要である。また、11.26日付『戦況時評』では、パリ要塞を評価し、近代的生産力と武器の関係について述べていることは注目すべきであろう。「軍隊創出のための組織機関は、フランスではいまのところは、かなりよく機能しているようにみえる。必要とされる以上の人間はいるし、近代的工業能力と近代的輸送手段の速度のおかげで、武器は意外に大量が調達され、……フランス内で製造されている」(鹿砦社版、「必要なのは時間のみ」 大月版全集十七巻、「フランスにおける軍事情勢」参照)。

 更に、12.8日付『戦況時評』においてエンゲルスは、クラウゼヴィッツの「決戦延期の戦略」を適用し、部隊の数的劣勢のため敗れ、古強者との対決にさらされた若い新編部隊にとっての遊撃戦がもつ意義を述べている。「殲滅的敗北を回避しつつ臨機に戦闘する一か月間は、かれらすべてを優秀な兵士に仕立てあげるであろう。よりよい戦略のなかでは、かれらはいまですら、成功をおさめていたかもしれない。といっても、この瞬間に必要な全戦略は、あらゆる決定的戦闘を延期することにある。そして、そのことは可能であるとわれわれは考える」(鹿砦社版、「決戦延期の戦略」 大月版全集十七巻「戦争の形勢」参照)。

 そしてこの「決戦延期の戦略」の下に、かつて対ナポレオン戦争でプロセイン軍総司令官ブリュッヒャーがフランス軍の側面に送った遊撃隊の例をあげ、フランスを制圧するプロシア軍に対抗し、敗北局面から反撃するフランス軍の戦闘方針を提起する。「遊撃隊は、それがドイツ軍連絡線の切断にもちいられるときは、きわめて効果的であったであろう」。具体的な攻撃対象としてある「この連絡線に殺到し、鉄道線路、トンネル、橋梁を破壊し、列車を攻撃するなどして、ドイツ騎兵をきわめて危険な前線からひきあげさせることに成功するであろう……」。

 12.9日付『戦況時評』では、「義勇兵戦闘の理論家」グナイゼナウを評価し、遊撃戦理論の体系的整理への一端をみることができる。「制服は着用せず、軍帽と黒白の帯革、それにおそらくは軍隊用の外套をまとった民兵、すなわち現在のフランス義勇軽歩兵の制服にほぼそっくりの民兵が、組織されるはずであった。『敵が優勢な兵力であらわれたら、武器、軍帽、帯革はかくされて、民兵はただの地域住民の姿をとる』」(鹿砦社版、「遊撃戦理論の体系」 大月版全集十七巻、「プロセインの義勇兵」参照)。

 正規軍だけではなく、人民蜂起をも準備することに倦まずにつとめた。ついに戦端がひらかれたとき、それはたちまち蜂起、農民の抵抗、および義勇軽歩兵をともなっておこなわれた」。また、「人民戦争」という言葉を用いて、「この人民戦争の公式承認(として)国民軍条例があらわれた。その中では、現役または後備役のどの隊伍にも入っていないすべての武装能力のある男子は、あらゆる手段を是認する神聖な自衛戦にそなえるために、かれの国民軍大隊に参加することが義者づけられている。国民軍は、敵の前進および退却をともに撹乱し、敵をつねに不安な状態におき、その弾薬縦列や糧秣輸送、伝令、補充隊および病院を襲撃し、敵を夜襲し、その落伍者と分遣隊を全滅させ、敵のあらゆる運動を妨害し、不安定にさせるとともに、他方ではプロセイン軍を援助し、金銭、糧食、弾薬、捕虜などを護送することが命じられている。この法令は事実上、模範的な義勇兵必携と呼ぶことができるものである」。

 かくしてエンゲルスは、クラウゼヴィッツ、グナイゼナウを評価し、彼らの規定した「国民戦」を「人民戦争」として把え返し定立した。そして、これまでブルジョア軍隊によって「不正規な、卑劣なもの」といわれてきた遊撃戦の戦闘様式と戦闘を「人民戦争」として評価し、まさに階級戦争としての革命戦争に有する普遍的形態として定立する突破口を築きあげたと言えるのである。

 次にレーニンについてみていくが、彼がマルクス主義兵学に接近するに際し影響を少なからず与えたといわれるフランツ・メーリングに触れておこう。メーリングは、『民兵と常備軍』の中で、民兵とその兵役制度がプロレタリア革命の基本的なものであり、「革命的原理」であるとしている.この点について、いくらかの引用をし紹介をしておくことは無駄ではないと思われる。「民兵か常備軍かという問いは、兵役制度の問題である。そして、あらゆる兵役制度の魂は軍紀である。純粋に思想的にみれば民兵の軍紀は、せまい労働および生活共同体に由来する規律であり、教育と訓練をつうじて生みだされる規律である常備軍の軍紀には無限にまさっている。生活そのものが学校よりもすぐれているのと同じである。学校ではなく、生活が戦士をきたえるのだ。しかしあらゆる民兵の前提は、まさしく労働と生活の共同体であり、それは歴史的発展によってのみつくりだされるのである」、「さて、原始的社会状態を分解し、破壊し、競争によって内部からひき裂かれた大衆へと解体するのが、資本主義的生産様式の歴史的任務である。それとともに、この社会状態の軍隊組織は崩壊する。しかし、資本主義的生産様式をうみだした近代階級国家は、みずからが後がまにすわったもとの社会状態よりも、ずっと高い程度に軍隊を必要とする。なぜなら、対外的には侵略の原理対内的には抑圧の原理に依拠しているからである。‥‥常備軍は、‥‥諸国民にたいするおそるべきむちとなった。それに応じて、……自らの胎内に近代文明を孵化していた‥‥」、「いいかえれば、資本主義的生産様式が近代労働運動のなかでさえ、民兵の第一の前提条件を作りだしているのであり、この民兵は、はてもなく高度な段階で、原始的な社会状態の規律を改新し、常備軍の軍紀をはるかに凌駕する保証をすべておのれの内部にはらんでいるということである」。全体としては、非実践的であり、把え返した評価が必要であるが、とくにこの最後の箇所については、注目し検討する必要のあるものであるといえる。

 さて、レーニンについてみていこう。ロシアにおける本格的な軍事闘争、武装闘争は、パルチザン戦闘として一九〇五年革命の只中で展開されていった。そしてレーニンは、この戦闘をプロレタリアートの武装闘争の発展過程の中に正当に位置づけていた。彼は、この時点までにはクラウゼヴィッツを直接読んではいなかったと言われているが、この戦闘の経験を通しクラウゼヴィッツやエンゲルスが国民戦、遊撃戦論で説いたような、その戦闘を正親軍の敗北のあとのものとか、補完的な戦闘であるということをそのままロシア階級闘争に適用する愚は初めからのがれていた。

