「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「党派間ゲバルト」考上極めて貴重な、革マル派が文字通りの大衆的糾弾を受けた初事例がある。早大キャンパスで巻き起こった「川口君虐殺追及集会」の一部始終の経過がそうである。どなたが考察したか不明であるが、インターネット上に「川口事件」がサイト化されている。著作権等のこともありリンク紹介に留めていたが、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感1」、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感2」、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と語られてしまうことへの異和感・資料編」のようにいつのまにか消えてしまうこともある。そこで、れんだいこが手を加えつつ取り込んでおくことにした。その後、瀬戸宏作成・管理「川口大三郎君追悼資料室」、「早稲田という病 - 2」、事件当時の一文自治会再建派の委員長にしてその後朝日新聞記者、ジャーナリストの/樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ  大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋、2021年11月8日発刊)が登場しており参照した。今後も検証し続けていこうと思う。2022年晩秋、突き動かされるものがあり大幅に加筆書き換えした。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【事件の発端】
リンチ殺害された川口大三郎君 1972(昭和47).11.9日付け毎日新聞、東大に遺棄された事件の最初の報道
 翌日の9日、毎日新聞が次のように報じている。
 「 1972.11.8日、早稲田祭が終わった二日後、東大病院に一人の死体が遺棄された。9日朝、東京文京区本郷の東大付属病院構内の外来診察病棟と内科研究棟の間にあるアーケード下の歩道で、パジャマ姿の若い男が死んでいた。病院に氷を届けにきた配達人が発見、直ちに警察に通報された。入院患者に該当者がなく、全身に棒で殴られたような傷跡があった。本富士署は裸足(はだし)の足の裏がきれいであることなどから、別の場所で殺されて運ばれた疑いが強いとして、警視庁の応援を求め捜査を開始した。男は25、6歳、身長170センチぐらい、鼻が高く、髪が長い。真新しい紺と薄緑の縦縞のパジャマを着ていた。胸、腹、背中に20数カ所の擦過傷、内出血があり、首に6カ所、右腕にも1カ所同じような傷があった」。

 この遺体の身元は直ぐに判明し、中核派のシンパであった早大文学部2年生の川口大三郎(20歳)氏が早大文学部キャンパスで革マル派の防衛隊のパトロールで捕まり、8時間にも及ぶ集団リンチ致死されたことがキャンパスに伝わった。その詳報として、「中核派シンパとして捕捉され、革マル派の自治会室である文学部の教室へ連れ込まれ、タオルで目隠しされた上、針金で両手首を縛られてイスに座らされ、角材、バット、竹ざおなどでめちゃくちゃに強打され、7時間以上リンチを受けた挙げ句ショック死」したことが伝わってきた。

 検視によると、「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」という凄惨なものであった。

 朝日新聞朝刊が、東大医学教室による司法解剖の結果を次のように報じている。
 「死因は、丸太や角材でめちゃくちゃにされ、体全体が細胞破壊を起してショック死していることがわかった。死亡時間は八日夜九時から九日午前零時までの間とみられる。体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」。
(私論.私見) 川口君の死体はなぜ東大付属病院構内に置かれたのか
 「川口君の死体はなぜ東大付属病院構内に置かれたのか」。こう問われることはない。しかし私のアンテナが作動する。川口君は蘇生の可能性があって東大付属病院構内に置かれたのなら分かる。しかしそうではなかろう。ならばなぜ東大付属病院構内なのか。それは、本件をわざわざに本富士署が仕切るべくセットされ、その管轄内に置かれたことを意味する。こう述べてもピンと来ない者が殆どだろう。しかし左派運動史研究家なら、「本富士署」と云えばそれだけでピンと来るものがある。この線の繋がりを問うのが本稿の趣意ではないので、ここではこれ以上は言及しないことにする。

【川口君の早大入学前までのプロフィール考】
 川口君の早大入学前までのプロフィールは次の通り。「ウィキペディア(Wikipedia)川口大三郎事件」(2022.11.27日現在)は次のように記している。
 1952(昭和27)年、静岡県伊東市に生まれ。三人兄姉の次男で小学校五年生の時に父親が病死し、以後母親に育てられる。伊東市立東小学校、同南中学校、静岡県立伊東高校を卒業。

【川口君の早大入学後からのプロフィール考】
 川口君の早大入学後からのプロフィールは次の通り。「ウィキペディア(Wikipedia)川口大三郎事件」(2022.11.27日現在)は次のように記している。
 「1971年4月、早稲田大学第一文学部入学。部落解放運動などに参加していた。第一文学部自治会執行部を握る革マル派に失望し、1972年頃、中核派に近づき同派の集会などに参加するが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友に語っていた。早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)、早稲田精神昂揚会など右派系学生団体とも接触があった。中核派は、『全学連戦士・川口大三郎同志』などと述べたが、実際には中核派とはほとんど関係なかった」。

 この記述に信を置けば、中核派の「全学連戦士・川口大三郎同志」としての追悼は党派的利用であろう。判明するのは、当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」によると、「中核派機関紙『前進』の読み合わせ会議参加のために、新宿区の中核派アジトに(一、二度程度?)出入りしたことがある」程度のようである。当然のことながら、ヘルメットを被りビラ播き等の公然活動は確認されていない。だとすれば、川口君の中核派活動家履歴は確認できないと見做すべきだろう。結論として、「ノンポリよりは政治的で、且つ中核派シンパであり、中核派全学連戦士未満の段階にあった」と受け止めるのがより適切ではなかろうか。

 これをもう少し確認すると、川口君は、事件の1週間ほど前、革マルの牙城の第一文学部に於ける2年J組のクラス討論会で、「革マル派の運動方針は日和見的でおかしい。中核派の方がいい」などと発言している。時は、本事件の2年前の1970(昭和45)年8.4日、革マル派の東京教育大生・海老原俊夫(21歳)君が中核派により法政大構内で殺害され、そのことに対する革マル派の報復があり、その報復が中核派の報復を呼び込むと云う悪循環に陥りつつあるさ中である。川口君が中核派の真正の活動家であれば、両党派の対立の厳しさが分かる訳で、早大文学部構内で革マル派と中核派の運動方針を比較して「中核派の方がいい」なる発言をすることは無鉄砲過ぎよう。この感覚からすれば、川口君は当時、この発言の重みが分からないほどの気軽発言ができる立場にあったと云うことになろう。

 なお、川口君が友人との会話の中で、「中核派もいまいちだなあ」的発言をしていたことがあるとの証言もされている(読み流したので出典が分からない。分かり次第に取り込もうと思う)。川口君は、丁度れんだいこがそうであったように、東大安田講堂攻防戦時の直前逃亡劇等で革マル派のマイナー評判程度のことは知っており、そういう訳で文学部自治会を牛耳る革マル派の活動家になろうとはしなかった。むしろ革マル派と対立する中核派に興味を持ち学習会に参加している。ところが、そこでも若干の異和感を抱いたようだ。このことを、「川口大三郎事件」は次のように記している。
 「1972年(昭和47年)頃、中核派に近づき同派の集会などに参加するようになるが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友や母親に語っていた。また、早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)など右派系学生団体や早稲田精神昂揚会とも接触があったという」。

 してみれば、「川口発言」自体が川口君の学生運動活動家未満的立ち位置を証左しており、中核派活動家と断定する関係は早計であり、そういう風に過度に決めつけるのはデッチ上げと推理すべきではなかろうか。

 革マル派は、「われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている」として、中核派活動家として位置づけることでリンチテロの正当性を得ようとしたが、中核派が或る時には「全学連戦士・川口大三郎同志」、或る時には「川口君はシンパだが構成員ではない」と述べているうちの後者が真相なのではなかろうか。要するに、公然であれ隠然であれ中核派に所属していた訳ではなかった、云うなればノンセクト状態の政治意識の高い系の「特定のセクトの活動家未満」であったように思われる。

 と云うことは、理論的に云えば、或る党派は、敵対する党派及びその活動家をどう見做し、どう待遇すべきかと云う課題が課せられている。ましてやシンパ層の者に対してはなおさらで、左派運動用語の「自己批判」と「総括」を求める場合、どの程度抑制せねばならないのか、その兼ね合いは理論的にもっと吟味され解析されるべきだろう。少なくとも、早稲田の伝統は、1950年代も60年代も多くの党派を共存させ党派のるつぼの観のある運動を許容して居り、それを誉れとしてきた歴史を持つ。革マル派の暴力的且つ諜報支配はこの伝統を著しく踏みにじっていた。このことに対する怒りが、万余の早大生が決起した川口君虐殺糾弾闘争の下地にあるのではなかろうか。

 もとへ。この「川口発言」が、学内に諜報網を敷いていた革マル派にすぐさま伝わる。かくて川口君は「危険分子」としてマークされ付け狙われるようになった。その川口君がなぜかの時に強制連行され虐殺されるに至ったのか、その必然性又は偶然性までは分からない。れんだいこ検証によると、リンチを通じても、革マル派党中央が指弾するような川口君が中核派活動家であることを証明できなかったのではないのか。こういう場合、さらにどう詰問していくべきか、現場は党中央の指導を仰ぐのが筋である。してみれば、寸止めテロの予定であったところ、「一部の未熟者のはみ出し」によって引き起こされた「ヘマな事件」となった、というようなものではなく、革マル派党中央の指導を仰ぎながらのレンチテロだったことが明らかなように思われる。革マル派党中央が、これをどう弁明したのか検証していくことにする。

【革マル派のキャンパス暴力支配情況考】
 当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。大学当局は、革マル派のキャンパス暴力支配を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していた形跡が認められる。

 私の検証によれば、公安のさらにその奥の院当局は、共産党系の民青同に穏和系左派運動に対する統制を、革マル派に急進系左派運動に対するキャンパスからの追放的役割を与えていた節がある。他に勝共連合&統一教会系原理研究会に反共運動任務を与えキャンパス内に左右の中和を図っていた節がある。この「三本立て治安体制」が8代総長/阿部賢一(1966年-1968年)、9代総長/時子山常三郎(1968年-1970年)、10代総長/村井資長(1970年-1978年)のどこかの頃にでき上っていたのではないかと思われる。この奸計が殊の外首尾良く進展し、私大の学生運動メッカであった早稲田キャンパスを鎮静化させるのに成功していた。

 「三本立て」の中でも、革マル派は突出して凶暴で学内憲兵隊的任務を自らに課し、「管理され組織された暴力」を常習し、川口君事件当時に於いては早稲田キャンパス全体を睥睨(へいげい)していた。同派のリンチテロで重大な肉体的不具者にされた左翼系活動家は諸派総数で数百名に上る。さらに退学を余儀なくされた者、登校できなくされている学生も相当数に上る。本稿は「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考なので、ここではこれ以上の言及を控えることにするが、この辺りも検証されるべきだろう。

 第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
 「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」。
 「革マル派が早稲田大学で台頭し、第一文学部自治会の主導権を握ったのは1962年頃だったとされる。それ以前、つまり、60年安保で社会が大きく揺れた時代までは、第一文学部の学生自治会は、構造改革派と呼ばれたグループが多数派を占めていた。暴力革命による権力奪取ではなく、構造的な改良の積み重ねによる社会主義実現を目指すグループで、当初は日本共産党内の分派的な存在だった。全盛期には第一文学部だけでなく政経学部、教育学部の各学生自治会、早稲田祭実行委員会などでも主導権を握っていたが、60年安保闘争が敗北に終わった後の衰退期に、その空白を埋めるように革マル派が急速に勢力を伸ばしていった」。

【当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」考】
 「1973年10月21日監禁致死の容疑で革マル派4人を逮捕」末尾の当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」を転載しておく。
 「僕らのフラクションに当時、漫画研究会の1年生が来ていたんです。その学生から連絡をとってきて、北新宿の柏木の部屋で行っていた機関紙の読み合わせ会議に参加させていた。その学生が川口君と同席していた。72年の11月か12月に出された革マルの社会科学部学生大会議案書に『川口は柏木の中核派アジトで会議に参加していた』と書いてありました。ここまでわかっているということは、あの学生が革マルに密告したということ、それ以外に考えられない訳です」。
 「過去にも何回かあって、70年の3月でしたか、前進社に二文の女子学生が『中核派の合宿に参加したい』と電話してきました。我々は信用して、筑波山麓で行った合宿に参加させました。そこから帰って4月に僕が学校に行ったら、革マルに捕まって教育学部の自治会室に連れ込まれた。もう一人、反戦会議のメンバーも捕まった。私は第二学館の死守闘争で逮捕されて拘置所に入っていますから調べれば中核派とわかるんだけれども、なぜもう一人の彼までがと不思議でしたが、革マルの機関紙『解放』に合宿の帰りのバスで我々が歌った唄まで描いてあったんで、その後連絡がつかなくなった女子学生がスパイだったとわかりました」。

(私論.私見)

 革マル派が張り巡らしていた諜報網には驚嘆すべきものがある。学内に、一文キャンパスにはなおさらいわゆる革マルシンパ層が形成されており、彼らからの克明な諜報が汲み上げられていた。このことが指摘されていないのはオカシナことであると思うので記しておく。

 これにつき、ネット検索で出くわした「BLOG-C 第293号=『彼は早稲田で死んだ』」が革マル派機関紙「解放」139号(1969.6.15日)の党派的重要指導論文の意味を持つ無署名論文「ブン=ブク連合の革命的解体のために」の「ブン=ブク連合解体そのものの独自的追及に関して」の項の次のような記述を伝えている。(ブン=ブクのブンはブント、ブクはブクロの略で中核派を意味する。カクマル特有の言い回しである)
 概要「他党派への加入戦術の駆使を通じた組織的内情の把握が必要であり、その具体的戦術として、他党派解体のための組織戦術の具体的解明とその貫徹の闘いを組織的に一段と強化していかねばならない」。

 「6.15日」は、ブントにとって60年安保闘争での樺美智子女史圧死の追悼日として神聖な日である。よりによってこの日に、このような指導をするところが革マル派総帥らしいところであるが、見て取るべきは、1969年の段階でこのようなスパイ活動、諜報活動を組織決定していることである。川口君事件は、この延長線上で発生していると窺うべきであろう。 

【川口君の拉致前後の様子】
 内ゲバの時代」、「内ゲバ殺人の時代」に、川口君が捕捉される状況につき貴重な情報が開示されている。これをれんだいこ風に纏め紹介する。
 1972(昭和47).11.8日昼頃、早稲田構内で革マル派の集会が開かれていた。午後2時頃、川口君は体育の授業を終え、テレビ研究会の部室から友人3名と教室へ向かっていた。話しながら文学部前の校庭を通リ抜けようとしていたところへ革マル派の学生5名が駆けつけ、「話があるから来てくれ」と川口君を取り囲んだ。川口君が断ると両腕を掴んで127教室に連れ込んだ。

 友人3名が連れ戻そうとして教室前に駆けつけると、革マル派学生3名が立ちはだかり、「これは階級闘争のレベルの問題だ。階級闘争を担っていないお前達には関係ない」などと怒鳴り押し問答となった。革マル派学生10名が援軍に駆けつけ、「がたがた言うな」と川口君の友人に殴りかかった。この様子は多くの学生や教授に目撃されていたが、係わり合いになるのを恐れて眺めるだけだった。その後、テレビ研究会の部室にまで革マル派が押しかけてきて、「二文自治会はテレビ研を認めない、自己批判しろ」と脅迫している。暴力と諜報でキャンパスを支配する革マル派に一般学生が手出しできる訳もなかった。

 午前7時20分頃、早大生が、牛込署に「友人の川口君がいなくなった。8日夜、早大構内でトラブルがあったようで、このトラブルに関係したらしい」と110番通報している。川口君と親しいクラスメイトの中には自分も革マル派に殺されるのではないかと帰郷する者もいた。


 この間、川口君と一緒にいた友人が午後3時頃、文学部教授に連絡し、久米助教授と学生副部長が127教室を訪れたが同教室入口で革マル系学生4、5人がピケ(ピケット、人間の盾)を張り入れなかった。午後5時、午後10時の2回にわたり第一文学部教授らが同教室に近づいたが、ピケ隊の一人は「11時半頃に車が来たらピケはやめる」といい、9日午前零時半頃、四度目に同教室に行ってみると学生らの姿は消えていた。同教室内は机などが乱れて格闘したあとがあり、隣の128番教室ではタタミ2枚分ぐらいにわたりコンクリートの床を水で洗った形跡があった。この間、大学側から警察への届け出はなく、9日朝も警察が問合わせるまで大学側は連絡していない。

 犯行に関与したとみられる革マル派は7名で、ほかにカローラ運転の1名を加えた8人が関わっていたとされる。川口君は127教室とつながっている128教室で縛られて角材などで殴打され続けられ、推定時間午後9時から午後11時の間に絶命した。翌11.9日午前0時半、127教室の前にカローラが止まり、ようやく教室の不法占拠が解除されたが、誰も残っていなかった。

