「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元、栄和3)年.11.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「党派間ゲバルト」考上極めて貴重な、革マル派が文字通りの大衆的糾弾を受けた初事例がある。早大キャンパスで巻き起こった「川口君虐殺追及集会」の一部始終の経過がそうである。どなたが考察したか不明であるが、インターネット上に「川口事件」がサイト化されている。著作権等のこともありリンク紹介に留めていたが、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感1」、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感2」、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と語られてしまうことへの異和感・資料編」のようにいつのまにか消えてしまうこともある。そこで、れんだいこが手を加えつつ取り込んでおくことにした。その後、瀬戸宏作成・管理「川口大三郎君追悼資料室」、事件当時の早大一文再建臨時執行部、執行委員会の委員長にしてその後朝日新聞記者、ジャーナリストの/樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋、2021年11月8日発刊)が登場しており参照した。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【事件の発端】
 「リンチ殺害された川口大三郎君」 1972(昭和47).11.9日付け毎日新聞、東大に遺棄された事件の最初の報道
 1972.11.8日、早稲田祭が終わった二日後、東大病院に一人の死体が遺棄された。9日朝、東京文京区本郷の東大付属病院構内の外来診察病棟と内科研究棟の間にあるアーケード下の歩道で、パジャマ姿の若い男が死んでいた。病院に氷を届けにきた配達人が発見、直ちに警察に通報された。入院患者に該当者がなく、全身に棒で殴られたような傷跡があった。本富士署は裸足(はだし)の足の裏がきれいであることなどから、別の場所で殺されて運ばれた疑いが強いとして、警視庁の応援を求め捜査を開始した。男は25、6歳、身長170センチぐらい、鼻が高く、髪が長い。真新しい紺と薄緑の縦縞のパジャマを着ていた。胸、腹、背中に20数カ所の擦過傷、内出血があり、首に6カ所、右腕にも1カ所同じような傷があった。(毎日72.11.9)

 この遺体の身元は直ぐに判明し、中核派のシンパであった早大文学部2年生の川口大三郎(20歳)氏が早大文学部キャンパスで革マル派の防衛隊のパトロールで捕まり、8時間にも及ぶ集団リンチ致死されたことがキャンパスに伝わった。その詳報として、「中核派シンパとして捕捉され、革マル派の自治会室である文学部の教室へ連れ込まれ、タオルで目隠しされた上、針金で両手首を縛られてイスに座らされ、角材、バット、竹ざおなどでめちゃくちゃに強打され、7時間以上リンチを受けた挙げ句ショック死」したことが伝わってきた。

 検視によると、「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」(同)という凄惨なものであった。
(私論.私見) 川口君の死体はなぜ東大付属病院構内に置かれたのか
 「川口君の死体はなぜ東大付属病院構内に置かれたのか」。こう問われることはない。しかし私のアンテナが作動する。川口君は蘇生の可能性があって東大付属病院構内に置かれたのなら分かる。しかしそうではなかろう。ならばなぜ東大付属病院構内なのか。それは、本件を本富士署が仕切るべくセットされ、その管轄内に置かれたことを意味する。こう述べてもピンと来ない者が殆どだろう。しかし左派運動史研究家ならピンと来るものがある。この線の繋がりを問うのが本稿の趣意ではないので、ここではこれ以上は言及しないことにする。

【川口君のプロフィール】
 川口君のプロフィールは次の通り。

 1952(昭和27)年、静岡県伊東市に生まれ。三人兄姉の次男で小学校五年生の時に父親が病死し、以後母親に育てられる。伊東市立東小学校、同南中学校、静岡県立伊東高校を卒業。

 1971(昭和46).4月、早稲田大学第一文学部に入学する。入学後、学生運動や部落解放運動などに参加している。早稲田の第一第二文学部自治会執行部を握る革マル派とは馴染まず、1972(昭和47)年頃、中核派の集会に参加している。まもなく中核派にも失望し、その感想を級友や母親に語っている。また、早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)や早稲田精神昂揚会とも接触があったと云う。中核派は「全学連戦士・川口大三郎同志」などと追悼しているが濃厚な関係は認められていない。

【革マル派のキャンパス暴力支配情況考】
 当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。大学当局は、革マル派のキャンパス暴力支配を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していた形跡が認められる。第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
 「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」。
 「革マル派が早稲田大学で台頭し、第一文学部自治会の主導権を握ったのは1962年頃だったとされる。それ以前、つまり、「60年安保」で社会が大きく揺れた時代までは、第一文学部の学生自治会は、「構造改革派」と呼ばれたグループが多数派を占めていた。暴力革命による権力奪取ではなく、構造的な改良の積み重ねによる社会主義実現を目指すグループで、当初は日本共産党内の分派的な存在だった。全盛期には、第一文学部だけでなく、政経学部、教育学部の各学生自治会、早稲田祭実行委員会などでも主導権を握っていたが、60年安保闘争が敗北に終わった後の衰退期に、その空白を埋めるように革マル派が急速に勢力を伸ばしていった」。

【当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」】
 「1973年10月21日監禁致死の容疑で革マル派4人を逮捕」末尾の当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」を転載しておく。
 「僕らのフラクションに当時、漫画研究会の1年生が来ていたんです。その学生から連絡をとってきて、北新宿の柏木の部屋で行っていた機関紙の読み合わせ会議に参加させていた。その学生が川口君と同席していた。72年の11月か12月に出された革マルの社会科学部学生大会議案書に『川口は柏木の中核派アジトで会議に参加していた』と書いてありました。ここまでわかっているということは、あの学生が革マルに密告したということ、それ以外に考えられない訳です」。
 「過去にも何回かあって、70年の3月でしたか、前進社に二文の女子学生が『中核派の合宿に参加したい』と電話してきました。我々は信用して、筑波山麓で行った合宿に参加させました。そこから帰って4月に僕が学校に行ったら、革マルに捕まって教育学部の自治会室に連れ込まれた。もう一人、反戦会議のメンバーも捕まった。私は第二学館の死守闘争で逮捕されて拘置所に入っていますから調べれば中核派とわかるんだけれども、なぜもう一人の彼までがと不思議でしたが、革マルの機関紙『解放』に合宿の帰りのバスで我々が歌った唄まで描いてあったんで、その後連絡がつかなくなった女子学生がスパイだったとわかりました」。

(私論.私見)

 「川口君のプロフィール」の末尾で、「中核派は『全学連戦士・川口大三郎同志』などと追悼しているが濃厚な関係は認められていない」と記しているが、この証言の裏が取れている限りにおいてではあるが、当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」によると、中核派機関紙の読み合わせ会議に参加していたことになる。こうなると、ノンポリと云うより中核派シンパ&中核派全学連戦士未満の段階にあったとするのがより適切かも知れない。仮にそうであれ、キャンパスの暴力的且つ諜報支配が許されることにはなるまい。

【川口君の拉致前後の様子】
 内ゲバの時代」、「内ゲバ殺人の時代」に、川口君が捕捉される状況につき貴重な情報が開示されている。これをれんだいこ風に纏め紹介する。
 川口君は、死亡後に、中核派によって「川口君はシンパだが構成員ではない」と明らかにされている。実際に特定の左翼党派に所属していた訳ではなかった、云うなれば政治意識の高いノンセクト状態であったように思われる。その彼が、事件の1週間ほど前に、第一文学部2年J組のクラス討論会で、「革マル派の運動方針は日和見的でおかしい。中核派の方がいい」などと発言している。1970(昭和45)年、本事件の2年前の8.4日、革マル派の東京教育大生・海老原俊夫(21歳)君が、中核派により法政大構内で殺害されて以来の両党派の対立の激しさを知れば、川口君の発言はかなり危うい発言であった。川口君は当時その情況が分からないほどの未だノンポリであったと云うことであろう。この情報が革マル派に伝わる。革マル派は当時学内にこういう諜報網を敷いていた。かくて川口君は「危険分子」として革マル派に付け狙われるようになった。

 1972(昭和47).11.8日昼頃、早稲田構内で革マル派の集会が開かれていた。午後2時頃、川口君は体育の授業を終え、テレビ研究会の部室から友人3名と教室へ向かっていた。話しながら文学部前の校庭を通リ抜けようとしていたところへ革マル派の学生5名が駆けつけ、「話があるから来てくれ」と川口君を取り囲んだ。川口君が断ると両腕を掴んで127教室に連れ込まれた。

 友人3名が連れ戻そうとして教室前に駆けつけると、革マル派学生3名が立ちはだかり、「これは階級闘争のレベルの問題だ。階級闘争を担っていないお前達には関係ない」などと怒鳴り押し問答となった。革マル派学生10名が援軍に駆けつけ、「がたがた言うな」と川口君の友人に殴りかかった。この様子は多くの学生や教授に目撃されていたが、係わり合いになるのを恐れて眺めるだけだった。その後、テレビ研究会の部室にまで革マル派は押しかけてきて、「二文自治会はテレビ研を認めない、自己批判しろ」と脅迫している。暴力と諜報でキャンパスを支配する革マル派に一般学生が手出しできる訳もなかった。

 午前7時20分頃、早大生が、牛込署に「友人の川口君がいなくなった。8日夜、早大構内でトラブルがあったようで、このトラブルに関係したらしい」と110番通報している。川口君と親しいクラスメイトの中には自分も革マル派に殺されるのではないかと帰郷する者もいた。


 この間、川口君と一緒にいた友人が午後3時頃、文学部教授に連絡し、久米助教授と学生副部長が127教室を訪れたが同教室入口で革マル系学生4、5人がピケ(ピケット、人間の盾)を張り、入れなかった。午後5時、午後10時の2回にわたり第一文学部教授らが同教室に近づいたが、ピケ隊の一人は「11時半頃に車が来たらピケはやめる」といい、9日午前零時半頃、四度目に同教室に行ってみると学生らの姿は消えていた。同教室内は机などが乱れて格闘したあとがあり、隣の128番教室ではタタミ2枚分ぐらいにわたりコンクリートの床を水で洗った形跡があった。この間、大学側から警察への届け出はなく、9日朝も警察が問合わせるまで大学側は連絡していない。

 犯行に関与したとみられる革マル派は7名で、ほかにカローラ運転の1名を加えた8人が関わっていたとされる。川口君は127教室とつながっている128教室で縛られて角材などで殴打され続けられ、推定時間午後9時から午後11時の間に絶命した。翌11.9日午前0時半、127教室の前にカローラが止まり、ようやく教室の不法占拠が解除されたが、誰も残っていなかった。