 このことは、『モスクワ蜂起の教訓』の中でも示されるように、「数日にわたって軍隊を相手に革命隊員の頑強なパルチザン闘争が展開された。この間争は軍隊を疲労させ、ドゥババゾフは、増援隊の要請をせざるをえなかった」ほどのものであり、単なる流賊的・匪賊的な部隊の戦闘ではなく、「革命隊員の頑強なパルチザン闘争」という表現からも明らかであろう。モスクワ蜂起の第三の教訓として述べている箇所では、更にはっきりと示されている。「第三の偉大な教訓は、戦術と蜂起のための勢力の組織とにかんするものである。軍事上の戦術は、軍事技術の水準にかかっている」。

 バリケード攻防に関してモスクワが「新しいバリケード戦術」を提起し、エンゲルスが指摘した「将来の市街戦」におけるバリケード闘争の限界と新たな内容を補添することをしなければならないという問題提起(エンゲルス、『フランスにおける階級闘争』一八九五年版序文)を継承した「その戦術とは、パルチザン戦争の戦術であった」。「この戦術の要求する組織は、機動的な、ごく小人数の小部隊である。すなわち一〇人組、三人組、ときには二人組でさえある」、「‥‥『五人組』が『新しいバリケード戦術』の問題とどんな結びつきをもっているか・・‥パルチザン隊の性格は、あまりにも一律で、その武器と闘争方法は不十分であり、群集指導の能力もほとんど育成していなかった.……そして、一二月以後ほとんどたえまなくロシアのいたるところでおこなわれているあのパルチザン戦争、大衆的テロルは、蜂起のさいの正しい戦術を大衆におしえることを、うたがいもなく助けるであろう。社会民主党は、この大衆的テロルを承認し、それを自分の戦術にとりいれなければならない。もちろん、このテロルを組織化し、統制し、労働運動と全般的な革命闘争の利益と条件に従属させ、モスクワの人びとが蜂起のときに、またラトヴィア人たちが有名なラトヴィア共和国事件のときに、実に立派にまた実に容赦なく始末したように、このパルチザン戦争の『浮浪人的』歪曲を容赦なく排除し、きりすてなければならないことはいうまでもない」。

 そして、このパルチザン戦闘それ自体の党による統制や労働運動と全般的な革命闘争の利益と条件にそったものとして再編・展開し、単に大衆的な抵抗闘争ということのみならず、むしろ党自らがそれを推進すべきものとして定立しているのである。「プロレタリー」紙第五号(一九〇六年九月三〇日付)に掲載した『パルチザン戦争』でマルクス主義における闘争形態の問題について言っている。「……すべてのマルクス主義者は、闘争形態を検討するにあたって、……第一に、マルクス主義は、運動をなにか一つの特定の闘争形態にしばりつけない点で、すべての原始的な形態の社会主義とはちがう。……第二に、マルクス主義は、闘争形態の問題を、かならず歴史的に考察することを要求する」(傍点はレーニン)。

 闘争形態に対するこの二つの基本的な理論的命題に基づき、モスクワの経験した新しいバリケード戦術=パルチザン戦闘を承認し、それを非難する「書斎の組織屋」を批判する。「……マルクス主義は、どんな闘争形態をも拒否するなどとは絶対に誓わない。マルクス主義は、ある場合だけ実行可能で、その時機だけおこなわれる闘争形態にとどまることはけっしてなく、そのときの社会情勢の変化にともなって、その時代の活動家のしらない、新しい闘争形態が不可避となることをみとめるものである」(傍点はレーニン)。「ある運動のある発展段階における具体的な情勢をこまかく考慮せずに、特定の闘争手段の問題にイエスかノーかをこたえようとするのは、マルクス主義の基盤をまったくなおざりにすることを意味する」。

 そしてレーニンは、ロシアにおける闘争形態の歴史的発展の中でこの武装闘争の任務と目的について次のように提起する。「(この)武装闘争は、厳格に区別しなければならない二つのちがった目的をもとめている。つまりこの闘争は、第一には、個個の人間、軍隊や警察の長官や下役の殺害、第二には、政府や個人からの資金の没収、を目標としている。没収した資金は、一部は党にいき、一部は特別に武装と蜂起の準備にあてられ、一部はいまここで述べている人びとの維持にあてられる」(傍点はレーニン)。

 この戦闘についていえば、これのみが唯一の本格的なプロレタリア軍事闘争だとされる意味での遊撃戦・パルチザン戦・ゲリラ戦としてあるのではなく、ロシアにおける闘争形態の発展と将来の正規軍形成を展望し、正規軍戦と呼応したパルチザン戦およびパルチザソ組織の任務との関係で把握されるべき内容としてこのことはある。

 このパルチザン戦闘に加えられたあらゆる罵倒と非難、「それは無政府主義、ブランキズム、旧式のテロルであり、大衆から切りはなされた孤立者たちの行動、労働者の堕落、労働者からの広範な住民層の離反、運動の撹乱、革命の害、だという」あらゆる誹謗中傷と闘い、レーニンは反批判を尽していく。ただ、彼のこの戦闘の擁護と反批判の内容は、パルチザン的戦闘形態が占める階級闘争での位置、とりわけ蜂起時における戦闘の一環であるとの評価に限られており、蜂起に至るまでの本格的武装闘争との関係において把握する点についてはなされていない点は指摘できるであろう。

 彼は、この戦闘への非難に対し、「蜂起との結びつきが明瞭だ」(傍点はレーニン)として答えて言う。「『パルチザン』闘争の普及は、まさに一二月以後のことであり、それが経済的危機の激化だけでなく、政治的危機の激化とも結びついていることは疑いをいれない。ロシアの旧来のテロリズムは、インテリゲンツィアの陰謀家の仕事であった。しかしいま、パルチザン闘争をやっているのは、労働者の武装隊員、あるいは単なる失業労働者である」。