 警察の実況見分で、川口君がリンチを受け絶命したのは、最初に連れ込まれた127番教室ではなく、隣の128番教室だったことがわかった。128番教室は革マル派が普段から自治会室として使用しており、そこから大量の血痕などが検出された。同本部は川崎市に住む川口君の姉に死体の写真をみせたところ「本人だと思う」といっており、同本部は川口君に間違いないとしている。川口君は8日昼ごろ、セーターにGパン姿で下宿先を出たままだった、という。
 川口君の親友、二葉幸三氏による証言は次の通り。
 概要「翌11.9日午前10時頃、下宿先に『本富士警察署の者です』と名乗る電話があった。川口君の遺体はこの日の早朝、東大病院の前で見つかっていたので、東大病院を管内に持つ本富士署からの電話だった。本富士署刑事は『二葉さんですね。ちょっと警察に来てもらわないといけないので連絡を待ってください』と言った。その直後、牛込署からも電話がかかってきた。『すぐに牛込署へ来てくれるか』と言われた。川口のことですか?と尋ねると、『来てくれたら話す』と言うことだった。胸が締め付けられるような思いで下宿を出て、電車とバスを乗り継いで牛込署へ向かった。牛込署に着くと、取調室のような部屋に案内された。そこで、刑事に聞かれるまま僕の前日の行動を話した。その後、刑事が『ちょっと確認してほしい人がいる』と告げ別室に連れて行かれた。その部屋の片隅に、白っぽいシーツに覆われベッドに寝かされている人がいた。遺体だと直感した。刑事が顔の部分のシーツの覆いを取り、『この人は川口大三郎さんですか?』と尋ねた。頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった。僕は間違いなく川口ですと答えた。朝、警察から電話があった時点で、川口は殺されたのだと思っていたので、川口の死に顔を見せられた時も、自分は冷静だと思い込もうとしていたはずだった。それから2時間ほど僕の記憶は飛んでいる。たぶん牛込署を出た後、茫然自失の状態で早稲田大学の方へ歩き、文学部の前を通って、さらに歩き続けていたのだと思う。川口君がお姉さんの嫁ぎ先の川崎市の家に下宿し、彼女の夫が経営している建設業の会社でアルバイトもしていたことを思い出し公衆電話から電話すると、お姉さんが『母もここへ来ています。母に代わります』と言った。すでに警察から連絡が入っていて、お母さんは伊東市の自宅から出てきていた。お母さんに今からそちらへお伺いしてもいいですか?と聞くと、お母さんは『ぜひ、来てください』と言ってくれ、新宿から小田急線に乗り、登戸駅で降りて電話し、その案内に従って初めてお姉さんの家を訪ねた。お姉さんのご主人もいた」。
(私論.私見)
 「二葉幸三氏証言」の「(川口君の遺体には)頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった」との下りは解せない。どういう意味なんだろう。

【事件直後の革マル派の対応】
 11.9日、午前12時半、革マル派が声明を発表し、「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。これにより、川口君は、内ゲバ殺人に巻き込まれて殺されたことが判明した。声明はチラシとして活字印刷され、学内で大量に撒かれた。声明文の冒頭は以下の通り。 
 「11月8日、中核派学生・川口大三郎君の死去という事態が発生した。この事態は、彼のスパイ活動に対するわれわれの自己批判要求の過程で生じたものであった。それゆえわが全学連は、この不幸かつ遺憾な事態にたいし、全労働者階級人民の前にわれわれの責任ある態度を明らかにすることが階級的義務であると考える。

 11月8日、全学連は、政府支配階級が強行した相模補給廠(神奈川県相模原市にある在日アメリカ陸軍の補給施設=筆者)からの戦車搬出にたいして断固たる緊急阻止行動を展開するために、早稲田大学に結集し総決起集会を実現した。ところがこの過程で、われわれは、早大構内における中核派学生・川口大三郎君のスパイ活動を摘発した。『革マル殲滅』を呼号しつつ姑息な敵対をつづけてきた中核派の一員としてスパイ活動を担った彼川口君にたいし、われわれは、当然にも原則的な自己批判を求めた。そして彼はスパイ活動の事実を認めた。それゆえわれわれは、さらに、彼のスパイ行為そのものへの誠実な自己反省を追及した。ところがこの過程でわれわれの意図せざる事態が生じた。彼は、われわれの追及の過程で突然ショック的状況を起し死に至ったのである」。

 機関紙「解放」251号は次のように述べている。(1972.11.23日付け「戦旗」315号「カクマルカクルイの創価学会的本質を全階級戦線に暴露せよ」参照)
 「彼は中核派活動家の一人として一貫して中核派の活動を担い、また当日は総決起集会の周辺においてスパイ行為を行っていたのである」。
 「われわれが確認して来た党派闘争の原則に基づいていると確信しながらも、そこから実質的にははみ出す行為に走ったと云わざるをえない一部の未熟な部分によって、今回の事態は生み出されたのであった」。

【本部キャンパス前で革マル派糾弾集会始まる】
 当時の早大学生は、文学部構内では特に、キャンパスを我が物顔で支配して きた革マル派に皆な嫌気がさしていた。川口君事件が導火線となり、革マル派糾弾の嵐が全学で巻き起こった。以下、その次第を見ていくことにする。
 11.10日、事件が伝えられるや、早大生は「もはや我慢ならない」と立ち上がった。急遽設営された本部キャンパス前での革マル派糾弾集会に続々と集まり始めた。積年の怨みが堰を切ったかのような動きが巻き起こった。それほど一般学生をも含めた怒りが凄まじかった。それまでの革マル派の暴力支配が音を立てて崩れる瞬間であった。一文では15の授業が休講となり2Jなどでは真剣なクラス討論が行われる。以降、連日糾弾集会が続いて行くことになる。

【村井資長総長が川口君の通夜に5分間出席】
 11.10日早朝、大学当局が、構内11カ所に「再びこのような事件が発生しないよう全力をあげる決意」を示した告示を掲示。その中で昭和44年以来初めて「革マル派の者の行為によって」と、特定のセクト名をあげて非難した。

 夕刻、村井資長総長は文部省を訪れて事件の経過と大学の対応を報告。夜遅くになって、村井総長が渡辺真一学生部長と2J担任の長谷川良一教授を伴って川口君の通夜に赴く。村井総長は、ありきたりなお悔やみの言葉を述べた後、「文学部だから、こんなことが起こった。文学部はひどい状態だった」と話し始めた。まるで他人事のような評論的な口ぶりに対して、二葉君が、「そんなこと、言っちゃいけないでしょ。あなた大学の責任者だろ。大学の責任者として、学生の命を守れなかったんだ。無責任なことを言っちゃいけない」と詰問したところ、村井総長は黙ったまま辞去したと云う。その間凡そ5分の退出となった。

【革マル派の馬場委員長が辞任表明】
 11.11日午後、革マル派全学連緊急中央執行委員会が招集され、馬場素明マル学同委員長が、「全学連の歴史に汚点を残した」と述べ辞任表明。しかし、「権力側の裁きを受けるようなことはしない」と述べ司直の手にかかることを拒否した。前川健(23歳、北大農学部4年)が委員長代行に就任する(翌日、記者会見をして公表)。

 同日、革マル派は、いかにも同派らしい対応であるが、大隈講堂前に「川口君追悼」の立て看板を出し、「川口の死を追悼する」のアジ演説する中、ビラ配りを敢行した。
 革マル派全学連/馬場委員長の辞任の際の特別声明は次の通り。
 「左翼戦線内部での党派的闘いにおいても―まさに中核派の同志海老原・水山虐殺にたいしてわが全学連が断固たる反撃行動をくりひろげたことに示されるように―ある特殊な政治力学関係のもとでは、他党派の組織を革命的に解体していくために、イデオロギー的・組織的闘いを基軸としつつも、時に暴力的形態をも伴うかたちで党派闘争を推進する場合があることを、単純に否定することはできない」。
 「こうした特殊な暴力をあえて行使しなければならない場合には、対国家権力との緊張関係のもとに、かつ〈何のために・いかなる条件の下で・どのように〉という明確な理論的基礎づけのもとに、まさに組織の責任の下に組織的に遂行されねばならない。そしてその際にも、マルクス主義の原則=プロレタリアート自己解放の理念から逸脱するような行為は決してとりえないのである」。
 「このような確認にもかかわらず、川口君の死はひき起された。この具体的な結果からするならば、これに携わった全学連の一部の仲間たちは、このような原則にのっとっているという固い確信にたちながらもその思想性・組織性の未熟さのゆえに、事実上、原則からはみ出すような行為をおかしたものといわざるをえない。たとえそれがわれわれ自身が全く予期しなかった突発的なショック的状況のなかでの死であったとしても、この死がわれわれによる自己批判要求の過程で起きたものである以上、その責任を回避することはできないのである」。

【一般学生が革マル派に責任追及始める】
 11.11日午前10時頃、民青同系法学部自治会執行部委員らが、大隈銅像前で、ハンドマイクで「革マル派による川口君虐殺を許さない」演説を始めた。革マル派は少し離れている大隈講堂前広場で「川口君追悼」と大書した数枚の立て看板を並べ「我々は川口君の死を追悼する」演説をしていた。

 正午頃、民青同系法学部自治会執行部委員らが再び大隈銅像前で演説を始めたところ、革マル派学生20名が現れこれに抗議し始めた。その革マル派学生を取り囲むように一般学生が集まり始めた。その数300名がどんどん膨らんでいった。一般学生が革マル派学生の胸ぐらを掴んで、「お前たち、どのツラ下げて追悼しているんだ。川口君を殺しておいて追悼とは図々しいにもほどがある」と涙声で怒り始めた。革マル派の連中を次第に小突き始め、革マル派はその剣幕に圧倒され為すすべなしの事態となった。そのうち革マル派が逃げ出し、学生たちが追いかけ、その内の一人を捕まえ、校舎から長机などを運び出し急遽の即席演台を作り、捕まえた革マル派学生を立たせ、糾弾集会が始まった。革マル派糾弾集会は延々と続いた。

 早大革マル派の最高責任者・田中敏夫全学中央自治会委員長(一文自治会委員長兼務、以下単に田中委員長と記す)が約40名のデモ隊列を率いて、壇上に立たされている革マル派学生の救出に来た。1500名以上に膨れ上がっていた学生たちは、逆に田中委員長らを壇上に上げて追及し始めた。その後、革マル派は新たな応援隊を繰り出し、隊列を組んで集会に突入し、田中委員長らを救出して彼らの拠点となっていた学生会館に逃げ込んだ。ところが、一般学生たちは学生会館のラウンジになだれ込み、そこでまた集会を続けた。夕刻、ラウンジを埋め尽くした学生たちは「13日以降も糾弾集会を続けること」を確認し、集会議長団の4名を決めてやっと解散した。(「彼は早稲田で死んだ」P62-63参照)

【川口君の葬儀】
 11.11日、川口君の姉の家で川口の葬儀があった。川口君の級友10名近くが出席した。葬儀が終わると、川口君の母が涙ぐみながら挨拶された。

【川口君の在籍クラス2J有志が高田馬場駅頭でビラを配布】
 11.13日早朝、2J有志が高田馬場駅頭でビラを配布。一文、教育でも、革マル批判、集会結集への呼び掛け等のビラが登場。一文では朝から数クラスで討論が行われ、当局は14時以降を休講にした。

【大学当局の対応】
 11.13日、一・二文連合臨時教授会・教員会が開催され、自治会執行機関の活動停止、自治会室の使用禁止、自治会三役7名の処分(革マル派学生2人除籍、5人停学処分)を決定した。大学当局は一・二文自治会三役7名の処分を決定した他、村井資長総長名で「不祥事に関する総長声明」(「11.13声明」)を公表した。

 革マル派学生の処分は次の通り。
田中敏夫 24 第一文学部自治会委員長 除籍 
若林民生 第二文学部自治会委員長
大岩圭之介 第一文学部自治会副委員長 停学(無期)
金子賢治 第二文学部自治会副委員長
武原光志 23 第二文学部自治会副委員長
佐竹 実 23 第一文学部自治会書記長 
竹内政行 第二文学部自治会書記長 復籍を認めない

【川口君虐殺に関与した革マル派の顔ぶれ考】
 大学当局は上記の革マル派学生を処分したが、田中敏夫第一文学部自治会委員長は現場にいなかったことが判明している。他に何人が関与し、どういう役割をしたのか全く明らかにされていない。分かり次第に書きつけておくことにする。 

 事件1ケ月後の頃、警視庁公安部と本富士署が、事件当日、組織部長だった後藤が川口君を見つけ、阿波崎等と自治会室に連れ込んだとして各人の役割解明を進めた結果、5名の革マル派学生(田中敏夫、武原光志、佐竹実、村上文男、阿波崎文雄)が逮捕されている。但し、川口君を助けに行った級友等への暴力行為は立証できたものの、リンチ殺人については自供を得られなかったとして村上、武原、阿波崎の3名が暴力行為で起訴され、佐竹は処分保留となっている。

 事件翌年の1973.10.21日、警視庁公安部と本富士署が、革マル派4名を監禁致死の容疑で再逮捕している。その後、順次に革マル自治会幹部7名が追加逮捕されているようである。これを確認しておく。
氏名 逮捕時の年齢 自治会との関り 刑期
武原光志 (23) 第二文学部自治会副委員長
佐竹実 (23) 第一文学部自治会書記長
村上文男 (25) 二文自治会委員長
阿波崎文雄 (26) 一文自治会会計部長
田中敏夫 (24) 第一文学部自治会委員長
全学中央自治会委員長
後藤隆洋 (25) 一文自治会組織部長
水津則子 (23) 一文自治文化厚生部長
近藤隆史 (24) 一文学生
矢郷順一 (25)
緑川茂樹 (22)
他1人(?)

 この時点では関与は立証されていなかったが、早大二文自治会委員長/若林民生(26)が、後日別件で取り調べられた革マル派活動家の供述に若林の名前があり川口君殺害容疑で逮捕されている。大学当局から処分されていた大岩圭之介、金子賢治、竹内政行については不詳。

【革マル派が事件後初めて「11.13反省集会」開催】
 11.13日正午頃、革マル派系の第一文学部自治会、全学中央自治会が文学部校舎中庭で、事件後初めて「11.13反省集会」(「11.8の事態に関する態度表明全学集会」)を開いた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって革マル全学連委員長を辞任した馬場素明(第一文学部4年)が、「徹底的に自己批判し深く反省する」と訴えた。約100名の同派系学生が黙ったまま耳を傾けていた。
 同時刻、本部大隈銅像前キャンパスで、民青系の「革マル糾弾、暴力追放集会」が開かれた。

【一般学生が文学部構内で革マル派糾弾開始】
 11.13日午後1時頃、「正義派一般学生」(まさに一般学生であった!)約300名が、文学部構内で行っていた革マル派の集会になだれ込み、革マル派幹部に本部校舎で集会を開くべきだと要求した。革マル側はそれを拒否し文学部構内の記念会堂前広場なら応ずると回答した為、やむなく記念会堂前広場で「川口君追悼、事件謝罪集会」が始まった。この時、約2000名が集まっていた。事件への関心の高さが分かる。

 次第に、「これは全学的問題であり本部キャンパスで集会を開くべきだ」との声が出始め、これに対し、早大革マル派の最高責任者の田中全学委員長が「その必要はない」と拒否したため押し問答となった。一般学生の怒りは凄まじく、革マル派幹部をムリヤリ連れ出そうとし始めた。革マル派はキャンパスを逃げ回り始めた。一般学生がこれを追い駆け捕捉、取り押さえるという事態となった。
 この頃既に、一般学生が早稲田通り馬場下交差点まであふれだしており、その中を、自然発生的一般学生の代表らが、革マル派幹部6名の両脇を押さえたまま本部キャンパスに連行した。文学部の一般学生は、革マル派の拠点・文学部構内での「11.13反省集会」を許なかったことになる。この過程で、吉本孝男など革マル派学生2名が3週間のけがをしている、と云う。
(私論.私見)
 「革マル派幹部6名連行者グループ」の中に、かって同じアパートに住んでいたれんだいこ顔見知りの文学部の方が居た。私がそのアパートを退去するまでの間、何度か居酒屋で食事をした仲で大抵はスポーツ中心のよもやま話をしていた。その彼が異常な興奮で牽引していた。忘れられないエピソードの一つである。

【早大生万余の決起。一般学生が革マル派を捕捉し大衆糾弾集会】
 (「内ゲバの時代」、1.14日付け毎日新聞等を参照する)
 11.13日午後2時過ぎ、一文から田中委員長等6名の革マルを連行、急遽本部キャンパス大隈銅像前(図書館前)で革マル派に対する前代未聞の大衆的糾弾「川口君追悼、革マル糾弾集会」が始まった。約3000名の早大生が取り囲み更に増えていった。革マル派幹部6名が壇上に立たされ、自己批判せよの罵声が浴びせられていった。日頃の怒りが爆発した吊るし上げ集会となった。革マル派学生の胸ぐらを掴んで涙声で怒る者も現れた。