 警察の実況見分で、川口君がリンチを受け、絶命したのは、最初に連れ込まれた127番教室ではなく、隣の128番教室だったことがわかった。128番教室は革マル派が普段から自治会室として使用しており、そこから大量の血痕などが検出された。同本部は川崎市に住む川口君の姉に死体の写真をみせたところ、「本人だと思う」といっており、同本部は川口君に間違いないとしている。川口君は8日昼ごろ、セーターにGパン姿で下宿先を出たままだった、という。
 川口君の親友、二葉幸三氏による証言は次の通り。
 概要「翌11.9日午前10時頃、下宿先に『本富士警察署の者です』と名乗る電話があった。川口君の遺体はこの日の早朝、東大病院の前で見つかっていたので、東大病院を管内に持つ本富士署からの電話だった。本富士署刑事は『二葉さんですね。ちょっと警察に来てもらわないといけないので、連絡を待ってください』と言った。その直後、牛込署からも電話がかかってきた。『すぐに牛込署へ来てくれるか』と言われた。川口のことですか?と尋ねると、『来てくれたら、話す』と言うことだった。胸が締め付けられるような思いで下宿を出て、電車とバスを乗り継いで牛込署へ向かった。牛込署に着くと、取調室のような部屋に案内された。そこで、刑事に聞かれるまま僕の前日の行動を話した。その後、刑事が『ちょっと、確認してほしい人がいる』と告げ別室に連れて行かれた。その部屋の片隅に、白っぽいシーツに覆われベッドに寝かされている人がいた。遺体だと直感した。刑事が顔の部分のシーツの覆いを取り、『この人は、川口大三郎さんですか?』と尋ねた。頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった。僕は間違いなく川口ですと答えた。朝、警察から電話があった時点で、川口は殺されたのだと思っていたので、川口の死に顔を見せられた時も、自分は冷静だと思い込もうとしていたはずだった。それから2時間ほど僕の記憶は飛んでいる。たぶん牛込署を出た後、茫然自失の状態で早稲田大学の方へ歩き、文学部の前を通って、さらに歩き続けていたのだと思う。川口君がお姉さんの嫁ぎ先の川崎市の家に下宿し、彼女の夫が経営している建設業の会社でアルバイトもしていたことを思い出し公衆電話から電話すると、お姉さんが『母もここへ来ています。母に代わります』と言った。すでに警察から連絡が入っていて、お母さんは伊東市の自宅から出てきていた。お母さんに今からそちらへお伺いしてもいいですか?と聞くと、お母さんは『ぜひ、来てください』と言ってくれ、新宿から小田急線に乗り、登戸駅で降りて電話し、その案内に従って初めてお姉さんの家を訪ねた。お姉さんのご主人もいた」。
(私論.私見)
 「二葉幸三氏証言」の「(川口君の遺体には)頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった」との下りは解せない。どういう意味なんだろう。

【事件直後の革マル派の対応】
 11.9日、午前12時半、革マル派が声明を発表し、「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。これにより、川口君は、内ゲバ殺人に巻き込まれて殺されたことが判明した。声明はチラシとして活字印刷され、学内で大量に撒かれた。声明文の冒頭は以下の通り。 
 「11月8日、中核派学生・川口大三郎君の死去という事態が発生した。この事態は、彼のスパイ活動に対するわれわれの自己批判要求の過程で生じたものであった。それゆえわが全学連は、この不幸かつ遺憾な事態にたいし、全労働者階級人民の前にわれわれの責任ある態度を明らかにすることが階級的義務であると考える。11月8日、全学連は、政府支配階級が強行した相模補給廠(神奈川県相模原市にある在日アメリカ陸軍の補給施設=筆者)からの戦車搬出にたいして断固たる緊急阻止行動を展開するために、早稲田大学に結集し総決起集会を実現した。ところがこの過程で、われわれは、早大構内における中核派学生・川口大三郎君のスパイ活動を摘発した。『革マル殲滅』を呼号しつつ姑息な敵対をつづけてきた中核派の一員としてスパイ活動を担った彼川口君にたいし、われわれは、当然にも原則的な自己批判を求めた。そして彼はスパイ活動の事実を認めた。それゆえわれわれは、さらに、彼のスパイ行為そのものへの誠実な自己反省を追及した。 ところがこの過程でわれわれの意図せざる事態が生じた。彼は、われわれの追及の過程で突然ショック的状況を起し死に至ったのである」。

【本部キャンパス前で革マル派糾弾集会始まる】
 11.10日、事件が伝えられるや、早大生は「もはや我慢ならない」と立ち上がった。急遽設営された本部キャンパス前での革マル派糾弾集会に続々と集まり始めた。積年の怨みが堰を切ったかのような動きが巻き起こった。それほど一般学生をも含めた怒りが凄まじかった。それまでの革マル派の暴力支配が音を立てて崩れる瞬間であった。一文では15の授業が休講となり2Jなどではクラス討論が行われる。以降、連日糾弾集会が続いて行くことになる。

【革マル派の馬場委員長が辞任表明】
 11.11日午後、革マル派全学連緊急中央執行委員会が招集され、馬場マル学同委員長が、「全学連の歴史に汚点を残した」と述べ辞任表明。しかし、「権力側の裁きを受けるようなことはしない」と述べ司直の手にかかることは拒否した。前川健(23歳、北大農学部4年)が委員長代行に就任する(翌日、記者会見をして公表)。

 同日、革マル派は、いかにも同派らしい対応であるが、大隈講堂前に「川口君追悼」の立て看板を出し、「川口の死を追悼する」のアジ演説する中、ビラ配りを敢行した。
 革マル派全学連/馬場委員長の辞任の際の特別声明は次の通り。
 「左翼戦線内部での党派的闘いにおいても―まさに中核派の同志海老原・水山虐殺にたいしてわが全学連が断固たる反撃行動をくりひろげたことに示されるように―ある特殊な政治力学関係のもとでは、他党派の組織を革命的に解体していくために、イデオロギー的・組織的闘いを基軸としつつも、時に暴力的形態をも伴うかたちで党派闘争を推進する場合があることを、単純に否定することはできない」。
 「こうした特殊な暴力をあえて行使しなければならない場合には、対国家権力との緊張関係のもとに、かつ〈何のために・いかなる条件の下で・どのように〉という明確な理論的基礎づけのもとに、まさに組織の責任の下に組織的に遂行されねばならない。そしてその際にも、マルクス主義の原則=プロレタリアート自己解放の理念から逸脱するような行為は決してとりえないのである」。
 「このような確認にもかかわらず、川口君の死はひき起された。この具体的な結果からするならば、これに携わった全学連の一部の仲間たちは、このような原則にのっとっているという固い確信にたちながらもその思想性・組織性の未熟さのゆえに、事実上、原則からはみ出すような行為をおかしたものといわざるをえない。たとえそれがわれわれ自身が全く予期しなかった突発的なショック的状況のなかでの死であったとしても、この死がわれわれによる自己批判要求の過程で起きたものである以上、その責任を回避することはできないのである」。

【村井資長総長、川口君の通夜に5分間出席】
 11.10日早朝、大学当局が、構内11カ所に「再びこのような事件が発生しないよう全力をあげる決意」を示した告示を掲示。その中で昭和44年以来初めて「革マル派の者の行為によって」と、特定のセクト名をあげて非難した。

 夕刻、村井資長総長は文部省を訪れて事件の経過と大学の対応を報告。夜遅くになって、村井資長総長が渡辺真一学生部長と2J担任の長谷川良一教授を伴って川口君の通夜に赴く(5分で退出)。村井総長は、ありきたりなお悔やみの言葉を述べた後、「文学部だから、こんなことが起こった。文学部はひどい状態だった」と話し始めた。 まるで他人事のような評論的な口ぶりに対して、二葉君が、「そんなこと、言っちゃいけないでしょ。あなた、大学の責任者だろ。大学の責任者として、学生の命を守れなかったんだ。無責任なことを言っちゃいけない」と詰問したところ、村井総長は黙ったまま辞去したと云う。

【川口君の葬儀】
 11.11日、川口君の姉の家で川口の葬儀があった。川口君の級友10名近くが出席した。葬儀が終わると、川口君の母が涙ぐみながら挨拶された。

【一般学生が革マル派に責任追及始める】
 11.11日正午頃、一般学生300名が大隈講堂前で集会を始めた革マル派学生20名を取り巻き、革マル派学生の胸ぐらを掴んで涙声で怒る者も現れた。この時、「党派抗争なら人を殺してもいいのか」と糾弾されると、革マル派は、「我々の町田君、海老原君も殺された」などと居直り論争となった。一般学生が、「問題をすり替えるな」、「川口君は中核派ではなかったというではないか。してみれば、自治会委員が自治会員を殺したということになる。その責任をどうとるのか」等々と詰め寄り、革マル派はその剣幕に圧倒され為すすべなしの事態となった。

【11.13日早朝、2J有志が高田馬場駅頭でビラを配布】
 11.13日早朝、2J有志が高田馬場駅頭でビラを配布。一文、教育でも、革マル批判、集会結集への呼び掛け等のビラが登場。一文では朝から数クラスで討論が行われ、当局は14時以降を休講にした。

【大学当局の対応】
 11.13日、一・二文連合臨時教授会・教員会が開催され、自治会執行機関の活動停止、自治会室の使用禁止、自治会三役7名の処分(革マル派学生2人除籍、5人停学処分)を決定した。大学当局は一・二文自治会三役7名の処分を決定した他、村井資長総長名で「不祥事に関する総長声明」(「11.13声明」)を公表した。

 革マル派学生の処分は次の通り。
田中敏夫 第一文学部自治会委員長 除籍 
若林民生 第二文学部自治会委員長
大岩圭之介 第一文学部自治会副委員長 停学(無期)
金子賢治 第二文学部自治会副委員長
武原光志 第二文学部自治会副委員長
佐竹 実 第一文学部自治会書記長 
竹内政行 第二文学部自治会書記長 復籍を認めない

【革マル派が事件後初めて「11.13反省集会」開催】
 11.13日正午頃、革マル派系の第一文学部自治会、全学中央自治会が文学部校舎中庭で、事件後初めて「11.13反省集会」(「11.8の事態に関する態度表明全学集会」)を開いた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって、革マル全学連委員長を辞任した馬場素明(第一文学部4年)が、「徹底的に自己批判し深く反省する」と訴えた。約100名の同派系学生が黙ったまま耳を傾けていた。
 同時刻、本部大隈銅像前キャンパスで、民青系の「革マル糾弾、暴力追放集会」が開かれた。