 経済的・政治的危機の激化と蜂起の情勢との関連の中でこの戦闘をとらえかえし深化すべき内容ではあるが、蜂起の条件の中にもみている。 「パルチザン闘争は、大衆運動がすでに実際に蜂起に到達したとき、内戦における『大会戦』の多少とも長い中休みがおとずれるときに、不可避的となる闘争形態である」。更につづけて言う。「パルチザン行動はわれわれの活動を解体させる、というものもいる。……運動を解体させるのは、パルチザン行動ではなくて、パルチザン行動を掌握することのできない党の弱さである」、「解体について述べたことは、士気沮喪させるのはパルチザン戦争ではなくて、バルチザン的出現の非組織性、無秩序牲、無党派性である。……なぜなら、内戦またはその一形態としてのパルチザン戦争を、総じて異常な、士気を沮喪させるものと考えることは、マルクス主義者にはできないからである」、「鋭い経済的および政治的危機が生じたある時機には、階級闘争は、直接的内戦、すなわち人民の二つの部分の武装闘争に発展する。そういう時期には、マルクス主義者は、内戦の見地に立つ義務がある」(傍点はレーニン)。

 更に、新しい闘争形態の移行にともなう犠牲と危険についてもふれている。「パルチザン戦争の運動を解体させるための口実には、批判的な態度をとらなければならない。あらゆる新しい闘争形態は、新しい危険と新しい犠牲とをともなうものであり、この新しい闘争形態の準備ができていない組織を、かならず『解体させる』。われわれの旧宣伝家グループを扇動への移行が解体させた。われわれの各委員会を、その後のデモンストレーションへの移行が解体させた。どんな戦争のさいにも、軍事行動はすべて、戦闘員の隊列にある種の解体をもちこむ。このことから、戦うべきでないという結論をひきだしてはならない。このことからひきださなければならない結論は、戦い方を習得しなければならないということである。ただ、それだけのことである」(傍点はレーニン)。

 このことについて我々は、レーニンと共に断乎として銘記しなければならない。「内戦の時期には、プロレタリア−トの党の理想は、たたかう党である」と革命党たる立場を鮮明にし、パルチザン戦闘に対するあらゆる非難、敵対をはねのけ、この戦闘を党の指導と闘争全体の中での位置を正しく示している。「プロレタリアートの党は、パルチザン戦争を唯一の闘争手段、あるいは主要な闘争手段とさえみなすことはけっしてできないということ、この闘争手段は、他のいろいろな闘争手段に従属していなければならず、もろもろの主要な闘争手段とつりあっていなければならず、社会主義の啓蒙し、組織する影響力によって純化されていなければならないということ、それだけである。そしてこの最後の条件なしには、ブルジョア社会でのあらゆる、いわゆるあらゆる闘争手段は、プロレタリアートを、その上または下にあるいろいろな非プロレタリア層に近づけることになり、また自然発生的な成りゆきにまかされて、消耗し、変質し、けがされてしまう。自然発生的な成りゆきにまかされるストライキは、消費に対抗する労働者と雇い主の協定に変質してしまう」。

 このことは、議会についても、新聞についてもその変質は同様であるという。「社会民主党は、いろいろな手段を適用するが、ただつねにその適用に、厳格に規定された思想上および組織上の条件をつけておくのである」。

 続いてトロッキーについて触れていこう。彼は、一九一七年のロシア革命およびその後の内戦において、軍事理論−軍事綱領−軍事指導をレーニンの承諾を基にして、ほぼその中軸を唯一彼が成してきたが、革命勝利後の軍事組織建設および戦術論ではパルチザン主義に反対し正規軍を強調していった。しかし、彼は、決して正規軍戦万能主義ではなく、また正規軍戦か遊撃戦か、陣地戦か機動戦かとして単純に一方を切り捨てるということはしなかった。このことを一九一九年七月二四日付『軍事問題』誌に所載された『ゲリラ戦と正規軍』よりみていこう。この場合、我々が前提的におさえておくべきことは、権力奪取以前と以後との区別が必要であること、また権力闘争以前において−それが初期であればあるほど、ロシアでの戦闘形態は遊撃戦的・パルチザン戦的なものであり、戦闘組織も遊撃隊ないしはゲリラ的・パルチザン的組織であったことである。トロッキーもその点に関して、一九〇五年のパルチザン戦闘と、そこで形成された組織とくに黒百人組に対抗して形成されてきた赤衛隊の中から、一九一七年二月革命以降のソヴィエトの武装と武装組織はひきついでいるということを述べている。

 さて、ゲリラ戦、遊撃戦についてのトロッキーのたて方を『ゲリラ戦と正規軍』よりみていこう。彼は、まずゲリラ戦に関する概念の混乱をあげ、概念規定を定義づける。「……この概余は一般的に無規律、強盗行為、流賊生活等々と同義語とされてしまった。しかし、多くの場合『遊撃戦』として定義されるゲリラ戦は、これまでも正式な軍事論の一部であり、そうでなくてもその適法の子供、すくなくとも認知された私生児としてとりあつかわれてきた。一般的にいうと、普通の戦闘が敵を殲滅することを目的とすれば、遊撃戦は、敵に障害や損害をあたえるためにおこなわれるのである。組織と作戦の立場からすれば、遊撃戦は部隊の独自行動の範囲の広いことを特徴としている」、「しかしながら、このことは『ゲリラ戦』とはつねに組織と武器を欠いた集団の自然発生的行動を意味する、ということではないのである。ゲリラはまた、その完全な行動の独立にもかかわらず、参謀部に厳格に従属した部隊による、きめこまかに立案された機動という行動形態をとることもありうるのである。こんにち、われわれは、あたかも共産主義的であるかの形態をとるものであれ、いっさいの流賊生活とたたかってはいるが、それはパルチザン運動の必要性、有用性を否認していいということではない。それどころか、戦争のこれらの展開のなかで、ゲリラ戦がますます重大になっていくだろうと、確信をもって宣言することができるのである」

 更に、この遊撃戦が赤軍によってのみではなく、白軍によっても竜騎兵を主力とした機動戦として展開されていることを指し、その普遍的性格について言っている。「こうした経験は、これまでのべた意味での『遊撃戦』あるいはゲリラ戦は、ある条件のもとでは内戦の過程であり、たたかう階級のいずれによってもきわめて有効な武器となりうることをしめしている」。

 そしてトロッキーは「支配的なタイプとしての遊撃戦は、もっとも強い者にたいするもっとも弱い者のたたかいの武器である」として、劣者の強者に対する普遍的・必然的な戦闘形態であることを正しく看破している。「強い者は弱い者を虐殺し、粉砕しようとこころみる。これにたいし、弱いが、たたかいを放棄しない意識的分子は、将来力関係が変わる見通しのうえにたって、気長に強力な敵を弱体化し、解体させるよう努力する」。このうえにたって、彼はゲリラ戦を単なる流賊主義、匪賊主義あるいは非組織性と結びつける傾向に対しては、きびしく批判する。「ゲリラ戦とは、急速で軽快な機動、不意の待伏せといった戦闘方法をさすとすれば、戦闘員や指揮官の幼稚と未熟を特徴とする反逆者の集団が、真のゲリラ戦にもっとも不適当であることは、明白である」と。
 このような論理において党派間戦争を担ったのは、「プロレタリア統一戦線戦闘団」であった。この組織が中軸となって、組織的、計画的にゲバルトを敢行している。