 怒号が一段落したことにより、議長団が選出され、順序立てて責任追及していくことになった。議長団が、「川口君をスパイだとする証拠の提示」、「自治会執行部、文連常任委、早稲田祭実行委の辞任」を求めて回答を迫った。手始めに川口君を殺したことの釈明を求めると、田中委員長が代表して答弁し、しどろもどろになりながら「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない」と答えた。これに対し、「その程度の反省で済むか」、「二度と一般学生を殺さないとの確約書を書け」、「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び交う。「証拠があるなら、それを見せろ!」と追及する声に対して、概要「スパイ行為の事実を完全に立証、川口君の手になるメモを証拠物件として把握しているが、権力との緊張関係と高度な政治力学における特殊な問題が介在するので川口君のスパイ行為に関する事実の内容は明かせない」と居直った。この時、「党派抗争なら人を殺してもいいのか」との糾弾の声が上がると、「我々の町田君、海老原君も殺された」と応答した。一般学生が、「問題をすり替えるな」、「川口君は中核派ではなかったというではないか」、「してみれば、自治会委員が自治会員を殺したということになる。その責任をどうとるのか」等々と詰め寄った。議長団は、日頃の革マル派による暴力支配を縷々糾弾し始め、「川口殺害の責任を取ると言った以上、革マル派は自治会、文連すべての役職を辞任すべきだ」と迫った。革マル派が「こういう形で責任を取る事を拒否する」などとしたため、更に激しく罵声を浴びることになった。
 マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さなくなった。催促されてしゃべり始めるや、たちまちヤジに包まれた。革マル派6名は、党派的な反論は却って火に油を注ぐことになると承知してか、もはや発言もならず沈黙戦術にシフトしたまま壇上に無言の棒立ちを余儀なくされる事態となった。その後、次々と一般学生が発言を求め、日頃の革マル派の暴力支配の実態を批判していった。

【革マル派糾弾集会が夜を徹して続行される】
 夕方になっても学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なりとなった。大学当局は21:00以降、集会解散・閉門の警告を繰り返したが、「革マル派糾弾集会」は鎮まらず、夜を徹して続行された。各党派の代表による革マル派批判があり、日頃の鬱憤を晴らそうとする一般学生の発言が引きも切らず相次ぎ、同感の拍手がうねりだした。警視庁機動隊員200人が待機する中、抗議集会は夜を徹して続いた。革マルは黙りこくるばかりとなった。結局、革マル派糾弾、責任追及集会は14日朝まで延々18時間続いた。徹夜組約500名その他入替わりの者も含め約1000名が取り囲んでいた。その中には女性も相当数いた。れんだいこもこの中の一人として夜を明かした。
 集会は、川口君のスパイ活動とされる根拠を示すこと、各学部自治会、文連、早稲田祭実行委員会の執行部辞任を要求して革マルとの押し問答が続くなかで、事実経過の究明、執行部のリコールなど「六項目決議」を確認した。

【大学当局―警察連合が革マル派を救出】
 この間大学側は、「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請している。初めは「学生を刺激するだけ」としてしぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に応え、14日午前8時、50名ほどの機動隊が早大構内に入り、「寒夜に17時間の追及」を受けていた革マル幹部学生6名と一般学生にまじっていた1名の計7名を“救出”した。警察当局は6名を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。

 「毎日11.14」は次のように報じている。
 「集会に参加した学生は大学当局が学生を遠巻きにするだけであっさり機動隊導入に踏み切ったことに強く反発、続々とつめかけた約1000人の一般学生が徹夜組の500人に加わり、今度は大学に対する抗議集会を続けた」。
(私論.私見) 「KKT連合」考
 ここに、警察当局が、学生運動内政治党派の一セクトを「救出」するという珍芸が刻印された。この「栄誉」にあずかった第1号として革マル派が刻まれた。これは長い学生運動の歴史の中で初めての出来事ではなかったか。積年の暴力支配の元凶革マル派、あっさり機動隊導入に踏み切った大学当局、これを援軍する警察という相互関係が露呈した。早大生は、今度は大学に対する抗議集会を続けていった。以降、キャンパス内に、「KKT連合」(革マルのK、権力のK、大学当局のT)の認識が広がっていった。

【革マル派の自己批判声明。そのマヌーバーに学生が更に怒る】
 革マル派が自己批判声明を発表した。しかし、その内容が更にキャンパスに怒りを呼んだ。声明の内容(『』部分が怒りを呼んだ)は次のようなものであった。
 概要「我が全学連の諸君の川口君に対する自己批判要求は正しかった。が、この追及過程で『我々の意図せぬ事態』が現出した。川口君は『ショック的症状』を突然起こし、死亡した。『一部の未熟な部分』によって、今回の事態は生み出された。『このような意味において』、我が全学連は率直な自己批判を行う。その責任の一端を『全学連委員長の辞任』をもって示し、革命的学生運動の前進に向けて闘い続けることを表明する」。
(私論.私見) 「この時の革マル派の弁明について」
 この弁明は、それまで革マル派が口にしていた「革命的暴力論」とも整合しておらず、というかそのご都合主義をあからさまにしており、自派のゲバルトは聖であるが、今回はヘマをやったのでその限りで反省するという論理でのトカゲの尻尾切り総括にしか過ぎなかった。学生大衆はそのペテン性を見破り、更に怒り、追及していった。

 ところで、下手人がその行為を明らかにせず、被害者が突如「ショック的症状」を起こし死亡したなる論はどこかで聞いたことがある。宮顕の戦前のリンチ査問事件での小畑中央委員死亡に纏わる見解と瓜二つである。革マル派と宮顕との直接関係はなかろうが、小林多喜二を暴行死せしめた特高当局の弁明とも酷似していることを考えれば、何やら納得させられるものもある、というのがれんだいこ見解だ。そういう意味でも、「宮顕の戦前の小畑中央委員査問致死事件」は徹底的に解明され、我々は宮顕論法批判に習熟しておかねばならない、とつくづく思う。

 ちなみに、11.23日付け朝日新聞は、革マル派の最高幹部・土門肇の記者質問に答えての次の談話を記事にしている。

 「こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力的行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である」。
(私論.私見) 後のボア理論に繋がる嫌らしい論法考
 この嫌らしい論法を見よ。次のような論理構造とお見受けする。1・我々(革マル派)は正しい。2・故に、敵対党派に対する武装反撃は是認される。3・我々の暴力はイデオロギー闘争を補助するためのものである。4・我々の暴力は相手を反省させるための補助的方法である。5・この論法を他の党派が使うことは許されない。6・なぜなら、他の党派は正しくないからである云々。この論法に辟易しない者がいるとしたら相当オツムがヤラレテイル。しかしそれにしても左翼運動には異筋な権力論法であり過ぎる。

 2005.3.30日再編集 れんだいこ拝

【各党派が続々入り込む】
 この頃、早大キャンパスには久々に各党派が現われ、一般学生と見受けられていた学生の一部が歓呼の声でこれを迎える場面が見られた。特に、それまで政経学部を拠点とし、1969年のゲバルトで敗退して以来革マル派の暴力支配の前にキャンパスを追われていた社青同解放派の登場を歓迎する動きが目立った。中核派、ブント諸派のレポとおぼしき学生も相当数入り込んできていた。以降、革マル支配を崩そうとする党派闘争も絡み、三つ巴、四つ巴の死闘が演じられていくことになる。
 れんだいこは、「社青同解放派の登場を歓迎する動き」について、「検証学生運動下巻」の131Pで次のように記している。
 「筆者がこう云い切れるのは『川口大三郎リンチ致死事件闘争』の際の体験から生れている。あの時の鮮烈な印象を伝えておく。革マル糾弾の嵐が吹き交うことにより、キャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現した。中でも政経学部を牛耳っていた社青同解放派が久しぶりに登場した時、それまでいつもアロハシャツを着てジャズ音楽にでも凝っていた風をして、筆者が立看板を出し入れしているのをいつも一瞥して通り過ぎていた顔馴染みが俄かに興奮し、口から泡を飛ばす勢いで歓喜乱舞しつつ迎えた。この時の様子が筆者のまぶたに焼き付けられている。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が歓び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである」。

【再々度「革マル派糾弾集会」が開かれる】
 11.15日、糾弾集会。午後2時から事件後3回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000名で行う。革マル派の田中前委員長は、「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」と述べ、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」との確約書にサインすることを拒否し続けたまま翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。田中前委員長は、「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕もあった。

【第一文学部クラス討論連絡会議が正式に発足する】
 11.16日、第一文学部クラス討論連絡会議が正式に発足する。その日の集会で、「自分たちの手で学生大会を開き、革マル派の自治会をリコールし、新たな自治会を作る」方針を決めた(「11.16文学部学生集会決議」)。革マル派の暴力支配を根絶させて、将来にわたって復活させないための制度的な保障を確立したいと願って、この目標に向けて、学生大会開催署名と革マル派自治会リコール署名を開始した。

【革マル派が「党派間ゲバルト不行使確認書」にサインさせられる】
 11.16日、全学世話人会議が「川口君虐殺を糾弾する6項目の一致点と4つの行動原則」を確認。本部前で暴力糾弾集会が開かれ、田中委員長が次のような内容の確認書にサインを余儀なくされた。
 「自治会活動を進める上で意見の対立は、イデオロギー闘争によって解決し、異なった意見に対して暴力による解決は認められない。現在の学生運動にありがちな暴力行為は使わず、正常な自治会活動をすすめるよう努力したい。しかし、支配階級と被支配階級の間における国家権力の暴力には対決していく」。

 学生は拍手で受けとめた。

【11.17川口君追悼集会】
 11.17日午後2時、一文2Jクラス主催で川口君追悼集会(於:大隈講堂)が開かれた。壇上には笑顔の川口君の遺影が置かれ、献花する5千人の学生の列が続いた。式が始まる直前、左腕に喪章を巻いた田中委員長が参列を申し入れ、葬儀委員長の林勝昭が級友たちと協議の上、発言しないことを条件に参列を認め、最前列右側の席に着席させた。1分間の黙祷の後、2J代表が声明文を読む。村井総長は欠席、浜田健三理事が村井総長名の弔辞を代読。大学側からの参列者は担任の長谷川教授と浜田理事ら少数。

 午後4時、伊東から川口君の母親・サトさんが到着。会場からあがった「お母さんに謝れ!」の声に田中委員長が前に立ってうなだれた。サトさんは、ハンカチで顔を覆い泣き崩れた。サトさんが登壇し、時折涙で声を詰まらせながら会場を埋めた学生に次のように話しかけた。
 「今日は、大三郎のために本当にありがとう。(中略)私は大三郎という宝を失った。その宝をなくした今となっては、余生に希望もなにもありません。しかし、残る余生を、大学当局の怠慢と革マルの暴力をなくすために皆さんといっしょに終生闘っていきます。大三郎が惚れに惚れぬいたワセダ精神を一日も早く取り戻して下さい。二度と暴力のないワセダを」。

 学生葬の最後、生前「俺は早稲田が好きだ」と語っていた川口君を「都の西北」の大合唱で送った。
 「川口大三郎君追悼学生葬に集まられた皆さんに」と題する「学生葬における一文2年J組のクラス統一声明」は次の通り。
 「私たちの級友、川口大三郎君は革マル派によってリンチの末殺害された。11月8日、川口君は12時過ぎに登校し、体育実技を受けた後、午後2時過ぎ、文学部キャンパスに戻ってきた。その直後、級友とスロープ下において談笑している時、革マル二名が川口君をとり囲み、討論することを理由に自治会室へ連れて行こうとした。それに対し川口君は『討論ならここでもできるじゃないか』と答えた。すると更に数人が来て、いやがる川口君をむりやりに自治会室へ連れて行った。その後、川口君を助けようと駆けつけた級友に対して暴行・脅迫が加えられた。級友数人は川口君の安否を気づかい、9時まで構内で川口君を待っていたが、大学当局のロックアウト体制のため下校せざるを得ず、各自の家で川口君からの連絡を待つことにした。しかし連絡はなく、翌朝川口君はパジャマ姿の死体となって本郷東大病院前で発見された。川口君の身体は鉄パイプ、バット等で殴られたと思われる痕跡が50カ所以上見られ、全身の細胞が破壊され、ただれているという悲惨なものであった。

 私たちは、級友川口君がこのような卑劣なりンチをうけ、20年の喜怒哀楽、思い定めた志、そして何か素晴しいことがあるかも知れず、無いかも知れない未来を断ち切られたことに痛憤と悲憤、何とも名状し難い怒りを覚えている。私たちの知っていた川口君、あの明るさと人一倍の正義感をもった彼が殺されていった。この不条理!そして、私たちが今まで革マルの暴挙を許してきており、その結果、川口君が拉致された時点において、抗議に行くことのみでその他のあらゆる手段を講じ得なかったために、川口君を見殺し同然にしてしまった。このことは、生命のいとおしさに対する感覚すら麻痺させてしまっている私たちの内部にこそ問い返えさなければならない問題である。私たちは、彼の死に対してたとえようもないほどの負債を負っているのである

 ここで私たちは、川口君を知っていた身近な者として、川口君が中核派のスパイであったという何の根拠もないレッテル貼りをされ、殺されていったことに怒りとともに口惜しさを覚えずにはいられない。革マル派は事件直後、「川口君が中核派のスバイ行為をやりそれを我々は集会中に摘発し、自己批判を迫ったが、その過程で突然ショック死してしまった」という、馬場革マル全学連委員長声明なるものを出している。しかしながら、彼らのいう集会は、5時30分から行なわれたという事実と、川口君が連れて行かれたのが、同日午後2時すぎで、集会場の文学部中庭には、当時いかなる集会も開かれていなかったことに着目すれば、 彼らのスパイ行為なるものは全く根拠のないものだということがわかる。そして、私たちは、私たちの知っている川口君がスパイ行為を行なうような人間ではなかったことを改めて断言する。

 私たちが参加した、11月13、14日早朝にかけて夜を徹して行なわれた糾弾集会においても「一切の事実は国家権力との力関係で話せない」と繰り返すのみで革マル派はダンマリ戦法をもって逃げきろうとした。更に私たちの級友が、深夜の寒さ厳しい集会場において命をかけ、あるいは土下座までして『真実を言って川口君の汚名を晴らしてくれ』という誠実な要求に対しても、全く反応を見せず、逆に居直るという革マルの態度を私たちは断乎ゆるすことはできない。

 そして、私たち早大生は、学内において思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除、抑圧してきた革マルの姿勢を黙認し続けたのである。それと同時に、事件当日級友から電話で川口君救出の要請があったにもかかわらず、何らの誠意も示さぬまま放置しておいた当局には私たちと同じ責任があるといえよう。ましてその責任を回避し、当然行なうべき 真相究明を怠り、逆に隠蔽していこうとしている当局の姿勢とは一体何物であるのか。その当局は、11月13、14日にかけての糾弾集会において、革マル派の人間の生命の危険を理由に機動隊を導入した。革マルの人間を救出する過程において2Jの級友にも暴行が加えられたという事実を大学当局はどう釈明するのか。以上の点に基づき、私たちは、今回、級友川口大三郎君がリンチ殺害された事件に対し、今までの私たちの態度そのものを痛苦にとらえ返すとともに、革マル派の思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除・抑圧するという姿勢、及び大学当局の一貫した責任回避を断乎糾弾するものである。


 私たちは、川口君の死に心からの哀悼の意を表するとともに、異なる思想・信条の持ち主をテロ・リンチなどの行為によって排除・抑圧することのない学園を築くことが我々に与えられた課題である。川口君の死をムダにすることなく、今この早大学内で盛り上がろうとしている気運をさらに発展させ、 真の自治会運動とは 何かを追求する運動へ。今こそ全学的に転化させることを決意するものである。

 川口君が生前口癖のようにいっていた言葉『オレは早稲田が好きだ。早稲田をどんなことでも自由に話せるような広場にしていきたい』との言葉を私たち早稲田大学の学生はもう一度、自分の心に問い、新たな力としていかねばならない(1972・11・17)」。

【大学当局が処罰基準「11.17告示」を打ち出す】
 学生葬と時を同じくして臨時学部長会議と理事会を開いた当局は、管理強化を内容とする「11.17告示」を発表した。それによると、暴力追放、人身保護のため「学内での一切の過激な行動には除籍、停学を含む断固たる処置をとるとともに、告訴、告発など法的手段にも訴える」、「不法占拠の場所は、閉鎖する」、「緊急事態発生の場合の通報網を設ける」などの学内の秩序回復策を講じている。翌11.18日、告示された。

 大学当局は、「11.17告示」の補足として、教職員が要求している全学集会などを行う意思はない、学生自治会の再建は学生自身の問題だとして関知しないとの方針を明らかにした。

【各学部自治会で革マル派のリコール運動始まる】
 11.18日、糾弾集会で、馬場全学連前委員長らが「リコール運動には暴力的敵対はしない。リコールされれば辞任する」旨の確約書にサインした。
 11.18日、各学部自治会で革マル派のリコール運動始まった。第一文学部では、クラス討論連絡会議主催の学生集会を181番教室で開催した。千人近い学生が詰めかけていた。この集会に前革マル派全学連委員長/馬場素明が参加した。先の11.17日、川口君の学生葬当日、革マル派全学連から馬場素明前委員長を第一文学部クラス討論連絡会議主催の集会に出席させ、事件について改めて謝罪したいとの申し入れがあり、主催者側は半信半疑ながら了承していた。馬場氏は70-71年に一文自治会委員長を務めており、早稲田大学文学部はいわば出身母体であった。当日、馬場前委員長は文学部キャンパスの中庭でチラシ配りをした後、主催者側の学生に促されて入場した。会場全体が異様な緊張感に覆われる中で、少し高くなった壇上に立ち、まず事件について謝罪した。一通りの謝罪と弁明を聞いた後、主催者は馬場氏を壇上に立たせたまま、自分たちの不満をぶつけ、新自治会を立ち上げる取り組みに対して暴力的な妨害をしない旨の確約を迫った。馬場氏は意外にもあっさりと「確約する」と答え、さらに「確約書の文面は私に書かせてほしい。川口君の問題への自己批判の文言を入れたいからだ」と言い出し了承された。「1972.11.18日付けの馬場素明確約書」の文面は次の通り。
 「(川口君殺害を反省し、革マル派系全学連の一員である)私は、現在の自治会執行部及び全自治委員罷免のための運動に対して、一切の脅迫及び暴力的妨害をしない。今度開かれる学生大会に於いて、リコールが成立した場合、直ちにそれを認める。又、新執行部及び全自治委員の活動に関し、(私個人としても、革マル派系全学連の一員としても、)何らの暴力的干渉をしないことを確約する」。