【一般学生が文学部構内で革マル派糾弾開始】
 11.13日午後1時頃、「正義派一般学生」(まさに一般学生であった!)約300名が革マル派の集会になだれ込み、革マル派幹部に本部校舎で集会を開くべきだと要求、革マル側はそれを拒否し文学部構内の記念会堂前広場なら応ずると回答した為、やむなく記念会堂前広場で「川口君追悼、事件謝罪集会」が始まった。この時、約2000名が集まっていた。事件への関心の高さが分かる。

 次第に、「これは全学的問題であり、本部キャンパスで集会を開くべきだ」との声が出始め、これに対し、革マル派の最高責任者・田中敏夫全学中央自治会委員長が「その必要はない」と拒否したため押し問答となった。一般学生の怒りは凄まじく、革マル派幹部をムリヤリ連れ出そうとし始めた。革マル派はキャンパスを逃げ回り始めた。一般学生がこれを追い駆け捕捉、取り押さえるという事態となった。
 この頃既に、一般学生が早稲田通り馬場下交差点まであふれだしており、その中を革マル派幹部6名の両脇を押さえたまま本部キャンパスに連行した。早大学生は、革マル派の拠点・文学部構内での「11.13反省集会」を許なかったことになる。この過程で、吉本孝男など革マル派学生2名が3週間のけがをしている、と云う。
(私論.私見)
 「革マル派幹部6名連行者グループ」の中に、かって同じアパートに住んでいたれんだいこ顔見知りの文学部の方が居た。私がそのアパートを退去するまでの間、何度か居酒屋で食事をした仲で大抵はスポーツ中心のよもやま話をしていた。その彼が異常な興奮で牽引していた。忘れられないエピソードの一つである。

【11月13日正午、早大生万余の決起。早大の一般学生怒り、革マル派を捕捉し大衆糾弾集会開く】
 (「内ゲバの時代」、1.14日付け毎日新聞等を参照する)
 11.13日午後2時過ぎ、一文から田中敏夫全中自委員長等6名の革マルを連行、急遽本部キャンパス大隈銅像前(図書館前)で革マル派に対する前代未聞の大衆的糾弾集会が始まった。「川口君追悼集会」となった。約3000名の早大生が取り囲み、更に増えていった。革マル派幹部6名が壇上に立たされ、自己批判せよの罵声が浴びせられていった。日頃の怒りが爆発した吊るし上げ集会となった。革マル派学生の胸ぐらを掴んで涙声で怒る者も現れた。

 第一文学部自治会の田中委員長が代表して答弁し、「証拠があるなら、それを見せろ!」と追及する声に対して、「スパイ行為の事実を完全に立証、川口君の手になるメモを証拠物件として把握している」が、「権力との緊張関係」と「高度な政治力学における特殊な問題」が介在するので川口君のスパイ行為に関する事実の内容は明かせないと居直った。この時、「党派抗争なら人を殺してもいいのか」との糾弾の声が上がると、「我々の町田君、海老原君も殺された」と応答した。一般学生が、「問題をすり替えるな」、「川口君は中核派ではなかったというではないか」、「してみれば、自治会委員が自治会員を殺したということになる。その責任をどうとるのか」等々と詰め寄り、革マル派はその剣幕に圧倒され為すすべなしの事態となった。

【11月13日深夜、「革マル派糾弾集会」が夜を徹して続行される】
 怒号が一段落したことにより議長団が選出され、順序立てて責任追及していくことになった。「川口君をスパイだとする証拠の提示」、「自治会執行部、文連常任委、早稲田祭実行委の辞任」を求めて回答を迫った。議長団の一人が、改めて川口君を殺したことの釈明を求めた。田中委員長はしどろもどろになりながら、「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない」と返答した。これに対し、「その程度の反省で済むか」、「二度と一般学生を殺さないとの確約書を書け」、「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び交う。議長団は、日頃の革マル派による暴力支配を縷々糾弾し始め、「川口殺害の責任を取ると言った以上、革マル派は自治会、文連すべての役職を辞任すべきだ」と迫った。革マル派が「こういう形で責任を取る事を拒否する」などとしたため、更に激しく罵声を浴びることになった。マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さなくなった。催促されてしゃべり始めるや、たちまちヤジに包まれた。6名はもはや発言もならず壇上に立たされ続けた。次々と一般学生が発言を求め、日頃の革マル派の暴力支配の実態を批判していった。
 夕方になって学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なりとなった。大学当局は21:00以降、集会解散・閉門の警告を繰り返したが、「革マル派糾弾集会」は容易に鎮まらず、夜を徹して続行された。各党派の代表による革マル派批判が為されたが、日頃の鬱憤を晴らそうとする一般学生の発言が引きも切らず相次ぎ、同感の拍手がうねりだした。警視庁機動隊員200人が待機する中、抗議集会は夜を徹して続いた。革マルは黙りこくるばかりとなった。結局、革マル派糾弾、責任追及集会は14日朝まで延々18時間続いた。徹夜組約500名その他入替わりの者も含め約1000名が取り囲んでいた。れんだいこもこの中の一人として夜を明かした。
 集会は、川口君のスパイ活動とされる根拠を示すこと、各学部自治会・文連・早稲田祭実行委員会の執行部辞任を要求して革マルとの押し問答が続くなかで、事実経過の究明、執行部のリコールなど「六項目決議」を確認した。

【大学当局―警察連合が革マル派を救出】
 この間大学側は、「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請している。初めは「学生を刺激するだけ」としてしぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に応え、14日午前8時、機動隊が早大構内に入り、「寒夜に17時間の追及」を受けていた革マル幹部学生6名と一般学生にまじっていた1名の計7名を“救出”した。警察当局は、6名を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。
(私論.私見) 「KKT連合」考
 ここに、警察当局が、学生運動内政治党派の一セクトを「救出」するという珍芸が刻印された。この「栄誉」にあずかった第1号として革マル派が刻まれた。これは長い学生運動の歴史の中で初めての出来事ではなかったか。積年の暴力支配の元凶革マル派、あっさり機動隊導入に踏み切った大学当局、これを援軍する警察という相互関係が露呈した。早大生は、今度は大学に対する抗議集会を続けていった。以降、キャンパス内に、「KKT連合」(革マルのK、権力のK、大学当局のT)の認識が広がっていった。

【革マル派の自己批判声明が為され、そのマヌーバーに学生が更に怒る】
 革マル派が自己批判声明を発表した。しかし、その内容が更にキャンパスに怒りを呼んだ。声明の内容(『』部分が怒りを呼んだ)は次のようなものであった。
 概要「我が全学連の諸君の川口君に対する自己批判要求は正しかった。が、この追及過程で『我々の意図せぬ事態』が現出した。川口君は『ショック的症状』を突然起こし、死亡した。『一部の未熟な部分』によって、今回の事態は生み出された。『このような意味において』、我が全学連は率直な自己批判を行う。その責任の一端を『全学連委員長の辞任』をもって示し、革命的学生運動の前進に向けて闘い続けることを表明する」。
(私論.私見) 「この時の革マル派の弁明について」
 この弁明は、それまで革マル派が口にしていた「革命的暴力論」とも整合しておらず、というかそのご都合主義をあからさまにしており、自派のゲバルトは聖であるが、今回はヘマをやったのでその限りで反省するという論理でのトカゲの尻尾切り総括にしか過ぎなかった。学生大衆はそのペテン性を見破り、更に怒り、追及していくことになった。

 ところで、下手人がその行為を明らかにせず、被害者が突如「ショック的症状」を起こし死亡したなる論はどこかで聞いたことがある。宮顕の戦前のリンチ査問事件での小畑中央委員死亡に纏わる見解と瓜二つである。革マル派と宮顕との直接関係はなかろうが、特高当局の弁明とも酷似していることを考えれば、何やら納得させられるものもある、というのがれんだいこ見解だ。そういう意味でも、「宮顕の戦前の小畑中央委員査問致死事件」は徹底的に解明され、我々は宮顕論法批判に習熟しておかねばならない、とつくづく思う。

 ちなみに、11.23日付け朝日新聞は、革マル派の最高幹部・土門肇の記者質問に答えての次の談話を記事にしている。

 「こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力的行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である」。
(私論.私見) 後のボア理論に繋がる嫌らしい論法考
 この嫌らしい論法を見よ。次のような論理構造とお見受けする。1・我々(革マル派)は正しい。2・故に、敵対党派に対する武装反撃は是認される。3・我々の暴力はイデオロギー闘争を補助するためのものである。4・相手を反省させるため補助的方法である。5・この論法を他の党派が使うことは許されない。6・なぜなら、他の党派は正しくないからである云々。この論法に辟易しない者がいるとしたら相当オツムがヤラレテイル。しかしそれにしても左翼運動には異筋な権力論法であり過ぎる。

 2005.3.30日再編集 れんだいこ拝

【各党派が続々入り込む】
 この頃、早大キャンパスには久々に各党派が現われ、一般学生と見受けられていた学生の一部が歓呼の声でこれを迎える場面が見られた。特に、それまで政経学部を拠点とし、1969年のゲバルトで敗退して以来革マル派の暴力支配の前にキャンパスを追われていた社青同解放派の登場を歓迎する動きが目立った。中核派、ブント諸派のレポとおぼしき学生も相当数入り込んできていた。以降、革マル支配を崩そうとする党派闘争も絡み、三つ巴、四つ巴の死闘が演じられていくことになる。
 れんだいこは、「社青同解放派の登場を歓迎する動き」について、「検証学生運動下巻」の131Pで次のように記している。
 「筆者がこう云い切れるのは『川口大三郎リンチ致死事件闘争』の際の体験から生れている。あの時の鮮烈な印象を伝えておく。革マル糾弾の嵐が吹き交うことにより、キャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現した。中でも政経学部を牛耳っていた社青同解放派が久しぶりに登場した時、それまでいつもアロハシャツを着てジャズ音楽にでも凝っていた風をして、筆者が立看板を出し入れしているのをいつも一瞥して通り過ぎていた顔馴染みが俄かに興奮し、口から泡を飛ばす勢いで歓喜乱舞しつつ迎えた。この時の様子が筆者のまぶたに焼き付けられている。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が歓び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである」。

【11.15日、再々度「革マル派糾弾集会」が開かれる】
 11.15日、糾弾集会。午後2時から事件後3回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000名で行う。革マル派の全学中央自治会前委員長・田中敏夫は、「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」と述べ、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」との確約書にサインすることを拒否。翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。田中前委員長は、「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕もあった。

【11.16日、革マル派が糾弾集会で「党派間ゲバルト不行使確認書」にサインさせられる】
 11.16日、全学世話人会議が「川口君虐殺を糾弾する6項目の一致点と4つの行動原則」を確認。本部前で暴力糾弾集会が開かれ、田中敏夫・一文「自治会」委員長が次のような内容の確認書にサインを余儀なくされた。
 「自治会活動を進める上で意見の対立は、イデオロギー闘争によって解決し、異なった意見に対して暴力による解決は認められない。現在の学生運動にありがちな暴力行為は使わず、正常な自治会活動をすすめるよう努力したい。しかし、支配階級と被支配階級の間における国家権力の暴力には対決していく」。

 学生は拍手で受けとめた。

【11.17日、川口君追悼集会】
 11.17日午後2時、一文2Jクラス主催で川口君追悼集会(於:大隈講堂)が開かれた。壇上には笑顔の川口君の遺影が置かれ、献花する5千人の学生の列が続いた。式が始まる直前、喪章を巻いた田中敏夫前委員長が参列を申し入れ、認められて席に着いた。1分間の黙祷の後、2J代表が声明文を読む。村井総長は欠席、浜田健三理事が村井総長名の弔辞を代読。大学側からの参列者は担任の長谷川教授と浜田理事ら少数。

 午後4時、伊東から川口君の母親・サトさんが到着。会場からあがった「お母さんに謝れ!」の声に田中委員長が前に立ってうなだれた。サトさんは、ハンカチで顔を覆い泣き崩れた。サトさんが登壇し、時折涙で声を詰まらせながら会場を埋めた学生に次のように話しかけた。
 「今日は、大三郎のためにほんとうにありがとう。大三郎がほれにほれぬいたワセダ精神を一日も早く取り戻して下さい。二度と暴力のないワセダを。(中略)わたしは大三郎という宝を失った。その宝をなくしたいまとなっては、余生に希望もなにもありません。しかし、残る余生を、大学当局の怠慢と暴力をなくすためにみなさんといっしょに終生闘っていきます」。

 学生葬の最後、生前「俺は早稲田が好きだ」と語っていた川口君を「都の西北」の大合唱で送った。
 「川口大三郎君追悼学生葬に集まられた皆さんに」と題する「学生葬における一文2年J組のクラス統一声明」は次の通り。
 「私たちの級友、川口大三郎君は革マル派によってリンチの末殺害された。11月8日、川口君は12時過ぎに登校し、体育実技を受けた後、午後2時過ぎ、文学部キャンパスに戻ってきた。その直後、級友とスロープ下において談笑している時、革マル二名が川口君をとり囲み、討論することを理由に自治会室へ連れて行こうとした。それに対し川口君は『討論ならここでもできるじゃないか』と答えた。すると更に数人が来て、いやがる川口君をむりやりに自治会室へ連れて行った。その後、川口君を助けようと駆けつけた級友に対して暴行・脅迫が加えられた。級友数人は川口君の安否を気づかい、9時まで構内で川口君を待っていたが、大学当局のロックアウト体制のため下校せざるを得ず、各自の家で川口君からの連絡を待つことにした。しかし連絡はなく、翌朝川口君はパジャマ姿の死体となって本郷東大病院前で発見された。川口君の身体は鉄パイプ、バット等で殴られたと思われる痕跡が50カ所以上見られ、全身の細胞が破壊され、ただれているという悲惨なものであった。

 私たちは、級友川口君がこのような卑劣なりンチをうけ、20年の喜怒哀楽、思い定めた志、そして何か素晴しいことがあるかも知れず、無いかも知れない未来を断ち切られたことに痛憤と悲憤、何とも名状し難い怒りを覚えている。私たちの知っていた川口君、あの明るさと人一倍の正義感をもった彼が殺されていった。この不条理! そして、私たちが今まで革マルの暴挙を許してきており、その結果、川口君が拉致された時点において、抗議に行くことのみでその他のあらゆる手段を講じ得なかったために、川口君を見殺し同然にしてしまった。このことは、生命のいとおしさに対する感覚すら麻痺させてしまっている私たちの内部にこそ問い返えさなければならない問題である。私たちは、彼の死に対してたとえようもないほどの負債を負っているのである

 ここで私たちは、川口君を知っていた身近な者として、川口君が中核派のスパイであったという何の根拠もないレッテル貼りをされ、殺されていったことに怒りとともに口惜しさを覚えずにはいられない。革マル派は事件直後、「川口君が中核派のスバイ行為をやりそれを我々は集会中に摘発し、自己批判を迫ったが、その過程で突然ショック死してしまった」という、馬場革マル全学連委員長声明なるものを出している。しかしながら、彼らのいう集会は、5時30分から行なわれたという事実と、川口君が連れて行かれたのが、同日午後2時すぎで、集会場の文学部中庭には、当時いかなる集会も開かれていなかったことに着目すれば、 彼らのスパイ行為なるものは全く根拠のないものだということがわかる。そして、私たちは、私たちの知っている川口君がスパイ行為を行なうような人間ではなかったことを改めて断言する。

 私たちが参加した、11月13、14日早朝にかけて夜を徹して行なわれた糾弾集会においても「一切の事実は国家権力との力関係で話せない」と繰り返すのみで革マル派はダンマリ戦法をもって逃げきろうとした。更に私たちの級友が、深夜の寒さ厳しい集会場において命をかけ、あるいは土下座までして『真実を言って川口君の汚名を晴らしてくれ』という誠実な要求に対しても、全く反応を見せず、逆に居直るという革マルの態度を私たちは断乎ゆるすことはできない。

 そして、私たち早大生は、学内において思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除、抑圧してきた革マルの姿勢を黙認し続けたのである。それと同時に、事件当日級友から電話で川口君救出の要請があったにもかかわらず、何らの誠意も示さぬまま放置しておいた当局には私たちと同じ責任があるといえよう。ましてその責任を回避し、当然行なうべき 真相究明を怠り、逆に隠蔽していこうとしている当局の姿勢とは一体何物であるのか。その当局は、11月13、14日にかけての糾弾集会において、革マル派の人間の生命の危険を理由に機動隊を導入した。革マルの人間を救出する過程において2Jの級友にも暴行が加えられたという事実を大学当局はどう釈明するのか。以上の点に基づき、私たちは、今回、級友川口大三郎君がリンチ殺害された事件に対し、今までの私たちの態度そのものを痛苦にとらえ返すとともに、革マル派の思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除・抑圧するという姿勢、及び大学当局の一貫した責任回避を断乎糾弾するものである。


 私たちは、川口君の死に心からの哀悼の意を表するとともに、異なる思想・信条の持ち主をテロ・リンチなどの行為によって排除・抑圧することのない学園を築くことが我々に与えられた課題である。川口君の死をムダにすることなく、今この早大学内で盛り上がろうとしている気運をさらに発展させ、 真の自治会運動とは 何かを追求する運動へ。今こそ全学的に転化させることを決意するものである。

 川口君が生前口癖のようにいっていた言葉『オレは早稲田が好きだ。早稲田をどんなことでも自由に話せるような広場にしていきたい』との言葉を私たち早稲田大学の学生はもう一度、自分の心に問い、新たな力としていかねばならない(1972・11・17)」。

【大学当局の収束宣言「11.17告示」】
 学生葬と時を同じくして臨時学部長会議と理事会を開いた当局は、管理強化を内容とする「11.17告示」を発表した。それによると、暴力追放、人身保護のため「学内での一切の過激な行動には除籍、停学を含む断固たる処置をとるとともに、告訴、告発など法的手段にも訴える」、「不法占拠の場所は、閉鎖する」、「緊急事態発生の場合の通報網を設ける」などの学内の秩序回復策を講じている。翌11.18日、告示された。

 大学当局は、「11.17告示」の補足として、教職員が要求している全学集会などを行う意思はない、学生自治会の再建は学生自身の問題だとして関知しないとの方針を明らかにした。

【11.19日、各学部自治会で革マル派のリコール運動始まる】
 11.18日、引き続き糾弾集会が開かれ、馬場全学連前委員長らが次のような内容の確認書にサインさせられた。
 「リコール運動には暴力的敵対はしない。リコールされれば辞任する」。

 これにより、各学部でリコール署名がスタートする。

 11.22日、早大の第一、第二の両文学部長辞任。


【田中委員長のその後の事件見解】

 11.22日付け毎日新聞朝刊が、田中委員長が取材に応じ次のように語っている記事を載せている。

記者 川口君は君らに自己批判を要求されるようなことを本当にやっていたのか。  
田中 われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている。(中略)しかし母親の心情を考え、また“左翼仁義”からも、これ以上明らかにするのは控えたい
記者 川口君のお母さんにあやまったといったが、その具体的な誠意として殺害犯人を自首させるつもりはないか。
田中 考えていない。自首は権力との闘いに敗れたことになり、自己批判をした意味がなくなる。

【11.22日、革マル派の反攻作戦が始動する】
 11.22日、革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」、「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで、文学部に乱入する。

【11.24―27日、反革マル派と革マル派のせめぎ合いが始まる】
 11.24日、革マル約70名が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マル派の居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マル派の集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか、数名の負傷者を出した。
 11.25日、革マル派250名(全都動員)が、田中敏夫のけがを口実に反撃。
 11.25日、六学部で自主的自治会運動をめざすことを申し合わせする臨時執行部選出。

 11.27日、革マル派全国動員の300名が本部前で集会。


 11.28日、大学当局が全学ロックアウト措置。


【11.28―12.1日、各学部自治会で次々と革マル執行部がリコールされる】
 革マル派が牙城文学部181教室占拠という事態の中で、革マル派や大学当局の妨害をはねのけ、一文学生大会が15号館402教室で゛1410名を集めて開催された。他学部学生4000名が対革マル派警戒にあたり支援した。大会は、1369名の支持で革マル執行部リコール、自治会からの革マル派追放を決議し、自治会再建をめざす臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択した。大学側は「認めぬ」と水を差す。 
 この日夜、社会科学部も学生大会を開催。革マル派が400名で学大粉砕を叫ぶ中、646名中614名の賛成で自治会からの革マル派追放を決定した。
 11.29日、同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル派が鶴巻公園に500名。
 11.30日、本部キャンパス、文学部共に授業再開となった。検問体制のなか、政経学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。
 12.1日、商学部学生大会。法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会の民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられた。

【12.2日、革マル派の個人テロが始まり、これに抵抗する「一文行動委員会」が結成される】
 12.2日、一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足した。革マルの反撃が個人テロにエスカレートした為、これに対抗する一文行動委員会が結成された。