【「内ゲバ」反対党派の見解】

 暴力行使に否定的な党派も存在はしているが、多くの新左翼諸党派は、濃淡の差はあるが、「内ゲバは、階級闘争の過程で派生する人民内部の矛盾の一止揚形態である」、「党派闘争における暴力は不可避であり、非暴力主義を貫くことはきわめて困難である」とする基本的認識においてはほぼ横並びである。

 津村洋(『国際主義』編集会議IEG)の二〇〇二年七月三一日日付け論文「問題提起:「内ゲバ」を一掃するために Ver.2」を転載しておく。

 【以下は、『共産主義運動年誌』第3号への原稿として執筆したものです。その発行・出版が10月にずれこんだため、ここに先に転載することにしました。 津村】

 【以下は当初、書きかけのきわめて乱暴な原稿として『国際主義』四四号(http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/)に、Version.1 2002年7月19日として掲載したものです。その構成・内容を全体的に変更し、加筆・補足しました。未だメモ程度の書きかけ部分は末尾に補足しておきました。】

 一 はじめに

 日本の新左翼諸党派を中心とするいわゆる「内ゲバ」の歴史は、一九六○年代初頭から始まり、六○年代後半から激化の一途をたどってきました。主として革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)、革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の間で多大な死傷者を生み出した「内ゲバ」は、日本の社会主義・共産主義運動、革命を求め社会変革を希求する左翼運動への幻滅を促し、さまざまな大衆運動に甚大な打撃を与え続けてきました。

 「内ゲバ」とは、政治的な路線・方針の異なる組織内のメンバーや対立する組織のメンバーにたいして暴力的に襲撃し、負傷・死を強制するテロルです。直接に手を下さないまでも、留守宅に忍び込んでバールをおいておいたり、動物の死骸(の一部)を送りつけたり、あの手この手の嫌がらせ、脅迫行為もまた「内ゲバ」の一環として横行しました。労働者=無産者、抑圧され・差別された民の人間的な解放を求めた左翼が、かかる「内ゲバ」的な非人間的テロルに専念し、酔いしれた惨状は徹底的に総括され、克服されるべき負の歴史的遺産です。

 この間「内ゲバ」は、それを実行してきた組織自体の腐敗・混迷・衰退により下火になってきていますが、ここ数年のタームでは、分裂した解放派相互の間で、まるでやくざまがいの殺し合いが展開されてきました。「内ゲバ」はけして過去のものではありません。また、中核派は、中核派の元政治局員である白井朗さんにたいする反革命宣言に続き、本年三月四日の週刊『前進』(2043号)において、「反軍闘争に敵対し反階級的転向分子に転落した小西誠」を公表し、反戦自衛官・小西誠さんにたいする「反階級的転向分子」、つまり反革命規定をなし、粉砕の対象として宣言しています。このようにいまだ新左翼世界に「内ゲバ」的テロルが生々しく余命を保っており、情勢いかんではいつでも再度激化しえます。したがって、まっとうに社会・政治変革を求め、左翼的・革命運動の再興をめざすものにとって、「内ゲバ」的な思想・路線・体質を批判し、一掃するためのラディカルな闘いが必要不可欠です。

 昨年一一月、社会批評社から『検証 内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓』(いいだもも、生田あい、栗木安延・来栖宗孝・小西誠共著)が刊行され、これにたいする賛否両面が『かけはし』グループや「赤色もぐら新聞」第三号などから提出されています。さらに、『国際主義』四三号には、「革共同中央による『小西=反革命』規定糾弾!!こころある中核派活動家諸君に訴える 二〇〇二年三月二日 熊谷 直実」が投稿されています。「内ゲバ」の克服をめぐる論戦が活発になることを願い、なによりも「内ゲバ」という病巣を断固として一掃していくために、初発の問題提起を概略的に記します。

 二 革共同(革マル派・中核派)のテロリズム批判

 1「内ゲバ」テロルを肯定・推進する黒田寛一の思想・路線

 「内ゲバ」を奨励・実行する理論的責任は、まずもって革共同、六二〜三年に中核派と革マル派とに分裂した後は革マル派の指導者である黒田寛一にあります。

 第一に、黒田寛一『革命的マルクス主義とは何か?』(こぶし書房)における政治の非合理性の積極的肯定が問題です。彼はそこでトロツキーには「理論的正当性」があったが、「政治的実践においては敗北」したとし、したがって「政治運動のメカニズムの非合理的側面を決して忘れてはならない」と強調しています。これは、トロツキーの敗北を理論的に解明せずに理論に実践を対置する反スタ主体性論の極地です。それは、スターリン主義に対抗して、それを上回る政治の非合理的実践を貫徹するという宣言といえます。ここから組織を維持し勢力拡大するためには、どんな戦術でも主観的に合理化され、他党派に対するテロルが肯定されるのです。

 第二に、革マル派の政治の非合理性を積極肯定する思想から、権力関係とは別個に、あるいは権力を利用して(革命的権力利用主義!)他党派を解体するための運動組織論・統一戦線戦術が体系化されていったことが問題です。これは、対立党派を破産していると規定すれば、「組織性」と「目的意識性」がありさえすれば、暴力的党派闘争によって解体していいんだという独善に帰結しています。

 第三に、自らの党組織を未来社会=共産主義社会の母胎たる「永遠の今」として左翼カルト的に自己規定する革マル派式の党物神崇拝が、他党派解体の「内ゲバ」的テロルを積極的に肯定する根拠となっています。党組織だけが現実の社会から遊離して、まるでそこだけが離れ小島のように隔離されて未来社会の母胎になるはずもないのに、そのように思いこみ、自らの優位性を観念することから、そうでない他党派を解体してよしとする発想が生み出されます。未来社会の萌芽や母胎に着目するのであれば、社会総体の中から見いだすべきです。

 2「内ゲバ」を促進した学生戦線、新左翼各派

 新左翼における「内ゲバ」は、学生戦線における主導権争いとして、各派活動家間の殴り合い、小競り合い、集団的ぶつかり合いから意図的なテロ・リンチ・殺害へとエスカレートしてきました。そこには大学自治会の排他的独占によって自治会費を掌握していくという経済的権益争いも深刻にからんでいたといえます。