 第一文学部クラス討論連絡会議は11.28日に学生大会を開催することを決定した。各学部でもリコール署名がスタートする。

【革マル派全学連が反攻活動を開始する】
 11.20日、「1972.11.18日付けの馬場素明確約書」の翌日、革マル派が、確約書で禊を終えたとばかりに文学部キャンパスに活動家を動員し、大量のビラ撒きを開始し始めた。ビラには、クラス討論連絡会議の背後に民青がいるとして、「民青による第二自治会策動は許さない」と書かれていた。

【川口君の在籍クラス2年J組が「二J11.8行動委員会」結成】
 11.20日、川口君の在籍クラス2年J組が、クラス討論の場で、「二J11.8行動委員会」結成を決議した(「1972.11.21クラス討論を深化し、更なる意思一致を!2J11.8行動委員会 決議31/33(クラスの33人の内31名の賛成で決議)」)。最初の配布ビラは「川口大三郎君虐殺の真相を究明し、革マルを断固糾弾する!」、「当局-革マルの癒着体制を糾弾する!」の二点の確認事項が記されていた。この「二J行動委員会」が「行動委員会」結成の水路となった。

 11.22日、早大の第一、第二の両文学部長辞任。


【田中委員長のその後の事件見解】

 11.22日付け毎日新聞朝刊が、田中委員長が取材に応じ次のように語っている記事を載せている。

記者 川口君は君らに自己批判を要求されるようなことを本当にやっていたのか。  
田中 われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている。(中略)しかし母親の心情を考え、また“左翼仁義”からも、これ以上明らかにするのは控えたい。
記者 川口君のお母さんにあやまったといったが、その具体的な誠意として殺害犯人を自首させるつもりはないか。
田中 考えていない。自首は権力との闘いに敗れたことになり、自己批判をした意味がなくなる。
 新自治会債券運動について、次のように断じている。
田中 正式な手続きが必要だ。学生大会は委員長の私に招集権がある。無原則にやると、第二自治会が生れないとも限らない。(中略)学生大会開催要求に必要な学生総数の十分の一の署名を僕に出せば、招集することになろう。(現在の自治会規約には執行部リコールの手続きに関する条項がないことに鑑み)規約改正はクラス委員総会で決めることになっている。現執行部を無視した学生大会でリコール決議があった場合、どうするのがいいか、今考えている。

【革マル派の反攻作戦が始動する】
 11.22日、革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」、「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで文学部に乱入する。

【反革マル派と革マル派のせめぎ合いが始まる】
 11.24日、革マル派約70名が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マル派の居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マル派の集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか数名の負傷者を出した。
 11.24日、クラス討論連絡会議が「学生大会開催・リコール運動推進に向けて!」を決議し情宣活動する。

 この頃、3・4年行動委員会が「革マル派による川口君虐殺糾弾・学校当局弾劾 学生大会勝利集会へ」を決議し情宣活動する。  
 11.25日、革マル派250名(全都動員)が、田中前委員長のけがを口実に反撃。
 11.25日、六学部で自主的自治会運動をめざすことを申し合わせする臨時執行部選出。
 11.26日、各学部の代表者たちで作る「全学議長団」と「全学部連絡会議」が、全早大生に向けて「緊急アピール」を発表した。文面は次の通り。
 「我々はあくまで非暴力で革マル派に対抗、大衆の手で学生大会を成功させる。各学部の学生大会を革マル派の破壊活動から“死守”するため、全学部の学生数千人を本部キャンパスに結集させる。そのための協力を求める」。

 11.27日、革マル派全都動員の300名が本部前で集会。


 11.28日、大学当局が全学ロックアウト措置。革マル派は文学部181教室を占拠し続けた。


【各学部自治会で次々と革マル執行部がリコールされる】
 11.28日、一文学生大会を文学部181教室で開く予定にして居たところ、革マル派が事前占拠し続ける事態の中で、革マル派や大学当局の妨害をはねのけ、教育学部15号館402番大教室で1410名を集めて開催された。他学部学生4000名が対革マル派警戒にあたり支援した。大会は、1369名の支持で革マル執行部リコール、自治会からの革マル派追放を決議し、自治会再建をめざす臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択した。1年J組の樋田毅/氏が委員長に選出された。大学側は「認めぬ」と水を差す。

 同日、1文3.4年行動委 1.2年行動委連合(準)が「《学大》を勝利して次なる闘いを準備せよ」を決議し、情宣活動する。 
 一文の学生大会に続き、理工学部を除く各学部で学生大会が開催され、革マル派自治会執行部をリコールし、自治会再建を目指す臨時執行部が選出されていった。
 この日夜、社会科学部も学生大会を開催。革マル派が400名で学大粉砕を叫ぶ中、646名中614名の賛成で自治会からの革マル派追放を決定した。
 11.29日、同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル派が鶴巻公園に500名動員。
 11.30日、本部キャンパス、文学部共に授業再開となった。検問体制のなか、政経学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。
 11.30日、一文三、四年行動委員会が結成された。最初のビラは「我々は革マル糾弾と共に、民青諸君に対しても批判的な立場をとる」と宣言している。
 12.1日、商学部学生大会が開催され、学部当局が定めた学生大会の定足数(全学部制6000名の3分の2)を満たしていなかったが、3分の2規定は実態にそぐわないとして約1500名の参加による学生大会を有効と決議し臨時執行部を選出した。ところが、商学部当局は学生大会の成立を認めず、最後まで革マル派の商学部自治会を公認し続けることになる。
 12.1日、法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会の民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられたと云う(?)。私もその場にいたはずあるが、どういう流れだったのか記憶にない。
 12.1日、第一文学部臨執声明No2「クラス協議会を創設し、自治会再建への巨歩を推し進めよう!」を決議し、情宣活動する。

【「一文行動委員会」が結成される】
 12.2日、一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足した。革マルの反撃が個人テロにエスカレートした為、これに対抗する一文行動委員会が結成された。「自律、創意、連合」をスローガンとし、個人の責任で行動し、革マル派を追求すると宣言している。

 2J11.8行動委員会が「川口君は見ているぞ!」を決議し、情宣活動する。

 12.2日、早大社会問題研究会「革マル派による川口君虐殺問題と自治会活動に関する態度表明」。
 12.2日、早稲田をナカナカ卒業できないやつの会「『落とし穴』におちないために」。
 この頃、一文臨執声明No4「学大の成功を新たな自治会運動の息吹に!」。

 12.4日、一文2Gクラス決議。
 12.4日、2J11.8行動委員会「『T君負傷事件』について」(*原文は実名)。
 12.4日、第一文学部臨執声明No5「見出しなし」。

【川口君の両親が大学当局の責任を追及す】
 12.4日、川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、次のように訴えた。
 「これまでの大学の発言には何の誠意もない。弔慰金なんか受け取らない。お金より大三郎を返して」。

 大学は村井総長への面会を拒否した。

【革マル派学生5名に逮捕状が出される】
 12.5日、「リンチ殺人」事件で川口殺害に関与したとして5名の革マル派学生に逮捕状が出され、全国手配された。

 12.5日、第一文学部臨執「2/5へ・・全学団交へ」。
【一文自治会臨時執行部が教授会との最初の団体交渉を実現させる】
 12.5日、一文自治会臨時執行部が、文学部キャンパスの181番教室で、第一文学部長/浅井邦二、学生担当主任/新保昇一、学生担当副主任/野口洋二が出席の下で教授会との最初の団体交渉(略称「団交」)を実現させた。臨時執行部が求めていた学生大会と再建自治会の即時承認は拒否されたが、「学生諸君の今後の取り組みを見守る」とする文書の読み上げがあり前向きな姿勢の感触を得た。

【反革マル派共同戦線が総長団交総決起集会を挙行する】

 12.5日、本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。大学側はこれまで革マル派に及び腰で、むしろ「革マル派とグル」と見られる動きを繰り返していた。先の学生大会の決議も大学側は認めようとせず、革マル派の肩を持つような発言を繰り返して学生の怒りを買っており、この日の総長の対応にも批判が高まった。

 文学部では、181教室で、浅井邦二・一文学部長ら教授3名の出席で大衆団交が行われた。浅井学部長は「村井総長に団交への出席を要請する」旨の確約書にサインした。

 団交後、浅井学部長は辞任し後任に本明寛教授が「3月末まで」の任期期限を設けて就任した。その後を印南高一氏が就任するも5月に辞任する。

 12.6日、村井総長は約束していた団交を拒否した。

 12.6日、第一文学部臨執声明No7「文学部校舎内のバリケードについて」。
 12.6日、第一文学部臨執声明No8「12.5一文団交の『勝利』に踏まえ、全学団交をかちとろう!。

【政経学部で反革マル派系の新執行部が誕生する】

 12.7日、政経学部も新執行部(3役、常任委)を選出した。政経学部行動委員会結成。

 12.7日、第一文学部臨執声明No9「昨日の事態に関して明らかにし、今後の闘いへの総結 集を呼びかける」。

 12.8日、大隈講堂で、臨時執行部主催「(仮称)寒い冬を越すための大コンサート」が開かれる。あがた森魚、頭脳警察、山下洋輔トリオほか出演する。

 12.8日、第一文学部臨執声明No11「自治委員選出を通して各クラスを組織せよ!!」。
 12.8日、村井総長雲隠れ。学生乱入。会見すっぽかし。
 12.9日、村井総長が顔みせ、早大総長やっと会見。学生との対話考えている云々。
 12.9日、教職員有志が川口君に弔慰金。
 12.9日、法学部行動委員会、教育学部行動委員会が結成された。
 12.9日、一文行動委「越冬体制の組織化を開始せよ」。
 12.9日、政経自治会執行部自治委員会総会に圧倒的に勝利」ビラを情宣活動する。

【冬休みに入り反革マル運動が小休止する】
 12.9日、冬休みに入る。これと同時に川口君事件を奇禍として始まった反革マル運動も小休止となった。
 12.9日、全学非暴力推進協議会(勝共連合系?)が「冬期休暇を前にして全大学人に訴える!」。
 12.9日、中国研究会が長征5号「人民、ただ人民だけが歴史を創造する原動力である」。

【革マル派メンバー2名が警察に逮捕される】
 12.11日、事件関係者の革マル派メンバー2名(K、T)が早大前の革マル派デモに参加する形で現れ、警察に現行犯逮捕される。「組織守るため出現?」とある。樋田毅・氏の「彼は早稲田で死んだ」が次のように記している。
 「しかし、彼らは取り調べに対して、『完全黙秘』を貫いたため、二葉さんらへの暴力行為についてのみ起訴され、肝心の川口君が殺された事件については立件されないまま釈放されることになった」。
 12.30日、早大リンチ殺人の2人が黙秘のまま起訴された。

【越冬期間の動向】
 12.12日、クラ討連、3・4年行動委案の対立の記録「現状分析、総括をふまえての行動方針」(日付、執筆者とも無記名)
 この頃、以下の日付なしビラが配布されている。
 日文四年行動委員会「一文自治会運動のさらなる発展のために」(わら半紙5枚裏表印刷の長文)
 野口・みずき署名「クラス討論に向けて 早稲田解放 革マル粉砕」。
 仏文行動委「すべての闘う学友は行動委へ結集せよ!」。
 一文行動委員会「我々の運動にとって自治委選とは何か」。
 執筆者無記名「早大11月革命に勝利せよ!すべての学友は行動委に結集せよ!」。
 一文日本史三年行動委員会準備会「全てのクラスから行動委員会を創出し臨執を防衛し共に闘おう!」。 
 一文三・四年行動委員会「一文臨執に連帯する全ての学友は三・四年行動委に結集せよ!」。
 一文臨時執行部「革マル-当局に抗して更なる前進を!」。
 一文三年有志「専修のみなさんへ」。
 一文臨時執行委員会「当局の不当な対応を我々は許さない!」、「11.10~12.7までの経過」。 
 早大一文自治会臨時執行委員会「1.1.8総決起集会に向けて!」。
 無署名「11月8日から12月10日までの経過を整理」。
 12.17日、早稲田大学第一文学部学生自治会臨時執行部「早稲田の闘いに支援を!」。
 12.25日、「11.8サークル連絡会議からの活動報告とアッピール!」(5枚裏表印刷の長文)。

1973(昭和48)年


【反革マル派連合「早大行動委」が結成される】
 「早大行動委」結成のための情宣活動資料は次の通り。
 全学行動委員会連合準備会情宣部/行動委通信「1.8集会に総結集せよ」。  
 早大全学行動委員会連合(準)「1.8集会貫徹!文学部キャンパス解放!」。
 一文自治会臨時執行部「戦闘宣言 1.8総決起-文学部解放を克ち取れ!-早大管理支配体制を解体せよ!」。
 1973.1.7日、全学前段階総決起集会。
 1.8日、年明けのこの日、前年来相次いで結成された各学部の自治会代表者が勢揃いした全学自治会総決起集会が開かれ、反革マル派連合の「全学行動委員会」(早大行動委)が結成される。以降、黒ヘルを着用した。
 日付なし、一文行動委員会連合(準)「1.8集会の成果にふまえ1.12団交要求集会を準備せよ!」。
 日付なし、二文有志「革マル派の敵対を粉砕し、団交に勝利せよ!」。

【反革マル派セクトが次々と登場し始める】
 この頃、かつて政経学部を拠点としており、革マル派との党派闘争に敗れ追放され、この当時、神奈川大学を拠点としていた社青同解放派、ブントが革マル派追及の波に乗じてキャンパスに登場するようになり、革マル派との本格的抗争に入り WAC(早大行動委員会)に助太刀する。中核派のレポも頻繁に登場していたが高田馬場駅前集会までが限度でキャンパス登場はしていない。

【民青同の行動が急速に沈静化する】
 川口君事件当時、7自治会が存在し、その内の6を革マル派、1を民青同(法学部自治会)が握っていた。川口君事件以降、民青同は革マル派追放の闘いに共同してきていた。しかし、全学行動委員会(早大行動委)が結成された頃から、民青同の革マル派糾弾運動が潮を引き始めた。
(私論.私見) 「民青同の戦線撤退」について
 これも奇怪な動きであった。れんだいこの知り得た情報(確か風邪で病院に出向いた際、当時の早大民青同幹部と偶然に待合室で出会い、その時の手振りを交えながらの直言である)によると、「上からの指示で手を引くことになった」と云う。民青同が運動から引くことにより早大行動委が裸になり、結果的に「早大解放の闘い」が挫折することになる。この現象を如何に見るべきか。共産党中央指示は、結果的に革マル派の窮地を救ったことになる。共産党中央は、早大が学生運動のメッカになるよりは革マルの暴力支配による他党派締め出しの方を良しとしていたことになる。これが裏の実態であったことになる。れんだいこの日共批判は、この時の動きの変調さ等々から下地が醸成されている。

【早大行動委が各学部自治会の奪権運動に取り組み始める】
 1.11日、政経学部、学部団交。
 1.12日、団交要求集会。
 1.13日、一文で、一文自治会臨時執行部、選挙管理委員会、クラス連絡協議会の連名でクラス自治委員選挙が告示された。臨時執行部側が約100名の隊列を編成して、革マル派のバリケード突破し、選挙会場を確保しクラス委員を選出していった。。
 1.14日、各学部の自治会委員選挙で小ぜり合い。
 1.16日、政経学部で学部団交。800名の政経学部学生と学部による初団交が大隈講堂で開かれた。学部当局は、反革マルの自治会(学生5500人)が学生の総意により組織されたものとは認めないと突っぱねた。

【革マル派の反攻とテロにより「早大行動委」の負傷者が続出し始める】
 1.17日、一文で革マル派の自治委員総会。それに対抗した「早大行動委」部隊が革マル派の攻撃を受け十数名が負傷する。

 1.17日、期末試験混乱。早大政経学部の団交決裂。


【大学当局が文学部ロックアウトで革マル派の窮地救出】
 1.18日、文学部、ロックアウト。これに抗議する「早大行動委」などが機動隊と衝突、1名逮捕される。

【中核派700名が本部正門突入を図るが機動隊-革マル派連合に阻止される】
 1.18日夕刻、中核派700名がキャンパス内の革マル派350名目がけて本部正門突入を図るが、革マル派が圧勝した。直後、中核派が機関紙前進で、「わが部隊は地下鉄早稲田駅から本部キャンパスに向かう途中、機動隊に阻まれ、多数が逮捕された。本部キャンパスにたどり着けた者はわずかだった」として「KK連合」(革マルと警察の連合)非難を開始した。読売記事「早大でも乱闘騒ぎ」その他を参照すれば、「中核派60名(うち女性11名)が凶器準備集合罪、公務執行妨害で逮捕、革マル派逮捕者なし」としている。

