れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.22日

 これより前は「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2
       「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2) 

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考」を記しておく。

 2022年.11.22日 れんだいこ拝


【れんだいこの特殊な理由による川口大三郎君虐殺事件考】
 「川口君事件」から得る示唆と教訓は多すぎるほど多い。川口君リンチ死を媒介にして数千人規模の学生が怒り、一党派を糾弾してしかも徹底的に吊るし上げた例、「早大行動委」が反撃に転じた革マル派と半年に及ぶ死闘戦を継続した例、革マル派の窮地を救うためかくも露骨に大学当局、機動隊が加勢した例は他にはないのではなかろうか。それは余りにも学生運動内に於ける革マル派の立ち位置と役割を如実に示してはいないだろうか。これは学生運動史上に伝えられていくべき貴重な体験ではなかろうか。だがしかし、そうした貴重な意義を持つ「川口君事件」が本格的に取り上げられることは少ない。いつも決まって仕舞いには饒舌がはびこる。これは何を意味しているのだろうか。

 「川口君事件」を通じて見えてくる教訓は、革マル派の暴力に対抗するのに何も難しい理屈は要らなかったということではなかろうか。少なくとも、大学当局と機動隊の力を後ろ盾とする革マル派の暴力支配に立ち上がった大勢の学生が、終局やはり暴力で捻じ伏せられたという史実は、これに抗する戦線構築に失敗したという苦い教訓であり、それ以外の方向へ認識が向かうべきだろうか。

 早大学生運動史は、戦前戦後を通じて赫赫たる実績を見せている。その様は、官立の雄としての東大に在野の雄早稲田が一歩もひけをとることなく渡り合ってきた観があり、このスタイルが支持され、早稲田の「左」の伝統ともなっていた。それは、政治的イデオロギー以前のいわば各人各様の生き様を尊重して、互いの自由・自主・自律的な生き方を認め合い保障しあってきた土壌があればこそ生み出された史実であると思われる。学生運動史上に輝く早大出の多くの活動家はこの土壌から生まれたのではなかったか。ところが、革マル派の暴力支配はこの伝統の圧殺という役割を意図的に引き受けており、これが大学当局をして安堵せしめ、ある種の密約さえ窺わせるものとなっていた。

 「川口君事件」で決起したそれまで一般学生でしかなかった早大生の多くは、革マル派がこの伝統を理不尽に踏みにじって恥じないそのこと故に立ち上がったのではなかったか。あの怒りは凄まじかった。「早稲田民族主義」ではあったが、大事にしたい怒りであった。しかし、早大生万余の決起は結局潰された。これをどう総括するのか、これをしない限り「川口君事件」は単に川口君の無念の死でしかなかろう。

 今日、第四インター系の声明がインターネット上で公開されているのでこれをも検証してみたいと思う。が、同派の声明が、中立そうな見識のひけらかしは別として、かの局面に何がしか有効な処方箋を提示し得ていたのだろうか。もしそうであると云うなら、人類は、ここでは早大生は、現に暴力で立ち現われる勢力に抗するのに、暴力以外の方法で対処しえるような知恵を獲得する絶好機会であったということになる。

 が、れんだいこは今もってそのような知恵を見たことも嗅いだこともない。ギリギリの戦闘が要求されている時、「内ゲバ反対」のくさびで割って入る役割が客観的に何を意味するのか、「元の木阿弥」に戻ったキャンパスを見れば自明ではなかろうか。それでも「内ゲバ反対の唯一の党派」的な自画自賛するのは一種のヌエ論法ではないのか。れんだいこは憤然としてそう問いかけたい。この連中とは百年話し合っても通じ合わないに違いない。
 この問題につき、ネット検索で「レポート/早大図書館占拠闘争の軌跡」を知った。「はじめに」で次のように記している。
 「早稲田大学の特色は、66年及び69年の早大闘争を通じて明らかにされ、また強化された大学当局の学生支配の狡知と、70年闘争に勢力を温存しえた革マル派の反革マル抑圧が結びついたところにあった。