 一九六○年の安保ブント(共産主義者同盟)の分裂・崩壊後の六一年全学連第一七回大会では、(後に中核派・革マル派に分裂した)革共同は、全学連の排他的・独裁的支配を強行するために新左翼系内部で初めて角材によって対立する勢力(いわゆる「つるや連合」=ブント系、革共同関西派=第四インター系、社会主義青年同盟系)にテロルを行使し、「内ゲバ」を持ちこみました。この「内ゲバ」にたいして最大の責任を有しているのは、当時の革共同政治局員・学生組織委員会議長で、現在の中核派議長、他ならぬ清水丈夫でしょう。

 六○年代後半から末にかけては、六七年十月七日、革共同中核派政治局による解放派にたいするテロ・リンチの行使を決定的なメルクマールとして、三派全学連の分裂から新左翼諸党派間の内ゲバが一挙に加速されていきました。また、今日公安調査庁のスパイとしてすっかり本性をさらけ出した宮崎学(『キツネ目のスパイ宮崎学』社会批評社 参照)が当時のことを書き記しているように、日本共産党・民主青年同盟もまたヘルメット・鉄パイプで「武装」して新左翼にたいする内ゲバを実行していました。

 六九年には、中央大学で、ブント・社学同(社会主義学生同盟)の分裂抗争のただ中で同志社大学の望月上史が殺害され、ブントの分派闘争が激化する過程で赤軍派、そして戦旗派による襲撃、テロルが加速されました。また、中核派の埼玉大学生・滝沢紀昭が芝浦工業大学大宮の二階から突き落とされ、殺害されました。この時期、中核派による中核派にたいする内ゲバの事実を暴露し批判せざるを得ませんが、この点はまた別途事実関係を明らかにしたいと思います。

 七○年になると、中核派による革マル派学生・海老原俊夫拉致・リンチ・殺害がなされ、革マル派はこの件について沈黙する中核派にたいしてせん滅戦を宣言しました。このとき革マル派は、中核派によるリンチの無原則性ならびに政治組織としての目的意識性の欠如を非難し、革マル派は組織的かつ目的意識的に暴力を行使するからと正当化したのです。かくして革マル派は、自分達が行使するテロルを「向自的党派闘争」として正当化し陰惨化させ、スターリン主義を越える他党派解体路線、つまり、権力にではなく他党派に暴力を向ける実践を中核派殺害へと純化させていきました。

 革マル派は、七二年一一月には早稲田大学の中核派系学生・川口大三郎を拉致・監禁し、自己批判を強要し、テロ・リンチして虐殺しました。彼らは、その責任を「一部の未熟な部分」に転化して居直り、内ゲバ路線をさらに継続していきました。


 3 社会革命なき権力闘争と反革命の粗製濫造

 日本での「内ゲバ」的テロルの激化にもっとも責任を有するのは、革マル派とその指導者の黒田寛一の思想・路線です。しかし、革マル派の「内ゲバ」的テロルに対抗した中核派や解放派もまた、他組織や大衆運動にたいして「内ゲバ」を行使してきた責任から免れようがありません。とりわけ、一九八四年における中核派の第四インターナショナル日本支部メンバーにたいするテロルは、三里塚反対同盟の一坪再共有化運動を脅迫し、つぶしにかかる許しがたい行為でした。

 中核派や解放派の「内ゲバ」の論理は、革マル派と通底するものがありますが、また独自な性格を有しています。この両派とも、一九六○年代末の安保闘争以来、事実上革命的情勢が継続し、権力闘争が日程に上っていると捉え、困難で後退的な局面と対面できない虚偽の認識のもとにずっと路線を維持し続けています。中核派は、毛沢東の持久的人民戦争論からちゃっかり拝借して、七三年九月「戦略的防御段階」から「革命的対峙段階へ突入」と宣言し、七四年八月には「戦略的総反攻」の方針を打ち出しました。七五年の革マル派による本多書記長暗殺によって、中核派はさらに決定的に革マル派との「内ゲバ戦争」に専念していきました。

 七五年十月には、清水丈夫による「先制的内戦戦略」を打ち出し、中核派は、三十年ほどにわたって「革命情勢過渡期の成熟」「前革命情勢の成熟」とか朝鮮侵略戦争前夜などのアジテーションを繰り返していきました。中核派は、国際的な社会主義・共産主義・革命勢力にとってほとんど誰も信用しない、いやそれどころか言語としての概念の共通性すらない「内戦」「武装」「軍」なる空文句に酔いしれ続けてきたのです。したがって、労働者民衆の感覚とかけ離れたところで、主観的に思い描いた革命に対立する反革命規定を粗製濫造、乱発することが可能だったといえます。

 さらにいえば、六○年代末の全共闘運動、反戦青年委員会、新左翼による権力との闘いの昂揚と挫折は、同時にまた社会革命のエネルギーを促進し解き放ちました。在日朝鮮・韓国、中国、アジア人、女性、部落民、「障害者」などによる反差別解放闘争の高揚は、新左翼の弱点をえぐりだし、権力闘争に一面化され、その裏で保守的な社会関係が温存されている路線的矛盾を告発するものでした。党にのみ社会「革命」の論理を適応させる革マル派は論外として、七○年代前半における中核派の内ゲバ路線への全面的のめりこみは、社会革命の要求によって突きつけられた自らの矛盾を、「内ゲバ戦争」の「軍事」の論理によってむりやり解消させ、開き直る性格をも有していたといえます。その意味で、「内ゲバ」は自覚を高めた活動家、大衆の社会革命の要求を制動し、抑圧する役割を果たしたといえます。

 三 小野田襄二の中核派体験から考える

 1 三派全学連を分裂させた中核派への反発と絶望

 小野田襄二は後に、公安調査庁のスパイ紹介・手配師として三島弁護士や宮崎学などのスパイ・リンク網形成の要となったが、そのことをもって彼の過去まで色眼鏡で眺めるのは正しくないでしょう。彼は六○年代後半当時は、革共同中核派指導部の本多延嘉書記長や清水丈夫の他党派潰しの「内ゲバ」路線に反発し、三派全学連の大衆闘争の維持・発展に腐心し、そこに展望を託していました。(『キツネ目のスパイ宮崎学』社会批評社 参照) したがって、六○年代後半の三派全学連(ブント、中核派、解放派)をめぐる中核派からの「内ゲバ」的テロルの実相を捉え、批判していく上で彼の体験談・告発録は貴重な素材に他なりません。