【「早大行動委」が革マル派と武闘、追い詰める】
 1.19日、この日、革マル派の文連総会、政経学部の学生大会が開かれようとしていた。午後3時40分、黒ヘル(11・8行動委など)60名は革マル派が3号館で開いていた文化団体連合会総会に乱入しようとし、3千名の一般学生も革マル派に出て行けと投石、革マル派は旗竿で逆襲しようとしたが、一般学生と黒ヘルに蹴散らされ、商学部11号館に追いつめられた革マル派が投石などで対抗した。そこへ鉄パイプで武装した革マル派が学外から応援に現れて、11号館から出て来た革マル派と合流し、行動委員会や他の学生たちに襲い掛かった。約30分間にわたる乱闘で負傷者が続出した。この時、政経学部の紙谷君(20歳)が頭蓋骨陥没骨折の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷した。
 1.19日、早大全学行動委員会連合(準)「危篤一名、病院収容者35名 革マル派ノンヘルテロ部隊、闘う学生を鉄パイプで無差別に襲う!!」。
 1.20日頃、一文行動委(準)「革マルの宗派的戒厳令を突破し、闘いの巨大な前進を!」。
 その後「早大行動委」と革マル派とのゲバルトが続く。

【大学当局が本部キャンパス全学ロックアウト措置に入る】
 1.20日、理工学部をのぞき全学ロックアウト。非勢の革マル派に息継ぎを与えることになった。革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃。
 1.21日、早大緊急会議が開催され機動隊要請。厳戒の中、期末試験実施へ。
 1.22日、政経学部の期末試験がスタートしたが、反革マル派の学生が政経学部で団交を要求してバリケードを作り、朝から追及集会。大学は機動隊を導入、15名逮捕。政経学部の試験は中止され、メドたたずの事態となった。
 日付なし、一文臨時執行部「規約改正委員会創出に向けて!」。 
 日付なし、一文自治会臨時執行委員会「臨執声明」。
 日付なし、二文臨時執行部「二文の自治会員へ」(1.22二文学生大会への革マルの誹謗に対する反論)。
 日付なし、第一文学部臨時執行部「緊急アピール 全ての学友は1.23学生大会に結集せよ」。
 日付なし、全学行動委(準)「『個人テロはあたりまえだ・・』醜悪な居直りと敵対を繰り返す革マル糾弾!」。

【この頃の日付なしビラ】
 この頃、他にも以下の日付なしビラが配布されている。
山内武「後期試験をボイコットし百家争鳴・百花斉放の嵐を!」。
無署名「革マルは決して許されてはならぬ!」。
哲学科3年河田一「我々の運動と今後の方針について」。
無署名「分離試験を粉砕せよ!」。
早大<一一・八>抵抗運動「革マルは滅亡寸前だ!」。
4号館にタムロする有志「告発 死者を冒涜するクラ討連内樋田グループを告発する」。
四年有志「四年卒業を口実にした当局の闘争破壊を許すな!」。
パルメザン四人組「犠牲の収斂!」。
学生運動と自治に関する有志会議「自治会を独占させないための具体的対策を!」。
1文2Hの反革マル宣言「我らが自治運動を語る」。
無署名「暴力への視点」。
無署名「革マルの川口君虐殺断固糾弾!」。
早稲田大学部落問題研究会「カクマルの川口君虐殺を糾弾せよ!」。

【「早大行動委」が各学部自治会の奪権闘争本格化に向かう】
 1.23日、一文学生大会、1500名で開催。第一文学部学生自治会臨時執行委員会の議案書を採択し、期末試験を阻止する1週間ストライキを決定した。第一文学部学生自治会臨時執行委員会「1.23学生大会スローガン」。第一文学部学生自治会臨時執行委員会「試験強行阻止!スト貫徹! 1.23学生大会勝利万歳-自立した自治会運動の創出へ」。
 1.23日、本部キャンパスが平穏化し、法、商学部が期末試験。
 1.24日、一文行動委員会中心にピケスト突入。革マル派とこぜりあい。大学当局、試験延期。政経試験も延期。早大教育学部が反革マル系自治会を承認。 
 1.24日頃?、一文行動委連合(準)「革マルの敵対を粉砕し、ストライキ実行委の結成をもって、一週間ストを貫徹せよ!」。
 日付なし、早大一文行動委員会「学生大会の勝利を真の勝利とする為に更なる闘いを準備せよ!」。 
 日付なし、一文自治会臨時執行部「1.26自治委員集会に結集しよう!」。
 日付なし、一文選挙管理委・一文臨時執行委・一文クラス協議会「公示 新クラス委員選出=新執樹立に関する臨執決議」。
 1.25日、一文で、臨時執行部が招集する学生大会が開催され、自治委員総会成立のための定足数(全学部生の5分の1)を大幅に突破する1542名が参加した。大会で、事前に公表していた暫定規約を賛成多数で採択した。正式な自治会規約については自治医院を中心としたクラス討論の積み上げによって決定していく方針も承認した。
 1.25日、教育学部、学生大会。
 1.26日早朝、革マル拠点などが捜索される。 
 1.26日、早大一文が30日まで試験中止。教育学部もストに突入。政経学部長らが混乱の責任をとり辞意。
 1.27日、一文行動委員会革マルの敵対を打破し自治委員会総会に勝利せよ!」。
 1.27日、一文で、学生大会で採択された暫定規約の下で自治委員総会が開催され、た。一文自治会臨時執行委員会「1.27自治委員総会議案書」と会計報告(1973.1.27現在)、第一文学部自治会仮規約。各クラス、専修ごとに選出された65名の自治委員が勢揃いし、その投票で新執行部が選出された。臨時執行部委員長の1年J組の樋田毅/氏が委員長、1年J組のY、2年T組の野崎泰志/氏が副委員長、フランス文学専修3年の山田誠/氏が書記長に選出された。執行委員に日本文学専修3年の岩間輝生氏ほか。
 1.28日、革マル派デモに参加中の佐竹実ら3名が逮捕される。リンチ殺人犯人とされた5人全員が逮捕された。
 1.29日、一文、第二回学部団交。日付なし無署名「1.29学部団交(レジュメ)」。
 1.29日、教育学部スト突入。政経学部が第2波1週間のストに突入。
 日付なし、一文執行委員会「我々は断固主張する!」。
 日付なし、2J行動委「一文解放を妨害し、レッテルはり、下宿テロを行なう「革マル派」を断固糾弾する!」。 
 1.30日、一文、学生大会。第二波の1週間スト可決。
 (資料)一文自治会執行委書記局「1.30学生大会議案書」。日付なし、一文自治会執行委員会「72年度最終自治委員総会議案書」。 2Hクラス無署名「第二波一週間スト 新執行体制の強化確立」。一文自治会執行部書記局「あした早く起してお母さん!連日早朝ピケットに参加し、キャンパスを埋め尽くせ!」。
 1.31日、社会科学部、学生大会。
 1.31日、一文自治委員総会が開催され、試験無期延期、ストさらに続行。
 1.31日、二文自治委員会総会成立。2.1日、無署名「1.31 二文自治委員会総会報告」。

【「早大行動委」系が次々学生大会、団交に漕ぎ着ける】
 2.1日、一文学部で、学部団交。
 2.1日、一文日本史専修行動委員会「カクマルまたも自主管理を破壊す」。
 2.1日、LAC一文行動委連合「全学スト実を創出せよ」。 
 2.2日、一文自治会執行部書記局「『ソドムとゴモラ再び!』-抑圧の大伽藍を紅蓮の炎で焼き尽くせ!」。
 2.2日、政経学部で、学生大会が開催され3カ月ストライキを可決。社学部団交、教育学部団交。
 2.3日、入試中ロックアウト。
 2.3日、政経、教育で学生大会。教育学部自治会が試験ボイコット延長。
 2.4日、革マル総指揮者逮捕される(氏名その他詳細不詳。誰のことか?)。
 2.5日、一文で学部団交。十人委員会が総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサインする。
 2.5日、政経スト実行委にゅーすNo2「子羊からの脱皮宣言」。
 2.6―7日、一文で学部集会。
 日付なし、BACHの有志グループ「2.6学生大会議案書」。
 日付なし、2F有志「行動方針修正案」。
 日付なし、一文行動委「対案 80日間ストライキ実現」。 

 日付なし、一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。
 2.7日、早大政経学部が卒業試験レポートで。
 2.8日、一文、卒業予定者分離試験実施。
 2.8日、10号館で総長団交要求総決起集会。ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。

【大学当局が各学部の再建自治会を認めず膠着する】
 革マル派自治会はリコールされたものの、大学当局は再建自治会を認めなかった。予算もつけなかった。再建自治会派と大学当局、革マル派との鬩(せめ)ぎあいが続くことになる。

【一文教授会が「自治会再建についての見解」を発表、郵送】
 2.8日、一文教授会・教員会が、「自治会再建についての見解」を発表、3年生以下の学生の自宅や下宿先に郵送した。「自治会の民主性を保障する最低限の条件であり、学生諸君も当然とするところであろうと思う」と前置きしたうえで、次の四項目を列記していた。早大1文教授会が初めて公式に表明した、新自治会承認への条件だった。
一、 クラス委員(自治会委員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。
二、 クラス在籍者の過半数の出席を条件とするクラス委員選挙と公開の開票。
三、 クラス委員総会における多数の支持を得た執行部の選出。
四、 その執行部による全自治委員の総意を反映し得るような自治会規約案の提示と、全自治会員の絶対多数による承認。

 新聞では「今度の教授会見解は、新自治会を事実上否定して白紙に戻そうというもの」(読売新聞)と否定的に報道されていたが、「再び革マル派が勢力を盛り返してきても、同じ条件を示して公認を拒否する、という先を見通したものだった」とする見方もできるものだった。

 一文教授会・教員会の「自治会再建についての見解」に続いて二文教授会・教員会、政経学部教授会、教育学部教授会、社会科学部教授会もほぼ同様の自治会承認条件を提示し、臨時執行部による再建自治会を承認する機運が生まれ始めた。

 2.10日、早稲田大学新聞173号「更に混迷続く学内状況 武装衝突、機動隊常駐さる」。


 日付なし、第一文学部執行委員会新入生歓迎実行委「春越えれば!2.13集会に向けて」。
 日付なし、一文執行委員会「総括集会に向けて」(*2月中旬の討議資料?)。
 
第一文学部自治会執行部「手をねじこね、ゆがんだ笑みを作ったりせんでくれ!」。


 2.19日、早大当局が入試前のロックアウトを決定する。 


【春休暇に入る。入学試験始まる】
 2.23日、ロックアウトの“狭き門”下で早大48年度入学試験始まる(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。


 日付なし、日本史三年有志「一文専攻学生に訴える!たちあがった一、二年生を見殺しにするな!!」。
 日付なし、一文教養演習正岡ゼミ「涙で訴える!革マルさんの・・・」。 
 日付なし、仏文科のCMNo1
 日付なし、哲学3年有志より「文学部全学友へのアピール」。
 日付なし、「まめまき大会」。 

 日付無し 、第一文学部自治会執行委員会「3/8自治会連絡会議(4号館)へ向けて」。


 3.9日、全学団交実行委員会(準)「一文自治会執行委員委殿 招請状」。


 3.10日、第一文学部学生自治会執行委員会・新入生歓迎実行委員会「君達にとって早稲田とは!」。 
 日付なし、一文執行委員会「われわれは何をめざすのか」。

 日付なし、1Tクラス「後方よりの通信」(当時発行されていたクラス誌)
【早稲田大学新聞174号が座談会「川口君虐殺問題」掲載】
 3.10日、早稲田大学新聞174号が座談会「川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの <虐殺糾弾>の原点」掲載。参加者は第一文学部自治会&二J行動委員会のN(原文は実名、以下同じ)、第二文学部学生自治会臨時執行部のK、政治経済学部学生自治会執行委のU、全学行動委員会(準)のH、ワセダ統一救対のI。

【全学団交実行委員会が結成される】
 3月半ば、各学部に作られた行動委員会、団交実行委員会を集合する全学団交実行委員会(以下、「団交実行委」と記す)が結成された。「団交実行委」は大学本部などに度々押しかけ、大学職員や教員とま小競り合いを繰り広げた。但し、この頃より、穏健派と急進派の溝が生じだしていた。

 3.13日、第一文学部団交実行委員会「11.8川口君糾弾闘争の更なる質的深化に向けて-団実委への招集にかえて」。

【一文自治会再建派の新執行部が自治委員総会を開催し入学式対応を協議】
 3.31日、翌日に入学式を控えたこの日、一文自治会再建派の新執行部が自治委員総会を開催し、入学式対応を協議した。1年生の10クラス、2年生の11クラス、3年生も日本文学、日本史、仏文、文芸、哲学の5専修の自治委員が出席した。執行部は、入学式会場の記念会堂前で集会後、整然と会場に入り、新入生たちに学内自治の現状を説明した後、「総長団交の確約」を取りたいと提案した。これに対し、「一文団交実行委」は、演壇占拠による入学式粉砕、そのまま村井総長団交に持ち込むという強硬策を対案した。激論となり参加者の意見も両極に割れた。

 日付なし、一文自治会執行委員会「第一文学部の全ての学友諸君よ 4.2集会に総結集を」。
 日付なし、一文執行委員会「4月方針(案)」。   
 日付なし、無署名「4.2集会基調(案)」。 
【入学式、総長挨拶の最中に黒ヘルが壇上に乱入】
 4.1日、「団交実行委」の強硬方針を採択した「4.2実行委員会」が、新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会を開催した。
 4.2日午前11時、早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、約150名の黒ヘルが壇上に乱入した。会場は騒然となり、村井総長は守られながら非常通路から脱出した。入学式は午前の部の段階で入学式中止となった。この間、革マル派は式場外で集会していた。
 4.3日、学部入学式も延期。夕方まで両派が集会。

【革マル派と中核派が高田馬場駅周辺で乱闘】
 4.2日、革マル派が、高田馬場駅前に集結した中核派約250名を襲撃し、乱闘で地下鉄が止まる騒動となった。(乱闘の様子は不詳)

【革マル派が「早大行動委」テロを満展開し始める】
 4.4日、革マル派が鉄パイプで16号館乱入、「早大行動委」を襲撃した。一方的な襲撃となり、無防備な「早大行動委」の負傷者30数名、うち重傷10名。以降、「早大行動委」系負傷者続出の狼煙となった。
 この頃より、革マル派が「一文自治会常任委員会」を名乗り、101番教室を仮自治会室として一文キャンパスに常駐し、スロープ付近では毎日、革マル派が検問し始めていた。この情況下で、一文キャンパスには再建自治会と革マル派自治会が「共存」し始め、それぞれがパンフを持って各教室廻りをするようになった。革マル派のパンフは、最後の方で「11.8川口君死亡事件」という表題で、「痛苦に自己批判」したと触れた後、こう続けていた。
 「この問題を『暴力支配の結果』として意図的に歪め、常任委員会の追い落としのために政治的に利用し、そのためには自治会規約すらも踏みにじり、『第二自治会』をデッチ上げようとした諸君達の自治会分断策動に対しても断固として対決して来たのである」。
 4.5日、本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派1名が包囲される。
 4.9日、文学部で、授業初日は討論会。二文で小競り合い。
 4.10日、革マル派が、代々木駅で集団登校中の「早大行動委」に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。

【革マル派が攻撃の矛先を第一文学部教授会に向ける】
 新入生歓迎運動後の頃、革マル派は、攻撃の矛先を第一文学部教授会に向け、次のようなビラを大量に捲いた。
 「一文当局は、かの虐殺者=日共・民青、中核派、社青同解放派学生と背後で結託した、デツチ上げ『新執』を尻押し、その『自治会再建運動なるものに協力せんとしている。何一つ闘争課題を掲げず、ただただ『反革マル派』のためにのみ狂奔し、当局の『五原則』に屈服して『自治会承認』要求運動にうつつを抜かす『新執』僭称派を積極的に利用しながら、一文自治会を『当局の意のままに動く』自治会=御用自治会化することを狙っているからに他ならない」。

 この頃より、革マル派が、クラス集会への襲撃や個人テロを頻発させるようになった。これに恐怖を感じる者が運動から遠ざかり始めた。その一方で、革マル派と敵対するセクトと共同しての対抗暴力論を主張する声も出始めた。