 この管理支配体制に対する大衆叛乱は、川口君の死を契機として燃え盛ったが、相手を焼き尽くすことのないまま勢いを弱めたのである。その原因は、大学当局の『時間さえ稼げれば』という対応のうまさをはじめ、諸々の事があげられるであろうが、最終的には革マル派の組織された暴力に対して運動体として拮抗して行く持続力を持てなかったところに戦術的な敗北があったと見て良いのではなかろうか」。

 れんだいこは、この見解に概ね御意である。

 「資料2」(「早大11.19図書館占拠闘争救援会発行ビラ」)の冒頭で次のように記している。
 「第二次早大闘争の敗北以後、ワセダの闘いとは、当局-革マル-日共民青三位一体となった学内管理支配体制との闘いであった。即ち、全共闘学生叛乱によって学園管理支配の危機を経験した権力が、同じく全共闘運動のダイナミズムの中に60年代全学連運動-党派全学連運動の最終的破産に直面した革マルを学内の代行権力として、管理支配構造に繰り込んで延命させることをもって維持された学園管理支配秩序に対する闘いであった。それは、自立大衆による抵抗運動として表現されるものであったろう」。

 れんだいこは、この見解に概ね御意である。
 れんだいこは、川口大三郎君虐殺事件につき特殊な感慨を持っている。これを一言でいえば「他人事ではない」と云うことになる。どういう意味か。それは、れんだいこがもし早稲田の法学部ではなく文学部に入っていたら、どういうことになっていたかという設問になる。恐らく同じような目に遭っていたのではなかろうかとの思いがある。そういう意味で他人事ではなかった。これをもう少し述べる。

 れんだいこは元々歴史学専攻を希望していた。日本史でも世界史でも良いのだが、敢えて云うなら日本の古代史に特に興味を覚えていた。そういう意味では文学部を受験するのが筋であった。ところが、二人の兄が口を揃えて「潰しが効くのは法学部だろう。文学部は止めろ」と強硬に反対し、入学金その他で世話にならねばならなかった事情もあり、急きょ法学部へと変更したと云う経緯がある。子供の頃、弁護士に憧れていたこともあり、法学部でも良かろうと云う思いになった訳である。


 そういう経緯があるので、川口大三郎君虐殺事件は他人事ではなかった。川口君には申し訳ないが運の差のようなものを感じる。恐らく川口君は、あの頃のれんだいこと同じで、思ったことを屈託なく堂々と所信表明する政治能力を持つ学生運動家の卵だったのではなかろうか。但し、文学部のキャンパスを制圧する革マル派の大人びた陰険なる素性について知らなさ過ぎた。当時の緊迫した党派間戦争下での革マル派の牙城である早稲田大学文学部で、「革マルと中核を比較して論じ、ましてや中核派を是とするような言辞を吐く」ことがどれほど危険すぎることかを知らなさ過ぎた。それを敢えて為し、かくなる結果となったのが事件の顛末なのではなかろうか。そして、そのことは、れんだいこが仮に文学部に入学していたら同じ目に遭っていたのではなかろうかとの思いが禁じえない。あれから40年を経た今日に於いても、この感慨が離れない。川口君の母親の無念の気持ちもひとしお分かる。

 もう一つ記しておく。事件が伝えられるや否や決起した万余の学生は正真正銘のノンポリ学生であった。れんだいこがかって同じ下宿先に居た先輩数名が、あの集会の中に居た。のみならず吊るしあげの中にさえ居た。二度三度飲み食いした仲で、その際は専らスポーツ系の話を楽しむ、政治的な話しなぞしたことのない先輩だった。文中に書いたが早稲田民族主義からの怒りであった。社青同解放派のキャンパス登場時の狂喜乱舞については「検証 学生運動」の中に記した。