 小野田襄二「実践の体型としての政治論(一)」(『劫カルパ』五号一九七九年六月)は、次のような目次になっています。(以下、この雑誌の当該部分をページで示しておきます)
 第一部 体験的政治論―革共同との訣れについての考察―
 序 一九六七年一○月二五日
 第一章 政治局内での確執の九ヶ月
 第二章 最後の一ヶ月
 第三章 革共同の政治資質と本多書記長
 第四章 安保ブントの崩壊と本多書記長

 この著者の小野田襄二は、共産主義者同盟(ブント)が創設された五八年一二月の直前、その年の一一月に革共同(黒田派=探求派)に参加しました。それからほぼ九年、一九六七年七月に革共同中核派の学対部長を辞め、その年十月には(六五年十月以来の)政治局員を辞め、中核派を離脱して「マルクス的コミュニズム思想および革命的マルクス主義(黒田思想)に否定的断を下した」p.11人です。彼にとっては「六四年から感じはじめに(た)革共同への懐疑は、六六年に到って、深刻さを増した」p.64そうですが、「革共同を離れた直接の理由は、三派全学連という世代的運動のその中心を担って創り上げてきた革共同が、赤子の手をひねるように潰したからだ」p.8

 2 指導権争いのための他党派追い落とし政治にたいする批判

 小野田襄二が革共同中核派政治局の路線・政策と対立したのは、六六年から六七年にかけての明治大学での学費闘争の高揚、そこにおける明大ブントの大学当局との(二月二日の大衆団交を手打ち式と化した)妥協工作の発覚にたいする中核派指導部の対応をめぐってでした。この時、中核派は、首都圏の学生を根こそぎ明大闘争支援に動員し、ブントの斉藤全学連委員長を罷免し、中核派の秋山書記長を委員長に昇格させることを最大の目標としました。しかし、「清水政治局員自身が、明大の学費闘争自体について何一つ語りえず、ひたすら、斉藤一派の裏切り、全学連防衛のスローガンを唱えるしかできない有様」p.19、こうした政治局の大衆闘争の発展と無縁な指導権争い・他党派追い落とし政治への専念にたいし、中核派学生指導部、活動家から疑問、批判が沸き起こったのです。

 かくして「六七年二月から四月にかけて、中核は、結成以来、最大の危機に見舞われた。中核の中央指導部は完全に自信喪失に陥り、全くの解体状況を迎え、大学の指導部からは中央指導部への批判が相ついで行われ、そして政治局への異和感は昂り、大混乱の状況を呈したのである。」p.18 その批判の先頭にたっていたのが小野田襄二であり、彼は「ある程度の組織の混乱と混迷を怖れず、数年のプランをもって、中核の指導部の政治体質を変えることに着手しはじめ」、「政治局(本多書記長と清水政治局員)と一戦まじえる」p.20覚悟をしたのでした。

 ついで小野田襄二は、六七年四月、「政治局の文字通りの総力戦」として闘った都議補選、区議選に「革共同、政治局の切羽詰まった危機を感じ」p.15ています。彼は、都知事選に際しての革共同中核派の社共革新系の美濃部支持の路線、そこに体現された「大衆の状況にいとも簡単に迎合しやすい体質」を「危険な兆候」p.21と捉えています。その危機感は、六七年の五月〜六月の政治局会議にて、「政治局としては、ブントが参院選の立候補を見送るような状況をなんとかしてつくり出すべきだと考えた。そのためには、三派全学連の内部でブントを追いつめ、ブントが一年後の参院選に組織として取り組めないようにもっていく策を講ずることにした。」p.5ところで決定的になっています。中核派にもまた革マル派同様の他党派潰しのための組織戦術がまざまざと息づいていたのです。

 3 解放派にたいする中核派政治局のテロ・リンチ指導

 ブントが明大学費闘争での妥協工作で権威を失墜させ、中核派がセクト主義丸だしの指導で活動力が衰退し危機に陥った中で、二月十九日の全学連中央委員会での討論の主導権は解放派に完全に移行し、当時、解放派が学生運動の中心的担い手として躍進する状況にありました。中核派の拠点校・法政大学における九月からの学園闘争において解放派が中核派の弱点をついて活動家の中で無視し得ぬ存在となっていました。このとき政治局は中核派の学生たちを「解放ナンセンス」でセクト的に懲り固めることに腐心し、「全く明大闘争の指導の時の二の舞」p.31となったのです。

 十月に入って、中核派と解放派の活動家同士の偶発的な小競り合い、殴り合いが頻発するようになり、六日には早稲田大学の解放派が法政大学の中核派にたいして殴り込みをかけました。その翌日、全学連書記局会議に出席するために法政大学を訪れた解放派の代表三人にたいして、清水政治局員、本多書記長が彼らにたいする報復のテロ・リンチを指導したのでした。この政治局の意志としてのテロ・リンチが小野田襄二が中核派を離脱する最終的な決定打となったようです。

 かの有名な十・八羽田闘争における角材での「武装」がもともと内ゲバ対策であり、結果的にそれが機動隊に向けられたものであった事実は周知のことでしょう。また、十・八闘争以降は、早稲田大学や東大などで今度は中核派にたいする解放派の報復の内ゲバがなされました。その当時、小野田襄二は内ゲバの停止のために尽力しています。

 けっきょくのところ十月七日の解放派にたいするテロ・リンチ指導について、政治局では誰一人疑問をさしはさむもの、批判するものはいませんでした。それどころか、十月二五日の政治局会議で、清水丈夫は「革マル派との党派闘争に勝利したのは、革マル派を三派全学連の運動の流れに入れず、イビリにイビリ抜いたからだ。解放も徹底して追い打ちをかければ片がつく」p.8とアジテーションしたとのことです。

 4 「内ゲバ」路線と対決できない革共同内「反対派」

 彼の著作を読めば、小野田襄二が優秀な活動家であったろうことは推測できるし、六○年代後半の革共同中核派政治局に属しながら、路線的対立を自覚し、葛藤し、精神的に大変な思いをしていたことも理解しえます。

 明治大学学費闘争にたいする他党派追い落とし・全学連委員長獲得にのみ拘泥した中核派指導に反対し、美濃部支持をプラグマティックに採用した選挙戦への全力投入を批判し、解放派にたいする政治局としての意志によるテロ・リンチに激しく憤り、三派全学連の分裂を阻止し、その維持・発展を目指そうとした小野田襄二。これらはいずれも革共同中核派の路線をめぐる重大な分岐・対立であり、本来なら活発な路線討議・論争をもって決着つけられるべきものでした。また、六七年当時、中核派学生指導部や活動家たちが中央指導部、政治局をきっぱりと批判するだけの活力、健全さが存在していたこともわかります。小野田襄二が政治局員でありながら、本多書記長、清水政治局員らにたいするより積極的な「反対派」として対抗しようとしていたわけです。しかし、問題はその先にあります。