【革マル派が再建自治会派の集会、学生大会潰しを策動する】
 4.11日、革マル派が「統一行動」集会開催(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。
 4.13日、教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。
 4.14日、新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。
 4.17日、一文・二文学生大会成立。総長団交要求を決議。その後、大学当局に再団交を確約させる。全理事、学部長の出席を要請する。
 4.21日、再建自治会派が、新学期最初の一文学生大会を文学部で一番大きな181番教室で開催した。革マル派が押しかけ、ハンドマイクを奪い、コードを引きちぎるなどの妨害行動に出た。再建自治会派は、会場を本部キャンパスの15号館に移し再開させた。定足数の900名を確保し学生大会を成立させ、新執行部確立の自治委員選挙実施等の方針を決議した。
 この間、社青同解放派約200名が本部キャンパスに登場し、「我々は文学部の学生大会を側面支援する為にやって来た」とアジ演説し始めた。革マル派は、「社青同解放派のテロ部隊を呼び込んで文学部学生大会を強行開催している」と激しく非難した。一文再建自治会派は、執行委員会の名前で、「我々は社青同解放派とは無縁である。本部キャンパスに乱入し、一文自治会の学生大会支援を勝手に標榜したことを強く批判する」と声明した。この学生大会を機に、革マル派の暴力が一気にエスカレートした。樋田委員長の旧友の自治委員/林茂夫も登校できなくされた。こういう「登校不能者」が各クラスで急増した。
 4.22日、両派による投石や放水騒ぎ。
 4.23日、二文学生大会後、高田馬場まで500名でフランスデモ。
 4.23日、教育学生大会、革マルの妨害で流会。
 4.24日、一文自治委員協議会。

【革マル派が4.28全国集会。以降、革マル派が再び支配権を確立し始める】
 4.28日、革マル派220名、「4.28全国集会」のため集会。

【第一文学部学部長が次々と交代する】
 5月、前年12月の第一文学部の団交後、浅井学部長が辞任し本明学部長が翌年3月末まで、その後を印南学部長が引き受けていたが突如辞任し、辻村敏樹学部長が就任した。教務担当主任に岩波哲男、志波一富が就き安定した。この頃には革マル派による文学部キャンパスの暴力支配が復活し、学部投票の実施が困難になっていた。

【革マル派が「早大行動委」に暴力的敵対を露骨化させる】
 5.2日、一文で、再建自治会派が181番教室で学部団交を開催した。革マル10数名が「統一団交」を叫びながら壇上に乱入し乱暴狼藉を働いた。これにより学部側が団交継続を拒否し団交中止を余儀なくされた。その後も集会を開くたびに似たような事態が繰り返された。
 5.4日、一文再建自治会側が自治委員協議会を開催し5.2団交を総括した。
 5.7日、反革マルの一文自治会臨時執行部の80名が学部との団交へ向かっていたところ、全都的動員をかけていた革マル派30名が襲撃、角材で殴りあいとなった(文学部で衝突、2名負傷)。

【「早大行動委」が非常手段で総長を拉致し団交に及ぶ】
 5.8日午前11時過ぎ、「5.8 総長拉致団交」。「早大行動委」30名が、新宿区西大久保の理工学部54号館404号教室で化学工業論の講義を行っていた村井総長を捕捉し、白覆面の10人が村井総長を連れ出し、黒い布をかぶせて車に乗せ、本部キャン法学部の8号館前入口に座らせ“誠意ない”と吊るし上げした。その後、法学部8号館301教室に拉致した。

 午後2時過ぎ、約2000名の学生が集まる。行動委は、リンチ殺人の後に村井総長が学生と話し合う姿勢のない事を非難、再度の吊るし上げとなった。学生らは革マル派追放、各学部の新執行部の承認を要求したが、村井総長はのらりくらりとかわし続けた。この間、革マル派200人が村井総長救援に押しかけたが「早大行動委」が撃退した。

 5.9日、村井総長に「5.17日の正式団交開催(再団交)」を約束させ“釈放”した。革マル派との衝突が予想される事態となった。その後、早大キャンパスは平穏化した。但し、再建自治会派内に穏健派と急進派の亀裂が深まり、行動委、団交実行委は武闘路線に向かい始めた。
 「早大行動委」の総長拉致事件につき、岸沼秀樹「左翼名鑑」(「彼方」5号所収)が次のように記している。
 「一九七三年五月七・八日WAC(注・早大行動委。早大生の反革マル大衆組織で黒ヘルメットを着用。ノンセクトが主体であったが、解放派や中核派などセクトも加わっていた)を中心とした反革マル系部隊は、革マル派を打ち破り、村井早大総長を引き出して大衆団交し、五月十七日の再団交を確約させ、一時、反革マル系が勝利するかと思われた。だが、十七日当日、総長は団交の約束を破棄し、集まっていた反革マル系学生は導入された機動隊によって多数の負傷者を出して追い散らされた。この日をもって早大での革マル派の勝利は確定した」。

 以降、革マル―大学当局―機動隊連合で「早大行動委」潰される

【早慶の連帯化が企図されるが機動隊-革マル派連合によって阻まれる】
 5.12日、早慶交流集会。慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マル派は慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ東大で集会。夜、革マル派30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。

【革マル派の武装襲撃頻出する】
 5.14日、革マル派が、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。
 夕方、一文再建自治会委員長/樋田が22号館前で革マル派に鉄パイプで襲撃され、重傷を負う。

【革マル派が総長団交粉砕を企図して全国動員】
 5.15日、革マル派全国動員(500名)で本部集会。
 5.16日、5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マル派の集会。村井総長が5.17日総長団交を撤回した。

【革マル派が早稲田一帯を制圧、総長団交流産する】
 5.17日、革マル派がキャンパスは無論、早稲田一帯を制圧した。「早大行動委」など500名が夕方正門前で集会。校内に入ろうとするや革マル派が鉄パイプ攻撃。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。かくて、「5.17日総長再団交」ならず。

【社青同解放派、ブント連合がキャンパスに登場し革マル派を粉砕する】
 5-6月、 社青同解放派、ブント連合がキャンパスに登場し、革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕する。

 5.18日、東京駅で学生ゲバ。早大乱闘の帰り襲う。乗客巻き添え。
 5.19日、早大乱闘で10人ケガ、重体。
【法学部自治会執行部が改選され、再び民青系が選出された】
 この頃、法学部自治会執行部が改選され、再び民青系が選出された。

【「負けるな早稲田」集会開かれる】
 この頃、「負けるな早稲田」集会開かれる。豊島公会堂に650名参加。自衛武装問題で路線分岐鮮明に。

 教育学部の選管委結成される。
 5.31日、早大乱闘でまた重体。
 6.5日、早大で武力衝突。警察が管理強化を要望。
 6.6日、警視庁が、革マルの拠点早大、反帝の拠点日大を捜索。  
 6.8日、警視庁が先制攻撃で早大など捜索し爆弾や鉄パイプ押収(ゲバルト封じ第2弾)。  

【早大でザック集団がバリケード構築。機動隊導入で67名が逮捕される】
 6.14日、朝の早大でザック集団がバリケード構築。早朝機動隊導入で67名が逮捕される。総長連行事件で黒ヘルの早大生に逮捕状。

 この頃、社学自治会費が革マル系常任委へ下る。
【「一文2連協」が自衛武装想定を確認する】
 6.25日、一文の新2年生有志約30名が、「2年生連絡協議会」(以下、「2連協」と記す)を開催し、組織の在り方について、「閉ざされた組織、突出した組織ではなく、クラスのメンバーに運動の目的や手段について説明し、共に闘っていく運動体」としたうえで、「自分たちの運動を守るための防衛手段として、武装も想定する」ことを確認した。

 6.30日、早大でゲバルト、全学休校。
【「一文2連協」が自衛武装集会開催】
 7.2日、「一文2連協」が文学部中庭でヘルメットを被り角材で自衛武装しながら集会を貫徹させた。ハンドマイクで、「私達は好き好んで武装したのではありません。革マル派の暴力支配の復活の中で、武装を余儀なくされているのです」と訴えた。この時、革マル派の妨害はなかった。

 7.5日、樋田委員長が病み上がりにも構わず登校し、15名の委員全員が揃っての執行委員会を開催し、「一文2連協の武装問題」の是非を廻って討議している。樋田委員長は、「私はその後も一貫して武装に反対し続けた」と記している。

 7.4日、革マル派が、池袋の中核派アジト四ヵ所を襲撃。
 7月初旬頃、再建自治会新執系が文学部で武装情宣。「早稲田解放集会」開かれる。 「党派の問題全面に」とある。
【革マル派が「一文2連協」集会を襲撃、負傷者続出】
 7.13日、革マル派が、新執系「一文2連協」が文学部中庭で約50名参加(その内の約20名が武装)の集会を襲撃し、逃げ遅れたり逃げ惑う者を徹底追尾し鉄パイプで容赦なくメッタ打ちにして、重傷者を含む8名の負傷者を続出させた。

 この時、スロープ下の正面付近出派、叛旗派(ブント系)の武装部隊が守りを固めていたが、彼らも襲撃され多くの負傷者を出している。

【一文再建自治会派の執行部で武装議論を延々と続ける】
 夏休みに入る直前まで、一文再建自治会執行部で武装議論を延々と続いた。結局、結論を出せないまま分裂し、機能停止し始めた。

 7.16日、5.17被告団の第1回公判開かれる。 
 9月、大学当局が、「不測事態」が恒常化され異例の集会禁止措置。
 9.9日、中核派と革マル派が西武池袋線保谷駅構内で集団会戦している。
 9.10日頃、5・17被告団第2回公判開かれる。 
【社青同解放派と革マル派が神奈川大で集団会戦】
 神奈川大学を拠点としていた社青同解放派は、川口大三郎事件の革マル派の責任を追及する姿勢に出て、共産主義者同盟(ブント)と共にWAC(早大行動委員会)に助太刀した。5-6月、早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕する。革マル派は社青同解放派の拠点神奈川大学襲撃を計画する。
 9.14-15日未明の午前1時45分頃、反帝学評(青解派)100名が、神奈川横須賀での空母ミッドウェー母港化阻止集会に参加すべく拠点校の神奈川大3号館と宮面寮に泊まっていたところへ、覆面姿の革マル派150名が鉄パイプで乱入し、乱闘で双方で21名が負傷、市内11の病院に運ばれ4名が入院した。

 この乱闘の最中、反帝学評(青解派)がレンタカーで動向視察していた革マル派2名を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。午前10時30分、保土ヶ谷区川島町の横浜市水道局西谷浄水場裏の小道で、金築寛(東大、23歳)と清水徹志(元国際基督教大生、24歳)の死体が見つかった。この事件はそれまで中核派と革マル派の間だけで行われていた内ゲバ殺人に、社青同解放派を参加させる契機となった。革マル派は中核派と社青同解放派の2党派間抗争を引き受けていくことになる。

【革マル派30名が日本橋の三越本店屋上で「早大行動委」襲撃】
 9.16日、革マル派30名が、中央区日本橋の三越本店屋上で、川口事件を追及する反革マル派のWAC(早稲田全学行動委の略称)を鉄パイプで襲い、8名が暴力行為、凶器準備集合罪の現行犯で中央署に逮捕された。屋上には一般客500人がいた。革マル派は、この日の午後横須賀で開かれた同派の集会で「WACを三越で粉砕した」と声明している。
 翌9.17日の毎日新聞夕刊に、「16日の三越デパートの事件は、革マル派に早稲田を追われた反革マル派が混雑にまぎれて人目のつかないデパートに結集、17日以降の早大奪還作戦を練ろうとしたのを、事前に察知した革マルが先制攻撃をかけた」とする警視庁の見解が掲載された。革マル派の諜報能力の高さを知るべきだろう。

 9.17日、早大ロックアウト。新学期早々、警告無視の集会。
【革マル派が鶯谷駅で中核派を襲撃(鶯谷駅会戦)】
 9.17日、革マル派が鶯谷駅で中核派を襲撃(鶯谷駅会戦)。国鉄鶯谷駅ホームで、京浜東北線南行き電車に乗ってきた中核派150名が降り、上野公園口の改札口近くへ向かったところ、上野公園口から革マル派50名が乱入、乱闘となり、5名が逮捕された。

 1973.9.18日付毎日新聞が次のように報じている。
 概要「革マル派全学連の前川健委員長が、記者会見で、早大奪還をねらっていた中核派を粉砕するために行った。四分五裂になっている現在の学生運動を統一するためには、他党派を徹底的につぶしていかなくてはならないと、他セクトとの内ゲバを続けていく方針を語った」。

 1973.9.18日付毎日新聞の記事の中に次のような記述がある。
 「早大では昨年11月8日、同大生、川口大三郎君(当時20歳)が革マル派のリンチ殺人にあって以来、同大を最大の拠点とする革マル派に対して中核、反帝系の各セクトが『右翼改良主義=革マル派との対決は階級闘争の前進に不可欠』と叫び、革マル派の追い出しと”早大解放“を闘争課題にしている」。

 9.18日、警視庁がゲバルト続発で早大など捜索。正門で厳重チェック。
 9.27日、早大でゲバルト、10人ケガ?。警視庁が早大会館を2度目の捜索。 
【革マル派が再びキャンパスの支配権を確立する】
 「早大行動委」の奮戦もここで力尽きた。以降、キャンパスに革マル派が再度支配権を確立することになった。
(私論.私見) 革マル派が再度支配権を確立考
 「革マル派が再度支配権を確立」が大学当局と機動隊に守られてのなりふり構わぬ制圧であったことは、当時の一連の史実であろう。早大総長が一貫して反革マル共同戦線派により結成された自治会の承認を渋り、団交への出席も最終的に拒否し、革マル派の肩を持ち続けた。早稲田大学と革マル派の癒着、蜜月関係が長く続いて行くことになった。この関係が、「平成6年、奥島孝康が早大総長に就任するまで大学当局と革マル派の蜜月は続く」ことになる。

【一文の樋田委員長/山田書記長連名の反革マル自衛武装批判ビラが播かれる】
 10.3日、一文再建自治会委員長/樋田、書記長/山田の連名による反革マル自衛武装批判の「一文四千の学友諸君!」ビラが播かれる。文面の一部は次の通り。
 「一連の内ゲバ事件をしつかりと、とらえ返し、『革マル』の『暴力』、そして諸セクトの武装介入をいかに克服していくのかをこの手でしっかりと掴みとろうではないか!」。

 その次のビラのタイトルは、「神奈川大学『内ゲバ殺人』事件を口実とした早大闘争のすり替えを許さない」で、武装路線への批判をさらに強めていた。文面の一部は次の通り。
 「中核派、解放派、叛旗派などは、当初から革マルとのゲバルトを主張しつつ早大闘争に介入し、とりわけ行動委員会を中心に一定の影響力を持って来た。革マルのテロ攻勢が激化するにつれ、彼らの主張が正当であるかのような幻影が僕たちの一部に焦りから生じ、それが彼らとの共同行動、あるいは“自衛武装”を主張する諸君を生み出したのである。(中略)『武装路線』は闘争の歪曲であり、学生から運動への主体的関りを奪い去るものとして厳しく批判せざるを得ない」。
(私論.私見)
 樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ  大学構内リンチ殺人事件の永遠」で知らされることになったが、「一文の樋田委員長/山田書記長連名の反革マル自衛武装批判ビラ」がかの局面で適切だったのかどうか、私には疑問がある。革マル派の暴力テロ再燃に対する有効な手立てを編み出してヒューマニスト足らんとするのなら分かるが、編み出さぬままの「反革マル自衛武装批判」は利敵理論になりかねないものではなかろうか。

【11.8一周忌前の(続)自衛武装議論】
 11.8一周忌前の頃、一文自治会が、内部が武装の是非をめぐって分裂する中、久しぶりに執行委員会を開いた。6名の委員が出席し、川口君の一周忌追悼集会を全国の学生総決起の場にしようという提案を廻って議論が伯仲した。既に呼びかけの声明文案が用意されており、採決で「賛成3、反対2、保留1」となった。樋田委員長が「こんなに重要な問題を全執行委員15人の半数にも満たない6人の出席では決められない」と主張したところ、賛成派が欠席した執行委員2名分の委任状を見せ、「これで賛成は5名、投票参加者も過半数になる」として、採決を有効とさせた。これにより、「11.8川口君虐殺一周忌追悼集会を早大全学・全国学友の総決起で勝ちとろう」と題したビラが大量に播かれた。呼びかけ人が第一文学部自治会執行委員会、教育学部自治会執行委員会、第二文学部自治会臨時執行委員会有志の連名になっていた。

 
武装問題について次のように書かれていた。
 「私達は、決して『革マルせん滅』を目的に闘っているのではない。しかし私たちの仲間である活動家たちが革マルのテロルによってせん滅され、負傷していくのを、私たちは黙って見ているわけにはいかない。その意味において私たちは『反暴力』ではないのであり、運動を保障していくものとして、われわれの運動の利害をかけて闘争破壊者に対する自衛武装を断固として主張するものである」。

 樋田委員長ほか3名の執行委員が非暴力、非武装の方針に拘り、一文自治会の執行委員会としてでなく「川口君一周忌追悼集会一文実行委員会」を新たに作り活動を始めた。岩間氏らの日本文学専修4年の有志が「11.8集会参加決議と題したビラを配布した。文面の一部は次のように記されている。
 「私達は一部の武装路線には断固反対する。(中略)全く不本意ながら集会は分裂して行われようとしている。分裂は避けねばならないが、彼ら一部武装闘争路線派があくまでも学外セクトの導入に固執するならば、私たちは共に集会を持つことを拒否せねばならない」。
(私論.私見)
 「私達は一部の武装路線には断固反対する」は一見、正論のように聞こえる。しかし、この時の「暴力反対」、「学外セクトの導入反対」は闘う学友を見殺しにする結果になったのではないのか。闘う者が助けられないのなら、闘う者が寄ってこなくなるのは当然である。それを思えば、当時のキャンパス事情の正義としては革マル暴力に対峙する自衛能力を持つ方向にリードするのが自然であり、「暴力」であれ「学外セクトの導入」であれ足らずのところを補うのは必要な事であり、それを逆に動いてはいかんだろう。少なくとも多数決採択された決議には従うのが筋で、議論が足りないのなら議論を続行させ意志の練り合いをせねばならない。そういう経緯を得ての決議には従うのが筋だろうし、従えないのなら辞任の方が賢明だろう。結果的に、11.8一周忌前での陣営内部の分裂で、川口君事件闘争は元の木阿弥に戻ることを運命づけられたのではなかろうか。