 それにしても第四インターの愚論には怒りを覚える。この党は恐らくいつもこういう万年俺たちのみ正義論を唱えているのだろう。れんだいこ的には日共、革マルに次ぐ気色悪い奴らである。小難しく云う割にいつも中心線から外れたことばかり饒舌していらぁ。中核派が三理塚闘争の過程でそりが合わず終いにはテロったらしいが、それを是認する気はないが表に出てこないよほどのことがあったのだと思う。他にも関連したことで書きたいことがいろいろあるが、別の機会に記すことにする。

 2012.8.13日 れんだいこ拝
 今、改めて思うのに、この時の学生運動は、早稲田には特に似合わない革マル派の偏狭な学内支配に対する、その支配からの解放運動であり、結局潰され、大きな犠牲を伴ったけれども、早大学生運動の質の高さを歴史に刻印しているのではなかろうか。それは、戦後直後の全学連結成運動、60年安保闘争、70年安保闘争前の全共闘運動、これに続く早大学生運動史を飾っているのではなかろうか。今日的に見て、お互いに反省点は幾つもあろう。どうであれ、真剣な命懸けの営為に関わったことは誉れであると自負できるのではなかろうか。私の能力が許せば、こういう観点からの検証もしてみたいと思う。私で不足であれば誰かがすべきであり、一人でできなければ共同でしておくべきだと思う。 

 2022.11.22日 れんだいこ拝
 2022年12月初頭現在時点で、川口君事件を検索すれば、樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ  大学構内リンチ殺人事件の永遠」(以下、仮に「樋田本」と記す)が基調になっている。当時の運動史の流れを詳細に綴ったその営為に賛辞を惜しまない。但し、私は、樋田本を読んで分かったことであるが、樋田氏の反暴力一本鎗的立ち回りに対しては違和感を覚えている。革マル派の暴力支配をこれ以上許さないとして決起した多くの学友の期待を背負っての再建自治会委員長であるから、軽はずみな指導はできない訳だけれども、革マル派の暴力が再始動し始め、その暴力にどう立ち向かうのかが鋭く問われている局面での、当時の樋田氏らが敢えて訴えた「反暴力ビラ」と「反暴力一本鎗的立ち回り」は、私には合点がいかない。樋田氏は、当時の運動を、今もその立場から追憶し記録にしようとしているように見える。

 行動委員会の「革マル派の暴力に対置する暴力」を必要とする動きと、樋田氏らの「革マル派の暴力を否定する反暴力」に拘ろうとする動きの両論を紹介をしているので公平性はあるのだが、樋田本は、後者の側から物語化せんとしているようにお見受けする。しかし私の立論は逆であり、前者の側からの運動を成功させ、自治権力を確立することによって伝統的な百家争鳴のキャンパスの復興を目指すべきだったのではないかとする問いを抱き続けている。この見地からの川口事件論、その後の再建自治会派の能力と限界を見つめる論考をものしたいと思っている。川口君はその営為を促す歴史の人身御供になった、その死を無駄にしてはいけないと思っている。

 2022.11.30日 れんだいこ拝

【「れんだいこの党派間ゲバルト処方箋」考】
 手前みそ過ぎるかも知れないが、れんだいこの「検証学生運動下巻」の「れんだいこの党派間ゲバルト考」及び「れんだいこの党派間ゲバルト処方箋」は今読み直してみても秀逸である。これを採録しておく。この時のれんだいこ提言の水準以上のものは未だない。左派運動が無能化している所以である。
【俗流民主主義論者の暴力反対論考】
 俗流民主主義論者は、いついかなるときでも暴力反対を云う。筆者が「俗流民主主義論者の暴力反対論」に思うことは、「暴力反対、民主主義を護れ」という際の民主主義の内容が極めて曖昧模糊に語られ過ぎていないかと云うことである。それを護ると云っても、内容が明らかでないものをどうやって護るというのだろう。これについて筆者見解を明らかにしておく。筆者の観点によれば、民主主義とは、1・政治理念としてのそれと、2・具体的に制度化したそれと、3・その際の手続き的なそれという風に三項分類できるように思われる。見落とされがちなのは、「3・手続き的な民主主義」の項であり、これまでの左派運動はここの弁えに対してからきし貧困であるように思える。