【12.4日、川口君の両親が、革マル派への擁護姿勢を見せる大学当局の責任追及に乗り出す】
 12.4日、川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、次のように訴えた。
 「これまでの大学の発言には何の誠意もない。弔慰金なんか受け取らない。お金より大三郎を返して」。

 大学は村井総長への面会を拒否した。

【12.5日、革マル派学生5名に逮捕状が出される】
 12.5日、「リンチ殺人」事件で川口殺害に関与したとして5名の革マル派学生に逮捕状が出され、全国手配された。

【12.5―6日、反革マル派共同戦線が「総長団交総決起集会」を挙行する】

 12.5日、本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。大学側はこれまで革マル派に及び腰で、むしろ「革マル派とグル」と見られる動きを繰り返していた。先の学生大会の決議も大学側は認めようとせず、革マル派の肩を持つような発言を繰り返して学生の怒りを買っており、この日の総長の対応にも批判が高まった。文学部では、181教室で、浅井・一文学部長ら教授3名の出席で大衆団交が行われた。学部長は「村井総長に団交への出席を要請する」旨の確約書にサインした。

 12.6日、村井総長は約束していた団交を拒否した。


【12.7―8日、政経学部で反革マル派系の新執行部が誕生する】

 12.7日、政経学部も新執行部(3役、常任委)を選出した。

 12.8日、臨時執行部主催で「寒い冬を越すための大コンサート」が開かれる。

 12.8日、村井総長雲隠れ。学生乱入。会見すっぽかし。
 12.9日、村井総長が顔みせ、早大総長やっと会見。学生との対話考えている云々。
 12.9日、教職員有志が川口君に弔慰金。

【12.9日、冬休みに入り反革マル運動が小休止する】
 12.9日、冬休みに入る。これと同時に川口君事件を奇禍として始まった反革マル運動も小休止となった。

【12.11日、革マル派のメンバー2人が警察に逮捕される】
 12.11日、事件関係者の革マル派メンバー2名(K、T)が早大前の革マル派デモに参加する形で現れ、警察に現行犯逮捕される。「組織守るため出現?」とある。樋田毅・氏の「彼は早稲田で死んだ」が次のように記している。
 「しかし、彼らは取り調べに対して、『完全黙秘』を貫いたため、二葉さんらへの暴力行為についてのみ起訴され、肝心の川口君が殺された事件については立件されないまま釈放されることになった」。
 12.30日、早大リンチ殺人の2人が黙秘のまま起訴された。

1973(昭和48)年

【1973.1.7―8日、反革マル派連合「早大行動委」が結成される】
 1973.1.7日、全学前段階総決起集会。
 1.8日、年明けのこの日、全学総決起集会が開かれ、反革マル派連合の「全学行動委員会」(早大行動委)が結成される。以降、黒ヘルを着用した。

【反革マル派セクトが次々と登場し始める】
 この頃、かつて政経学部を拠点としており、革マル派との党派闘争に敗れ追放され、この当時、神奈川大学を拠点としていた社青同解放派、ブントが革マル派追及の波に乗じてキャンパスに登場するようになり、革マル派との本格的抗争に入り WAC(早大行動委員会)に助太刀する。中核派のレポも頻繁に登場していたが高田馬場駅前集会までが限度でキャンパス登場はしていない。

【民青同の行動が急速に沈静化する】
 当時、7自治会が存在し、その内の6を革マル派、1の法学部自治会を民青同が握っていた。川口君事件以降、民青同は革マル派追放の闘いに共同してきていた。しかし、全学行動委員会(早大行動委)が結成された頃から、民青同の革マル派糾弾運動が潮を引き始めた。
(私論.私見) 「民青同の戦線撤退」について
 これも奇怪な動きであった。れんだいこの知り得た情報(確か風邪で病院に出向いた際、当時の早大民青同幹部と偶然に待合室で出会い、その時の手振りを交えながらの直言である)によると、「上からの指示で手を引くことになった」と云う。民青同が運動から引くことにより早大行動委が裸になり、結果的に「早大解放の闘い」が挫折することになる。この現象を如何に見るべきか。共産党中央指示は、結果的に革マル派の窮地を救ったことになる。共産党中央は、早大が学生運動のメッカになるよりは革マルの暴力支配による他党派締め出しの方を良しとしていたことになる。これが裏の実態であったことになる。れんだいこの日共党中央批判は、この時の動きの変調さ等々から下地が醸成されている。

【1.11―16日、早大行動委が、各学部自治会の奪権運動に取り組み始める】
 1.11日、政経学部、学部団交。
 1.12日、団交要求集会。
 1.13日、一文で自治委員選挙告示、革マル派のバリケード突破し、選挙。
 1.14日、各学部の自治会委員選挙で小ぜり合い。
 1.16日、政経学部で学部団交。800名の政経学部学生と学部による初団交が大隈講堂で開かれた。学部当局は、反革マルの自治会(学生5500人)が学生の総意により組織されたものとは認めないと突っぱねた。

【1.17日、革マル派の反攻とテロにより「早大行動委」から負傷者が続出し始める】
 1.17日、一文、革マル派の自治委員総会。それに対抗した「早大行動委」部隊が革マル派の攻撃を受け、十数名が負傷する。

 1.17日、期末試験混乱。早大政経学部の団交決裂。


【1.18日、大学当局が文学部ロックアウトで革マル派の窮地救出】
 1.18日、文学部、ロックアウト。これに抗議する「早大行動委」などが機動隊と衝突、一名逮捕。夕刻、中核派700名がキャンパス内の革マル派350名目がけて本部正門突入を図るが、待機していた機動隊が阻止し、中核派60名(うち女性11名)逮捕、革マル派逮捕者なし(読売記事「早大でも乱闘騒ぎ」)。

【1.19日、「早大行動委」が革マル派と武闘、追い詰める】
 1.19日、この日、革マル派の文連総会、政経学部の学生大会が開かれようとしていた。午後3時40分、黒ヘル(11・8行動委など)60名は革マル派が3号館で開いていた文化団体連合会総会に乱入しようとし、3千名の一般学生も革マル派に出て行けと投石、革マル派は旗竿で逆襲しようとしたが、一般学生と黒ヘルに蹴散らされ、商学部11号館に追いつめられた革マル派が投石などで対抗、政経学部の紙谷君(20歳)が頭蓋骨陥没の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷。
 その後「早大行動委」と革マル派とのゲバルトが続く。

【1.20―22日、大学当局が本部キャンパス全学ロックアウト措置に入る】
 1.20日、理工学部をのぞき全学ロックアウト。非勢の革マル派に息継ぎを与えることになった。革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃。
 1.21日、早大緊急会議が開催され機動隊要請。厳戒の中、期末試験実施へ。
 1.22日、政経学部、期末試験がスタートしたが、反革マル派の学生が政経学部で団交を要求してバリケードを作り、朝から追及集会。大学は機動隊を導入、15名逮捕。政経学部の試験は中止され、メドたたずの事態となった。

【1.23―31日、「早大行動委」が、各学部自治会の奪権闘争本格化に向かう】
 1.23日、一文学生大会、1500名で開催。期末試験をストライキで阻止することを採択。1週間ストライキを決定。
 1.23日、本部キャンパスが平穏化し、法、商学部が期末試験。
 1.24日、一文行動委員会中心にピケスト突入。革マル派とこぜりあい。大学当局、試験延期。政経試験も延期。早大教育学部が反革マル系自治会を承認。 
 1.25日、教育学部、学生大会。一文では自治委員総会成立のための定足数を突破。
 1.26日早朝、革マル拠点などが捜索される。 
 1.26日、早大一文が30日まで試験中止。教育学部もストに突入。政経学部長らが混乱の責任をとり辞意。
 1.27日、一文の新執行部が自治委員総会開催。
 1.28日、革マル派デモに参加中の佐竹実ら3名が逮捕される。リンチ殺人犯人とされた5人全員が逮捕された。
 1.29日、一文、第二回学部団交。教育学部スト突入。政経学部が第2波1週間のストに突入。
 1.30日、一文、学生大会。第二波の1週間スト可決。
 1.31日、社会科学部、学生大会。一文自治委員総会が開催され、試験無期延期、ストさらに続行。

【2.1―8日、「早大行動委」系が次々学生大会、団交に漕ぎ着ける】
 2.1日、一文学部団交。
 2.2日、政経、学生大会で3カ月ストライキ可決。社学団交、教育団交。
 2.3日、入試中ロックアウト。
 2.3日、政経、教育で学生大会。教育学部自治会が試験ボイコット延長。
 2.4日、革マル総指揮者逮捕される(氏名その他詳細不詳。誰のことか?)。
 2.5日、一文で学部団交。十人委員会が総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサインする。
 2.6―7日、一文で学部集会。一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。
 2.7日、早大政経学部が卒業試験レポートで。
 2.8日、一文、卒業予定者分離試験実施。10号館で、総長団交要求総決起集会、ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。
 2.9日、早大1文教授会が新自治会否定の文書を郵送。

 2.10日、早稲田大学新聞173号「更に混迷続く学内状況 武装衝突、機動隊常駐さる」。


 2.19日、早大当局が入試前のロックアウトを決定する。 


【2.23日、春休暇に入る。入学試験】
 2.23日、48年度入学試験開始(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。

 2.24日、ロックアウトの“狭き門”下で早大入試始まる。


【早稲田大学新聞174号が座談会「川口君虐殺問題」掲載】
 3.10日、早稲田大学新聞174号が座談会「川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの <虐殺糾弾>の原点」掲載。参加者は第一文学部自治会&二J行動委員会のN(原文は実名、以下同じ)、第二文学部学生自治会臨時執行部のK、政治経済学部学生自治会執行委のU、全学行動委員会(準)のH、ワセダ統一救対のI。

【4.1―2日、入学式、総長挨拶の最中に黒ヘルが壇上に乱入】
 4.1日、新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会。
 4.2日午前11時、早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、黒ヘルが壇上に乱入。午前の部の段階で入学式中止となった。革マル派は式場外で集会。
 4.3日、学部入学式も延期。夕方まで両派が集会。

【4.4―10日、革マル派が「早大行動委」テロを満展開し始める】
 4.4日、革マル派が鉄パイプで16号館乱入、「早大行動委」を襲撃。「早大行動委」の負傷者30数名、うち重傷10名。以降、「早大行動委」系に負傷者続出する。
 4.5日、本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派一名が包囲される。
 4.9日、文学部で、授業初日は討論会。二文で小競り合い。
 4.10日、革マル派が、代々木駅で集団登校中の「早大行動委」に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。