 10.10日頃、5・17被告団第3回公判。裁判官、起訴理由の釈明求む。


【警視庁公安部と本富士署が川口君リンチ殺人事件で革マル4人逮捕】

 10.21日、警視庁公安部と本富士署が川口君リンチ殺人事件で革マル4名を逮捕した。警察が早大第一学生会館など革マル派の拠点を捜索し、この時の捜査で、川口君をリンチ致死せしめた革マル派の下手人の一人である元一文自治会書記長/佐竹実(23歳)再逮捕、二文自治会委員長/村上文男(25歳)、二文自治会副委員長/武原光志(23歳)、一文自治会会計部長/阿波崎文雄(26歳)の4名を監禁致死容疑で逮捕した。他に服役中の全学中央自治会委員長/田中敏夫(24歳)など7名(一文学生/近藤隆史(24歳)、一文自治文化厚生部長/水津則子(23歳)、一文自治会組織部長/後藤隆洋(25歳)、矢郷順一(25歳)、緑川茂樹(22歳)ら革マル自治会幹部がほとんど)に逮捕状が出た。

 10.23日、川口君リンチ殺人事件で、別件で横浜刑務所に服役中の田中敏夫が監禁致死容疑で逮捕された。逮捕されたメンバー5名が起訴され、1名が分離公判となる。


 11.5日、対立とけぬ早稲田大学。「追悼」と「祭」が立ち並ぶ。


 11.6日、早大また緊張。川口君死亡一周年でロックアウト。


【田中敏夫前委員長が自己批判書提出】
 「田中敏夫自己批判書」を知る前、次のようにコメントしていた。
 「続いて、早大全学中央自治会委員長・田中敏夫も自己批判し、11.13日、『田中敏男の自己批判書』が提出されている。佐竹自己批判書に続いて田中自己批判書をも確認しておこうと思うのだがネット検索で出てこない。これは偶然だろうか。れんだいこは、他にも重要な文書に限り却って出てこない例を知っているので驚きはしないけれども」。

 「
1973年11月11日(日) 供述により明らかになった事件の経緯。監禁致死罪で革マル派4人起訴 」によると、11.7日、田中前委員長が佐竹に先立って自己批判書「川口君事件に対する私の態度と反省」を書き、転向を表明している。 してみれば田中前委員長の自己批判書が口火を切ったことになる。1973.11.12日付読売新聞は次の記事を発信している。
 「田中の自己批判書はさる7日『川口君事件に対する私の態度と反省』と題して書いたもので『暴力の行使は人間性を腐敗させる』など、佐竹とほぼ同じ内容。田中は事件当時の早大革マル派の最高幹部だが、組織との関係について『学生運動から足を洗う』と述べているという」。

【川口君虐殺一周年闘争前夜の情勢】
 11.7日、川口君虐殺一周年前夜、早大が緊迫する。革マル派は全国から約1200名を動員して本部キャンパスで総決起集会を開催し、高田馬場駅までデモ行進した。

 11.8日、早大当局がロックアウトを強行し本部キャンパス内での集会が不能にされた。大学当局は革マル派の正門向かい側の大隈講堂前での集会を許可していた。同派の「川口君追悼集会」がヘルメット姿の約500名で開催され、その周囲をジュラルミン盾の持つ機動隊が囲んでいた。

 反革マル各派が学内突入狙ったが、機動隊が立ちはだかり、抵抗、投石、警官ともみ合うが構内に入ることができなかった。以降、機動隊が常駐化した。この日、警視庁が先制の革マル派書記局を捜索している。

【川口君虐殺一周年闘争】
 11.8日、樋田委員長らの「川口君一周忌追悼集会一文実行委員会」は正門前に集まろうとしたものの機動隊の規制に押しやられるようにして近くの鶴巻公園に向かい約300名で集会を始めた。午後、新宿体育館に場所を移して約600名で追悼集会を再開した。政経学部自治会、法学部自治会との共催となった。

 分裂した側は、「一文自治会執行委員会」を名乗って約300名が一文キャンパス北側の通称「箱根山」の空き地で追悼集会を開催した。日本文学専修グループは独自に大学近くのキリスト教施設/早稲田奉仕園で集会した。新聞は、革マル派が復権した早稲田の情況を伝えている。

【早稲田における革マル派による暴力支配追放運動が頓挫する】
 以降、早稲田大学全学行動委員会などは、まだ闘う姿勢を見せ、図書館占拠をおこなったものの、早稲田大学と機動隊に守られた革マル支配を打ち破ることはできず、この時の「早稲田における革マル派による暴力支配追放運動」は頓挫する。

【佐竹が犯行を自供、自己批判書を発表】
 11.8日、元一文自治会書記長・佐竹が犯行の一部を自供。11.9日、取調官に提出し、自供に至る心境の変化を明らかにするとともに、党派間の暴力行使の中止を訴える自己批判書が発表された。その自己批判書が、「左翼」に開示されているのでこれを転載しておく。
 自己批判書

 川口君を死に追いやった本人として、そして当時一文自治会の書記長をやっていた責任ある者として、私が完黙をやめ私の社会的責任を明らかにする心境になったのは、以下の理由によるものです。

 それは彼の死に直接関係した私が、自己の社会的責任を明らかにすることによって、故川口君の冥福を心から祈ると同時に、川口君のお母さんに深く謝罪したいと考えたからです。さらに、現在の党派関係の異常性とそこにおける暴力的衝突を見るにつけ、かかる現状を深く憂い、二度とこのような不幸な事態がおこらないよう強く切望しているためでもあります。

 私は川口君の問題を真剣に考えている全ての人々に次のことを強く訴えたいのです。現段階の党派関係は明らかに異常といえます。このような現状の中で、党派闘争に暴力を持ち込むことに関して、真剣に慎重に再検討して欲しいのです。暴力の行使に際限はありません。そしてその結果は予測をはるかに越えるものがあります。

 現に私は川口君を死に追いやろうなどとは、もちろん夢にも考えていませんでした。しかし結果はあまりにも悲惨なものでした。私は、私と同世代の人間的にも未熟な若い人々が暴力を行使することになれてしまうことが最も恐ろしいのです。傷つけ、傷つけられることを厭わない人間になることが真の勇気ではないと思います。人間の生の尊厳なくして人間の解放はないはずです。今こそ、この原点に立ち帰るべきです。

 確かに、現在の党派関係と党派闘争を正常に戻すことは非常に困難なことでしょう。容易にできる問題ではないと思います。それは大きな努力が必要でしょう。しかし誰かがやらなければなりません。私はそのことを、川口君の問題を真剣に考えている全ての人々にやり遂げて欲しいのです。私の冒したような重大な過ちが再びおこらないことを強く切望するからです。社会の矛盾を変革するために自己犠牲的な活動を展開している人々が、お互いを傷つけあうことほど不幸なことはないと考えるからです。

 現在、私は川口君という将来ある一人の青年を死に追いやってしまった自己の人間的未熟を痛切に反省し、あわせて川口君の霊が安らからんことを祈っています。川口君、そして川口君のお母さん、ほんとうにすみませんでした。

 昭和48年11月9日 佐竹実 ㊞

(私論.私見) 佐竹自己批判書考

 佐竹自己批判書はそれなりのものであったが当時の情勢には何らの意味も持たぬ「何をいまさら弁」でしかなかった。

 2015.6.20日 れんだいこ拝
 監禁致死容疑で逮捕、取り調べを受けていた佐竹実が川口君殺害を自供した。自供によると、革マル派は対立する中核派とのセクト争いから、昨年11月8日午後2時頃、文学部構内で友人と立話をしていた川口君を「お前は中核派のスパイだろう」と佐竹ら5人が文学部127番教室に連行、村上らの指導でイスにしばりつけたうえ鉄パイプで殴るけるのリンチを加え死亡させた。佐竹は、10.21日に逮捕されて以来完黙を続けてきたが、8日を前にした週明けに革マル派の弁護士を解任、8日の東京地裁での拘留理由開示の公判も辞退して自供を始めた。これによってすでに逮捕されている二文自治会委員長の村上文男ら4人の起訴もほぼ確実になり、指名手配中の元一文自治会組織部長の後藤隆洋ら6人の逮捕に捜査の的が絞られることとなった。自供に至る経緯については滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。次のように解説されている。
 「自己批判書の日付けが、死者・川口の一周忌の翌日ということは、警視庁公安部(あるいは東京地検公安部)が“一周忌”のチャンスをとらえ、加害者・佐竹に精神的攻めを加えた結果とも見られる。佐竹をはじめ川口君事件被疑者に対し警視庁公安部は、カラーの遺体写真をも眼前に突きつけ、日夜の調べ(攻め)を強行した」。

【川口君1周年闘争】
 11.9日、「もう争いはやめて!」。川口君の母が1周忌の訴え。川口君追悼デモで犠牲者。大阪の中核派の元学生死ぬ。「機動隊に殴られた」。

【事件関係者の自供相次ぐ】
 11.10日、川口君リンチ殺人事件で、革マル幹部が自供「イスに縛りメッタ打ち」。
 11.11日、東京地検が、先に逮捕していた革マル派4名(二文自治会委員長/村上文男(25)、武原光志(23)、佐竹実(23)、阿波崎文雄(26))を監禁致死罪で起訴した。

 量刑につき次のように解説されている。
 「東京地検は当初殺人罪の適用を検討したが、川口君の死に慌てていたという証言があったことから、川口君を殺すつもりはなかったと判断し、監禁致死罪を適用した。また、警視庁は逮捕監禁致死罪で逮捕したが、東京地検は川口君を長時間におよび教室に閉じ込めたことから監禁致死罪に当たるとして逮捕罪を省いた。なお、逮捕罪とは、他人の両手両足を捕らえた場合など、短時間の拘束に対して適用される」。
 11.12日、川口君リンチ殺人事件で、Sら2人が自己批判・ 「転向声明」。佐竹はその後「分離公判」となり、報道関係にも非公開で審理が進められた。
 川口サトさんのコメントは次の通り。
 「被告たちが遅まきながらでも、自分たちがやったことが間違っていたと自己批判したことはうれしい。これをきっかけに、ほかの活動家の人たちも、運動の中から暴力を締め出すよう努力してほしい。大三郎が死んでまる一年たった今は、被告たちに対して憎しみより、むしろ被告たちの母親に対する同情の念の方が強い」(1973年11月12日付読売新聞)。
 11.13日、東京地検公安部が、田中前委員長(24)は川口君リンチ殺人事件で事件現場にいなかったとして処分保留した。次のように報じられている。
 「東京地検は、監禁致死容疑で警視庁が逮捕した元早大一文自治会委員長・田中敏夫(24)を12日夕、処分保留のまま釈放した。田中は川口君事件の指揮、命令をした疑いがあるとされ、10月22日に逮捕されたが、事件に関与しなかったという見方が強くなったため釈放となった。田中は、別の内ゲバ事件で横浜刑務所に服役中を逮捕されたので、釈放と同時に身柄は再び同刑務所に移された」(1973年11月13日毎日新聞)。
 二文自治会委員長/村上文男氏は、「BLOG-C 第293号=『彼は早稲田で死んだ』」によれば、獄中で、「一部の未熟な分子の仕わざ」呼ばわりで切り捨てることで党派の責任を逃れるべく弁明した革マル派党中央の姿勢に憤慨し、「僕を疎外した組織を僕は絶対に許すことができない」、「革マル派に革命などやらせてはならないと思う」と記しているとのことである(「梯明秀との対決」(こぶし書房、1979年刊))。

【相次ぐ自己批判声明に対する革マル派、中核派の対応】
 こうした自己批判への革マル派の対応は、滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。それによると革マル派は次のように声明し批判している。
 「公安当局の弾圧のもとで、暴力一般を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕しえず、そうすることによって裏切り者となった」(革マル派機関紙「共産主義者」32号)

 中核派は次のように論評している。
 「佐竹・田中は留置場以外に安全なところはないと観念し警察に保護を申し出た。だがこれは転向でも何でもない。佐竹の脱落にさいしての論理は革マルの“党派闘争の論理と倫理”なるものと寸分違わない」(中核派機関紙「前進」660号)。

【黒ヘルが早大図書館占拠闘争】
 11.19日午後8時頃、第一文学部と政経学部からなる早大黒ヘル十数名が本部キャンパス正門脇の早大図書館に乱入し、屋上からマイクで、大学に対し早稲田祭の中止と総長団交を要求し立てこもった。大学側は「学外へ出なさい」とマイクで再三にわたり警告、警視庁機動隊と戸塚署員約百名が学内外に待機した。学生らは屋上から図書館内の書籍を投げたりして抵抗し、攻防4時間の末に不退去罪で逮捕された。

 翌日、行動委委員会系グループが本部キャンパスでデモと集会を開き、村井総長の「5.17日団交再開確約」違反を批判する図書館占拠闘争を支持声明した。その後、叛旗派などのセクトと合流し、革マル派が準備中の看板を破壊するなどした。行動委員会系の表立った集会は、この日が最後となった。

 11.21~26日、革マル系の早稲田祭開催さる。民青同系の法学部祭開かれる。


 この頃、5・17被告団第四回公判。結審近し。検察側曖昧な態度に終始す。
 11.24日、火炎びん11本 大学祭の早大で見つかり押収される。
 11.26日、大隈講堂でボヤ。早稲田祭に反革マル派いやがらせ。
 11.27日、川口君リンチ殺人事件に関わる鉄パイプ乱入で捜索/東京都渋谷区。
 12.17日、川口君リンチ殺人事件で、革マル派幹部ら手配。
 12.21日、川口君リンチ殺人事件で、死体運んだクーペわかる。

1974(昭和49)年

 3.20日、川口君リンチ殺人事件で、救出の友人に乱暴の元早大生3人に有罪。
 4.23日、川口君リンチ殺人事件で革マル幹部を逮捕、3人手配。
 5.10日、川口君リンチ殺人事件で執行委員長を起訴。
 5.10日、早稲田大学新聞191号「5.17裁判判決下る 拘留二十日 未決勾留期間と相殺」。

【川口君リンチ殺人事件の“極秘公判”で注目の佐竹に7年求刑】
 6.28日、川口君リンチ殺人事件の“極秘公判”で注目の佐竹に7年求刑。読売新聞が次のように報じている。
 「革マル派から見れば、佐竹は裏切り者。山形県の親元や佐竹の弁護を受け持った大山英雄弁護士のもとにはいやがらせの電話が続いた。このため、裁判所側も佐竹の身の安全を考え、公判期日や使用法廷は報道関係者にも“完全黙秘”という気のつかいよう。万一に備えて法廷の看守を増やし、本来なら法廷で当事者と打ち合わせて決める次回期日も『追って指定』に切り替えたほか、両親など情状証人4人の尋問も公判期日外に非公開で行った」。

 そうした措置にもかかわらず、初公判の時には、東京拘置所から護送車が着くと学生風の男3人がつきまとい、法廷にも十数人が現れて、被告席の佐竹をやじり倒したという。 (資料:滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」)
 7.31日、東京地裁が川口君リンチ殺人判決1号として一文自治会書記長(事件当時)の佐竹被告に懲役5年。反省認め情状酌量された。「判決文に事実誤認がある」として控訴したが、控訴審判決でも量刑が変わらず服役した。

 秋、佐竹に遅れて数カ月後、他の4人への判決が下され、全員が控訴した。


1975(昭和50)年

 2.19日、東京高裁が、早大生リンチ殺人事件の公判で控訴棄却。


【革マル派が、中核派の最高指導者/本多延嘉書記長を虐殺】
 3.14日、革マル派が、埼玉県川口市にあるアパートで、中核派の最高指導者/本多延嘉書記長(41歳)をテロで殺害した。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。
 概要「今朝、わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目・書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曾有の反革命集団に対して振り下ろした怒りの鉄槌であります。我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめでもある。殺害を目的としたものではなかった。わが全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが鉄槌の一振り一振りに於いて表現されたことの結果として死亡ということになった」。

 中核派の怒りは凄まじく、3日後、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。

 7.17日、中核派と革マル派が新橋駅ホームで会戦。皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派約400名、中核派約400名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。投石などを行い、同駅を通る京浜東北線など各線がストップした。この衝突で革マル派の立命館大経済学部の甲斐栄一郎(20歳)が死亡、革マル22人目の死者となる。44名が重軽傷。321名(うち女性53名)が逮捕される。
 この年、早大革マル派の田中前委員長が横浜刑務所で刑期を終え、帰郷する。