 民主主義の内容を整理するのに仮に、人の生活地場において個々人の自由、自主、自律を重んじて極力統制を控える観点」、仮に「自律民主主義」と云うとすると、それと対照的に相互に自由、自主、自律を最大限に保障し合う為に必要な合理的規制、仮に「規制民主主義」と云うとすると、これをも集合する理念であり制度であり手続きでもある一連の政治的経済的文化的システムと定義すれば、我々がこのシステムを却下することは有り得て良い訳がない。こう定義すると、ブルジョア民主主義と云い為そうがプロレタリア民主主義と云い為そうが、競ってでも可能な限り社会全域にこのシステムを広め、制度を更に精査し、より実質的に担保されるよう獲得せしめたいところのものであることは自明であろう。更に云えば、このことを無視するような左派運動なら全く意味がない。俗に、クソ喰らえと云う。

 ところで、歴史的に見て、民主主義は闘い取られるものであり、維持するのにもエネルギーを費やさねばいつでも形骸化させられてしまう。そういう弱さがあるが、振り子のように常にここに立ち戻るという強さもある、そういうものではなかろうか。民主主義がそのようなものであることを忘れて、これを一面的にその意義を軽視してみたり、闘い取る地平で初めて維持されることを見ないのはどちらもオカシイ。付言すれば、当節及び腰な姿勢のままに当り障り聞こえの良い「民主主義一般を形式的に論議する風潮」はつまらない。云えることは、個々の運動体が民主主義のかような原理を弁え掌中にしてこそ「実質としての民主主義」を生み出しえるのではなかろうかということである。民主主義にはそれを培養する土壌が不可欠である。その土壌作りを放棄して何の民主主義論ぞと問いたい訳である。この土壌から生み出された民主主義の質こそが社会開化度のバロメーターになるのではなかろうか。

 そういう民主主義を護るも進めるも攻めるも、運動圏にあっては誰が友であり破壊者であるか識別し、友とは共同し破壊者達に対してはこれまた共同して排斥する能力をまずもって獲得するところからしか道は拓けない。その際、御身安泰主義は処世方便としては許されても、「党派間ゲバルトに我関せず」を吹聴して得意がるとか、常に巣篭もりしたまま一般論を云うのは駄弁家でしかなかろう。党派間ゲバルトに関する左派綱領を創り、これを破るものには共同で立ち向かうしかない。筆者は、このことを強く主張したい。要するに、相手が何者なのか論を獲得せねばならない。組める相手なのか組めないのか、この峻別を正確にして組める相手と組み逆とは組まないとする識別分別能力が問われており、のべつくまなく組む論、組まない論、逆に組む論こそ排斥し正しく組まねばならないのではなかろうか。史上の失敗例は、この原点で失敗し過ぎていやしないだろうか。
【党派間ゲバルト問題に対する処方箋-暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ】
 本書続編で「提言シリーズ」を予定しており、そこで、暴力革命論の「暴力」の従来理解の皮相さの誤りを指摘しようと思うが、日本左派運動には、世界のそれも大同小異であろうが、肉体的武器的暴力をして対権力闘争に向けるよりも、安易に党内反対派ないしは党派間に適用してきた負の歴史がある。その種の暴力は恣意的粗野なものであり、ヤクザの出入り暴力と何ら代わらない。否ヤクザの出入りにも何らかの啖呵があるとすればそれより以下のものでしかない。日本左派運動内に常態化されている「革命的」暴力は党派的セクト的利害によるものであり、日本左派運動盛り上げに水を差す結果しかもたらさなかった。この種の暴力は、暴力革命論が本来意味する「暴力」とは別物なのに、両者が認識上区分されていないところから発生しているように思われる。