【4.11―5.7日、革マル派が再び支配権を確立し始める】
 4.11日、革マル派「統一行動」集会(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。
 4.13日、教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。
 4.14日、新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。
 4.17日、一文・二文学生大会成立。総長団交要求を決議。その後、大学当局に再団交を確約させる。全理事、学部長の出席を要請する。
 4.21日、一文学生大会。革マルの妨害行動。
 4.22日、両派による投石や放水騒ぎ。
 4.23日、二文学生大会後、高田馬場まで500名でフランスデモ。教育学生大会、革マルの妨害で流会。
 4.24日、一文自治委員協議会

【4.28日、革マル派が「4.28全国集会」】
 4.28日、革マル派220名、「4.28全国集会」のため集会。

【4.28日、革マル派が「早大行動委」に暴力的敵対を露骨化させる】
 5.2日、一文、学部団交。革マル10数名壇上に乱入。これにより、学部側が団交継続拒否。
 5.4日、一文、自治委員協議会で5.2団交の総括。
 5.7日、反革マルの一文自治会臨時執行部の80名が学部との団交へ向かっていたところ、全都的動員をかけていた革マル派30名が襲撃、角材で殴りあいとなった。文学部で衝突(2名負傷)。

【5.8日、「早大行動委」が、非常手段で総長を拉致し団交に及ぶ】
 5.8日、「早大行動委」30名が、新宿区西大久保の理工学部54号館404号教室で化学工業論の講義を行っていた村井総長を捕捉し、白覆面の10人が村井総長を連れ出し、黒い布をかぶせて車に乗せ、本部キャン法学部の8号館前入口に座らせ“誠意ない”と吊るし上げした。その後、法学部8号館301教室に拉致。約2000名の学生が集まる。行動委は、リンチ殺人の後に村井総長が学生と話し合う姿勢のない事を非難、再度の吊るし上げとなった。学生らは革マル派追放を要求したが、村井総長はのらりくらりとかわし続けた。この間、革マル派200人が村井総長救援に押しかけたが「早大行動委」が撃退した。

 5.9日、村井総長に5.17日の正式団交(再団交)を約束させ“釈放”した。革マル派との衝突が予想される事態となった。その後、早大キャンパスは平穏化した。

 以降、革マル―大学当局―機動隊連合で「早大行動委」潰される

【5.12日、早慶の連帯化が企図されるが機動隊-革マル派連合によって阻まれる】
 5.12日、早慶交流集会。慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マル派は慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ、東大で集会。夜、革マル派30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。

【5.14日、革マル派の武装襲撃頻出する】
 5.14日、革マル派が、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。
 夕方、一文自治会委員長が法学部8号館前で革マル派に鉄パイプで襲撃され、重傷。

【5.15―16日、革マル派が総長団交粉砕を企図して全国動員】
 5.15日、革マル派全国動員(500名)で本部集会。
 5.16日、5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マル派の集会。村井総長が5.17日総長団交を撤回した。

【5.17日、革マル派が早稲田一帯を制圧、総長団交流産する】
 5.17日、革マル派がキャンパスは無論、早稲田一帯を制圧した。「早大行動委」など500名が夕方正門前で集会。校内に入ろうとするや革マル派が鉄パイプ攻撃。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。かくて、「5.17日総長再団交」ならず。

【5.17日、革マル派-機動隊連合により、総長団交流産する】
 5-9月、 社青同解放派、ブント連合がキャンパスに登場し、革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕する。

 5.18日、東京駅で学生ゲバ。早大乱闘の帰り襲う。乗客巻き添え。
 5.19日、早大乱闘で10人ケガ、重体。
【法学部自治会執行部が改選され、再び民青系が選出された】
 この頃、法学部自治会執行部が改選され、再び民青系が選出された。

【この頃、「負けるな早稲田」集会開かれる】
 この頃、「負けるな早稲田」集会開かれる。豊島公会堂に650名参加。自衛武装問題で路線分岐鮮明に。教育学部の選管委結成さる。

 5.31日、早大乱闘でまた重体。
 6.5日、早大で武力衝突。警察が管理強化を要望。
 6.6日、警視庁が、革マルの拠点早大、反帝の拠点日大を捜索。  
 6.8日、警視庁が先制攻撃で早大など捜索し爆弾や鉄パイプ押収(ゲバルト封じ第2弾)。  

 6.14日、朝の早大でザック集団がバリケード構築。早朝機動隊導入で67名が逮捕される。総長連行事件で黒ヘルの早大生に逮捕状。
 この頃、社学自治会費が革マル系常任委へ下る。
 6.30日、早大でゲバルト、全学休校。
 7.4日、革マル派が、池袋の中核派アジト四ヵ所を襲撃。
 7月初旬頃、新執系が文学部で武装情宣。「早稲田解放集会」開かれる。 「党派の問題全面に」とある。
 7.13日、革マル派が、新執系集会を襲撃。
 7.16日、5・17被告団第1回公判開かれる。 
 9月、大学当局が、「不測事態」が恒常化され異例の集会禁止措置。
 9.10日頃、5・17被告団第2回公判開かれる。 
【社青同解放派と革マル派が神奈川大で集団会戦】
 9.14日未明、反帝学評(青解派)100名が、神奈川横須賀での空母ミッドウェー母港化阻止集会に参加すべく、拠点校の神奈川大3号館と宮面寮に泊まっていたところへ、9.15日午前1時45分頃、覆面姿の革マル派150名が鉄パイプで乱入し、乱闘で双方で21名が負傷、市内11の病院に運ばれ4名が入院した。この乱闘の最中、反帝学評(青解派)がレンタカーで動向視察していた革マル派2名を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。午前10時30分、保土ヶ谷区川島町の横浜市水道局西谷浄水場裏の小道で、金築寛(東大、23歳)と清水徹志(元国際基督教大生、24歳)の死体が見つかった。この事件はそれまで中核派と革マル派の間だけで行われていた内ゲバ殺人に、社青同解放派も参加する契機となった。革マル派は中核派と社青同解放派の2セクトと抗争を引き受けていくことになる。

【革マル派30名が日本橋の三越本店屋上で「早大行動委」襲撃】
 9.16日、革マル派30名が、中央区日本橋の三越本店屋上で、川口事件を追及する反革マル派のWAC(早稲田全学行動委の略称)を鉄パイプで襲い、8名が暴力行為、凶器準備集合罪の現行犯で中央署に逮捕された。屋上には一般客500人がいた。革マル派は、この日の午後横須賀で開かれた同派の集会で「WACを三越で粉砕した」と声明している。
 翌9.17日の毎日新聞夕刊に、「16日の三越デパートの事件は、革マル派に早稲田を追われた反革マル派が混雑にまぎれて人目のつかないデパートに結集、17日以降の早大奪還作戦を練ろうとしたのを、事前に察知した革マルが先制攻撃をかけた」とする警視庁の見解が掲載された。

 9.17日、早大ロックアウト。新学期早々、警告無視の集会。
【革マル派が鶯谷駅で中核派を襲撃(鶯谷駅会戦)】
 9.17日、革マル派が鶯谷駅で中核派を襲撃(鶯谷駅会戦)。国鉄鶯谷駅ホームで、京浜東北線南行き電車に乗ってきた中核派150名が降り、上野公園口の改札口近くへ向かったところ、上野公園口から革マル派50名が乱入、乱闘となり、5名が逮捕された。

 1973.9.18日付毎日新聞が次のように報じている。
 概要「革マル派全学連の前川健委員長が、記者会見で、早大奪還をねらっていた中核派を粉砕するために行った。四分五裂になっている現在の学生運動を統一するためには、他党派を徹底的につぶしていかなくてはならないと、他セクトとの内ゲバを続けていく方針を語った」。

 1973.9.18日付毎日新聞の記事の中に次のような記述がある。
 「早大では昨年11月8日、同大生、川口大三郎君(当時20歳)が革マル派のリンチ殺人にあって以来、同大を最大の拠点とする革マル派に対して中核、反帝系の各セクトが『右翼改良主義=革マル派との対決は階級闘争の前進に不可欠』と叫び、革マル派の追い出しと”早大解放“を闘争課題にしている」。

 9.18日、警視庁がゲバルト続発で早大など捜索。正門で厳重チェック。
 9.27日、早大でゲバルト、10人ケガ?。警視庁が早大会館を2度目の捜索。 
【革マル派が再びキャンパスの支配権を確立する】
 「早大行動委」の奮戦もここで力尽きた。以降、キャンパスに革マル派が再度支配権を確立することになった。
(私論.私見) 革マル派が再度支配権を確立考
 「革マル派が再度支配権を確立」が大学当局と機動隊に守られてのなりふり構わぬ制圧であったことは、当時の一連の史実であろう。早大総長が一貫して反革マル共同戦線派により結成された自治会の承認を渋り、団交への出席も最終的に拒否し、革マル派の肩を持ち続けた。早稲田大学と革マル派の癒着、蜜月関係が長く続いて行くことになった。「平成6年、奥島孝康が早大総長に就任するまで大学当局と革マル派の蜜月は続く」ことになる。

 10.10日頃、5・17被告団第3回公判。裁判官、起訴理由の釈明求む。


【警視庁公安部と本富士署が川口君リンチ殺人事件で革マル4人逮捕】

 10.21日、「警視庁公安部と本富士署が川口君リンチ殺人事件で革マル4名逮捕」。警察が早大第一学生会館など革マル拠点捜索。この時の捜査で、川口君をリンチ致死せしめた革マル派の下手人の一人である元一文自治会書記長/佐竹実(23歳)再逮捕、二文自治会委員長/村上文男(25歳)、二文自治会副委員長/武原光志(23歳)、一文自治会会計部長/阿波崎文雄(26歳)の4名が逮捕される。他に服役中の全学中央自治会委員長/田中敏夫(24歳)など7名(一文学生/近藤隆史(24歳)、一文自治文化厚生部長/水津則子(23歳)、一文自治会組織部長/後藤隆洋(25歳)、矢郷順一(25歳)、緑川茂樹(22歳)ら革マル自治会幹部がほとんど)に逮捕状が出た。

 10.23日、川口君リンチ殺人事件で、別件で横浜刑務所に服役中の田中敏夫が監禁致死容疑で逮捕された。逮捕されたメンバー5名が起訴され、1名が分離公判となる。


 11.5日、対立とけぬ早稲田大学。「追悼」と「祭」が立ち並ぶ。


 11.6日、早大また緊張。川口君死亡一周年でロックアウト。


【早大一文自治会委員長・田中敏夫が自己批判書提出】
 「田中敏夫自己批判書」を知る前、次のようにコメントしていた。
 「続いて、早大全学中央自治会委員長・田中敏夫も自己批判し、11.13日、「田中敏男の自己批判書」が提出されている。佐竹自己批判書に続いて田中敏男自己批判書をも確認しておこうと思うのだがネット検索で出てこない。これは偶然だろうか。れんだいこは、他にも重要な文書に限り却って出てこない例を知っているので驚きはしないけれども」。