 なぜ小野田襄二は中核派が三派全学連を分裂させ、他党派潰しの「内ゲバ」路線にのめり込んでいくことをストップできなかったか、という疑問です。彼自身が、自ら政治局会議で自説を展開し、主張すれば阻めたことを繰り返し述べているにもかかわらず、なぜ沈黙したり、指導放棄したり、一時的に行方をくらましたり、自殺を決意したりしたのか?それが問題です。最大の問題は、本多書記長に政治的な弱点、欠陥があると直感しながら、彼こそ党であり、唯一無二の指導者であるという党首絶対視の呪縛に小野田襄二が囚われており、そこから自由ではないことです。小野田襄二は、革共同においては政治局が党であるといった実態、さらに本多書記長を頂点として常に下方に向かって方針が下りていく日本共産党型の党ヒエラルヒー、党内支配型の党体系を維持していること、その欠陥を自覚し、指摘しながら、なおその枠に囚われているのです。

 これが黒田寛一、革マル派的な主観主義哲学をひきずっている恐いところです。中核派は、六二〜三年の革共同分裂以来、革マル派との血みどろの「内ゲバ戦争」にのめり込んでいく中でも、敵対する革マル派の黒田哲学を全面的に総括・批判する作業を一貫してなしえず、したがって黒田哲学を隠然と継承していると言えます。反スタ主体性論は、個々の組織メンバーの自主的・自律的判断を疎外し、政治的路線とは切断された当為として、不可侵の指導者、党首なるものに判断を委ねる論理構造を有しています。したがって、路線対立を自覚し、批判意識を高めてもなお、政治的に対等な討議・論争を回避して、自己の弱さや未熟さ年齢的な若さ、器や資質を卑下するところに自分で自分を追いやってしまいます。小野田襄二ほど批判意識を高めた人物でもまたそうなのです。

 四 無産者の主体形成(階級形成)の視点から

 1 中核派=ボルシェヴィキ以上にボルシェビキ的だって!?

 たとえば小野田襄二はこう断言しています。「政治局員が究極に帰属すべき集団は、労働者組織、学生組織、編集部であってはならず、政治局であった。革共同政治局は、黒田寛一との分裂の教訓として、この組織原理を噛みしめてきたが、それはボルシェビキ以上にボルシェビキ的であった。」p.42と。しかも、中核派から離脱してから十年以上たったこの時点でも、どうやらこの組織原理が正しいと考えています。

 これは、百年近く前のツアリー専制下で非合法に追いやられていたロシアの革命運動において、党大会や中央委員会などのロシア社会民主党(ボルシェビキ)の活動が、議事録や論争の公開などなどの点で、中核派はもちろんどの新左翼諸党派よりもはるかに民主的に展開されていた事実を理解しないものです。政治局の路線対立に沈黙し、論争を展開できず、メンバーにも伝えられず、意見書も討議もされず眠ったままで、ましてや公開もされない中核派とボルシェビキの活動には雲泥の差があります。中核派はボルシェビキ以下の非・反ボルシェビキ的活動に専念していたことを自覚すべきなのです。

 小野田襄二は、政治局だけが党といういびつさ、中核派の職革(職業革命家)が本多書記長に威圧され、萎縮している実態、政治局における議論なしの討論という方法、政治局員ですら本多書記長の顔色をうかがってしか発言しない政治的奴隷であり、政治局が一種の翼賛会議と化していることを繰り返し生々しく指摘しています。ロシアの革命運動、ボルシェビキにおいてレーニンが思想的・政治的権威を有していたとはいえ、レーニンにたいする批判、論争も対等に展開され、対立する分派も形成されたことと比べれば中核派の党=政治局の組織原理との乖離は深淵で隔てられています。

 小野田襄二は、彼が心底党を仮託した絶対的な存在としての本多書記長像が自己の心象風景として崩れ去った時、指導者の気質的欠陥が露呈し革共同という組織をめちゃくちゃにしたと絶望していますが、そもそも彼が信奉する組織原理そのものが指導者であれ誰であれ誤りを犯し、弱点・欠陥を露呈する現実を点検し、是正するすべを無くしているのです。中核派の組織原理は、レーニンやボルシェビキの実践とはなはだしく乖離し、はるかにスターリン主義的実践に親和的だといえます。その意味で、彼らのスターリン主義批判、反スターリン主義なる立場は羊頭狗肉に近いとても不徹底なものです。


 2 左翼カルト的組織原理はテロルを促進する

 小野田襄二には、政治局員に感性、感受性の同一を求める強烈な志向、つまり黒田寛一・革マル派的な「永遠の今」的な共同性に自己同一化させようとする位置ベクトルを感じます。そうであれば、政治路線的な対立をいくら強烈に自覚しても、論争・対立を自制・制動し、自分が党首にとって代われなければ、自己同一化できない自らの未熟さに苦悶し、左翼カルト化に埋没するか、離脱するかの選択肢しか残されなくなります。

 こうした悲劇は、けして革共同(革マル派、中核派)だけのことではありません。ブント系諸党派においても、第二次ブント崩壊の過程での七○年代以来の戦旗派およびその諸分派に引き継がれているといえます。それは、とりわけ戦旗・共産主義者同盟(荒派=日向派)に露骨に体現されています。

 旧戦旗・共産主義者同盟は、ソ連・東欧の既存体制崩壊以降、九○年代に全組織的に共産主義・マルクス主義を捨て去り、それまで旧共産主義労働者党・プロレタリア青年同盟や旧第四インターナショナル日本支部への左からの批判の総括も何もなく、それに反対する路線闘争も分派も登場しないまま、雪崩を打って左翼をやめてしまいました。党首が転換すればみなそれに従う、不満・反発するものは人知れずフェード・アウトするカルト的集団の面目躍如といえばいいのでしょうか。しかも、自らに敵対するとみなした個人にたいしては組織的にテロルを行使するという旧新左翼的な「内ゲバ」主義だけはしっかりと継承している実態は、新宿ロフト・プラス・ワンなどでの暴力行使の繰り返しで歴然としています。内ゲバ路線は革マル派や中核派だけでなく、今日の脱左翼のSENKI派にもまた継承され続けているのです。