 我々はそろそろ徒な暴力が左派運動圏内に大手を振って罷り通ってきた事態を総括せねばならないのではなかろうか。左派運動が健全であれば党の内外問わず異論、異端、見解・運動手法の相違、分派は当然のこととして最大限認められ、というか不可避であると認識した上で共同すべきだろう。互いが排斥しあうことは仕方ないにせよ絶滅を期すようなものではなかろう。よって、革マル式「他党派解体、諸雑派一掃路線」は原理的に許されないとすべきであろう。ここが分からないイカレた左派頭脳が横行していること自体が貧脳ぶりを示していよう。

 左派運動にあっては常に目指すべきは党内党外の共同戦線式競り合い運動であり、切磋琢磨でしかない。まずはこの路線に立って、次に具体的に生起した事件の中から教訓的な手引きを生み出し、不断にこれに準拠していくという作法が望まれているであろう。党内党外の対立を解決する手段として暴力を行使するものであってはならないとすべきだろう。見渡すところ、徒な暴力が行使されるところに宿っているのは運動規律の弛緩腐敗であり、もう一つは意図的故意の邪悪な動機からもたらされるものである。かく認識して正々堂々たる左派運動に向かうべきであろう。

 このことを踏まえた上で、「平時の論理と戦時の論理」を構築することが望まれている。「戦時の論理」は期限付きの特殊と見なした上で(あるいは逆に戦時が通常で平時が特殊なのかも知れないが)、これを受け入れていく以外に闘いは勝利しない。人類はこの不条理から抜け出せる叡智を未だ獲得し得ていない。このことが分からない者は饒舌家でしかない。してみれば、戦前戦中戦後今日までの左派運動の歴史には、こうしたところの理論的解明が立ち遅れたままの下手な実践運動で推移してきているという負の遺産の只中にあるのではなかろうか。

 競り合い運動の模範的史実として、60年安保闘争の第1次ブントの闘いがある。第1次ブントが挑んだのは国家権力に対してであり、政治に対してであった。第1次ブントの暴力性が他の諸党派に向けられたことは寡聞にして聞かない。学生大会の指導権狙いで多少の画策と小競り合いをした程度である。今から思えば許される範囲であったであろう。第1次ブント運動は党派的競り合いで自ら範を示し、時の岸政権を打撃し瓦解させた。ゼンガクレンの名は世界に轟いた。そういう意味で素晴らしい闘いであった。

 学生運動史の検証から云える他党派への暴力の行使は、60年安保闘争後の第1次ブントの内部分解により全学連中央を掌握した革共同全国委-マル学同系運動からであり、更に云えばその革共同全国委の革マル派と中核派の分裂以降専ら革マル派が得意としてきたのではないのか。かの他党派解体、諸雑派一掃運動こそもっとも馬鹿げた罪悪なチンケ暴力ではなかろうか。震源地は殆ど常に革マル派にあり、これにより急進主義系運動は重大な損傷を負い続けたのではないのか。してみれば、革マル派の邪な狙いが詮索されねばならないと思う。日本左派運動には、この認識が当然となるところ共認されようとしない不見識がある。

 全学連史を紐解くと、官学の東大、私学の早大が司令塔であり活動家の貯水池だったことが分かる。その早大で1969年、社青同解放派が革マル派の卑劣な策動により追い出されて以来、革マル派が学内憲兵隊と化して他派を寄せ付けず、革マル派と民青同の二元支配となり、以降、早大は学生運動の輝かしい歴史を逼塞させた。このことはもっと重視されて良いことではなかろうか。民青同と革マル派は表向き反発しているが、日本左派運動の鎮圧部隊として地下で通底しているのではなかろうか。思えば、全共闘運動に敵対したのもこの二派であった。第1次ブントの60年安保闘争に敵対したのもこの二派であった。その民青同は「戦前の党中央委員査問リンチ致死事件」の頭目である宮顕に指導され「排除の論理」で、革マル派は「組織名簿売り事件」の頭目である黒寛に指導され「解体の論理」でと云う妙な組み合わせで日本左派運動内に闖入してきたのではなかろうか。