 「
1973年11月11日(日) 供述により明らかになった事件の経緯。監禁致死罪で革マル派4人起訴 」によると、11.7日、早大一文自治会委員長・田中敏夫が佐竹に先立って自己批判書を書き、転向を表明している。 してみれば田中敏夫の自己批判書が口火を切ったことになる。1973.11.12日付読売新聞は次の記事を発信している。
 「田中の自己批判書はさる7日『川口君事件に対する私の態度と反省』と題して書いたもので『暴力の行使は人間性を腐敗させる』など、佐竹とほぼ同じ内容。田中は事件当時の早大革マル派の最高幹部だが、組織との関係について『学生運動から足を洗う』と述べているという」。

【川口君虐殺一周年闘争前夜、早大当局がロックアウトを強行、機動隊常駐化す】
 11.8日、川口君虐殺一周年前夜、早大が緊迫する。各派が学内突入狙ったが、早大当局がロックアウトを強行し、集会が不能にされた。反革マルらが排除に抵抗、投石、警官ともみ合う。以降、機動隊が常駐化した。この日、警視庁、先制の革マル派書記局捜索。
 以降、早稲田大学全学行動委員会などは、まだ闘う姿勢を見せ、図書館占拠をおこなったものの、早稲田大学と機動隊に守られた革マル支配を打ち破ることはできず、この時の「早稲田における革マル派による暴力支配追放運動」は頓挫する。

【佐竹が犯行を自供、自己批判書を発表】
 11.8日、元一文自治会書記長・佐竹が犯行の一部を自供。11.9日、取調官に提出し、自供に至る心境の変化を明らかにするとともに、党派間の暴力行使の中止を訴える自己批判書が発表された。その自己批判書が、「左翼」に開示されているのでこれを転載しておく。
 自己批判書

 川口君を死に追いやった本人として、そして当時一文自治会の書記長をやっていた責任ある者として、私が完黙をやめ私の社会的責任を明らかにする心境になったのは、以下の理由によるものです。

 それは彼の死に直接関係した私が、自己の社会的責任を明らかにすることによって、故川口君の冥福を心から祈ると同時に、川口君のお母さんに深く謝罪したいと考えたからです。さらに、現在の党派関係の異常性とそこにおける暴力的衝突を見るにつけ、かかる現状を深く憂い、二度とこのような不幸な事態がおこらないよう強く切望しているためでもあります。

 私は川口君の問題を真剣に考えている全ての人々に次のことを強く訴えたいのです。現段階の党派関係は明らかに異常といえます。このような現状の中で、党派闘争に暴力を持ち込むことに関して、真剣に慎重に再検討して欲しいのです。暴力の行使に際限はありません。そしてその結果は予測をはるかに越えるものがあります。

 現に私は川口君を死に追いやろうなどとは、もちろん夢にも考えていませんでした。しかし結果はあまりにも悲惨なものでした。私は、私と同世代の人間的にも未熟な若い人々が暴力を行使することになれてしまうことが最も恐ろしいのです。傷つけ、傷つけられることを厭わない人間になることが真の勇気ではないと思います。人間の生の尊厳なくして人間の解放はないはずです。今こそ、この原点に立ち帰るべきです。

 確かに、現在の党派関係と党派闘争を正常に戻すことは非常に困難なことでしょう。容易にできる問題ではないと思います。それは大きな努力が必要でしょう。しかし誰かがやらなければなりません。私はそのことを、川口君の問題を真剣に考えている全ての人々にやり遂げて欲しいのです。私の冒したような重大な過ちが再びおこらないことを強く切望するからです。社会の矛盾を変革するために自己犠牲的な活動を展開している人々が、お互いを傷つけあうことほど不幸なことはないと考えるからです。

 現在、私は川口君という将来ある一人の青年を死に追いやってしまった自己の人間的未熟を痛切に反省し、あわせて川口君の霊が安らからんことを祈っています。川口君、そして川口君のお母さん、ほんとうにすみませんでした。

 昭和48年11月9日 佐竹実 ㊞

(私論.私見) 佐竹自己批判書考

 佐竹自己批判書はそれなりのものであったが当時の情勢には何らの意味も持たぬ「何をいまさら弁」でしかなかった。

 2015.6.20日 れんだいこ拝
 監禁致死容疑で逮捕、取り調べを受けていた佐竹実が川口君殺害を自供した。自供によると、革マル派は対立する中核派とのセクト争いから、昨年11月8日午後2時頃、文学部構内で友人と立話をしていた川口君を「お前は中核派のスパイだろう」と佐竹ら5人が文学部127番教室に連行、村上らの指導でイスにしばりつけたうえ鉄パイプで殴るけるのリンチを加え死亡させた。佐竹は、10.21日に逮捕されて以来完黙を続けてきたが、8日を前にした週明けに革マル派の弁護士を解任、8日の東京地裁での拘留理由開示の公判も辞退して自供を始めた。これによってすでに逮捕されている二文自治会委員長の村上文男ら4人の起訴もほぼ確実になり、指名手配中の元一文自治会組織部長の後藤隆洋ら6人の逮捕に捜査の的が絞られることとなった。自供に至る経緯については滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。次のように解説されている。
 「自己批判書の日付けが、死者・川口の一周忌の翌日ということは、警視庁公安部(あるいは東京地検公安部)が“一周忌”のチャンスをとらえ、加害者・佐竹に精神的攻めを加えた結果とも見られる。佐竹をはじめ川口君事件被疑者に対し警視庁公安部は、カラーの遺体写真をも眼前に突きつけ、日夜の調べ(攻め)を強行した」。

【川口君1周年闘争】
 11.9日、「もう争いはやめて!」。川口君の母が1周忌の訴え。川口君追悼デモで犠牲者。大阪の中核派の元学生死ぬ。「機動隊に殴られた」。

【事件関係者の自供相次ぐ】
 11.10日、川口君リンチ殺人事件で、革マル幹部が自供「イスに縛りメッタ打ち」。
 11.12日、川口君リンチ殺人事件で、Sら2人が自己批判・ 「転向声明」。同日、監禁致死罪で、事件に直接関わった村上文男(25)、武原光志(23)、佐竹実(23)、阿波崎文雄(26)の4人がリンチ殺人の監禁致死罪で起訴される。

 量刑につき次のように解説されている。
 「東京地検は当初殺人罪の適用を検討したが、川口君の死に慌てていたという証言があったことから、川口君を殺すつもりはなかったと判断し、監禁致死罪を適用した。また、警視庁は「逮捕監禁致死罪」で逮捕したが、東京地検は川口君を長時間におよび教室に閉じ込めたことから「監禁致死罪」に当たるとして逮捕罪を省いた。なお、逮捕罪とは、他人の両手両足を捕らえた場合など、短時間の拘束に対して適用される」。
 川口サトさんのコメントは次の通り。
 「被告たちが遅まきながらでも、自分たちがやったことが間違っていたと自己批判したことはうれしい。これをきっかけに、ほかの活動家の人たちも、運動の中から暴力を締め出すよう努力してほしい。大三郎が死んでまる一年たった今は、被告たちに対して憎しみより、むしろ被告たちの母親に対する同情の念の方が強い。」(1973年11月12日付読売新聞)
 11.13日、東京地検公安部が、田中敏夫(24)は川口君リンチ殺人事件で事件現場にいなかったとして処分保留した。次のように報じられている。
 「東京地検は、監禁致死容疑で警視庁が逮捕した元早大一文自治会委員長・田中敏夫(24)を12日夕、処分保留のまま釈放した。田中は川口君事件の指揮、命令をした疑いがあるとされ、10月22日に逮捕されたが、事件に関与しなかったという見方が強くなったため釈放となった。田中は、別の内ゲバ事件で横浜刑務所に服役中を逮捕されたので、釈放と同時に身柄は再び同刑務所に移された」(1973年11月13日毎日新聞)。

【相次ぐ自己批判声明に対する革マル派、中核派の対応】
 こうした自己批判への革マル派の対応は、滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。それによると次のように声明し批判している。
 「公安当局の弾圧のもとで、暴力一般を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕しえず、そうすることによって裏切り者となった」(革マル派機関紙『共産主義者』32号)

 中核派は次のように論評している。
 「佐竹・田中は留置場以外に安全なところはないと観念し警察に保護を申し出た。だがこれは転向でも何でもない。佐竹の脱落にさいしての論理は革マルの“党派闘争の論理と倫理”なるものと寸分違わない」(中核派機関紙『前進』660号)。

 11.20日、早大黒ヘルが早大で図書館ジャック。早大図書館に乱入し「早稲田祭」中止など要求し攻防4時間、本投げ抵抗した末に14名逮捕される。


 11.21~26日、革マル系の早稲田祭開催さる。民青同系の法学部祭開かれる。


 この頃、5・17被告団第四回公判。結審近し。検察側曖昧な態度に終始す。
 11.24日、火炎びん11本 大学祭の早大で見つかり押収される。
 11.26日、大隈講堂でボヤ。早稲田祭に反革マル派いやがらせ。
 11.27日、川口君リンチ殺人事件に関わる鉄パイプ乱入で捜索/東京都渋谷区。
 12.17日、川口君リンチ殺人事件で、革マル派幹部ら手配。
 12.21日、川口君リンチ殺人事件で、死体運んだクーペわかる。

1974(昭和49)年

 3.20日、川口君リンチ殺人事件で、救出の友人に乱暴の元早大生3人に有罪。
 4.23日、川口君リンチ殺人事件で革マル幹部を逮捕、3人手配。
 5.10日、川口君リンチ殺人事件で執行委員長を起訴。
 5.10日、早稲田大学新聞191号「5.17裁判判決下る 拘留二十日 未決勾留期間と相殺」。

【川口君リンチ殺人事件の“極秘公判”で注目の佐竹に7年求刑】
 6.28日、川口君リンチ殺人事件の“極秘公判”で注目の佐竹に7年求刑。読売新聞が次のように報じている。
 「革マル派から見れば、佐竹は裏切り者。山形県の親元や佐竹の弁護を受け持った大山英雄弁護士のもとにはいやがらせの電話が続いた。このため、裁判所側も佐竹の身の安全を考え、公判期日や使用法廷は報道関係者にも“完全黙秘”という気のつかいよう。万一に備えて法廷の看守を増やし、本来なら法廷で当事者と打ち合わせて決める次回期日も『追って指定』に切り替えたほか、両親など情状証人4人の尋問も公判期日外に非公開で行った」。