 3 レーニン『なにをなすべきか?』から継承すべき観点

 これまで日本の新左翼諸組織によって、レーニン『なにをなすべきか?』の意義は切り縮められ、一面化されてきました。私たちは、そこで何よりも強調された全階級・階層の相互関係の唯物論的認識に積極的に拘ってきました。それは、革命組織の官僚主義・閉鎖性打破の課題を、「組織内」の問題・視点ではなく、無産者の主体形成(階級形成)の視点から捉えなければならないことを意味します。革命組織の党内論争公開(大会議事、その他論争などの公開)、少数見解の公表などを、ただ単に権利とするだけでなく、革命組織の画一的ではない統一のために相違・論点を隠蔽・温存しないための、とりわけ組織内外の労働者大衆にたいする義務とするものです。(組織内外を問わず)労働者大衆全体が、革命・階級闘争に対する理解を明瞭にし、成長していくことを目指して。

 この点で、中核派やSENKI派などの「党のための闘い」「党としての闘い」といったたぐいの二元論、党的な内的確認が外部と寸断される閉塞構造を根底的に打破すべきなのです。党首なるものや指導部のふるまいがごく少数のものの間でしか知られない閉鎖系からは、主観的で独善的なカルト的妄想や内ゲバ路線のような腐敗が生み出されるのは不可避でしょう。逆に、大衆的な無産者の自覚に依拠し、労働者・市民からの批判・点検にさらされることで党やその指導部の誤りを是正することができるのです。

 さらに私たちは、上部構造における二つの領域での活動・闘い、つまり、「政治」(=「政治的上部構造」)と「社会」(=「法的上部構造」)のそれぞれの独自性や相互関係を把握することによって、党組織が、この両面を包摂・反映する必要があること、そこから、党組織が、組織としての戦闘性と、組織内外を問わない広い結合、公開制などとを必要とする根拠をつかみ取ってきました。レーニンが『なにをなすべきか?』、とりわけその第三章で強調した「広い政治意識」が、こうした「政治」「社会」をめぐる意識性を押し出したものであると捉えてきました。
 
私たちは、政治革命と社会革命双方との関係で、革命組織の要件として、「政治」または「社会」への任務の一元化がもたらす組織性格の一面性(政治行使の技術に傾斜し狭い「集中」に陥ることや、社会運動全般に直接対応するための分散に陥ったり、反対に、社会運動を直接推進しようとすることから来る引き回し、党の君臨などの弊害に陥ることなど)からの克服を目指してきました。政治革命に一面化されない社会革命の自覚的推進者であれば、内ゲバ的なテロルに心酔する腐敗は防げるはずです。

 補1 「かけはし」の二・四高島論文への疑問

 専修大学において開催された二・三『検証 内ゲバ』出版記念シンポジウムの場で「『検証 内ゲバ』に寄せて 日本の大衆運動を破壊した『内ゲバ戦争』の主体的要因は解明されたか」(高島義一「かけはし」2002年2月4日号4、5面)が配布され、また高島さん自身が会場フロアから発言にたちました。「かけはし」グループが「内ゲバ」一掃をめぐる論戦に積極的に打って出ていることに敬意を表します。そのことを踏まえ、高島論文への疑問を提示しておきます。

 高島論文は、「なぜ日本でだけ」という問題意識、つまり「内ゲバ」が日本でだけ激化した根拠を問題にし、その対比でヨーロッパをはじめ世界ではトロツキストが左派の支柱となっているから「内ゲバ」とならなかったと述べています。ようするに日本でトロツキストがしっかりしていれば「内ゲバ」を防止できたという主張に帰着します。こういう総括ではどうもすっきりしません。

 第一に、一九五○年代後半に形成された日本の新左翼運動が、主要には、トロツキーの敗北、第四インターナショナルの弱点・限界を捉え、その克服を志向しながら、その克服の方向が誤っていたとはいえ、展開されていったこと、この事実を踏まえることが大切でしょう。ブントや革共同が「トロツキーと第四インターナショナルの闘い全体に学び継承しようとすることなく」とか、「いわゆる『裏切り史観』として、トロツキズムの一部だけを受け入れ」といった高島さんの批判では、トロツキーの敗北を越えようとした積極的志向に響くものはないでしょう。

 第二に、一九六○年代末の闘いに挫折した新左翼諸党派の衰退過程の中で、七○年代に第四インターナショナル日本支部=トロツキストは少数派から多数派に急速に勢力を拡大しましたが、それは同時に、革マル派・中核派・解放派の「内ゲバ」が最も激しさを増した時期でした。したがって、トロツキストがしっかりしていれば「内ゲバ」を防止できたという論調には説得力がありません。

 第三に、高島さんは、「われわれの闘いの不十分性について」の項で、この七○年代の時期を反省的に振り返っていますが、その時期、「内ゲバ」を激化させていた中核派や解放派は三里塚闘争など大衆運動での共闘対象だったわけです。八三年の三里塚反対同盟の分裂的事態を経て中核派が第四インターナショナル日本支部への「内ゲバ」テロルを行使した八四年以降、第四インターナショナル日本支部はあらゆる大衆運動からの「内ゲバ主義」の一掃へと転換しました。これは政治評価の転換では?七○年代においても「内ゲバ主義」一掃で大衆運動を分解すべきだったという総括にいたっているのでしょうか?

 また、蝉丸さんが「二つの『反内ゲバ声明』を比較・検討する」で「東北大『内ゲバ事件』についての私見」を述べていますが、この七○年代における東北大学での解放派と第四インターナショナル日本支部との「内ゲバ」はどう総括されているのでしょうか?


 補2 『検証 内ゲバ』の総括方法について(メモ)

 いいだもも・生田あい・栗木安延・来栖宗孝・小西誠『検証 内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓』(社会批評社2001年11月)は、「内ゲバ」の実態、歴史、及ぼした影響を整理し、その克服を投げかけ、論争の扉を開いた意味で積極的意義を有しています。実際、この本にたいして、「かけはし」グループだけでなく、「赤色もぐら新聞」第三号、書評『検証 内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓』(橋本 剛 季刊『コム・ネット』三号に転載)など、いろいろな評価が提出されています。しかしながら、この本では「内ゲバ」を克服・一掃していくための総括視座はかなり単純化されていると思います。

 第一に、「内ゲバ」の根元が、もっぱらスターリン主義の唯一前衛党論に還元されている点が一面的すぎます。第二に、いいだももさんによる第四章では、スパイに潰された戦前の共産党という主旋律が奏でられ、路線全体の限界や弱点が後景化されています。第三に、生田あいさんによる第二章では、第二次ブントの分派闘争の過程での、自らが所属した組織の「内ゲバ」についての主体的な路線的総括は見えてきません。また、明治大学での赫旗派にたいする解放派からのテロ宣言への対処をどう総括しているのでしょうか?これでは「内ゲバ」的対立を越えるはずだった統合路線の破産、分裂の繰り返しについても総括されようもないでしょう。


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