 こういうことを明らかにする為にも歴史検証が必要な訳であり、学生運動史論が必要な訳であり、これを疎かにすること自体が悪の暴力をのさばらせるのではないのか。この際、立花隆的な一見中立そうな見解は何の役にも立たない。むしろ邪悪な者の助っ人的役割を果たしていることになる。そういう意味で歴史を学び歴史眼を養うことが必要な訳であり、各党派は結党以来の履歴を良くも悪しきの面も克明に記録し晒し、判断を歴史に仰ぐ姿勢を執る責務がある。これは党派としての公党責任であると考える。ところが、これがからっきしできていない。悪だくみ派は隠したがる癖があるので仕方ないとしても、自派をそうは思わないなら、かの時代の正義として堂々と開陳すべきだろう。物事には定向進化の流れがあり、時代のムードも有り、行き着くところまで行かないと評価が難しい。今日的に見て具合が悪いことがあったとしても、かの時代の正義を隠すことはなかろう。

 もとへ。1970年安保闘争後の中核派による革マル派活動家・海老原君リンチテロ致死事件以来、革マル派の中核派に対する復讐テロが公然と始まり、中核派がこれに反発し、革マル派のテロは社青同解放派にも向かい、この三派間で激しい党派戦争が繰り広げられることになった。他にもいろんな事件が起こったが割愛するとして、連合赤軍による同志殺害事件が発覚し左派圏を震撼させた。日本赤軍がパレスチナ連帯に向い、自爆テロへと突き進む。事の是非は単純には論ぜられないが、新左翼系左派運動が何やら特殊運動化したのは事実だろう。

 あれから40年、そろそろ過去の運動を対自化させ、継承すべき面と排斥すべき面を分別すべきではなかろうか。この間、日本政治はネオシオニズム系の御用聞き政治家が一挙に台頭しており、売国政治に腐心している。戦後ハト派政治時代に築かれた国富的財産が強奪され、見るからにお粗末な惨状を呈して今日に至っている。いつの間にか公然と自衛隊の武装派兵が進んでおり、米英ユ同盟の裏部隊から前線部隊へ引き込まれようとしている。他方で、かっての社共運動たるや既に面影さえない。社会党は解党し、日共はますます貧相さを呈しつつある。この局面で日本左派運動の再生が為されないとしたら、もはや永遠に失われてしまうことになるだろう。筆者は、有り得べからざる同時代的恥辱と受け止めている。
【れんだいこの党派間ゲバルト処方箋】
 ならば処方箋も出さねばならないだろう。筆者は、日本左派運動が徒な運動圏内暴力で潰れた以上、まずは一刻も早くそれを取り除き、ここから再出発せねばならないと考える。しこうして正々堂々とした競り合いルネサンス運動に向うべし、競り合い運動に敵対する他党派解体派には共同して防衛、粉砕すべし。これを当面さしあたりの漢方薬としたい。以下、筆者なりの党派間ゲバルト問題に対する処方箋を提起しておく。

 いきなり結論から入りたい。筆者は、「同一党派内ゲバルト=内ゲバ」は良くない論ではなく、起こさせてはならない論づくりに向かうことに意義を持たせている。内ゲバの場合は、組織論で解決し得ることであり、それは規約に結晶させるべきだと考えている。「党派間ゲバルト問題」の場合は、これを党派闘争の環の中に位置付け、左派憲章的に克服すべき課題であると観る。せめてここまで漕ぎ着けることが、残された者達の責任であり、犠牲者達への供養であろう。

 では、「党派間ゲバルト抑止の為の左派憲章」をどのように文言すべきか。以下、簡潔平明な処方箋を示したい。なぜなら、難しく長たらしいのは却って焦点がぼけるから。
憲章1  されて嫌なことはするな。
憲章2  憲章その一に反する党派を左派戦線からパージせよ。
憲章3  該当党派からの執拗な攻撃には、左派戦線共同して防御的に反撃せよ。
憲章4  ゲバルト犠牲者に対する合同慰霊祭を執り行え。
憲章5  以上に関する共同戦線憲章を構築せよ。
憲章6  ゲバるより議論せよ。
憲章7  左派戦線内にルネサンスの気風を涵養せよ、
憲章8  世代間にこれらの作法を継承せしめよ。