 そうした措置にもかかわらず、初公判の時には、東京拘置所から護送車が着くと学生風の男3人がつきまとい、法廷にも十数人が現れて、被告席の佐竹をやじり倒したという。 (資料:『内ゲバ~公安記者メモから』滝田洋・磯村淳夫著)
 7.31日、東京地裁が川口君リンチ殺人判決1号として一文自治会書記長(事件当時)の佐竹被告に懲役5年。反省認め情状酌量。

 1975.2.19日、早大生リンチ殺人控訴棄却/東京高裁。
 1975.7.18日、新橋駅で市街戦ゲバ乱闘。
 1976.3.18日、 東京地裁が、革マル統一裁判「早大生リンチ裁判」で、元自治会幹部ら4名全員に懲役判決が下った。
 1976年、川口君リンチ殺人事件時の村井資長総長はその後、早大原理研究会の勧めで「川口記念セミナーハウス」建設に自身の別荘地を提供し、この年に竣工した。ところが、統一教会の修練場となっていることを知り、週刊誌に告発、統一教会から名誉棄損で訴えられ、十数年にわたって係争した。
 1994(平成6)年、早稲田大学総長に奥島孝康が就任し、早稲田大学と革マル派の蜜月関係終焉に舵をきった。
 1996(平成8)年、早稲田大学の学園祭「早稲田祭」で不正な資金流用の疑いがあることが判明し、この問題で早稲田大学と革マル派が早稲田祭の開催を巡って対立した。

【早稲田大学学生部長宅盗聴事件】
 1997(平成9)年、革マル派が、早稲田大学の奥島総長体制派の関係者の学生部長自宅に盗聴器を仕掛けて11回にわたり通話を録音、盗聴し早稲田大学側の動きを探った。そして、革マル派の関係者が警察に逮捕された。これを「早稲田大学学生部長宅盗聴事件」と云う。警察は革マル派の革マル派非公然活動家10名を指名手配し、内5名が逮捕。電気通信事業法違反で起訴され、懲役10ヶ月の実刑判決が言い渡された。この事件を契機に早稲田大学は革マル派に対して厳しい姿勢で臨み、早稲田祭の2001年まで中止を決定、早稲田祭実行委員会を活動禁止処分、早稲田大学新聞会をサークル公認取り消し、そして、革マル派の関係者を大学内から次々に排除していった。

【樋田毅・氏の「彼は早稲田で死んだ」が第53回大宅壮一ノンフィクション賞受賞】
 2022.5.13日、第53回大宅壮一ノンフィクション賞が決定し、鈴木忠平さん(45)の「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(文芸春秋)と、樋田毅さん(70)の「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文芸春秋)が選ばれた。

 樋田氏は、「革マル派の川口大三郎君リンチ虐殺事件糾弾闘争」に参加した一人で、当時
第一文学部に在籍、在学中の1975年に川口大三郎事件に遭遇。自治会再建運動の先頭に立ち、一年生ながら第一文学部学生自治会臨時執行部委員長、同執行委員長を務めた経歴を持つ。卒業後は朝日新聞記者となり、2017年12月退社。2018.2月、朝日新聞阪神支局襲撃事件を描いた「記者襲撃」を岩波書店から刊行。2020.3月、村山美知子の伝記『最後の社主』を村山美知子の生前の委嘱により講談社から刊行した。2021.11月、川口大三郎事件を扱った「彼は早稲田で死んだ」を文藝春秋から刊行する。

 未完(つづく)


* 残念ながら、インターネットに残されている情報は以上で終わっている。当時の資料を集めれば、更にドキュメントが精緻化されるだろう。
* 革マル派の事件関係者が警察の取り調べの際に事件を自己批判し、「謝罪声明」したはずであるが、該当資料が入手できない。どなたかご教示いただければ追加致します。


【れんだいこの特殊な理由による川口大三郎君虐殺事件考】
 「川口君事件」から得る示唆と教訓は多すぎるほど多い。川口君リンチ死を媒介にして数千人規模の学生が怒り、一党派を糾弾してしかも徹底的に吊るし上げた例、「早大行動委」が反撃に転じた革マル派と半年に及ぶ死闘戦を継続した例、革マル派の窮地を救うためかくも露骨に大学当局、機動隊が加勢した例は他にはないのではなかろうか。それは余りにも革マル派の学生運動内に於ける立ち位置と役割を如実に示してはいないだろうか。これは学生運動史上に伝えられていくべき貴重な体験ではなかろうか。だがしかし、そうした貴重な意義を持つ「川口君事件」が本格的に取り上げられることは少ない。いつも決まって仕舞いには饒舌がはびこる。これは何を意味しているのだろうか。

 「川口君事件」を通じて見えてくる教訓は、革マル派の暴力に対抗するのに何も難しい理屈は要らなかったということではなかろうか。少なくとも、大学当局と機動隊の力を後ろ盾とする革マル派の暴力支配に立ち上がった大勢の学生が、終局やはり暴力で捻じ伏せられたという史実は、これに抗する戦線構築に失敗したという苦い教訓であり、それ以外の方向へ認識が向かうべきだろうか。

 早大学生運動史は、戦前戦後を通じて赫赫たる実績を見せている。その様は、官立の雄としての東大に在野の雄早稲田が一歩もひけをとることなく渡り合ってきた観があり、このスタイルが支持され、早稲田の「左」の伝統ともなっていた。それは、政治的イデオロギー以前のいわば各人各様の生き様を尊重して、互いの自由・自主・自律的な生き方を認め合い保障しあってきた土壌があればこそ生み出された史実であると思われる。学生運動史上輝く早大出の多くの活動家はこの土壌から生まれたのではなかったか。ところが、革マルの派暴力支配はこの伝統の圧殺という役割を意図的に引き受けており、これが大学当局をして安堵せしめ、ある種の密約さえ窺わせるものとなっていた。

 「川口君事件」で決起したそれまで一般学生でしかなかった早大生の多くは、革マル派がこの伝統を理不尽に踏みにじって恥じないそのこと故に立ち上がったのではなかったか。あの怒りは凄まじかった。「早稲田民族主義」ではあったが、大事にしたい怒りであった。しかし、早大生万余の決起は結局潰された。これをどう総括するのか、これを為さない限り「川口君事件」は単に川口君の無念の死でしかなかろう。

 今日、第四インター系の声明がインターネット上で公開されているのでこれをも検証してみたいと思う。が、同派の声明が、中立そうな見識のひけらかしは別として、かの局面に何がしか有効な処方箋を提示し得ていたのだろうか。もしそうであると云うなら、人類は、ここでは早大生は、現に暴力で立ち現われる勢力に抗するのに、暴力以外の方法で対処しえるような知恵を獲得する絶好機会であったということになる。

 が、れんだいこは今もってそのような知恵を見たことも嗅いだこともない。ギリギリの戦闘が要求されている時、「内ゲバ反対」のくさびで割って入る役割が客観的に何を意味するのか、「元の木阿弥」に戻ったキャンパスを見れば自明ではなかろうか。それでも「内ゲバ反対の唯一の党派」的な自画自賛するのは一種のヌエ論法ではないのか。れんだいこは憤然としてそう問いかけたい。この連中とは百年話し合っても通じ合わないに違いない。
 れんだいこは、川口大三郎君虐殺事件につき特殊な感慨を持っている。これを一言でいえば「他人事ではない」と云うことになる。どういう意味か。それは、れんだいこがもし早稲田の法学部ではなく文学部に入っていたら、どういうことになっていたかという設問になる。恐らく同じような目に遭っていたのではなかろうかとの思いがある。そういう意味で他人事ではなかった。これをもう少し述べる。

 れんだいこは元々歴史学専攻を希望していた。日本史でも世界史でも良いのだが、敢えて云うなら日本の古代史に特に興味を覚えていた。そういう意味では文学部を受験するのが筋であった。ところが、二人の兄が口を揃えて「潰しが効くのは法学部だろう。文学部は止めろ」と強硬に反対し、入学金その他で世話にならねばならなかった事情もあり、急きょ法学部へと変更したと云う経緯がある。子供の頃、弁護士に憧れていたこともあり、法学部でも良かろうと云う思いになった訳である。


 そういう思いがあるので、川口大三郎君虐殺事件は他人事ではなかった。川口君には申し訳ないが運の差のようなものを感じる。恐らく川口君は、あの頃のれんだいこと同じで、思ったことを屈託なく堂々と所信表明する政治能力を持つ学生運動家の卵だったのではなかろうか。但し、文学部のキャンパスを制圧する革マル派の大人びた陰険なる素性について知らなさ過ぎた。当時の緊迫した党派間戦争下での革マル派の牙城である早稲田大学文学部で、「革マルと中核を比較して論じ、ましてや中核派を是とするような言辞を吐く」ことがどれほど危険すぎることかを知らなさ過ぎた。それを敢えて為し、かくなる結果となったのが事件の顛末なのではなかろうか。そして、そのことは、れんだいこが仮に文学部に入学していたら同じ目に遭っていたのではなかろうかとの思いが禁じえない。あれから40年を経た今日に於いても、この感慨が離れない。川口君の母親の無念の気持ちもひとしお分かる。

 もう一つ記しておく。事件が伝えられるや否や決起した万余の学生は正真正銘のノンポリ学生であった。れんだいこがかって同じ下宿先に居た先輩数名が、あの集会の中に居た。のみならず吊るしあげの中にさえ居た。二度三度飲み食いした仲で、その際は専らスポーツ系の話を楽しむ、政治的な話しなぞしたことのない先輩だった。文中に書いたが早稲田民族主義からの怒りであった。社青同解放派のキャンパス登場時の狂喜乱舞については「検証 学生運動」の中に記した。

 それにしても第四インターの愚論には怒りを覚える。この党は恐らくいつもこういう万年俺たちのみ正義論を唱えているのだろう。れんだいこ的には日共、革マルに次ぐ気色悪い奴らである。小難しく云う割にいつも中心線から外れたことばかり饒舌していらぁ。中核派が三理塚闘争の過程でそりが合わず終いにはテロったらしいが、それを是認する気はないが表に出てこないよほどのことがあったのだと思う。他にも関連したことで書きたいことがいろいろあるが、別の機会に記すことにする。

 2012.8.13日書き込み始発 れんだいこ拝






(私論.私見)