1976(昭和51)年

【東京地裁が革マル統一裁判組の4名全員に懲役判決】
 3.18日、 東京地裁が、革マル統一裁判「早大生リンチ裁判」で、元自治会幹部ら4名全員に懲役判決を下した。

【村井総長と統一教会系早大原理研究会の蜜月と反目】
 裁判記録で明らかにされることは、川口君リンチ事件の12日後、原理研&「早大学生新聞会」の学生が川口君の母親サト(以下、単に「サト」と記す)宅を訪問し、ほぼ一か月後、早大学生の憩いの場としての民宿を建てたいで始まったサトの話をセミナーハウス建設へと大きくし、村井総長宛てに要望書を提出させている。(サトがこのように取り込まれている話は最近知った。私がそれまで知らなかったということは、この問題が隠蔽されていたことを意味する。同時に、自治会再建運動派がその後のサトに無関心だったことを意味するのではなかろうか。その後の活動を定期的に報告して連絡して居れば、原理研&「早大学生新聞会」のサト取り込みが見え救出したはずと思う)

 サトは、大学からの見舞金600万円を建設資金として提供する旨、意思表明している。他方、当時全国大学原理研究の会長であつた藤井道雄が、村井総長の妻の禎子に対し直々に″原理″講義を始め、以後二か月にわたる週一度の講義を続けている。当時の早大・神沢学生担当理事が、禎子にサトの意志を汲むよう橋渡ししている云々。夏休み(昭和48年)、原理研の学生たちが総工費約6千万円のセミナーハウス建設のための街頭募金活動を全国展開し、4200万円の募金を集め資金問題を解決させた。この流れで、村山総長夫妻が、大学とは無関係の個人協力として、広く一般に開放する公的施設にする趣旨でのセミナーハウス建設用地として、個人資産として所有していた韮山の別荘地を無償提供した。ところが、建設発起人の選定の段になると、原理研側が出してきた人数は6名で、サトと村井夫人を除く4名は全部″原理関係者″だった。村井夫妻が示した早大元総長の大浜信泉、阿部賢一の両夫人の名はかたくなに拒否された。最大のトラブルとなったのは、「暴力を排除し平和な社会を建設するため広く一般社会にも場を提供することを目的とする」ものとして建てられたものであったにも拘わらず統一教会の修練場となっていた約束違反であった。調査したところ他にも「私文書偽造」、「印鑑偽造捺印」等々が発覚した。
 この情報を週刊誌「週刊ポスト」がキャッチし取材班を組織した。1978(昭和53).6月頃、評論家の茶本繁正に執筆と取材の助言を依頼し、編集部デスクである編集員山本進を指揮者として、その下に編集部記者の歳川隆雄を班長とし、田島洋、二木啓孝らを取材記者とする取材班を編成して取材を開始した。こうして週刊ポスト誌上に「問題摘出レポート 茶本繁正と本誌取材班」と題する記事をシリーズで4回にわたり連載した。中でも、「週刊ポスト」同年9.1日号で、「問題摘出レポート第三弾!茶本繁正と本誌取材班」と題して、「『原理』対『反原理』問題で村井・早大総長夫妻が告白!」、「私たちは地獄の底で統一教会の正体を知つた』」との大見出しのもとに5頁もの記事を掲載した。これに対し、統一教会が名誉棄損で訴え十数年にわたって係争することになった云々。
(私論.私見) 村井総長と統一教会系早大原理研究会の蜜月と反目考
 村井総長と統一教会系早大原理研究会の蜜月と反目は興味深い。これまでの川口君事件考で触れられていない盲点になっているように思われる。実は、当時のキャンパス情勢に於いて、統一教会系早大原理研究会と革マル派は阿吽の呼吸で親和的関係にあった。確かどちらにも顔が利く教授が居たはずである。且つ早大原理研究会と村井総長は上記の流れで判明するように一時期までは蜜月関係にあった。他方で、早大原理研究会は、再建自治会運動にも要員を送り込んでいた。こういう関係で捉えれば、当時の川口君虐殺糾弾闘争は、学内の唯一の援軍党派は民青同だけであり、その共同戦線が切断されて以降は四面楚歌の中での孤軍奮闘になっていたことになる。こういう厳しい現実を思えば、敗北を余儀なくされたとはいえ能く闘ったのであって、誇って良い史実を歴史に刻んでいると思う。こう確認するのが正調ではなかろうか。

1977(昭和52)年

【革マル派が、社青同解放派の最高指導者/中原一書記局長を虐殺】
 2.11日、革マル派が、革労協反帝学評(青解派)筆頭総務委員の「中原一」こと笠原正義書記局長を、茨城県取手駅付近で車に乗っていたところを乗用車に挟み撃ちにし鉄パイプで頭などをメッタ打ちにされて死亡した。

 最高指導者を殺された社青同解放派の怒りは凄まじく、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出て、中核派に代わって「対革マル」の前線に立つことになった。

【革マル派対中核派、革マル派対社青同解放派の党派間死闘戦に突入する】
 戦前戦後の学生運動を官立の東大、私立の早稲田が牽引していた観があったが、その学生運動が次第に党派化し始め、1969年の時点で、革マル派が第一文学部、第二文学部、商学部、教育学部、社会科学部の自治会、社青同解放派が政経学部、民青同が法学部の自治会を掌握し拠点校していた。

 ところが、発端理由ははっきりしないが、革マル派がそれまでの共存状態に決別すべく、凄惨なリンチテロを含めて社青同解放派を追い詰め追い出し、同派は学内立ち入り不能に追いやられた。この経緯の凄惨さによって革マル派と社青同解放派の党派間抗争が不可逆的なものとして定向深化していった。以来、キャンパス内には「常軌を逸した暴力支配」が日常化した。そこへ、1970年、中核派が革マル派の東教大生リンチテロ致死事件を起し、革マル派と中核派がこれまた不可逆の党派間抗争に突入した。この抗争の初期の数年間は、中核派が負い目を持っていたかのように劣勢を強いられていた。そこへ、1972年、今度は革マル派が中核派シンパと思われる早大生リンチテロ致死事件を起し、以来、中核派の負い目が払拭された観のある両派の真っ向抗争となり定向深化していった。そこへ、1974年頃から社青同解放派が対革マル派ゲバルト戦に加わった。革マル派は、中核派と社青同解放派の両派との党派間抗争を引き受けつつ、戦況をやや優位に戦っていた。その流れで、革マル派が、1975年に中核派最高指導者の本多氏を、1976年に社青同解放派最高指導者の中原氏をテロ虐殺し機関紙で戦果を誇った。

 最高指導者をテロられた両派は党派のメンツにかけて不退転の報復戦に乗り出して行く。これにより革マル派の活動家の相当数が犠牲になった。革マル派も反撃するので、中核派と社青同解放派の被害も甚大なものになった。これを詳述するのは別稿にするが、川口君事件はこういう流れで掴むこともできる。私には、川口君は当人が望まずして学生運動史上の人身御供になったの観が禁じ得ない。

以降のキャンパス事情

【大学当局と革マル派の蜜月関係が続く】
 その後も、大学当局と革マル派の間には90年代初頭まで密接な関係が続いた。

【奥島総長体制が確立し革マル派との蜜月関係終焉に舵を切る】
 1994(平成6)年、早稲田大学総長に法学部系の奥島孝康が就任し、早稲田大学と革マル派の蜜月関係終焉に舵をきった。就任後に次のように表明している。
 「革マル派が早稲田の自由を奪っている。事なかれ主義で続けて来た体制を変える」。

 1995年、奥田総長体制下の大学当局が、商学部自治会の公認を取り消した。これにより、約6千名の学生から毎年一人2千円の自治会費を授業料に上乗せして集め、革マル派の自治会に渡していた年間約1200万円の自治会費代行徴収の慣行が崩れた。

【「早稲田祭」の開催主体を巡って早稲田大学と革マル派が対立】
 1996(平成8)年、早稲田大学の学園祭「早稲田祭」で不正な資金流用の疑いがあることが判明し、この問題で早稲田大学と革マル派が早稲田祭の開催を巡って対立した。

【早稲田大学学生部長宅盗聴事件】
 1997(平成9)年、革マル派が、早稲田大学の奥島総長体制派の関係者の学生部長(法学部教授)自宅に盗聴器を仕掛けて11回にわたり通話を録音、盗聴し早稲田大学側の動きを探った。そして、革マル派の関係者が警察に逮捕された。これを「早稲田大学学生部長宅盗聴事件」と云う。警察は革マル派の革マル派非公然活動家10名を指名手配し、内5名逮捕。電気通信事業法違反で起訴され、懲役10ヶ月の実刑判決が言い渡された。

 この事件を契機に早稲田大学は革マル派に対して厳しい姿勢で臨み、早稲田祭の2001年まで中止を決定、早稲田祭実行委員会を活動禁止処分、早稲田大学新聞会をサークル公認取り消し、そして、革マル派の関係者を大学内から次々に排除していった。


 次のように評されている。
 「奥島総長は、革マル派から脅迫、吊るし上げ、尾行、盗聴など様々な妨害を受けたが、これに屈することなく、所期の方針を貫いた。川口君の虐殺事件から実に25年の歳月を経て、早稲田大学は革マル派との腐れ縁を断つことができた。あまりにも遅かったが、奥島総長の決断と覚悟がなければ、癒着体制は今も続いていたに違いない」。
 「早稲田大学と革マル派の関係の終焉」には次のように記されている。
 「革マル派を排除した後、新左翼などの団体が再び早稲田大学に復活することはなかった。なぜなら、その頃の日本は全国的に学生運動が衰退し、その運動の意味すら知らない多くの学生が学生運動に興味を持つのは無理だったからだ。こうして、早稲田大学は革マル派の掃討・追放に成功したのだった」。

 2012.11月、川口君事件から40年ぶりで、「川口大三郎さんを偲ぶ会」が大学近くで開かれ、旧2Jの人達中心に集まり散じた。


 2019.3.1日、早大革マル派の田中前委員長が急性心筋梗塞で急死している。


【樋田毅・氏の「彼は早稲田で死んだ」が第53回大宅壮一ノンフィクション賞受賞】
 2022.5.13日、第53回大宅壮一ノンフィクション賞が決定し、鈴木忠平さん(45)の「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(文芸春秋)と、樋田毅さん(70)の「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文芸春秋)が選ばれた。

 樋田氏は、「革マル派の川口大三郎君リンチ虐殺事件糾弾闘争」に参加した一人で、当時
第一文学部に在籍、在学中の1972年に川口大三郎事件に遭遇。自治会再建運動の先頭に立ち、一年生ながら一文学生自治会再建派の臨時執行部委員長、再建以降の執行部委員長を務めた経歴を持つ。卒業後は朝日新聞記者となり、2017.12月退社。2018.2月、朝日新聞阪神支局襲撃事件を描いた「記者襲撃」を岩波書店から刊行。2020.3月、村山美知子の伝記『最後の社主』を村山美知子の生前の委嘱により講談社から刊行した。2021.11月、川口大三郎事件を扱った「彼は早稲田で死んだ」を文藝春秋から刊行する。

 未完(つづく)


* 革マル派の事件関係者が警察の取り調べの際に事件を自己批判し、「謝罪声明」したはずであるが、該当資料が入手できない。どなたかご教示いただければ追加致します。

【サークル・他学部関係ビラ】
日付無し 部落問題研究会「11.8サークル連絡会議に結集し、カクマル糾弾、文連解放、新たなる大衆運動の地平を切り拓け!」。
日付無し ベトナム解放戦争の映画をみる会「革マルの敵対を粉砕し学生大会に勝利せよ」。
日付無し 早稲田大学歌謡曲研究会「都の西北が唄えない」。
日付無し 早稲田大学歌謡曲研究会「思い出すのさ去年の事を-一九七二年デヴューヒット特集」。*先生(森昌子)、男の子女の子(郷ひろみ)、芽ばえ(麻丘めぐみ)の替え歌で革マル、民青を皮肉る。
日付無し 無署名「抗議嘆願書-とりわけ二文当局およびすべての二文学友に訴える」(*山村政明(梁政明)君の抗議嘆願書をビラにしたもの)
日付無し 政経3年15組有志「我々は訴える!」。
日付無し 法11.8行動委「早稲田を総点検せよ」。
日付無し (*民青系 )早稲田大学全学連連絡会議、法学部学生自治会、教育学部学生自治会、社会科学部学生自治会、政経学部学友会「殺人者革マルによる早稲田の殺人大学化を許すな!今こそとり戻さん!自由の学府早稲田を!!」

【「早稲田キャンパス新聞」考】
 「川口大三郎君追悼資料室」の「早稲田キャンパス新聞川口君事件記事タイトル一覧」を参照する。
 「早稲田キャンパス新聞」は、早稲田大学キャンパス新聞会によって、昭和37(1962)年6月25日から昭和55(1980)年7月1日まで、当初は月二回刊、後に月一回刊で240号まで発行された学生新聞である。川口君事件当時、早大内の学生新聞として、革マル派色の濃い早稲田大学新聞、勝共連合系の早稲田学生新聞があったが、「早稲田キャンパス」は無党派、リベラルの立場であった。「早稲田キャンパス」終刊を記念して刊行された同紙縮刷版編集後記に次の一文がある。
 「図書館でバック・ナンパーを閲覧した。ノンブル打ちの都合で、号数、発行年月日、ページ数を一号ずつチェックしていくと、 七二年から三年にかけて何号かが抜け落ちていた。調べてみると、いずれも <川口君事件>を扱った新聞だった。当時、倉庫に保存されている新聞が何者かによって盗まれたそうだ。中には刷り上がったばかりのものも含まれていたと聞く。歴史は偽造され歪曲される。川口君事件を自称「反スタ」党派は葬り去ろうとしたのだ。単にアイロニーではすまされない問題である」。
 川口君事件関連記事は次の通り。
167号 1972.11.10 連日糾弾集会続く
川口君リンチ殺害事件ルポ/川口君事件をめぐって
168号 1972.11.25 六学部で臨時執行部選出
自主的自治会運動をめざして
論説/いま、問題の<根> 反ブロック主義の立場 
11/17大学当局告示を発表 学生大会にはロックアウト攻勢
一文当局学生大会を認めず
169号 1972.12.10 (第四回キャンパス文芸賞特集)
関連記事なし
170号 1972.12.25 (受験特集号)
川口君事件から-発言二つ
171号 1973.1.10 (受験特集号)
172号 1973.1.25 (船上大学特集) 
関連記事なし
173号 1973.2.10 更に混迷続く学内状況 武装衝突、機動隊常駐さる
視点/混迷に抗して 負性を照射する視点
174号 1973.3.10
座談会/川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの <虐殺糾弾>の原点
 第一文学部自治会二J行動委員会N君(原文は実名、以下同じ)、第二文学部学生自治会臨時執行部K君、政治経済学部学生自治会執行委U君、全学行動委員会(準)H君、ワセダ統一救対I君
175号 1973.3.25 座談会/川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの(続き)
176号 1973.4.10 4.4革マル派16号館乱入 鉄パイプで武装、負傷者出る
ルポ4.2 4.2集会実行委入学式介入 
<総長団交>追及-当局入学式中止
視点/再び他者との関わりを
座談会 川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの(続き)
177号 1973.4.25 総長団交実現さる 17日再団交を確約す 全理事、学部長の出席を要請
一文・二文学生大会成立 総長団交要求を決議
178号 1973.5.10 全学総長団交流れる 当局、団交確約を破棄 
5.17革マル派、学内制圧
179号 1973.5.25 法自執行部改選さる 再び民青系路線
「負けるな早稲田」集会開かる 豊島公会堂に650名 自衛武装問題、路線分岐鮮明に
教育学部の選管委結成さる
181号 1973.6.25 6.14早朝機動隊導入 当局学内管理強化を意図
社学自治会費革マル系常任委へ下る
早稲田祭を巡る動向
182号 1973.7.10 新執系、文学部で武装情宣 
7月13日革マル派、集会を襲撃
「早稲田解放集会」開かる 党派の問題全面に
7月16日、5・17被告団第一回公判開かれる
論説/早稲田祭開催を巡って 「個」を基点に文化的発現行為を
183号 1973.9.10 新学期 学生を拒絶する当局 異例の集会禁止措置 恒常化される「不測事態」
5・17被告団第二回公判開かれる 浮き彫りにされる逮捕の不当性
184号 1973.10.10 押村理事と記者会見 早稲田祭当日ロックアウトありうる
山村政明=梁政明の<死> 連帯の回路をめぐって
5・17被告団第三回公判 裁判官、起訴理由の釈明求む
視点/<現実過程>に真摯であれ 暗黒の彼方への出発
185号 1973.11.10 11.8当局ロックアウト強行 川口君虐殺一周忌 機動隊常駐化す
11.21~26 早稲田祭開催さる
法学部祭開かれる
5・17被告団第四回公判 結審近し 検察側曖昧な態度に終始す
186号 1973.12.10 (第五回キャンパス文芸賞) 
関連記事なし
187号 1974.1.10 (受験特集号)
川口君事件を契機とした大衆運動と私達-私
188号 1974.2.10 (船上大学特集)
189号 1874.3.10 関連記事なし
190号 1974.4.10 (新入生歓迎特集)
関連記事なし
191号 1974.5.10 5.17裁判判決下る 拘留二十日 未決勾留期間と相殺




(私論.私見)