 左派憲章の確立を何故急ぐか。直接的には、我が左派運動から有能な人士が次々と戦線離脱させられていくのが忍びないからである。一刻も早く、この不毛の悪循環から解き放ち、活動家としての本来の有能な働きをさせたい、互いに僅かばかりの人生をこんなところで費消させたくないと思うからである。次に、この「党派間ゲバルト」に我関せず的に立ち回る「俗流民主主義論」の非を明らかにしたい為である。そういう連中の論の俗流無益振りを露わにすることにより党派間ゲバルトの真の解決に向かわせたい為である。

 筆者は、活動家一人を誕生せしめる為の代価の尊さを思う。一体、一人の人間を青年期まで育てるのにどれほどの愛情と社会的コストがかかっていることだろうか。更にその中から左派運動に関心を持つ活動家の稀少さを思えば、その命を疎かにするなど有り得て良い訳がなかろう。青年期には「我が我がの勢いで張り合う」ことしか知らなかったが、還暦期になると党派は違えど大きな意味での仲間の有難さをこそ思う。

 問題は、革マル派独特のオウム式ボア理論に対する賢明なる叡智と対処の仕方であろう。「我が教義こそ絶対」として靡かない者に対して振り回す教育的措置とボア理論に基づく諸雑派一掃解体運動が如何に迷惑千万なものであるか。意図的故意に仕掛けている以上、有効な対策としては大衆的に包囲して孤立させ封殺すべきであろう。その拠っているところの理論の虚構を完膚なきまでに説き伏せることであろう。これを文明力、歴史力と云うのではなかろうか。
【「検証 内ゲバ」の提言考】
 「検証内ゲバ2」末尾に、生田あい氏の文責による「結語 内ゲバ廃絶のための私たちの提案」が発表されている。締め括りに「5項目提言」が提起されている。これと対話しておく。筆者は、「提案」趣旨と「5項目提言」に概ね異存はない。問題は「提言3」にあるように思われる。「意見の相違・対立を暴力によって解決しようとする党派・グループは、『大衆運動における共同行動の対象としない』原則を確立しよう」とあるが、「意見の相違・対立を暴力によって解決しようとする党派・グループ」とはどの党派・グループを指しているのだろうか。肝要なことは、過去の党派間ゲバルト史をどう読み取り、再犯防止の手立てにするかにある。「どっちもどっち論」による汚れた手と汚れていない手の識別による「関係党派の排斥申し合わせ」は有効に機能するだろうか。つまり、第四インター的呼びかけは正解だろうか、かの呼びかけも臭いのではなかろうか、という問題意識を介在させねばならないのではなかろうか。

 ここは肝要なところだから確認しておく。必要なことは、現在的左派運動の逼塞に於ける要因として、「日共系の穏健派目付け支配、革マル派の急進派目付け支配という公安戦略」に有効に対処し得なかった「我々の非」をも認めた「新たな日本左派運動の共同戦線運動の創出戦略青写真」を提起することにあるのではなかろうか。これは「どっちもどっち論」では解けないのであり、正邪と是非を検証した理論的総括を経て、「内ゲバと党派間暴力をに二度と起こさせない抑止の論理と実践基準」を獲得すべきではなかろうか。筆者は、これこそが左派運動途上に犠牲を余儀なくされた志士にカリカチュアされた無念の死への真の弔いであると確信している。

 過去の原因を明らかにせず、今後はこうしようという決めごとは、おざなりなものに堕するのではなかろうか。共闘理念に立たない勢力による、立つ勢力に対する暴力を許さないとする、立つ勢力側の応戦力、党派間自治力の形成こそが真に望まれているのではなかろうか。その為に定期的に会合が設営され左派運動が点検される作法こそ獲得したいと思っている。権力奪取、体制打倒とか云う前にせめて、ここまでには辿り着かねばならないのではなかろうか。





(私論.私見)